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京のよそおい−  更新 2004.09.20  七話(桂包み〜おちやない)

桂包み - 衣かずき - 法性寺笠、皮ははなれ骨ばかり - みすや針 - ばさら扇の五つ骨 - 辻が花 - おちやない - 京の厚化粧 - 蒔絵のさし櫛、桐のとう - 京の着倒れ - つづれ錦 - 京鹿の子 - 大原女のはばき - 山城の吉弥結び - 友禅染の丸づくし - 花見小袖の衣装幕 - 三都衣装くらべ - ”祇園恋しやだらりの帯よ” - 宇治の茶壷道中 - 立つるお茶には泡たたで(雲脚茶会) - 一服一銭 - 都のおどり - はちくの京草履 - 似ても似つかぬ裏表 - 投げ入れも生えた如くに池の坊 - やしょめ やしょめ 

■ 桂包み

京女の装いに桂包みというのがある。

ゆったりとした小袖に細い帯を締め、白い布で頭をきりっと包んだ姿、これが江戸時代の桂女の装いであった。
頭に巻いた白い布を桂包みというが、そのいわれにはいろいろの伝説がある。

桂女の祖先は神功皇后侍女であったという。
なぜだか知らないが、その皇后が、三韓征伐のあいだ腹に巻いていた岩田帯をその侍女に下賜された。
ずいぶん長いあいだ巻いていた帯だから、それほど白くはなかっただろうが、これほど長いあいだ妊婦の腹にまきついていた布というものはないだろう。
侍女だからそれをありがたがたく思って頭上にいただいたところから、これが始まるというのだ。

また、岩田帯ではない。
軍に使った白旗ともいう。
白旗といっても、降参のときに使用したものではない。
神功皇后の生んだのは応神天皇、のちの源氏の守護神だからその白旗と思っていただきたい。

しかし、鎌倉、室町時代の風俗画を見れば、頭を布で包んだ女性は桂女ばかりではなくいくらでも見つけることができる。
仕事をするときに、垂髪を手ぬぐいのような布でおさえていたのである。
「七十一番職人尽歌合」には米売り、そうめんつくり、魚売り、おかべ(豆腐)売りなどの女性はかつら巻をし、帯売りや縫箔の女性など、屋内の動きの少ない仕事についているものは垂髪のままの姿に描かれている。
布で頭を包むのは働く女性の間にゆき渡っている風俗だったのである。
それを鬘包というが、桂女との結びつきから桂包みと書くようになったという。
この方が本当だろう。

また「健保職人尽歌合」や「三十二番職人歌合」にも頭に巻いた桂女が描かれているが、その巻き方は長い巻貝のように螺旋に巻いたもの、横に結んで長く垂らしたもの、鉢巻にして前で蝶々に結んだもの、両横でむすんだものなどとりどりである。

江戸時代に入り、ひろく結髪の風がひろがって髪型が発達するとしだいに桂包jは消えていった。
そのなかで桂女だけが従前と変わらぬ装いを続けたので、桂包みと呼ばれ珍しがられるようになったのである。
そのこころの代表的な桂包みの仕方は、髪を束ねずに丈長(紙)で元結をし、長さ一丈二尺の白布を二つに折って縦の真ん中を額にあて、眉毛のところをかねと定めてうしろへ廻し、ぼんのくぼで取違えて額で一つ結び、左右の耳ぎわで下から上へ五寸ほど引き出し、あまりをうしろへとり、笄に一つずつ巻付けはしを下げた。
これをびなん包みといっている。
また、うしろの取違えるところで左を上にして廻し前で結うこともあった。
笄の長さ九寸のものや一尺二寸のものがあって、南天や柳が使われていた。
笄に巻付けたところは白糸でとじていたのである。(『仮粧眉作口伝』)

現在、桂久方町の旧家小寺三郎方には桃山時代の摺箔の衣と、昔のままに結ばれた白麻の桂包み、先が太く下ほど細くなっている長さ六寸二分五厘の笄があり、博物館で保存されている。
また、上桂東居町の中村良雄宅には桂包みの白布や桂女の被衣がある。

女性が頭を覆ったものには頭巾の類もあった。
平安時代には尼僧が頭巾をかぶっている。
置いた尼僧はねずみ色を、若い尼僧はうす紫やみず色を用い、それが尼僧の美しさを増したのであった。
この頭巾は在家の女性に真似られて、老女の頭の醜さをおおうためや、後世を願う心を示す姿として若い女性の間でも用いられ、鎌倉時代の絵巻物のなかで、説法を聴く群衆のあいだによくそうした姿を見出すことができる。

江戸時代になると、せっかくの結髪の美しさを隠すのでしだいに用いられなくなるが、形を小さくして各種の頭巾が作られている。
京都では一条北の入江殿(三時知恩寺)という尼寺で作る被綿(綿帽子)が有名である。
入江殿は知恩院派の二百石どりの寺で、皇女や公家の娘が尼になっていた。
寂しさをまぎらわせるために綿帽子や尺長帯をこしらえていたのである。

働く京女の代表、白川女は手ぬぐいを頭にかぶり肩にもかけており、梯子や鞍掛を売る畑の姥は、頭にわら台のほかに”載き袋”というわら布団を重ねて乗せている。
これは重い荷物を運搬する必要からきた工夫である。
しかしそのいわれは、承久の乱のおり、逃げだした後鳥羽上皇にひそかに米を運んだものが、白羽二重の片袖を米袋にもらったので、それを頭におしいただいて戴き袋にしたのだと土地の人はいっている。
京都ではなんでも御所や天皇に話が結びつくのである。
神功皇后まで京都の桂あたりに住む女性と結びつけられるのだ。

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桂女(かつらめ)のルーツを探る

■ 衣かずき

平安時代には中流以上の女性は外出のときに衣(きぬ)あるいは薄衣を頭上にかぶっていた。
これは風塵を防ぐばかりではなく、顔をあらわすのを恥じたためでもあったのである。
日本では原始時代より”おすひ”というかぶりものがあり、男女ともこれを頭上からかぶりはおったことがあった。
衣かずきはこうした風習の名残であろうと考えられている。

この頃の女性の外出姿は長く垂れる髪を小袖に着こめて、歩きやすいように両方のつまをつぼ折って帯にはさみ、衣かずきをして市女笠をかぶり草履をはいていた。
このような装束を壺装束とよんでいる。
壺の字はあて字で衣服をつぼ折る、すなわちからげることからきたものであった。
当時、外出といえば物詣が多く、壺装束のさいに赤い紐を首からかけて結んで垂らしている姿がよく描かれている。
これは神に奉仕する意味のたすきを掛けている姿である。

ところで、外出するとなれば女性が装いをこらすのは今も昔も変わりない。
清少納言は心ゆくものとして、「たまさかには、つぼそうぞくなどばかりして、なまめきけそうしてこそありきしか」と書いている。
顔を隠す風習のなかにあっても丹念に化粧し、衣装をこらして出かけてこそ心に満足がえられたのである。
また見苦しきものはつぼそうぞくをした人がいそぎ足で走る姿であるという。
当時は女性ばかりでなく小童も衣かずきをして外出していた。
清水寺へ出かける牛若丸が、白い衣を頭からかぶっている絵はみなれてると思いますが、これも衣かずきである。

鎌倉時代には単衣の小袖を頭からかぶり市女笠を用いたが、室町時代になると小袖の襟を前に下げて低くした”被衣”をかぶるようになっていた。
額に深くかかって顔をすっぽりかくすためである。
そして、この時代になると女性の外出もひときわ多くなっていったのである。

室町時代ともなれば宮廷の儀式の様子はすっかりかわり、節会の宴にも女官以外の衣かずきの女房たちが見物にくるようになってきた。
衣かずきの女性を伴って参内する貴族すらあって、酒宴がおわり夜もふけゆくと、衣かずきに懸想する貴族もでてくるしまつであった。
顔を見せずにロマンスが成立するなら、女性のとってはこの上もなく仕合せなことである。
そのころ衣かずきはまだ一般庶民の女性のものにまではなっていなかったので、市井の巷では珍しがられ好奇の目で見られていたものである。
もらった米俵に、ついでに女房にわけてもらった古い小袖をかぶせて家へ帰ろうとすると、途中、若い男たちが集まってきて、どんな高貴な美人かと大騒ぎする話(狂言「米市」)もつくられている。

江戸時代になると、被衣はいろいろな色に染められ模様も華やかになる。
そして、一般の女性もこれに裏をつけて外出するときに使用するようになっていった。
紺地に山形のじぐざぐ模様を染めて、家紋をつけたものが流行したこともあり、寛永のころには上品なちらし模様を染めた御所染が女院の御所で始められ、それが諸方にひろまって”御所被衣”の名で流行していった。
江戸においても江戸時代初期には被衣がはやったが、その後、使用が禁止されたので廃れてしまった。
岩間八三郎という浪人が十八歳という若い身そらで松平伊豆守を恨み、被衣をきて伊豆守を討とうとしたことがあったためだといわれている。(「貞丈雑記」)
しかし、京都では寛政のころまで用いられていた。

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■ 法性寺笠、皮ははなれ骨ばかり

  涙ふる法性寺笠きて見れば
           皮ははなれて骨ばかりなる

紫野の老和尚が寺に詣でたとき、藪かげに髑髏のあるのを見て詠じた歌である。
法性寺笠は竹カワ笠の一種で、竹の皮を竹の骨組の上にかぶせ、糸か竹ひごで渦巻状に押さえてとめた円錐形の笠である。
だからとめた糸が切れると竹の皮がはがれ竹の骨組がさらけだされてしまうのだ。

法性寺笠は、もと法性寺のあった今の東福寺門前屋敷のあたりで作られていた。
法性寺は925年(延長三)摂政藤原忠平の建立にかかるもので本堂、礼堂、大門、塔などが建ちならび藤原氏の繁栄とともに堂宇をまして「結構さながら金玉の山」と称されていたが、藤原氏の零落とともにいつしか衰退廃絶していった寺である。

中世にはいるとそのあたりは民家ができて、わら屋根の低い軒を並べていた。
民家の背戸には松や楝(せんだんの古名)の木が高く茂り露のしづくのやむことがなかったので、人びとは竹の皮で笠を作って用いるようになったといわれるが、この竹笠を売り出すようになったのが名物になり、このあたりが笠作りの地として知られるとともに、法性寺笠と名づけたのである。
この笠は晴雨兼用の小笠で茶人の露地笠にも使われた。
茶人が待合から数奇屋の間を通るとき雨を防ぐために手にかざしたものである。
なんの飾りもなく素朴なところが茶人に好まれたのだろう。

京都近郊は竹の産地で各種の竹に恵まれているので、いろいろな竹笠の生産が大変多い。
延宝のころには、真竹のカワで作られた小形の晴雨兼用の笠が江戸へ伝えられた記録があるがこれも法性寺笠の類である。
また雨天専用の大形の直径二尺四寸、五寸もある”ばっちょう笠”も作られた。
これは番匠笠を訛ったもので大工、棟梁によく用いられこの名がある。
これと同種のものには鉈屋笠がある。
京のなたやという者が発心して、大笠をかぶって大きい鉦をたたきながら、京や田舎を歩いたところから名づけられたといわれている(「夷曲集)。
「笠かねも捨て菩提をさとれかし、生木に灘や気の毒な体」とは俗人の心境であった。
京都の空也寺(蛸薬師通堀川東の極楽院光勝寺)の法師が江戸で勧化して歩いたとき「竹皮の異なる大笠」をかぶっていたという話もあるがこれも鉈屋笠の類である。

また淡竹笠といって品質のよい淡竹(くれたけ)のカワを、極細にけずった竹ひごで押さえて崩黄絹糸で縫いとめ、内側に紺紙をあてた半円球の笠も使われた。
これは正徳のころ(江戸中期)江戸に伝えられている。
のちには円錐形の笠で、上質の淡竹のカワを極細の竹ひごで押さえて麻糸で縫い、頂部のとめに黒天鵞絨や紫革を使ったものでできて公家、武士、町人をとわず茶席用に用いられた。
変わった形のものには螺尻笠がある。
これも竹の皮で作られて上部が尖って”ばい”の殻を立てたような形をしている。
太公望は大形の笠では釣りの邪魔になるので螺尻笠をかぶったというので、釣人の笠とも呼ばれていた(「我衣」)。
薬売りもよくこれを用いたということである。

笠は雨よけ日よけのためばかりのものではなかった。
深い編笠は人目を忍ぶのにちょうどよいので、島原に通う男性に重宝がられ、いつのほどにか編笠を貸す茶店が丹波口にできていた。
これを編笠茶屋といっている。
茶店ではそれぞれの目印になる焼印を押した編笠を軒に並べて貸したので、この笠は焼印の編笠と呼ばれた。
丹波口につけば焼印の編笠をひきかぶり、はな紙を二つに折って顔にあて知った人に行き会わぬように人目を包み、細緒の草履をはいた足もしどろにはな歌まじりで揚屋へかよう、いかれた男たちで島原の里は賑っていたのである。
”二枚肩(二人で担ぐ駕籠)にもようのらず、焼印の編笠をうちかざし、丹波口でけつまずいた”と冷やかされると、”朱雀がえりや、手編笠は自分の笠じゃ、借りたんとちがう”とてれかくしに言い返す開放された雰囲気が遊里には流れていた。

傘で流行したものには渋蛇の目があった。
蛇の目傘は紅葉傘ともいい元禄のころから使われたが、中央と端まわりを青土佐紙、中間を白紙で張って開くと蛇の目の模様があらわれた。
それに工夫が加えられたのが渋蛇の目である。
これは享保のころから流行したが、渋とべんがらをまぜて中央と外周を塗り中間を残したもので、町人の男子用であった。
婦人の間では青色部分の表骨を黒漆塗りにした黒蛇の目が用いられ通人にも喜ばれていた。
また青傘といって藍の染紙一色を張った日傘は公家、侍医、出家や物好きな人が用いていた。
かぶり笠にしてもさし傘にしても京都が流行のもとをつくり、それが江戸に伝えられ真似されていったのである。

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■ みすや針

一条の戻橋
二条の薬屋
三条のみすや針
四条の芝居
五条の弁慶
六条の本願寺
七条の米相場
八条の小便とり
九条のくわえ掘り
東寺の羅城門

京のわらべうたにも歌われた三条のみすや針は、江戸時代には京はおろか、日本国中の針を代表するものとして知られていた。
東海道五十三次のターミナル、三条大橋にほど近い河原町三条には、旅人を相手の旅籠茶屋や土産を商う店が軒を並べていた。
その一軒に「翠簾屋」があった。
店先は畳敷きの広い間になっていて、ひとときの憩いを楽しむ旅人でいつも賑っていた。
振舞われた茶をすすりお国自慢や京の噂話に花を咲かせたあと、郷里で帰りを待っている妻には、土産としてここのみすや針を買っていった。

当時、みすや針の工場は伏見にあったといわれている。
針を作るのには十六の行程をふまなければならない。
針線を各種の針の長さに切断し、やすりで針先を研いで砥石で磨きだす。
次に糸穴をロクロでもんであける。
二十本ぐらいの針をもってロクロで、一呼吸一穴ずつつくり返し穴を穿つのである。
その錐先を針穴の中心にあてる要領はカンだけである。
あけられた丸い穴は卵型にしてやすりで磨ぎ、焼入れをする。
針の生命は焼入れで決まるといわれるが、塩を利かせた普通の味噌を針にまぶして、炭火に入れて仕上げられる。
その呼吸もまたコツとカンだけで行われていた。

針といえば平安時代の中期には播磨の針が諸国名産のなかにかぞえ挙げられていたが、鎌倉時代には京都の姉小路針が名をなしてきた。
これを受け継いだのがみすや針である。
翠簾屋はもと「翠簾屋御針所」といって御所の御用役を勤め御簾屋のなかで針を作っていたものだが、江戸時代の初期に後西天皇から初代福井勝秀が「御簾屋」の名を賜り「みすや針」と名づけたという。
ただし記録文書の類は度重なる火災や賀茂川の洪水で、ほとんど残っていないということである。
翠簾屋は江戸時代を通じて名字帯刀が許されており、「福井藤原勝秀伊予守」を名乗っていた。

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福井みすや針

■ ばさら扇の五つ骨

「鉛作ノオホカタナ 太刀ヨリオホキニコシラヘテ 前サガニゾ指ホラス バサラ扇ノ五ツボネ ヒロコシヤセ馬薄小袖 日銭ノ質ノ古具足」
これは『建武年間記』に記録されている「二条河原の落首」の一部である。

ばさら扇とは派手な絵を描いて華美をきわめた扇で、五本骨の扇は、平安時代に宮廷や貴族の間でひろく使われていた古い形のものである。
鎌倉時代には一般の扇は十本骨になり、室町時代には十二本骨としだいに数を増やしていた。
わざわざ五本骨のばさら扇をもっているのは、なんでも王朝風をあこがれたからであろう。

扇が装身具として目覚しく発達するのは平安時代である。
冬扇といわれた檜扇、夏扇といわれた紙扇はともに貴族の日常生活に欠くことのできないものであった。
「源氏物語絵巻」には紙扇の用い方がよく描かれ、「伴大納言絵詞」では庶民の生活にまでひろがった紙扇の姿を見ることができる。
紙扇の料紙には金銀の箔を散らしたり彩色をほどこして意匠をこらしたが、「扇合わせ」はその意匠を競う機会であった。
『長秋記』には鳥羽上皇がみずから六本の扇紙と骨を与えて、それに絵を描くことを命じている。
また、骨の配色にまで心を用いたことが『枕草子』に語られており、如何に扇に関心がもたれたかを知ることができるのである。

現在残されている紙扇のもっとも古いものは、厳島神社にある高倉天皇の所持品と伝える五本骨の片側張の扇である。
ちかごろ、京都の扇屋では”鎌倉扇”といって五本骨の扇を店に出している。
色彩の美しい大和絵などが描かれていて、室内の飾物用として売られているが、昔の貴族たちの使った扇だといってよく売れるそうである。
また、珍しいところではm四本骨の扇が淀藩の家老である田辺家の家紋になっていて、今日にいたるまで紋として残っている。

扇子は京都の誇る名産の一つである。
山城、丹波の真竹は扇の骨に適しており、水質のよい京都では強くてしなやかな和紙が透けるので、上質の扇が作られたのである。
「扇の地紙は西洞院でこれをつくっている」と『雍州府誌』は記しているが、西洞院松原、七条から東寺北門、六孫王神社にかけての地が紙漉きの中心地であった。
西洞院通はどこを掘ってもよい水がぷくぷくと噴き出てくるといわれている。
骨は麩屋町通四条で南で作った記録があるが、現在では三十三間堂の付近から東山一帯で作られている。

扇作りは各所で行われ、鷹司通城殿の駒井氏で作ったものが知られていたこともあったが、江戸にまで知れわたったのは五条大橋の西にある時宗御影堂派の本山、御影堂の製品であった。
坊中の僧侶は妻帯していて、扇作りを副業としたのだが、江戸の扇屋は屋号や堂号をもっていても、扇看板と暖簾には必ず御影堂と書いて宣伝していたほどであった。
”京扇子”といえば舞扇を忘れることはできないが、能太夫の持つ舞扇は小川通一条上ったところで作られたものが有名であった。
現在では、十本骨の能扇子が作られている。
扇はもはや涼をとるためばかりでなく舞、謡曲、茶の湯などあらゆる日本の伝統芸術のなかになくてはならないものとなっているのである。

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■ 辻が花

気品と素朴さを兼ね備えた辻が花染。
いつごろからおこったのか、どうしてこの名称があるのか、辻が花は一切を謎に秘めて語ろうとはしないのである。
室町時代に忽然と現れて、紋染を中心にして墨の描絵や描線、墨の隈どりにより憂いを秘めた絢爛さをもつ模様染を繰り広げ、桃山時代を一期として、その短く美しい生涯を閉じてしまったのである。
新興の京染めに押しつぶされ、爛熱のはての老醜をさらすのを恐れたかのように、自らその生涯を絶っていった。

  春風にわかゆの桶をいただきて
          たもとも辻が花を折かな  (「三十二番職人尽歌合五番」)

室町時代の京の町では、若あゆを桶に入れて頭にいただいた桂女の姿を見かけたものである。
かの女たちはうす絹の綾を斑濃(同じ色で所々に濃い所と薄い所のある染)に染めた単衣を着ながして、春風がさそう裾の乱れを気にかけながら若あゆを売り歩いていた。
その単衣が初期の辻が花ではないかというが証はない。

紋染は奈良時代から行われていたが、室町時代になると任意の模様を縫締めて絞り、その中心に芯木を使い防染に油紙や竹の皮でおおって染める、帽子絞りが考案されてきた。
それは帷子に応用されて大絞ができるようになり、それにつづいて各種の色で染分ける絞りもあみだされてきて、こうした技術の進歩のもとに辻が花が生まれたのである。
現在保存されている享保三年(1530)の墨銘のある寄進文を添えた「藤花模様辻が花」の残欠(故入江波光氏蔵)や永禄九年(1566)の墨銘のある「雲取花鳥模様辻が花衣装」(岐阜県白山神社蔵)などの遺品から推して、辻が花は室町中期ごろから姿をあらわしたと考えられている。

辻が花染は絞り染めを主体にして、絞った空間の白地に繊細な墨線で花鳥や風俗が描かれ、墨の隈どりがなされている。
そして、もともと自由な形を染だすことには制約のある絞染めであるために、初期のものほど素朴さが強く感じられる。
しかし、その素朴さは稚拙とか野暮ったいというものではなく、ひじょうな精巧さを内に秘めたものである。
絞りを縫い締めている針目の細かさは驚くほどで、生地の経糸緯糸を二本ずつぐらいすくって縫っているものが少なくない。
また、絞りの縫い糸には必ず麻糸が用いられているが、これを染め終わってから抜くのにたいへん骨がおれたらしく、無理に抜けば生地が切れてしまうのである。
それがため辻が花の生地のなかには、ところどころ抜けきれなかった糸を残したものがかなりあり、抜きそこなって生地をいためてしまったところを、丹念にかけつぎをして直したものがしばしばのこっている。

また、模様の取材に辻が花の特徴がある。
花や草木の模様の多いなかに蝕まれた葉や、盛りを過ぎてしみや破れのできた花弁が現されていることが少なくないのである。
花といえば盛りの美しさをいうのが常識で、ことに染織の模様では元来生気に溢れたものを身につけるというたてまえから、こうした盛りを過ぎた花の姿などは場合によっては禁忌でさえあった。
それをあえてして、そこに醜さのなかにある美しさを表しているということは、世界の染色模様のなかに類例を見ないところであろうといわれている。
やわらかななかに凛とした強さを持つ線描の美しさも、辻が花のもつ魅力の一つにあげられる。

桃山時代には辻が花が絵模様染としての華やかさをました時期である。
生地はほとんど精好織(経に生糸、緯に練または半練糸を用いた組織の密な絹糸)が用いられ地染も紫、紅、藍、萌黄などが多くなった。
模様は墨線の描絵がますますその本領を発揮して、模様全体に対して強い主体性を持つようになったのである。
この辻が花染は特に珍重されたものらしく、相当身分の高い人の小袖や羽織に用いられていた。

一方、このころから刺繍と摺箔によって模様をあらわす縫箔が盛んになり、繍の自由な色づかいと重厚さが華麗な小袖をうみだすようになっていた。
その縫箔が紋の模様と調和しながら小袖全体の新しいデザインを作りだすことになり、江戸時代にはいると絵模様風の金銀のみごとな摺箔に紋や刺繍が加えられ、さらに彩画がほどこされる豪華なものとなり、そのなかで辻が花はみずから生命を絶ったのである。
だが、そのあとには友禅染をはじめさまざまの染模様が辻が花を母体として生み出され、多彩な元禄の風俗を色どることになっていった。

辻が花の名称のおこりには諸説があっていずれが定説ともいいがたい。
しかし、その詮索は無用である。
いかなる謎につつまれていようとも、辻が花は我国の染織工芸史上、もっとも格調の高い美しさを誇っているのである。

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久保田一竹美術館 | 辻が花染め工房 絵絞庵 京都 | 辻が花染め | 絞り辻が花染め「鳥獣戯画」 |

■ おちやない

昔の女性は顔かたちはさておき、髪の長く艶やかなことが美しさの第一条件であった。
吉田兼好は『徒然草』に「女の髪のめでたからんこそ、人のめだつべかんめれ」と書いている。
少しでも美しくありたいのは、いつの世にも変わらぬ女の願いである。
当時の美容書はくろごまを九度蒸して九度水にさらし、粉にしてなつめのにくとまぜてまるめ、日に二十粒ずつ朝夕飲めば髪の黒くなること疑いなしと教えている。
だが誰もがめでたき髪の所有者であったわけではない。
髪の薄く短い女性は大いに気を病んだことであろう。
「女風流の第一は髪なり、多と少と長きと短きと、太と細とは人のむまれつきなれは  せんなし」と『女重宝記』はあきらめさせようとしているが世の中はそう捨てたものではない。
おちやないという職業があったのである。

おちやないは、都の西にあたる常盤という所からくるといわれている。
女が頭に袋をいただいて髪の落ちを買い、かもじにして売るのを世を渡るわざとしていた。
”おちやないか”といって町々を歩き、浅野八ツ時より出ていた。
と、『喜遊笑覧』は説明している。
おちやないは江戸時代にはいるとなくなっていたが、それ以前は京の町々を”落髪はないか”といって買い歩き、それをかもじにして売っていたのである。
”落ちはないか”というよび声が訛って”おちやない”になったといわれている。

元来、おちやないは女の仕事であった。
世の中に変わったことが多くなり、御池長者町に男のせんだく、綿つみができたが、男と女があべこべの仕事をやりだしても、女のかご舁や男のおちやは出ないだろうといった話しがある。
男性の女性化はいつの時代にもあったらしい。
しかし、おちやないは女、鬘師は男の仕事ときまっているというのである。
歌舞伎の鬘師は銅のかぶりものに鬘をしつくるので、女にはできなかったといわれている。

おちやないが売ったのはかもじである。
かもじは平安、鎌倉の古い時代にはカズラ(「髪」の下に「皮」)とよばれ、室町時代になって加文字といわれるようになった。
これは宮廷の女房言葉で、すしをすもじといったように、アズラを加文字とよんだのである。
『源氏物語』に御髪の落ちたのをとり集めてカズラにすると九尺あまりのものができたことがみえ、『枕草子』や『栄華物語』にも髪の短い女性にカズラが利用され、表着の裾から一尺二寸ほど出るのがよいとされている。

鎌倉時代になると女性の地髪が一般に短くなったので、カズラの需要は必然的に多くなってきた。
室町時代の故実書をみても盛んに利用されていたことがわかる。
江戸時代になると庶民の間にも普及するようになり、結髪のさまざまな流行変遷にともなって、加文字も幾多の種類ができるようになった。
「当世かもじ雛形」には十四種の加文字が記されている。・

長い黒髪を梳るのには美髪料が必要である。
それには一般にひろく、びなんかずら(さねかずら)の液が愛用されていたが、京都で使いだいsたのが地方へも及んでいったのである。
髪を結いあげるようになると、ねりの固いびんつけ油が出回るようになったが、京室町の髭の久吉という者が、香料に伽羅を加えた上質のものを売りはじめ、その後、三条の一宇賀縄手の五十嵐がこれを作ると、その香りの高さが珍重され”伽羅油”の名で全国に知れわたり、江戸ではにせ物があらわれる始末であった。

西鶴は『一代男』で「そもそも京は清く、少女の時よりうるはしきを。貌(カオ)は湯気に蒸し立て、さねかずらの雫に梳きなし、身に洗粉たへさず」といっているが、困ったことに京おんなは稀にしか髪を洗わなかった。
洗うのは二の次ですき櫛でよくとかし、あとで香油や香をたきしめていたのである。
天保ごろになって、江戸ではやった洗い髪の粋な姿に刺激され、やっとたびたび洗うようになったといわれている。

京都には髪形や髷の結い方にしきたりがあった。
結婚するとまず”先笄”に結い、子供を身ごもると眉を落し”両手”に結い変えるのである。
”先笄”は島田の一種で、御所風の笄まげをとり入れた複雑で技巧的な髷である。
”両手”も御所風からでた髷で、上品でしかも堅苦しさがなく、俗っぽさもないので何よりの髪型と愛好されていた。
また”びん”を引いてふくらませ”つと”を高く水平に上げた髪型が”強風”として独特の美を愛でられ、流行をこえた魅力をもっていたので、京おんなの髪型の代表とされている。
現在では、芸妓の髪として、また宮中での”おすべらかし”のびんにこれが残っている。

▼ Link
日本髪の世界 | 石原哲男著日本髪本コレクション |

京の厚化粧

蒔絵のさし櫛、桐のとう

京の着倒れ

 
つづれ錦

 
京鹿の子

 
大原女のはばき

 
山城の吉弥結び

 
友禅染の丸づくし

 
花見小袖の衣装幕

 
 ”祇園恋しやだらりの帯よ”

 
宇治の茶壷道中

 
立つるお茶には泡たたで(雲脚茶会)

 
一服一銭

 
都のおどり

 
はちくの京草履

 
似ても似つかぬ裏表

 
投げ入れも生えた如くに池の坊

 
やしょめ やしょめ

 
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