〈心に主(あるじ)たるものあるべし〉
金井 『養生訓』の中で、貝原益軒は「養生を志す者、つねに心に主たるものあるべし」と、「心に主を持つ」ことを勧めています。
では「主たるもの」がない、とはどういうことかというと、これは自分の欲望や感情(この二つを合わせて、益軒は「内慾」と呼んでいます)に引きずられているということです。
野口先生は、「気は心と体をつなぐもの」と言われ、愉気法としての「気」を説かれました。
「心に主を持つ」とは、「気を確かに持つ」ことと同じで、この時、「気は心と体をつなぐもの」という真理が活きてくるのです。
体に気を通す ―― 野口整体では脊椎行気法(背骨で呼吸をするつもりになること、ここから合掌行気法も可)により体の中枢である背骨に気を通すことができる ―― ことにより、心と身体を持ち主の生きる道具として使うことができます。
気をきちんと持つ、気を確かにもつということが、自分の心と体を主体的に把持(主体的自己把持)して生活していくという「意識」を持つ、ということです。
この「気」の捉え方は、長い歴史の中で「身(み)」という「心身一如」を意味する言葉を生み出し、使ってきた日本人特有の「気」に対する感性でもあるのです。
〈身をたもつ〉
金井 江戸の当時、「身」といえば「身心・心身」のことを指しており、「心に主たるもの…」の「心」というのは「身」のことでもあります。この「心身」に「主というもの」を持つべきであると益軒は説き、野口先生は「心身の持ち主である自分」というものを説かれたのです。
西洋医学の本流においては、身体や心の持ち主である「主体としての自分自身」を考えることはなく、また考えようもないものなのです。まったく違う観点により発達した西洋医学は、身体の世界を「物」として極めるものであり、心や生き方と関係づけることはないのです。
このような近代医学の全盛時代に育った若者たちは、野口整体を人生に活用する上で「身をたもつ」ということを身体的に理解することが難しいようです。
先に、各種「道」に伝わる「型」を身につけることは、「身体から心へ」の働きかけであるという湯浅泰雄氏の文章を紹介しましたが、「型を身につけること」、「身をたもつ」ことは精神性を養うことなのです。
立川氏は益軒の教えを次のように紹介しています。
立川昭二『養生訓に学ぶ』(PHP新書 2001年)
「いのちへの畏敬」
(22頁)江戸時代には今日の「健康」ということばはなかった。それにあたるのが「身をたもつ」ということばであった。益軒は言う。人はなによりも「養生」をまなんで健康を保つことである。これが「人生第一の大事」である。
金井 野口整体における野口先生の教えは『養生訓』そのものではありませんが、右の「身をたもつ」の言葉にある心は、「自然健康保持」して「全生」する、という野口法の理念とも言えるものです。この「自然健康」の「自然」とは、本来は「じねん」というもので、じねんの意味における「自然」は、そのままが最も「本来的な能力を有している」状態を指すものである、という解釈に立脚しています。
この「じねん」を保持するためには、身体の訓練や精神の鍛練が必要なのです。
自然は美であり、快であり、それが善なのである。
真はそこにある。
しかし投げ遣(や)りにして抛っておくことは自然ではない。
自然は整然として動いている。それがそのまま
現われるように生き、動くことが自然なのである。