■■■ 京都故事 |
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京の町 / 家 弐 |
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京の町は碁盤の目。京都の一大特徴である。 京の町の通り名おぼえ唄。 <東西は>
<南北は>
ついでに「洛陽観音めぐり」の順歌を記す。 六角や誓願寺図子・下御霊・革堂過ぎて吉田・黒谷
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京都は、”洛中””洛外”ということばで内と外が見事に区別されていた。
”洛”とは『類聚名義抄』などによると”京” ”都”と同様にミヤコを意味する。
秀吉はその前年の小田原攻めで天下統一を完成し、京都の整備を企画した。
秀吉は寺々の集中や町割りの改正などでは京都を防護する方策は不充分と考え、洛中をすっぽり包みこむ土塁の建設 − 御土居へとむかったのである。
ともあれ、天正十九年の五月には、京の町々は、巨大な土塁にすっぽりとつつみこまれてしまった。 史跡指定の御土居も今日では鷹ケ峰・北野などごく一部にしか残っていない。
京都駅一番ホームは、御土居の上にできている。 |
平安京が作られたころ、京の人々は、その住所、田畑の位置を示すのにどのように記入していたのか。
十世紀にできた『延喜式』によると、平安京の規模は、東西1.508丈(約4.570メートル)、南北1.753丈(約5.310メートル)で、その北方に大内裏がつくられ、その大内裏の南面の中央の門が朱雀門で、そこから真直ぐに羅城門まで広さ二十八丈(約八十五メートル)の大路が通されていた。
ところが、平安末期から鎌倉初期にかけて、平安京の地点表示法であった「条・坊・町・行・門」の呼び方は”面 おもて”や”頬 つら”で代表されるものに変ってきた。
ところが応仁の乱後、京の町並みがどんどん復興し、路と路の間に辻子(図子)とよばれる小路なども増えてくると、大路の名に”面””頬”のように側面だけを指示する語を付加するのでは、発達してきた横町を的確に示すことが難しくなったものらしい。
地形が北に行くほど上がっているので「上る」、又は、御所に向かって「上る」などの諸説あり。 |
「お出かけどすか」
「お出かけどすか」というのは”お愛想”で、「こんにちわ」程度のこと。
似たようなやりとりに、
数多くの”区”に分れた今日の京都でも、いぜんとして、この上・下の地域的概念が、日常の京言葉のなかにいきているところに、京都という町の一面がよくしめされているように思われる。
ご存知のように、平安京は朱雀大路を中心にして、東側は東京(左京)、西側は西京(右京)というふうに左右相称につくられていたから、平安時代初期には”上””下”といった捉え方は、まだ行われていなかったらしい。
平安時代に用いられていた東西京または左右京の区制のしかたは、西京すなわち右京が土地湿潤で、住居に不適当だったところからおとろえ、自然その呼び名ももちいられなくなっていったらしい。
さて、応仁の乱後、北は上立売室町を中心に、南は今の四条新町あたりを中心にして、はっきりと、”上””下”の二つの大集落を形成しながら復興をはじめた。
この上・下京のちがいは、元亀四年(1573)織田信長が兵を率いて入京した際、軍隊による町々からの掠奪を禁止する代償として上京と下京に巨額の献金を命じたことがあるが、下京がこれを献上したのにたいして、上京は不服の意を表明したために信長によってすっかり焼き打ちされたという事実にもよく示されている。 このように、地域が離れている上に、そこに住む人々の性格にも相違があったから、その自治組織である町組も、上・下京、それぞれに分れて、独自の発展をとげてきたのであった。
それでは、この上・下の境はいったいどこであったか。
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コンコンチキチン コンチキチン 念仏踊りの影が濃いといわれるこのお囃しにのって、豪華な胴がけに飾り立てられた山鉾が”エンヤコーラー”と引き進められる。
正しくは祇園御霊会。
ところで、現在のように、京の町々から、山鉾が出されるようになるまでには、ずいぶんさまざまな経過をたどっていて、わからないことも多い。
山鉾の代表格である長刀鉾の由来としては、正暦五年(994)に疫病流行に際して三条の小鍛冶宗近という人が、その除災を祈って大薙刀を鍛え、これを祇園感心院に奉納したという話しも興味深い。 このように、いろいろな起源をもつだしものがいっしょになって、室町時代にはすでに定鉾や、鵲鉾、跳鉾、家々笠鉾、風流之造山など、さまざまの鉾や山が巡行していた。 もともと祇園社には神人と呼ばれる数多くの商人が、京の下京を中心に住居していた。
やがて、応仁の乱前には、○○山や△△鉾と称するものが各町に定まって、総数は三、四○基にも達し、その区域は、東は万里小路(今の柳馬場)から西は猪熊、北は二条から、南は五条(今の松原)にまでおよんでいた。 応仁の乱により約三十年中断。 平和が回復されるとともに祇園祭りも盛んになってきた。
昔はあたりまえのものとして通用していた親町・枝町という言葉も、今ではすっかり歴史上の用語になり果ててしまった。
”親町”という語がいつごろから云われだしたのかよくわかっていない。
しかし、これが町組単位の”親町”のことなのかどうかはよくわからず、むしろ、勧進の親元の意味に解釈すべきかとも思われる。
枝町の他に親町に対する関係から離町・随身町・差配町・支配町などがあった。
これらの”枝町”が”親町”の指揮に従わず、意義を申し立てるような時は、親町同士が結束してその統制を強化し、枝町を威圧していた。
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十八世紀、京都町奉行で与力を務めた男に神沢貞幹というのがいた。
その『翁草』によると
この”下京古町”(下古京ともいう)というのは、貞幹の記すところによれば、室町時代の末ごろ、足利将軍の威勢がおとろえて洛中でのあいつぐ戦乱のため町人ら離散、下京の高倉通より東は一面の河原となり果てて家もなく、五条(現松原)より下は田野・河原であった。
この古町の四至(四方の境)は、
この五十九町は五組(艮組、中組、四条三町組、川西組、巽組)に分割された。
いっぽう『上古京親町之古地由来記』には次ぎのようなことが記されている。
ところで、実際に、江戸末期にいたるまで、古町として認められていた町々は、嘉永七年の編纂である上立売親九町組の『親町要用亀鑑録』によれば、”上京古町”五百四十八町、”下京古町”百二町を数えている(ここでも文禄四年に毀たれた聚楽第趾に開かれた町々も、”古町”に準じてこのなかに算入されている)。
さてこの”古町”に対しては”新しン町”という言葉がある。
秀吉は、天正十九年、御土居建設にともなって、寺町 − 高倉間、堀川以西、押小路以南の地域には半町ごとに南北の道路をつけた。
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てっぺんするむく」 よいさっさ よいさっさ
古い京都の盆踊り、その”よいさっさ歌”である。
昔でも買物といえば、四辻に出かけることも多かったであろうし、それ祭りだ!やれ盗賊だと、事あるごとに人々は四辻に馳せ集って騒いでいたようだ。 ところで、京は町並みが碁盤の目のようになっているだけに、住民と辻との関係はひとしお深いものがあり、町辻での事件の記録は非常に多い。 室町幕府の公文書の写しを集めたもののなかに、永正十一年(1514)室町幕府の徳政に間する下知状がある。
以上のもっとも重要な二つの辻にかぎらず、町の四辻はすべて要所だから、そこには、頑丈な木戸(町の門)が設けられていた。
江戸時代ともなれば、この木戸にまつわるエピソードも激増した。
この木戸を管理し、その開閉にあたり、夜間町内の警戒にあたっていたのが、さきの番子や夜番人といわれる人たちで、”番太郎”という名前もみられる。 京都の盆踊りの「よいさっさ歌」にみえる”くぐり”が木戸の”潜り戸”。
捨て場の近い方の近い方の町に決まることもある。
四辻と木戸。
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京都の床屋さん、いわゆる町会所として、江戸時代を通じて今日にいたるまで、ご町内の行事とは切っても切れぬ縁がある。
今日でも、京都市下京区の綾小路や、仏光寺、松原通など、いわゆる鉾のある町々を散策してみると、四辻に理髪店の多いことに気付く。
今日でも、京都市下京区の綾小路や、仏光寺、松原通など、いわゆる鉾のある町々を散策してみると、四辻に理髪店の多いことに気付く。
このように、町辻に町の会所があり、しかも、その家が床屋さんであるということは昔の町の組織の面影を残すものとして、なつかしい。
町用人=髪結いの主は、町の年寄り・五人組の指揮下にあって、町内の業務にあたっていた。
鉾町との関係で会所になっている場合、祇園祭の前後、町用人の家はごった返した。
明治の一新は、こうした町会所の処置にも手を伸ばし、”所有権のはっきりしない土地、家屋は公のものとする”ことになった。
町代と年寄りのこと 応仁の乱後復興し始めた京の町の人々は、不穏な社会からお互いを守り、協力して生きていくために、それぞれの町に、町組みをつくり、その町組みがいくつか連合して組み町を作り、お互いの町々の連絡を密にしていた。 この町組みの代表が、年寄りや宿老(おとな)と呼ばれる人たちで、組町への連帯的活動の代表としては月行事が選ばれていた。
ところが織田信長が元亀四年に上京を焼き打ちしたように、統制権力者の思うようにならないときは”一町切”といった防犯連座の義務を町組みにになわせ、協力しない町の統率者に対する処分は、特に厳しいものであったから、桃山時代になると、代表者を置かない町もでてきたらしい。
そこで、各町はやがて町代という専門の人を雇用するようになってきた。
町用人・町代 − ともにその語は今ではなくなったが、”会所”と、それをめぐる町内の諸関係は町の行事のたびに表面に浮かびでるのである。 |
千年来の墓所 − 鳥辺野とは、西大谷から東清水寺にいたるあたりをいい、古代から人を葬る場所だった。 昔はこのあたりは京の外れ、棺をかついで文字どおりの野辺の送りにきた人々にとっては、鳥辺野に一歩はいったとたんに、人の命のはかなさ、明日の運命のおぼつかなさが身にしみたことであろう。 珍皇寺がある。(東山松原通西入北側)
珍皇寺には、閻魔像や、小野篁が地獄に通ったという井戸まであり、地獄、極楽の庶民信仰の舞台装置が出来上がっている。 寺の南側には”幽霊子育て飴”を売っているお店がある。(茶舗・一袋¥500−)
やすらい花で有名な今宮神社あたりに、京の西の葬場蓮台野がある。
鳥辺野の烟、あだし野の露とならべられる化野は、嵯峨野の奥、小倉山の麓で、古くは葬送の地だった。 |
地蔵和讃は中世末期に作られ、庶民の間に広まった。
お地蔵さんが涎掛けをかけたり、赤ん坊の帽子をかぶせられたりしているのも、足元に石が積んであるのもそのためである。
ここが賽の河原だという場所は京都のなかにもたくさんある。
平安京の昔、その右京第二の縦大路を道祖大路とも佐比大路ともいった。
今は佐比の寺も墓地もあとかたもない。
「サイ」という言葉には、「サヤル」「フサガル」の意味があり、したがって賽の河原は、現世と黄泉の国の境によこたわる関門である。
祖先の人たちは赤子が死ぬと、これはまたすぐこの世によみがえってくるものとして、大人のような葬いをせず、境の神の手にゆだねるという意味で、そうした村はずれに簡単に葬った。 夜鳴石伝説や足跡伝説このような”サイの神のいる場所”から生まれ、サイの神と地蔵とが結びついて賽の河原の民間信仰となった。
賽の河原で鬼たちから子供を守る地蔵菩薩は、空也上人が松屋明神への日参のおり、村里の児童らが上人の袖や杖にすがって喜びたわむれるのを、人が地蔵菩薩が子供をかわいがっていられると見誤ったのがはじまりだという話もある。
古代はもとより、中世、近世にいたっても、人々は疫病や天災に対して無力だった。
Q どうして、「賽の河原」と「お賽銭」と「賽の目」は、同じ「賽」なのですか? A ようするに「賽」とは何か、という質問です。
「塞の神」といえば「道祖神」のことであるように、中国では「塞」は道路や境界の要所に土神を祀って守護神とすること、転じてそういった「守り」のことです。これが日本神話になると、伊弉諾尊イザナギノミコトが伊弉冉尊イザナミノミコトを黄泉ヨミの国に訪ね、逃げ戻った時、追いかけてきた黄泉醜女ヨモツシコメをさえぎり止めるために投げた杖から成り出た神)
邪霊の侵入を防ぐ神=さえぎる神=障の神(さえのかみ)と、いうことになります。
貨財関係の字にはすべて「貝」のが含まれているように、貝はながらく通貨的な「財」でしたが、その起源は象徴交換的な、おおざっぱにいえば「呪器」としての機能であり、神との交換=交感関係が先にあったのです。「お賽銭」は、「神様へ捧げるお金」なのではなく、「お金」の方が逆に「人間の間で取り交わされるお賽銭(のなれのはて)」といった訳です。
あわせて「賽」の原義は、「塞の神」(土神)への「奉りもの」の意で、はなっから「お賽銭」であったといえます。史記の封禅書(あの歴史書は百科事典でもあるので、いくつかの事項別の「書」があって、「封禅」とは、封が泰山の山頂に土壇をつくって天を祭ること、禅が泰山の麓の小丘(梁父山)で地をはらい山川を祀ること、ですから、中国古代に天子が行なった祭祀のことで、「封禅書」はそれについて簡単に時代順にまとめたもの)には、「冬、賽して祷祠す」とあり、12月に鬼神をもとめて祭祀をおこなったことが記載されています。これで「賽社」(農事が終わってのち、酒食をそなえて田の神に感謝する祭)、「賽会」(多くの人が集まって、儀仗・雑戯などを整えて、神を迎え祭ること)、「賽神」(神にささげるお礼祭り、報神)、「お賽銭」などの意が推察されます。神仏に銭を参拝してあげる風習は、日本ではこの風習は16世紀半ばごろからのものと考えられ,鶴岡八幡宮に賽銭箱が置かれたのは天文年間だといいます(それ以前は、打撒(ウチマキ)(米を紙に包んであげる)というのがありました)。供物としての意味と個人の罪穢(ザイエ)を祓(ハラ)い清める意味とをもち、銭がけがれを媒介してもっていくのだと解されます。
さて、賽子(さいころ)は、神との関わり合い、神占の道具であったから、当然偶然に支配されるために、あのような正確な立方体の形でした(天地四方をかたどり,1が天,6が地,5が東,2が西,4が南,3が北を表わし,対応する両面の数の和が7になる。)。やがて勝負事につかわれるようになりましたが、本来は神に関わり、神に問い、神に捧げ奉る祭祀のものでした。転じて勝負事、たとえば「賽馬」「サイバラ」などが、ここから来てると知れます。
いちばん難しいのが、「賽の河原」です。某漢和辞典によると、法華経
方便品が出典とあるのだけれど、見つからない(じつは、仏典には出典はないとのことです)。いったい何で「賽」なのか?
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京都タワーも”お東さんのおろうそく”と、いとも軽やかにいなされるあたりが痛快といえば痛快、心憎いといえば心憎い。 天正八年(1580)大坂石山の本願寺顕如は、織田信長との長い戦いの後、講和条約に基づいて大坂を退き、その後は紀州鷺森、泉州貝塚、大坂天満などを転々と移住していたが、天正十九年、豊臣秀吉の都市建設構想にもとづいて京都六条へと移転することとなった。
寺領の確定した本願寺は、とりあえず御堂は、大坂天満の本願寺を現在地に移築し、その後、漸次に堂を建て増していった。
顕如の死後、その長男教如が後継者となったが、事情あって秀吉はその弟の准如に顕如のあとをつがせた。
西本願寺の寺領は、初期には本山門前の東側に四町、南側に六町、合計十町ほどあって、これらが、のちに”古町”とか”由緒町”とか呼ばれるにいたった。
西本願寺領でみると、上は六条魚棚、下は下魚棚北側まで、町並みが拡がって、その六十一町に住む人々は、正徳五年(1715)には、僧侶・俗人を含めて、9993人、家数は、1200軒をかぞえたことが知られている。 |
都とは、もちろん京都。 その京都を大集団で”都落ち”した歴々といえば、これはもう平氏一門にきまっている。 祇園精舎の鐘の声、・・・・・偏に風の前の塵に同じ。 この有名な書き出しに始まる『平家物語』は、古典文学の傑作の一つ。 平氏の全盛時は古代から中世への変革期で、保元・平治の乱を契機として、武士の頭領が歴史の舞台に登場してきたのであるが、平氏こそは主役であった。 寿永二年七月廿五日に平家都を落ちはてぬ − ではじまるこの都落ちに、平氏は後白河法皇の同行を断念せざるをえず、安徳天皇を奉じて都を出発した。
ともあれ、血みどろの闘争が繰り返された結果、平氏はついに壇ノ浦の戦いで西海の藻屑と消え去った。 この平家にまつわる伝説は多い。
維新前夜の三条実美以下七卿の”七卿落ち”くらいまでが、正真正銘の”都落ち”。 |
大徳寺の茶面 建仁寺の学問面 東福寺の伽藍面 妙心寺の算盤面 禅の大寺も、口さがない”京童”の口にかかるとこうなる。
ところで、この”京童”つまり京都住民の祖先はどこにはじまったものか。
その当時としては、家の代表者である戸主は存在していたが、人間よりも”家”が中心であった。
「上る・下る」で説明したが、四行八門に等分されたものが一人当たりの宅地の標準面積であり、これを戸主(へぬし)といった。
平安京は王城不易の都、政治都市として出発したことは周知の事実であるが、やがて律令制が解体する十世紀のはじめごろより、実質的には商業にささえられる”町”へと変わっていった。
その”京童”たちが、花々しく歴史の表面におどり出たのは、有名な「二条河原落書」においてであった。
この落書き、後醍醐天皇の”建武の新政”を風刺して鴨川の二条河原に掲げられたというのだが、ずいぶんと長い。
作者はもちろん不明。
その他に有名なのは、寛政十年(1798)の七月一日、京都方向寺の大仏さんが焼失したときも 京の京の大仏つあんは、天火で焼けてなア、三十三間堂が、焼け残ったア、
と歌いこなしていた。 |
鎌倉も江戸も一つの都市の名。
”室”とは概して”麹室”をさし、酒造業には不可欠の施設。
室町筋は、繊維問屋の町。
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今は昔。
三年目の春、夢ともなく、うつつともなく、ほのかに亡き母の声が聞こえた。
ああ、よかった、おっかさんは成仏なさったんだと、喜んだ清徳は、その場で柩を焼き、遺骨を取り集めて埋め、石の卒塔婆をたてて京に降りてきた。 西京のあたり、水葱のたくさん生えたところを通りかかったかれは、空きっ腹を思い出し、道すがら手折ってはムシャムシャ食っていると、田の主が姿を見せ、あきれかえってしまった。
この噂、坊城の右大臣の耳に入った。
邸では十石の米がたかれ、清徳の前に並べられたが、清徳はいっこうにこれを食べようとせず、群集して手を差し出す餓鬼達が、むさぼり喰ってしまった。
下京は四条の北、とある小路にやってきた清徳以下のお歴々、例のものを催した。
この話、帝の耳に流れた。
『宇治拾遺物語』(上本一、清徳聖奇特の事)より |
人のわざかよ 魔のわざか
ふたたびあるまい 京焼けの、
時は天明八年(1788)正月の三十一日、鴨川四条大橋の南、団栗橋付近からあがった火の手は、翌二月一日にかけてどんどん焼け拡がり
文字通りの”焼け野原”であった。
この大火、魔のわざでもなく天日、月のわざでもなかった。
二十匁したげな栗板も
「京焼け手まり歌」は「焼けたからには是非もなし、みなさん、これから火は大事」と、火災への注意を促しながらも、やはり見るところは見ている。 わが国一千年の都として、政治文化の中枢であった京の都は、人口も多かったうえに、戦乱の巷と化すことも多く、その火災も、応仁の大乱を始め、その規模、回数は、共におどろくべきものがある。
京都に壊滅的打撃を与えたこの天明八年の”ドングリ焼け”をもう少し詳しくみておく。 まだ人々がねやからさめやらぬ暁天の寅の下刻(五時ごろ)洛東の団栗図子から出た火は、折から艮(東北)の風にあおられその南石垣町・宮川町・新町から南へ五条へ焼けぬけた。
この間ちょうど、昼夜十三時間に火は東西およそ十八、九町、南北およそ一里二十三町、町数にして千五、六百町、延長にして四十里余りをなめつくし、その死者数千といわれるくらいであった。 夫婦喧嘩がとんだ結末に終わったものである。 |
一例をとれば、間口が三間に対して、奥行きが二十六間もある家が少なくない。 ”京の町屋はうなぎの寝床” − いつしか人びとはそう言うようになった。 ”町屋”というのは、市中の民家をさし、”農家”と対置される庶民の民家のことである。 中世末期の京都の都市景観を示すもっとも古い「洛中洛外図屏風」には、当時の京の町家がよく描かれている。
ところが、桃山時代になると、社会経済の発展に伴って、瓦ふきの家もめだちはじめ、白亜の三階蔵などを設けた大きな町家も現れてきた。
このように奥行きとは関係なく、家の間口に応じて、町の経費や労役が賦課されるようになると、一般的には、家の間口はつとめて深く、逆に奥行きは深くしたほうが有利だということになる。
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低い屋根の下にひっそりと細長くスペースを占めているむしこ窓。 その下の軒先に、いかにも細やかな風情でありながら、何かしら外部と屋内を峻絶する気配の京格子。 こうした京の町屋の脇役たちも、やはり永い歴史をひそめている。 べんがら格子のべんがらは紅殻と書かれ、顔料の一種。
これにかなりの量の墨を混ぜて格子の木に塗った。
江戸時代でも、西鶴などがいたころは、まだこのような格子は現れてはおらず、かなりゴッツイ感じがのこっていた。
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室町時代から江戸時代にかけて、四条河原は日本随一の劇場街であり、芸能の巷であった。 四条河原が芸能の河原として文献にその名を現すのは、『太平記』の貞和五年(1349)が早い例とされている。 それによると、この河原で勧進田楽が興行され、こともあろうにその最中、突如として二百四十数間におよぶ桟敷が崩壊し、大惨事を招いたという。 いま『太平記』の記すところにしたがって、そのときの田楽興行の有様を見ると、この興行は、四条に橋を架けるための資金を募る勧進田楽で、新座、本座の田楽座が競演し、見物には貴賎のの男女が群集した。 武家、神官、僧侶はこぞって桟敷を構え、周囲八十三間、三重四重に組み上げた、とある。 将棋倒しにあった桟敷は、都合二百四十九間というから、その規模の壮大さは、想像を絶する。 室町期を通して、京都の河原ではこのような大規模な芸能の上演が、大衆に喜捨を乞う勧進興行(募金興行)としてしきりと行われた。もともと日本の芸能は神に奉納するものであって、村の氏神の祭礼に演じられ、決して大衆を動員し入場料を徴収するようなものではなかった。
では、かつての賀茂川の景観はどのようであったろうか。
その四条河原に橋が架かったのは、康治元年(1142年)のことだといわれているが、むろん今日のような立派な橋ではなかった。
賀茂の河原をにぎわした芸能は、時代が下がるにつれて多様になった。
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