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野口整体の源流は日本の身体文化 V1

1、『養生訓』の世界 

江戸時代の「気」の医学と、
「身」に触れ、「心とからだ」を観る野口整体
 

野口整体 気・自然健康保持会

主宰 金井省蒼

2009年春期 整体指導法講習会 第四回・第五回より

3 「おのづから癒 (いゆ) る」  (後編)

  

立川氏による『風邪の効用』書評

教材No.38(09春公『科学と宗教』)33頁より

  

金井 1980年の「月刊全生」十月号(整体協会)に、読売新聞に掲載された立川昭二氏の『風邪の効用』(全生社)の書評が紹介されていました。

  

 (読売新聞 1980年8月25日)

 病気も体の自然の経過

 私の山の家のある八ヶ岳南麓のやせた土地の近くにも、農薬を使用しないで高原野菜を作っている実験農場がある。現代は、五千年来の自然農法が実験と呼ばれる奇妙な時代である。
 人間の世の中も同じこと。医療が高度に技術化・機械化する中で、自然出産とか自宅分娩が話題となり、催眠療法や東洋医学に打ち込む医師たちが現れ、一方管理社会で肉体が犯されつつあることへの恐怖からか、ヨガや太極拳、自然食品や自己訓練法など、自然回帰的な健康づくりが大衆レベルでブームとなっている。
 そんな混迷のさなか、野口晴哉「風邪の効用」
(全生社)という本をふとした機縁で手にし、健康とか病気に対する通念を根底から覆す驚きに打たれた。
 ここには、現代医療文明に見られる病気を敵対視する思想はない。病気を根絶するというより、人間の内なる自然を活かすという考えである。たとえば、風邪を上手に経過すると、ほかの病気も治り、体は強くなるという。病気は戦って征服するものではなく、体の偏りを治すきっかけと考え、一人ひとりのからだとこころの動きを自発的に方向づけていく。そこではしたがって、気とか潜在意識、あるいは各人の体癖という隠れたものをみようとする
 故野口晴哉氏は、知識人をはじめ多くの支持者を得ている整体法の創始者である。病気は体の自然の経過であるという考えは、医学の父ヒポクラテスと同じだ。風邪をめぐるこのささやかな本は、人生観さえ変えさせる。
 自然の土と水と太陽だけで育った野菜が体に入ると、ある身ぶるいを覚える。それと似て、自然に即して無数の人を救済した体験に根差す生命学を説いた「体運動の構造」「病人と看病人」
(全生社)を読むと、本とは言え、体の芯まで震盪(しんとう)させられる。

  

  

『気で治る本』宝島社 1995年
小林幹雄  野口整体における気の研究

 全生とは病を得て、それを活かすこと(102頁)

「人に自己保存の要求あり、種族保存の要求あり、その要求凝りて、人産れ、育ち、生く。

もとより何の為に自己保存を為すか知らず、たゞ裡の要求によって行動するのみ

何の為に産れ、何の為に生き、何の為に死するか人知らず。只裡の要求によって行動するのみ。

人の生きる目的、人にあるに非ず。自然にある也、之に順(したが)う可し。順う限り、いつも溌剌として快也。

健康への道、工夫によりて在るに非ず。その身の裡の要求に順つて生くるところに在る也。

いつも溌剌と元気に生くるは自然也、人その為に生く。

人の自然、四つ足で歩くことに非ず、野に伏し、生のものをたべることに非ず。

感じ、考え、手足を使うこと也。笑うも、憎むも喜怒哀楽するも自然也。火を使い、水を使い、雷を使うは人の智慧也。器物を使い、道具を使い、時を使うは人の智慧也。

そのもつ頭を使い、手を使うは自然也。

人その身を傷つけず、衰えしめず、いつも元気に全生すること人の自然也。全生とはもちたる力を一パイに発揮していつも溌剌と生くることなり」

(『月刊全生』1964年六月号、整体協会、ルビ引用者)

 昭和の初期、十七歳の野口晴哉が記した「全生訓」の一節である。彼は、十二歳のときに関東大震災に遭遇して、人の生と死の直截な姿を見つめ、路上に苦しむ人のからだに手を当て、自らのうちに潜む「愉気」の能力に目醒める。以来半世紀以上にわたって独立独歩の指導者の道を歩みつづけるなかで、この全生の思想は、いささかの揺るぎもなく彼の実践を支えつづけたのである。

 整体法は、徹底した肯定性の哲学に立脚している。痛みも苦しみも悲しみも、対立も矛盾も葛藤も、すべてが自然の秩序の一環として受容される。肉体も精神も、異常も正常も、健康も疾病も、分けることのできない統一であり、いずれか片方に価値が付与されマイナスのものが排除されるという構図は存在しない。全生とは無病であることではなく、病を得てそれを活かすことである。苦や逆境をどう活かすか、楽や順境をどう生きるか、それぞれのあるべき位置が追求されるにすぎない。貧しさはいつも負ではない。豊かさは必ずしも正ではない。充足や満腹のうちにも不快があり、欠乏や空腹のうちにも快感がある。感受性を開拓し、生きる領域を拡げていくことこそが、動物にはない、人間にとっての自然なのである。野口晴哉が語る自然は、天然や野生を重視し、人為人工を排した「自然」とは似て非なるものである。むしろそれは、いわゆる文化と自然の対立を対立として受けとめたうえで、文化を活かすべき時を知り、自然に還るべき時を知り、人間に内在する植物的能力、動物的能力、精神的能力のすべてを活かしきる生き方をさしている。「裡の要求」とは、その意味での自然に順応しようとする生命の働きにほかならず、近代的自我の観念的な内面性とはなんの関係ももたない概念である。

 

 

金井 立川氏の文章にある「人間の内なる自然を活かす」という言葉は、身体的に用いられています。これを精神的に、より積極的に活用したのが、「感受性を開拓し、生きる領域を拡げていく」という小林氏の文章です。これについて考えてみます。

 自分の感覚によって外界を受け取っているはたらきを「感受性」といいますが、これによって自分の心の世界ができているのです。「心の鏡」と言い換えてもよいのですが、表面が曇っていれば物事はきれいに写りません。ですから感受性を開拓するとは「鏡を磨くこと」と言い換えてもよいと思います。人はその世界観によって生きているのです。

 ですから先のような心で、活元運動に取り組み、また日常的に心身を用いる上でも、このように心がけることが「全生」することにつながります。  

   

   

   

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