■■■京都故事 -京の味 |
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■ 京料理
室町時代の終わり頃であろうが、京都のまちでうたわれた唄に「蓮如上人の子守唄」というものがある。
これだけあれば、あとは野菜を適当にあしらって、まずまずの御馳走ができないことはない。 山の幸はともかくとして、海から遠い京都の人は、交通不便な徳川以前の時代にはどんなものを食っていたのだろうか。
だが、材料が少ないということと、その内容が貧弱であるということはいささか違うようであった。
あのような粗末な材料をここまで洗練させて、他国の人までそれを誘い寄せている京都人の料理、材料がなければないように、ありあわせの物で最高のものを作るというのが、料理人の腕というものであろう。 江戸時代中期、京都の公家文化を一身に兼ねそなえたと称せられる人に予楽院近衛家ヒロがあったが、その人の書いたものに『槐記』という本がある。
あるいは、享保十三年十月二十七日、御会席として
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■ 湯豆腐 湯葉
日本一といわれる豆腐も、一時不味くなった時があるようだ。
ものの味はなかなか微妙で一概に論ずることはできない。
精進料理に欠かせぬ湯葉も豆腐とともに京名物の一つである。
湯葉は豆腐の皮とも書かれ、豆腐の姥のなまりだという。
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■ 普茶料理
雉焼をよくよく見れば豆腐にて (「犬筑波集」)
禅僧の坊主といえども人の子である。
室町時代のお伽草子に『精進魚類物語』がある。
さて、現在京都に伝えられる精進料理には二つの流れがある。
いまひとつは宇治の黄檗山万福寺に伝えられるもので、これを特に普茶料理とよんでいる。
殺生や邪淫につづいて飲酒も仏家の禁ずるところである。
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■ お茶漬 漬物
京の着倒れ、大坂の食い倒れという言葉は、京都人の衣装をたたえる言葉であるとともに、朝粥、お茶漬けを常食とする京都の食生活の貧しさを意味するものであるともいう。
京の漬物といえばすぐきに千枚漬けが両横綱である。
千枚漬けは明治以後のもののようである。
京都の漬物が美味い理由の一つに、野菜と冬の寒さにあるといわれる。
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■ 包丁道
三度の食事 − といっても桃山時代頃までは一般的には一日二食であったが − をよりおいしくしたいというのは人間の本能的な願いであり、古くから材料・調味料などさまざまな工夫がこらされてきた。
クレオパトラや楊貴妃とならんで日本の美女を代表する小野小町は、美食家としても知られ『玉造小町壮哀書』という書物には数十種類にのぼる彼女のメニューがある。
これらがどのように料理されたかよくわからないが、鎌倉時代の絵巻物には大きな俎板を前に長い箸と包丁とをもった料理人の姿が現れる。
冠婚葬祭などの饗膳はひとつの儀式となり、有職故事化し、室町時代初めになると四条流、大草流などいくつかの流派があらわれる。
儀式であり、芸である包丁式にはさまざまな演出が工夫された。
茶の湯や能がピラミッド型の家元制度を形成してくる元禄、享保のころになると、包丁道においても京都の四条流wp中心に包丁道の家元組織があらわれてくる。
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■ 筍 松茸
春の筍と秋の松茸は、京都ならのものである。
筍の記録類にあらわれることのすくないのに対し、松茸は古くからさまざまな書物にあらわれる。 強欲な地頭が谷底に落ちて松茸をとってくるという『今昔物語』の説話は御存知であろう。
王朝の才女たちも松茸を喜んだであろうが、『源氏物語』などにはみられない。
さて、松茸といってもさまざまである。
太閤秀吉も東山に松茸狩りにでかけた。
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■ 聖護院大根
京都に都が移された一千余年の昔から、京の野菜の供給をまかなった主な土地は、現在都市化の進んでいる西の一帯であった。
聖護院でとれ、昔から京都の名産であった聖護院かぶらは、現在千枚漬として有名だが、また聖護院大根も聖護院かぶらに劣らず名産であった。
『鈴鹿家記』に「応永元年十二月朔日、聖護院村若衆、吉田村若衆雪打、御本所見物、(中略)御本所より御酒特樽に五荷、はぎの花大橋に三荷、くきかます、大根ふと煮、大重箱二荷」と書かれ、雪打のほうびとして大根の太煮が聖護院村と吉田村の若衆に下されているのである。 大根といえば、鳴滝に”鳴滝大根煮”という行事が伝えられている。
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■ 鯖ずし
京都と切り離すことのできない夏の行事に祇園祭がある。
しかし応仁・文明の乱による廃絶にもかかわらず、それを復興し、守り育ててきた京の人は祇園祭に対し強い自負と愛着をもっている。
鯖ずしは単に祇園祭だけではなく、京では四季を問わず祭りとなればこれをつくる風習が、伝統の味として根強く受け継がれている。 京都の町は、市街を縦に割って流れる鴨川と背に琵琶湖をもつという地の利のために、元来川魚には恵まれ、鮎・ゴリなどは早くから京都の人の口を楽しませたものであった。
三方を山に囲まれた京都の町には潮の香がない。
若狭地方から京都へは、近世にはさかんに材木が切り出されていた朽木に出、そこから大原口に出る。
昔はこの道を通って若狭湾で獲れた魚を京の町に運んできたものだが”魚街道”と名づけられたところに、若狭から運ばれてくる魚の豊富さが連想されるのである。 輸送力の発達した今日では、若狭から京までわずかに三時間ほどであるが、足に頼らねばならなかった当時においては、まる一昼夜を要した。
一方、瀬戸内海からの魚も多く京に入ってきた。
ところで淀は宇治・桂・木津の三川の合流点に近く、西国から京へ送られる物資の陸揚げ地という要地であった。
このように京都には、日本海側の魚と太平洋側の魚とが入っていたわけであるが、若狭から入る鯖は保存のために浜塩にして京都へ運んできた。
しかしこれは主客顛倒であって、元来”すし”とは新井白石も「スとは醋也。シは助詞也。魚を蔵すると飯と塩を以てし、其味の酸をまぜしものなれば、かく名づけしなり」といっているように、魚の保存のために考案された一貯蔵法だったのである。
京都では盆の十五日前に、蓮の葉でもち米の飯を包み、鯖をその上にのせて親戚間で贈答する風習が残っているが、盆に鯖の背を切り開いて塩漬けにした刺鯖を食べる風習については、井原西鶴の『日本永代蔵』などにも書かれている。
とすれば鯖は夏の食料として、特に京では塩鯖が珍重されたのであった。
もちろん京に住むすべての人が鯖ずしを作って祇園祭を迎え祝ったのではない。
塩のまわった鯖を酢につけ、それを棒状に延ばした飯の上にのせ、さらにその上に薄い昆布をのせる。
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■ みたらし 長五郎餅
洛中洛外図屏風をはじめ、室町時代から桃山にかけての風俗がをみると祇園、東寺などの大きな寺社の門前に必ずといっていいほど”一服一銭”が描かれている。
上賀茂神社の門前には床机を出した古い茶店がある。
下鴨神社にはみたらし団子がある。
さて、みたらしは、糺の池に湧きだす水玉を形どったもので、竹串に小さな団子を五つさし、十本を一束とし熊笹で扇形につつんだという。
今宮神社のあぶりもちも厄除けから生まれたものである。
京都には怨霊が多い。
北野神社にも古くはお供えの餅などもあったと思われるが。今に伝えられる粟餅・長五郎餅とも直接神社とは関係をもたないようである。
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■ くずきり みなづき |
■ 八ツ橋 五色豆 |
■ 茶の菓子 味噌松風 |
■ 道喜の粽 |
■ 「柳の酒こそ すぐれたれ」 -京の酒- |
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