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野口整体と禅

野口整体 気・自然健康保持会

主宰 金井省蒼

     

6、日本の伝統文化と身体行

教材・総編集『自我と自己』V2の1より

  

 日本人は、明治以来の西欧化と戦後のアメリカ化により、「西洋的自我」の発達、ある程度の形成は、ある程度の発達はあれど、「西洋的自我」の確立には遠く及ばないというのが、「日本的自我」の実情です。もとより日本人の自我・意識は、自己という無意識と分離されていない意識でした。これは西洋の文化と日本の身体文化や言語の大きな相違による特徴です。

 


  

 身体文化については、敗戦まで生活の中に根付いていた「腰肚文化」というものです。これが日本人の日常生活における伝統であったのは、仏教(禅)による影響なのですが、「身体を心より上位におく」ことを基本とする態度は、「心が身体を支配するのでなく、逆に身体のあり方が心のあり方を支配するという立場に立つ」(湯浅泰雄 『身体論』)とする道元の「身心学道」(註)に極まっています。

   

(註)

道元(どうげん(1200〜1253)

鎌倉前期の禅僧。日本曹洞宗の開祖。
著「正法眼蔵
(しょうぼうげんぞう)」「普勧坐禅儀」など。

      

◎「身心学道」について

湯浅泰雄 『身体論』(講談社学術文庫 1990年)より

『正法眼蔵』に「身心学道」という巻があるが、玉城氏はこの巻の趣旨について次のような解釈を下されている。

「身心学道」は、学道の基本的態度を身心の二方面から論じたものである。普通にいえば、身体より精神の方がより根底的であり、重要であるように考えられているが、道元ではむしろ逆で、その名称も「身心学道」として、身を心よりも初めに呼称しており、またこの巻の論述も、まず心を論じ、その後に身を述べていて、心よりもむしろ身の重要なることを示している。

 玉城氏の意見によれば、心(精神)を身体より上位におく日常ふつうの考え方を逆転して、身体を心より上位において重視する態度が仏道修行の基本的姿勢であるという。この見方は、道元の思想のみならず、一般に仏教における修行の意味を正しくとらえたものと思われる。…

 


  

 修行者に対してはまず、要求されるのは、自己の身体を一定の「形(かたち)」に入れていくという態度でした。

 湯浅泰雄氏は『身体論』の中で、道元の『正法眼蔵』(しょうぼうげんぞう)に触れ、典座(てんざ、禅寺で食事などのことを司る役僧)の禅修行の重要性について、次のように述べています。

  

湯浅泰雄 『身体論』(講談社学術文庫 1990年)より

…道元はこの典座(てんざ)の生き方の中に禅というもの、したがって仏教というものの基本精神を見たのである。このように自己を「形(かたち)」に入れてゆくということは、規則に定められた「形」に従って身体を訓練し、それによって自己の心のあり方を正していくことを意味する。言い換えれば、心が身体を支配するのでなく、逆に身体のあり方が心のあり方を支配するという立場に立つのが修行の出発点である。

  

 こういった仏教における「禅修行」のあり方が、一般家庭にも及び、行儀作法から寝起き・食事・清掃といった日常的行為にまで、身体を「形」に入れて「心」を養っていたのが日本の「身体文化」でした。

 このような伝統から育まれた身体における高度な「身体感覚」は日本語のなりたちにも影響を与え、日本人の「意識」というと、それは「身体感覚」を無視しては論ずることはできないのです。

 またさらに、高度な「身体感覚」により、他者との無意識的な一体性を可能にしました。
 「身体感覚」のうちでも、ことに皮膚感覚の敏感さは日本人の特徴ですが、それは「場」を感じ取る「気の感覚」となるもので、「」により言語表現以前に相手の考えや感情を読み取る、つまり「察する」能力を日本人のものとしてきました。

  

   

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