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野口整体の源流は日本の身体文化 V1

1、『養生訓』の世界 

江戸時代の「気」の医学と、
「身」に触れ、「心とからだ」を観る野口整体
 

野口整体 気・自然健康保持会

主宰 金井省蒼

2009年春期 整体指導法講習会 第四回・第五回より

2 『気の〔身体〕論』 (後編)

  

目に見えないもの

  

立川昭二 『養生訓』に学ぶ(PHP新書 2001年)
気の思想

「気」と日本人
(59頁)…「気」はいわば日本特有の「文化」であり、日本人のメンタリティーといってもいい。益軒の『養生訓』を読むうえで、この「気」ということばはもっとも重要なキーワードといえる。
「身」とおなじように、「気」のついた日本語も無数にある。
(中略)日常的によく使われる言い方では、「気をつけて」「気づく」「気がする」「気がある」「気が合う」… …などなど、それこそ「気が遠くなる」ほどたくさんある。(中略)

(61頁)「気」は病や心や性の問題を含め、人間のからだの中で発現するたしかな現象である。からだのなかの目に見えないものに目を向けるということを考え直すべきときではないだろうか。
 益軒の『養生訓』の根底にある気の思想を理解するには、なによりからだのなかの目に見えないものに目を据えることである。目に見えるものばかりを信じてきた私たち現代人は、目に見えないものを信じるという地点に戻って出発しなければならないのである

  

金井 野口先生は「気は心と体をつなぐもの」と説かれました。私は初出版『病むことは力』終章に、「野口整体の源流は日本の身体文化」と書きましたが、立川氏が述べられているように、このように目に見えない「気」を中心とした日本文化だったからこそ、かつての「身」があり、そして野口先生が「心と体は一つ」と言われた野口整体も生まれてきたのです。もちろん、野口先生の「天賦の才」を以って大成したものですが、立川氏が説かれているような生命観が伝統的に存在していたのです。

  

野口晴哉 『整体法の基礎』(全生社 1977年)
第一章 技術以前の問題 (八) 気

〈気〉
(39頁)整体指導の技術の基は、この気をどう使うかということだけで、心とか体とかそういうものにはこだわらない。気の停滞、気の動かし方、気の誘い、気の使い方といったように、体に現れる以前のもの、物以前のものを、物以前の力で処理していく、それが技術の基になります。

 だから、“胃袋を治すにはどうしたらいいか”と聞かれても、私は胃袋など観ていない。気のつかえを観ているのです。気のつかえを通るようにする、鬱散するようにする、足りないところには巡るようにする。私の観ているのは気だけなのです。レントゲン写真を撮ったら、こんな風に曲がっていたとか、こんな風に影が出ていたとか言っても、それは物の世界の問題なのです。気の感応で気が通れば、どんなに曲がっていても真直ぐになるのです。頭の中の細胞がああなっている、こうなっているといっても、そんなことは問題ではないのです。

 手を当ててよくなるものはよくなるが、よくならない感じのすることがあります。それは気の停滞、つかえなのです。つかえて気が動かなくなってしまうと、冷たく感じるのです。

  

  

上虚下実の身体と気

 

金井 骨盤部がきちんと使えることで、下半身にしっかり力が入ると、上体の力が抜け、呼吸も深く、上体を柔らかく使うことができることで、「気」を活用することができます。

立川昭二 『養生訓』に学ぶ(PHP新書 2001年)
気の思想

「元気の滞なからしむ」(61頁)
 生命の源である気は目に見えないままからだの中をめぐっている。病気もこの目に見えない気によって起こる。だから養生は気を調えることにある。それには気を和らげ、気を平らにすればいい。益軒は『養生訓』巻第二「総論」下で次のように語る。

 百病は皆気より生ず。病とは気やむ也。故に養生の道は気を調(ととのう)るにあり。調ふるは気を和(やわ)らぎ、平(たいらか)にする也。(中略)

 気を滞らせなければ、気がつよくて病がない。気が流れないと病になる。(中略)
 さらに益軒は、気は全身にゆきわたるようにしなければならないと言う。怒りや悲しみなど七情が過剰になって、胸の一ヶ所に気があつまると、病になるとも言っている。

 気は、一身体(しんたい)の内にあまねく行(ゆき)わたるべし。むねの中一所にあつむべからず。いかり、かなしみ、うれひ、思ひ、あれば、胸中一所に気とゞこほりてあつまる。七情の過(すぎ)て滞(とどこお)るは病の生(しょう)ずる基(もと)なり。

 

(七情…喜・怒・憂・思・悲・恐・驚の感情)

 

「元気になったから病気が治った」(66頁)
 さて、益軒は「気」と同じ意味で「元気」ということばをよく使っている。元気というと、今日の日本人がつね日ごろいちばん好んで使っている言葉である。…相手の体の具合についてたずねたりいたわったりすることを日常のコミュニケーションにおいてもっとも大切にしている日本人の心性をよく表わしているとともに、現代の日本人が健康を表わす元気ということばをたいへん好んでいることを物語る。
 この元気という言葉のもとは、「減気」であったといわれる。…、病勢が衰えることを言っていた。したがって、減気の気は病む気の意味をもっていた。
 それが江戸時代になると、「験気」ということばに変わり、治療の効き目が表われて病気が治る意味に用いられるようになった。…この験気の気は健康に向かう気である。
(中略)その後、…庶民の日常会話に用いられるようになり、今日の意味に近い用法で使われるようになった。(中略)

 元気ということばをもっとも大事にまたもっとも多く用いたのはじつは貝原益軒である。このことは意外に知られていない。ただし、すでにみてきたように、益軒は元気を気と同じように使っているのであって、いわば「内なる元気」であって、現代流の外見の元気ではない。
 ところで、元気ということばは「減気」と「験気」であったということは、もともと気には病気の気と元気(健康)の気があり、その二つの気は同じ気であった。気の向きによって病気にもなり、元気にもなる。

 この考え方は、益軒のいう「元気をたもつ」と健康になり、「元気をへらす」と病気になるという考え方と重なり合う。気を基にした考え方からいえば、健康になるのも気、病気になるのも気、である。
 私たち現代人はよく「病気が治ったから元気になった」と言う。しかし、益軒の言う元気の真意に即していえば、「病気が治ったから元気になった」のではなく、「元気になったから病気が治った」!のではないだろうか

  

2 呼吸と導引

「呼吸をとゝのへ」
 益軒は養生の基本として、「呼吸をとゝのへ」る調息法のすすめについて、『養生訓』巻二で次のように語る。
(中略)
 気を養うことは「呼吸をととのえる」ことであり、それには呼吸を静かに、かすかに、そして長く続けることである。「呼吸は一身の気の出入りする道路」だから、けっして荒々しくしてはならない。
 ヨガ・気功など古今の主な健康法でもっとも大事に考えられてきたのは呼吸法である。
(中略)

 からだが整っていればおのずと「やる気」が起こる。からだを整えることが先決である。そして、からだを整えるいちばんの基本は呼吸を調えることである。だから、まず息を調え、からだを整え、気を整える。そうすれば、「やる気」もおこる。

  

「丹田に気をあつむべし」
 この「丹田」については、別な条で、「臍下三寸を丹田と云
(いう)」と次のように説明し、「胸中に気をあつめずして、丹田に気をあつむべし」と説いている。(中略)

 臍下三寸を丹田といふ。…
 人に交わり、事に応じ、物をいふに、まず心をしづかにして、又気を丹田にをさめて、物をいひ、事をなすべし。是気の本を立つるなり。本たてばちからありて道生ず。しからずして、気のぼりて、むねにあつまれば、心うごきさわぎてをさまらず。この時ものいひ、ことをなしいだせば、ちからなくて、必
(かならず)あやまり多し。学者身ををさめんと思はゞ、心を平(たいら)にし、気を和(やわ)らかにすべし。(中略)

「衆人は喉(のど)で、哲人は背骨で、真人は踵(かかと)で呼吸する」といわれる。…整体法ではよく「背骨に息を通す」ということをいうが、それも息が背骨を通って行くことを意識しながら腹式呼吸を行うことである。(中略)

 益軒が『養生訓』で言っている「真気を丹田におさめあつめ」というのは、「背骨で呼吸する」あるいは「踵で呼吸する」という境地に通ずる。

  

金井 益軒は日常の坐り方についても、「坐するには正坐すべし」と述べています。

  

  

身体感覚と気

  

金井 野口整体では「異常に敏感な状態を保つ」ために、頭に偏らない「天心」であることを重要視します。頭が忙しく重心が上がったままだと、体の状態を感じるということができなくなるものです。「身体感覚」は〈気〉の状態と関係が深いのです。
ことに江戸期までの日本人には「気」に対する敏感な感受性があり、日本の伝統文化は〈気と息の文化〉とも言われるほどでした。立川昭二氏は日本人の「気」について次のように述べています。

  

立川昭二 『からだことば 日本語から読み解く身体』(早川書房 2002年)
第4話「気」と「息」、からだといのち

「景色」と「色気」(49頁)
「気」には、東洋医学でいう「気功」などの「気」もありますが、わたしがお話したいのは、日本人が本来持っていた「気」についてです。日本人はからだや自然をぜんぶひっくるめて、かなり広い意味で「気」ということばを使っています。
(中略)
「気」について説明するのに、わかりやすいことばがあります。それは「色気」です。「色気」といったとき、「色」と「気」はどうちがうのか。
(中略)

 ここがたいせつなところですが、「気」があれば、それは「色」に出るわけです。病気についていいますと、からだの奥にあるときは、まだ「気」なんです。
 ところが、「気」のうちは、まだわからない。そのうちに「色」に出るようになる。
(中略)
 というわけで、「色」に出る前に、「気」がわからないといけない。本来ならば、人間ドッグに入って検査をしてもらう前に、自分で自分の「気」がわかっていれば、自分で早期診断ができるはずなんです。

 江戸時代の人たちは、「気」をよくわかっていたんでしょう。それが「色」に出る前に、自分で早期診断、早期予防をしていた。それだけ、からだに対する生理感覚が鋭く強かった。だから、当時の医学を「気の医学」といいますが、現代のような近代医学がなかった江戸時代には、人びとはこの気をいち早く察知した。

 貝原益軒の『養生訓』に書かれていることばのなかで、いちばん多いのは「気」なんです。「気をめぐらせ」「気を滞らせてはいけない」とくり返し語っています。要するに、「気」をきちんと活かす。そして、あまり使いすぎてはいけない。でもじっとさせてはいけない、ということをしきりにいうわけです。それは、「気」という眼に見えないものが「色」に出てしまうところで、きちんと自分で調整しなさいということなんですね。
「気」や「色」ということばの本当の意味を見失ってしまったわたしたちは、だんだんいのちに無防備になってしまったのではないでしょうか。

 

金井 野口整体の基本となる「愉気法」は、呼吸法により自身の気を整える、ことで人に行えるようになるもので、まさに〈気と息の文化〉の象徴と言えるものです。それで、「整体である」とは「気」を整えることなのです。

   

  

気力で体力が変わってくる

  

野口晴哉 『整体法の基礎』(全生社 1977年)

 気は、体力と非常に関係があります。だから私は疲れると、体力を整えるために背骨に息を吸い込みます。人の背骨にもそうして息を通すと、その人は呼吸が深くできるようになり、丈夫になっていきます。それは私だけかというと、私のように気の感じというものを中心にしてものを感じ取っていくようになると、みんな分かるのです。気を気で感じる。物にならない、事にならない、それ以前の気の動きを感じられる。あるかないかわからなくとも、気というものをエネルギーと仮定すると、人間の動きがよく分かります。

  

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