居間にいるパユ。 佐久間學

(19/11/9-19/11/30)

Blog Version

11月30日

BEETHOVEN
Symphonies 5 & 6
Marek Janowski/
WDR Symphony Orchestra
PENTATONE/PTC 5186 809(hybrid SACD)


いよいよ「生誕250年」となる年も近づき、これからはリリース・ラッシュとなることが予想されるベートーヴェンですが、つい先ごろそのベートーヴェンの交響曲を引っ提げて来日していたヤノフスキとケルン放送交響楽団の、昨年9月に本拠地のケルンのフィルハーモニーでライブ録音された「5番」と「6番」が聴けるんですね。
ヤノフスキと言えば、シュターツカペレ・ドレスデンと、世界で初めてデジタル録音による「指環」を完成させたという「偉業」を達成した指揮者として、まず記憶にのこっていました。さらに、このPENTATONEレーベルでは、世界初のSACDによるワーグナーの「オランダ人」以降のすべてのオペラの録音も行っています。
そんなヤノフスキも80歳を超え、もはや「巨匠」と呼ばれてもおかしくない年齢となっていますが、彼自身はそのようなものにあぐらをかいて悠々自適の老後を過ごすことなどは決してないのでしょう。
そんなヤノフスキが新しく録音したベートーヴェンには、まさに生涯エネルギッシュな演奏を貫き通すと決めたかのような迫力に満ちたものでした。なによりも、そのベーシックなテンポ感が、とてもそんな老人とは思えないような溌剌としたものであることに、驚かずにはいられません。
「5番」では、まさに「巨匠」とは無縁のスピード感あふれる演奏が展開されています。そんな中で、終楽章になって初めて登場するピッコロの扱いに、とても思いやりが感じられるような場面がありました。もちろん、このオーケストラはモダン楽器を使い、おそらく編成もかなり大人数の弦楽器が使われているという現在では当たり前のことをやっているのでしょうが、そうなってくると、ピッコロがほとんど聴こえなくなってしまうのですね。ベートーヴェンの時代でしたら、弦楽器はそれほど大きな音が出ませんでしたから、ピッコロはどんな時にでもとびぬけて聴こえていたはずなのに、それがコンサートや録音ではまず聴こえてこないのが今のオーケストラでのピッコロの悲劇なのです。
例えば、この楽章の提示部の最後あたりで、ヴィオラと木管が演奏する「ソーーーファ♯ミレレレ」という四分音符によるフレーズにファースト・ヴァイオリンが「レミファ♯ソラファ♯ソ」という十六分音符の合いの手を入れる場面があります。それはもちろん、どちらのパートも明瞭に聴き取ることができるのですが、その8小節後に、今度は最初のフレーズがオーケストラのトゥッティで鳴り響く中を、ピッコロがたった一人が合いの手を入れるという形で繰り替えさえます。その時のピッコロは、現代のオーケストラでは決して聴こえてはこないのですよ。
ところが、ヤノフスキは、ここでピッコロが出てきたときに他の楽器を思いっきり抑えて、しっかりピッコロが聴こえるようにしてくれているのですね。
「6番」では、曲自体の性格から普通はそれほどテンポが速くなることはありませんから、ヤノフスキのテンポにはちょっと性急すぎるような感を抱いてしまいます。第2楽章などは、モダン・オーケストラでこれはいくら何でも、という気がします。
ところが、そんなテンポに乗り遅れまいとしたのか、フルート奏者がなにか躍起になっている箇所があるのには、ちょっと驚きました。
この、フルートだけに全打音がある部分が完全に走っているのですよ。ライブなのでたまたまそうなっただけなのかと思ったら、繰り返しでも、そして再現部で同じ形が出てくるところでもやはり同じように走っていました。
この部分は1番と2番のユニゾンなので、二人が張り合っていたのでしょうか。でも、1番のソロが出てくるところでも、やはりその部分だけテンポが浮いていて、まわりが全然聴こえていないように感じられます。なんか、とても醜い姿を見せられた思いで、不愉快になってしまうほどでした。改めて、オーケストラの管楽器奏者の役割の重さを知った演奏でした。

SACD Artwork © Pentatone Music B.V.


11月28日

INFINITY
Natalia Jarząbek(Fl)
Emmy Wils(Pf)
DUX/DUX 1457


ナタリア・ヤルゾンベクという、クラコフ・フィルの首席奏者を務めるポーランドの若いフルーティストの何枚目かのアルバムです。まずは、「無限」という謎めいたこのアルバムタイトルと、そのジャケットに注目です。フルートを捻じ曲げてまるでメビウス・リング、もしくは無限大(∞)のような形にしていますね。
それと、もう一つ謎なのは、ブックレットの中にあるこの写真です。
どう見ても、これは若いフルーティストがレッスンを受けている様子ですね。もはや一本立ちして活躍しているフルーティストのアルバムにその先生が登場するなんて、ありえません。実は、それを解く鍵が、「無限」という単語にあるのです。
この写真を見て、ヤルゾンベクさんが頬を膨らましているのが分かるでしょうか?普通、フルートを演奏するときには、たとえばジャズ・トランペットのディジー・ガレスピーのように頬が膨らむことはありません(ほお)。
この先生は、やはりフルーティストのバルバラ・シュヴィオンテク=ジェラジナという方で、ヤルゾンベクの恩師なのですが、ここで二人は「循環呼吸」の「訓練」を行っているのですよ。これは、フルートを演奏している途中で頬を膨らませて口の中に空気を溜め、一瞬肺からの息を止めて頬の力でその空気を出して演奏を続ける間に、鼻から息を吸うという技法なのです。なんでも、そこで得られたノウハウで、賞までもらっているのだそうです。つまり、このアルバムは、そんな、二人で完成させた「循環呼吸」の技法をお披露目するために作られたものだったのです。
それを端的に表したのが、1曲目のパガニーニの「常動曲」です。ヴァイオリンのために作られた曲で、十六分音符がそれこそ「無限」に続いていて途中には休符が全くありませんから、ヴァイオリンで演奏する時には何の問題もありませんが、それをフルートで吹こうとすると息を取るところがありません。それを、彼女は循環呼吸を使って見事に間を開けずに吹ききっているのです。
確かに、以前はゴールウェイが同じことをやっていてびっくりしたものですが、それはブレスの位置を変えて何度も演奏したものを編集したものだと、本人が伝記で明らかにしていましたから、まあ「ズル」だったわけです。
同じように循環呼吸を売り物にしていたシャロン・ベザリーの場合は、息を吸っている時にその音が派手に聴こえてきますが、ヤルゾンベクの場合は、録音も上手なのでしょうがそんな「ノイズ」は全く聴こえません。
これと同じことが、アンデルセンのフルートのためのエチュード(作品15の3番)とか、ショパンの、もちろんピアノのためのエチュードなどでは行われていますから、循環呼吸に関しては、もう完璧に「免許皆伝」となっていて、何の不自然さも感じさせられない「無限」の世界が広がります。
おそらく、それだけでも既にほかのフルーティストより数段高いところにいるはずなのに、彼女の場合はそんなところで満足するようなことはありません。なによりも、とても美しい音が出せています。低音はパワフルで芯がありますし、中音はあくまでなめらか、そして高音はあのゴールウェイにも匹敵するほどの表現力を誇っています。
さらにすごいのは、彼女は多くの作曲家に委嘱したり、献呈を受けていたりしているのですが、その「現代技法」満載の新作も、いともやすやすと手中にして、難解なはずの曲からも美しさと愉悦感を引き出しているのですよ。
最後に演奏された、自身もフルーティストのイアン・クラークが作った「The Great Train Race」などは、彼女の全ての要素が動員されて、もうあっけにとられるほどです。重音をこれほど美しく吹くフルーティストには、これまで会ったことがありません。
ペルトの「Spiegel im Spiegel(鏡の中の鏡)」も、アルトフルートとピアノで演奏されています。その、文字通り「息の長い」フレーズからは、まさに精神の「無限」が感じられます。

CD Artwork © DUX Recording Producers


11月26日

Bach Today
Stefan Keller(Fultes)
Beda Ehrensperger(Dr, Perc)
NEOS/NEOS 41901


1961年生まれのドイツのジャズ・フルーティスト、シュテファン・ケラーが、バッハ親子の作品に挑戦したアルバムです。共演は1980年生まれのドラマー、ベーダ・エーレンシュペルガーです。
ケラーという人は、特に低音用の楽器のスペシャリストとして知られているのだそうです。クラシックのフルーティストでも、アルト・フルートが家にあるという人はあまりいませんが、彼はここではアルトはもちろんのこと、バス・フルート、コントラバス・フルート、そして、サブコントラバス・フルート(ダブルコントラバス・フルート)まで演奏していますからね。
写真でしか分かりませんが、この人はかなり大柄なようで、腕も長いのでしょう、普通の人ではアルト・フルートの右手は思い切り伸ばして手首をかなり曲げないと指が届かないものを、楽々肘を曲げて余裕で構えていますからね。
まずは、父バッハの「無伴奏パルティータ」から「アルマンド」です。いきなりバス・フルートのソロでオリジナルとほぼ同じ形のものが、1オクターブ低いイ短調で演奏されます。その後にドラムスが入ってきてリズミックな曲調に変わり、アドリブ・プレイが繰り広げられるのですが、そのバスドラムの音がきっちり「E」に調律されているのですね。その音はイ短調の第五音ですから、トニカにもドミナントにも調和します。ですから、そのままベースとして機能して、まさに「バロック」的なテイストが加わることになるのです。
次の「クーラント」はカットされて、「サラバンド」では、エーレンシュペルガーのボンゴに導かれてアルト・フルートに持ち替えです。普通の楽譜を演奏しているので、キーは当然4度下のホ短調に移調されています。最初は息音だけでジャジーに迫りますが、次第にオリジナルのメロディが聴こえてきます。そして、ライブ・エレクトロニクスでピックアップからの出力をシンセで変調したものが流れ、最後はまたアルト・フルートの生音に戻ります。
3曲目「ブーレ・アングレーズ」になって、やっと普通のフルートが登場、これは軽いフェイクだけで終わります。
次の「組曲第2番」に移る前に、「箸休め」といった感じで「ソルベ(シャーベット)」というタイトルの文字通りデザートのような即興演奏が入ります。ここではまず、「静かなソルベ」ということで、穏やかな曲調のものですが、途中でやはりエレクトロニクスでダブル・ヴォイシングになったり、ディレイを入れてポリフォニーにしたりと、遊んでいます。
そして、普通のフルートで演奏される「ポロネーズ」、「メヌエット」、「バディネリ」の後半の3曲だけの「組曲」(これらも、基本的にオリジナルを尊重したプレイ)の後には、今度は「ファンキーなソルベ」です。ここでは、普通のフルートの3オクターブ下の音が出るサブコントラバス・フルートが、タイトル通りの、まるでチョッパー・ベースのようなファンキーな味を出して大活躍です。
最後の曲は息子カール・フィリップ・エマニュエルの、これも有名な無伴奏フルートのための「ソナタイ短調です」。オリジナルはポコ・アダージョ/アレグロ/アレグロという構成ですが、ここでは最初の2曲を入れ替えてアレグロ/アダージョ/アレグロというシンメトリカルな構成に変えています。オリジナルより、この方がメリハリがあっていいですね。これもアルト・フルートが普通の楽譜を演奏しているので、ホ短調に聴こえます。
それが終わると、「宇宙のソルベ」がコントラバス・フルートをフィーチャーして披露されます。これも、前半はエレクトロニクスで変調されたコントラバス・フルートが、神秘的な音色を奏でて「宇宙」の雰囲気を表現しているようです。
これらはすべて、編集やオーバーダビングなどは行われず、基本的に1回だけのテイクで録音されたのだそうです。ですから、たまにオリジナルのフレーズで音を外していたりするのが、ご愛嬌。

CD Artwork © NEOS Music GmbH


11月23日

BRUCKNER
Requiem
Johanna Winkel(Sop), Sophie Harmsen(Alt)
Michael Feyfar(Ten), Ludwig Mittelhammer(Bar)
Łukasz Borowicz/
RIAS Kammerchor
Akademie für Alte Musik Berlin
ACCENTUS/ACC 30474


ブルックナーの「レクイエム」は、彼がまだ正式に作曲の勉強を始める前、1849年3月に完成しました。それは、その前の年、1848年3月に亡くなった彼の長年の友人、聖フローリアン修道院の書記官のフランツ・ザイラーを悼むために作曲されたのです。ザイラーはブルックナーの音楽的な才能を認めていて、彼が持っていたベーゼンドルファーのグランドピアノを、遺言でブルックナーに譲っています。そのピアノは、今でも聖フローリアン修道院の「ブルックナーの部屋」に展示してあるそうです(床はフローリング)。
「レクイエム」の初演は1849年の9月に聖フローリアン修道院で行われました。その時には、ブルックナー自身がオルガンのパートを演奏しています。さらに、それの評判が良かったので、同じ年の12月にもクレムスミュンスター修道院で演奏されました。その時にも、やはりブルックナーはオルガンを演奏しています。
もちろん、楽譜も1930年にハース版、1966年にノヴァーク版として出版されました。録音も、決して多いとは言えませんが何種類かリリースされています。その中で、実際に聴いたことがあるのは、1987年に録音されたマシュー・ベスト盤(HYPERION)と、ギー・ヤンセンス盤(CYPRES)の2種類だけでした。
今回のウーカシュ・ボロヴィッチの指揮による新しいCDは、2018年に録音されました。実は、この年にこの「レクイエム」の新しい原典版の楽譜が出版されていて、これはいわばその楽譜による「初演」の録音ということになるのです。
ブルックナーの「原典版」としては、これまでは先ほどの「ハース版」(旧全集)と「ノヴァーク版」(新全集)が知られていますが、最近になってさらに新たな研究成果が反映されたとされる「アントン・ブルックナー原典版作品全集(The Anton Bruckner Urtext Gesamtausgabe (ABUGA))」が刊行され始めました。その中心的な人物が、ブルックナーやマーラー(あるいはモーツァルト)の作品の周辺でたびたび名前を聞くようになった指揮者で音楽学者のベンヤミン=グンナー・コールスです。
つまり、今回の「レクイエム」の新しい楽譜も、この「新々全集」の一環として出版されたもので、校訂もコールス自身が行っていますし、このアルバムのライナーノーツもコールスが執筆しているのです。
それによると、この「レクイエム」の楽譜の事情はかなり入り組んでいて、これまでのハース、ノヴァークの見解では、この作品は1849年に作られて、それをブルックナー自身が1892年に改訂したということになっているのですが、どうもそれは正しくはないようなのですね。確かにその年にフランツ・バイヤはーブルックナーからスコアの自筆譜を譲与され、それを演奏しているのですが、実は改訂はそれ以前、1849年のクレムミュンスターでの再演の時に行われていたのだ、というのが、コールスの見解なのです。
この「コールス版」はSCHOTTから出版されていますから、興味のある方はハース版(IMSLPで参照できます)との相違点を調べてみてはいかがでしょうか。
曲は、4人のソリストと混声合唱にオーケストラという大編成です。ただ、オーケストラは弦楽器と3本のトロンボーンだけで、そこにオルガンの「通奏低音」が加わります。さらに、「Benedictus」では、バス・トロンボーンがなくなって、代わりにホルンが前奏や間奏でソロを務めます。トロンボーン奏者がここだけホルンに持ち替えたのでしょうかね。
音楽的には、後のブルックナーを感じさせるものはほとんどありません。これはひたすら、彼が本能的に美しいと思った音楽をそのまま音にしたもののように思えてしまいます。その結果、同じように美しいものを音にしていたモーツァルトの音楽と、いたるところで類似性を持つことになったのでしょう。
とは言っても、あの長大な「Sequentia」のテキストを、全て冒頭の「Dies irae」のテイストで最後まで貫き通したという、ある意味「しつこさ」は、後に彼の音楽の根幹となることは、おそらく彼自身は気づいてはいなかったのでしょう。

CD Artwork © Accentus Music


11月21日

BERÜHMTE OPERNCHÖRE
Ivan Repušić
Chor des Bayerischen Rundfunks(by Yuval Weinberg)
Münchner Rundfunkorchester
BR/900329


こちらでデュリュフレの「レクイエム」のすばらしい演奏を聴かせてくれていたレプシッチの指揮するミュンヘン放送管弦楽団とバイエルン放送合唱団とのコンビが、今度は「有名なオペラ合唱曲集」を作ってくれました。
ネットの案内には、この中で歌われているヴェルディの有名な「Va, pensiero, sull ali dorate(行け、思いよ、金色の翼に乗って」のライブ映像がありますが、このCDはライブではなく、スタジオでのセッション録音によるものです。しかし、このライブでは「チンバッソ」が使われているのですね。ドイツのオーケストラではあまり見られない光景です。
ここでのラインナップは、そのヴェルディの「ナブッコ」に加えて「マクベス」と、「オテロ」、さらにレオンカヴァッロの「道化師」、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」、そしてプッチーニの「トゥーランドット」と「蝶々夫人」が最初に並びます。
そのあとは、グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲に導かれて、チャイコフスキーの「オネーギン」とボロディンの「イーゴリ公」というロシア・オペラの合唱が登場します。
そして最後にワーグナーの「ローエングリン」、「オランダ人」、「タンホイザー」というドイツ・オペラで締めくくります。
ところが、出だしの「オテロ」からの「Fuoco di gioia!(喜びの炎)」が、なにか合唱に精彩が欠けているのです。無理に感情を出そうとして雑な歌い方になっていますし、ピッチも暗め、こんな合唱団ではなかったはずなのに。
その分、バックのオーケストラがとても雄弁な演奏をしているのが目立ちます。続く、やはり「オテロ」の第3幕のバレエ音楽では、そのオーケストラが目覚ましくヴィヴィッドな演奏を繰り広げてくれます。それは、もしかしたら、このアルバムの主役は合唱ではなくオーケストラなのでは、と思わせられるような、スカッとした演奏です。
その傾向は、ヴェリズモに移っても変わりません。オーケストラは、複雑なオーケストレーションの彩を見事に見せつけてくれているというのに、合唱はなんとも平板な演奏に終始しているのですね。
ロシアのコーナーでは、「ルスラン」序曲で、レプシッチは全く乱れのない演奏を聴かせてくれましたが、やはり「オネーギン」の合唱は女声がなんとも冴えません。ただ、「ダッタン人の踊り」では、オーケストラのグルーヴにやっとついてこれるようになったかな、という感じももたれます。
それが、最後のワーグナーになったとたん、合唱が見違えるように精彩を発揮するようになりました。まずは「ローエングリン」では、第3幕の前奏曲に続いてそのまま「結婚行進曲」に続くというオリジナルの形がうれしいですね。そして、そこの女声合唱は、今までの投げやりな歌い方から一変して、とても表情豊かで心に染みる合唱を聴かせるようになっていました。やはり、このあたりがドイツの合唱団としての矜持とでもいうのでしょうか。合唱の最後がフェイド・アウトで終わっているのも、とても印象的。
次の「オランダ人」の「水夫の合唱」も、伸びのある男声合唱が、直球勝負でエネルギッシュな合唱を聴かせてくれます。オーケストラの間奏が始まったところで終わってしまうのがもったいないぐらいです。
そして、タンホイザーの「巡礼の合唱」です。銭湯では歌いません(それは「純烈の合唱」)。これはまず、遠くから聴こえてくるような音像でア・カペラが聴こえてきた時から、素晴らしいものが待っているような予感がありました。エンディングは、「結婚行進曲」同様にフェイド・アウトになるのではないか、と。
しかし、その期待は、全く別の形で裏切られました。ここでは、男声合唱が終わるや否や、オペラ全体のエンディングである「Heil! Hei! Der Gnade Wunder Heil!(救済だ!慈悲の奇跡による救済だ!)」という若い巡礼の合唱(女声合唱)につながるのです。タンホイザーはきっちり救われました。そして、バイエルン放送合唱団も晴れて面目を保ち、救われたのです。

CD Artwork © BRmedia Service GmbH


11月19日

THE MYTHIC FLUTE
Carin Levine(Flutes)
MUSICAPHONE/M 55721

「神話のフルート」というタイトルのアルバム、演奏しているのは、フライブルクでオーレル・ニコレにも師事してたというアメリカのフルーティスト、カリン・レヴァインです。「現代音楽」のスペシャリストとして活躍しているのは師匠譲りなのでしょう。ここでは彼女自身のために作られた作品が大半を占めています。
まずは、アルバムのとっかかりとして、ギリシャ神話から題材をとったドビュッシーの「シランクス」が演奏されています。これはもはや「現代音楽」と呼ばれることはありませんが、作られた当時はとても斬新なアイディアに満ちていて、それは後の作曲家たちに多大な影響を与えることになるということで、取り上げられているのでしょう。レヴァインも明らかにそのような「予感」をこの曲から感じてほしいという意識をもっていることが、この演奏からは感じ取ることが出来ます。そこには、普通にその辺のフルーティストが演奏するときに漂う「おフランスの印象派」風のテイストなど全く見当たりません。あくまでもドビュッシーの「前衛的」な側面を、彼女の強靭なテクニックで明らかにする、といった企てが見て取れます。
その次に演奏されているのが、1958年に作られた、紛れもない「現代音楽」、一時期、フルートにとっては欠かせないアイテムだったベリオの「セクエンツァ」です。当時は難解とされていたその気まぐれな音の流れの中から、彼女は確かな「メロディ」を見つけ出しているのは、ちょっとした驚きです。ただ、ベリオが初めて使ったとされる現代奏法の「重音」は、ちょっと苦手だったのか、うまくいかなかったようですね。
それに続く、普段はほとんどドビュッシーのエピゴーネンにしか聴こえない武満徹の「エア」では、ありがちなネオ・ロマンティシズムの香りは消え失せ、乾いた情感に支配される音列として聴こえてくるのが、ちょっと意外でした。それは、この後に並んでいる彼女のセンスとテクニックを頼って作られた作品への導入という意味が込められてのことなのでしょうか。
まずは、ブライアン・ファーニホウという、1970年に作られた「カッサンドラの夢の歌」という美味しそうなタイトル(それは「カツサンド」)のフルートソロのための超難曲でよく知られているイギリスの作曲家がギリシャ神話のシジフォスの逸話をテーマに作った「Sisyphus Redux」です。思い岩を山頂まで運んだら、また下まで落とされるので、永遠にその苦行を続けなければいけないというお話ですが、それをアルトフルートで表現しているのだそうです。まさに「苦行」です。
同じ作曲家の、やはりギリシャ神話による「Mnemosyne」は、バスフルートのための作品ですが、8人分のバスフルートの演奏が録音されているテープと同時に演奏するというものです。これは、バックのハーモニーが美しく響く中でリリカルなソロも聴こえるという、この作曲家にしては聴きやすい曲です。
その2曲に挟まれているのが、ファーニホウに師事した日本人作曲家、原田敬子が2000年にレヴァインのために作った「BONE++」というやはりバスフルートのための作品です。この楽器を演奏している写真がブックレットにありますが、そこでは楽器にピックアップ・マイクが装着されていて、生音以外に楽器の振動が増幅されるようになっています。そのためでしょうか、この曲では、まるで先ほどの武満が愛した「琵琶」のようなパーカッシヴなサウンドが頻繁に使われています。
バスフルートの曲はさらに続き、この中では最も若い1975年生まれのチェコ起源のアメリカ人、トレヴァー・バチャの「Čáry(チャーリー)」という、チェコ語で「魔女」という意味の曲の登場です。ここでは、楽器の演奏以外に、ため息、ささやき、舌なめずりといった表現法も総動員して、エロティックに迫ります。
最後のクラウス・ハインリヒ・シュターマーの「Kumanyayi」は、虫の声や水の流れといった自然音を録音したテープをバックに、自然賛歌といった趣の音楽が展開されています。
CD Artwork © Klassik Center


11月16日

ORFF/Carmina Burana(1), BEETHOVEN/Late Choral Music(2)
GERSHWIN/An American in Paris(3), Rhapsody in Blue(4)
Judith Blegen(Sop/1), Kenneth Riegel(Ten/1), Peter Binder(Bar/1)
George Gershwin(Piano roll/4)
Michael Tilson Thomas/
The Cleveland Orchestra Chorus & Boys Choir(1), Ambrosian Opera Chorus(2)
The Cleveland Orchestra(1), London Symphony Orchestra(2)
New York Philharmonic(3), Columbia Jazz Band(4)
DUTTON/2CDLX 7369(hybrid SACD)


個人的には大好評のDUTTON/VOCALIONのサラウンドSACDのシリーズ、最新リリース分では2枚組のSACDがたくさん登場していました。これまでは、オリジナルのアルバム(LP)1枚と、余白に他のアルバムからの抜粋という形が多かったのですが、今回は2枚に増やすことで、オリジナルアルバム3枚分が収録できるようになりました。ポップスだとLP2枚分が楽々CD1枚におさまったので「2 in 1」という形の復刻版が多いのですが、クラシックではそれは無理なのでこんな「3 in 2」という形態になったのでしょう。
その中で、これはマイケル・ティルソン・トーマス(MTT)が米COLUMBIAからリリースした3枚のアルバムが収録されたもの、もちろん、全てかつては「ステレオ」と「4チャンネル」の2種類のLPでリリースされていました。
その3枚は、1974年に録音されたオルフの「カルミナ・ブラーナ」、1975年に録音されたベートーヴェンの後期の合唱曲集、そして1976年に録音されたガーシュウィンの「パリのアメリカ人」と「ラプソディ・イン・ブルー」です。共通しているのはMTTだけという、強引なコンピレーションです。
「カルミナ・ブラーナ」は、クリーヴランド管弦楽団と合唱団、そして少年合唱団の演奏です。これは、今回のブックレットでも録音時の写真を見ることが出来ますが、あのブーレーズの「オケコン」のように指揮者のまわりに演奏者が同心円状に座って演奏しているという形です。ただ、それを再生してみると、その「オケコン」の時のように楽器の位置がきっちり決まっているのではなく、曲の途中でその定位が変わっていたりしますから、このあたりは「4チャンネル」に新たな可能性を求めての模索がなされていたのかもしれませんね。
そこで一番はっきりその「模索」の跡がうかがえるのが、合唱の定位です。曲ごとに、パートの位置が微妙に異なっているのですよ。フロントが女声、リアが男声という時もあれば、フロントはテナーとソプラノ、リアはベースとアルト、といった具合です。どうもそれは、ユニゾンで歌っているパートを同じ方向から聴こえるように定位させた、というような気もするのですが、実際はどういう意図があったのでしょうね。
いずれにしても、この作品では大活躍する打楽器群は、決して埋もれることなく明瞭な定位でクリアに聴こえてきますから、とてもスリリングです。本当はあまり詳しく聴いてほしくないようなシロフォンの速弾きもはっきり聴こえてしまうので、プレーヤーの「焦っている」情景まではっきり伝わってきます。当然、アンサンブルはぐじゃぐじゃになっていますが、それはもう若き日のMTTの勢いで、全て帳消しになっているという、すさまじい演奏です。
ベートーヴェンはロンドンで録音されていました。オーケストラはロンドン交響楽団、合唱団はアンブロジアン・オペラ・コーラスです。これは、ほとんど初めて聴いた曲でしたので、その方に興味が向いてしまいました。「同志の歌Op.122」というのは、木管楽器だけの伴奏で歌われる勇壮な歌、おそらく、そのような方面からの委嘱で作られたのでしょうね。「シュテファン王」なども、名前だけは聞いていましたが、まず演奏される機会はない劇音楽です。正直、なぜ人気がないかよく分かるような作品ですね。
そして、ガーシュウィンの目玉は、「ラプソディ・イン・ブルー」で、実際に作曲家のガーシュウィンがピアノ・ソロのパートを弾いている、という点です。正確には、ガーシュウィンが残したピアノロールでピアノを演奏させ、それにジャズバンド(メンバーはニューヨーク・フィルの団員)が共演するというスタイルです。これのオリジナルLPのジャケットには、その模様のカリカチュアが描かれています(MTTはカリカリ)。
ただ、ここで実際に使われたのはアップライトピアノではなくグランドピアノです。にもかかわらず、そのピアノの音はかなりしょぼく聴こえてきます。

SACD Artwork © Vocalion Ltd


11月14日

MUSSORGSKY
Boris Godunov (1869 version)
Alexander Tsymbalyuk(Boris), Maxim Paster(Shuisky)
Mika Kares(Pimen), Sergei Skorokhodov(Grigory)
Kent Nagano/Göteborg Opera Chorus(by Tecwyn Evans)
Brunnsbo Music Classes(by Kicki Rosén Bejstam & Patrik Wirefeldt)
Gothenburg Symphony Orchestra
BIS/SACD -2320(hybrid SACD)


ムソルグスキーのオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」は、ロシアの作曲家のオペラとしては最も親しまれているものではないでしょうか。幼少のころにNHKが招聘した「スラヴ・オペラ」で初めてこのオペラを見た(もちろんテレビで)時には、タイトル・ロールを歌っていたミロスラヴ・チャンガロヴィチというバス歌手の迫力に驚かされたものでした。
その時には、このオペラに多くの「版」があることなど知る由もなかったのですが、その後大阪万博の時に来日したボリショイ・オペラを、今度は大阪まで見に行った時には、「リムスキー=コルサコフ版をさらに改訂し、第3幕の第1場はカットした『ボリショイ・オペラ版』が使われている」などという解説に驚くことになるのでした。
事実関係としては、ムソルグスキーが1869年に完成させた7つのシーンから出来ているものが「原典版」となります。しかし、それは劇場から上演を断られたために、1つのシーンを削除し、新たに3つのシーンを加え(トータルで9シーン)、それぞれ細かい手直しを行って1872年に「改訂版」が作られます。そこでは、それまではメインの歌手たちは全て男声だったところに、プリマ・ドンナが登場するようになっていますし、有名な「ポロネーズ」のようなダンスナンバーも加えられて、よりエンターテインメントが追及されています。さらに、削除されたシーンの中では、このオペラの重要なモティーフである「白痴」が登場するのですが、改訂版では新しく設けられた最後のシーンにそのままシフトしています。コリアンダーとも呼ばれますね(それは「パクチー」)。その後1874年にヴォーカル・スコアが出版された時に、細かい改訂も行われていますが、これは「1872年改訂版」と呼ばれています(初演は1874年)。演奏時間は1869年版は約2時間ですが、1872年版では約3時間にもなっています。
しかし、作曲家の没後に、他の作品と同様にリムスキー=コルサコフが「善意」でオーケストレーションを始め、和声やメロディなどをも大幅に変更(改竄)した「リムスキー=コルサコフ版」を、まず1896年に完成させ、1908年にはさらにそれを改訂したものも発表しています。そして、この1908年のリムスキー=コルサコフ版が、このオペラのスタンダードとして長い間広く上演されることになったのでした。
したがって、録音でも、初期のものはほとんどがこの版によるものでした。それは、ロシアで録音されたものだけでなく、カラヤンとかクリュイタンスといった「西側」の指揮者でもこの版を使って演奏していたのでした。
しかし、時がたてばオリジナルが見直されるのは、音楽界の定め、忘れられていたムソルグスキーの「原典版」や「改訂版」が日の目を見る日がやってきます。まずはコンテンツとしてはリムスキー=コルサコフ版と大差ない(最後の2つのシーンが入れ替わってますが)「改訂版」が1970年代に初めて録音されると、それに多くの指揮者が続きました。そして、1997年には、ゲルギエフが、「原典版」を「改訂版」と同じ時期に録音して、一括して5枚組のCDとして発売することで、最初の「原典版」のアルバムが誕生します。
したがって、その20年後の2017年に録音された今回のケント・ナガノのアルバムは、おそらく2回目の録音ということになるのでしょう。もちろん、ハイレゾでサラウンドというのはこれが初めてです。
なにしろ、「ボリス」は演奏時間が長いという印象がありましたから、身構えて聴き始めたらそれがたった2時間で終わってしまったのには拍子抜けでした。でも、このぐらいが現代人にはちょうどいいでしょうね。ボリスを歌っているアレクサンドル・ツィムバリュクという人も、それこそチャンガロヴィチに比べたらなんとも存在感が薄くなってしまいますが、この程度のアクのなさが好まれる時代でしょうし、合唱もこんな北欧系の澄みきった響きの方が癒されます。ただ、オケは木管のピッチが微妙。

SACD Artwork © BIS Records AB


11月12日

BERLIOZ
Symphonie fantastique
François-Xavier Roth/
Les Siècles
HARMONIA MUNDI/HMM 902644


ロトとレ・シエクルによる、2度目の「幻想」の録音です。1度目というのはこちらですが、なんせライブ録音での会場ノイズがものすごくて、それだけで聴く気をなくしてしまうほどのひどい製品でした。それは2009年の録音ですから、このオーケストラ自体もそれほど世間には知られていませんでしたね。
それが、あっという間に全世界のファンを獲得することになり、レーベルも少し大きなところに移籍して、もはやクラシック界には確固とした地位を獲得した指揮者とオーケストラになってしまいました。
ですから、彼らの「恥部」だったかもしれない2009年の「幻想」を「なかったことにしたい」と思ったのかどうかは分かりませんが、たった10年しか経っていないのに、新しい録音が出てしまいました。
もちろん、こんなに早く再録音を行ったのですから、そのための「言い訳」は必要です。さるレコード雑誌には、そのための提灯記事がしっかり掲載されていましたね。そこでは、管楽器のメンバーがそれぞれの時代に対応できる様々な時期に作られた楽器のコレクションを行っていることが詳細に語られていました。せっかくコネクションを使って手に入れても、使い物にならないほどひどい状態のものもあったのだとか。正直、そこまでやることに音楽的な意味があるのか、疑問に思ってしまうほどのマニアックさでしたね。しかも、管楽器はそれで「オーセンティック」な響きは得られるのかもしれませんが、弦楽器に関しては、
このライブ録音時の写真のように、チェロにエンドピンが付いているのですから、いったいどうなっているの、と思ってしまいますよね。ベルリオーズがこの曲を作った1830年ごろには、まだこういうことは一般的ではなかったはずなのに。
この写真ではもっと気になることがあります。このコンサートでは、第2楽章だけで登場するハープを、作曲家の指定通りに4台使っていて、それをさらに指揮者のすぐそばに配置しています。ただ、ハープの出番はこの楽章だけなので、それ以降はハープ奏者たちは静かに座って待っているしかありません。普通の配置だと、ハープは後ろの方に置いてあるので、少しぐらい動いても構いませんが(でも、本物のプロだと、完全に気配を消しています)この位置にあるのではお客さんも目のやり場に困るでしょうね。しかも、そこで彼女たちは腕や足を組んでいるのですから、なんと行儀の悪い。少なくとも、日本でこんなことをやったら、もう次からはどのオーケストラからも声がかかることはないでしょうね。
前の録音では、ブックレットもいい加減でした。メンバーの名前が載っているのはいいのですが、それは、79人のメンバー全てを、パートに関係なくラストネームのアルファベット順に並べただけなんですよ。そんなものを見せられても、対応に困ります。しかし、今回はしっかりパートと使っている楽器が表記されています。そこで弦楽器のパート別の人数を数えてみるとファースト・ヴァイオリンが14人、セカンド・ヴァイオリンが13人、ヴィオラが10人、チェロが11人、そしてコントラバスが11人と、低弦が異様に大人数になっていました。確かに、その低弦の迫力は各所で発揮されていますが、肝心のヴァイオリンがあまりに繊細すぎてそれに対応できていません。
もっと悲惨なのは木管楽器で、これは前の録音と同様に、フルートなどは肝心のところで聴こえてきませんし、たまに聴こえてもピッチがかなりヤバいことになっていましたね。せっかく揃えた「当時の楽器」でも、それを生かす腕がないことには、どうしようもありません。
金管はもう我が物顔で吹きまくっています。オフィクレイドなども、この録音でははっきりと聴こえてきますから、そういう意味では彼らの努力もいくらかは報われているのでしょう。
録音がクリアになった分、彼らの問題点もやはりクリアに露呈されることになってしまったようですね。

CD Artwork © Harmonia Mundi Musique S.A.S.


11月9日

DREAMTIME
Emmanuel Pahud(Fl)
Ivan Repušić/
Münchner Rundfunkorchester
WARNER/0190295392444


パユの新作は、いまやクラシック界でも大流行りのコンセプトアルバムでした。そのタイトルは「夢の時」、パユ自身の言葉によると、ここでは、彼がこれまでの40年に渡るフルート人生の中で出会った夥しい作品の中から、「夢と非現実の世界の力と同時に、作曲家の個人的なロマンティックな視点の強さを美しく描いた、協奏曲の形をとった作品」を集めて録音したかったのだそうです。
そんなコンセプトで選ばれたのが、モーツァルト、ライネッケ、ブゾーニ、武満徹、ペンデレツキという5人の作曲家の作品です。それぞれ時代も作曲様式も全く異なる作品ですが、パユの中では確固たる共通項たち(=夢、ロマンティック)が存在しているのでしょう。
アルバムの構成としては、最初にペンデレツキ、最後に武満と、それぞれ「現代の音楽」を持ってきたあたりが意表を突かれます。そして、2曲目と最後から2曲目に、これは最も「ロマンティック」と思われるライネッケ、そして真ん中に古典のモーツァルトと近現代のブゾーニを無造作に置くという、シンメトリカルな配置になっています。
最初に演奏されるのが、ペンデレツキがランパルのために作った「フルート協奏曲」です。これはもちろん、「ヒロシマ」を作ったペンデレツキではなく、ロマンティックにリニューアルされたペンデレツキが作ったものですから、ランパルの持つ超絶技巧を想定した華麗な作品で、今ではフルーティストにとって欠かすことのできないレパートリーとなっています。共演は「室内」オーケストラとはなっていますが、打楽器なども派手に登場しますから、ソリストにはそれに見合うだけのパワーも要求されるという難曲です。もちろん、パユの事ですから、テクニックには何の綻びもありません。とは言っても、クロマティック・ドラムの応酬に対峙した時には、そのあまりに澄みきった音色とのミスマッチも感じられてしまいます。
次も、やはりフルーティストのレパートリーには欠かせないライネッケの「フルート協奏曲」です。ドイツ・ロマン派の作曲家によるほとんど唯一のフルート協奏曲ですが、パユはあえて「ドイツ」にはこだわらない、もっと繊細な、言い換えればなよなよしたアプローチで「ロマンティック」を表現しているようです。
そして、重厚な曲が続いた後の「箸休め」として、モーツァルトの「アンダンテハ長調」が演奏されます。これは、協奏曲を作ってやったクライアントから「難しすぎる」と言われたので第2楽章だけを書き直したもの、と言われていますが(諸説あります)、パユはその「易しさ」を逆手にとって、まるで耳元でそっとささやくように、これ以上甘くは歌えない演奏を披露してくれています。
そして、最近たまに耳にするようになったブゾーニの「ディヴェルティメント」は、それこそ現代に蘇ったモーツァルトでしょうか。最初と最後に軽快な音楽があって、それに挟まれてメランコリックな部分があるという構成、本来ならばそれらをストイックな目で処理することが望まれるのでしょうが、パユは強引にその中から「夢」の要素をほじくり出して、ひたすら甘く、そして悲しげに演奏しています。
ライネッケのもう一つの作品「バラード」は、さながら「ドイツ版演歌」でしょうか。パユのフルートはすすり泣き、おまけにオーケストラまでむせび泣いているさまは、万人の心をわしづかみです。
そして、最後を飾るのが武満の「I Hear the Water Dreaming」、タイトルにはもろ「夢」が含まれていますね。これもペンデレツキ同様、「ノヴェンバー・ステップス」を作った頃の武満とは異なる人格によって生み出された音楽です。初演はポーラ・ロビソンによって行われたことでも分かるように、もはや「現代音楽」とは無縁の作風の「現代曲」で、ストレートに情感が伝わってくる音楽です。そのキャラクターは、今回のパユの、さらに甘ったるい演奏によって、一層際立つことになりました。

CD Artwork © Parlophone Records Limited


おとといのおやぢに会える、か。



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