日本人にとっての宗教とは =〔身体〕
体を拠り所にして生きる
金井 太古の昔から、人は生きる上での「心の拠り所」を何らかの宗教に求めてきましたが、日本の文化では、歴史的・伝統的に「教義」に依らず、とりわけ江戸時代の〈気の医学・養生〉に見られる『身(み)』という「心身一如」の感じ方であり、考え方に依拠してきました。これは「禅」にも通ずるものです。
〔身体〕の喪失がもたらした宗教の喪失
金井 野口先生は「生命に対する礼としての整体操法」と言われ、操法の「型」を示されましたが、日本型仏教の影響を強く受けた武道や芸道における「型」と根において同じものです。
湯浅泰雄氏は東京自由大学のコラム「型と礼儀」の中で、
型を習得するということは、身体の技の訓練という意味だけでなく、その技の伝統の中に流れている心を受け継ぐ、という意味がこめられているのではないだろうか。つまり、身体と心の関係を「身体から心へ」という方向でとらえているわけである。西洋近代の哲学のように、常に心(自我意識)を先立てる態度とは反対である。
と述べられていますが、現代における日本人の〔身体〕の喪失は日本人にとっての「宗教」が失われたことに等しいのです。
貝原益軒『養生訓』の思想
金井 野口整体をよく理解する立川昭二氏の『養生訓に学ぶ』を通じ、日本の伝統的な健康論の本流「養生論」を代表する貝原益軒の『養生訓』を取り上げ、江戸時代までの生命観、身体観を紹介したいと思います。立川氏の『養生訓に学ぶ』の中から、野口整体を理解する上でも、現代において必要と思われる点を挙げてみました。
現代では近代(明治)以後の西洋医学に代替する「ホリスティック(全体的)」医学が求められていますが、近代西洋医学を国家が定める唯一の医学とされる以前、日本人はどのような心に生きることで「全生・生をまっとう」しようとしたのかをよく知ることができます。
この文章の中で使用した資料は主に立川昭二氏の『養生訓に学ぶ』(PHP新書 2001年)によるものです。
貝原益軒(1630年〜1714年)
江戸時代の本草学者、儒学者。福岡藩士。
日本科学史に名をとどめる博物学の大著『大和本草』の著者でもある。
1713年(正徳三年)世に出た『養生訓』は、おそらく江戸時代に出版された数ある本の中でロングセラー第一位の書物で、民衆が読める平易で情趣に富んだ和文(かなまじり文)で書かれている。幼少のころから読書家で、非常に博識であった。ただし書物だけにとらわれず自分の足で歩き、目で見、手で触り、あるいは口にすることで確かめるという実証主義的な面を持つ。また世に益することを旨とした。(金井 野口先生もこのようでした。)
益軒は貧窮のなかで育ち、母を六歳で失い、若い頃は定職につけなかったという苦労をなめた。生まれつき虚弱で生涯病気に苦しんだが、絶えず健康に留意し、克己修養のおかげで八十五歳という長寿を得た。『養生訓』は益軒が八十四歳(死の前年)の時に書かれた著作で、晩年になって幸福を得た人間の人生観、つまり人生の価値を後半に置く生き方がその根底に流れている。
「養生の道に志あるもの、つねに心に主(あるじ)たるものあるべし」と、「道」としての養生を説いた。
養生とは、生きるを養うこと
金井 1713年、貝原益軒(儒学者・本草学者)によって世に出された『養生訓』は江戸期におけるベストセラーとなった養生書です。立川昭二氏は、『養生訓』に流れる思想として、
1 いのちへの畏敬
2 楽しみの人生
3 気の思想
4 自然治癒力への信頼
の四つを挙げていますが、これは野口整体とも相通ずるものであり、日本古来の「気」の思想を知ることで、野口整体の理解を深めることができます。
立川氏は江戸時代の「養生」について次のように述べています。
立川昭二 『養生訓に学ぶ』(PHP新書 2001年)
「はじめに いま、なぜ『養生訓』か」
「文化」としての養生
(13頁)日本を知ることは江戸を知ることであるといわれるが、その江戸を生きていた人たち、たとえば武士にしても町人にしても知識人にしても長屋の住人にしても、あらゆる階層の江戸時代の人々が日ごろ口癖のように言っていたことばに、「養生」ということばがあった。
養生というと、今日ではおもに病後の手当て、あるいは保養や摂生(せっせい)(飲食などを慎み、健康に注意すること)のこと、ときには建築物などを保護する意味で使われているが、江戸の人たちにとって養生とはたんなる病後の手当てや病気予防の健康法ではなく、じつはもっと広く深い意味をもっていた。それは現代流行の健康法という狭い意味ではなく、人の生き方に関わる事柄であり、どう生きるのか、何のために生きるのか、という人生指針であった。その意味で、養生という理念は江戸を生きていた人々が共有していた一つの「文化」でもあった。
養生とはしたがって、自分や家族の個人的な健康願望に応えるものであったが、さらに江戸という社会・文化に根ざした価値観・死生観に立脚して、「いかに生きるか」を説いたものであった。生き方の哲理に裏打ちされた健康の思想と実践、これが養生ということであった。
金井 養生も「道」であり、日本的宗教行のひとつだったのです。養生とは、自らの死生観を立てつつ、「いかに生きるか」を学ぶことです。「全生・天心」という死生観に立脚した野口整体は、生き方を教えるという「養生・宗教」なのです。
科学である西洋医学では「病症」は肉体的にのみ捉えられ、「心」や「生き方」と〔身体〕、という関係の中では理解されてきませんでした。
生活しているという全体の中で、「病症」を考える医学を「ホリスティック医学」と言いますが、このような「ホリスティック」な考え方がされる以前は「生活している人間」を考える医学はありませんでした。
しかし日本の江戸時代には、古来よりの東洋宗教(神道、儒教、老荘思想、仏教)から醸成された「養生の道」というものがあり、「生きる」ということと「健康」をしっかりとつなげていました。ここには、近代文明の所産「科学」である西洋医学が人間の身体から切り離した「心」、また「魂」とも言えるものとの一体感があります。
◎ 野口先生の死生観
生くるものはいつかは死ぬ也。それ故生きている也。
されどいつか死ぬに非ずして刻々死している也。
笑っていても泣いていても、死につつある也。
その死につつあるを生きていると申している也。
十日生きたる人は十日死んだる也。
刻々に生きている人あり、死んでいる人あり。
利害得失に追い廻され汲々としている如きは、
生きているのは利害得失にして、人は刻々死んでいる也。
知識に追われ、毀誉褒貶の為、他人の顔色に使われている如きも又同じ也。
この刻々に死につつある人世に生くること、全生の道也。
溌剌と生きた者にのみ深い眠りがある。
生ききった者にだけ安らかな死がある。