<昭和53年 京大・金大合同演奏会の思い出>


                  
80年卒業 打楽器  伊代田誠二
  

   
                              
 京大オケの演奏旅行担当総務であった畑さんから一通の手紙が金大フィルに送られてきました。内容は、「北陸地方へ演奏旅行に来るので、合同演奏会をしませんか」というものでした。学生オケとの交流といえば、北陸3大学の芸交際程度でしたから、僕にとっても金大フィルにとっても、このジョイントの話は相手が京大ということもあり、まさに青天の霹靂という感じでした。

 1月ごろの話だったと思いますが、次年度の行事ということで団長に内定していた僕に「どうするの?」と話が持ちかけられ、とりあえず犀川君と京都に行ってオケの様子を見学させてもらったり、合同演奏会に対する考え方を聞くことにしました。当時、僕は何でも新しいことをやってみたい、刺激的なものとやってみたいと思っていましたから、オケの運営や行事の組み方について他の団員からの批判も少なからずあったと思いますが、犀川君は僕の最も良き理解者であり、僕は何かにつけ彼と行動を共にしていました。貧乏学生だった我々は、ぼろぼろの格好で普通電車を乗り継いで京都まで行った訳ですが、出迎えに来てくれた京大オケの演奏旅行担当者の面々は、全員がスーツにトレンチコートといういでたちで、その格好だけで圧倒されてしまいました。


サマコン受付 左から3人目 伊代田氏
左端は犀川氏

第2回サマコン受付

           

 京大で毎年行われる演奏旅行は、10日間程の日程で各地の小中学校等を中心に回り、その間に地方の大学オケとの合同演奏会ができれば、日程に組み入れたいというものでした。当時の金大フィルの演奏旅行は「能登半島2泊3日」が定番でしたので、京大の演奏旅行は、規模の面からも、また、他の大学オケに合同演奏会持ちかける積極的な取り組み方にしても、金大フィルの数段上をいっていました。また、この時から京大オケの定期演奏会を聴くようになったのですが、最初の演奏会(ブラ4だったと思います)でその上手さ、凄さに脱帽しました。

 合同演奏会というのは、学生同士の交流の場には違いありませんが、それを聴きに来る観客にとっては、またとない聴き比べのチャンスです。「このオケと合同演奏会をやったらどうなるだろう?みんなビビるよなぁ。金大フィルの未熟さ(はっきり言って下手さ)が目立つよなぁ。金沢の観客はどう思うだろうか。合同演奏会の次の定期演奏会にお客さんが来なくなるんじゃないか。そうなったらどうしよう。」等々、合同演奏会を行うことよりも、その結果に不安を感じていたことは事実です。

 当時、早稲田のオケが4年に一度は海外演奏を行っていたり、東大や慶応のワグネル、立教、関学 等々、都市部の有名大学オケは、各地で地方公演を行っていましたので、「都会のメジャーな大学は考えることが違うなぁ」と羨ましく思っていました。金大フィルを少しでもメジャーな大学オケに近づけたいと考えていた僕は、京大とのジョイントを何としても実現したいと思いました。演奏会が成功するかどうか、金大フィルにとってこの合同演奏会をすることが果たしてプラスになるのかどうか、すべてが未知数でした。言ってみれば、名もない田舎チームがホームグラウンドに全国大会レベルのチームを招いて交流試合をするようなものですからコールド負けは必至です。ただ、それによって技術的な面ばかりでなく、オケの組織、運営、音楽やサークル活動に対する考え方等、様々な面でいい刺激にもなるし、勉強させてもらうことが数多くあるように思われました。

 年間行事を決める定例総会では、夏の演奏会として定着させていこうとしていたサマーコンサートとの兼ね合いが、最大の論点となりました。サマコンとジョイントを両方行った場合、両方の演奏会に同程度観客を動員できるかどうか、その際同じ曲目で演奏会を開催してもよいものかどうか、2度の演奏会を開くことについての経済的負担をどのように処理するか等々、活発な論議がなされたように記憶しています。結局、合同演奏会を優先させ、サマコンの開催を見送りました。このことは、合同演奏会を強力に推進した僕にとっては、それを成功させ、金大フィルに成果をもたらさなければならないという意味で、大きなプレッシャーになっていました。

 合同演奏会の実行委員長は、瀧口さん(フルート 医学部)に担当してもらいました。優秀な京大生を相手に対等に交渉できるのは瀧口さんしかいないと思っていましたから、京大からの話があった時点で瀧口さんに執行部に入ってもらえるように夜な夜な口説きに行ったように思います。前年度に財務委員長をやってかなり苦労していた彼は、始めは強硬に抵抗していたのですが、そうこうしている内に明け方まで飲み明かしたり、寿司屋の太巻きを賭けて麻雀をやる仲になっていました。おそらくこの件に関しては、瀧口さんは今でも「伊代田にはめられた」と思っているに違いありません。それは兎も角、金大フィル始まって以来のビッグイベントを運営できたのは、彼の力によるところが極めて大きかったことは、今更僕が語るまでもありません。交渉は、京都・金沢を往復して行われましたが、その内容は分かり易く団員に伝えられ、京大・金大の相互理解に大きく貢献されました。(これは、決して大袈裟な表現ではありません)

 演奏曲目は、シューマンの3番「ライン」とベートーベンの「コリオラン」さらに合同演奏として、「展覧会の絵」から「バーバヤーガ小屋とキエフの大門」でした。選曲については、PL議長であった斎藤君にかなり苦労をかけました。定期演奏会を含め、音楽面のことはほとんど斎藤君任せで、僕はやりたいことをわがまま放題にやらせてもらったように思います。僕にも斎藤君にも「金大フィルのことを一番考えているのは自分だ」という自負がありましたから、意見がぶつかり合うのはしょっちゅうでしたが、最後には、「何とかしようぜ」「よしわかった」という阿吽の呼吸で1つ1つの行事を完成させていったように思います。今でもそうだと思いますが、弦楽器に初心者の多い金大フィルにとっては、夏の演奏会はどうしても技術的な不安がつきものです。合同演奏会ということで、聴きに来られるお客さんにとっては演奏の出来不出来は一目瞭然です。そこで名曲と言われる曲の中で何とか完成度を高められるものはないかということで最終的にこの曲になった訳です。ただ、唯一誤算だったのは、打楽器(つまり僕のこと)のリズム感と音程が悪かったことだと思います。

 合同演奏の曲である「展覧会の絵」は、何を隠そう僕の趣味です。このことは当時誰かに喋ったかどうか記憶にありませんが、音楽、特にクラシックにはとんと縁のなかった僕が血迷ってブラスバンド入った時に最初にやったのが「展覧会の絵」のキエフだったのです。最初に買ったクラシックのレコードも「展覧会の絵」(バーンスタイン ニューヨークpho)なのです。確か「幻想交響曲」の「断頭台への行進」や「フィンランディア」あたりが候補にあがっていたと思いますが、「展覧会の絵」にこだわったのは、ブラスでやった曲をオーケストラでやってみたいというかなり個人的な感傷が入っていたことは事実です。また、観客の度肝を抜きたいと思っていましたから、合同演奏という以上フルオーケストラを単純に2倍にして圧倒的な音量でお祭り演奏をしました。たまたま、その演奏に居合わせたプロの演奏家は、「音の暴力だ」と評しましたが、一般受けはかなりしたと思います。

 打ち上げコンパと言えば、お寺(本因寺)というのが金大フィルの定番ですが、この時の打ち上げは、人数的なこともあり、竪町近くの会場をとったように記憶しています。演奏もさることながら、京大連中のコンパの凄さに呆気にとられていました。兎に角芸達者揃いでコンパでも太刀打ちできないような有り様で、その後の語り草になったものです。金大フィルのコンパがその後かなり激しくなっていったのは、この時の影響によるものだと思っています。

 京大オケの金沢滞在中に総務の畑さんや伏木さん、コンマスの柳生さんたちと飲みに行って、酔った勢いで訪ねたのが宿泊先の「鹿島屋旅館」です。僕達夫婦にとっては親も同然の谷内夫妻との運命的な出会いはこの時です。とは言っても、実のところただの酔っ払い学生が行き場が無くて運び込まれただけなのですが、温かく迎えて下さったご夫妻に心から感謝致しています。その後、鹿島屋旅館のバイトは金大フィルが独占していくことになるのですが、これも伝統の一つとして絶やさないで欲しいと切望します。なぜなら、僕の知る限り、金大フィルのOB以上に金大フィルを愛し、金大フィルの発展を心から願ってやまない最良の理解者は「鹿島屋さん」だと言っても過言ではありません。これは「鹿島屋さん」を知る多くのOBが認めるところだと確信しています。

 合同演奏会当時のことをあれこれ思い出しながら、とりとめもなく書いてきましたが、若人(学生)の特権である情熱が、随所にほとばしるような「熱い演奏」を期待します。



最終更新 2000/8/1