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■ 京料理

室町時代の終わり頃であろうが、京都のまちでうたわれた唄に「蓮如上人の子守唄」というものがある。
どうしてこの唄が蓮如上人に結び付けられたのかは知らないが、このころ京都の町で売られたものを片っぱしからよみこんだものだ。
その唄のもんくに、次のようなものがある。
「ろっかくちゅうにうるものうるもの、こい・ふな・たい・すずきと、うぐい・かれい・なまずといせごい・・・・・・・」
これは、当時魚棚の多かった六角町で売られていた魚の品目をよみあげたものだが、それをひとつひとつ数えあげてゆくと、するめや干蛸まで入れて約二十種類ばかりのものがそこで売られていたということになる。
次に、これは坊門町で売っていたものだが、鳥類については、山鳥・山しぎ・田しぎ・うずら・くぐい・ひしくい・雁・鴨・あいさ・雀・白小鳥の類があげられている。

これだけあれば、あとは野菜を適当にあしらって、まずまずの御馳走ができないことはない。

山の幸はともかくとして、海から遠い京都の人は、交通不便な徳川以前の時代にはどんなものを食っていたのだろうか。
京都の名物といえば「にしんそば」とか「いもぼう」とかいうけれど、だいたい鰊などという魚は、地方によっては「猫またぎ」といって猫でも食べないような魚なのである。「いもぼう」に使う棒鱈だって、似たり寄ったりの魚だ。
そのような魚しか来なかったから、京都人は、それを珍重して、あのような名物に仕立てたのだろう。
その食べ物の貧弱さが、うわべを飾る「着倒れ」ということになったのかも知れない、などと心配するのが、これまでの考え方であった。
京都人の台所の貧弱さは、なかなか抜けきらないのである。

だが、材料が少ないということと、その内容が貧弱であるということはいささか違うようであった。
あの猫でさえ横目に見て通るという鰊や棒鱈を、ともかく食べられるものに仕立てたのだ。

あのような粗末な材料をここまで洗練させて、他国の人までそれを誘い寄せている京都人の料理、材料がなければないように、ありあわせの物で最高のものを作るというのが、料理人の腕というものであろう。

江戸時代中期、京都の公家文化を一身に兼ねそなえたと称せられる人に予楽院近衛家ヒロがあったが、その人の書いたものに『槐記』という本がある。
茶会などの記録が記されているが、その会席の料理などを抜き出してみると心憎いばかりの振舞であった。
たとえば、享保十一年四月十三日、御会席として
汁    サイ切り焼豆腐、葉付細大根薄ヘギ
煮物  牛蒡の細切、鴨
焼物  小鯛、頭ヲウチ、骨抜キ付炙リ
吸物  コキノコ、海苔
肴    フジノリ、鮎の塩引
茶菓子 焼餅餡入 口取椎茸

あるいは、享保十三年十月二十七日、御会席として
御汁   生鱈、クモワタ
御煮物  大根風呂吹、青苔、山ノ芋カケテ
御焼物  鴨、平茸、柚ノ板焼
御香物  瓜奈良漬、一夜漬大根、楓ノ葉オシキテ
猪口   ウルカ
御吸物  百合根、嫁菜

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■ 湯豆腐 湯葉

日本一といわれる豆腐も、一時不味くなった時があるようだ。
江戸時代中ごろ書かれた『翁草』という書物をみると、
京は買い物の仕立ても粗末になり、豆腐などは古は京が最上なりしが、今日は大坂のとうふ其れ細やかに柔らかにて、京は大いに劣れり。
とある。
政治の中心を江戸にうばわれ、天下の台所も大坂に移ってしまったあとの京都は、まさに”花の田舎”であった。

ものの味はなかなか微妙で一概に論ずることはできない。
なかでも豆腐の味は微妙である。
湯どうふの煮えつまってしまうのも知らず、陶然としている人にはあの淡い美味さはわかるまい。
味は味覚だけではない、目でも食い、香りでも食い、その場の雰囲気でも食うものだ。
京都の豆腐がうまいのは特別ことなった材料をつかうからではない。
田舎の豆腐が江戸時代の末ごろまでほとんど自家用として作られていたのに対し、京都では室町時代から専業の豆腐屋があり、よりうまい豆腐を作るためのたゆまぬ工夫がつづけられた。
室町時代のなかごろ「七十一番職人歌合」には、台の上に豆腐をならべて売る女の姿が描かれている。
そうめん売とつがえた彼女の歌は、
恋すれば 苦しかりけり うちとうふ まめ人の名をいかてとらまし
というもので、「うちどうふまめとよくつづけたり」との理由で勝になっている。
豆腐売でわかるように、すでに室町時代なかごろには一般的な食物であった豆腐は、公家の女房たちによって壁、または白壁とよばれ、ときどきの贈り物にもなっている。
古くは錦豆腐あるいは色紙豆腐とよばれて紅・紫・青などの色豆腐があった。
湯豆腐にしろ、冷やっこにしろあの白さが御馳走である。
中国には菌を応用してチーズ状にしたものをはじめ、さまざまな豆腐があるが、日本にくると白一色の柔らかなもの以外はしだいに淘汰されてしまう。
ただひとつ万福寺の門前にある”黄檗名物豆腐羹”は中国伝来当時の原型をとどめている。
黄檗宗の僧が門前の酢屋平四郎に伝えたものといわれ、普通の豆腐を水をよくきり、薄口醤油を入れた湯で煮あげて竹の皮に包んだものである。

精進料理に欠かせぬ湯葉も豆腐とともに京名物の一つである。
一晩水につけた大豆を臼で挽いて大釜でたき布でこして豆乳をとる。
ここでニガリを入れると豆腐になるが、湯葉はその豆乳をふたたび二重底のナベで熱を加えていく。
表面にできる薄皮を引上げたものが生湯葉である。
日持ちは悪いが京料理には欠かせないもののひとつである。
巻いて揚げた塩味の東寺湯葉はビールのつまみに最高!

湯葉は豆腐の皮とも書かれ、豆腐の姥のなまりだという。
古書に「其いろ黄にして皺あるが、姥の面皮に似たるゆえの名なり」とある。

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■ 普茶料理

 雉焼をよくよく見れば豆腐にて (「犬筑波集」)
禅寺でだされる料理には、長芋で作ったかまぼこや焼肉そっくりの豆腐などがある。
いわゆる精進料理である。
肉食を忌むことはブッキョウノ歴史と共に古いが、禅宗では独自の料理法を工夫してそれを徹底し、黄檗禅では特に「普茶料理」という手のこんだ料理法をあみだした。
禅僧の始めた精進料理は、はやくから俗人の間にもひろまり、日本人の食生活のひとつの基本的なパターンとなった。
明治まで四ツ足を食わなかったというのもそのひとつのあらわれであろう。

禅僧の坊主といえども人の子である。
動物性蛋白質のまったくない食事とは、はなはだ殺生な話であるが、それたけにまた栄養についてはよくよく考えてある。
精進料理の主な材料は野菜、海草であるが、なかでも胡麻、豆腐などの栄養価の高いものがえらばれ、「よくよく見れば豆腐かな」といわれたようにその姿にもさまざまな料理法が工夫された。
なお精進料理にはかならずといっていいほど椎茸ががもちいられている。
椎茸は血圧を下げるといわれ、その味もまた格別である。
俗人の説によれば、椎茸は血圧を下げるだけでなく、色情を押さえてしまうという。
女犯を禁ずるお寺さんにとって椎茸はなかなか意味深長である。
大日本帝国軍隊が発明した征露丸が「その」ためであったといわれるのとよく似た話である。
ちなみに椎茸は日本特産であり、ふるくから中国に輸出されている。
まさか強精剤ならぬ減精剤としてではあるまいが。

室町時代のお伽草子に『精進魚類物語』がある。
魚鳥元年八月一日、米の御料の大番にめされた越後国の住人鮭の大介鰭長の嫡子ハララゴ(魚へんに而)の太郎粒実は遥かの末座にすえられ、美濃国の住人大豆の御料の子息納豆太郎糸重のみがおそば近くに召された。
遺恨に思った粒実は帰国して魚類一同を集めて、精進類をせめた。
いっぽう精進方も軍勢を集め大合戦におよび、魚類は利あらず鍋の城にこもって討死したというものである。
このとき精進方にはせ参じたものに蒟蒻兵衛酸吉、牛蒡左衛門長吉、茗荷小太郎、味噌冬近、蕎麦大隈守、蓮根近江守、芋頭大宮寺、昆布大夫、柚皮庄司などがあり、其勢五千余騎に達したと記している。
こうした物語が一般の読み物として作られたということは、精進ないしは精進料理という言葉がかなり一般化していたことをものがたるものであり、精進方に勝どきをあげていることからもこの物語は僧侶の作と考えてよさそうである。

さて、現在京都に伝えられる精進料理には二つの流れがある。
ひとつは大徳寺に伝えられるもので、より古い姿を残していると考えられる。
大徳寺本坊に入ると玄関のわきに風呂釜をならべたような大きな焚口がならんでいる。
その奥が台所である。
仏事などにぶつかると朱塗の食器がならび、若い坊さんたちの機敏な動きとともになかなかの壮観である。
もちろんもとは禅僧たちによって作られていた精進料理も、専門の料理人があらわれ、いまでは大徳寺門前近くの一久が一手に引き受けている。
いわゆる仕出しであるが、個人の家では食器なども揃わず黄梅院など塔頭にお願いしなければならない。
もちろん一人で行ってすぐにというわけにはいかない、前もって何人分かをお願いしておけば、俗人であるわれわれも賞味することができる。

いまひとつは宇治の黄檗山万福寺に伝えられるもので、これを特に普茶料理とよんでいる。
大徳寺の料理が小芋の炊いたもの、牛蒡や芋茎の胡麻和えなど普通の料理とあまり変らないのに対し、こちらは「よくよく見れば豆腐かな」式のずいぶん手のこんだものが多い。
最初に出される梅干の天ぷらはめずらしいだけでなくなかなか美味しいものである。

殺生や邪淫につづいて飲酒も仏家の禁ずるところである。
しかし飲酒戒には般若湯という大きな抜け道がある。
酒は禁ずるが般若湯といえば許されるのである。
ビールは「あわ般若」らしい。
ウィスキーやブランデーは「洋般若」と呼べばいいのだろうか。

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■ お茶漬 漬物

京の着倒れ、大坂の食い倒れという言葉は、京都人の衣装をたたえる言葉であるとともに、朝粥、お茶漬けを常食とする京都の食生活の貧しさを意味するものであるともいう。
たしかに京都町人の食事はつつましかったようである。
幕末京都に遊んだ石川明徳は京都人の飲食の節約をつぎのようにのべている。
 洛中おおむね朝は宵の飯、茶にて粥をたき香の物ばかり、昼は飯を炊き菜の物と一品拵ひ、夕は又茶漬にて香の物ばかり。
 味噌汁は月に二、三度位。
 右は粥を食すれば米に過半し益あり。
 且つ商人の力業致さずば身のこなしによし。
 又飯を昼炊けば、朝に違い暖なる事故、薪によほどの益あり。
 菜なければ食事の沢山すすまず、併せて食事晩致す時は香の物ばかりにてもうまく食す。
茶粥はついさきごろまで奈良の農村や京都の町屋にみられたことであり、粗食の代名詞のごとくいわれた。
粥そのものが粗食というわけではない。
豪奢をもって知られる大坂の淀屋辰五郎は茶粥を好んだという。
ただし彼の茶粥は、宇治の上等の煎茶、米は摂津米の上等、これに奈良漬を添えたという。
「瓢亭」などは、淀屋向きの朝粥を楽しめるかもしれない。

京の漬物といえばすぐきに千枚漬けが両横綱である。
すぐきは上賀茂だけで作られるものである。
すぐきの蕪は、江戸時代上賀茂神社の神主が賀茂川の河原で見つけた菜を栽培したのがはじまりという。
十月の終わりから十二月にかけて収積された蕪は、皮をむく、というよりは一刀彫のように削って約一日荒漬けをする。
さらに水洗いして本漬にかかるのだが、一般の漬物のように直接石を乗せず、天秤の仕掛けで強い圧力をかける。
一週間ほどたって室に入れてあの独特の酸味をつけるのである。
室を使い始めたのは明治以後で、もとはそのまま酸味のつくのを待ったという。
だからすぐきは春のものであったわけである。

千枚漬けは明治以後のもののようである。
柔らかな京都の蕪を薄くそぎ、昆布とともに漬け込んだ真っ白なかぶらの肌は、昆布のだしでしっとりとねばり、いかにも京都風な上品な漬物である。

京都の漬物が美味い理由の一つに、野菜と冬の寒さにあるといわれる。
京都の悪口を言った滝沢馬琴も、京にて味よきものとして麩、湯葉、芋、水菜、うどんの五つをあげ「その余は江戸人の口にあわず」といっている。

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■ 包丁道

三度の食事 − といっても桃山時代頃までは一般的には一日二食であったが − をよりおいしくしたいというのは人間の本能的な願いであり、古くから材料・調味料などさまざまな工夫がこらされてきた。
奈良時代のことはよくわからないが、都が京都に移りはなやかな王朝生活がくりひろげられるころになると、貴族たちの食事もにぎやかになってくる。

クレオパトラや楊貴妃とならんで日本の美女を代表する小野小町は、美食家としても知られ『玉造小町壮哀書』という書物には数十種類にのぼる彼女のメニューがある。
それによると彼女は、膾は紅鯉のつりずり、鮨は紅鱸のえらでなければ食べず、鮒の包焼、鮎の汁、鯛の煮物、雁の塩漬け、うずらの汁、煎蛤、蟹の大爪などがあげられている。
なかには亀の尾、鶴の頭を銀の皿にもったものなど、ずいぶんいかがわしいものもあるが、熊の掌などいまでも最高級の中華料理にあらわれる貴重な材料がみられ、驚きいるばかりである。

これらがどのように料理されたかよくわからないが、鎌倉時代の絵巻物には大きな俎板を前に長い箸と包丁とをもった料理人の姿が現れる。
この長い箸と刀のような包丁とで鯉などを料理する姿が生間流の包丁式として、いまの京都に伝えられている。
生間流の祖藤原政朝は、貞観年中(859-76年)宮中の儀式を定めるにあたり、饗膳・饗応の式とともに包丁式を定め、頼朝に仕えて生間の名をたまわり子孫相継いで現在にいたるという。

冠婚葬祭などの饗膳はひとつの儀式となり、有職故事化し、室町時代初めになると四条流、大草流などいくつかの流派があらわれる。
狂言「鱸包丁」はその包丁さばきの面白さを十分に演じてくれる。
淀のあたりに住するものが伯父の仕官のの祝いに鯉をたのまれるが、ならず者の甥は「淀一番の大鯉を求め、橋杭に藤蔓をもって結いつけておいたところ、かわうそが半身を喰ってしまいました」ともっともらしい嘘をつく。
伯父は鱸の打身(さしみ)を喰わせようと、その料理法を話して聞かせただけで追いかえしてしまう、という筋書きである。
この狂言の面白さはおたがいにだましあうところにあるが、扇子を包丁にみたてて鱸を料理する包丁式の演技も見せどころのひとつである。

儀式であり、芸である包丁式にはさまざまな演出が工夫された。
四条流においては鯉を切るにも五十五種類のさだめがあった。
たとえば床の間に梅が生けてあるときには「雪の朝の鯉」、庭に面した座敷では滝にかけて「竜門の鯉」など包丁式に行われる場所によって切り方をかえるのが包丁人の心得とされ、ますます見世物となっていった。
各流それぞれ秘伝として伝えられてきた包丁の式法も、戦国争乱の世にはほとんどすたれてしまい、寛永期における王朝文化復興の風潮にのってふたたびクローズアップされてくる、
現在に伝えられるさまざまな包丁関係の伝書の原型もほぼこのころのものである。

茶の湯や能がピラミッド型の家元制度を形成してくる元禄、享保のころになると、包丁道においても京都の四条流wp中心に包丁道の家元組織があらわれてくる。
この家元もお茶やお花と同じように多くの門人をかかえ、免許状も発行されるようになる。
家元のだす免許状は必ずしもその料理の味を保障するものではなかったが、料理屋にとって「包丁道家元御門人」という看板は、かなりの宣伝効果があったにちがいない。


 
■ 筍 松茸

春の筍と秋の松茸は、京都ならのものである。
春になると山崎あたりの筍がどっと京の市場につみあげられる。

筍の記録類にあらわれることのすくないのに対し、松茸は古くからさまざまな書物にあらわれる。

強欲な地頭が谷底に落ちて松茸をとってくるという『今昔物語』の説話は御存知であろう。
わかりきったことであるが、これは東国の話ではない。
というのは、松茸は京都を中心とする西日本のものだからである。
関東にも赤松林は多いが、あの関東ローム層といわれる地質がよい松茸をそだてないのである。
松茸は京都文化圏の産物ともいえそうである。
伊達の殿様は金にものをいわせ、稲荷山の松茸のはえるところを根こそぎ仙台にはこんだというが、京都文化とともにどの程度定着したかは、はなはだ疑問である。

王朝の才女たちも松茸を喜んだであろうが、『源氏物語』などにはみられない。
だいたい王朝の人々は「食ひ物に目とどめ給ふ」は賤しいこととして、たべものを書くことをはばかっている。
双ケ丘に住んだ兼好法師は食物についても一家言もっていた。
『徒然草』二百四十三段のうち一割近い二十三段に食物の話が出てくる。
第百十八段では鯉と雉をこの上なきものと褒め、松茸も貴人の食べ物にふさわしく、「その外は心うき(いやな)事なり」とのべている。
双ケ丘あたりは松茸の名産地でもある。
兼好法師もよほど松茸が好きだったにちがいない。

さて、松茸といってもさまざまである。
四囲の山々でそれぞれ風味や形が異なっていたという。
京都本草学者小野蘭山のあらわした『重修本草綱目啓蒙』という書物に次のように記している。
  深草稲荷山の産は甚だ大にして味優れり。
  蓋厚く白色にして堅し、上品なり。
  嵯峨の産は蓋薄し。此地に四品あり。
  上品を「臥釈迦」といふ。
  茎極めて粗大、地中に蟠居して横斜に突出す。
  色潔白香気多く、味脆く美なり、・・・・・
  西賀茂の産は、嵯峨と同じく柔らかなり。
  松尾の産は色赤を帯びて厚く堅し。
ちかごろでは「地山の松茸」といっても丹波あたりのもののようであるが、明治の初めころまではこのように、まさに「京都」産であったわけである。

太閤秀吉も東山に松茸狩りにでかけた。
このとき、洛中の者どもが先に入ってとりつくしてしまい、詮方なく奉行衆は方々の山から松茸を取り寄せ、一夜のうちに植えさせたという。
いかにもありそうな話である。


 
■ 聖護院大根

京都に都が移された一千余年の昔から、京の野菜の供給をまかなった主な土地は、現在都市化の進んでいる西の一帯であった。
都市化の進展にもかかわらず、いまだに鄙びた風情が随所にみられるのも、この一帯が長い間、近郊農村としての役割を果たしてきたからであろう。
堀川牛蒡、賀茂なす、聖護院かぶら、壬生菜、九条葱などの名称は、京都の周囲に生まれたそれぞれの名産であり、これらの地域も近郊農村としての役目を果たしてきたことが知られる。
また京都の料理は、これら豊富な四季の野菜をいかに生かすかというところから発達したのである。

聖護院でとれ、昔から京都の名産であった聖護院かぶらは、現在千枚漬として有名だが、また聖護院大根も聖護院かぶらに劣らず名産であった。
そして大根の”太煮”というものがあったのである。

『鈴鹿家記』に「応永元年十二月朔日、聖護院村若衆、吉田村若衆雪打、御本所見物、(中略)御本所より御酒特樽に五荷、はぎの花大橋に三荷、くきかます、大根ふと煮、大重箱二荷」と書かれ、雪打のほうびとして大根の太煮が聖護院村と吉田村の若衆に下されているのである。

大根といえば、鳴滝に”鳴滝大根煮”という行事が伝えられている。
その由来はこうである。
了徳寺という真宗の寺があるが、昔ここへ親鸞上人がきたとき、村人が土地の名物の大根を煮てすすめたところ、大変喜ばれて、後世の形見といって庭前の薄の穂をもって「帰命尽坊無碍光如来」という名号を書き残した。
これを薄の名号と唱えて、当寺第一の什宝としている。
それから檀家の百姓衆奉納する大根を油揚とともに煮て、例年十二月の九日、十日の両日法要をつとめることになり、これが中風のまじないになるというので、当日は多数の善男善女がそれをもらいに参詣するようになった。


 
■ 鯖ずし

京都と切り離すことのできない夏の行事に祇園祭がある。
鉾のなかで合奏される華やかだが単調で乾いたコンチキチンの祇園囃子の音が、うだるような京の暑さに一陣の涼風を送り込むのである。

しかし応仁・文明の乱による廃絶にもかかわらず、それを復興し、守り育ててきた京の人は祇園祭に対し強い自負と愛着をもっている。
そして他見の人たちが味わうことができない祇園祭の味、それを京の人たちは”鯖ずし”を通して味わうのである。

鯖ずしは単に祇園祭だけではなく、京では四季を問わず祭りとなればこれをつくる風習が、伝統の味として根強く受け継がれている。

京都の町は、市街を縦に割って流れる鴨川と背に琵琶湖をもつという地の利のために、元来川魚には恵まれ、鮎・ゴリなどは早くから京都の人の口を楽しませたものであった。
特に鴨川で獲れるゴリはつくだ煮にされ、あまりにも小さいために、鷺の眼にもとまらぬということから、そのつくだ煮は”鷺しらず”といって京の名物であった。
「洛中洛外図」には現在三条・四条付近と想定される鴨川で、投網を持った四、五人の魚師が魚を獲る風景が描かれているが、この図などは鴨川での川魚の量の豊富さを示すものであろう。

三方を山に囲まれた京都の町には潮の香がない。
室町時代の後期から戦国時代のころ、京都を中心とする地域では”淀の魚市”が早くから発達し、京や奈良の需要を満たしていたが、京都に入る魚の主なルートは若狭地方からと瀬戸内海地方からであった。
それは京都に都が移された平安時代のころからこのルートは変動していないであろう。
京の人はこの二つのルートを通してのみ潮の香に触れることができたのである。

若狭地方から京都へは、近世にはさかんに材木が切り出されていた朽木に出、そこから大原口に出る。
大原口は”京都七口”の一つ、若狭方面から京都への入り口である。
その大原口から八背に出て京都に入るというルートである。
この街道は”若狭街道”と名づけられているが、いつのころからか”魚街道”と人々の口に語られるようになった。

昔はこの道を通って若狭湾で獲れた魚を京の町に運んできたものだが”魚街道”と名づけられたところに、若狭から運ばれてくる魚の豊富さが連想されるのである。

輸送力の発達した今日では、若狭から京までわずかに三時間ほどであるが、足に頼らねばならなかった当時においては、まる一昼夜を要した。
茶屋も発達し、街道の通行人にとろろかけの麦飯を売った”平八茶屋”などは多くの客で賑わったものだ。

一方、瀬戸内海からの魚も多く京に入ってきた。
現在大阪と京都の中間に位置する高槻近くの天王山あたりに、俗称”はもきり山”という名が残されているが、これは西国で獲れた鱧が、京都に運ばれる途中この山あたりで背骨をこまかく切られ、その後京都に運ばれたからその名がつけられたという。
現在京名物の一つにハモの蒲焼があるが、比較的高価なものである。
しかし「鱧も一期、蝦も一期」(人間には貴賎賢愚の別はあるが、その一生はほとんど変らないの比喩)という諺もあるように、元来鱧はそれほど高価なものではなく、逆に関東では見向きもされない。
肥料同然の低価な魚の代表だったのである。

ところで淀は宇治・桂・木津の三川の合流点に近く、西国から京へ送られる物資の陸揚げ地という要地であった。
魚市もまたこの地の利に恵まれた淀に発生し、西国から京に送られる魚の集散地として栄えたのである。

このように京都には、日本海側の魚と太平洋側の魚とが入っていたわけであるが、若狭から入る鯖は保存のために浜塩にして京都へ運んできた。
すると一昼夜でその塩が適当にまわり、いい味がつく。
この塩鯖で作ったのが京の”鯖ずし”なのである。

しかしこれは主客顛倒であって、元来”すし”とは新井白石も「スとは醋也。シは助詞也。魚を蔵すると飯と塩を以てし、其味の酸をまぜしものなれば、かく名づけしなり」といっているように、魚の保存のために考案された一貯蔵法だったのである。
それが今日のような飯を抱いたすしに変化するのが室町時代の後期と思われる。
しかし魚の貯蔵を本来の目的とした”すし”から奢侈な料理としての”すし”に移り行く過程はその成立当初からあったことが知られるのである。

京都では盆の十五日前に、蓮の葉でもち米の飯を包み、鯖をその上にのせて親戚間で贈答する風習が残っているが、盆に鯖の背を切り開いて塩漬けにした刺鯖を食べる風習については、井原西鶴の『日本永代蔵』などにも書かれている。
そして、今も子から親に贈る風習の残っている所が多く、盆に両親のある者は一刺、片親のところは一匹贈るというところもある。
また近世初期に松江重頼によって編集された貞門俳諧の方式の書である『毛吹草』には「俳諧四季之詞」の六月の頁に祇園会と共に”鯖釣”が記されている。

とすれば鯖は夏の食料として、特に京では塩鯖が珍重されたのであった。
こんなところにも”鯖ずし”と祇園祭とが結びついたのかもしれない。

もちろん京に住むすべての人が鯖ずしを作って祇園祭を迎え祝ったのではない。
贅沢な料理であるから、内乱にもかかわらず祇園祭を復興させた財力のある町衆という一部の特権的な人たちの箸にしか触れなかったのである。
だが、なんといっても鯖ずしのその混合された繊細な味は京の人に好まれた。

塩のまわった鯖を酢につけ、それを棒状に延ばした飯の上にのせ、さらにその上に薄い昆布をのせる。
こうすると鯖が乾かず、飯に昆布の味が浸み込み、塩鯖の味と混合した微妙な味を楽しんだのである。
しかも鯖ずしは”押しずし”の一種なので長もちがし、夏でも二日はもつという。


 
■ みたらし 長五郎餅

洛中洛外図屏風をはじめ、室町時代から桃山にかけての風俗がをみると祇園、東寺などの大きな寺社の門前に必ずといっていいほど”一服一銭”が描かれている。
にない棒で茶道具や餅菓子などをはこぶいわば移動式の喫茶店は、やがて門前に小屋がけをする茶店となっていく。
北野神社の長五郎餅、今宮神社のあぶりもち、上賀茂神社のやきもちなど、京都にはそうした門前茶店の菓子が多い。
伊勢の赤福、芝居の「め組の喧嘩」で有名な芝明神の太々餅も同じものであるが、京都のように多くはない。

上賀茂神社の門前には床机を出した古い茶店がある。
ばん茶とやきもちで静かな京都を味わうことができる。
やきもちは普通の餅で餡をつつみ両面を鉄板で焼いたもので、いわゆる大福餅と同じものではあるが、その皮が薄く、ひなびたものとはいえ京都らしい優しさがある。

下鴨神社にはみたらし団子がある。
下鴨には土用の丑の日に御手洗祭が行われる。
土用の丑の日に水に浸るという風習は全国的な風習であるが、これは古代における禊に由来するもので、王朝時代には公家、殿上人が鴨川で行っていたようである。
御手洗祭は下鴨神社の摂社である出雲井於上社で、社殿の下に井泉があってその水が糺すの池にそそいでいた。
いまは干上がっているので祭りの日だけ水をいれ、参詣人はこの池に足をひたす。

さて、みたらしは、糺の池に湧きだす水玉を形どったもので、竹串に小さな団子を五つさし、十本を一束とし熊笹で扇形につつんだという。
一番先の団子はやや大きく、二番目以下との間が少しあいている。
頭と四肢をあらわしたもので厄除けの「人形」の意味をもたらしているのである。
昔はこれを神前にそなえ、祈祷を受けたのち家に持ち帰って醤油をつけ火にあぶってたべたという。
いまでは三本一組にして甘いたれをつけて売っている。

今宮神社のあぶりもちも厄除けから生まれたものである。
むかし一条天皇のころ、京都に悪疫が流行したとき、天皇が夢のお告げによって紫野の疫神の祠を再興したことに由来するといわれる。
ごく小さくちぎった餅を竹串の先にさし、十五本ほどずつ束ねて炭火に直にあてて焼き、京都特有の甘い白味噌をつけ盆にのせてすすめる。
黒くこげたものや、灰ついたものなどひなびた美しさがある。
上御霊の唐板も疫病除けの菓子である。
貞観五年(863年)清和天皇が神泉苑で御霊会を行ったとき煎餅を作って除疫を祈ったのにはじまるという。
普通の煎餅と同じように小麦粉と砂糖を材料とするものであるが、淡白ないかにも京都の味わいがある。

京都には怨霊が多い。
上下の御霊神社はいわずもがな、
今宮もそうであり、北野も九州で藤原氏を恨んで死んだ道真の怨霊を慰めるものであり、祇園祭も夏の伝染病をもたらす疫神をまつるものである。
今宮のあぶりもちや上御霊の唐板などはもともとそうした怨霊へのそなえものであったとみてもよい。
祇園祭の稚児社参の日、鳥居前の二軒茶屋中村楼から神前に稚児餅がささげられる。
田楽差しの餅に白味噌をぬって焼き、五本ずつ束ねて十本を竹の皮に包むものである。
そのものは菓子というより普通の餅といったものであるが、味噌味の求肥を串にさしたちご餅が京都の名物になっている。

北野神社にも古くはお供えの餅などもあったと思われるが。今に伝えられる粟餅・長五郎餅とも直接神社とは関係をもたないようである。
粟餅は二百年ほど前、嵯峨の人惣兵衛が米の代わりに粟で餅をこしらえ、北野の亀の松の下で売り出したという。
また天正のころ(1573−91年)境内の梅がほころびる時候になると餅を売る老人があらわれた。
その風変わりさが評判になってしらべてみると河内屋長五郎という風流の道にも精しい人であったという。
北野大茶湯にも用いられたといわれ、白い餅にえんどうの白餡というなかなか上品な菓子である。


 
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■ 「柳の酒こそ すぐれたれ」 -京の酒-

 
 
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