京大合演特集
なれそめ  1978/1985合演  2000年前夜  2000年当日  振り返って


金大フィルと京大オケ、そして旅館

 
  このHPをごらんいただ居ている方々は、おそらく大部分が金大フィルOBしかも、何らかの形で金沢駅前の「鹿島屋旅館」さんにお世話に成っている方々なのではないかと思います。HP制作者としては、これだけでなく、すべての金大フィルOBの皆さん、より幅広い年代の方々に見ていただきたいのが、心からの希望です。
 しかし、一方で、何故金大フィルOBのHPが旅館HPの中に間借りしているか・・?について不思議に思っている方もいらっしゃるかもしれません。現役団員の皆さんの中にも、何で?鹿島屋旅館?・・・・という方が居るかもしれません。

 ここで、この3者をつなぐ点と線をお話してみたいと思います。実のところ、京都大学音楽部交響楽団と第1回目の合演をきっかけとして、金大フィルと鹿島屋旅館の関係が始まったのです。


夫婦でラッパ
おしどりラッパ
 今を去ること22年前、京都大学音楽部交響楽団(以下、京大オケ)と金大フィルの第1回目の合同演奏会が観光会館で、開かれました。この時、京大オケの皆さんの宿舎の1つが何をなにをかくそう、「鹿島屋旅館」だったのです。これ自体は、特に驚くべき偶然というほどではありません。しかし、旅館の御主人と女将さんがその学生時代に「おしどりトラペット奏者」だったとしたら・・。ここから、この3者の長い付き合いが始まったのです。旅館の御主人と女将さん(奥様)は、学生紛争がたけなわの70年代初頭に立教大学交響楽団でTp奏者であったのです。いまでも、昔のラッパの話をよく、聞かされますが(田園のCの音をあてた、とか、ハイドンのコンチェルトを高校のときに吹いた、とか・・・)、実際、金大フィルの定演にもバンダ奏者として出演されたことがあります。


 このような経緯から、たまたま合演打上の酔っ払いとして旅館にころがりこんだ、当時の金大フィル伊代田氏(後に団長)が、間もなく当旅館でバイトをするようになりました。やがて、多くの金大フィルの団員が旅館専属バイトとして、旅館のお手伝いをすることになりました。学生は、バイト代とビール付き夕食、朝の牛乳(牛乳とコーヒー牛乳を割ったもの)とパン、風呂付き、夜中にこっそり厨房で入手する夜食つき!・・・破格の好待遇条件で関係を深めていったのです。
 1978年当時は、鹿島屋旅館も、3代目として御主人が経営改革?を進めて、近代化経営を図っていた頃だったようです。この少し前までは、女中さんたちが住み込みで働いていたそうですが、ちょうど、学生バイトを導入されていた頃で、金大フィルとの関係は鹿島屋さんにとっても渡りに船といったところだったのでしょう。しかし、もちろん鹿島屋さんが単に経営上のパートナーとしてだけ金大フィルを見ていたのではないことは、何方もご存知でしょう。

 当時は、ご主人も若々しくて、自転車で、城内の練習場までやってきて、「明日バイトせんか?」と人買いに来れられていたのを思い出します。もちろん、そのような時は手ぶらであるはずがなく、何がしかの練習後の学生達の食料を携えて、練習場を訪れてくれたのです。ご主人は、通常の金大フィル演奏会は、商売柄、宿泊客に夕食を出す時間と重なり、聴きに行けない場合が多かったらしいのですが、それでも夜のお寺コンパには必ず参加されていました。ビールケースと一緒だったのは言うまでもありません。金大フィルの新歓、各パートのコンパを鹿島屋旅館で行なうことも数多くあり、あるパートのコンパを別のパートの学生バイトが準備して、ゲロの始末までしていたことを思い出します。




広間で労働 学生達といえば、鹿島屋にほとんど住み込み状態で働いていたプロの「バイト人」も数多く、何人かは伝説と化しています。「鹿島屋バイト」はどちらかといえば、ガテン系の仕事が多く、←食事の準備、布団の上げ下ろし、客室の掃除、便所、風呂そうじ、シーツ交換、駐車場案内まで、多岐にわたっております。お客さんの様々な人間模様を見ながら、肉体労働に励むと言うような、学生達にとっては、一種の社会勉強の場であったように思います。それだけに、旅館の仕事から学ぶことも多く、さらにもっと重要なのは、ご主人と女将さんに色々とお世話をしていただいたことが、学生達の心に深く残っていることなのです。金沢に立ち寄った時には、必ず、鹿島屋旅館に顔を出すOBが数知れないということがそれを証明しているのです。鹿島屋バイトの休憩施設兼、寝場所だった部屋の名前が、このHPのサブタイトル、「高砂」 なのです。この「高砂」で、数知れぬOBたちが、集い、語り、マージャンもし、こっそり厨房からかすめたビールをあおり・・・・・。金大フィルOBにとっても、青春の一こまを過ごした、場所であるのです。今でも、多くのOBたちから届けられた葉書、手紙が、この高砂の間の壁に貼り付けてあるのをみることができます。



 第1回目の合演時(1978年)は、まだ、日本がまだ右肩上がりの経済成長を信じていた時代。金沢の観光客数も増加の一途を辿り、旅館としてもダイナミックな時代をすごしていました。このときに鹿島屋旅館に泊まった京大オケの皆さんも、もう40代を迎えているですね。その後、第2回目の合演(1985年)でも、京大オケの皆さんは鹿島屋に泊まられました。時は、さらに流れ、バブル時代を通り過ぎて、今では金沢の観光ビジネスも残念ながら芳しい状況ではないようです。それでも鹿島屋旅館は、まだ、変わることなく、しっかりとここにたっているのです。そして、22年を経た2000年夏、再び、同じ京大オケの皆さんをお迎えできたのは、鹿島屋さんとしても感慨深いものがあるのではないでしょうか。

 さらに、旅館の娘さんが、京大オケに在籍しチェロを弾いていたことも有り(最近、卒業された)、京大オケと鹿島屋旅館の関係も続いていったのです。京大オケの定演には、旅館を閉めて、京都まで聴きにいかれていると聞きます。従って、京大オケからもいろんな方々が、観光に金沢を訪れ、鹿島屋旅館に泊まっていくという関係が続いているのですね。

京大の人 京大の人々 京大の人々 京大オケの皆さん
鹿島屋にて




グロート氏と鹿島屋主人
グロート氏と鹿島屋主人
 鹿島屋さんご主人は、金大フィルのパトロンであるだけに止まらず、金沢のトランペット演奏に関連したバックアップ活動に尽力されているようです。昨年には、ベルリン・フィルの元主席Tp奏者のコンラーディン・グロート氏の金沢演奏会をサポートされたり、今年設立された石川県トランペット協会(ITS)の発足世話人として、地元の音楽活動に参加されています。最近では、NHK交響楽団元主席Tp奏者、北村源三氏が鹿島屋を訪れられたのも、楽しい話題でした。ラッパの収集もされているようで、京大オケの皆さんも、鹿島屋旅館に着かれたら、是非、御主人と女将さんとコミュニケーションをされること、お薦めします。楽しい会話のキャッチボールを楽しめるに違いありません。決してきれいで便利な旅館ではないですが、京大オケの多くのOBが第1回合演から20年来、訪れ続けている旅館だということも、知っていて損はないとおもいます。



 20年を越える、3者の関係 ---- 一つの演奏会がとりもった縁が、たくさんの人を結び付けていることに----不思議な感慨にとらわれるのは、私だけではないと思います。今年の、3度目の合演も多くの人を結びつけるものであってほしいと願わないではいられません。  (85年卒Tp、中西記)