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リヤカーの車輪....渋谷塔一

(01/4/28-01/5/14)


5月14日

RICHARD STRAUSS
Die Liebe der Danae
Lauren Flanigan(Sop)
Peter Coleman-Wright(Bar)
Leon Botstein/American SO
TELARC/CD-80570
「おやぢまっしぐら」のシュトラウス新譜です。「またシュトラウスですか?」と嘆くマスターの姿が目に浮かびますが、やはり「全日本リヒャルト・シュトラウス愛好会」(そんなのあるのか?)××地区会長としては、これはここで取り上げないわけにはいきますまい。
今回のアイテムは、これまた貴重な「ダナエの愛」全曲(「○マエの愛」ではありません)。以前ORFEOから出てたはずですが現在入手困難。かろうじて組曲のみでしたら、NAXOS盤で手に入れる事が出来るのですが。
この曲の人気が薄い理由は、やはり台本の不出来にあるのでしょう。1933年、ホフマンスタールの急死によって、最良のパートナーを失ったシュトラウス。彼亡き後、シュテファン・ツヴァイクという次のパートナーを見つけたにもかかわらず、不幸ないきさつでコンビを解消せざるを得なかった彼の心痛はいかばかりなものだったのでしょう?
ツヴァイクの原案を元に、ヨーゼフ・グレゴールの手によって何とか台本が完成した「講和の日」、続く「ダフネ」と、この「ダナエの愛」は確かに凡作の域を出ないようです。
別の仕事の絡みで、「ばらの騎士」の台本を読み込む必要があったのですが、私のように、ドイツ語が全くと言っていいほどわからないものにとっても、ホフマンスタールの台本の精緻さはひしひしと感じられました。何と言っても、言葉の扱いが慎重、かついたるところに伏線が張り巡らされていて、一時も気を抜けないのですね。言葉一つ一つに大切な意味が込められているのです。やはり彼は偉大だったのですよ。
それに比べると、このオペラなどは、あらすじもめちゃくちゃ。喜劇なのか、内輪ネタなのか、それとも単なるエロオペラなのか。そんなところが、シュトラウスの霊感をあまり刺激しなかったのでしょう。ついている音楽も、どこかよそよそしく、ただ長いだけで緊張感があまり感じられません。そこそこ美しいメロディも散見できるのですが、どうしても散漫になってしまいます。こんなところも人気薄の原因でしょうね。
さて、このような、ある意味「難曲」に挑んでいるのは、アメリカ生まれの現代曲が得意なソプラノ、ロウレン・フラニガンです。彼女は、以前にもアメリカ現代歌曲集などをリリースしていて、私はローレムを聞いてみたのですが、なかなか表情豊かな歌を歌う人だなと思いましたね。少し重めの声質ですが、得もいわれぬ透明感も兼ね備えていて、ほのかなお色気も感じさせてくれます。
ただ、この「影の無いオペラ」の主役を張るには、ちょっと存在感が薄いかもしれません。それより、ユピテル役のコールマン=ライト、(この人は全く名前をしりませんが、)が、いかにもエロおやぢといった風情で面白いのです。彼が歌うと場面が引き締まる感じで、とても好感が持てました。
オーケストラは、例のストコフスキーが1962年に創ったアメリカ交響楽団。まだ活動していたのですね。私は初めて聴きましたが、なかなかいい味を出しています。つまんない曲とはいえ、この頃のシュトラウスに特徴的な「厚みはあるけど、透明な響き」をよく表現しています。かなり奏者のレベルも高いのでしょう。高度なアンサンブルも難なくこなしていますし、多少大味のところもありますが、全体的には合格点でしょうね。多少響きが薄っぺらいのでもう少しまったりとした音だったらもっと良かったのですが。
ま、これは完全にマニア向けのアイテムですので、普通の「オペラガイド」に載るような曲でないことだけは保障します。

5月12日

SCHUMANN
Etudes Symphoniques etc.
Marc-André Hamelin(Pf)
HYPERION/CDA67116
今日は私の誕生日。だから、今回は私の大好きなアムランの新録のご紹介。とはいえ、いつもだったら新譜が出るとすぐに購入、おやぢの方にも原稿を寄せるのですが、今回は同じ時期にちょっとした仕事上のミスをしてしまい、これを耳にするたびに、嫌な思い出が喉のあたりまで湧き上がってくるというパブロフ状態になっていたものですから、ちょっと書く気が失せていたというもの。かように音楽というのは、記憶に密接に関わってくるものなのですね。
しかしながら、嫌々ながらも聴いてるうちに、「やっぱりアムランはすごい」と感じた次第。やはりこれは原稿を書き上げねば。
今回の演奏は彼にしては珍しいシューマンの作品を3つ。確かにアムランと言えば、「リスト以降のばりばりの難曲を演奏する人」というイメージがありますね。実際、一昨年のコンサートで演奏した「モーツァルトのロンド」ではあまり好意的な評を目にする事がありませんでした。「確かに上手いけど、内容がないよう(もう、やめな)」ってな感じでしたか。しかし、彼は「ぜひシューマンは演奏してみたい」と語っていたのですね。
ご存知のようにシューマンの楽譜は至る所に内声が隠してあって、楽譜を丹念に透かして見ないと、その旋律は浮き上がってこない仕掛け。もちろんそれを弾きこなすだけの腕も持ち合わせなくてはいけません。その上で、繊細な表現力まで求められるというのですから、並みの神経ではとてもやってられません。
今回アムランが演奏しているのは、「幻想曲」と「ピアノソナタ第2番」、そして、「交響的練習曲」といった、最も彼にふさわしい曲といえるでしょう。
幻想曲の最初の幅広いアルペジョは、あまりにも正確で、まるでコンピュータにプログラミングされているかのよう。彼の超絶技巧が遺憾なく発揮されています。これは第2楽章の、これまためちゃくちゃ音域の広いアルペジョも同じ事。あまりにも軽々弾くので、「もしかしてこの曲ってすばらしく簡単なのかも」なんて勘違いする人もいるかもしれません。もちろん幾重にも重なった旋律線の流れを停滞させることなく、鮮やかに弾ききるのも彼ならではの技です。「あまりにも上手すぎるから」というのは、すでに誉め言葉以外の何物でもありません。
そんな意味で最も楽しめたのは、交響的練習曲です。アムランの演奏する「変奏曲」はどれを聴いてもいろんな発見があるのですが、この曲も期待に違わぬ面白さ。12ある変奏曲それぞれが、まるで別の曲のように表情を変えながらも、共通のテーマを内包しているのをきちんと認識させてくれます。もちろん最後の変奏曲での、華麗な音の奔流は彼ならでは。この爽快感がたまりません。
ただ、惜しい事は、あまりにも軽々弾きすぎてしまって、シューマンの求めているであろう、「苦悩」が全く感じられないこと。批評家のセンセイ方も、これを言いたいのでしょうね。しかし、そろそろ「そういう聴き方をしなくてはいけない」という既成概念は崩してもいいのでは。先日のムーティではありませんが、ただ楽しんで聴くのだって一向に構わないではありませんか。
1枚聴き終える頃には、すっかり嫌な気分は姿を消して、「さて、年も増えたし、またがんばるか」と上機嫌になった単純なおやぢでありました。

5月11日

BACH
Musikalisches Opfer
Ensemble Aurora
ARCANA/A 306
いつもバッハばっかりで、すみません。今回は手作りの甘いお菓子ではなく、「音楽の捧げもの」をあなたに捧げます。な〜んて決めたつもりでいますが、バッハがこの曲を捧げたのは、かのフリードリッヒ大王、当時のプロイセンの国王です。この王様は無類の音楽好き、家来どもを集めて自慢のフルートを聴かせようとするのですが、旦那の趣味はただの自己満足だと知っている家来たちは、何かと言い訳を作っては逃げようと・・・それは「寝床」でしたね。
大変失礼な枕になってしまいましたが、本当のフリードリッヒ大王は、ヨハン・ヨアヒム・クヴァンツからフルートや作曲を学んだ、プロ顔負けの音楽家。戦場にも愛用の楽器を持っていって吹いていたという本格派です。毎日の練習が何よりも大切なのは、演奏家の基本ですから。作曲の方でも、フルート曲を中心に協奏曲やソナタをびっくりするほどたくさん書いていますし。
で、息子のカール・フィリップ・エマニュエルが、ここの宮廷楽団のメンバーだったということもあって、バッハは大王のところに表敬訪問します。そこで大王は、この高名な作曲家に対して、「このメロディーを使って、フーガを作ってみよ」と命じます。そのメロディーが、有名な「王のテーマ」と呼ばれるもの。
後半に半音階を多用しているため、オクターブの中の音を殆ど全て(Bbを除く)使っているという前衛的なメロディー、これが本当にフリードリッヒ大王が作ったものかという点については諸説ありますが、とにかく、これをもとに曲集を作って、大王に献呈したのですね。
曲集の中身は、3声と6声のリチェルカーレ、4楽章の教会ソナタ(前に出てきましたね)の形式をとったトリオソナタ、そして、色々な種類のカノンです。カノンは技巧を凝らしたもので、テーマの逆行形を使ったり、面白いのは螺旋カノンといって、テーマが2回目に出てくるときは、なぜか全音上の調になっているというもの。オクターブ上にたどり着いて終わりになりますが、これは「大王の栄光がどんどん高まりますように」という、極めて高度なゴマ擦りなのだとか。もちろん、トリオソナタにはフルートパートがあって、大王のために書かれているのはお約束。
演奏は、エンリコ・ガッティ率いる「アンサンブル・アウローラ」。出だし、3声のリチェルカーレの、しゃれた装飾にあふれるチェンバロには心を惹かれます。しかし、全体を通じて聴いてみると、ガッティのヴァイオリンがいかにも作為的。「オリジナル」の型にはまったままで、そこから先のものが見えてこないのが、ちょっと辛すぎます。

5月9日

BEETHOVEN
Sinfonie n.5 e 6
Riccardo Muti/
Filarmonica della Scala
PHILIPS/464 454-2
一応PHILIPS名義になってはいますが、実態はMUSICOMというイタリアのマイナーレーベル。したがって、日本ではなかなか入手困難なアイテムです。「これは買わなきゃ後悔しますよ」というお店のお兄さんの、半ば脅迫めいた熱心な売り込みについ心が動いて、買ってしまいました。
ムーティが録音したベートーヴェンといえば、1980年代のフィラデルフィアとのもの(EMI)が有名ですね。今回は、オケがスカラ座フィル、もちろんミラノのスカラ座のオーケストラですから、普段はオペラの伴奏をやっていますが、コンサートも定期的に行っています。これは、97年と98年のスカラ座におけるシンフォニーコンサートのライブ。
古典派の交響曲例えばモーツァルトやハイドンなどでは、最近のトレンドはオリジナル楽器系の演奏でしょう。はっきりしたアーティキュレーションで歯切れ良く演奏するというスタイルは、もはや一つの「型」として定着したかに見えます。もちろん、弦のプルト数を少なめにすることも忘れてはいけません。で、ベートーヴェンといえども、そんな流れに無関心ではいられません。聴衆の好みが変わってくれば、オリジナル楽器ではない、現代楽器を使用したシンフォニーオーケストラでも、何かしら今までとは異なったアプローチを試みたくなってくるもの。実際、この辺のレパートリーに関しては、演奏史的には、大きな転換期にさしかかっているのは間違いのないことなのでしょう。
そこで、今回のムーティです。これが、そんな世間の波風とはおよそ無縁の、実にマイペースというか、のどかな演奏なのです。フィラデルフィアでの颯爽たる指揮振りとはまるで違っていて、ほとんど別人といっても差し支えないほどの変わりよう、一瞬耳を疑ってしまいました。しかし、これは不快な体験ではありません。というより、思い切り音楽に浸りきれる心地よさがあります。なによりも、スカラ座フィルの歌い方というのが、ハンパではありません。こんなに歌い込んでもいいのかと思いたくなるぐらい、歌いまくっています。ポルタメントはかけるは、ヴィブラートはたっぷりつけるは、ルバートはするは。ピッコロのような半ば効果音しか期待されていない楽器でさえ、「運命」の上向スケールの最後の音をヴェルディみたいにたっぷり響かせたり、「田園」の嵐の描写を朗々と吹き込んだりしているのですから。オケのメンバー一人一人に染み付いた「カンタービレ」は、どうあっても隠し通せるものではないのですね。
結局、演奏というものは最終的には聴いた人が心を動かされるかどうかが勝負なわけですから、オリジナルに近い形かどうかということには、それほど大きな意味は無いのかもしれません。こういう演奏を聴いてしまうと、極端な話、ベートーヴェンが意図したものが多少歪められていようが、それによってハッピーな気分になれるなら、そんなのも悪くはないななどと、不謹慎なことも考えてしまいました。

5月7日

ROSSINI
Il Signor Bruschino
Gustav Kuhn/
Orchester der Tiroler Festspiele
ARTE NOVA/74321-80873-2
ご存知の通り、ここのマスターはデータの管理が大の得意。不肖私の、乱雑に書き散らした原稿も作曲家毎、レーベル毎などにきちんと分類、探しやすいように丹念に整理して下さっています。
今も「われながら良く書いたものだ」としみじみ目次を眺めていたのですが、「何書いても良い」と言われているせいかレパートリーがものすごく偏っているのには、われながら苦笑を禁じえません。シュトラウスとバッハの多いのは、ある程度確信犯ですが、レーベルで思いのほか「ARTE NOVA」が多いのは、別にCD代を節約してるわけではありませんよ。だって、同じ廉価版レーベル「NAXOS」は瀬尾さんのホフマンくらいしかないですからね。
私のようなオペラ好きにとっては、このところのスタジオ録音の新譜のリリースの絶望的な減少はとても残念なことなのですが、そんな中でこのARTE NOVAはまさに福音。ヨーロッパではどんなに小さな町でもオペラハウスを持っていて、毎夜、「ご当地オペラ」とでも言うべき、心のこもった演目が上演されているのですが、このレーベルは、各地で催される音楽祭で上演されるオペラのライヴ録音のCD化に力を入れているのですよ。確かに歌手の知名度は(日本では)イマイチですが、よく探してみると、なかなか面白い名前を見つけることが可能。
今回の「ブルスキーノ氏」全曲。指揮はいつものグスタフ・クーン。このオペラ、ロッシーニの初期の1幕物オペラの最後の作品。短くてもなかなか聴き応えのある曲なのですが、全曲はあまり聴く機会がありません。「弦楽器奏者が弓で譜面台を叩く」というのが新鮮とかで序曲はしばしば聴かれるのですが。
あらすじは、愛し合うフロルヴィッレとソフィアの物語。彼の父と彼女の後見人が犬猿の仲だったため、結婚できずにいたのですが、この度父親が他界。「やれやれ、これで」と思ったのもつかの間、後見人ガウデンツィオは、勝手に一面識もない変態じじいの「ブラスキーノ」ではなくて「ブルマスキーノ」でもなくて(ふぅ)「ブルスキーノ」さんをソフィアの結婚相手に決めちゃって・・・。
で、曲の興味も尽きないのですが、とにかく注目は主役のソフィアを歌っている大阪生まれ、東京芸大卒の日本人若手ソプラノ幸田浩子さん。クーンのお気に入りで、以前からワーグナー作品にもちょい役で起用されてはいたのですが、今回は初の大役です。「私に花婿を与えてください」(Ah donate il caro sposo)での、いかにもロッシーニらしい華やかなアリアがききもの。少々線が細く、また技巧も幾分不安定ではありますが、ライヴと言う事もあるし、とにかく、それを補って余りある繊細な表現が魅力です。他の出演者も、まったく名前の知らない人ばかりですが、「クーンのお気に入りなら、いいかもしれない。」と、すっかりクーンびいきになってるおやぢでした。

5月6日

DVORAK
Stabat Mater
Giuseppe Sinopoli/
Staatskapelle Dresden
DG/471 033-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG‐1053(国内盤 5月23日発売予定)
あれは、4月21日(土曜日)の朝のことでした。いつものように仕事をしようと準備していた時に突然飛び込んできたシノポリの訃報。
「えっ?ウソでしょう?」思わず声が裏返ってしまいました。何しろ、そのときの話題は、その2日前亡くなったペーター・マークの事。「誰が読響の定期を振るんだろうね」と仲間内で盛り上っていたのですから、まさに晴天の霹靂。切れ切れの情報を整理して、浮かび上がってきたのが、54歳という早すぎる死の事実と、アイーダの公演中という、まさに指揮者冥利に尽きる出来すぎた話。
その上、生前の最後のリリースがこのドヴォルジャークの「スターバト・マーテル」・・・。悲しすぎるよ。私の記憶が確かならば、あの名合唱指揮者、ロバート・ショウ最後の録音もこの曲でした。なにか因縁めいたものを感じずにはいられません。
そもそもこの曲、ドヴォルジャーク自身の体験が元になって書かれたもの。1875年、当時34歳の彼を襲った突然の悲劇、長女の死。それががきっかけで、この曲にとりかかったのですが、しばらくは他の仕事が忙しくて作曲は中断。まさかその時は1877年、8月と9月に相次いで次女と長男を失うという考えられないような悲しみに直面する事になろうとは、夢にも思わなかったことでしょう。その2ヵ月後の1113日に完成した美しくも悲しい曲がこれです。
子供たちの冥福を祈る気持ちが随所に現れているのでしょうか。最初の4曲こそ、悲しみに彩られた嘆きの歌が続きますが、5曲目あたりから、暖かく優しい曲に変わってきて、最後の10曲目で、最初の主題が戻ってきてからは一転、輝かしい天上の世界が約束されるという、希望に満ちた終わり方になっているのです。こんな書き方をすると、マーラーの「Kndertotenlieder」を思い起こされるかもしれませんが、曲は和声も構成も、古典派に近いシンプルなもの。
このところは、指揮のスタイルが変化したとかで、多少非難めいた批評を目にする事もありましたが(最近のブルックナーも然り。私はとてもお気に入りですが・・)、なんといってもオペラ指揮者として、素晴らしい業績を遺したシノポリです。ワーグナー、プッチーニ、R・シュトラウスなどの作品、とりわけ、マノン・レスコー(83年)は名演。これからもこれを超える盤はないかもしれません。
そんなシノポリの最後の合唱作品。録音は2000年4月のライヴなのですが、もしかしたら、彼はもうすで一年後を予感してたのでしょうか?この美しさを表すのに、ふさわしい言葉が思い浮かびません。とりわけ優しい表情を持つ第5曲で、不覚にも涙がこぼれた事を告白すれば充分でしょうか。もう未来永劫、彼の音を聴くことはないのですね。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。(というわけで、「しのぶさんが警察官になったらシノ・ポリ」などというくだらないおやぢは、この際差し控えさせていただきます。)

5月4日

GERSHWIN
Porgy and Bess
Willard White(Bas)
Cynthia Haymon(Sop)
Simon Rattle/LPO
EMI/DVB 492497 9(DVD)
サイモン・ラトルが1986/87のシーズンにグラインドボーン音楽祭で指揮をしたジョージ・ガーシュインの「ポーギーとベス」は、トレヴァー・ナンの演出と相まって大成功を収め、1992年には殆ど同じキャストのままコヴェント・ガーデンという桧舞台で上演されました。その直後、テレビで放送するためにスタジオで録画されたものがこの映像です。ただし、収録されたのは画像だけ。音声の方は1988年にグラインドボーンのキャストで録音されたものです。これはCDでもでていましたね。
実はこの映像、1993年にLDで発売されたのですが、その時の値段が1万5千円、今回DVDで出直って、2千円ちょっとで買えるようになりました。メディアの成熟で、やっとまっとうな価格体系が実現されたと言うべきでしょうか。ただし、輸入盤ですので日本語のサブタイトルはついていません。英語のスーパーはありますが、黒人特有のスラングや独特のスペルは、体調の悪い時などは辛いかも(スランプ、とかけてたりして)。
さて、この物語、基本はポーギーとベスという年の差カップルのラブストーリーなのですが、登場人物のうち、二人は殺され、二人が水害で亡くなるという悲惨なもの。キャラクターも、主人公がなんといざりの乞食とヤク中のアバズレ、しかも、決してハッピーエンドにはならずにストーリーに含みを持たせて終わるという、今のアメリカのテレビドラマのプロットそのものです。
音楽的には、生前作曲家が「黒人以外で上演することを禁じる」と言っていたように、基本は黒人のブルースとかゴスペル。この味わいを白人が出すのはなかなか難しいものがあるのでしょう。もちろん、日本人にはまず不可能な世界。「音楽に国境はない」などというのは絵空事であることがこれほどはっきり認識されることもないでしょう。もっと言えば、日本人が西洋人の振りをしてオペラを上演する時の居心地の悪さも、この際きちんと確認しておいた方が良いのでは。
したがって、ここでの出演者(もちろん黒人)は、もうハマりすぎるぐらい役にハマりきっています。主人公の二人(ホワイト、ヘイモン)はもちろん、ベスのモトカレのクラウン(グレッグ・ベイカー)やヤクの売人スポーティング・ライフ(デイモン・エヴァンズ)といった「嫌われ者」キャラは、とことん存在感があります。ただ、ガーシュインの書いた音楽は、あくまでも「サマータイム」などの個々のナンバーの魅力が勝負、つなぎの部分まできちんと神経の行き届いたオペラを期待するというのは、この作曲家の才能のキャパシティを超えています。3時間という長丁場を耐えるには、いささか辛いものがあったことは、告白しなければなりません。しかし、演出のナンの手腕によって、特に終幕のドラマには思わず引き込まれてしまいます。ポーギーが杖を投げ捨て、自らの足で立ってベスを捜しに出発する幕切れからは、このやりきれない物語に一筋の光明を見出すことが出来ることでしょう。(文中に一部不適切な表現があったことをお詫びいたします。)

5月2日

SCHUMANN
Piano Concerto etc.
Christian Zacharias(Pf,Cond)
Orchestre de Chambre de Lausanne
MDG/MDG 340 1033-2
その昔、教育テレビで「ショパンを弾こう」という番組が放送されましたっけ。その時講師を勤めたのが、ユニークな個性と風貌でおなじみのシプリアン・カツァリスでした。妙にエレガントな物腰が、女性視聴者の支持を得たとかで、実のところ、私の義妹も「彼のCDが欲しい!」と大騒ぎ。「結局買ったよ」と見せてくれたのは、モーツァルトの協奏曲集。あれ?と思いよく見たら、ピアノはクリスチャン・ツァハリアス。どこで間違えたのかわかりませんが、義妹は憤慨してましたっけ。
でもユニークさでは、本家(?)カツァリスの上を行くツァハリアス、そのモーツァルトの協奏曲でも度肝を抜く演出をして、未だに論争のタネを巻き起こしているのは、マニアの間では有名な話です。と言うのも、有名な20番のカデンツァの部分で、わざわざ・・・。ま、この話はおいといて。
さて、今回は、そのツァハリアスのピアノで、シューマンのピアノ協奏曲と協奏的作品2曲の演奏です。彼は、ピアノを独奏する上、指揮までこなしてしまうという、マニアの期待を裏切らない、独創的で親切な1枚なのです。
だいたい、ピアノを弾きながら指揮をする、という行為はどのくらいの難易度の曲なら成立するのでしょうか?モーツァルト、ベートーヴェンくらいだったら、なんとかいけそう。昨年でしたか、アシュケナージがラウタヴァーラを弾き振りしましたが、ちょっと無理があったように思えたのは、偏見でしょうか。ショパン?これはツィマーマンが試みて、賛否両論を巻き起こしましたね。確かにオケを完全に手中に収め、思い通りの曲を作っていたのは「さすが」でした。ただ、あの曲はご存知の通り、オケパートが脆弱で、「なくてもいい」なんていわれるほどですから、比較の対象にはなりえません。
で、シューマンくらいの難曲の弾き振りになると、仮に腕が3本以上あれば、簡単に出来る事なのでしょうが、普通の2本の腕の持ち主なれば、ピアノ演奏だけに集中してくれた方が聴く方は安心できるのですよ。実は。
とりあえず、このシューマンは、ツァハリアスの言いたい事が全て表現されているような濃い演奏です。とりわけ全体のまとまりの良さには、感心しました。
曲の始め、流れるようなピアノの下降カデンツを早めのテンポで颯爽と弾き始め、そのままテーマへと歌い継ぎますが、ここのつなぎが、とても自然。2楽章もピアノとオケの対話が、とてもスムーズで美しい事この上なしです。3楽章。この楽章はリズムにとても特徴があって、(これは説明が難しい。同じ小節を3つに区切るメロディと、2つに分けるメロディが交錯するという極めて複雑なもの)ピアニストと指揮者の呼吸が合わないと、ここがめちゃくちゃになるのですね。その点は、さすが弾き振り。よくコントロールされた精緻な演奏といえましょう。ただし、この楽章は従来の演奏より、幾分ゆっくりなのは作戦なのか、演奏の限界なのか。そのため、胸のすくような爽快感は最後まで味わう事は出来ませんでした。それが残念。
一緒に収録されている2曲のうち、「序奏と協奏的アレグロ」Op.134はま、一種の「空耳アワー」。このテーマが、ある有名な曲と似ているのです。どのくらい類似しているかというのは、そうですね・・・。「木星」と「もののけ姫」くらいかな。(ごめんね、マスター!)
最初の話に戻りますが、カツァリスとツァハリアスも似てますよね?

4月30日

ARIA & SCENES
Karita Mattila(Sop)
佐渡裕/LPO
ERATO/8573-85785-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-10780(国内盤 5月23日発売予定)
フィンランド期待のソプラノ、カリタ・マッティラのアリア集です。指揮はこれまた日本の期待の星、佐渡裕。
この2人は、以前同レーベルから発売されたバーンスタインの「カデッシュ」で共演した実績があるのですが、その際、マッティラが佐渡を大絶賛。「これほど歌をサポートしてくれる指揮者は珍しい」と言ったとか。この言葉って、一歩間違えると、プリマドンナの一人勝ち?のような印象を受けるのですが、そこはかのバーンスタインの弟子でもある佐渡の事、汗の飛び散るような熱い演奏を聴かせてくれるに違いありません。ジャケの表記は「Yutaka Sado」、豊かさ度満点の指揮(って言ってろ!)。
さて、マッティラと言えば、アバドとの共演のアルバムも耳に新しいところ。最近は、ベートーヴェンの第9のソロや、例のモツレク、そうそう、シュトラウスの歌曲集もありましたっけ。あの「アポロの巫女の歌」での緊張感に満ちた歌が忘れられないところが「おやぢ」たる所以ではありますが。とにかく、現在最高のドラマチックソプラノの一人と言っても誰も異存のないであろう素晴らしい声と表現力の持ち主です。
今回のアリア集は、ワーグナー、シュトラウスから、ヴェルディ、プッチーニ、そして、チャイコフスキー、ヤナーチェク、おまけにレハールと盛りだくさん。まるで、歌のカタログのようです。
まず、気がつくのが彼女の声の美しさ。高音から低音までまんべんなく響き渡る透明な声は、分厚いオーケストラの響きをやすやすと乗り越え、耳に直接届きます。
ただ、こういうアルバムの性格上仕方ないのでしょうがどうしてもミスマッチな曲も散見されてしまいます。例えばローエングリンのエルザとエレクトラのクリソテミスでは、同じ娘役でもずいぶん「ひねくれ度」が違いますね。さすがにマッティラはそこら辺を充分に心得ているようで、1曲1曲、見事な性格描写です。オトコを信じたいエルザ、オトコを逃げ道にしたいクリソテミス、オトコを手玉にとりたいメリー・ウィドウのハンナ。微妙に歌いまわしが違うのがさすがのところと言えましょう。
しかしながら、佐渡の指揮がちょっと一本調子なのです。彼の音の作りは分厚く、かつ熱くなる傾向があるようで、これはチャイコフスキーでは美点となるのですが、シュトラウスやヤナーチェクのような曲の、底辺に流れる狂気を再現するまでには至ってないのが残念といえば残念。レハールも、もう少しおしゃれに聞かせてくれたらこの上なしなのですが。
なんだか厳しくなってしまいましたが、こんな事はとても細かい欠点。全体的にとてもよい出来なので、却って残念なところが目立ってしまったと言うわけです。
とりあえずワーグナーとチャイコフスキーがオススメ。「エルザの夢」なんて何回聴き返したことでしょう。まさに、うねるような官能的な表現がクセになります。「ぜひローエングリン全曲が聴きたい」と心から熱望しましたね。

4月28日

ROSSINI
Le nozze di Teti
Riccardo Chailly/
Orchestra e Coro Filarmonico Della Scala
DECCA/466 328-2
(輸入盤)
ユニバーサルミュージック
/UCCD-1034(国内盤 6月21日発売予定)
今回はロッシーニの知られざるカンタータです。指揮はこのところ、合唱作品ばかりリリースしている車輪ではなくてシャイー、独唱は、ソプラノのスカーノ(前作のヴェルディで私のお気に入り)、大御所バルトリ、ポスト・カサロヴァの呼び声が高いバルセロナ、そして、注目のテノール、フローレスと今が旬の人たちばかり。
181510月、ロッシーニは「イギリス女王エリザベッタ」でナポリにデビューします。今でこそ、ナポリは風光明媚で、パスタの美味しい町(ほんとか?)と言うイメージがありますが、当時はどうだったでしょう?確かに、地中海の澄んだ穏やかな海、豊かなぶどう酒、活気ある群集など、明るさには満ちていました。すっかりこの町に魅了されたロッシーニでしたが、南部地方で発生したペストに脅威により、オペラの成功を噛みしめる間もなく、慌てふためきローマへ出発してしまいます。
まもなく、ナポリの大劇場、サン・カルロは火事で焼失、大飢饉、ペストの猛威でナポリはさんざんな目にあうのです。
ローマ滞在中に、あの「セヴィリアの理髪師」で大成功と大失敗を同時に味わったロッシーニ、いやいやながら1816年の4月にナポリに戻ったその日に、このカンタータ「テーティとペレーオの結婚」を上演したのでした。当時の王であったフェルディナント4世の姪マリアとベリー公爵の結婚を祝って上演されたこの「ヨイショ」カンタータ、いたるところに王様へのごますりが散見されるのも当時の慣例といえましょうか。
「おやぢ」にしてはいつになく真面目ではありますが、このくらい身辺が慌しければ、新作を準備しようにも、いくら天才と言えど、なかなか手が回るものではありません。
まあ、カンタータといっても聴いてる分には、全くオペラと変わる事はありません。楽しい序曲からまさにロッシーニ。何しろ、このカンタータ、殆どが他のオペラからの引用。(ま、ロッシーニにはよくある話ですが)ロッシーニ好きの人ならたちどころに4つは、元ネタのオペラを指摘できるであろうシロモノ。
一番顕著なのは、9曲目のチェレーレのアリア、「Ah non portrian resistere」でしょうか。これはまるっきり、チェネレントラの最後のアリアのパクリ。で、歌ってるのが例のバルトリ。あまりにもはまりすぎた歌でここを聴くだけでも価値があると言えましょう。原曲より、幾分装飾が多めのアリア、聴くだけでもため息物です。リリースは最近とは言うものの、録音は98年の6月、最近はめっきり落ち着いた声になったバルトリですが、ここではまだ煌くような高音を聞くことが可能です。
全体を通して、シャイーはいつもの通り丁寧な指揮。おぢさんお気に入りのスカーノもなかなかの健闘ぶり。もちろん、フローレスは上手いなぁ。
ロッシーニは使い捨てのつもりで書いたらしいけど、なかなか味のある素敵な一曲でした。

おとといのおやぢに会える、か。


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