ブルーの、混ぜるな!.... 佐久間學

(05/7/6-05/7/29)

Blog Version


7月29日

MOZART/Davide Penitente
M.HAYDN/Requiem
Martinez, Bonitatibus(Sop)
Strehl(Ten), Pisaroni(Bas)
Ivor Bolton/
Salzburger Bachchor
Mozarteum Orchester Sarzburg
OEHMS/OC 536


このアルバムは、昨年のザルツブルク音楽祭の期間中の2004年8月8日、モーツァルテウム大ホールで行われたコンサートのライブ録音です。曲目は、モーツァルトのカンタータ「悔悟するダヴィデ」と、ミヒャエル・ハイドンの「レクイエム」という、どちらも、私は今まで聴いたことのない曲ばかり、そんな、初体験の曲に初めて接する時には、大きな期待が伴うものです。
まず、最初の「悔悟するダヴィデ」、曲が始まったとたん、オーケストラによって奏でられた暗いイントロには聞き覚えがありました。これは、あのハ短調の大ミサ曲とまったく同じものではありませんか。私の大好きな「Laudamus te」というソプラノのアリアも、全くそのまま、歌詞だけが変わって歌われているのですから。そう、この曲は1785年に「ウィーン音楽家協会」から頼まれて作ったものなのですが、当時のモーツァルトは時間的な余裕がなかったため、1783年に作ってあったミサ曲(実は、これも最後の「Agnus Dei」が欠けている未完成のもの)の「Kyrie」と「Gloria」をそのまま転用していたのです。テキストが、あのダ・ポンテだということになっていますが、音楽の部分は言ってみれば「使い回し」、彼の場合オーボエ協奏曲をフルート協奏曲に転用した「前歴」があるのですから、そんな珍しいケースではありません。ただ、そこはモーツァルトのこと、しっかりこの曲のための「オリジナル」を用意するのも忘れてはいませんでした。それは、6曲目のテノールのアリアと、8曲目のソプラノのアリアです。この2曲、その前後の「パクリ」をカバーしようという意気込みが作用したのでしょうか、なかなか力のこもった仕上がりです。6曲目の方は4種類の木管楽器がそれぞれちょっとしたソロを披露するのが素敵、音楽も後半でガラリとテイストが変わります。8曲目の方も、やはり後半長調に転調して華やかになるのが聴きものです。
ただ、これらのアリアや他の曲でも、ソリストたちがちょっと張り切りすぎているのが耳に障ります。このソリストは、指揮者のボルトンが選んだといいますから、これは指揮者の意向なのでしょうが、この、まるでベル・カントのオペラを聴かされているような様式感に乏しい力任せの表現は、正直私には馴染めません。
後半は、モーツァルトとは少なからぬ因縁を持つミヒャエル・ハイドンの「レクイエム」(かつて、この作曲家の作品が、モーツァルトの「交響曲第37番」と呼ばれていましたね)。ネットで見ることの出来る輸入元のインフォメーションで「モーツァルトが『レクイエム』を作る時に手本にした」と、大々的に煽っているのであれば、大いに期待をして臨まないわけにはいきません。しかし、実際のところこれはモーツァルトのものとは全くの別物、例えば、連続して一気に演奏される「セクエンツィア」の持つ緊張感は、彼独自の世界です。確かに、その20年後に作られることになる曲との類似点は多々見いだせるものの、そんな先入観などかえって邪魔になるような、これは、素晴らしい音楽です。と言うより、この2人は、ザルツブルクの宮廷楽団での言ってみれば「同僚」ですから、恩人、大司教ジギスムント・フォン・シュラッテンバッハの葬儀のために作られたこの曲は、当然モーツァルトも聴いているわけで、何らかの影響を受けるのはごく当たり前の話なのです。こんな、芸術の本質よりは商品を売り込むことしか考えていない愚劣なインフォを真に受けた私って。
この曲でも、ソリスト陣の張り切りようは目に余るものがあります。その粗雑なアンサンブルは、思わず耳を背けたくなるほど。それだけではなく、いくらライブ録音とはいえ、オーケストラにもあまりに傷が多すぎます。期待に胸をふくらませて聴き始めた私の初体験の曲たち、余計な情報で虚心に受け止められなかったのと、最低限の水準すら満たしていない演奏で聴いてしまったことが、私にとっては不幸な見返りでした。

7月27日

Music in Sanssouci
Hans Martin Linde(Fl.tr.)
Johannes Koch(Va.d.g.)
Hugo Ruf(Cem)
DHM/82876 69998 2


この、まるでDGの「Originals」みたいなデザインのジャケット、DEUTSCHE HARMONIA MUNDIの昔のカタログの復刻版のシリーズです。斜めになっているのが、オリジナルのLPジャケットというわけですね。その中で目についたのが、このアイテム、「サン・スーシでの音楽」というタイトルが付いたこのジャケットには、確かに見覚えがあります。それもそのはず、家へ帰って探してみたら、この元のLPの国内盤が見つかりました。しばらく会っていなかった友人に久しぶりに再会したような気分です。
タイトルの通り、ここに収められているのは、プロシャ王フリードリッヒ大王が、1740年にポツダムに建設した宮殿、「サン・スーシ」で演奏されたであろう曲です。音楽や学問(「算数師」ね)に造詣が深く、自らもフルートを巧みに演奏したというフリードリッヒ大王の許には、彼のフルートの師でもあり、音楽理論家でもあったヨハン・ヨアヒム・クヴァンツや、大バッハの次男、カール・フィリップ・エマニュエル・バッハなどが集まり、宮殿では毎夜のようにコンサートが開かれていたのです。
オリジナル楽器による演奏の、まさに第1世代と位置づけられるフルート奏者ハンス・マルティン・リンデが中心になったこのアルバムでは、当然のことながら、大王がたしなんだフルートの曲、クヴァンツ、エマニュエル・バッハ、ゲオルク・ベンダ、そして大王自身のソナタを聴くことが出来ます。しかし、そのような「王のサロン」の再現を味わうという興味の他に、私たちにとっては、これが録音された1961年当時のオリジナル楽器へのアプローチがどんなものであったかという、ある意味「資料」としての価値を見逃すわけにはいきません。
事実、最近のオリジナル楽器の演奏を聴き慣れた耳には、この演奏はとても奇異に映ることでしょう。トラヴェルソ(バロック・フルート)はビブラートを思い切りかけて、低音もしっかり倍音を乗せるという、モダンフルートと全く変わらない奏法を貫いているのですから。さらに、チェンバロの音色も何か硬質な感じ、プレクトラムで「はじく」という軽やかさが全く感じられません。手元にある昔のLPには、きちんと楽器のデータが掲載されているのですが、それを見てみたら、チェンバロは「ノイペルト」、あの、オリジナル楽器とは縁もゆかりもないチェンバリスト、カール・リヒターが愛用した「モダン・チェンバロ」ではありませんか(最近でこそ、このメーカーも「ヒストリカル」を作るようになっていますが、1960年当時は「モダン」しか作っていなかったはずです)。トラヴェルソは一応18世紀の楽器のようですが、とりあえず木管でありさえすればいい(音程があまりに良すぎるので、もしかしたらキーがたくさんついた楽器かもしれません)、当時の奏法を研究したり、ヒストリカル・チェンバロが一般的に出回るのには、もう少し待たなければいけなかったという、そんな時代だったのですね。モダン・チェンバロとバランスを取るために、繊細なトラヴェルソから無理をして大きな音を出そうと頑張っているのがありありと分かるちょっと涙ぐましい演奏、こういうものが現実に「音」となって残っていて、この過渡的な時代を生々しく体験できるのですから、これは何物にも代え難い貴重な「記録」です。ただ、それには欠くことの出来ない楽器のデータが、このCDにはどこにも見当たらないのはなぜでしょう。LPにはなかった録音データはきちんと載っているのですから、楽器のデータだけを外したのは合点がいきません。もし、「オリジナル」を謳うために故意にモダンチェンバロを使っていることを隠蔽したのであれば、これほど情けないことはありません。

7月25日

STAINER
The Crucifixion
James Gilchrist(Ten)
Simon Bailey(Bas)
Stephen Farr(Org)
Timothy Brown/
Choir of Clare College, Cambridge
NAXOS/8.557624


キリスト教徒であるなしにかかわらず、キリストの最後の受難の物語は私たちを惹き付けて放さないものがあります。1年ほど前に公開されたメル・ギブソンの監督による映画「パッション」も、そんな「ツボ」を心得た作品で、多くの観客を集めた大ヒットとなったのも、記憶に新しいところです。ただ、この映画の場合、その「受難」のシーンがあまりにもリアリティに富んでいたため、教会関係者からある種の拒否反応があったとも聞いています。確かに鞭を打たれて真っ赤にふくれあがったキリストの姿は、ちょっと目を背けたくなるようなところはありました。そして、十字架に付けるシーンも、実際に手や足に釘を打ち付けるという(もちろん特殊撮影ですが)残酷な場面があったりして、「何もそこまで」という思いには駆られたものです。ピアスだったら構いませんが(それは「ファッション」)。
この題材を音楽に持ち込んだものが、ご存じ「受難曲」なわけですが、これも言ってみれば「暗い」音楽です。最も有名な受難曲であるバッハの「マタイ受難曲」の最初のコーラスの暗さといったら、まさに極めつけ。執拗に繰り返されるホ短調のオスティナートに乗った、まるで地の底を這っているような重々しい合唱を聴いていると、これから体験することになる出来事のあまりの重大さに、思わず襟を正したくなってくることでしょう。そして、それから3時間にわたる「苦行」を経た後に現れる最後の合唱の、また暗いこと。まさに胸の奥からほとばしり出る魂の叫びと言ってよいこのハ短調の曲を聴き終えた時には、とても普段の生活には戻れないような罪悪感が、体中にしみこんでしまっているはずです。
しかし、ご安心下さい。「受難曲」とは言っても、そんな暗いものばかりではないことが、このイギリス19世紀後半の作曲家、ジョン・ステイナーの「主を十字架に」という曲を聴くことによって分かるのですから。これは、逆に「こんなに明るくていいの?」と心配になるほどの、屈託のない音楽です。編成はテノールとバスの2人のソリストと混声合唱、そしてオルガンという簡素なものです。ソリスト達は例によって物語の進行を担いますが、テノール=エヴァンゲリスト、バス=イエスといったきっちりした役割ではなく、適宜配役が変わるのが面白いところでしょうか。スパロウ・シンプソンという人が、聖書からテキストを選択すると同時に、聖歌の歌詞を作っています。
ステイナーという人は、ごく平凡なメロディーの中に情感や深い意味を盛り込むことを身上としていたようで、1887年に作られたこの曲でも、その平易、場合によっては陳腐なメロディーは、とても魅力的な側面をもって迫ってきます。聖書の福音書による「レシタティーヴォ」にしてからが、「語り」というよりは完璧な「歌」、とても退屈などしていられないような甘いメロディーで私たちを誘います。何より惹き付けられるのは、バッハあたりの「コラール」に相当する「聖歌」の数々、そのキャッチーな歌が、言葉をとことん大事にしたふくよかな合唱によって歌われると、そこは殺伐としたゴルゴタの丘ではなく、まるで、暖かい暖炉の燃えさかるクリスマス・パーティーの会場のように思えてくるから、不思議です。なぜか唐突に、「雨が上がるように、静かに死んでいこう」という八木重吉の厭世的な詩に、とてつもなく楽天的な音楽を付けた多田武彦の「雨」という男声合唱曲を、思い出してしまいました。

7月22日

失神天国〜恋をしようよ〜
The Captains
東芝EMI/TOCT-4920

「最後のグループサウンズ」というサブタイトルで往年のグループサウンズの世界を今の世に再現して見せた仙台のバンド「ザ・キャプテンズ」が、このほどついにメジャー・デビューを果たし、あの東芝EMIから、初マキシシングルをリリースしました。この会社の国内盤、特にポップス部門では、かなり長い間例の「CCCD」にこだわっていたものですが、これはノーマルなCDになっていますから、やっと、この問題の多いフォーマットを見限ることが出来るようになったのでしょうか。それはともかく、数年前からインディーズでは活動していたこのバンド、地元では確かなファン層を獲得していましたが、晴れて全国のリスナーの前に姿をあらわすことになったわけです。それがCCCDではないノーマル盤だったのは、何よりのことです。
グループサウンズ、略してGSとは、車に必要な燃料を販売するところ(それは「ガソリンスタンド」)、なわけはなく、1960年代に巻き起こった一大バンドブームのことです。ブームのさなかに結成されたバンドは数知れず、中には「ザ・モップス」などという、コアなバンドもありましたが(「月光仮面」好きでした)、メインは何と言っても「ザ・スパイダーズ」、「ザ・タイガース」に代表される、分かりやすいサウンドとファッショナブルな外観を持ったグループでした。今ではとても信じられないかもしれませんが、「ザ・スパイダーズ」のメイン・ヴォーカルだった堺正章は、ミリタリー・ルックに長髪という、まるで王子様のようなファッションで、紛れもない「ヴィジュアル系」タレントとしての魅力を振りまいていたのです。
今年は、その「最初の」GSである「ザ・スパイダーズ」が結成されて40周年にあたるのだとか。半世紀近くの時を経て忽然と現れた現代のGSは、やはりミリタリー・ルックに身を固めていました。このシングルのタイトル「失神天国」も、「失神」を売り物にしていた「オックス」というGSへのオマージュであることは明らかです(メンバーの赤松愛が歌い出すと、聴いていた少女たちが実際に失神したということです)。曲自体は「どうにも、どうにも、どうにも止まらない」という、山本リンダあたりの持ち歌からの引用がちょっと目障りですが、それに続くあくまでストレートな曲調と歌詞には、思わず引き込まれてしまいます。そして、曲を書き、自ら歌っている傷彦(きずひこ)クンの、ちょっと鼻に詰まったヴォーカル、随所に挿入されたクサいセリフには、「失神」とまでは行かないまでも、何か怪しげな魅力が伴っているのも事実です。
今の音楽シーンに蔓延しているのは、全く日本人の感性とはかけ離れたところにあるヒップ・ホップ系、あのようなガサツで暴力的な音楽に付き合わされるのは苦痛でしかないと思っている人は多いはずです。そこに現れたのが、胡散臭いところはあるものの、私たちの琴線には間違いなく触れるであろう正当派GS、マイナーを基調にした懐かしいコード進行と、限りなくチープなエレキサウンドで怪しく迫られれば、多くの人の共感を呼ぶことは間違いありません。それがどこまで浸透するのか、見守っていきたいものです。

7月20日

Deutsche Barocklieder
Annette Dasch(Sop)
Membres de l'Akademie für Alte Musik Berlin
HARMONIA MUNDI/HMN 911835


ルネ・ヤーコブスが録音した「フィガロの結婚」のCDは、これほど手放しで褒められるのも珍しいと思われるほど、各方面で絶賛されたものでした。もちろん、わが「おやぢの部屋」でも褒めまくっていたのはご存じの通りです。ところで、そのヤーコブスが、パリのシャンゼリゼ劇場でこの作品を上演した模様が、最近テレビで放映されましたね。バロックの絵画で彩られた舞台装置と、ジャン・ルイ・マーティノティの軽快な演出がヤーコブスの音楽と見事にマッチした、素晴らしいステージでした。ただ、オーケストラがコンチェルト・ケルンなのは同じですが、キャストはケルビーノのキルヒシュラーガーを除いてはCDとは総入れ替えになっていました。その中でちょっと気になったのが、伯爵夫人を演じていたアンネッテ・ダッシュです。およそ「伯爵夫人」らしからぬ蓮っ葉な物腰は、例えば第2幕の最初のモノローグでヒステリーを起こして手当たり次第に食器を投げつけるというショッキングな演出には見事にハマってはいたものの、やはりこの役としては違和感を抱いてしまうものでした。
実は、彼女はオペラの他に、バロックあたりの声楽曲の分野でも盛んに活動しているということを知り、そんなドイツのバロックの歌曲ばかりを集めたこのアルバムを聴いてみる気になりました。HARMONIA MUNDIのいわば「新人紹介」といった趣のシリーズ、しかし、これはなかなか手のかかったアルバムです。まず全体を、「愛」、「移ろいゆくもの」、「平和」、「自然」、「幸運」という5つのコーナーに分け、それぞれのテーマに沿った作品を数曲ずつ歌うという趣向です。最初の「愛」で、すでにダッシュの魅力は全開となります。一口に「バロック」と言っても、時代によって様式は大きく変わっていますが、この中ではもっとも「古い」ハインリッヒ・アルベルトの、まるでシュッツを思わせるような端正な歌い口に、まず引き込まれます。と思うと、次のかなりバッハあたりに近い時代のヨハン・クリーガーの作品ではうってかわった軽快さが味わえます。彼女の魅力はなんといってもリズム感の良さでしょう。このコーナーでは喜びにあふれた技巧的なコロラトゥーラがふんだんに使われていますが、それがいとも軽やかに処理されているさまは爽快感すら味わえるほどです。
これが、次のコーナーへ進むと、ガラリと印象が変わってしまうのですから、すごいものです。特に、フィリップ・ハインリヒ・エルレバッハの「私たちの人生はたくさんの苦悩に囲まれている」という曲で、ベルリン古楽アカデミーのメンバーによる、一音一音かみしめるまるでため息のような伴奏に乗って、切々と歌い上げる場面は真に心に迫ってくるものがあります。決してこの時代の様式を逸脱しない、しかし、その中で最大限のエスプレッシーヴォを披露しようという、まさにバロックリートの真骨頂を味わう思いです。「自然」のコーナーでは、同じハインリッヒ・アルベルトの作品を、全く違う歌い方で歌うという離れ業も見せています。これは、当時の歌を表現する際の可能性の幅を自ら示してみたもの、と見ました。最後のコーナーは、ご想像のようにまたもやコロラトゥーラの応酬、最後の曲には「合唱」まで入って、にぎやかに幕を閉じるというもの、このアルバム1枚でこの時代のリートの様々な表情を、完璧に伝えきっている素晴らしい仕上がりになっています。
これを聴けば、ヤーコブスがなぜ彼女を伯爵夫人に抜擢したか、分かるような気がします。事実、テレビで見た「フィガロ」では、外見こそミスキャストでしたが歌の方は完璧に指揮者の要求に応えていたのですから。

7月17日

BOLCOM
Songs of Innocence and of Experience
Soloists
Choirs
Leonard Slatkin/
University of Michigan School of Music
Symphony Orchestra
NAXOS/8.559216-18


ソリストだけで13人、それに児童合唱を含む5つの合唱団と、リズム・セクションを持つシンフォニー・オーケストラという、総勢450人にもなろうかという、まるでマーラーの「8番」のような巨大な編成の音楽です。この作品は、アメリカの作曲家ウィリアム・ボルコムが、イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクの詩集に曲を付けたというものなのですが、そもそもボルコムがこの詩を知ってそれを音楽にしようと思い立ったのが、彼が17歳の時、そして、全曲が完成して初演されたのがそれから30年近くたった1984年だったといいますから、その作曲のスパンは半端ではありません。まるであのワーグナーの大作「ニーベルンクの指環」に勝るとも劣らない壮大な創作意欲の継続の賜物と言うべきでしょう。しかも、演奏時間が2時間17分、それだけで聴き通す気力などなくなってしまいそうになります。
しかし、実際のところ、殆ど「折に触れて」といったスタンスで作られた曲の数々は、せいぜい2分から3分程度の長さのコンパクトな仕上がり、聴き始めてみるとそんな身構える必要など全くないことに、すぐ気づくはずです。この曲のタイトルは「無垢と経験の歌」と訳されていますが、実際には「無垢の歌」と「経験の歌」という2つの部分からなっています。そして、それぞれの部分がさらに3つの部分と6つの部分に分かれていて、実際は「無垢〜」は、「経験〜」の半分ほどの長さしかありません。そこで、それぞれ3つの部分を3枚のCDに分けた結果、おのおのが40分から50分という、聴き通すには手頃な長さになっていますし。
この作曲家の持ち味は、様々なジャンルの音楽を分け隔てなく作品の中に取り込むという貪欲な姿勢です。したがって、この曲でも、最初にネイティブ・アメリカンの伝承歌のようなもので始まったかと思うと、その次に来るのは他人を排斥するような無調の音楽、そして、なんの脈絡もなくカントリー・アンド・ウェスタンが流れるといった節操のなさ。しかし、それも、これだけ開き直られると、有無をいわせぬ力となって迫ってきます。例えば武満徹のように、思い切りシリアスな「現代音楽」から、「死んだ男の残したものは」のようなフォークソング、さらには「燃える秋」などの最初からヒットチャート入りを目指した曲まで書き分けることが出来たような才能が、この人にも備わっていたのでしょう。ただ、ボルコムのユニークなところは、その全ての要素を一つの作品の中に盛り込んだところ。その結果、一見ごった煮のようなこの大作を虚心に聴くことによって、私たちは一人のアメリカ人が自己の中に持っている音楽の様々な側面を、一望の下に知ることとなるのです。彼の場合、最も根底にあるのはカントリーっぽいテイストではなかったのか、などと、勝手に想像できてしましまいます。そんな彼が、一番最後の曲「A Divine Image」では、初演当時に隆盛を極めたレゲエを導入したあたりが、この作曲家の好奇心のスゲエところなのでしょう。ですから、おそらく作曲時にはシェーンベルクの「シュプレッヒ・ゲザンク」を念頭に置いて作ったことは明らかな、メロディを持たない「語り」でまとめられたいくつかの曲も、もし彼が現在もう1度同じアイディアで作ろうとした時には、そこには間違いなく「ラップ」の要素が入ってくることでしょう。
オーケストラは、学生が主体なのでしょうが、この曲に欠かせない無意味に困難なパッセージを楽々と演奏しているのには感心させられます。合唱にも、大人数の割には、大味にならない緻密さがあります。ただ、問題なのがリズムセクション。「○○ポップス」によくあるゆるいビート、特に前のめり気味のベースが妙に「クラシック風」で、カントリーやロックの味が薄まってしまっています。

7月13日

FANTAISIE
Emily Beynon(Fl)
上野真(Pf)
CRYSTON/OVCC-00014


ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の首席フルート奏者、エミリー・バイノンの日本制作による2枚目のソロアルバムです。レーベル名が1枚目と微妙に違っていますが、もちろんこれは実体は全く同じ、なんでも管楽器関係ではこのようなサブレーベルを使用するということです。
1枚目での、まさにソリストの顔に泥を塗りまくっていた粗悪なピアニストのことが念頭にありますから、このアルバムでも最大の関心事は、伴奏者の良否になってしまうのは、致し方ないことなのでしょう。しかし、ご安心下さい。昨年このレーベルからリストの「超絶技巧練習曲」でCDデビューをしたピアニスト上野真は、そんな確かなテクニックをひけらかすこともなく、しっかりソリストに寄り添った、絶妙な伴奏を聴かせてくれていました。録音会場のせいなのか、楽器のせいなのかは分かりませんが、そのピアノの音色もとてもソフトなもので、それはしっかりバイノンのフルートと溶け合っていたのです。
例えばフォーレの「子守歌」というよく知られている曲で、ソリストと伴奏者との間の的確なバランスを見て取ることが出来ることでしょう。このシンプルなメロディーに込められた様々な仕掛けを、バイノンはていねいに掘り起こしていきます。それはちょっとしたルバートであったり、あるいは意識されないほどの音色の変化であったりするのですが、そこから導き出される、それこそ「ファンタジー」あふれる音楽はどうでしょう。それを支えるゆりかごのようなピアノの音型が、決してフルートに媚びることなく、冷徹なほどのビートをキープしているからこそ、それは際だって聴き手に伝わってくるのでしょう。
先日ルーランドで聴いたケックランの作品が、あのアルバムとは全くダブらない曲目で収録されているのも、嬉しいことです。ここで聴けるのは、「ソナタ」と「14の小品」。「ソナタ」で広がる霧の中のような世界は、バイノンの信じられないようなピアニシモでリアリティあふれるものになりました。ほんと、この人のピアニシモは、どんな弱い音でもしっかり生命力が宿っているのですからすごいものです。現実には、他のオーケストラの首席奏者クラスでも、ただ「弱い」だけで、完全に「死んだ」音しか出せないプレーヤーの、何と多いことでしょう。もう一つ、屈託のないテイストが心地よい「小品」では、彼女の低音の豊かな響きを満喫することにしましょう。最後から2番目の「葬送行進曲」というタイトルの曲が、日本の子守歌のように聞こえるのも、ご愛敬。
今回のアルバムの選曲は、一見するとかなり脈絡のないもののように思えます。サン・サーンスの「白鳥」や、ラヴェルの「ハバネラ」のような「名曲」があったかと思うと、ケックランのようなかなりコアなレパートリーが入っていたり、一体どういう聴衆に向けて作られたのか分からなくなるような曲の配列になっています。今、クラシック音楽の作り手が一様に抱えているターゲットの設定の難しさと言う問題が、図らずも露呈してしまった形で、結局どっちつかずのものになってしまったという印象は免れません。その結果、収録時間は80分近くになってしまい、フルートも、そしてバイノンも大好きな私でさえ、一気に聴き通すのはかなり辛いものがあったことを白状しなければなりません。これだけのアーティストが用意されていながら、それを用いて芯の通った密度の高いアルバムひとつ作ることが出来ないのが、今のクラシック界なのです。ポン・デ・ライオンには芯はありませんが(それは「ミスド」)。

7月11日

MOZART
Requiem(Ed.Beyer)
Lorin Maazel/
Chor und Symphonieorchester des Bayerischen Rundfunks
DREAMLIFE/DLVC-8020(DVD)


モーツァルトのレクイエムが続きますが、今回は映像も付いていますからご勘弁を。これは、1993年にアウグスブルグの聖ウルリッヒ教会で行われたコンサートの模様を収録したもの。ただ、こういう場所でこういう曲ですから、「コンサート」というよりはやはり「礼拝」といった趣の方が強くなっています。演奏が始まる前の拍手もありませんし、終わった後では、なんと教会の上にある鐘が一斉に鳴り出すという「演出」、もちろん鐘が鳴り止めば、そのまま演奏者も聴衆も三々五々会場を立ち去ることになるという、ちょっと日本では味わえないような光景が待っていることでしょう。
ここで演奏しているバイエルン放送交響楽団と合唱団は、1988年にもバーンスタインの指揮でこの曲の教会でのコンサートの模様を映像に残しています。よっぽどこういうことに縁があるのでしょうね。しかも、両方ともバイヤー版を使っているというのも、面白いところです。ただ、今回ついでにそのバーンスタインの映像と見比べてみたのですが、オーケストラも合唱団も、同じ団体だとはとても思えないほど、異なった様相を呈していたのはちょっとした驚きでした。まず、オーケストラを見てみると、これが映像の良いところなのですが、マゼールは金管楽器にちょっと変わったチョイスを与えているのがすぐ分かります。なんと、トランペットはロータリーなしのナチュラル管、そして、トロンボーンもベルが開いていないバロックタイプの楽器を使わせているのです。つまり、限りなく「オリジナル」に近い選択を行っているということになります(バーンスタインの時には普通のモダン楽器を使っているのですから、これがマゼールの意向であるのは明らかです)。もちろん、マゼールのことですから、本格的にオリジナルっぽいアプローチを試みようなどというつもりはさらさら無かったのでしょうが、ここで聴くことの出来るトロンボーンの柔らかな音色は、なかなかなものがあります。ただ、トランペットの場合はそれが裏目に出てしまって、演奏上の困難さだけが耳に付いてしまったのが、ちょっと「惜しい」ところです。
逆に、バーンスタインの映像を見直して気が付いたのが、バセット・ホルンとファゴットを倍管、つまり4本ずつ使っているというとんでもないこと。虎刈りにされてはたまりません(それは「バリカン」)。おそらく、彼の生涯には、「オリジナル楽器」との接点は全く存在していなかったことでしょう。
合唱も、バーンスタインのように、「熱く」コテコテに歌うことを要求されると、基本的なアンサンブルに破綻をきたしてしまうのでしょう。マゼールのちょっと醒めた、しかし、要所ではきっちり盛り上げるというパターンのはっきりした指揮の方が、彼らの実力が存分に発揮できるようです。そう、このライブ映像でもっともよく伝わってくるのが、マゼールのそのような明確なパターンの有り様です。彼の作り出す音楽にそれほどの共感を得ることが出来ない人でも、そのようなはっきりとした道筋が見えてくる前では、ある種の畏敬の念すら抱きかねません。ツィーザクを初めとするソリストたちのアンサンブルが、まるで奇跡のような精度を見せているのは、あるいはそんな指揮者のオーラが作用していたせいなのかもしれません。
カップリングがストラヴィンスキーの「詩編交響曲」、これも秀演です。もちろん、ヴァイオリンとヴィオラがなくて、2台のピアノが入っているという変わった編成を、実際に「目」で確認することが出来ます。

7月9日

TATUM
Improvisations
Steven Mayer(Pf)
NAXOS/8.559130


私たちに様々な幸せ感を届けてくれる楽器の音色、しかし、その楽器を演奏しているのは生身の人間ですから、他人に感動を与えられるほどの演奏を成し遂げるためには絶え間ない修練が必要とされます。華麗な超絶技巧の裏には、幼少の頃からの長い時間をかけたつらい努力という、他人が知ることはない苦しみが隠されているものなのでしょう。そして、一流の演奏家であり続けるために欠かすことが出来ないのは日々の練習の積み重ね、それを怠れば、たとえホロヴィッツほどのヴィルトゥオーゾでも、「ひびの入った骨董品(吉田秀和)」と揶揄されてしまうのです。
そのホロヴィッツが、まだバリバリの現役だった1940年代、顔を知られないように目深に帽子をかぶって「変装」し、お忍びでニューヨークのとあるジャズクラブに出かけたことがありました。そこでは、一人の黒人がピアノを演奏していたのですが、それを聴くなり、ホロヴィッツはこうつぶやいたといいます。「私は、自分の目と耳が信じられない」。そのピアニストの名はアート・テイタム、1930年代から1950年代にかけて活躍した(1956年に、46歳という若さで亡くなっています)ジャズピアニストです。あの超絶技巧を以て知られるホロヴィッツをも驚嘆させたというそのテクニックは、しかし、血のにじむような訓練で身につけたものではなく、殆ど天才的に備わっていた能力であった、というのがすごいところです。そして、その奏法も、クラシックとは無縁のところからスタートしています。それは「ハーレム・ストライド」と呼ばれる左手の奏法。「ラグタイム」のようなシンプルな伴奏に起源を持つこのベースとコードの奏法は、ハーレムのジャズマンの間で脈々と受け継がれ、ファッツ・ウォラーを経て、テイタムで驚異的な完成度を獲得します。強拍でベース、弱拍でコードを演奏するのですが、そのベースがすでに10度、つまりオクターブ+3度となっていて、コードまで担っているのが、すごいところ、もちろん左手だけで2オクターブ近い跳躍を目にもとまらぬ早さで繰り返すのです。そして右手が紡ぎ出すパッセージのすごいこと。まるで、時間軸を全て埋め尽くしたような細かい音符の連続、しかも、それらは1音1音確かな主張を持って鳴り響いているのですから。
そんなテイタムの名人芸、もちろん録音もありますが、その録音から採譜した楽譜というものも存在しています。つまり、別にジャズの修練などしたことのないピアニストでも、きちんと楽譜を再現できるだけの能力があれば、テイタムと同じ「音」を出すことが出来るというものです。おそらくそれを自分で作って、それを演奏、CDを作ってしまったのが、このスティーヴン・メイヤーというクラシックのピアニストです。こうして、最新のデジタル録音で「蘇った」テイタムのソロの数々を聴いてみると、その華麗なテクニックには圧倒される思いです。それだけでなく、アレンジの面でも新鮮なアイディアがあちこちで発見されて、驚かされます。ジャズのスタンダードに混じって、ドヴォルジャークの「ユモレスク」なども収録されているので、それは我々でもよく分かるのですが、原曲の良さを生かしつつ、ユーモラスな一面も持つこのアレンジは、ちょっとクラシックのセンスからは出てこない素晴らしいものです。
もちろん、このメイヤーの演奏が「ジャズ」とは全く無縁のものであることは言うまでもありません。言ってみれば、それは自然の一部を切り取ってそれに似せて作ったジオラマのようなもの、カプースチンの音楽が決して「ジャズ」と呼ばれることがないのと同様に、楽譜に起こした時点で、テイタムは「ジャズ」としての命を失ったのです。

7月6日

MADERNA
Don Perlimplin
Roberto Fabbriciani(Fl)
Mauro Ceccanti/
Contempoartensemble
ARTS/47692-2


ノーノやリゲティと同世代のイタリアの作曲家ブルーノ・マデルナは、あるいは指揮者としての方がよく知られているのかもしれません。53歳という若さで亡くなってしまったのが惜しまれますが、もし存命であればもしかしたらコンポーザー/コンダクターとしては、あのブーレーズ以上のキャリアを築いていたかもしれませんね。そういえば、彼の弟子のシノポリもあっけない生涯でした。
マデルナが1962年に、国営放送RAIのためにラジオ用のオペラとして作った「ドン・ペルリンプリン」という作品を、実際に舞台で上演したもののライブ録音が登場しました。この曲のCDとしては、おそらく2枚目になるのではないでしょうか。原作は、スペインの文豪フェデリコ・ガルシア・ロルカの「ドン・ペルリンプリンがベリサと庭で恋をする話」という戯曲、それをヴィットリオ・ボディーニがイタリア語に直したもので、タイトルも「ドン・ペルリンプリン、あるいは愛と想像力の勝利」と変わっています(「あるいは〜」というのが、いかにもオペラ・ブッファっぽくていいですね)。
主人公のドン・ペルリンプリンは、シャイな老人。広い屋敷で本に囲まれ、静かに暮らすことが無上の喜びでした。しかし、女中のマルコルファは、そんな主人を若くて美しいベリサという女性と結婚させようとします。ベリサも、ペルリンプリンの財産に惹かれ、結婚を承諾、お屋敷に住むことになります。ペルリンプリンはベリサの若い肉体に夢中になってしまいますが、ベリサの方はこの老人をペットのようにかわいがるだけ、彼女の愛の対象は、妄想の中に住む赤いマントの若い男だったのです。その事を知ったペルリンプリンは、妄想の男と同じ赤いマントに身を包み、仮面に顔を隠して庭でベリサの前に現れます。そこで彼は、彼女の目の前で自らの命を絶つのです。
まあ、梗概はこんな感じ、なかなか身につまされるお話ではあります。もちろん、この時代の「ゲンダイオンガク」界の先頭を走っていたマデルナのことですから、ここに単なる「オペラ」というイメージを求めるのは正しいことではありません。何しろ、当のペルリンプリンは、ステージに登場してはいるものの、一言も歌を歌ったりセリフをしゃべったりはしてはいないのですから。彼の「音楽」を担当するのはフルートソロの役目。フラッター・タンギングや、いかにも12音丸出しという完璧「60年代」のフレーズが、「Si?」とか「Perché?」といったセリフを表すということになります。それは、次に本物のセリフをしゃべる人が、「そう言ったんだね?」と確認することで、お客さんには分かるという仕組みになっています。このレーベルに多くの現代音楽のアルバムを録音しているファブリチアーニの超絶技巧が、ここでは一つの聞き物でしょう。それと同じように、ベリサの母親の心情も、サックス五重奏で奏でられます。
新婚夫婦の初夜の場面で、2人の妖精が現れてリズミカルな会話でエロティックな雰囲気を盛り上げるというのが、音楽的な一つの見せ場でしょうか。ここでは、テープによる「電子音楽」がバックに流れ、妖精のセリフが、「ヴォコーダー」のようなものを使って(初演当時はどのように処理していたのかは分かりませんが)、一人の人が同時に異なるピッチでしゃべっているような効果を出しています。もっとも、そんな扇情的な場面とは裏腹に、ベリサが寝たふりをしていたために、ペルリンプリンは思いを遂げることが出来なかったのですから、何ともかわいそう。
余白に入っている「衛星のためのセレナータ」も、ある程度の枠を決めて即興演奏を行うという、60年代のテイストにあふれたものです。

おとといのおやぢに会える、か。


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