ハゲティ。.... 佐久間學

(16/2/4-16/2/22)

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2月22日

上野耕路
NHK土曜ドラマ「逃げる女」オリジナルサウンドトラック
大井浩明(Pf, OM, Keyboards)
NHK/NGCS-1063


上野耕路さんという作曲家の名前は、映画やドラマの音楽でよく目にしていました。最近では「MIRACLE デビクロくんの恋と魔法」とか「マエストロ!」の音楽を担当されていましたね。
そんな上野さんが担当したテレビドラマの音楽に、ピアニストの大井浩明さんが参加しているという情報を、ご本人からの情報メールによって知ることが出来ました。大井さんと言えば、かつてクセナキスの難曲「シナファイ」を見事に弾ききったピアニストとしてほとんどアイドル的な存在でしたが、最近では例えば一柳彗のピアノ曲全曲演奏とか、やはり精力的に「秘曲」の発掘など精力的な活動をなさっているようです。
その大井さんのメールによれば、そのドラマの音楽ではオンド・マルトノも弾いていたというのですね。かつてN響でデュトワがメシアンの「神の降臨のための3つの小典礼」を演奏した時にオンド・マルトノを演奏されていたので、こんな楽器まで演奏しているんだ、と思ったものです。
ですから、大井さんの最近の演奏、中でもオンド・マルトノによるものを聴いてみたかったので、そのドラマのサントラ盤を入手してみました。まずクレジットをチェックして驚いたのが、そのオンド・マルトノが日本で作られていたということです。それは、「浅草電子楽器製作所」という、まるで「下町ロケット」にでも登場するような社名の会社でした。モーリス・マルトノが作ったこの楽器は、彼のアトリエでずっと作られ続けていたのですが、最近はもはや新しい楽器を作ることが出来なくなっていたということで、そんな日本の会社に背中を借りるようになっていたのでしょうか(それは、「オンブ・マルトノ」)。
サントラを作っている上野さんというのは、かつては「ゲルニカ」というバンドをやっていたそうです。戸川純という、今だと椎名林檎みたいな悪趣味なヴォーカルが参加してましたね。歌は大っ嫌いでしたが、音楽そのものは適度に尖がっていてなんか気になるバンドでした。その上野さんが、今では映画音楽になくてはならない人となっているようで、こんな形でその音楽を面と向かって聴くのはとても楽しみでした。
演奏しているメンバーは、木管五重奏プラス弦楽五重奏という、基本クラシックのユニットと、ドラムスやパーカッションのリズム隊、そこに、大井さんのピアノやキーボードがほとんどの曲で加わるという編成です。想像していた通り、サティとかメシアンを思わせるようなテイストがプンプン感じられるような音楽が、まずベースになっているような気がします。メイン・テーマとかエンディング・テーマのような、はっきりとしたコンセプトを示す必要のある曲では、そういう感じのメロディアスな作り方がされているようでしたね。そのエンディング・テーマで登場するのが、オンド・マルトノです。6/8の拍子に乗って、美しいのだけれどどこか醒めたところのあるメロディが、最初にオンド・マルトノのソロで歌われます
その他にも、それとは全くテイストの異なる曲も用意されているというのは、ドラマのシーンによってさまざまに使われるような「需要」を満たすものなのでしょう。中には、ゴングやスティールパンなどのパーカッションだけで演奏されているものもあって、音だけで聴くとそれがほとんどメシアンのように聴こえるのが面白いところです。
実は、このドラマは見てはいなかったのですが、これを聴いてあわててまだ放送されていた最終回だけを見てみました。そうなると、音楽が見事に主張をかくしてドラマに奉仕し始めているのがよく分かります。これはなかなかのセンスではないでしょうか。ただ、これはある意味サービス精神の表れなのでしょうが、トラック13の「絶望」というタイトルの曲は、あまりにいかにもな甘ったるさで、ちょっとがっかりさせられます。

CD Artwork © NHK Publishing Inc.


2月20日

SIBELIUS
Swanwhite
Riko Eklundh(Narr)
Leif Segerstam/
Turku Philharmonic Orchestra
NAXOS/8.873341


セーゲルスタムのシベリウス劇音楽全集、今回は「白鳥姫」を中心としたアルバムです。
これはスウェーデンの作家アウグスト・ストリンドベリが1901年に、30歳年下の婚約者、女優のハリエット・ボッセのために作ったおとぎ話風の戯曲です。なかなか粋なことをするな、と思うかもしれませんが実はこれがストリンドベリの3度目の結婚で、それも3年後には破局を迎えるのですから、複雑です。もっとも、ボッセの方もそれからさらに2度他の男と結婚するのですから、まあいいんじゃないですか。
しかし、そんな彼女がこのシベリウスの劇音楽を産むきっかけとなっていたのですから、面白いものです。ボッセは、1905年にシベリウスが音楽を担当して上演されたメーテルランクの「ペレアスとメリザンド」で、メリザンドを演じていたのです。彼女は公演の間中、「メリザンドの死」の場面で流れる音楽の素晴らしさに、ベッドに横たわって涙にくれていたといいます。そこで彼女は、もう別れていたストリンドベリに、先ほどの、まだ実際にステージで上演されたことのない「白鳥姫」でもシベリウスに音楽を付けてもらったらいいんじゃない?と進言しました。
それはすんなり実現することはありませんでしたが、最終的にスウェーデン劇場の委嘱という形で、1908年の4月に上演が行われます。その後、1909年には、演奏会用の組曲もシベリウス自身の手で作られます。
劇の主人公「白鳥姫」は、侯爵の娘ですが、母親は実は白鳥だったという、不思議な設定、その侯爵の後妻は3人の連れ子がいるというのは、なんだか「シンデレラ」に似ていますね。姫は遠くの若い国王との婚約が決まっているものの、その国王がよこした家庭教師である王子と恋に落ちます。そこに待っていたのは悲しい結末、しかし、愛の力ですべては救われるというお話です。
このCDで聴けるのは、組曲版ではなく、最初の劇場音楽のバージョンです。この頃の演劇の「劇伴」は、もちろん今のように録音したものを使うわけではなく、「生」のオーケストラが演奏していたのですが(指揮はシベリウス自身)、オペラではないのですからそんなに大編成のオーケストラを使うわけにはいかないでしょうね。これを聴いてみても、弦楽器はかなり少ない人数のような気がしますし、それ以外の楽器もフルートとクラリネットとホルンが1本ずつ、それにティンパニという、非常にシンプルな編成です。「ハープを弾きましょう」というタイトルのナンバーでも、そこで実際に演奏されているのは「ハープ」ではなく、ハープを模倣した弦楽器のピチカートだったりします。
音楽は、そのような「おとぎ話」にふさわしい、とても親しみやすいもので、何かグリーグのようなテイストも見られます。例えば第2幕の「継母:花嫁はどこに行ったの?」というナンバーなどは、「ソルベーグの歌」を思わせるようなメロディとエンディングの味付けです。デミグラスソースで(それは「ハンバーグ」)。そして、第3幕の終わりに演奏される大団円の音楽は、弦楽器の朗々たるコラールが愛の力を高らかに歌い上げる壮大な音楽です。
ところで、第3幕の初めに演奏される「白鳥姫」というナンバーは、弦楽器のピチカートとフルートのスタッカートが印象的ですが、これはのちに交響曲第5番の第2楽章(現行版)に転用されることになります。
これをコンサート用の組曲版に直した時には、シベリウスはオーケストラを普通の2管編成に拡大し、打楽器もカスタネットやトライアングルを加えました。それによってオーケストレーションは全く別のものに変わりましたが、それ以上に曲の構成自体が大幅に変更されています。このジャケットの写真は孔雀ですが、それは7曲から成る組曲版の最初の曲のタイトルの「孔雀」に由来しているのでしょう。しかし、こちらのタイトルは「鳩」、それはフルートとクラリネットのユニゾンで執拗に繰り返されている「E」の音で表現されているのでしょう。組曲版では、姫のペットの孔雀がついばむ音が弦楽器のピチカートとともにカスタネットで描写されていますが、劇音楽版ではもちろんカスタネットはありませんし。

CD Artwork c Naxos Rights US, Inc.


2月18日

SCHUBERT
Operatic Overtures
Manfred Huss/
Haydn Sinfonietta Wien
BIS/CD-1862


このCDのジャケットには「Original recordings by Koch/Schwann, remastered by BIS Records」というクレジットがありました。「Koch/Schwann」というのはLP時代から有名だったレーベルで、もちろんCDになってもなかなかマニアックなものを出していたような気がしますが、いつの間にか見かけなくなっていたな、と思っていたらこんなことになっていたのですね。どうやら、1962年に設立されたこのレーベルは、2002年にUNIVERSALに買収されてしまったようですね。その時点で、もはや新しい録音は行わなくなっていたのでしょうし、このようにUNIVERSAL以外のレーベルからも「切り売り」されるようになっていたのでしょう。なかなか厳しいものがありますね。この業界も。
このマンフレート・フスが指揮するハイドン・シンフォニエッタ・ウィーンによる「シューベルトのオペラ序曲集」は、KOCH/SCHWANNによって1997年に録音され、CDもリリースされていましたが、長らく廃盤状態にありました。なんでも、これらのフスの録音はマニアの間では非常に評判が高買ったのだそうです。中古市場では高値で取引されていたかね?それが2012年に晴れて再リリースされたということです。確かに聴いてみると、BISで録音されたものとはかなり違う、ちょっとどんくさい音でした。特に低音のヌケが悪く、なにかもっさりしている感じです。それでも、BISのエンジニアによってリマスタリングが施されていますから、かなり修正されてBISのサウンドに近づけるような努力はされているのでしょうね。元の音をぜひ聴いてみたい気がします。この再リリースに際しては、フスによって新たに書き下ろされたライナーノーツが掲載されています。
シューベルトはオペラや劇音楽にも精力的に挑戦していて、20曲以上の作品を残していますが、そのうち完成したのは11曲だけでした。しかし、その中の「ヴィラ・ベッラのクラウディーネ」というオペラは、友人に預けた自筆稿が、その妻によって誤って暖炉にくべられてしまったため、一部しか残っていないのだそうです。何とももったいない話ですが、バッハの作品なども、そのようにしてこの世からなくなってしまったものがたくさんあるのだそうですね。
ここでは、そんなオペラのために作られた10曲の序曲が演奏されています。それらは、シューベルトの生涯にわたって作られたものでした。最初の「水オルガンを弾く悪魔」は、彼が14歳から15歳、あのサリエリの個人レッスンを受けるようになり、コンヴィクトに入学した頃の作品ですし、最後の「フィエラブラス」は26歳になって、「未完成交響曲」が作られた頃のものです。
演奏しているハイドン・シンフォニエッタ・ウィーンは、1984年にフスによって設立されました。1991年からはピリオド楽器による演奏を行なうようになり、これまでにハイドンやシューベルトを始めとするバロックから19世紀初頭の作品を演奏しています。学究肌のフスによって初めて録音された珍しいものも、その中にはあります。
このシューベルトの序曲集も、なかなか珍しいレパートリーなのではないでしょうか。もちろん、ほとんど初めて聴いたような気がするものばかりですが、それがさらにピリオド楽器による演奏なのですから、興味は尽きません。特にフルートは、モダン楽器で吹いても大変だな、と思えるようなフレーズがあちこちに出てくるのには、ちょっと驚かされます。さらにホルンも、滑らかに歌うような本来はとても美しいはずのコラール風のパッセージが、ゲシュトップでなかなかコミカルな味に変わっているのも、ちょっと不思議、シューベルトはこの楽器が将来バルブやピストンを持つことを予測していたのでしょうか。
演奏自体もとてもアグレッシブなもの、ティンパニの強打に煽られて、とてもハイテンションな音楽が味わえます。これがシューベルトの本来の姿なのかどうかは、ちょっと判断の付かない「ヘタウマ」の世界が、ここには広がっています。

CD Artwork © BIS Records AB


2月16日

ROTH
A Time to Dance
Grace Davidson(Sop), Matthew Venner(CT)
Samuel Boden(Ten), Greg Skidmore(Bas)
Jeffrey Skidmore/
Ex Cathedra
HYPERION/CDA 68144


イギリスの合唱団「エクス・カテドラ」の最新アルバムです。歌っているのは、この合唱団とは縁の深いアレック・ロスという人の作品です。
ドイツ人とアイルランド人の血を引くロスは、1948年にマンチェスターのそばで生まれました。音楽や指揮法を学ぶのと同時に、ジャワの「ガムラン」も学んでいたというあたりがユニークな経歴なのでしょう。そのガムランの要素はおそらくこの作品の中にも顔を出しているはずです。
アルバムタイトルとなっている、2012年に初演された「Time to Dance」という、演奏に1時間以上かかる大曲は、ドーセットの「サマーミュージックソサエティ」というイベントの創立50周年を記念するために委嘱された作品で、初演はこのCDと同じ団体によって行われています。
曲全体は「春」、「夏」、「秋」、「冬」という四季からできていて、それに全体の導入の曲と、最後のエンディングが加わりはるなつ(はります=京都弁)。それぞれの部分は非常に短い、せいぜい3分ほどの「歌」がたくさん集まって成り立っています。
その1曲目に現れたのが、まさにガムランで用いられるような金属打楽器でした。音程はあるのだけれど、西洋音楽とは間違いなく隔たっているそのピッチと音色に導かれて、まずは「バス」というにはあまりに明るく澄み切った声のソリストが「To every thing there is a season, and a time to every purpose under the heaven」という、「伝道の書」からの引用を歌い始めます。それに続いて、左側の遠くの方から女声合唱が、さらには右側の遠くからは男声合唱が聴こえてきます。これは、おそらく録音でその音場を作っているのでしょうが、言葉が分からないほどモヤモヤとした合唱が遠くから次第に近くに迫ってきて、遂にはその言葉もはっきりと聴こえるようになるという設計が、とても見事に実現されています。まるで、映画の幕開けのような、それは素晴らしい演出でした。
その合唱の声が、今まで何度か聴いてきたこの合唱団のものとは一味違います。特に男声が、以前はちょっと野暮ったかったものが見事に垢抜けしてすっきりしたものに聴こえます。イギリスの合唱団の常で、おそらくメンバーが大幅に変わっているのでしょう。
そのあとに、まさにさまざまな時代の詩人のテキストによる「歌」が始まります。ソロあり、合唱あり、バックのオーケストラも金管で盛り上げたり弦楽器でしっとり聴かせたり、木管のソロがちょっとした粋なフレーズを吹いたりと、とてもヴァラエティに富んだ音楽が続きます。しかし、そのシンコペーションをきかせたダンサブルなテイストは、同じ世代のイギリスの作曲家、ボブ・チルコットに非常によく似たものでした。チルコットにほんの少しエスニックな味付けをすればこのロスになるのでは、という感じ、そこには難解さとは無縁な世界が広がりますから、深く考えずにそのリズムとキャッチーなハーモニーに身を任せるというのが、相応の聴き方になるのではないでしょうか。
「春」では生き生きとした曲が続きますが、「夏」になると、まるでボサノヴァのようなけだるい音楽が始まります。そして「秋」のパートでは、なんとヴィヴァルディの「四季」の中の「秋」からの引用がオーケストラの中に現れます。こんなこともできる作曲家だったんですね。「冬」でも、ヴィヴァルディばりに「炉辺で火を囲む」みたいな情景が歌われたりしています。
このアンサンブルは、合唱とオーケストラでワンセットになっています。そのオーケストラのメンバーの中に、最近ちょっと気になっているフルートのケイティ・バーチャーの名前がありました。あまり目立ったソロはありませんが、ちょっとくすんだ音色(もしかしたら木管?)で、的確な味付けをしていましたね。
エンディングを飾る終曲のとてもリズミカルなノリには、思わず一緒に手拍子を打ちたくなってしまうほどでした。きっと生で聴いたらとても楽しめる曲なのでしょう。

CD Artwork © Hyperion Record Limited


2月14日

DVOŘÁK
Stabat Mater
Erin Wall(Sop), 藤村実穂子(MS)
Christian Elsner(Ten), Liang Li(Bas)
Mariss Jansons/
Chor des Bayerischen Rundfunks(by Michael Gläser)
Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
BR/900142


ドヴォルジャークはなんたって交響曲の作曲家として有名ですから、一応何曲かの宗教曲は作っていても、その存在すら知らない人はたくさんいます。「レクイエム」だってありますが、それが親しみを込めて「ドボレク」とお酒みたいな名前(それは「ドブロク」)で呼ばれることは決してありません。しかし、彼の若いころ、やっと作曲家として認められたあたりに作られた「スターバト・マーテル」は、聴かずに済ますにはちょっともったいない曲なのではないでしょうか。何よりも、この曲には「3人の子供を亡くした悲しみが、この曲を作らせた」という、日本人が好きそうな「とっかかり」もありますからね。
しかし、そのように世間一般に流布されている俗説に対しては、少し慎重に向き合うことが必要かもしれないと、このCDのライナーノーツ(by Vera Baur)を読んだ人は感じるかもしれません。
確かに、ドヴォルジャークは1875年の夏に、生まれてたった2日しかたっていない長女を失いますが、それは「スターバト・マーテル」を作る直接の動機ではなく、同じ年の11月に、プラハで行われたフランツ・クサヴァ・ヴィットという人の同名の曲の初演に、自らハルモニウムの伴奏で参加したことだ、と、そこには述べられています。それは、合唱と鍵盤楽器だけというシンプルな編成だったのですが、ドヴォルジャークはそのテキストの詩的な深みに心を動かされ、自分はもっと大規模なオーケストラの入ったものを作ろうと思ったのではないか、というのです。
そこで、彼は翌1876年の2月から5月にかけて、スケッチを作り上げますが、そこで他のものに興味が向いたためにこの仕事を一旦中断してしまいます。この時点では、その程度のモティベーションしかなかったのかもしれません。ところが、その翌年1877年の8月13日に、1歳の次女が「燐の溶液のようなもの」を誤って飲んで、亡くなってしまいます。さらにそれからわずか数週間後の9月8日には今度は3歳の長男が天然痘で亡くなります。
この、3人の子供を全て失ってしまった悲しみで、彼はもはや作曲をする気もなくなるほど落ち込んでしまいます。しかし、彼は果敢にも1年半前に中断した「スターバト・マーテル」のオーケストレーション作業を再開し、11月にはこの曲を完成させてしまうのです。それは、この作業を続けることによって彼の作曲家としてのアイデンティティを取り戻したいという欲求の表れだったのかもしれません。亡くなった子供たちは、父親が作曲家であることを遠いところから望んでいたのだ、と、彼には思えたのでしょうね。
そのような、決して湿っぽくはない、むしろ「前向き」な姿勢で作られた曲ですから、その音楽にはほとんど「暗さ」を感じることはありません。1曲目の「Stabat mater dolorosa」では、曲の始まりはロ短調、「嬰へ」の単音がオクターブで繰り返されたあと、半音階的に下降するとても暗い音型が現れますが、一瞬平行調であるニ長調の響きが出現して、そこではとても安らぐ雰囲気が漂います。合唱が入ってまたロ短調に戻るものの、それもしばらくして女声だけが冒頭のテキストに戻ると、そこでは何と「ロ長調」に変わってしまうのですからね。
全部で10の部分に分かれているそれぞれの曲も、合唱、ソロ、アンサンブルとバラエティに富む曲想が配されていて、楽しめます。まるでモーツァルトの「レクイエム」の「Tuba mirum」のようなバスのソロで始まる4曲目の「Fac, ut ardeat cor meum」では、そのバスに女声合唱が合いの手を入れて、なにか「美女と野獣」的な対比が強調されているみたいですし。また、8曲目の合唱だけのナンバー「Virgo virginum praeclara」からは、まるでシューマンのような爽やかなドイツ・ロマン派のテイストが感じられないでしょうか。
そして、10曲目の終曲の、なんという晴れ晴れしさ。最後近くで現れるア・カペラの合唱のかっこいいこと。曲全体がディミヌエンドでしめやかに終わるときに感じるのは、確かな「救い」なのではないでしょうか。名曲です。

CD Artwork © BRmedia Service GmbH


2月12日

MAYR
Requiem
S.K.Thornhill, K.Ruckgaber(Sop), T.Holzhauser, B.Thoma(Alt)
M.Schäfer, R.Sellier(Ten)
M.Berner, L.Mittelhammer, V.Mischok(Bas)
Franz Hauk/
Simon Mayr Chorus and Ensemble
NAXOS/8.573419-20


ジモン・マイールという作曲家の名前は、あの三省堂の「クラシック音楽作品名辞典」にも載っていませんから、普通の人はまず知らないはずだということが分かります(この辞典は、そういうことを知ること以外に使い道はありませんから、ご利用は賛成できません)。
この1763年にドイツに生まれ、イタリアで大活躍して、長年暮らしたベルガモで1845年に亡くなった作曲家の作品は、そんな辞典がなくても知ることはできます。それによると、彼のメインの仕事はオペラ。それはほぼ70曲にもなろうとするのですから、数だけだったらオペラ作曲家ランキングの上位に入るはずですね。さらに、57曲の交響曲をはじめとする器楽曲も膨大な量に及んでいます。もちろん宗教曲でもオラトリオやミサ曲などを数多く残しています。
そして、肝心の「レクイエム」ですが、このCDで指揮をしているフランク・ハウクが自ら執筆したライナーノーツを読むと、すでに1995年に録音されている「Grande Messa da Requiem」という作品の他には、ここで世界初録音がなされている「ト短調のレクイエム」しかないような感じなのですが、本当はどうなのでしょうね。
彼の作品はこのNAXOSレーベルから、そのハウクの指揮による演奏でいろいろ聴くことが出来ます。中には「ベートーヴェンの死に寄せるカンタータ」などという珍品もあります。マイールという人は、ベルガモでベートーヴェンの曲を数多く演奏して、イタリアにおけるベートーヴェンの普及に一役買っていたのですね。ただ、その作品自体は以前にハイドンやボッケリーニが亡くなった際に作った同じような曲の「使いまわし」だったそうですね。曲の後半にはベートーヴェンの偉業を讃えたつもりでしょう、「田園」とか「オリーブ山」などの断片が出てくるのも笑えます。
この「レクイエム」には、通常のラテン語の典礼文の「Offertorium」の部分がありません。それにしては、全部のテキストを使ったヴェルディの作品などよりはるかに長い曲に仕上がっています。なんせCD2枚を使って2時間ですからね。そんなに長くなってしまったのは、オーケストラが単に歌手や合唱の伴奏をするだけではなく、独自に、場合によってはほとんど「協奏曲」に近いような、独奏楽器とのやり取りだけで音楽を作っている部分をたくさん用意したためです。特にクラリネットは何度もソリストとして扱われていて、「Sequentia」の中の「Liber scriptus」と「Judex ergo」の2連を使った曲などはまさにクラリネット協奏曲そのものです。その間にテノールのコロラトゥーラを駆使した華麗なソロが挟まり(カデンツァまであります)、これだけで8分半も使っていますから、「Sequentia」全体では1時間14分もかかってしまいます。それにしても、この曲はモーツァルトのクラリネット協奏曲にとてもよく似たフレーズがあちこちに出てきますね。
ただ、この「レクイエム」は、もう一つの「レクイエム」のように出版はされておらず、自筆稿だけがバラバラの形で保存されていて、それを指揮者のハウクがかき集めて再構築したものなのだそうです。その中には、弟子のドニゼッティが作ったものに少し手を入れて、そのまま使われているものも有ったりしますから、それが果たして完成された形なのかは疑問の余地がありそうです。そのドニゼッティの作品の一つ「Oro supplex」では、なんとホルンが半音階を多用したソロを演奏します。これは、当時の楽器ではかなり大変だったはず。よっぽどの名手がいたのでしょう。
部分的には実際にお葬式などに使われたこともあったようですが、歌手のソリストだけで9人も必要なこんな大曲を、実際に特定の葬儀の場で演奏するのは、ちょっと無理があるような気がします。何よりも、この長大な「レクイエム」を聴き終わっても、オペラの一場面を味わっているようなうきうきする気持ちは残っても、死者を悼みたくなるような殊勝な気分には全然なれませんでしたからね。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.


2月10日

TCHAIKOVSKY/Violin Concerto
STRAVINSKY/Les Noces
Patricia Kopatchinskaja(Vn)
Nadiene Koutcher(Sop), Natalya Buklaga(MS)
Stanislav Leontieff(Ten), Vasiliy Korostelev(Bas)
Teodor Currentzis/
MusicAeterna
SONY/88875165122


前回の「春の祭典」の時にはなんともシンプルな文字だけのジャケットだったのに、今回はとても手の込んだアートワークになっているという、相変わらず意表を突くことにかけては天才的なクレンツィスです。曲目の一つの「結婚」にひっかけての「田舎の結婚式」といったコンセプトなのでしょうが、このジャケット写真の真に迫った「田舎っぽさ」は感動ものです。そして、その花嫁と花婿が指揮者とヴァイオリンのソリストの「カメオ出演」なのですから、すごすぎます。
ただ、この写真の持つ雰囲気は、「結婚」だけではなく、メインのチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の演奏ぶりまでしっかり反映されたものになっているのです。そう、この「チャイコン」は、今まで散々味わってきたあのゴージャスなイメージを抱いて聴きはじめると、とんでもないしっぺ返しを食らうことになってしまうような代物ですから、注意が必要です。まさに「ロシアの田舎」風の泥臭いチャイコフスキーがここにはあるのですから。
まずは、使っている楽器が違います。ソリストを始めとして、弦楽器はガット弦を使用しています。さらに、オーケストラの木管楽器も、モダン楽器ではなくピリオド楽器が使われています。そもそもこの「ムジカエテルナ」という、ペルムのオペラハウスのオーケストラは、モダンにもピリオドにも対応できる柔軟性を持っていて、今までにも驚かされてきましたから、それは意外でも何でもないのですが、チャイコフスキーでのピリオドというのはなかなか珍しいものなのではないでしょうか。ピロシキなら分かりますが。
楽器が違えば、当然奏法も違い、表現の仕方も変わります。コパチンスカヤは、それを茶目っ気たっぷりに披露してくれるのですね。彼女は、ヴァイオリンという楽器から、洗練された超絶技巧や甘くとろけるようなメロディを奏でるものだというイメージを見事に打ち砕いて、そのような洗練さを達成させる過程で否定されていった粗野な表現方法を大胆に前面に押し出しています。
第1楽章のカデンツァなどは、そんな「粗野」さのオンパレード、確かに楽譜通りに弾いてはいるのですが、そこに込められたアイディアの数々はとても新鮮に聴こえます。ヴァイオリンにはこんな表現だって出来たんだ、という驚きですね。というか、それは今までは禁じられていたものが何の屈託もなく公衆の面前に姿を現した、という新鮮さです。こういうものが真に心に響く「アイディア」、前回のアーノンクールのような「こけおどし」との根本的な違いです。こういう人が出てきてしまっていたのですから、すでにあの老人の出番はなくなっていたのです。
第2楽章では、メランコリックに涙を誘うべきあの美しいメロディが、とてもハスキーなしわがれ声で歌われます。そして、オーケストラもフルートなどはモダンとは全然違う素朴な音色と歌いまわしで、ソリストをサポートです。もう全員で今までのチャイコフスキー像を崩そうと手ぐすねを引いている、という感じですね。
そして、最後の楽章ではにぎやかなロシアの農民ダンスが始まります。コサック・ダンスってやつですか。腕を前に組んで腰を低くし、足を交互に前に出すというあの激しい踊り、それが眼前に広がります。オーケストラのノリの良さもすごいもの、勢い余って、379小節あたりのピチカートがとんでもないことになってます。
カップリングの、ストラヴィンスキーの「結婚」は、ピアノ4台と打楽器というシンプルな編成で、まるでカール・オルフを思わせるような音楽です。いや、オルフはマジでこれをパクッたのではないか、という気がするほど、よく似てますね。ここで合唱が登場しますが、それが民族的な歌い方とクラシカルな歌い方を見事に歌い分けていました。ここはオーケストラだけでなく、合唱団も油断が出来ません。

CD Artwork © Sony Music Entertainment


2月8日

BEETHOVEN
Symphonies 4 & 5
Nikolaus Harnoncourt/
Concentus Musicus Wien
SONY/88875136452


「アーノンクールが新しいベートーヴェンの録音に着手」などと大々的に騒がれ、そのベートーヴェン・ツィクルスの第1弾となるはずだった「4番+5番」です。結局、これがリリースされる前にこの指揮者が引退声明を発表したために、そのプランは立ち消えになってしまったのですが、そうなると今度は「アーノンクール最後の録音」ということでなんだかかなりのセールスを記録しているようですから、まあどうなっても商売にはしっかり結びつくことになるのですね。
ご存知のように、アーノンクールがベートーヴェンの交響曲を録音するのはこれが2回目のこととなります。1回目は1991年、ヨーロッパ室内管弦楽団というモダン・オケを指揮したものです。それが今では、なんとNMLでも全曲聴くことが出来るのですからありがたいことです。そこで、まだ聴いたことのないそちらのバージョンも一緒に聴いてみたのですが、もう予想以上の違いがあったのには驚いてしまいました。もちろん、今回のCDはウィーン・コンツェントゥス・ムジクスというピリオド・オケですから、楽器の奏法自体にも違いはあるのですが、こちらを聴いてしまうと昔の録音はいとも「フツー」の演奏に感じられてしまうから、不思議です。それこそ「借りてきた猫」みたいに聴こえますからね。今回は、自分のオケだからなんだってやれるんだぞ、という意気込みがまざまざと伝わってきますよ。
特にすごいのが「5番」です。まあ、1楽章の冒頭の「ジャジャジャジャーン」の最後の「ジャーン」の音にディミヌエンドをかけるというのは以前にもやっていたことですから、もうこれはルーティンになっているのでしょうが、3楽章のトリオがまさにヘンタイです。これを聴けば、誰でものけぞってしまうのは必至、よくもこんなアイディアを思いついたなあ、と感心するばかりです。それをダ・カーポするのですからね(それは、前にもやっていました)。
4楽章では、普通はピッコロが加わりますが、ここでは「フラジオレット」という楽器が使われています。これは、おそらくソプラニーノ・リコーダーのたぐい、高い音の出る縦笛です。これがもし映像で見られるのだったら、そのフルートパートは横笛2本に縦笛1本という異様な光景になっていよう。音はあまりピッコロと変わりませんが、ちょっと鄙びた味がありますね。それと、やはりこの楽章だけに登場するコントラファゴットが、ものすごい存在感を発揮しています。
その楽章の最後近く、318小節のアウフタクトから入るファゴットの「ソドソミレドソ」という音型を受けてホルンが「ミドソミレドソ」と受ける場面で、ホルンが最初の音を「ミ」ではなく「ソ」で演奏しています。つまり、この2つの楽器が全く同じメロディを繰り返すのですね。これと同じパターンが335小節のアウフタクトから始まりますが、これも全く同じ扱いになっています。これが聴こえた時には、本当に心臓が止まるほどびっくりしたのですが、調べてみるとブライトコプフの新版では、「もしくは」ということでちゃんとこれが表記されていました。
初演の時のパート譜だけが、「ミ」から「ソ」に訂正されていたのですが、スコアには訂正がなかったので、両方の可能性が示されているのでしょう。この楽譜はスタディ・スコアでも1997年に発売されているのに、それをきちんと「音」にしたものは、ここで初めて聴きました。まさにアーノンクールの面目躍如といったところでしょうか。
そして、エンディングのアコードの連続を聴いてみてください。まるで、シベリウスの同じ番号の交響曲のエンディングのような不思議な終わり方が体験できるはずです。あ、もちろん初稿ではなく、現行版の方ですが。
こんな素晴らしい(くだらない)アイディアがいっぱいあふれたベートーヴェンの交響曲全集がもう完成されることはないなんて、残念すぎます(ホッとしました)。

CD Artwork © Sony Music Entetainment


2月6日

SIBELIUS
Jedermann
Pia Pajala(Sop), Tuomas Katajala(Ten), Nicholas Söderlund(Bas)
Mikaela Palmu(Vn)
Leif Segerstam/
Cathedralis Aboensis Choir
Turku Philharmonic Orchestra
NAXOS/8.573340


シベリウスは生涯にわたって多くの劇音楽を作っていますが、それらを聴く機会はあまりないのではないでしょうか。NAXOSから「シベリウス・イヤー」がらみで集中的にリリースされた、セーゲルスタムとトゥルク・フィルによる劇音楽のシリーズは、そういう意味でとても価値のあるものです。その中で、「イェーダーマン」の音楽を中心にしたアルバムを聴いてみました。
この戯曲のタイトルは、「イェーダーマン」ですっかり通っているのだと思っていたら、このアルバムでは「誰もかれも」という訳になっていました。これは、NMLでそのように表記されているので、それに準拠したものなのでしょう。ただ、この「イェーダーマン」(英語では「Everyman」)という中世に起源をもつ道徳寓話では、他の登場人物、例えば「善行」とか「信仰」と同じように、このタイトルはある種の概念を属性に持つ人物の「役名」なのですから、この日本語訳はちょっとヘンですね。やはり、今までの慣例通りに「イェーダーマン」と呼ぶことにしましょう。壁に貼りついたりはしませんが(それは「スパイダーマン」)。
「イェーダーマン」は、リヒャルト・シュトラウスとのチームで多くのオペラの台本を作ったフーゴー・フォン・ホフマンスタールが、ちょうど「ばらの騎士」を作ったころの1911年に書き上げた戯曲です。1916年にフィンランド国立劇場がこれを上演するために、シベリウスに音楽を委嘱します。その時には、このホフマンスタールの戯曲を元にフーゴ・ヤルカネンが書いた台本が用いられました。
「劇音楽」というのは、「オペラ」とは違いますから、セリフに音楽が付けられることはなくあくまで劇の進行を助けるための雰囲気づくりのようなものになってきます。そういう意味で、音楽だけを聴いていたのでは何のことかわからないようなところがあるのは当たり前なのでしょう。テレビドラマのように、音楽がでしゃばって肝心のドラマが台無しになってしまうというようなことは、本当の意味での作曲家であれば、起こりえないのです。
シベリウスがこの物語のクライマックスとも言うべきシーンに付けた音楽は、何ともとらえようのない「雰囲気」を醸し出すものでした。それまでは、「イェーダーマン」が催していた華やかな舞踏会で、その中で歌われる歌も披露されていたりしてにぎやかだったものが、トラック12の「Largo, sempre misterioso」に入ったとたんにそこに広がるのはまさに「ミステリオーソ」な世界。それを演出しているのが弱音器を付けた弦楽器。最初のころはほとんどソロかソリで、不思議な半音階の上下を繰り返しています。時折静かに入ってくるティンパニは、まるで歌舞伎などで幽霊が出てくるときのお約束の太鼓のロールさながらに、不気味さを募らせます。
このいつ果てるとも知れない音楽は延々13分も続きます。これがバックに流れるているのはおそらく「イェーダーマン」が「死神」に連れて行かれるあたりなのでしょう。ステージではどんなお芝居が演じられ、どんなことが語られているのか、ぜひ見てみたい気にさせられます。
この繊細な弦楽器の音といい、曲の始まりに「ツカミ」として鳴り響く金管楽器のアンサンブルといい、ちょっとCDばなれしたヌケの良い音であるのに驚かされます。これはかなりのクオリティの録音なのではないでしょうか。実際、24bit/96kHzのハイレゾ音源も、このシリーズのものはしっかりリリースされていました。それで、それを聴いて元の音を確かめたいと思ったのですが、この弦楽器の部分はアルバム全体(2500円)を買わないと聴けないようになっていました。冒頭の金管は短いので「切り売り」はされていましたが、たった11秒しかないものが300円ですし、そのあたりの連続した音楽が4つのトラックに分けられているので、やはり「たった」3分30秒だけを聴くためには、1200円も払わなければいけないなんて、ハイレゾの価格設定は絶対間違ってます。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.


2月4日

HILLBORG
Sirens
Ida Falk Winland, Hannah Hlgersson(Sop)
Eric Ericson Chamber Choir, Sweden Radio Choir
Sakari Oramo, David Zinman, Esa-Pekka Salonen/
Royal Stockholm Philharmonic Orchestra
BIS/SACD-2114(hybrid SACD)


1954年生まれのスウェーデンの作曲家、アンデシュ・ヒルボリの最新のオーケストラ曲を集めたアルバムです。全4曲、これが世界初録音となります。
1曲だけ2013年の11月に録音されていますが、残りの3曲の録音は2014年の11月です。その時の指揮者がこのオーケストラの首席指揮者のサカリ・オラモなのはわかりますが、さらにエサ=ペッカ・とサロネンという大スターも加わっているというので、ただの録音にしてはなんとずいぶんぜいたくなことでしょう。その前の年に録音された時にはデイヴィッド・ジンマンという、やはり大物も指揮をしていましたし。実はこれは録音場所であるストックホルム・コンサートホールで1986年から開催されている「ストックホルム国際作曲家フェスティバル」というイベントで、2014年にはヒルボリの作品が集中的に演奏されたからです。その時には5つのコンサートで彼の25の作品が紹介されていたのですが、その時に、3曲だけお客さんのいないホールでのセッションによって録音されていたのです。ジンマンもサロネンもオラモも、それぞれが指揮をしている作品の初演を担当した人たちでした。
そんな、言ってみれば「人気」作曲家の作品は、以前こちらで1曲だけ聴いたことがありました。「Mouyayoum」という1985年頃に作られた無伴奏の合唱曲ですが、これがもろスティーヴ・ライヒの作品のモティーフをそのまま流用したものであるのに驚いたことがあります。どうせパクるならもっとうまくやったらいいのに、と。
ですから、今回のアルバムのメインタイトルにもなっている、2011年に作られた演奏時間33分という最も大きな作品「Sirens」の中に、やはり同じライヒの、例えば「Music for 18 Musicians」の基本的な要素である細かいパルスが登場していたのを聴いたときにも、「まだこんなことをやってるなんて」という正直な気持ちが沸き起こったのは当然のことです。
LAフィルとシカゴ交響楽団からの共同委嘱で作られ、サロネンによって初演されたというこの作品は、編成も大規模、大オーケストラにソプラノ歌手二人と混声合唱が加わります。弦楽器のとても繊細なクラスターに乗って合唱が歌い出した時には、それはまるで20世紀半ばの「シュプレッヒ・ゲザンク」のような雰囲気を持っていました。子音だけでささやかれるひそひそ声は、なにかとても懐かしい、往時の「現代音楽」をしのばせるものでした。しかし、その合唱は次第に柔らかさを増し、何か癒されるような穏やかなものに変わります。そこにソプラノのソリストが2人、お互いに右と左のかなたから呼び交わすというシーンが始まり、そこにはまるで21世紀のアルヴォ・ペルトの世界が広がります。
ライヒの模倣が始まるのは、12分ほど経ったあたり。それは確かにそれまでの音楽との対比を見せるものでした。おそらく、この作曲家の中では、もはやこの様式はほとんど自分の中に同化しているのでしょうね。
彼の中に「同化」しているのは、ライヒだけではありません。ここで演奏しているロイヤル・ストックホルム・フィルとイエテボーリ交響楽団、さらには北ドイツ放送交響楽団という3者からの委嘱で作られ、おそらく先ほどの作曲家フェスティバルで初演されたであろう2014年の作品「Beast Sampler」では、なんとクセナキスやリゲティのまさに「野獣的」なサウンドがそのまま「サンプリング」されているではありませんか。正直、それらはオリジナルの表面的な過激さだけを模倣したに過ぎない、「換骨奪胎」そのものの仕上がりです。
ここでは、SACDならではのとても澄み切った弦楽器の響きの中で、かつては「前衛」と言われていたイディオムたちが、「ネオ・ロマンティック」とでも言えるなんともくすぐったいテイストに丸め込まれてしまう様を味わうことができます。この時代の、ある意味最先端の「現代音楽」がこんなものだなんて、どうかしています。

SACD Artwork © BIS Records AB


おとといのおやぢに会える、か。



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