QアンドA55
「夢に見る」と「夢を見る」って、どこか違うの?


 「夢に見る」と「夢を見る」の違いは?、と聞かれても説明がしにくいでしょう。どちらも同じだと感じてしまう人が多いと思います。
 しかし、この違いをはっきり意識しているとシンハラ語がスムーズに理解できるようになります。シンハラ語はこうした言い回しにとても敏感な言語で、日本語はと言えば、どこか鈍感になってしまったようです。


No-55 2005-11-18 2015-June-13


  「夢に見る」と「夢を見る」の違いといっても日本語ではあまりピンと来ない。
 「夢に」「夢を」が「見る」に繋がるとき、どんな意味の違いが生じるか。どちらも同じようで、どこか違う。だけどなんだか違いが分からない。
 面白いことに、これをシンハラ語で解剖するとより直感的に理解できるようになります。
 では、「夢に見る」と「夢を見る」をシンハラ語に置き換えるとどんな違いが生じるでしょうか?

シーナ සීන
シーネン සීනෙන් 夢に
ペーナワ පේනවා (夢)見える自動詞
ダキナワ
バラナワ
දකිනවා
බලනවා
(夢を)見る他動詞


 「夢に見る」はシンハラ語でシーネン・ペーナワsiinen peenavaと言います。「夢を見る」はシーナ・ダキナワsiina dakinavaです。
 シーナが「夢」、ペーナワ・ダキナワ・バラナワが「見る」です。シーネンはシーナ+エン
(シンハラ語の助詞/に)の形です。
 日本語では「に」「を」共に「見る」という動詞で受けるので違いが分かりにくいのですが、シンハラ語では「夢に見る」の「見る」は自動詞の「ペーナワ(見える)」を使い、「夢を見る」の「見る」には他動詞の「ダキナワ・バラナワ(見る)」を用います。この動詞の違いが大切なポイントです。
 二つの言いまわしに主語
(例えば「私」一人称)を加えてみましょう。

①私は夢に見る මට සීනෙන් පේනවා mata siinen peenava
②私は夢を見る මම සීනයක් දකිනවා mama siinayak dakinava

 日本語では①②共に「私は」という主語ですが、シンハラ語では①මට mataと、②මම mamaに分かれます。
 ここではこれらを「私は」と訳しましたが、මට mataは「私に」という与格、මම mamaは「私は」という主格です。与格を作るtaは、「シンハラ語の話し方」をお読みの方はもうお分かりでしょう、ニパータと言って、通常は動き・移動の方向などを表す接尾辞です。日本語の助詞の「に/へ」がぴったりと対応します。このニパータに導かれて与格を主語とする現象がシンハラ語には顕著です。①などは本来「私夢に見る」と訳すべき構文ですが、これで「私夢を見る」と言う意味になるのです。

与格主語という原則

 格という文法用語になじみがないので、シンハラ語の与格主語といってもピンと来ない。でも、ここにポイントがあります。
 実は日本語は英語風の語配列をメインにした構文解釈、たとえばSVO(主語-動詞-目的語)といった配列順序にこだわるよりも、サンスクリット風に格で文法を理解するほうが日本語を的確に理解できます。そして、シンハラ語文法はサンスクリットで大まかに文法の解釈ができますから、この視点で両者を較べれば不都合が少ないのです。言い換えればそれは、主語、目的語という分け方ではなく主格、与格というふうに単語を分けて、しかも、語順にとらわれずに文を読み解いてゆく方法です。
 英語では与格が文の頭におかれるということがありません。また、タミル語でもそうした例はごくまれだそうで、①のように与格が文の頭に主語として置かれるのは特殊な事例のように考えられています。
 しかし、シンハラ語ではこの与格が文の主題となる「私
夢に見る」のような言い回しが実に多いのです。
 シンハラ語では自動詞が文の述部に置かれると主語の名詞が
t
ta形を取るという約束事が文法上の決まりとしてあります。これをシンハラ語の与格主語と呼んでいます。
 なぜ、そんなことが起こるのでしょう。
 それはシンハラ語の与格主語をとる文を並べてみるとわかります。
 自然現象も感情も自ずから生じる。そうした生成現象は自動詞で表現されます。そのとき、主語となる名詞は与格をとるのです。
 これを英語文法に当てはめて、文の最初に置かれる名詞は主語であるから、これは与格主語である、となります。与格だけど主格の働きをするというように捉えるわけです。
 シンハラ語の「マタ・シーネン・ペーナワ」は直訳すれば「私に夢に見る」です。日本語の文になりません。でも、これを「私に(あっては)夢に見(え)る」と補足してやれば助詞の誤用と感じる部分が解消されるでしょう。
 これは日本語に自然現象や感情はおのずから生じるという世界観が生きているからです。これは日本人の世界観、哲学と言っても良いでしょう。生死感と言ってもいいでしょう。日本語の与格主語が表す世界観です。あるいは、ここにはアジアの東のはずれのシンハラ語とアジアの西のはずれの日本語を結ぶ海洋アジア的な規模での共通性が隠れているかもしれません。

 シンハラ語のペーナワは自動詞です。①は「私にあっては~見える」という自動詞に即した意味合い、受動的な意味合いがあります。自然-
じねん-というものの見方、おのずから「見える」という対象へのスタンス、モダニティがこの語法に隠れています。

 ここまで来ると①の和文が訳としてはそぐわないことにお気づきだと思います。直裁に言えば「私は夢に見る」ではなくて「私には夢に見える」でなくてはならず、さらには「私にあっては夢に見える」という言いかた、夢に見るという私的な出来事を第三者の距離から眺める立場がシンハラ語のペーナワにはあるのです。それを和文に反映させると「私に(あっては)夢に見える」となるのです。
 日本語では「見る」が他動詞、「見える」が自動詞。しかし「夢に見る」の「見る」は多分に自動詞的な表現です。そこが現代日本人には分かりにくくなっていて、現代日本語の混乱ともなっているのでしょう。
 でも、これは新しい日本語の想像力が生じる前兆でもあるのです。混乱とばかり嘆かず、新しい日本人が作る新しい日本語の想像力に期待しましょう。

 ところで、このごろは「夢で見る」という言い回しも増えてきました。この言い回しも日本語回帰の一端であるような、それとも、「で」の用法のあけすけな援用であるような。これもシンハラ語の自動詞文の助詞の用法で意味を探れば理解できる類の援用ですが、それにしても、助詞がつなぐ日本語の言い回しの妙がシンハラ文法で理解できるということが、もう、不思議でたまりません。