QアンドA51
「行って来ます」は「ギヒン・エンナム」
それとも「ギヒッラ・エンナム」?



 「行って来ます」をシンハラ語では「ギヒン・エンナム」と言いますね。でも、これを「ギヒッラ・エンナム」と言う人がいます。慣用句なのだから、どっちかが決まった言い回しだと思うのですが。どっちを使えば良いのですか。 


No-51 2005-10-05 2015-July-01


   たいていのシンハラ語会話本にはギヒン・エンナムගිහින් එන්නම් と載っていると思います。
 ギヒンගිහින් は動詞ヤナワගොහින් 、ゴスィンගොසින් などの語形を取ります。動詞エナワඑනවා (来る)をエンナムඑන්නම් という形で活用すると話者の意思を表すようになりますから、文字通りには「行ったという状態が進行しながら、来る(帰る)という意志が働いた時に帰ってきます」という行為のイメージが話し手の中に--話し手がこのことをはっきりと意識しているかどうかは別のこととして--あります。「行ってきます」という日本語の慣用句に通じる’お出かけ’のイメージがシンハラ語の「ギヒン・エンナム」にもあるのですが、日本語の「行って」という現在形の語法に当たる部分のヤナワ(行く)がシンハラ語では完了形で表されています。
 ギヒッラ・エンナムගිහිල්ල එන්නම් のギヒッラගිහිල්ල も動詞ヤナワයනවා の完了形です。「行った」という過去の行為が進行しているのですから意味としてはギヒンගිහින් と同様です。
 「ギヒン・エンナム/ギヒッラ・エンナム」という表現は行くほうではなくて帰るほうに重きが置かれています。フレーズの末尾に添えられた意思を表すニパータのムම් --子音のm音--が「来る(帰る)」という行為を強調するからです。日本語の「行ってきます」は帰ってくることよりも「これから出かける」ということに重きが置かれているようです。

 シンハラ語と日本語は文の構成とその表現力がとてもよく似ています。「行ってきます-ギヒン・エンナム」という表現には行くと来るの二つの相反する意味が含まれていますが、この「行ってきます」の代わりに「行きます」とシンハラ語で言ったらどうでしょうか。これは無作法と受け取られてしまうでしょう。人と別れるときには「エヘナム、ヤナワ」--そんじゃあ、行くわ--などと言っては行けません。
 人と別れるとき、行くと来るのどちらに重きを置くか。また来ますよ、帰って来ますよ。シンハラ語はこの気持ちを選びます。この言葉の作法が大切なのです。

 日本語とシンハラ語は言葉のシステムが近い。思いを伝える言葉のニュアンスも近い。だから、考えることも同じだろうと思いがちです。でも、二つの言語が同質性を持っていたにしても、二つの言語の背景にはそれぞれの文化があります。文化に無頓着でいると、とんでもない誤解を生むことだあります。
 例えば、「シンハラ人はありがとうを言わない」と日本人はよく言います。いや当のシンハラ人でさえも「私たちの多くはありがとうを言わない」と嘆きます。こんなに世話してやってるのにシンハラ人はお礼を言わないで、要求ばかりしてくる。よく聞かされるクレームです。でも、このことに憤る前に「ありがとう」を言わない背景を察する余裕を持ってみてはいかがでしょうか。
 ギヒン・エンナムは「行って来ます」という表現だが日本語の「行って来ます」の意味ではない。これと同様に「ありがとう」を言わないのは「ありがとう」の気持ちがないのではない。そうした客観の観察を試みてください。

 日本語とシンハラ語は、口語の場合、似通った言語です。しかし、シンハラ語と日本語が培ったそれぞれの文化は隔たって数千年を経ています。その時間を距離として意識しながら現代のシンハラ人と接し、現代のシンハラ語を見つめる時、私たちは私たちの言語である日本語にも新たな発見をすることでしょう。