第1回京大との合同演奏会の思い出

 
                   
昭和51年入学 フルート 瀧口 哲也氏 




昭和53年夏,金大フィルは初の合同演奏会を観光会館で行った。

どうして京大とやるようになったか、いきさつは全く記憶にない。
どうして合演の実行委員長をやることになったのかも記憶にない。(註1)

「入団費をとるなんて、あこぎだっ」と1年生の時に暴れていたら,
次の年,財務委員長にさせられていた。
教養(入学して2年間は、城の中だった)が終わったら今度こそ
まじめに勉強をしようと決心していたが、
伊代田誠二たちと、朝2時頃ラーメンを食べているようになっていた。

ともかくも打ち合わせと下見を兼ね、伊代田誠二,斉藤忠直、栃川昌文たちと、
愛車カローラに乗って何回か京都にいった。(註2)

京大オケは木造の古いが響きがよさそうな練習所で練習をしていた。
合奏で,フォルテになるとコンサートマスターから最終プルトまで
一斉に前傾姿勢となったので、びっくりした。(3)
金大フィルでは、入部後楽器をはじめた人が多いという話しをしたら,
びっくりされた。
オーボエが役者だった。音程の不安とかいったありがちな心配を
聴くものに全く感じさせない、ほれぼれとする演奏だった。

京大オケの合演担当は、伏木さんというクラリネット吹きであった。(4)
20数年前初めて王将(だったか?)の餃子につれていかれた。
1皿100円位と思われた餃子を3皿4皿と食った。
りっぱなところでもごちそうになったが、こちらはあまり記憶にない。

京大オケの様子を、ファゴット吹きの居相さんが壁新聞にしてくれていた。(5)
今はなき藤島さんが、いい企画だと珍しく誉めてくれた。

金大フィルでは、部費を払っていれば必ず出番はあった。
京大オケでは、公演に出る為には選抜があるようであった。
改めて、金大フィルは全員参加が活動の中心であったことを認識した。

金大フィルはベルリオーズのラコッツィ行進曲をやり、私は大太鼓を叩いた。
中間部で大太鼓のソロ?があり ppで叩いたら、後で
「一発目はずしたのではないか?」といわれ悔しい思いをした。
こういうことは覚えている。(6)
その次、いわゆるメインは何を演奏したのか、記憶になかった。
脳みそが封印していたのだろう。
最近、シューマンのラインであることがわかった。
幼稚な演奏しかできず、悔しかったことは覚えている。(7)
京大の芳醇なチャイ5の前にくだけ散ってしまった。

最後の展覧会の絵は、金大フィルと京大オケが同じ板にのり超大編成となった。
会場にいた関係者が、「音の暴力や」といっていたという。(8)
私はそでで聞いていた。終わって、拍手。
実行委員長もステージに出るか?といわれたが、もじもじした。
「伏木さんでれば」と勧めたが,
「あなたがでていかないのに、僕だけでてはいけない」といわれた。
こういうことも覚えている。

宴会は,どこでやったんだろう?
先日さる先輩に伺ったところ「けんけんおちん」だという。(9)
私は昔チーフコック佐古があった、今のアクティでないかと思うのだが自信はない。
どんな宴会だったかもほとんど覚えていない。(10)
その先輩は,金大フィル劣勢とみて、即興で巨人の星をやったという。
確かにこの芸は覚えていた。大うけだった。
これが、合演の打ち上げに行われていたとは。
胴揚げをされ、天井に両手ついた事は覚えている。

PS
当時の決算報告など示しアカデミックな報告にしたかったが,
度重なる引っ越しの為か、資料はなかった。
自分の島状の記憶を露呈する結果となった。
しかし、一冊だけ、もっかんのおと が発見された。
さっするに,S53年の1月23日から2月22日まで。
村瀬(そうだ、むらせだった)宏美からはじまり,谷さん、夏目と続く。
居相さん(この名も実はノートを見て思い出した)が、坪内くんに檄を飛ばしている。
みんな試験,進級におわれている。プレハブで練習とある。いったい,,,(11)
最後の頁は合演の実行委員会の打ち合わせと思われる自分の走り書きで終わっている。

恐れをしらない若者時代、そう、青春まっただ中の出来事だった。(12)



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注釈 以上の文章を畏兄畏姉に送り検証して頂いたところ案の上記憶違いが発覚した。御指摘と補足を追加する。

註1 合演になったいきさつ。
1)京大の演奏旅行の総務をしていた畑さんから合演依頼の手紙が1月か2月頃に届いて,前団長の居相さんが、僕のところに持ってきてくれました。すぐに犀川と京都に行き、京大の考え方や実現の可能性を探りました。僕としては派手なことをやりたかった(刺激が欲しかった)のでなんとか総会で可決されるように作戦を練りました。ちょうど瀧口さんに執行部をお願いした頃です。その時に瀧口さんが合演の担当ということも決めました。京大と対等に交渉できるのは、瀧口さんしかいないと確信していました。(伊代田)
2)たぶん、京大が北陸(金沢?)演奏旅行を先に企画しており、金沢で演奏会をしたいんだけど、単独では何かとたいへん・・・ということで、向こうからジョイントの話が持ち上がったんだったと記憶してます。それで、じゃあサマコンの代わりにジョイントやろか・・・といういきさつだったはず。(菅原)

註2 京都へいったメンバー・・・記憶違いのようです。
1) 栃川くんは、1年生でした。犀川太くんです。(伊代田)
2) 私、53年入学なもので、京大オケとの合演は出演はしましたが、企画段階では入っていません。サブステマネはやりましたが。上記のメンバーで京大オケへ遊びに行ったのは翌年だったと思います。おそらく犀川さんが一緒に行かれたのではないでしょうか。(栃川)

註3 京大の担当者・・・畑さん,畑さん そういえば。
1)懐かしいですね。伏木さんと畑さんの名コンビでした。(伊代田)
2)伏木さんは、今、京都の病院で放射線科のドクターをしています。私は、4年ほど前に再会を果たしました。パソコンオタク系で、大津のオケかブラバンでクラリネットを吹いております。瀧口さんちと同じく男の子が3人。(菅原)
3)伏木さん、お元気なんでしょうか?北陸高速でスピード違反で捕まったと、ぼやいていましたね。(栃川)

註4 京大の演奏
1)迫力がありましたね。ホームグランドで負ける試合はしたくない とつっぱったことを言っていましたが、内心勝てるわけがないと思っていました。とにかく何でも勉強しようと思ってました。(伊代田)
2)金沢へ来てからの京大オケの初練習は今でも鮮明に覚えています。背筋がゾクゾクするくらい感動を覚えたことを・・・・。(栃川)

註5 壁新聞・・・「てっちゃんの〜(また忘れてる)」は居相さんの仕事です。
  壁新聞は、瀧口さんが作っていたと記憶していましたが、僕の記憶違いでしょう。居相さんも団則改訂の担当者として執行部に残ってもらったと記憶しています。(伊代田)

註6 オープニング・・・京大の人にいわれたので,勘違いしてました。
1)ラコッツィ行進曲は、その年の定演(39回)のオープニングです。合演は、コリオランです。(伊代田)
2)コリオランをオープニングでやっています。手元にプログラムで確認しました(私もこうこうせいで、聴きました)。(中西)
3)ラコッツィ行進曲は、その年の定演だったと思います。コリオランではなかったでしょうか。(栃川)
4)そーです。栃の指摘どおり、ラコッツィ行進曲は定演です。(菅原)

註7 ライン・・・思いはみな同じでした
1)僕は3拍子ができませんでした。トホホ(伊代田)
2)私は、ほとんど思い出したことはなかったです。今、ブラームスの合唱曲とかを歌うことがあって、やっと「ああ、この時代の曲はこんなふうに演奏すべきなんだな」っていうのがわかってきた感じ。音を出すのがやっとだった10代の若造が、なんと無謀なことをやったのかってなところですね。(菅原)

註8 展覧会の絵はすごかった
そりゃそうだ。管楽器はトリプルでしたからね。我々打楽器は、それを相手に楽器を叩きまくっていました。練習では、ティンパニの革は破れるは、ベルを吊る紐は切れるは、大騒動でした。(栃川)

註9 宴会場・・・誰か確かな記憶はないのか!? まあ,酔っぱらってたしな。
1)ト一食堂の近くのビルだったと思います。出入り口横に水場があった記憶がありますが、定かではありません。(伊代田)
2)えっ、私も覚えてないよー。いつものお寺じゃなかったっけ?(菅原)


註10 宴会・・・さる先輩(とは越田さん)も同じ意見。
   とにかく京大のメンバーの騒ぎ方は演奏と同じでかなり激しかったですね。ゴキブリ踊りというのを覚えています。(伊代田)


註11 プレハブ・・・そういえば昭和51年エグモントはここで練習したような。
    瀧口さん、プレハブ覚えてません? ほら宮守坂の、県立体育館の裏にあった。透子が両手に楽器と楽譜を持って顔からこけたとか、斎藤兄さんが、1回生の指導中に腹痛を起こしてトイレが近くになくて困ったとか・・・そんなことばかり思い出せるプレハブです。(菅原)


註12 青春だった・・・これはみな同じ思いのようで。
1)ほんとうにそうでしたね。懐かしいです。(伊代田)
2)同感です。(菅原)



最終更新 2000/1/27