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野口整体の源流は日本の身体文化 V1

1、『養生訓』の世界 

江戸時代の「気」の医学と、
「身」に触れ、「心とからだ」を観る野口整体
 

野口整体 気・自然健康保持会

主宰 金井省蒼

2009年春期 整体指導法講習会 第四回・第五回より

2 『気の〔身体〕論』 (前編)

  

金井 野口整体の「整体指導」では、相手の〔身体〕を気を集めて観察します。この時、その〔身体〕に心や感情を観察することができます。しかし、「気」を集めることができないと、それはよく観ることができません。ですから、「科学」とはなり得ません(客観性・再現性がない)。しかし、科学的に進んだ医学における医療機器MRIにおいては、病理学的な変化はよく観察できるのですが、「こころ」は写りません。
 このことを西洋医学では「肉体」を観、野口整体では〔身体〕を観る、と私は定義しています。

 それは「日本の身体文化」という言葉を通じて、西洋人が捉えている「体 (Body)」とかつて日本人が捉えていた「からだ(身)」、その違いを「肉体」と〔身体〕という言葉で定義したことから始まりました。身体、と書いて、「からだ」と読むのが普通となっていますが、ここでは敢えて「しんたい」と読みます。

 ここで言う『気の〔身体〕論』とは、科学的に高度に発達した西洋医学一辺倒の現状に対して、心と一体としての〔身体〕=気の体、と言うべきものを提唱するものです。これは、野口整体が生まれる前から、日本人は「からだことば」として、自分も他の人も「心身」を一体として捉えてきましたが、「気の体」として受け継がれてきた日本的身体観の流れを汲むものなのです。

 

 

を学ぶことで正しい「受動性」を知る

  

立川昭二 『養生訓』に学ぶ(PHP新書 2001年)
1 いのちへの畏敬

「わが身、私の物にあらず」

(20頁)人の身は父母を本(もと)とし、天地を初(はじめ)とす。天地父母のめぐみをうけて生れ、また養はれたるわが身なれば、わが私の物にあらず。天地のみたまもの、父母の残せる身なれば、つゝしんでよく養ひて、そこなひやぶらず、天年(てんねん)を長くたもつべし。

 私たちのからだは天地父母から生まれ養われたもので、私のからだとはいえ、「私の物」ではない、「天地のみたまもの」である!と益軒は宣言する。
 ここには、人のいのちは「授かりもの」であり、ひろい天地と遠い祖先につながっているものであるという考えがはっきりと述べられている。
(中略)私たち現代人は、子どもは「作るもの」という意識が強いが、伝統的な生殖観では子どもは「授かりもの」であった。最近の生殖技術の進歩は、子どもは「作るもの」からさらに「作れるもの」ということになり、人間の欲望を無限に駆り立てている。

 子どもは「授かりもの」という考えは、自分のいのちも「授かりもの」という考えに通じる。それはまた、自分のいのちは自分を超えて他のいのちとつながり、宇宙全体に広がっている考えでもあり、自分のいのちであっても「私の物にあらず」という思想になる。(中略)
このいのちへの畏敬の念が、じつは『養生訓』の出発点なのである

 

金井 このような意味での「受動性」を生み出す考え方を「連続的生命観」と言います。「作るもの」という能動的に見える考え方は、実は人を狭くしているのです。「自我」の視点から見た科学的な生命観と「自己」の視点から見た宗教的な生命観の違いです。
 野口先生は、「出産」について次のように述べています。

 

自然の出産

  

野口晴哉  個人の理解 II
『月刊全生』 昭和59年3月号
昭和40年5月 整体指導法中等講習会

 近頃は、出産というものを、〈当人の体で産む〉という、女性本来の生理を忘れて、全て技術で産ませるつもりになっている。無理に機械を使って引っぱり出そうとしたり、直ぐ帝王切開するなどと言う。しかし無理に引っぱり出したり、帝王切開をして取り出した赤ちゃんは、自然に生まれた赤ちゃんのように素直には育たない。

 何故そういう差ができるのか、月満ちて生まれる子供を産婦の苦痛を避けて取り出すのだから、生まれる子供には何ら影響を与える筈がない、と考えているのでしょうが、子供が育っていく現実に於いて非常に大きな差ができてくるのです。やはり自分の体の力で産むようにしなければならない。

   

    

「気」の医学と「身」

  

立川昭二 『養生訓』に学ぶ(PHP新書 2001年)
気の思想

「元気は人身の根本なり」(56頁)
 益軒が「養生の術」の第一箇条に「気をめぐらす」ことをあげたのは、益軒が人間の基本は「気」であるという思想を抱いていたからである。『養生訓』にはその思想が次のようなことばではっきりと述べられている。

 人の元気は、もと是(これ)天地の万物を生ずる気なり。是人身の根本なり。人、此気にあらざれば生ぜす。生じて後は、飲食(いんしょく)、衣服(いふく)、居処(きょしょ)の外物(がいぶつ)の助(たすけ)によりて、元気養はれて命をたもつ。

 人の元気はもともと天地(宇宙)の万物を生じた気であり、この気が「人身の根本」である。この気によって人は生まれ、生まれたあとは飲食、衣服、住居の助けで元気が養われいのちをたもつことができる。(中略)
 気あるいは元気こそ、「人身の根本」「生の源」「命の主」であるから、養生はこの気をたもち、元気をめぐらすことにある、と益軒は言う。
 益軒の気の考えは中国の気の学説に影響を受けているが、『養生訓』にみられる「気」そして「身」の考え方は日本人特有のメンタリティ(心性)にもとづくところがある。

 益軒はよく「身(み)」ということばを使っているが、それはたんなる身体のことではない。日本人独特の「身」という考え方が背後にある。
 日本語の身にはさまざまな意味がある。…「身を入れる」の身は気持ちのこと、「身のため」の身は自分自身のこと、「身をけずる」の身はいのちのこと、「身をこがす」の身は情のこと、そして「身につける」「身のこなし」「身にしみる」「身をまかす」の身は、益軒のいう「身をたもつ」の身とおなじで、おもにからだのことをいう。私たち日本人は「身のまわり」を身のついたことばで囲まれている。

 このように、身というのは、なによりからだと心をわけない日本人の考え方をよく表わしたことばである。ヨーロッパ流のマインド対ボディという二分法的な考え方ではなく、心身相関の考え方である。
「気」という思想は、この「身」という考え方とむすびついている。さきの「心気」「血気」ということばにみられるように、心にも血にもおなじ気があり、気がめぐっている。その気によって人のからだは保たれ動いている。

 こうした考えは、私たち現代人に馴染み深い解剖生理学にもとづく近代西洋医学の身体観とは根本的に異なる。近代西洋の身体観は、いわば固体的・空間的・部分的な考え方(註・客観的身体観)である。それに対し、この『養生訓』にみられる「気」を基本とする身体観は、いわば液体的・時間的・全体的な考え方であり、心身相関の考え方(註・主体的身体観)である。

  

註・身体についての三つの視点

一人称的視点…「主体的身体」あるいは「心理的身体」
二人称的視点…「私とあなた」の関係性の中で捉える〔身体〕
三人称的視点…「客観的身体」あるいは「生理的身体」

湯浅泰雄 『宗教経験と身体』(岩波書店 1997年)より

  

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