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野口整体と禅

野口整体 気・自然健康保持会

主宰 金井省蒼

(2012年2月5日 V2)

 

1、感覚としての隔たり

第一回「公開」講座 教材No.33
野口整体の指導と「自我の再構成」
生活禅・修行 ―― 成長・自己実現
より

    

 日本人にとってのこの数十年の社会の変化、それは敗戦に続く高度経済成長とその爛熟です。そして科学技術がもたらした物質的豊かさの「影」の面から、「精神」を無意識的に求めての「日本でのスピリチュアリズム」が盛んとなっています。

 初出版後、個人指導に通う人の中から、野口整体を学びたいという人が増え、2005年秋より後継者養成のためのプログラムが新しく始まったのですが、野口整体の世界を伝えていく上での難しさを、改めて感じてきた三年間でした。
 野口整体の「気の世界」は決して「軽いスピリチュアリズム」ではなく、今の若い人たちが「体の感覚で理解する」には大きな隔たりがあることを強く感じるようになりました。

 それは、戦後の科学的な「知識偏重教育」で育った、日本の現代若者との溝をどう埋めるかという点と、伝統的な身体文化を教育されないで育った人が、「身体性」による感覚を共有できないという点が当初は大きくあるからです。
 師野口晴哉は「勘を育てることが一番難しい」と言われていました。私がこの道に入った頃の時代でも、「野口整体の指導者として必要な勘」を磨くことは容易ではありませんでしたが、戦後教育の影響により年を経るごとに日本人的な感覚が変わってきたことを痛感しています。

 また戦後という時代には、「道」に示されていた日本人の〈宗教心〉――ここでは修行という意味――というものの喪失があります。そして、この隔たりを埋めるべく、現代の若者(三十代を中心とする)に「訴えることのできる表現」とは何かを深く考えるようになりました。
 私も戦後育ちですが、東京オリンピック
(1964年・昭和39年)までは戦前の日本がかなり残っており、この時代までに高校生活を終えた私は、その後野口先生の教育下で、より古典的な文化を体感することができました。

 「廃用委縮」という言葉がありますが、用いなければその能力が衰退するという意味です。この反対に使っていくことで増えていく、成長していくはたらきが「生命」です。自らをよく使う、「自分としてのはたらき」を活かしていくことで、「全生」するのが師野口晴哉の教えです。感受性を開拓し、生きる領域を広げていく生き方を「自然(じねん)」とするこの「全生」思想は、老荘哲学や「禅」が基盤となっています。

  

野口晴哉 『風声明語2』

我は宇宙の中心なり。

我在り、我は宇宙の中心なり。

我にいのち宿る。

いのちは無始より来りて無終に至る。

我を通じて、無限に拡がり、我を貫いて無窮に繋がる。

いのちは絶対無限なれば、我も亦絶対無限なり。

我動けば宇宙動き、宇宙動けば我亦動く。

我と宇宙は渾一不二(こんいつふに)、一体にして一心なり。

  

  

野口晴哉 『月刊全生』
1964年7月号(整体協会)

「全生訓」                

(野口先生十七歳)

人に自己保存の要求あり、種族保存の要求あり、その要求凝りて、人産れ、育ち、生く。
もとより何の為に自己保存を為すか、種族保存を為すか、知らず、たゞ裡の要求によって行動するのみ…

何の為に産れ、何の為に生き、何の為に死するか人知らず。只裡の要求によって行動するのみ。

人の生きんとするは人にあるに非ず、自然の生、人になり生きる也。

自然、人を通じて生く
生死、命にあり
自然に順
(したが)うこと、之生の自然也

人の生くること、生くる為也
その生を十全に発揮し生くること人の目的也

人の生きる目的、人にあるに非ず。自然にある也、之に順う可し。順う限り、いつも溌剌として快也。
健康への道、工夫によりて在るに非ず。その身の裡の要求に順つて生くるところに在る也。
いつも溌剌と元気に生くるは自然也、人その為に生く。

人の自然、四つ足で歩くことに非ず、野に伏し、生のものを食べることに非ず。
感じ、考え、手足を使うこと也。笑うも、憎むも、喜怒哀楽するも自然也

火を使い、水を使い、雷を使うは人の智慧也、器物を使い、道具を使い、時を使うは人の智慧也。
そのもつ頭を使い、手を使うは自然也。
人その身を傷つけず、衰えしめず、いつも元気に全生すること人の自然也。全生とはもちたる力を一パイに発揮していつも溌剌と生くること也。

 

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