■■■ 京都故事

更新 「京の年中行事」 五話 2005.03.21


 
京の町・京の家 
京の町 / 家 
京の味
京の女とことば
京のよそおい
京の年中行事
京の水と道

 
「通り名おぼえ歌」

京の町は碁盤の目。京都の一大特徴である。

京の町の通り名おぼえ唄。

<東西は>
丸竹夷ニ押御池
姉三六角蛸錦
四綾仏高松万五条
雪駄ちゃらちゃら魚の棚
六条三哲とおりすぎ
七条こえれば八九条
十条東寺でとどめさす

<南北は>
寺御幸麩屋富柳堺高
間之東に車烏丸
両室衣新釜西小川
油醒堀葭屋猪
黒大宮松日暮に智恵光院
浄福千本はては西陣

ついでに「洛陽観音めぐり」の順歌を記す。

六角や誓願寺図子・下御霊・革堂過ぎて吉田・黒谷
長楽寺から壹二ヶ所、清水に五ヶ所、六波羅、さて愛宕寺
大仏や泉涌寺二ヶ所・今熊を伏見街道九条へぞ出る
東寺より松(松原)西東蛸薬師、出水・下立売二ヶ所・かい川
東向観音過ぎて天皇寺、清和院にて札ぞ納る。

歴史散歩】【町並み


 
「洛中洛外」

京都は、”洛中””洛外”ということばで内と外が見事に区別されていた。
ポイントになったのは、京から諸国に通じる”道”の要所(つまり京の出入り口)におかれた関所であった。
この出入り口は時期によって数も呼び名も異動があるのだが、総称して”京の七口”といわれ、いずれも”洛中”にとってはノドに当たる重要性をおのずから持たされていたのである。

”洛”とは『類聚名義抄』などによると”京” ”都”と同様にミヤコを意味する。
だいたい、”京都”という名は、鎌倉時代から普及しはじめたらしく、鎌倉幕府の公的記録である『吾妻鏡』にしばしば現れている。
このほかにやはり”京”という言いかたがごく一般的だったらしく、これは「京都」の名が行き渡ってのちも、併行して用いられたものであった。
鴨川の東岸、東山の山麓一帯は北から南にかけて白川の名で呼ばれ、地域としては「京・白川」に住む人間は「京者・白川者」といったふうに分けて認識されるのが普通であった。
”京”は”洛中”、”白川”はもちろん”洛外”なのである。
”京”にたいしては”田舎”という呼称も一般的であったらしい。
いずれにせよ、京というも京都というも、また洛中というも、ミヤコの内ではあった。
この切れ目が”京の七口”だったというわけであるが、当時の人達にとっても、その切れ目は関所のあるところでは明快であったろうが、中間の部分ではかならずしもそうではなかった。
それを目に見える形で、いやが応でもはっきりさせたのは、天正十九年(1591)、豊臣秀吉によって作られた”御土居”だったのである。

秀吉はその前年の小田原攻めで天下統一を完成し、京都の整備を企画した。
京都をめぐる御土居の建設、皇居の修築・拡大、大名屋敷の建設、寺内・寺の内の構成というふうに、近世都市としての京都の建設がすすむなかでとくに”古町”とよばれる祇園会の鉾町区域を除くほかは、中世京都のおもかげはほとんどなくなってしまった。
秀吉による市中の町割りは、平安京の規模にたって、従来の便のために、昔からの一町四方の地割の真中に南北の小路を通し、短冊型の町割に切り替えたのであるが、このことにより京都の町が大きく変貌したことはいうまでもない。
町割の整理とあいまって、洛中散在の寺々を集団移住させた。
こんにちの”寺町””寺の内”という地域はこうして生まれたのである。

秀吉は寺々の集中や町割りの改正などでは京都を防護する方策は不充分と考え、洛中をすっぽり包みこむ土塁の建設 − 御土居へとむかったのである。
御土居の着想は、平安京においても完成しなかった羅城を現状にそくして計画しなおし再現することにもなった。
それは、北は鷹ケ峰、上賀茂から、南は九条東寺南大門、西は紙屋川に沿って南下し、東は賀茂川岸にいたるというぐあいに京洛を一周し、総延長は五里二十六町に及んだ。
堀を掘ってその土を盛りあげ、水を引くのである。

ともあれ、天正十九年の五月には、京の町々は、巨大な土塁にすっぽりとつつみこまれてしまった。

史跡指定の御土居も今日では鷹ケ峰・北野などごく一部にしか残っていない。
江戸時代に入ってからの街区の発展も原因してどんどん壊されつづけてきた。

京都駅一番ホームは、御土居の上にできている。


 
「上る・下る」

平安京が作られたころ、京の人々は、その住所、田畑の位置を示すのにどのように記入していたのか。
例えば次ぎのようである。
在左京七条一坊十五町西一行北四五六七門ノ内
「四行八門」制という制度がそれであった。
この説明は”平安京”の規模のことから始まる。

十世紀にできた『延喜式』によると、平安京の規模は、東西1.508丈(約4.570メートル)、南北1.753丈(約5.310メートル)で、その北方に大内裏がつくられ、その大内裏の南面の中央の門が朱雀門で、そこから真直ぐに羅城門まで広さ二十八丈(約八十五メートル)の大路が通されていた。
”朱雀大路”(現在の千本通)である。
この朱雀大路を中心に左右両京の条坊がひろがり、条坊は、東西南北に走るいわゆる碁盤目の道路によって区切られた一町四方を”町”、四町を”保”、四保を”坊”として左右両側に各条四坊からなっていた。
その町の内部が東西に四行、南北に八門の小区制に分れていたが、これがいわゆる”四行八門”の制なのである。
”町”は四十丈四方で、縦通四十丈を八つに切って八門とし、横通四十丈を四つに切って四行となる。
この四行に八門を配すると合計三十二門になるわけだ。
平安京の中の”坊”の総数は一、ニ一八坊。
だから”門”の総数は 32×16×1218 ということになる。
この”門”こそが平安京の地割(土地区分)の最小単位なのであった。

ところが、平安末期から鎌倉初期にかけて、平安京の地点表示法であった「条・坊・町・行・門」の呼び方は”面 おもて”や”頬 つら”で代表されるものに変ってきた。
たとえば室町初期の応永の頃、ある京の綿売神人の家は「四条室町南西頬」などと表示されている。
どうしてこのように変ったのか。
要するに、平安京創設以来の律令体制が弱まってきた上に、水害などの災禍、戦乱などによって、平安京の街路が荒らされ、それにつれて特定の地点を正しく表示するすることも難しくなってきたらしい。
加えて、面・頬の文字が示すように、実利が高い、街路に面したところに商家が並び始めたために、”面””頬”を地点表示に採用する方が町の実情にかなってきたからである。

ところが応仁の乱後、京の町並みがどんどん復興し、路と路の間に辻子(図子)とよばれる小路なども増えてくると、大路の名に”面””頬”のように側面だけを指示する語を付加するのでは、発達してきた横町を的確に示すことが難しくなったものらしい。
そのような移り変わりを背景にして、天正十九年、秀吉が御土居造営に伴って京の町並みを短冊形に改造したさいに、「上る」「下る」といった新しい指示法が採用し始めたらしい。

地形が北に行くほど上がっているので「上る」、又は、御所に向かって「上る」などの諸説あり。


 
「上京と下京」

「お出かけどすか」
「へえ、ちょっとそこまで」
「あァ、そうどすか。ごめんやす」
通りで行きあった顔見知りの二人の挨拶。
何のことやらサッパリだが、本人同士ははけっこうこれで済んでいる。
「ちょっとそこまで」との答えに、おおぎょうにかまえ、「ちょっとそこまでの、そっこはどこか」と開き直ってみると。
「けったいなお人やなァ。いやらしィ」とけぎらいされ、以後のお付き合いは目も当てられぬほど面倒になりかねない。

「お出かけどすか」というのは”お愛想”で、「こんにちわ」程度のこと。
「ちょっとそこまで」も同様で、返礼。
相手がお愛想のつもりなら、こちらも愛想程度にという感覚。
すばらしい”平衡感覚”がその底には潜んでいるのである。
これを”京都人の上っ面のよさ”で解決し去るのは、いささか酷というものであろう。

似たようなやりとりに、
「お住いは?」
「上どす」(下どす)というのがある。
いかにも漠然としたものだが、この場合の上・下には、一定の地域的概念がそなわっていて、まったく根も葉もない”お愛想”とはちょっとわけがちがう。

数多くの”区”に分れた今日の京都でも、いぜんとして、この上・下の地域的概念が、日常の京言葉のなかにいきているところに、京都という町の一面がよくしめされているように思われる。
京都に住む人達にとっては、昔から”上””下”という地域的にも異なった二つの大きい集落があったのであり、その”上””下”二つの大集落は、いろいろな点で違ったものをもっていたのであった。

ご存知のように、平安京は朱雀大路を中心にして、東側は東京(左京)、西側は西京(右京)というふうに左右相称につくられていたから、平安時代初期には”上””下”といった捉え方は、まだ行われていなかったらしい。
平安京の頃には、今日いう”上京”あたりは”北之辺”などと呼ばれていた。

平安時代に用いられていた東西京または左右京の区制のしかたは、西京すなわち右京が土地湿潤で、住居に不適当だったところからおとろえ、自然その呼び名ももちいられなくなっていったらしい。
そのために、京の町の形はしだいに南北にながいものになり、これを二分して、御所の北の方を”上”南の方を”下”とすることがふつうとなってきた。
鎌倉時代の末頃の記録には、すでに「上下町中」といった形で、表現されている。
ところで、永和四年(1378)室町幕府の三代将軍足利義満が、烏丸と室町の間に壮麗な”花の御所”を開いた結果、細川・山名など、三官・四職の館邸も付近に建設されることとなり、このために、京の町も急に北の方へと膨張するようになった。
このころから”上”と”下”の対象は、名実共に、一般に広く用いられるようになったらしい。
いろいろの文書記録にも、上辺・下辺、上京・下京のよべ方がおびただしく見えるようになる。

さて、応仁の乱後、北は上立売室町を中心に、南は今の四条新町あたりを中心にして、はっきりと、”上””下”の二つの大集落を形成しながら復興をはじめた。
室町末期から桃山時代にかけて、京都へ伝道にきていた宣教師のクラッセなども、京には上と下の都があり、上は、下の都の倍もあって、上の都には、公方(将軍)の諸臣や貴族たちが多く住み、下京は賤民が住む − などと伝えている。
この賤民というはちとオーバーで、下々のもの、くらいの意味であろう。
事実、当時より、上京には公家・武家や豪商が多く住んでいたのに対し、下京には商売人や工人の住居が目立っていた。

この上・下京のちがいは、元亀四年(1573)織田信長が兵を率いて入京した際、軍隊による町々からの掠奪を禁止する代償として上京と下京に巨額の献金を命じたことがあるが、下京がこれを献上したのにたいして、上京は不服の意を表明したために信長によってすっかり焼き打ちされたという事実にもよく示されている。

このように、地域が離れている上に、そこに住む人々の性格にも相違があったから、その自治組織である町組も、上・下京、それぞれに分れて、独自の発展をとげてきたのであった。
為政者も、その点に注目して、つねに上京と下京を、それぞれ別個の”団体”と見なしてとりあつかってきた。
江戸時代の後半には上古京十二組、下古京八組がそれぞれ連合して大仲十二組・大仲八組という団体を組織して行動したことも興味深い。

それでは、この上・下の境はいったいどこであったか。
上・下の二大集落がその町並みを接続した江戸時代初期以後、おおよそ二条通をほぼその境として、北を上京、南は下京として取り扱われることになった。
丸太町以南、四条通以北をもって、”中京(区)”が設けられたのは、昭和四年のことであって、それ以前、何百年もの間、京の人はつねにこの”上京””下京”という二つの大区域と共に生きてきたのである。


 
 
「鉾町・親町」

コンコンチキチン コンチキチン

念仏踊りの影が濃いといわれるこのお囃しにのって、豪華な胴がけに飾り立てられた山鉾が”エンヤコーラー”と引き進められる。
七月なかばの炎天下、京の町々は興奮のるつぼにたたきこまれてしまう。
祇園祭りである。

正しくは祇園御霊会。
その起こりは、社伝によれば貞観十一年(869)全国に悪疫が流行したので、卜部日良麻呂という人が、これを牛頭天皇の祟りであるとして、勅を奉じて、その年の六月七日、全国の国数に応じて長さ二丈ばかりの矛六十六本を立てて祭りを行い、おなじ月の十四日に洛中の男児が神輿を神泉苑に送って災い厄の消除を祈ったのがはじまりだとされている。

ところで、現在のように、京の町々から、山鉾が出されるようになるまでには、ずいぶんさまざまな経過をたどっていて、わからないことも多い。
長徳四年(998)には、無骨という雑芸人が、京じゅうの人びとに見せようとして作った柱が、大嘗会の標山に似ているので朝廷から禁じられたし、神輿の後には、散車空車といって、屋根のない車の上で散楽を舞って行進したらしい。
それから、風流といって、神輿に先立って鉾をもった人が徒歩で行進したり、馬上十二鉾といって、鉾に懸物をつけた馬が行列したことも知られている。

山鉾の代表格である長刀鉾の由来としては、正暦五年(994)に疫病流行に際して三条の小鍛冶宗近という人が、その除災を祈って大薙刀を鍛え、これを祇園感心院に奉納したという話しも興味深い。

このように、いろいろな起源をもつだしものがいっしょになって、室町時代にはすでに定鉾や、鵲鉾、跳鉾、家々笠鉾、風流之造山など、さまざまの鉾や山が巡行していた。

もともと祇園社には神人と呼ばれる数多くの商人が、京の下京を中心に住居していた。
そして、祇園社の祭礼に何らかの奉仕をすることが神人の務めであり、その代わり、商業上の特権を、祇園社から認められていた。
これらの祇園社の神人や、地下人とよばれる社領の住人が中心になって、初めは祇園会の行事をおこなっていたらしい。
そのうち下京で営業している他所の座衆の参加をうながし、やがて、全町人衆を主体とする祭りになってきた。

やがて、応仁の乱前には、○○山や△△鉾と称するものが各町に定まって、総数は三、四○基にも達し、その区域は、東は万里小路(今の柳馬場)から西は猪熊、北は二条から、南は五条(今の松原)にまでおよんでいた。

応仁の乱により約三十年中断。

平和が回復されるとともに祇園祭りも盛んになってきた。
やがて、”寄町”制度といって、山鉾町(山や鉾を出す町)に奉仕する町々が定められ、”地の口米 じのくちまい”といって家々の間口に応じて、いくばくかの米を山鉾町に寄進し、それによって、祇園祭りの山鉾行事の財政がまかなわれるようになった。
山鉾町に奉仕する町を”寄町”というのだが、寄町は、米を寄付するのみで、山鉾行事には直接参加できず、いささか不公平な関係であった。
明治五年には”寄町”制度、”地の口米”は廃止される。

昔はあたりまえのものとして通用していた親町・枝町という言葉も、今ではすっかり歴史上の用語になり果ててしまった。
明治の初年までは、この親町・枝町という、つまり”親分・子分”の関係が京の町の組織のなかに長い間存在していたことは、京の町人生活というものをみてゆく上では実に興味深い。
かりに古町・新町といえば、その町々の成立時期が関係していようとは、ある程度察しがつく。
しかし、信長 − 秀吉の時代、天正以前にさかのぼって成立した”古町”のなかにおいて、すでに親町・枝町という従属関係が成立していたのであるから、その由来は複雑である。

”親町”という語がいつごろから云われだしたのかよくわかっていない。
しかし、文明十年(1478)の四月、京都で観世太夫が行った勧進猿楽は”親町室町”であったと記されているから、そうとうに古くから用いられた言葉らしい。

しかし、これが町組単位の”親町”のことなのかどうかはよくわからず、むしろ、勧進の親元の意味に解釈すべきかとも思われる。
織田信長が、元亀二年(1571)、米を、上、下の京中に貸し付け、その利米(利子として取り立てた米)を禁裏御料(皇室費用)にあてようとした時の計画や内容を詳しく記した文書から、当時の町組や町名を知ることが出来るのだが、そのなかに「立売組十四町寄町分二十九町」という記載がある。
町々の間にいわば”親分” ”子分”の関係が生じていたことがわかる。
当時”親町”というものは、室町通や立売通などの主だった道路に面した家々で組織され、寄町(=枝町)は辻子(図子)や小路、あるいは主な通りから離れたところに位置を占めていた。
そして、親町は枝町にたいして”親” ”子”のように世話をやき、枝町は親町組にくっついて町内を運営し、お触れの伝達や各種の調査、負担金の賦課などはいっさい”親町”を通じて行われていたのであった。

枝町の他に親町に対する関係から離町・随身町・差配町・支配町などがあった。
たとえば「上立売親九町組」では、親町が九町、枝町が七組三十八町、他に門前町十町、随身町六町、合計六十三町あった。
下京では、”親町”に相当する町々を特別に”古町”と呼んで、その傘下には枝町・離町・門前町などが従っていた。
たとえば、下京の巽組では、古町十一町、枝町十一町、新町八組百十一町、離町五町、門前町八町、計百四十八町あった。

これらの”枝町”が”親町”の指揮に従わず、意義を申し立てるような時は、親町同士が結束してその統制を強化し、枝町を威圧していた。
そして、このような関係が一応払拭されたのは明治三年七月、町組仕法の改正によって上下京を”上大組” ”下大組”と再編成し、”古町” ”親町” ”新町” ”枝町”等の名目を一律に廃し、その資格を消滅させたときのことであった。


 
「古町と新し町」

十八世紀、京都町奉行で与力を務めた男に神沢貞幹というのがいた。
なかなかの好事家で、京都の「故事」をあれこれと詮索し、随筆集『翁草』をものにしている。

その『翁草』によると
洛に古町と号する町々あり。
昔よりの由緒の趣、下京組の記録これこれ有るを乞ひもとめて、その要をここに録す。
上京組にも、かやうの類ひあるべし、他日これを求め、珍説あらば追加すべし。

この”下京古町”(下古京ともいう)というのは、貞幹の記すところによれば、室町時代の末ごろ、足利将軍の威勢がおとろえて洛中でのあいつぐ戦乱のため町人ら離散、下京の高倉通より東は一面の河原となり果てて家もなく、五条(現松原)より下は田野・河原であった。
ところが天正年間、秀吉の治世となって、五奉行の内、前田玄以が京都所司代兼寺社奉行に就任した際、残っていた町々を”古町”と名づけ、それ以後増えた町々を”新し町”と称する習慣となったという。

この古町の四至(四方の境)は、
東 − 東洞院
西 − 油小路
南 − 松原(旧五条)
北 − 二条通り
であって、その範囲の町五十九町を”下京古町”とよんだのである。

この五十九町は五組(艮組、中組、四条三町組、川西組、巽組)に分割された。
ただし、このうち川西組みというのは、貞幹の時代は堀川以西を指したが、以前は西洞院川(現在では消滅)以西を指したらしい。
ついでながら、西洞院川というのは、ごく小さい川で、平安京成立時すでにあった谷川。
昔は”清泉”であったが、江戸時代には涌水も減って、”悪水”となり果てていた。
この川の両岸地帯が新町通(旧町尻小路)と油小路であって、今でははっきりしないが、地形が少しばかり高かったともいう。

いっぽう『上古京親町之古地由来記』には次ぎのようなことが記されている。
”上古京町”(上古京ともいう)もやはり”下京古町”と同じときに、従来の町々をそう呼んだもので、五組に分かれ、上立売組・中筋組、小川組・西組(西陣)・一条組と称したという。
これがやがて十二組にまで伸展したのであった。

ところで、実際に、江戸末期にいたるまで、古町として認められていた町々は、嘉永七年の編纂である上立売親九町組の『親町要用亀鑑録』によれば、”上京古町”五百四十八町、”下京古町”百二町を数えている(ここでも文禄四年に毀たれた聚楽第趾に開かれた町々も、”古町”に準じてこのなかに算入されている)。
ところで、文化、文政ごろの町名改めによると、上古京で古町とみなされるもの五百九十三町、下古京で、約八十九町あり、したがって、厳密にとの町々を”古町”と見なすのかは、その時々の解釈によって若干異なったと思われるのである。

さてこの”古町”に対しては”新し町”という言葉がある。
”古町”とは、その成立起源の古さを物語ると同時に、古町の人は、その町の古い歴史に誇りをもち、町の行事のなかで”新し町”に比して何事によらずその権利はつよく格式は高く、つねに支配的な位置にあった。
その由縁はなかなか複雑で、簡単には説明しきれないが、要するに”古町”自身の血と汗によって統制権力から”永代地子(年貢)免除”をかちとり、また、たびたびの動乱と災禍から、古町の団結と経済力とによって長い間町を支えてきたというその実績が、後に新しくできた町々 = 新し町との間に、はっきりとした格差を生んだものと考えられる。

秀吉は、天正十九年、御土居建設にともなって、寺町 − 高倉間、堀川以西、押小路以南の地域には半町ごとに南北の道路をつけた。
短冊型の新しい町割の断行であった。
ところが、”古町”の地区については、秀吉の強権をもってしても、旧来の地割を変えることができなかったのである。
ここに、当時の”町衆”のかくされた底力を見ることができる。
あとあとまで”古町”の人びとが誇りをもちつづける所以でもあった。


 
 
「八丁のくぐりで
   てっぺんするむく」

よいさっさ よいさっさ
これから 八丁 十八丁、
八丁のくぐりは くぐりにくい くぐりで、
頭のてっぺん すりむいて、
一かん膏薬 ニかん膏薬
これで癒らな 一生の病じゃい。

古い京都の盆踊り、その”よいさっさ歌”である。
うたのワケは、”四辻”のことからはじめなければならない。
”四辻” − ここほど京の町に住む人々にとって馴染み深いところも少ない。

昔でも買物といえば、四辻に出かけることも多かったであろうし、それ祭りだ!やれ盗賊だと、事あるごとに人々は四辻に馳せ集って騒いでいたようだ。

ところで、京は町並みが碁盤の目のようになっているだけに、住民と辻との関係はひとしお深いものがあり、町辻での事件の記録は非常に多い。

室町幕府の公文書の写しを集めたもののなかに、永正十一年(1514)室町幕府の徳政に間する下知状がある。
徳政の高札二枚を立てる場所が、次の二ヶ所に定められている。
上京の立売辻と、下京の四条町辻(今の四条新町)以上二つの辻が、京都でもっとも重要な処とみなされていた。

以上のもっとも重要な二つの辻にかぎらず、町の四辻はすべて要所だから、そこには、頑丈な木戸(町の門)が設けられていた。
今に残っている「洛中洛外図屏風」のうちでも、もっとも古いと考えられる室町末期の京都を描いた屏風をはじめ、そのほかの「洛中洛外図屏風」にも、町の四辻には、木戸が、数多く描かれている。
たとえば、大永七年(1527)には、柳本賢治の軍勢が京へ押し入って大騒動となったので、”ちやうのかこい”(町の囲い)をするために、御所の傍に住んでいた山科言継という貧乏公家も町の人々に協力して竹や材木を提供しているが、このように木戸は、もちろん外敵や盗賊から町を守るためのものであるから、通常町々の四辻には二つの門を設けることが多かった。
そして夜間は閉ざされた。

江戸時代ともなれば、この木戸にまつわるエピソードも激増した。
いちばん多いのは、親の心、子知らずのたとえどおり、いずれは五番町、七軒町、宮川筋などの気楽なお遊び処でてきとうにすませ、ほろ酔い機嫌でで小唄なぞ鼻にのせてフラフラと帰りついた放蕩息子。
おあいにくさまで、木戸は閉まっているというしだい。
番子は潜り戸の錠前で開けてやることとなる。
あとは先刻承知の”袖の下”。
夜更けの木戸でも銭がいるのだから、放蕩も、高くつく。

この木戸を管理し、その開閉にあたり、夜間町内の警戒にあたっていたのが、さきの番子や夜番人といわれる人たちで、”番太郎”という名前もみられる。

京都の盆踊りの「よいさっさ歌」にみえる”くぐり”が木戸の”潜り戸”。
木戸と町人生活のむすびつきぐあいは、捨子のときもクローズアップされる。
家庭の事情、その他迷信も少なからず加わって、町々の木戸口に捨てられる子は多かった。
木戸口に置かれた赤ん坊の頭がどちらを向いているかで、その子の引き取り先も決まる。
なにしろ四辻でのことだから、頭の向いた方の町がうけおうわけだ。
町の責となれば四つの町々の年寄や町代が立ちあって相談の上、子の引きとりさきをきめ、お上にとどけ出る。

捨て場の近い方の近い方の町に決まることもある。
養育の費用は四町の負担、その後の処置にも、四町が順番でこれに当たる、というのが通常ではあった。

四辻と木戸。
遊びつかれたあと木戸をくぐり抜けようとし、ごつい柵の木にアタマをぶっつけてスリむく色男にとっても、捨てられ拾われて日々成長していた子らにとっても、思いで多いことであった。
ゆえあって、いとし子を捨てねばならなかった悲しい親たちも、ときおりその木戸口の界隈にわが子の姿を追い求めて、胸をかみかみさまようていたのではあるまいか。


 
祇園床 − 町用人と町代

京都の床屋さん、いわゆる町会所として、江戸時代を通じて今日にいたるまで、ご町内の行事とは切っても切れぬ縁がある。
こういう床屋さんは京の鉾町界隈ではわりと多いらしい。

今日でも、京都市下京区の綾小路や、仏光寺、松原通など、いわゆる鉾のある町々を散策してみると、四辻に理髪店の多いことに気付く。
その理容店に入って由緒をたずねると、町の役員をしているとか、昔は町の会所だったとか、いうところが少なからず残っている。
そして昔の町組みに関する古文書を持っているところもままある。
京都の床屋さん、いわゆる町会所として、江戸時代を通じて今日にいたるまで、ご町内の行事とは切っても切れぬ縁がある。
こういう床屋さんは京の鉾町界隈ではわりと多いらしい。

今日でも、京都市下京区の綾小路や、仏光寺、松原通など、いわゆる鉾のある町々を散策してみると、四辻に理髪店の多いことに気付く。
その理容店に入って由緒をたずねると、町の役員をしているとか、昔は町の会所だったとか、いうところが少なからず残っている。
そして昔の町組みに関する古文書を持っているところもままある。

このように、町辻に町の会所があり、しかも、その家が床屋さんであるということは昔の町の組織の面影を残すものとして、なつかしい。
衣棚町に所蔵されている町地図によっても、各町の会所が四辻に集まって作られていたことがうかがえる。
なぜ四辻に町会所が作られたかといえば、人の集まりやすいこともあったが、一説によれば、町の四辻の一角が”個人の所有”として他町の人に転売されるということにでもなれば、その町の面積がせまくなるため、町の角地・角家を町の共有物として保全したものだともいう。
そして、その会所には、通常、”町用人”を住まわせ、これは多くの場合”世襲”であったらしい。
平常は”髪結床”として町内の人たちに親しまれるとともに、会合(常会)などのさいは”会所”に一変すというしだいであった。

町用人=髪結いの主は、町の年寄り・五人組の指揮下にあって、町内の業務にあたっていた。
その仕事は −
1.公儀よりのお触れのある場合は、すぐに町内の家々へ知らせてまわること。
2.町の木戸の開閉、捨て子、どろぼうなどについて、番人を指揮して十分に気を配ること。
3.会所観音様・諸道具等、残らず預かって責任を持つこと。
4.年寄りの供先となって、諸方へ出かけること。
5.会所の行事を世話すること。
6.火災のときは、諸道具を土蔵に納め、観音様を避難申上げること。
7.出火のときは、年寄りの指揮をうけて、火防役として出勤すること。
8.江戸へ年頭拝礼に行くのに、その町が当番に当たったときは、年寄りのお供をして江戸へ罷り向かうこと。
などであった。

鉾町との関係で会所になっている場合、祇園祭の前後、町用人の家はごった返した。
まる一ヶ月は商いはストップとなる。
だから”町”へ払う家賃は年間十一ヶ月分でよかった。

明治の一新は、こうした町会所の処置にも手を伸ばし、”所有権のはっきりしない土地、家屋は公のものとする”ことになった。
あわてたのは町内である。
協議の結果、町内の有力層(家主層)たちで”会社”組織をつくり、会所の権利を保持することになった。
今日では財団法人となっている。
ちと大げさだが、必要不可欠の共同施設”会所”を守りきれないわけなのだ。
その上に数多くの”町有古文書”群も、散佚・火災から何とか無事に守り通さねばならぬ。

町代と年寄りのこと

応仁の乱後復興し始めた京の町の人々は、不穏な社会からお互いを守り、協力して生きていくために、それぞれの町に、町組みをつくり、その町組みがいくつか連合して組み町を作り、お互いの町々の連絡を密にしていた。

この町組みの代表が、年寄りや宿老(おとな)と呼ばれる人たちで、組町への連帯的活動の代表としては月行事が選ばれていた。
この月行事と年寄りは、同じ人が兼ねる町もあったし、別々の人が業務を分担している町もあった。

ところが織田信長が元亀四年に上京を焼き打ちしたように、統制権力者の思うようにならないときは”一町切”といった防犯連座の義務を町組みにになわせ、協力しない町の統率者に対する処分は、特に厳しいものであったから、桃山時代になると、代表者を置かない町もでてきたらしい。
そこで徳川政権は、明暦三年、すべての町々に年寄りを置くように命じた。
このように、町組みが徳川政権の政治体制の一部にくみこまれるようになると、やがて、町奉行に対する連絡や、町に対する課役など、町の業務も煩雑となってきて、専念して町の行事にあたる人が必要になってきた。

そこで、各町はやがて町代という専門の人を雇用するようになってきた。
町の年寄はほかに専業を持っていたし、さきにのべたように幕府の厳しい統制下では、町の自治に積極性を失っていたから、自然、町の業務は町代に任されることが多くなってきたらしい。
こうなると幕府としても、事務的にも町代を通すことが都合がよいので、寛永十一年将軍家光の上洛に関して公布された町組みへの定書以後は、すべて、上・下京の町代を町の代表者とみなして、業務を通すようになってしまった。
このためはじめは町の使用人として雇われた町代が、しだいにその地位を高め、いつしか町組みの支配者的な地位に昇り、”武士”に近い格式高い生活をさえするようになった。
このために町民の町代に対する不満は強まり、やがて江戸末期の文化・文政頃になると、京都じゅうの町組みが結束して、町代と争うようになり、ついに京都奉行所の裁判が行われ、その結果、町代もその特権をある程度おさえられることとなって、ようやく落着したのである。

町用人・町代 − ともにその語は今ではなくなったが、”会所”と、それをめぐる町内の諸関係は町の行事のたびに表面に浮かびでるのである。


 
鳥辺野のけむり

千年来の墓所 − 鳥辺野とは、西大谷から東清水寺にいたるあたりをいい、古代から人を葬る場所だった。

昔はこのあたりは京の外れ、棺をかついで文字どおりの野辺の送りにきた人々にとっては、鳥辺野に一歩はいったとたんに、人の命のはかなさ、明日の運命のおぼつかなさが身にしみたことであろう。

珍皇寺がある。(東山松原通西入北側)
六道詣り有名なお寺は、鳥辺野の入り口であった。
六道とは、仏教の説く地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つをいい、ここから地獄に通じるともいわれている。
小野篁は官吏でありながら閻魔庁の役人もしていて、ここから地獄に通勤していたというのだから、まさに六道の辻は幽明二つの世界の境であった。
「京は名所の多き中、こゝぞ先年篁が冥途に通ふと名に高き」(近松半二作『小野道風青柳硯』)ところなのだ。

珍皇寺には、閻魔像や、小野篁が地獄に通ったという井戸まであり、地獄、極楽の庶民信仰の舞台装置が出来上がっている。

寺の南側には”幽霊子育て飴”を売っているお店がある。(茶舗・一袋¥500−)
* 近松半二作の「近頃河原の達引」をどうぞ *

やすらい花で有名な今宮神社あたりに、京の西の葬場蓮台野がある。
ここには千本閻魔堂があり、これは鳥辺野の珍皇寺に対比できる。
近くの船岡山に千本の卒塔婆を立てたから、千本の名があるという言い伝えもあり、京の西側の人はここに葬られた。
(千本の松、または桜の説もあります。千本通は朱雀大路で昔は道幅が85メートルもあったという)
 

鳥辺野の烟、あだし野の露とならべられる化野は、嵯峨野の奥、小倉山の麓で、古くは葬送の地だった。


 
賽の河原

地蔵和讃は中世末期に作られ、庶民の間に広まった。
幼い子供は、死ぬとこの世とあの世の境の賽の河原に行きそこで石を積んでいる。
ところがその石の塔を地獄の鬼がこわしてしまう。
そのとき子供たちを守るのが地蔵菩薩であるという地蔵信仰は、町角や野道の石地蔵さんとなった。

お地蔵さんが涎掛けをかけたり、赤ん坊の帽子をかぶせられたりしているのも、足元に石が積んであるのもそのためである。
子供を失った親たちは、賽の河原にいる我が子を思って、お地蔵さんの前を通るたびに石を積んだ。

ここが賽の河原だという場所は京都のなかにもたくさんある。
西院の高山寺にある地蔵とその足元に並ぶ百数体の石仏とを、徳川時代に西院磧の地蔵といった。
しかし、もともとは佐比の河原、いまの吉祥院界隈をいったようである。

平安京の昔、その右京第二の縦大路を道祖大路とも佐比大路ともいった。
この佐比大路が一路南延して桂川を渡るところに佐比の河原があった。
これが”賽の河原”のはじめだといわれる。
ここは佐比大橋が架せられ、佐比寺があって地名も佐比の里とよばれていた。
三代実録にもこの上佐比、下佐比が、”百姓葬送の地”と定められたことがみえており、平安朝ごろの共葬墓地だった。

今は佐比の寺も墓地もあとかたもない。
おそらく桂川の出水で流されてしまったのであろう。

「サイ」という言葉には、「サヤル」「フサガル」の意味があり、したがって賽の河原は、現世と黄泉の国の境によこたわる関門である。
『和名抄』に道祖神を「サヘ」の神とよんでいるが、正しくは「サヒ」であり、のち一般にこれを「サイ」と呼んだ。
道祖神は「サイ」 −境の神であり、村はずれにまつられ、そこが河原であることも多かった。

祖先の人たちは赤子が死ぬと、これはまたすぐこの世によみがえってくるものとして、大人のような葬いをせず、境の神の手にゆだねるという意味で、そうした村はずれに簡単に葬った。

夜鳴石伝説や足跡伝説このような”サイの神のいる場所”から生まれ、サイの神と地蔵とが結びついて賽の河原の民間信仰となった。
そうして、各地に”賽の河原”が誕生した。

賽の河原で鬼たちから子供を守る地蔵菩薩は、空也上人が松屋明神への日参のおり、村里の児童らが上人の袖や杖にすがって喜びたわむれるのを、人が地蔵菩薩が子供をかわいがっていられると見誤ったのがはじまりだという話もある。
しかし、何よりも子を失った親のなげきと願いが、あの世で子供をその衣の袖に包んでくれる守護神の姿を形づくっていったのであろう。

古代はもとより、中世、近世にいたっても、人々は疫病や天災に対して無力だった。
そして、か弱い子供たちの命は、あっけなく失われていった。
そればかりでなく、貧しいために、生まれてきた子供を”間引き”と称して、闇から闇に葬らなければならないことさえあった。
そうした庶民の悲しみのなかに、賽の河原の和讃は深くしみ透り、地蔵信仰がひろまっていったのだった。


Q どうして、「賽の河原」と「お賽銭」と「賽の目」は、同じ「賽」なのですか?

A ようするに「賽」とは何か、という質問です。
  漢字の成り立ちでいうと、「賽」は、「要塞」の「塞」の字と「貝」を組み合わしたものです。
 

 「塞の神」といえば「道祖神」のことであるように、中国では「塞」は道路や境界の要所に土神を祀って守護神とすること、転じてそういった「守り」のことです。これが日本神話になると、伊弉諾尊イザナギノミコトが伊弉冉尊イザナミノミコトを黄泉ヨミの国に訪ね、逃げ戻った時、追いかけてきた黄泉醜女ヨモツシコメをさえぎり止めるために投げた杖から成り出た神) 邪霊の侵入を防ぐ神=さえぎる神=障の神(さえのかみ)と、いうことになります。
 

 貨財関係の字にはすべて「貝」のが含まれているように、貝はながらく通貨的な「財」でしたが、その起源は象徴交換的な、おおざっぱにいえば「呪器」としての機能であり、神との交換=交感関係が先にあったのです。「お賽銭」は、「神様へ捧げるお金」なのではなく、「お金」の方が逆に「人間の間で取り交わされるお賽銭(のなれのはて)」といった訳です。
 

 あわせて「賽」の原義は、「塞の神」(土神)への「奉りもの」の意で、はなっから「お賽銭」であったといえます。史記の封禅書(あの歴史書は百科事典でもあるので、いくつかの事項別の「書」があって、「封禅」とは、封が泰山の山頂に土壇をつくって天を祭ること、禅が泰山の麓の小丘(梁父山)で地をはらい山川を祀ること、ですから、中国古代に天子が行なった祭祀のことで、「封禅書」はそれについて簡単に時代順にまとめたもの)には、「冬、賽して祷祠す」とあり、12月に鬼神をもとめて祭祀をおこなったことが記載されています。これで「賽社」(農事が終わってのち、酒食をそなえて田の神に感謝する祭)、「賽会」(多くの人が集まって、儀仗・雑戯などを整えて、神を迎え祭ること)、「賽神」(神にささげるお礼祭り、報神)、「お賽銭」などの意が推察されます。神仏に銭を参拝してあげる風習は、日本ではこの風習は16世紀半ばごろからのものと考えられ,鶴岡八幡宮に賽銭箱が置かれたのは天文年間だといいます(それ以前は、打撒(ウチマキ)(米を紙に包んであげる)というのがありました)。供物としての意味と個人の罪穢(ザイエ)を祓(ハラ)い清める意味とをもち、銭がけがれを媒介してもっていくのだと解されます。
 

 さて、賽子(さいころ)は、神との関わり合い、神占の道具であったから、当然偶然に支配されるために、あのような正確な立方体の形でした(天地四方をかたどり,1が天,6が地,5が東,2が西,4が南,3が北を表わし,対応する両面の数の和が7になる。)。やがて勝負事につかわれるようになりましたが、本来は神に関わり、神に問い、神に捧げ奉る祭祀のものでした。転じて勝負事、たとえば「賽馬」「サイバラ」などが、ここから来てると知れます。
 

 いちばん難しいのが、「賽の河原」です。某漢和辞典によると、法華経 方便品が出典とあるのだけれど、見つからない(じつは、仏典には出典はないとのことです)。いったい何で「賽」なのか?
 話はよく知られているとおり、子どもが死後行き,苦を受けると信じられた,冥土の三途(サンズ)の川のほとりの河原(賽の河原)。子どもは石を積み塔を作ろうとするが、大鬼がきてこれをこわし、地蔵菩薩が子どもを救う、というもの。日本版・子供版の「シジフォスの岩」です(シジフォスはギリシャ神話中の人物で,ゼウスの怒りにふれ,死後,地獄で大石を山上に押し上げる刑に処せられたが,その大石はいつもあと一息のところでころげ落ちたため,また初めからやり直さねばならなかったという)。どうもこの地蔵菩薩が登場するところがポイントで、「賽の河原」信仰は、衆生の身代わりになって地獄での苦しみを救い、また子供の姿で現れると考えられた地蔵菩薩(特に辻々に建てられた地蔵様)と、在来の道祖神信仰(前述)が習合したものだと考えられます。つまり、「賽の河原」の「賽」は、助けにやってくる地蔵=賽の神(道祖神)から来ているのです。
 「賽日」といえば「やぶいり」のことで、地獄の釜が開く日のことですが(だから地獄の休日)、これだと「賽」が「地獄」を意味するような感じですが(「賽の河原」もそう)、これは逆に「賽の河原」信仰の後にできた考えのようです。


これは此の世の事ならず 死出の山路の裾野なる 西院河原の物語 聞くにつけても哀れなり 二つや三つや四つ五つ 十にも足らぬみどり子が 西院の河原に集りて 父上恋し母恋し 恋し恋しと泣く声は 此の世の声とはこと変り 悲しさ骨身を通すなり かのみどり子の所作として 河原の石を取り集め 此れにて回向の塔を組む 一重組んでは父のため、 二重組んでは母のため 三重組んでは故郷の 兄弟我身と回向して 昼は一人で遊べども 陽も入相のその頃は 地獄の鬼が現れて やれ汝等はなにをする 娑婆に残りし父母は 追善作善の勤めなく ただ明け暮れの嘆きには むごや悲しや不びんやと 親の嘆きは汝等が 苦患受くる種となる 我れを恨むること勿れと 黒がねの棒を差し延べて 積みたる塔を押し崩す 其の時能化の地蔵尊 ゆるぎ出でさせ給ひつつ 汝等命短くて 冥途の旅に来たるなり 娑婆と冥途は程遠し 我れを冥途の父母と 思ふて明け暮れ頼めよと 幼きものをみ衣の 裳のうちにかき入れて 哀れみ給ふぞ有難き 未だ歩まぬみどり子を 錫杖の柄に取り付かせ 忍辱慈悲のみ肌に 抱き抱えてなでさすり  哀れみ給ふぞ有難き 南無延命地蔵大菩薩

 
 
お西さん・お東さん
京都タワーも”お東さんのおろうそく”と、いとも軽やかにいなされるあたりが痛快といえば痛快、心憎いといえば心憎い。

天正八年(1580)大坂石山の本願寺顕如は、織田信長との長い戦いの後、講和条約に基づいて大坂を退き、その後は紀州鷺森、泉州貝塚、大坂天満などを転々と移住していたが、天正十九年、豊臣秀吉の都市建設構想にもとづいて京都六条へと移転することとなった。
このとき秀吉は、現在西本願寺のある六条、七条間を、始めから指定したのではなくて、「下鳥羽〜下淀辺より上の方であれば、どこでもよい」ということで、その結果、本願寺が、現在地を希望したのだという。
その広さは、本圀寺屋敷南北五十六間、東西百二十七間を除く、六条、七条の間、南北二百八十間、東西三百六十間で、この土地からあがる年貢はすべて”寺領”からの上納として、秀吉より朱印状をもって認められていた。

寺領の確定した本願寺は、とりあえず御堂は、大坂天満の本願寺を現在地に移築し、その後、漸次に堂を建て増していった。
そして、大坂天満よりお供して、京都七条の境内に移り住んだもの数多く、なかでも番匠(大工)・絵図師・仏具師など、紀州以来随伴してきたものは家屋敷を給わった。

顕如の死後、その長男教如が後継者となったが、事情あって秀吉はその弟の准如に顕如のあとをつがせた。
そのため教如は、しかたなく北殿に隠退して”裏方”となり不遇の日々を送っていたが、関ケ原の戦いで、東軍が勝利をおさめると、いち早く家康に接近し、東本願寺創設の基礎を築いた。
しかし、東本願寺の寺領が確立したのは、教如の後嗣、宣如の代になってからのことである。

西本願寺の寺領は、初期には本山門前の東側に四町、南側に六町、合計十町ほどあって、これらが、のちに”古町”とか”由緒町”とか呼ばれるにいたった。
これが母体となって、元禄五年(1692)ごろには、西本願寺寺内町は、六十一町をかぞえるほどに発展し、いっぽう東本願寺の寺内町も五十九町に伸び、町屋がびっしりとつまって、拡がっていった。
この東西本願寺の境は新町通りの東裏の溝であったという。

西本願寺領でみると、上は六条魚棚、下は下魚棚北側まで、町並みが拡がって、その六十一町に住む人々は、正徳五年(1715)には、僧侶・俗人を含めて、9993人、家数は、1200軒をかぞえたことが知られている。


 
都落ち
都とは、もちろん京都。
その京都を大集団で”都落ち”した歴々といえば、これはもう平氏一門にきまっている。

 祇園精舎の鐘の声、・・・・・偏に風の前の塵に同じ。

この有名な書き出しに始まる『平家物語』は、古典文学の傑作の一つ。

平氏の全盛時は古代から中世への変革期で、保元・平治の乱を契機として、武士の頭領が歴史の舞台に登場してきたのであるが、平氏こそは主役であった。

寿永二年七月廿五日に平家都を落ちはてぬ − ではじまるこの都落ちに、平氏は後白河法皇の同行を断念せざるをえず、安徳天皇を奉じて都を出発した。
三種の神器もはこびだされた。
しかし、行く末がどうなるかもしれないこの都落ち、その上に今まで”味方”であった人々の”離脱”が重なる。
その悲劇の深さを『平家物語』の作者は執拗に描きつづけるのであった。

ともあれ、血みどろの闘争が繰り返された結果、平氏はついに壇ノ浦の戦いで西海の藻屑と消え去った。

この平家にまつわる伝説は多い。
平家の落武者たちはどこかに生きつづけていたのであり、さまざまな伝説が各地に散在している。
源平争乱にかぎらず、中世の相次ぐ戦乱は、数多の落武者群像を生みだして、山間僻地の村々に永く影を落としつづけるのである。

維新前夜の三条実美以下七卿の”七卿落ち”くらいまでが、正真正銘の”都落ち”。


 
京童の口遊
大徳寺の茶面
建仁寺の学問面
東福寺の伽藍面
妙心寺の算盤面

禅の大寺も、口さがない”京童”の口にかかるとこうなる。
利休いらい茶の湯にゆかりのふかい大徳寺、学問興隆へのファイトを伝統とした建仁寺、奈良の巨刹東大・興福両寺の名をとって広大な敷地を占めた東福寺、寺院経済安定の方策として厳密無比の財政組織を誇った妙心寺・・・といったふうに、それぞれの顔をみごとにつかんでいる。

ところで、この”京童”つまり京都住民の祖先はどこにはじまったものか。
その歴史は”京戸”にはじまるともいわれる。
”京戸”とは、古代律令制下の都城において左京・右京の戸籍に編入された家を指しているが、当時は必ずしも平安京に人間がぎっしりと住んでいたわけではなく、律令政府も”京戸”への編入を積極的に呼びかけていたのであった。
そこには新京の繁栄をはかるという政治的意図が働いていたことはいうまでもない。
やがて、大和からの移住者や諸国の百姓らが京都に集まり、ここに”京戸”住民が成立することとなったのである。

その当時としては、家の代表者である戸主は存在していたが、人間よりも”家”が中心であった。
この家中心の”京戸”が、のちの京都人を生み出す基礎となったという意味では、この”京戸”こそ京都住民の出発点であったといえるだろう。
しかし、そこにはまだ個々の人間としてとらえられるような京都人は育っていなかった。

「上る・下る」で説明したが、四行八門に等分されたものが一人当たりの宅地の標準面積であり、これを戸主(へぬし)といった。
一戸主は東西十丈、南北五丈の面積。
当時この一戸主を細分して住居するものもあり、また数戸主を合して住まいするものもあった。
貴族たちのなかには方一町の地域に邸宅を構えるものもあり、その住居地の規模はまちまちであった。

平安京は王城不易の都、政治都市として出発したことは周知の事実であるが、やがて律令制が解体する十世紀のはじめごろより、実質的には商業にささえられる”町”へと変わっていった。
ここにはじめて、個人として”自立”する”市民”が登場する。
”京童”である。

その”京童”たちが、花々しく歴史の表面におどり出たのは、有名な「二条河原落書」においてであった。
それは次のように始まっている − 。
 
 このごろ都にはやる物、夜討、強盗、・・・。

この落書き、後醍醐天皇の”建武の新政”を風刺して鴨川の二条河原に掲げられたというのだが、ずいぶんと長い。
よくもまあ、これだけ悪態をついたものだが、尻尾の先まで皮肉たっぷりで、さんざん言いたおした挙句が「京童の口ずさみ、十分の一をぞ もらすなり」といとも軽やかに収めるのだから、開いた口がふさがらない。

作者はもちろん不明。
”京童”の口遊とはいうものの、巷間こうした内容のとりざたが流されていたとしても、これだけに文字をもってまとめるのは容易なことではない。
いずれはどこぞの寺の、皮肉屋の坊さんたちであろう。
時宗道場の坊さんかも?

その他に有名なのは、寛政十年(1798)の七月一日、京都方向寺の大仏さんが焼失したときも

 京の京の大仏つんは、天火で焼けてな、三十三間堂が、焼け残った
 アリャ、ドンドンドン、
 コリャ、ドンドンドン・・・

と歌いこなしていた。


 
 
室町

鎌倉も江戸も一つの都市の名。
それにひきかえこの”室町”は京都の中を南北に走る一本の”小路”の名にすぎなかった。
それが歴史の桧舞台に上がったのは、北小路室町の地に、足利義満が幕府を移してからのことである。
人呼んで”花の御所””花亭”。
その名のとおり、この庭には賀茂川の水が引き入れられて一町余におよぶ池を潤し、四季とりどりの花が敷地を埋めた。
その所在地に因んで足利将軍は”室町殿”とも呼ばれた。
室町時代・室町幕府というようになるのは、後世のことである。

”室”とは概して”麹室”をさし、酒造業には不可欠の施設。
酒造業者は中世”酒屋”とよばれ、”土倉”と並んで高利貸しを兼ねた富豪。
室町の名が、この”室”から来ているのかどうかはわからない。
だが室町通が”町尻小路(今の新町通)”などとともに、賑やかで豊かな商店街だったことはたしかだから、故なしとせぬ。

室町筋は、繊維問屋の町。
どんどん変わって行く。
でっちもなくなり、店は「○○株式会社」へと変わり、古風な町並みが、表面だけの”近代化”にあけくれる。
一歩入れば、やっぱり奥行きの深い”うなぎの寝床”。
バッタン床几はお払いばこ、京格子も取り外されて、アルミ枠の冷たい窓に変わる。
二階の虫籠窓も、むさくるしさを隠すようなブリキの看板の背後に姿を消す。
角家の奥庭は、塀を取り払われて、ずんべらぼうの”貸しガレージ”に早変わり。
びっしり並んだ商店街。
車は必須、置き場がない。
趣のある民家の庭が、こうして何代目かに、ガレージに成り果てていく。
主人もこれでホッとしているというのが現実かもしれない。
中庭・奥庭の樹木の手入れもなかなか容易ではない。
道楽で庭弄りを楽しむご隠居さんも減った。
古都の破壊は、こんな方向からも刻一刻とせまりつつある。
このままだと、”室町”は数年のうちにその実体を失ってしまう。
現実にそこに生きる市民にとっては”保存”は苦痛かも知れないが、このあたりの中心区域こそは、古都保存の一つの要でもある。
”保存”と”生活” − この接点をどう切り抜けるべきなのか。


 
糞小路・錦小路

今は昔。
清徳という立派な名の聖がいた。
母親が亡くなったので柩に入れて、たった一人で愛宕山へはこび、四隅に大石を据えて、その上に柩を安置した。
そして、物も食わず、湯水も飲まず、声絶えることもなく千手陀羅尼経を踊して柩をめぐる日々がつづく −。
その間三とせ。

三年目の春、夢ともなく、うつつともなく、ほのかに亡き母の声が聞こえた。
「おまえの踊してくれた陀羅尼経のおかげで、わたしゃ仏になりましたよ」

ああ、よかった、おっかさんは成仏なさったんだと、喜んだ清徳は、その場で柩を焼き、遺骨を取り集めて埋め、石の卒塔婆をたてて京に降りてきた。

西京のあたり、水葱のたくさん生えたところを通りかかったかれは、空きっ腹を思い出し、道すがら手折ってはムシャムシャ食っていると、田の主が姿を見せ、あきれかえってしまった。
「どうして、そんなに食うんですか?」
「腹がへってしまって、たまりません」
「そういうわけでしたら、そうぞそうぞ」
という次第で、さらに三十本ばかり頬張りつづけたが、それにとどまらない。
結局は三町歩ばかりの葱田はまるきりの裸になってしまった。
「あさましいくらい大食いの聖じゃ」
ここまでくれば”驚き”の範囲を出ている。
その上、白米一石をもらって、これも一粒のこさず腹中に収めたのである。

この噂、坊城の右大臣の耳に入った。
「おもしろい。呼んで物を食わせてみようではないか」
そこで清徳を招いたところ、その尻には、餓鬼、畜生、虎、狼、犬、馬、数万の鳥獣がぞろぞろ雲霞の如くにくっついてきた。
これが、右大臣以外の人の目には見えず、ただ聖の姿だけが映るのであった。

邸では十石の米がたかれ、清徳の前に並べられたが、清徳はいっこうにこれを食べようとせず、群集して手を差し出す餓鬼達が、むさぼり喰ってしまった。
餓鬼たちの姿が見えた右大臣は、
「なるほど、只の人物ではないな。仏様の変身であろうかの」
と感嘆することしきりであった。
ほかの凡くらどもには、まことに不思議な一幕に終わったわけである。
ところが、である −。

下京は四条の北、とある小路にやってきた清徳以下のお歴々、例のものを催した。
西京から四条通までの間で、消化しきったというわけか −呵々。
それはともかく、数万の”大軍”がいっせいにお尻を並べての行為だから、あたり一面墨のようにまっくろな黒墨の山々。
人称して”糞小路”。

この話、帝の耳に流れた。
「四条の南(の小路)はなんと言うのか」
「綾小路にござりまする」
「あ、そう。それなら、錦小路と名づけよう。糞小路では余りに汚い」

『宇治拾遺物語』(上本一、清徳聖奇特の事)より


 
 花の都が野になった

人のわざかよ 魔のわざか
さては天日か 月のわざ。

ふたたびあるまい 京焼けの、
花の都が 野になった・・・・・。

時は天明八年(1788)正月の三十一日、鴨川四条大橋の南、団栗橋付近からあがった火の手は、翌二月一日にかけてどんどん焼け拡がり
九万九千の京なれど
八万八千 灰になる
と謡われるくらいの大火事になった。
一日に一応は収まったが、三日、四日とさらに火は飛んだ。
焼け出された人々は河原に野宿、近郊の農家に、縁をたよって身を寄せていた。
 
 はるかに見えるは東寺の塔
 西にのこるは門跡さん(西本願寺)

文字通りの”焼け野原”であった。
京の天明大火、称して”ドングリ焼け”。

この大火、魔のわざでもなく天日、月のわざでもなかった。
冬のさなか、ちょっとしたことがきっかけの”夫婦げんか”の果てに、ひっくり返った火元はパーッともえ上がってたちまちのうちにその家をつつみ、折からの風にあおられて四方八方へと伸びてしまった。
”八万八千”は語呂のつごうだろうが、応仁の乱以来の被害であったことは間違いない。
最終的には余燼のしずまったのは二月六日だったというから、まる一週間、京の町は紅蓮の炎になめまわされたことになる。
あとに残るは焼ぼっくいばかり。

 二十匁したげな栗板も
 いまは大工の世の中じゃ

「京焼け手まり歌」は「焼けたからには是非もなし、みなさん、これから火は大事」と、火災への注意を促しながらも、やはり見るところは見ている。

わが国一千年の都として、政治文化の中枢であった京の都は、人口も多かったうえに、戦乱の巷と化すことも多く、その火災も、応仁の大乱を始め、その規模、回数は、共におどろくべきものがある。
江戸時代以降に限っても、数千件以上焼失した大火は、元和六年、寛文元年、延宝元年、宝永五年、正徳三年、享保十五年、寛保元年、天明八年、安政元年、元治元年など十回以上に及んでいる。

京都に壊滅的打撃を与えたこの天明八年の”ドングリ焼け”をもう少し詳しくみておく。

まだ人々がねやからさめやらぬ暁天の寅の下刻(五時ごろ)洛東の団栗図子から出た火は、折から艮(東北)の風にあおられその南石垣町・宮川町・新町から南へ五条へ焼けぬけた。
もう一つの火波は、団栗図子から風にのって鴨川を飛び越え、下京へ一時に焼け拡がり、それからだんだんと西北へ延びて、千本通から西陣へと火は町をなめつくした。
晩方になって今度は、東西へ焼け上がり、禁裏御所・相国寺、親王、摂家などの公家屋敷を焼きながら、北端の鞍馬口まで火は延びた。
二月一日いっぱいのことである。

この間ちょうど、昼夜十三時間に火は東西およそ十八、九町、南北およそ一里二十三町、町数にして千五、六百町、延長にして四十里余りをなめつくし、その死者数千といわれるくらいであった。

夫婦喧嘩がとんだ結末に終わったものである。


 
うなぎの寝床
一例をとれば、間口が三間に対して、奥行きが二十六間もある家が少なくない。
”京の町屋はうなぎの寝床” − いつしか人びとはそう言うようになった。
”町屋”というのは、市中の民家をさし、”農家”と対置される庶民の民家のことである。

中世末期の京都の都市景観を示すもっとも古い「洛中洛外図屏風」には、当時の京の町家がよく描かれている。
それによると、通りに面して、間口が二間ていどの簡素な平屋で、四軒長屋や五軒長屋になっているものもみえる。
そしてまたこのころからは奥行きが、一部屋か二部屋で、裏はすぐ空き地につながっており、そこには共同井戸や共同便所が設けられ、裏の家とはへだてなく、その空き地も共有であった。

ところが、桃山時代になると、社会経済の発展に伴って、瓦ふきの家もめだちはじめ、白亜の三階蔵などを設けた大きな町家も現れてきた。
そして、全体に家の構造が少し大柄になり、奥行きも深まってきた。
こうして、桃山時代から、江戸時代の寛永ごろまでに、一軒の間口が、二・二〜二・四間ていどから三間平均へと広がっていったのである。
寛永ごろからは”軒役”といって、三間の間口をもって一軒役(役は税のこと)とされ、これが町の仕事をはじめとして、そのほか何事によらず課税の基準にされるようになった。

このように奥行きとは関係なく、家の間口に応じて、町の経費や労役が賦課されるようになると、一般的には、家の間口はつとめて深く、逆に奥行きは深くしたほうが有利だということになる。
そのようなことから、普通一般の家々では、間口を広げず、奥行きをのばすようになったものらしい。
けれども、反対側(つまり裏側)にも家がある以上、奥行きをのばすとはいうもののおのずと限度がある。
下水が近代化されて現在のような形になるまでは裏側の家との境目を流れている場合が多かったから、家の奥行きも自然とそこまでに限定されるようになった。
京に家がびっしりつまった寛永〜元禄ごろをピークとして、”うなぎの寝床”のような京の家も、その後は、現在のような形に固定してきたようである。
こんにち京のまんなかあたりの旧い町屋の奥行きが、ほぼ平均化しているのも、以上のような理由に基づいているらしい。


 
BENGALA
低い屋根の下にひっそりと細長くスペースを占めているむしこ窓。
その下の軒先に、いかにも細やかな風情でありながら、何かしら外部と屋内を峻絶する気配の京格子。
こうした京の町屋の脇役たちも、やはり永い歴史をひそめている。

べんがら格子のべんがらは紅殻と書かれ、顔料の一種。
この紅殻の本名はベンガラで、インドの地名ベンガルからきているという。
ベンガルの古名は榜葛刺であった。
つまり、紅殻格子に塗られたベンガラという顔料は、インド産のものであったらしい。
成分は酸化第二鉄。

これにかなりの量の墨を混ぜて格子の木に塗った。
おりにふれて油ふきをするのが慣わしだったから、渋く黒くくすんだ感じの色合いになる。
京格子と呼ばれるものの特長は縦の桟が細かくつまっているわりに、横の桟が粗く、いっこう目立たないことにある。
これが、縦横同じぐあいになっていたら、うるさくてしょうがないだろう。
また、縦横逆の組み方では、京の町屋のおもむきはガラリと変わってしまって、どうもそぐわない。
やはり、これが一番よい。
格子の中の障子を開いても、外からは内部が見えない。
京格子は窓であり、同時に障害物にもなりきっている。

江戸時代でも、西鶴などがいたころは、まだこのような格子は現れてはおらず、かなりゴッツイ感じがのこっていた。
それ以前、安土・桃山ごろの風俗図にみえる京の格子は、まるで牢獄のそれのように太く、たくましく、目も荒い。
時代の雰囲気そのままであったといえる。
平安時代の町屋には格子など無く、窓は蔀戸であったから、ともかく格子というものの町屋への普及は戦闘の絶えなかった室町時代、それも末期のことであろう。
その格子が、荒くたくましいものから細やかな感じの京格子へと変化していくその道は、京都における中世→近世の歴史の道でもあったといえるだろう。
木材を細やかに料理できる建築技術、道具の発達ということもみすごせない。


 
四条河原
室町時代から江戸時代にかけて、四条河原は日本随一の劇場街であり、芸能の巷であった。
四条河原が芸能の河原として文献にその名を現すのは、『太平記』の貞和五年(1349)が早い例とされている。
それによると、この河原で勧進田楽が興行され、こともあろうにその最中、突如として二百四十数間におよぶ桟敷が崩壊し、大惨事を招いたという。
いま『太平記』の記すところにしたがって、そのときの田楽興行の有様を見ると、この興行は、四条に橋を架けるための資金を募る勧進田楽で、新座、本座の田楽座が競演し、見物には貴賎のの男女が群集した。
武家、神官、僧侶はこぞって桟敷を構え、周囲八十三間、三重四重に組み上げた、とある。
将棋倒しにあった桟敷は、都合二百四十九間というから、その規模の壮大さは、想像を絶する。

室町期を通して、京都の河原ではこのような大規模な芸能の上演が、大衆に喜捨を乞う勧進興行(募金興行)としてしきりと行われた。もともと日本の芸能は神に奉納するものであって、村の氏神の祭礼に演じられ、決して大衆を動員し入場料を徴収するようなものではなかった。
神事に奉仕する芸能の場合、主賓は神であって、大衆は「招かれざる客」として神にお相伴するにすぎなかった。
それが、室町時代の京都では、ようやく勧進という募金活動のアトラクション、つまり、見て楽しむものとして興行化しつつあったのである。
そしてそれはまた、しだいに勧進をも名目化させ、やがて近世を迎えるころには、企業としての劇場が進出し、芸能には一種の商品としての価値が生まれるにいたる。
賀茂の河原は、各時代にわたって、それらの諸芸能にかっこうの場を提供してきた。

では、かつての賀茂川の景観はどのようであったろうか。
下鴨の”剣先”(出町橋)で賀茂川と高野川をあわせた賀茂川の流れは、いく筋にも分かれて、北から南によどみ、あちこちに州をつくり、広い河原をなしていた。
勧進猿楽で知られる糺河原にはじまり、南へ二条、三条、四条、五条、さらに刑場であり古戦場でもあった六条、七条と河原はつづいた。
その川はばも今よりはずっと広く、四条の辺りでいえば、西は京極・富小路におよび、東に宮川筋・鞘町に延びていた。
今日の河原町は文字どおり、河原地であった。
この賀茂川の氾濫は、白河院が「賀茂の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いた平安末の院政時代以来、つねに大きな社会問題となってきた。
賀茂川の畔、南座のやや東方に”めやみ地蔵”という地蔵が四条通に面してあるが、古くは”あめやみ地蔵”といい、川の治水を願う人たちにまつられた地蔵尊であった。

その四条河原に橋が架かったのは、康治元年(1142年)のことだといわれているが、むろん今日のような立派な橋ではなかった。
だから大雨のたびに橋が流れ、大橋が流出すると、いくすじもの流れに板を渡して、臨時の橋にせねばならなかった。
京都の人々は、この仮橋に”浮橋”という詩情あふれる名をつけた。
さきに述べたように、貞和の勧進田楽は、この流出した橋を再び架設するためのものであったのだ。
四条の橋も、五条橋などと同様に、勧進聖たちによって管理されていたのであろう。

賀茂の河原をにぎわした芸能は、時代が下がるにつれて多様になった。
田楽・猿楽につづいて、女曲舞・女房猿楽といった女性の芸能者のグループが、越前あるいは近江などから上京してくる。
かの女たちのなかに、出雲・大社の巫女を名乗る阿国の姿を見出せば、時代ははや、かぶき誕生の前夜にまで来ている。
そのころになると、河原には諸々の雑芸が集まって、一段と歓楽地帯として活況を呈する。
近世初期の風俗画を見ると、そこに遊ぶ老若男女の姿が活写され、辻能、操、浄るり、祭文、放下、蜘蛛舞などの芸能のほか、当たり的や犬猿の競演、珍鳥、奇獣の見世物まで、軒を並べている。
そしてしばしば、そこには南蛮人の姿がとどめられている。
これが絵空事でなければ、四条河原は、まさに国際的な劇場街でもあったのである。


 
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