最終更新 
99/12/29


   石丸寛 氏



右の写真は、第41回定期演奏会プログラムより
第41回 81/1 シベリウス2番他
石丸寛氏
 

石丸寛 一問一答 (第41回定期演奏会プログラムより)
 昨年、一昨年の佐藤功太郎氏に続き、今年は東京から石丸寛氏をお招きして、第41回定期演奏会を迎えることになりました。石丸氏はテレビコマーシャルでもご存知のように、ゴールドブレンドコンサートで日本全国を回られて、東京にいらっしゃるのは月に、5日という忙しさです。そんな御多忙の中を、何度も金沢まで足を運んでいただきました。去年の10月17日に初めて金大フィルを指揮され、シベ2の練習後、団員との宴では興味深いお話を伺うことが出来ました。その中からいくつかをインタヴュー形式で取り上げてみました。

金大フィルの第一印象は??
 すれてないね。この、オーケストラは。新鮮な要素がある。都会の大学のオーケストラには、すれているっていうことがあるんだよ。新鮮さに欠けるんだよね。都会人のひ弱さというものがあって、駄目だと思ったらあきらめてしまう。たとえば、俺はあいつには太刀打ちできないだとか、出来ないものは出来ないんだとか言う風に、物事をすぐに合理的に考えちゃう。このオーケストラはそれを感じさせないね。もっとやれば出来るんじゃないかと言う、そういう事をいつまでも持ちつづける人は新鮮だね。それが大切なことだと思うよ。すぐに先が見えると言うことは不幸なことだと思うね。  とても気持ちの良い若々しいオーケストラだよ。


Q:アマチュアオーケストラとプロのオーケストラと違う点は?
 プロもアマもないんだね。僕が指揮台に上がったら、きょうはアマチュアだからと言う音楽の創り方も無いし、今日はプロだからと言うことも無い。僕にとってシベリウスの2番と言うのはただ一つしかないんだ。だからそういう質問自体がナンセンスなんだ。大体日本人は何にでもレッテルを張りたがるんだね。N響とベルリン・フィルはどれ位違うんだとか。どちらにもそれぞれの良さがあるんで、こんな質問はナンセンスなんだ。


私達は本番になるとあがってしまって・・と言うことがあるのですが、何かジンクスなどあるんでしょうか?
 自分のやっていることに自信があって、納得がいけばあがらないね。だから、あがるって言うのはその人の性質じゃなくて自分の心の状態がいかにあるかって言うことにかかってるんだと思う。それからジンクスだけど、そういうものは無いと言うよりも、まずぼくは信じていないよ。ぼくはジンクスに限らず、星占い、姓名判断、手相とかそういう言った種類のもので物事が決まってしまうと言うことに非常に反発を感じるし、きらいだね。もっとも僕の知り合いの指揮者には、本番前に燕尾服を着た後に、靴を脱ぎ、手足を洗い清めてから(まるでみそぎだね)それでまた、リポビタンDを2本飲まないと気がすまないと言う人もいるけどね。


Q:コンサートで日本全国をまわられて、その地方の県民性などをお感じになられることはありますか?
石丸氏演奏会ショット
 日本はどこに行ったって日本人で、全然変わらないね。県民性なんてものはあってないようなものだね。地方のオーケストラに行くとよくあるんだけど、6時半に練習が始まることになっていても、7時過ぎにやっと集まってくるなんて事が良くあるんだね。こんなときは決まって「これは佐賀タイムなんだ」とか「新潟時間なんだ」とか言われる。しかし、これは自分が怠けているのを、佐賀タイムや新潟時間は県民性だなんだとか言って、ごまかしているんだよ。要するに怠けているんだよ。県民性なんて大嘘だ。だからここは田舎なんだからということもないし、ましてや表日本や裏日本なんてことがあるわけ無いんだ。大体こんな狭い日本でそんなに違うわけが無い。鼻の高さも目の大きさもみんな同じようじゃないか(笑)。だから同じ理由でイギリスだからアメリカだからと言うのも信じられないね。怠けているだけなんだよ、根本的には。


Q:ベリウスについて何かお聞かせください。
 シベリウスは晩年の30年間、国から莫大な年金をもらって、別荘をたくさん建てて裕福に暮らして、作品はほとんど書かなかったんだよね。彼の交響曲は後期のものほど、内省的で宗教的な感じを帯びてきて神格化していくんだけど、彼がついにただの人間であることに気づくと、何も書かなくなった。そういう意味で、シベリウスの人生と言うのは前半45歳以前であったと言ってもいいんじゃないかな。つまりこのシベ2は彼の初期の油の乗っている時期の作品なんだね。彼は人間らしく自分の民族と、小さな森と湖の国を愛して、彼が生き生きとしていた時期に書いた作品なんだ。だから魅力があるよ。
シベリウス 例えば、ベートーヴェンは長い間かかって積み上げていって、そこで「第九」が最高傑作となり、ブラームスも4番が最高と言えないにしても、作曲家の深みと言うものが非常に感じられるよね。チャイコフスキーも同じだ。しかし、シベリウスにはちょっとそういうことは言えないような気がする。彼の後期の交響曲は近代的で民族色が後退した普遍的な作品で、作曲技法的にはうまく書けているけど、彼の行き詰まり、人間性の限界を感じさせる作品でもある。彼は行き詰まりを行き詰まりで終わらせしまったんだ。それは、僕にとっては不幸なことだと思うね。
 芸術家と言うものは、金が無くても死ぬまで味噌汁を飲み、最後まで自分の高まりがあって、そしてある日消える。それが幸せであり、本来の姿、生き様だと思う。 そういう意味で、シベリウスは軽蔑するわけではないけど、不幸だったと言う気がするね。

 まだまだ、興味深いおはなしはたくさんあるのですが、紙面の都合で割愛せざるを得ないのは、非常に残念です。シベリウスのお話では、シベリウスを超えて、芸術家のあり方、さらには石丸氏の人生観も伺えるように思います。

Q:最後に一言お願いします

パッションのある演奏をしてください!