・京大合演特集 |
![]() 第一回合演 |
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京大オケと、金大フィル、そして、鹿島屋旅館の関係については先に説明しました。ここでは、過去2回の演奏会を実際の音とともに振り返ってみましょう。 第1回目の合演が行なわれた1978年といえば、昭和53年、その年に何が起こったかをちょっと調べてみると・・・・・ ・ピンクレディ サウスポー、モンスター、透明人間、カメレオンアミー、 そして年末にUFOでレコード大賞 ・成田空港が5月に開港 ・映画「未知との遭遇」が大ヒット、SF映画ブーム ・東芝がワープロを初めて発売 ・京都の市電が全廃された ・総理大臣は福田赳夫 1978年生まれの人は今年2000年で、22歳です。つまり大学4年生なわけで、この第一回合演が行なわれていた頃に、生まれた人が、今年第3回目の合演を迎えているということです。大きなため息が聞こえてきそうですね。そして、ショッキングな事実は、大部分の金大フィル、京大オケの現役生たちは、まだ生まれてはいなかった・・・・・・・!! 金大フィルはといえば、団運営が本格的に組織化され、団員数が100人を超え、飛躍を始めたそのときでした。前年には、北陸でブルックナー「ロマンティク」を初演、その前年には、初めて東京よりプロ指揮、伴有雄氏を迎えて、意気揚揚といった時代だったのはないでしょうか。ここに至るまでの経過は金大フィル50年史に詳しくあります。 しかし、オケの演奏技術としては、まだまだ、金大フィルのピーク時から比較すれば、かなり未熟。おそらく、京大との合演を申し込まれた時は、金大フィル側では、何らかのためらいが在ったのではないかと想像されます。なにせ、京大のオケといえば、学生オケの西の雄、まともにやりあって勝ち目はない・・・・。この時代、京大オケと唯一互角に渡り合えたのは、金管セクションだけだったはずです。 確かに、このときに京大が演奏した「チャイ5」は金大フィル側に衝撃を与えたようです。私自身は、最後のキエフの大門の印象が強すぎて、さほど記憶に残っているわけではないのですが、鹿島屋旅館の女将いわく、「演奏が始まると、体は震え、涙が止まらなかった・・・」 この最初の合演を押し進めて、成功に導いたのは、当時の団長さんの伊代田氏だったのではないかと思います。伊代田氏(Perc.)はこの年の冬、佐藤功太郎氏を定演に迎えるなど、積極的な団運営をされていたようです。伊代田さんの思い出えぴそーどは、ココです。そして、もう1人、演奏会を直接マネージされたのが瀧口さん(Fl)でした。滝口氏の、お話はこれも、「金大フィルえぴそーど」で、ご覧になることが出来ます。 ![]() この合演を指揮をしたのが桶谷氏でした。えぴそーどは、ココ。桶谷氏はトランペット奏者でありましたから、さぞかし、両大学の演奏者を挑発したしたことでしょう。MP3でも、それはよく伝わってきます。↓ 京大との合演は、何もステージ上だけではなく、コンパ会場においても壮絶な戦いがあったものと想像しています。この辺のえぴそーどを何方か寄せて頂けると、うれしいのですが・・・・。 京大とのつながりは。翌1979年に金大フィルがNHKの音楽番組(黒柳徹子の司会)に出演した時に、アイーダの凱旋ラッパに京大が賛助出演したり、1981年の京大定演のマーラー「復活」のバンダHrに金大フィルが京都に応援に行くなど続いていたようです。そして、次の85年の合演に繋がっていくのです。(中西記)
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![]() 第ニ回合演 1985年 |
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第2回目の合演が行なわれたのは1985年、昭和60年のことでした。その年のできごとは・・・・・・ ・映画「アマデウス」ヒット ・ゴルバチョフ就任 ・電電公社がNTTへ、通信の自由化が始まる ・日航ジャンボ機、御巣鷹山へ墜落 ・関越自動車道全線開通 ・VTR普及率48.7% ・任天堂のファミコンブーム ・アメリカ純債務国へ、日本は世界一の債権国になる ・総理大臣は、第2時次内閣の中曽根弘康でした。 この合演は、金沢市文化ホールで行なわれました。当時文化ホールはまだ、完成して間もないものだったように記憶しています。文化ホールの音響は、厚生年金会館より少しましにしても、響きのない貧しいものでした。もっとも、このホールがなければ、合演も実現しなかったのかもしれませんから、文句を言うのはやめましょう。本来なら、観光会館や厚生年金会館が確保できれば良いのですが、予算や、予約状況でそうもいかなかったのでしょう。 1985年に時点においては、金大フィルは大きく飛躍を遂げて、一つのマイル・ストーンを通り過ぎた時期だったということが出来ます。前回の「黒船来航」のような第1回合演から7年が経過していました。この間に、金大フィルはプロ指揮を4人迎え、学生指揮によるサマコンも完全に定着、運営組織も確立し、まさに安定期を迎えようとしていました。特に、この間の団員数の増加は目覚しく、少なくとも規模においては、金沢大学最大のサークルに成長していました。歴代の団長他のスタッフの努力で、学生課などとも上手くやっており、騒音公害で教養部教官連中から時々何かと言われましたが、それでも、金沢の音楽文化を代表する、団体として、自他ともに誇りを持って活動をしていたように思います。この辺りの成長ぶりは、金大フィルの顧問であった、川口恒子氏の例年の演奏会「ご挨拶」からも伺うことが出来ます。一方で、団員全員が定演ステージに乗ることが出来ないという事態に至りました。これをなんとか解消すべく、様々な工夫がされたように思いました。この辺りの詳しいいきさつは、また、えぴそーどを募ってみようと考えています。 2回目の京大との合演がどのような経緯で決定されたのかは、この時期のOBに上手くコンタクトが出来なかったのでよくわかりません。京大がいろんな地域を毎年演奏旅行で訪ねて、ちょうど全国を1周を終えて7年で戻ってきたのではないでしょうか。私は、まだ在学中でしたが、引退していて残念ながら、実演は聴き逃しました。曲目がすこし地味目のものが並んでいて、1回目よりも若干渋い合演だったようにみえます。当時のオープンリールテープを聴いて、やはり、京大の弦の上手さには感心します。とにかくアマチュアにありがちな変な音が聞えて来ないので、安心してシューマンを聴くことが出来ます。しかし、さすがに、金管が入るとアマチュアであることが良くわかります。金管はチャイ5の時代から比べると少し落ちたかなという気がしました。金大フィルのほうは、かなりゆっくり目のテンポで非常に重厚なしっかりとした「運命」の演奏です。近く金大フィルの「運命」特集を組もうと思っているのですが、歴代の「運命」の多くの演奏の中でも秀逸なものだと思います。コンサートの最初の曲目として演奏されたので、冒頭の緊張ぶりがありありとうかがえます。 合演演目は順当なところで、「フィンランディア」でした。これは、最終部をお聴きいただきましょう。そして、アンコールはチャイコフスキーの白鳥の湖のワルツで、文字通り競演でした。途中のトランペットのソロは、両大学の交代で吹いており、一騎打ち、緊張のあまり、ポカをやっているのがご愛嬌、金大か京大かは不明。 この後、15年間合演を行うことは、京大以外とも含めて、なぜかなかったようです(1995年に京大より申し入れがあったが、なぜか、金大側が断った)。角間移転など混乱期で、上手いめぐり合わせがなかったのかもしれません。2000年の久々の合演、おそらく、金大フィルにとっては、狭い(多分)視野をかっと開いてくれる良い機会になるのではないかと思います。(中西記) |
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第2回合演 金沢大学フィルハーモニー管弦楽団、京都大学交響楽団 合同演奏会 85/7/26 金沢市文化ホール 指揮:松浦正純 シューマン春より(京大) 運命より(金大) シベリウス・フィンランディア(合演)より後半 |
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