・・・スタートをきった「金大フィル」・昭和20年代・・・
川北 篤氏(S24.入学・Vc)
@エキストラも含めても30〜50名でした。(Fg.の吉田忠正さん、Fl.の藤本始さん、Clの金子さん、CBの小幡隆さん等がエキストラに来ておられたように記憶します。)
A練習場がないため時には階段教室で行ったこともあります。練習は比較的少人数であったため、人間関係が大変良かったと思う。
B定期演奏会の他に小松・山中や富山県の出町・福野へ演奏旅行した事があり、北陸三県大学合同演奏会で富山・福井へも演奏旅行した事もあり。
C第3回定期演奏会(S27)に弾いたシューベルトの「未完成」とベートーヴェンの「エグモント」序曲で本格的オーケストラの団員として弾くのが初めてだったので感動をおぼえた。
D練習に出るのに授業を休まねばならない事が多々あったので苦労した。
E演奏旅行の帰りの汽車が貸しきりになったような状態の中で、団員と自由な話し合い、合奏、合唱をした事など。
F小生は金大医学部の音楽部では家庭的な室内楽を行い、金大フィルでは比較的大きな編成のオーケストラの中で弾き、何か音楽学部医学科を卒業した様な感じがします。但しシニアコースでは一度もビーコンをとらずに卒業できました。
G北陸で最も代表的なアマチュアオーケストラと思い、あくまでも学生であるという事も忘れずに頑張ってほしいと思います。
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最もよく演奏されたのは?
@ベートーヴェン
「エグモント」序曲(7回)
Aシューベルト
「未完成」(6回)
Bベートーヴェン
5番「運命」
8番
ブラームス2番(3回)
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発足当時は16名。後に旧医大の管弦楽団との合併で団員も増えましたが、S25の第1回演奏会のプログラムはモーツァルトのピアノソナタ、バッハの管弦楽組曲他となっており室内楽に近いものだったようです。しかし、その2年後には「未完成」「運命」を演奏し、いよいよ「オーケストラ」としての活動が軌道にのりはじめ、また「金沢大学フィルハーモニー管弦楽団」の名称もこの頃から用いられるようになりました。S27の第3回定演以降、定期演奏会は年二回となり、会場には金大理学部講堂が使われています。また小編成であったという事情から、昭和20年代の主な演奏曲目はベートーヴェン中心の古典派音楽でした。
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・・・着実な活動と前進・昭和30年代・・・
前澤 忠彦氏(S34人学・Vla.団長)
@現役20〜25人・OB10〜16,7人
A時には他の者が指揮をしたり、人数が少なすぎパート練習ができない位のときがありました。
B定期演奏会以外に、学校を回りオーケストラの楽器及び音色等を紹介し演奏したこともありました。
Cシューマンのピアノ協奏曲イ短調(第20回定期演奏会)
D人集めに大変苦労しました。
E山登りを覚え、今も続いています。
F青春
Gますます発展してほしい。
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昭和30年代も定期演奏会は年に二度行われました。会場は金大理学部講堂のほか北陸学院栄光館・今はなき北国講堂など小ホールが主でした。演奏曲目は、昭和20年代に引き続き古典派が主流を占めており、30年前半にはほぼ毎年協奏曲がプログラムに組まれています。中でもS30・第9回定演での「筝協奏曲第1番」(平井康三郎)は後年にもまれな邦人作品であり、大変画期的に思われます。またS30・35・37には開学記念祭参加として合唱部との合同演奏、S39には教育学部音楽教室との合同演奏という形で定期演奏会を行っており、定演以外にもS31には名古屋大との合同演奏会が実現するなど、様々な音楽団体との交流が盛んだったようです。
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・・・大編成オーケストラへ・昭和40年代・・・
北方 正喜氏(S44入学・Cl)
@全団員で50〜80名。(私の同期は4回生で12名)
A本番が近づくと次第に熱のこもった練習になってきましたが、最初の頃は指揮者と一部の人だけが一生懸命だったと思います。
B新入生歓迎コンサート・夏休み能登演奏旅行・サマーコンサート・芸交祭等
Cウェーバー「魔弾の射手」序曲(第31回定期演奏会)2年になって初めて定演に出て、しかも1stClをさせて頂いた曲。特に途中のソロがきかせどころであり、カールライスターの再来?とはいかなかったものの、まあまあの出来でした。今でもその曲をきくと当時を思い出します。
D総会を成立させること。(欠席が多くて時々流会になった。)プログラムの広告取り。それにやはり学業と両立させることの難しさでしょう。(私を含めて多くの留年組がいました。)
Eマージャン以外は音楽に関すること。(洒は当時から飲めませんでした。)
Fオケ活動の合間に勉強や他の事(色々?)をしていた。(おかげで卒業が遅れた)女房(北方康子さん・S46入学・2ndCl)と知り合った。
G年に1回は市民のためのプロムナードコンサートなどはどうでしょうか。 |
作曲家別のべ曲数
ベートーヴェン 32曲
モーツアルト 10曲
シューベルト 10曲
ブラームス 9曲
チャイコフスキー 8曲 |
昭和40年代に入ると定期演奏会は年に一度となり、また団員の増加のため演奏会場は金沢市観光会館へ移されます。
演奏曲目は古典中心からロマン派へと移行し、プラームス・ドヴォルザークが多くとりあげられています。またポロデインなど国民楽派、さらに40年代後半にはドビュッシー・ストラヴィンスキー・カバレフスキーといった近代音楽も演奏されるようになり、プログラムに多様性が生まれたのが特徴的でしょう。特にプラームスは、重厚な音響が要求されるため、特に当時の団員にとっては憧れでありかつ1つの大きな目標でもあり、まさに念願がかなったと言えるでしょう。(S46にプラームスの交響曲第1番、S47には第2番を演奏しています。)
昭和40年代には各地で学園紛争の嵐が吹き荒れ、その影響は金大フィルにも波及し、一時は活動不可能となりました。しかし、連日の討論で、「音」は絶やすべきでないと結論を下し、演奏旅行・芸交祭も行われた、との記録が残っています。
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・・・さらに技術の向上を目指して・昭和50年代・・・
斎藤 忠直氏(S51年入学・Hn・学生指揮者)
@入学時80名→卒業時130名と、高度成長期、いや現代ASEAN諸国の様相を呈した。
A金沢大学フィルハーモニー・ドリームランドの様相を呈した。(プロ指揮による緊張、美女団員の増加、主張の相違によるケンカ、アホ金管奏者による芸能etc、この世に存在する、ありとあらゆる現象を体験できた。)
B主な活動は今と大差ないが、前記のように目立ちたがり屋が多数いたので、数回にわたりTV出演を果たした点が特筆されよう。
Cすべての曲に涙と笑いなくしては語れないアクシデントや美談があり、特にどの曲と断定できない。
D・授業に出る事、そして学部の先生に迷惑をかけた事。
・家人に「練習」と偽って遊ぶ事。
・金管パート女人禁制の掟を死守する事。
・ホルンパート員に入浴させる事。
E金管パート員は練習に貴重な青春を費やす運命にあり、練習以外に快楽を求めてはならなかったし、また求めなかった。
F前奏曲
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昭和50年代には当団も現在のような大所帯となりました。また二管編成のフルオーケストラとしての形態も完成され、第38回定期演奏会(S52)にはブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」、第43回定期演奏会(S57)にはマーラーの交響曲第1番「巨人」といった大規模な曲を演奏できるまでに成長を遂げます。また、従来は学生・OB・および学部教授の手による指揮であったのが、S52の第37回定期演奏会でプロ指揮者を迎え、S54の第39回定期演奏会以来本日に至るまで、定期演奏会にはプロの指揮者を招いています。尚、第37回には伴有雄氏、第39・40回には佐藤功太郎氏、第41回には石丸寛氏、第42〜44回には堤俊作氏、第45〜46回には末廣誠氏、第47〜49回には金洪才氏にタクトをとっていただきました。
※S49より、冬の定期演奏会とは別にサマーコンサートを毎年行うようになり、実質的には年二回の演奏会を開いています。今迄で計14回行われたこのサマーコンサートは、学生の指揮によるものです。
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最後に、現団長の声をきいてみたいと思います
澤田 豊伸(S62入学・Hn)
@現在の団員数は140名強です。
Aマーラーの練習について言えば、管楽器の人数が非常に多いので練習場が狭く感じます。今の時期(12月初)なら、もう指揮をかなり見ることが出来ると思うのですが‥・。
B新歓演奏会、サマコン、音楽教室、演奏旅行、芸交祭、定演、春、夏、冬の合宿、各種コンパ
Cドポルザークの交響曲第9番(学生指揮者と賭をして、それに勝ったことです)
D練習して、アルバイトをして、勉強すること。
E練習後にみんなでご飯を食べに行ったり、酒を飲んだりすること。
F音楽清けの毎日です。
G音楽に対してもっと熱くなってほしい。(自分も含めて)
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