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野口整体と禅

野口整体 気・自然健康保持会

主宰 金井省蒼

     

2、禅の本質の中に生きていた日本人 (2)

『月刊MOKU』2007年8月号
身体感覚と自己の成長(身体感覚が自己を成長させる)
その三 日本人の心を取り戻す「坐の生活」
V11(最終バージョン)より

  

 続いて、ヘリゲルはヨーロッパ人と日本人の精神性の違いについて、このように述べています。

  

オイゲン・ヘリゲル 『日本の弓術』(岩波文庫)

ところが、これに反して日本人は、ヨーロッパ人に分る言語を用いて自分の思うことをヨーロッパ人に理解させようとする時には、ともかくまったく違った精神的起源を有しているのだという事実を見落としてしまう。

日本人はヨーロッパ人の物の考え方にまだまだ通じていない。ヨーロッパ人の問題の出し方にも通じていない。それゆえ日本人は、自分の語る事をヨーロッパ人としてはすべて言葉を手がかりに理解するほか道がないのだということに、少しも気がつかない。ところが日本人にとっては、言葉はただ意味に至る道を示すだけで、意味そのものは、いわば行間にひそんでいて、一度ではっきり理解されるようには決して語られもせず考えられもせず、結局はただ経験したことのある人間によって経験されうるだけである。

日本人の論述は、その字面だけから考えるならば、思索に慣れたヨーロッパ人の目には、混乱しているというほどではないにしても幼稚に見える。ところが、われわれヨーロッパ人がそれについて考えを述べると、日本人は逆に、ヨーロッパ人の悟性の鋭さは別に羨(うらや)ましいとは思わずそのまま認めるとしても、ヨーロッパ人の考えには「精神がこもっていない」(退屈だ)というほどではないが直観に欠けている、と考えるにちがいない。

それは欧米の研究家の仏教のみならず禅に関する研究を吟味する時、きわめて広い範囲にわたって認めざるをえないことである。じじつ欧米人にとっては、原文に頼ってこれを翻訳し、注釈を施し、試験ずみの哲学的方法によって処理するほかなすべきことがない。欧米人はこれだけやってしまうと、科学的に検討し尽くされた原文がこれで本当に把握されたと思い込む。しかしそのような妄想に反して、そこにはその上何事もまた何者も現れて来ない。言葉を無上のものとして崇拝するヨーロッパ人の考え方に突き当たると、意思疎通のどんな可能性も破壊されてしまうのである。

言葉に言い表すことのできない、一切の哲学的思弁の以前にある神秘的存在の内容を理解することほど、ヨーロッパ人にとって縁遠いものはない。すべての真の神秘説に関しては経験こそ主要事であり、経験したことを意識的に所有することは二の次であり、解釈し組織することは末の末であるということを、ヨーロッパ人はわきまえていない。神秘説を把握するには自身神秘家になるほかにどんな道もないことをヨーロッパ人は知らないのである。

  

 しかし、ヘリゲルが見た、このような「思弁以前にある神秘」を理解していた日本人は、この頃(大正終わりから昭和の初め)次第に影を潜めつつありました。
 東京などでは軍国主義と生活文化の西洋化が次第に浸透して来ており、彼が見たのは、今から八十年以上前の地方都市での日本人の姿でした。

 その後、敗戦を経て、高度経済成長下の昭和四十年代、急激な生活文化の変化により、今では畳のない家も普通になり、正坐をしたことのない若者も増えています。
 日本人にとって、坐の生活が失われたことは、単に「生活が変った」という以上の意味があり、「宗教心」を失い、信ずるものや、精神的拠り所を失ったと言っても過言ではありません。

 武道、茶道など、日本で「道」のつくものにおいては、必ず行儀や、礼儀作法が重要視され、身に付くように指導されます。
 師・野口晴哉は、整体操法は「生命に対する礼」であるとその心を教示しています。

 「礼」をもって接することで、相手が尊厳ある存在となり自分も相手に「礼」を持って遇される存在になる。
 互いに尊厳ある存在として敬意を払うことで、高めあうことができるということを「礼」は教えています。
 そして、「正坐」の根本には「自身に対する礼」があったのです。
「正坐」は、身体的にある「仏性」を自分と他者のなかに感じることのできる「型
(かた)」なのです。

 私は若い人に、何か一つで良いから、「和の習い事をやるといいね」と、よく言うのですが、身体的、無意識的な和文化の実践によって、我国「固有の美」を識(し)ることができます。
 それは、日本の精神性のルーツを辿ることでもあるのです。それが自分の「根っこ」となり、「日本人としての自分」という主体性を確立することになります。
 伝統文化が自分の中に在るか、否かということの真価は、海外に出た時に発揮されるものです。それは、諸外国の様々な文化に対する「判断基準」を得ることでもあり、互いの文化の違いを大切にする心を育てることにもなるのです。

    

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