散る毛の禿。.... 渋谷塔一

(04/8/27-04/9/17)


9月17日

"Schöne Wiege meiner Leiden"
C.&R.SCHUMANN, BRAHMS
Lieder & Briefe
Werner Güra(Ten)
Christoph Berner(Pf)
HARMONIA MUNDI/HMC 901842
私の生活の中では、いつも歌物関係に触れているような気がします。最近はDVDも観るようになりましたし、時間と資金が許せば、演奏会やオペラにも積極的に出掛けたいのですが、なんと言っても一番接する機会が多いのはCDでしょう。そうなってくると、以前も書きましたが、問題になるのが「言葉」です。日本語も満足に扱えない私ですから、外国の言葉など本当に理解不能。対訳のない曲については、正直、音楽と言葉の響きを楽しむだけに留まっています。ドイツ語の歌詞は、しばしば辞書を片手に自分で訳したりもしますが、これが解説などの長い文章になるともはやお手上げ、「そんなものかな」と諦めています。しかし、今回のアルバムは本当に解説が読みたくなるほど意味深な曲の並びです。
クララ・シューマンとロベルト・シューマン。この夫婦の歌曲を収録したものは、今までにもいくつか出ています。ボニー&アシュケナージとか、ホルツマイヤー&クーパー(この2人は実際に夫婦です)とか。小難しいロベルトの曲を彩るかのように添えられたクララの可憐な作品。実生活の2人を想像させるかのような、あくまでも微笑ましい曲集に仕上がっていた記憶があります。しかし今作は、そこにブラームスの曲が入ってくることにより、一気に艶かしさが加わるのですね。もちろん、シューマン夫妻とブラームスの関係はあくまでも想像の域を出ないもの。クララの子供たちの何人かは、ブラームスの血をひいている・・・という話もありますが、それには敢えて目を瞑るのが暗黙の了解ということになっています。このアルバムは、リブレットに彼らの年表と書簡を添えることで、そっと、その封印された部分を覗き見せてくれているのでしょう。私は敢えて辞書をひかないことにします。音だけで想像するのも悪くありませんから。
ここで素晴らしい声を聴かせてくれるのが、ドイツのテノール、ヴェルナー・ギュラです。「水車小屋」や「詩人の恋」で披露してくれた伸びやかな歌で、すっかり私はファンになってしまいました。「パート3」もしっかり見ています(それは「チュラ」)。彼はミヒャエル・シャーデと並ぶドイツ・リート歌手の先鋭、声質もシャーデとよく似た、軽く透き通ったステキな響きです(実は外見もよく似ています)。内容は、ブラームスの「ドイツ民謡詩集」、クララの7つの歌曲。そしてロベルトの「リーダークライスop24」というプログラム。ここで聴かれるブラームスの歌曲のステキなこと!曲調はあくまでも素朴ですが、単純な曲だからこそ却って難しい・・・「水車小屋」もそうですが、このブラームスもまさにそんな曲です。あまり上手くない人が歌うと、聴き手が退屈する恐れのあるくらい、ごまかしが一切効かない真剣勝負といえましょう。もちろんギュラの歌は、一瞬たりとも耳が離せませんでした。
クララやロベルトの曲は、曲自体が凝っているので、少々暑苦しい感じすらしました。しかし、恐らくこれらの曲には、溢れるほどの愛が詰まっているのです。それも当人同士にしかわからないほどの。ここまで昇華された作品になってしまうと、もう何も言えないものですね(某掲示板でのむき出しの「愛の往復書簡」などは、見ていてげんなりしてしまいますが)。

9月15日

RACHMANINOV
Liturgy of St John Chrysostom
Stephen Cleobury/
Choir of King's College, Cambridge
EMI/557677 2
ラフマニノフがロシア正教の典礼のために作った合唱曲には、一般に「晩祷」(これは誤訳で、正式には「徹夜祷」というのだそうです)と呼ばれている、こちらはかなり有名な曲と、今回の「聖ヨハン・クリソストムの礼拝」の2曲があります。いずれも、ロシア正教の古い聖歌のテイストを19世紀に蘇らせた、敬虔な雰囲気に満ちた名曲です。
「聖ヨハン・クリソストム〜」は、聖体拝領の儀式に用いられる音楽です。いやらしい童話ではありません(それは「親指トム」)。ロシア正教では、教会内で鐘以外の楽器を使うことは禁じられており、必然的にア・カペラの合唱、しかも、かつては女人禁制であったため、ソプラノ、アルトのパートは少年によって歌われました。最初このCDを手にした時、「なぜイギリスの聖歌隊がロシア正教?」と不思議な気がしたものですが、そういう意味では、同じように少年によるトレブルと成人による男声パートという形を取っているこの聖歌隊は、決してミスマッチではなかったのです。実は、この曲、以前にもHYPERIONからコリドン・シンガーズによる演奏が出ているように、ロシア人よりは、イギリス人の方が好んで取り上げているという局面もあるのです。
まず、いきなり聞こえてくるのは、ちょっと普通の声楽家とは違った歌い方のダミ声です。そう、これは実際の儀式に使われる音楽ですので、その式を司る聖職者(このCDでは「司祭」と「助祭」の二人)による、祈祷文の朗唱というものが入っています。その朗唱と合唱が交互に歌われるのが「連祷(リタニー)」と呼ばれるものです。この曲は、おおざっぱに言ってしまうと、その連祷と、合唱だけによる賛美歌が、かわりばんこに演奏されるという構成になっています。その連祷、司祭の朗唱に続いて合唱は例えばカトリックの「Kyrie eleison」に相当する「Gospodi pomiluy」というフレーズを何度となく繰り返すのですが、それが、歌われるたびに微妙にハーモニーや譜割りが変わっていくのです。まるでミニマル・ミュージックのように、同じものが少しずつ景色を変えていくという趣、これはなかなかスリリングです。合唱だけによる賛美歌も、抑揚のあまりない、流れるようなものが殆ど、そこではひたすら、純正調のハーモニーを堪能することが出来ます。ですから、たまに例えば「第2のアンティフォナ」のようなダイナミックな曲調が聞こえたり、「主の祈り」で、それまではなかった短調の響きが聞こえたりすると、それを確かなアクセントとして感じることが出来ます。いずれにしても、最後にロシア語で「アーミン」と長く伸ばされる和音が果てしなく減衰していくさまは、言いようのない静謐さに溢れて、聴くものを心から和ませてくれることでしょう。声を荒らげないところから、真の感動が生まれることが実感されるはずです。
もちろん、それを実現させたのはいつになくトレブルのしっかりしたキングズ・カレッジ聖歌隊の力です。ロシアの団体が演奏したものとはまるで別の曲であるかのようなテイスト、録音を担当している、かつてはDECCAのチーフ・エンジニアであったサイモン・イードンに負うところもあって、とてもロシアの音楽とは思えないピュアなサウンドが心地よく響きます。

9月13日

赤とんぼ
キングレコード/KICG-3080
恐らく日本人なら知らない人はいないであろう、あの名曲「赤とんぼ」。この曲の謎にせまるという画期的なアルバムです。
このシリーズは既に何枚も出ていていずれも大好評とのこと。とにかく音源を用意するのは比較的楽でしょうが、解説を作るのが大変だろうな、と容易に想像がつく企画ではあります。今回の「赤とんぼ」の謎も解説が面白い!まず、「なぜこの曲が日本人の心をくすぐるか」についての片山杜秀氏の興味深い文に「なるほど」と膝を打ちます。所謂「ヨナ抜き五音階」の話に始まり、メロディラインについての詳細な解析を読むことはまさに目から鱗が落ちる思い。67へぇくらい、あるいは八分咲きくらいの点数を挙げたくなります。
収録されている曲もこれまた面白く、のっけから珍妙な響きがするなと思ったら、なんと、イスラエルの子供たちによる歌でした。微妙に音を外す子がいたり、この国ではHは発音しないんだなと気がついたり。その次にくるのが、ブルースハープによる「あかとんぼ」。これこそ、取調室で刑事が「田舎では今頃・・・・」といいながら胸ポケットからやおらハーモニカを取り出して吹く。そんな場面にぴったりです。カルメン・マキの渋い声や、鈴木大介のギターなど、あらゆる編曲で聞く赤とんぼ。いいですね。
7曲聞いたくらいのところで、次の解説に行きます。今度は作詞家の三木露風の生涯についてと、詩の成立に進みます。正直なところ、3番の歌詞が良くわからなかった私、この解説で納得でした。幼い露風を置いて母親が家を出たこと。こっそり届く母の便りを唯一読んでくれたのが、十五で嫁に行った姐やだったわけです。(ここであと20へぇの上乗せですね)他にも興味深い解説を読んでいるうちに、突然異質な響きが。実は、この曲の元ネタ(?)といわれるシューマンの“ピアノと管弦楽のための序奏と協奏的アレグロ”までもが収録されています。確かにそっくりなメロディです。これを発見したのがかの吉行淳之介だったと知って、あと13へぇの更なる上乗せを決意した私です。他にも興味深いエピソードが盛りだくさん。これは本当に面白いアルバムです。
ところで、山田耕筰の作品には、他にも「盗作?」と思われるメロディが散見するのは有名な話です。若い頃は、特にドイツ・ロマン派の作品にはかなり影響を受けていたはずの山田耕筰の耳にしみついていたとしても誰も彼を責めることはできないでしょう。そういうもので私が知っているのが、代表作「この道」と、R・シュトラウスの歌曲、作品21-2「君はわが心の冠」でしょうか。伴奏といい、メロディの跳躍「あ〜」の部分といいホントびっくりするほどそっくりですから。

9月10日

MESSIAEN
Éclairs sur L'Au-delà...
Simon Rattle/
Berliner Philharmoniker
EMI/557788 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55640(国内盤)
かつてバーミンガム市交響楽団の音楽監督だったサイモン・ラトルは、その任期の最後の10年間(正確には、その最後期はそのポストをサカリ・オラモに譲っていましたが)に、「Towards the Millennium(ミレニアムに向かって)」という、現代曲にこだわったシリーズを敢行していました。定期演奏会で集中的に20世紀の作品を演奏、それを来たるべき次の千年紀に引き継ごうという、壮大なプロジェクトだったのでしょう。アルミ、プラスティックスと来て、次は何になるのでしょう(それは「洗面器」)。その成果の一部は96年に「Leaving Home(故郷を離れて)」というテレビのドキュメンタリーとして紹介されました。これは98年頃に日本でもで放送されましたので、ご覧になった方もいたことでしょうが、ここでラトルは自ら番組のホストを務め、20世紀の音楽について熱く語っていたのでした。そして、ミレニアムの境目である2000年に、まさに千年紀の総決算として、このメシアン自身の作曲技法の総決算である「彼方の閃光」を、初めて演奏することになるのです。
バーミンガムの定期とは別に、やはり2000年のケルン・トリエンナーレで演奏されたものが、ライブ映像としてBSで放送されたことがありました(DVDも出ているはずです)。このコンサートは、現代音楽を中心に演奏するという音楽祭の一環、この時も、メシアンとのカップリングはハンス・ヴェルナー・ヘンツェと、サイモン・ホルトでした。そのメシアンに必要な、総勢128人という巨大なオーケストラが、さほど大きくないステージに並んだ様は、まさに壮観というべきものでした。なにしろ、管楽器のメンバーの多さといったら、それだけで普通のサイズの吹奏楽団が出来てしまうほど。フルート族などは10人もいますから、1列では並びきらず、ピッコロ担当の3人が列の前に出てきてしまって、木管が3列になるという、普通のオーケストラではまず見られない配置になっています。最後列には端から端までさまざまな種類の打楽器が所狭しと並んでいましたっけ。
この映像で見られるのは、メシアンがこの曲に込めた「愛」の情念を、極めて分かり易い形で前面に押し出したラトルの姿でした。永年手塩にかけて育て上げたバーミンガム市響の力を信じ切った最後の第11曲「キリスト、楽園の光」の演奏は、作曲者が本来目指したであろう静謐さから敢えて遠ざかろうとしたかに見える「熱い」ものに仕上がっていました。
それから4年、ベルリン・フィルという世界一の能力を持つオーケストラを相手に録音されたこのCDでは、技術的には更なる進化、まさに目の覚めるようなものが提供されることになります。9曲目の「生命の樹にやどる鳥たちの喜び」での、フルート、クラリネットによる鳥の声の模倣、とてつもない超絶技巧の応酬をいとも軽やかにクリアしている様は、ほとんど肉体から遊離した技術集団であるかのような錯覚に陥るのに充分なものがあります。そして、先ほどの映像よりさらに個人芸の秀でた、豊かなビブラートに彩られた終曲では、彼らにしかなしえない豪華絢爛な世界が繰り広げられます。奔放さすら漂うその響きの中から浮かび上がるメシアンの姿は、まさに極彩色の衣装をまとったものでした。

9月8日

Sempre Libera
Anna Netrebko(Sop)
Claudio Abbado/
Mahler Chamber Orchestra
DG/474 800-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1213(国内盤 1021日発売予定)
マスターもお気に入りのアンナ・ネトレプコ、期待の最新アルバムは、恐らくみんなが最も聴きたかった、イタリア・フランスオペラのアリア集です。しかし、このジャケで見る彼女の変貌ぶりはなんと表現すればいいのでしょう?前作でも確かに胸の谷間にはくらくらしましたが、全体的な雰囲気は、まだ少女と言ってもおかしくないコケティッシュな清純さが漂っていました。ですが、今回は全くの別人のよう。タイトルも、椿姫のアリアから取られた「semple libera〜(いつも自由に)」と意味深。その上、バックで彼女を盛り立てるのが、アバド指揮のマーラー室内管と言うのですから、これはもう歌好きでなくとも、聴いてみたくなる1枚といえましょう。
さて、まず最初の曲は、表題にもなっている「椿姫」の第1幕、幕切れのアリア、「ああ、そはかの人よ」「花から花へ」です。第一声、「E strano, e strano!」ここを聴いただけで彼女の声に加わった深みのようなものを実感しないわけには行きません。声自体が重くなったのでしょうか。しっとりとした襞に包み込まれるような官能的な歌声です。だから前半のシェーナの部分は申し分ありません。真実の愛なんて無縁と信じていた女心を一瞬にして揺り動かしたアルフレードを思って、自分の心を宥めながら歌う「そはかの人」、ここは絶品です。しかし、それ以降のカバレッタの部分「花から花へ」、ここはある意味狂乱の場でもあるのですが、ここでのコロラトゥーラを期待するのは少々気の毒というものでしょう。たっぷり水を含んだスポンジのような声は、とても小回りが効くものではありません。
ですから、次の「夢遊病の女」や「清教徒」や「ルチア」といった、コロラトゥーラのお手本のような曲では、少しだけ不満があった事を正直に白状しましょう。しかし、それでも良かったなと思えるのは、彼女の声に金属的な響きが全くないからなのかもしれません。オペラが嫌いと言う人が上げる理由の一つに、「あのキンキン声がイヤなんです」というのがありますが、彼女の声は本当に深みと温かみがあって、そして驚く程の表現力があって・・・。
だからこそ、その次の「オテッロ」のアリア、「柳の歌〜アヴェ・マリア」は絶品でした。技巧よりも表現力のみを必要とされる、厳しいほどの自己内省の結実した曲、彼女はこの上なく完璧に美しく歌いきります。本当に静かに耳を傾けないと、この心は伝わりません。暗く寂しい「柳の歌」が終り、満たされた響きのアヴェ・マリアが始まると、ついついため息がでてしまいます。
そして、おなじみ「私のお父さん」。この曲でのネトレプコは、ヴェルディとは違った愛らしさで一杯。またまたファン倍増の予感です。虫歯予防にぜひ(それは、「ハミガキコ」)。

9月6日

Wings of Song
James Galway(Fl)
Klauspeter Seibel/
London Symphony Orchestra
DG/477 5085
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCG-1214(国内盤 1021日発売予定)
文字が一切入っていない、アー写だけという、このほとんどロックのアルバムのノリのジャケット、かのジェームズ・ゴールウェイが古巣RCAを離れて、何とドイツ・グラモフォンに移籍したという、その記念すべき第1作のものです。「古巣」と言いましたが、ゴールウェイにとっては、ドイツ・グラモフォンこそがまさに「古巣」なのだ、というのが、このレーベルの主張です。確かに彼が5年間首席フルート奏者として在籍していたベルリン・フィルが、当時のシェフ、カラヤンのもとで行った録音には夥しいものがありますから、それも真理の一面ではあるでしょう。木管五重奏のアルバムだって作っていましたし。しかし、「ソリスト」ゴールウェイは、あくまでRCAで花開いたもの。それを支えたプロデューサーやエンジニア、たとえレーベルが変わっても、かつてのアーノンクールに前例があるように、そのチームをそのまま連れて行くのではないか、という予想もされました。ところが、現物のクレジットを見てみると、プロデューサーがクレイグ・レオンだというではありませんか。そう、かつて「Izzy」などを世に送ったり、この「おやぢ」でもご紹介した「エリジウム」というグループの「オーヴェルニュの歌」などを手がけた、元々はロック畑の敏腕プロデューサーです。ヒーリング系には定評のあるこの人が、ゴールウェイをどのように料理してくれるのでしょう。おそらく、こんな「顔」だけのジャケットも、レオンの味付けの一部なのでしょう。紅茶にも欠かせません(それは「レモン」)。
そのプロデューサーの人選から予想されたとおり、このアルバムは、とことん「歌」に溢れた、極めて美しい仕上がりになりました。選ばれている曲目がすべてフルートのために作られたものではないというのも異色。例えばグルックの「オルフェオとエウリディーチェ」と言えば、もちろんフルートソロが流麗なメロディーを奏でる「精霊の踊り」を期待するものですが、ここではオルフェオのアリア「エウリディーチェを失って」ですし、サン・サーンスでも、フルートのアンコールピース、「アスカニオ」からの「アダージョと変奏曲」ではなく、「サムソンとデリラ」から、デリラの誘惑の歌「あなたの声に心は開く」という具合に、ちょっと「外した」曲が選ばれているのです。しかし、ゴールウェイが放つ極上の歌心は、どんな曲からでも奮い立つようなエモーションを引き出してくれています。フルートで歌われることによって、そこには元の「歌」を越えた華麗な世界が広がります。ベッリーニの「カスタ・ディーヴァ」などでの、同じメロディーを繰り返す時に1オクターブ上げるという彼の常套手段、その高音は、何とセクシーに心に響くことでしょう。
一方で、ロドリーゴの「アランフェス」では、ギターのリリカルな部分だけではなく、フルートには似つかわしくはないような技巧的な部分までも忠実に吹いているあたりが、世紀のヴィルトゥオーゾ、ゴールウェイの真骨頂でしょうか。「俺はヒーリングなどやるつもりはないのだ!」という意気込みが聞こえてきそうなこのトラックがあったために、このアルバムはかろうじて、ヒーリングに堕してしまう一歩手前で、踏みとどまることが出来ました。

9月3日

DEBUSSY/TOMITA
Clair de Lune
冨田勲(Syn)
BMG
ファンハウス/BVCC-37405
冨田勲がこのアルバムを発表したのが1974年、つまり、いまからちょうど30年前ということになるのだそうです。それを記念して、彼のアルバムがオリジナルの国内盤LPを復刻した紙ジャケット仕様でまとめて出直ることになりました。全9タイトルのうち、今月は第1作(このアルバム)から第4作の「惑星」までと、第7作にあたる「ダフニスとクロエ」の5タイトルがリリースです。モーグ・シンセサイザーをひっさげて、アメリカあたりでも空前の大ヒットをもぎ取った「世界のトミタ」、せっかくの機会ですから、ドラえもんと一緒にしっかり聴き直してみましょう(それは「のび太」)。
よく知られているように、1968年に発表された「スイッチト・オン・バッハ」というアルバムによって華々しいデビューを飾った新しい楽器「モーグ・シンセサイザー」を、いち早く個人で輸入、当初は使い方すら分からない中から、試行錯誤を重ねて日本で最初にこの楽器によるアルバムを作ったのが、冨田勲です。「スイッチト〜」という前例はあったものの、冨田が目指したものは、そこでワルター(ウェンディ)・カーロスが見せていたある種無機的な響きとは異なる、もっと肉感的な、情感溢れるサウンドだったのではないでしょうか。ドビュッシーという芳醇な和声を内包する素材を用いて彼が取った方法論は、幾重にも音を積み重ねるという、カーロスとはまるで違ったものでした。その結果得られる分厚い響きこそ、「トミタ・サウンド」のアイデンティティだったのです。そのためには、「メロトロン」をコーラスに用いるという反則技も、敢えて厭いませんでした。
このゴージャスな響きに彩られた、全く新しい顔を持つに至ったドビュッシー、クラシックはもちろん、新しいサウンドを求めていたポップス畑の人たちにも、絶賛を持って受け入れられることになります。冨田の弟子である松武秀樹が参加していたテクノ・グループ「YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)」のリーダーであった細野晴臣は、このアルバムの中で、原曲とは全く異なる「宇宙的」なイメージを持つに至った「アラベスク第1番」にインスパイアされて、「コズミック・サーフィン」という曲を書いてしまうほど、「トミタ」にハマってしまうのです。一方で、同じグループの坂本龍一あたりは、真っ向から「トミタ批判」を唱えます。「冨田は、『新日本紀行』のテーマ曲などが、彼の本来の持ち味で、このドビュッシーはセンスが悪い」と。この発言、確かにその原文が音楽雑誌に載っていたのを見たことがあるのですが、なぜか後になって「『新日本紀行』同様、ドビュッシーもセンスがよい」と、微妙に異なったコメントとなって流布することになります。坂本に「センス」云々を語る資格があるかどうかはさておき、それも、このアルバムが持っていたひとつの「力」のなせる業だったのでしょうか。
確かに、冨田でしかなしえないアクの強いサウンド、第2作の「展覧会の絵」や第3作の「火の鳥」ではますますその傾向を強めますが、今回のリリース分の最も後期のラヴェルになると、もう少し原曲に寄り添った上での、卓越したアイディアが見られるようになってきます。その頃には、もはやモーグだけではなく、ローランドやヤマハも導入していることと、無関係ではないのかもしれません。

9月1日

LISZT
Années de Pèlerinage
Nicholas Angelich(Pf)
MIRARE/MIR9941
現在、ピアノを学んでいる人はいったいどのぐらいいることでしょう。CD店の店先を見ていても、ほとんど毎日何かしらのピアノ物の新譜が入荷しているようです。何しろ、あとからあとから「雨後の筍」のように出現する若手ピアニスト。その膨大な枚数のCDを全部聴いている人など恐らくいないだろうな。とも思えます。
そんな中で、どうしたら人々の耳の残るCDができるのでしょうか?まず、大きなコンクールを制覇する。これならイヤでも人々の注目を浴びます。ユンディなんかがそうですね。(そういえば、かの仙台国際音楽コンクールのCDも発売されるらしいですね)若しくは、フジコのように「独特のスタイルを持っている」などの特記事項があってもOKでしょう。もう一つ、何かのマスコミで取り上げられるという手もあります。それも、フジコのようにドキュメンタリーとしてではなく、あくまでも演奏の質についてですが。そんな時便利なのが、「レコード芸術」という雑誌です。以前は国内盤ばかりを扱っていたので、「情報が古い」と敬遠している人も多かったのですが、最近では積極的に輸入盤のレビューも取り上げるようになり、中でも「海外試聴記」は、CD店ですら販売戦略として利用するくらい、購入の手助けになるものなのです。
さて、前置きが長くなりましたが、今回のエンジェリッチのリストもその海外試聴記で取り上げられた1枚です。紙面では「えらい誉めよう」だったのですが、私などは「巡礼の年はベルマンに勝るものなし」と思ってました。だからこそ聴いてみたくなったのでしょう。最近流行りの紙ケースに収められた3枚組。まず1枚目の「第1年スイス」から聴いてみます。第1曲目の「ヴィルヘルム・テルの聖堂」。しかし、これを聴いただけで、私は先の意見を覆すほかありませんでした。確かにベルマンの演奏は素晴らしいものでしたが、今聴きなおしてみるとこけおどしの部分が多いのにも気付かされます。今から30年前のリストの音楽像・・・派手でとにかく内容のないもの。これをきっちりなぞりつつ、「第3年」の深遠な世界を少しだけ表現したのがベルマンの音楽だったのです。当時はこれで充分だったのですね。
しかし、現在では「リストは派手で内容がない」などという人は袋叩きにあうにちがいありません。リストの曲の持つ多面性をきっちり表現するに一番相応しい「巡礼の年」。エンジェリッチの演奏は、とかく派手といわれがちな「第1年スイス」からして、思慮深いものだったのです。「泉のほとり」での静かな音楽は、同じ水の様子を描きつつも恐ろしいほど難解な「第3年」の「エステ荘の噴水」と完全にリンクするものでした。(「噴水エステ」って、なんだか効き目がありそう・・・)。
全曲に染み渡る敬虔な思いは、何度聴いてもその度に静かな喜びをもたらしてくれます。この人の演奏で、ぜひ「詩的で宗教的な調べ」も聴いてみたいものです。

8月30日

Über Johann Sebastian Bachs Leben, Kunst, und Kunstwerke
Lorenzo Ghielmi
(Fortepiano, Chembalo, Clavichord)
W&W/910 105-2
「ヨーハン・ゼバスチャン・バッハの生涯と芸術と作品について」というタイトルだけでなく、アーティストの名前から曲目、そして、なんとライナーノーツの全文に至るまで、全て「ヒゲ文字」で書かれているという、それだけでひいてしまいそうなアルバムです。まあ、そんな「お遊び」は、このレーベルのいつものやり方、ここで「読めな〜い」と自らを卑下することはありません。最初に書いたタイトル、実はバッハの伝記としては最初のものとなる、ヨーハン・ニコラウス・ファルケルという人の著作のものなのです。ライナーに掲載されているのはその伝記の抜粋、つまり、バッハの生涯をCD1枚分で聴いてしまおうというのが、このアルバムのコンセプトというわけです。もちろん、全てのジャンルを網羅することなど不可能ですから、ここではロレンツォ・ギエルミによるクラヴィーアの演奏だけで、とりあえずご勘弁を。
ギエルミという人は、オルガニストとして日本では知られていますね。つい最近、「東京オリンピック」の年に作られた東京カテドラル聖マリア大聖堂のオルガンが新しくなったというニュースを見ましたが、その新しいオルガンの設計を担当したのが、ギエルミでした。丹下健三という、当時の建築界のボスによる近代的なデザインのこの大聖堂に当初作られたオルガンは、その建物に見事にマッチした近代的なフォルム、ただ、それを実現させるための最先端の電気アクションが、経年使用に耐えられなかったために解体を余儀なくされたという、皮肉な結果が待っていました。今回ギエルミが設計したものはリュック・ポジティフまで備えるという、極めて古典的なもの(もちろんアクションは機械式)、これでしたら、何百年も使えることでしょう。
話が横道にそれてしまいましたが、ギエルミはここではオルガンではなく、チェンバロ、クラヴィコード、そしてフォルテピアノといった「弦」のある鍵盤楽器を弾いています。伝記に沿って、最初は彼が若い頃聴いていたゲオルク・ベームの作品、それに続いて、20代の作品であるファンタジーBWV922がチェンバロで演奏されます。後のバッハに見られる、ある意味型にはまったものとはちょっと違う、豊富なアイディアがしぶきのようにあふれ出る様を、ギエルミは活き活きと表現してくれています。そして、イタリアの大家の技法を勉強したのもバッハの修行の過程。そのためにヴィヴァルディを模写したのが、協奏曲BWV978です。ここで使われているのがクラヴィコードという、なかなか実物を聴く機会がない楽器、外見から想像しがちなプリミティブな印象とは全く異なる、豊かな表現力と軽やかな音色が魅力的です。正直、これほどまでに完成された楽器であることを知ったのは、この演奏を聴いたから、と言えるほどの目の覚めるような演奏です。バッハの伝記には必ず登場するのが、フランスの作曲家ルイ・マルシャンとの「一騎打ち」、ここではバッハのフランス組曲BWV816と、そのマルシャンの組曲を並べるという「意地悪」なこともやっています。これを聴くと、マルシャンが恐れをなして、戦わずして「夜逃げ」をしてしまったのも納得です。
アルバムの最後を飾るのは、お約束、「音楽の捧げ物」BWV1079から3声のリチェルカーレ。これがフォルテピアノで演奏されることによって広がる世界は、普段チェンバロで聴くものとは全くかけ離れたものです。ここからは、後にバッハの音楽がまさにグローバルな地位を獲得するに至る萌芽を見ることも可能なのではないでしょうか。

8月27日

SCHUMANN
Lieder
Matthias Goerne(Bar)
Eric Schneider(Pf)
DECCA/475 601-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCD-1118(国内盤)
絶大なる人気を誇る「冬のソナタ」の再々放送が終了しました。マスターはすっかりはまったようですが、この私は「恐らく放送を見ることもないだろう・・・・・」と考えておりました。土曜の深夜という放送時間に、テレビを見る習慣のないことが理由の一つですが、何より、主演男優に全く興味を持てなかったことを白状いたします。(ただし、職場で「ヨンさまなんて興味ないし!」なんてことは口が裂けても言えませんでしたが。)しかし、世の奥様方のフィーバーぶりのすごいこと。微笑ましいなどというレヴェルではありません。何がそこまで彼女たちを駆り立てるのか。その心の一端を、ある雑誌のインタビューで目の当たりにしました。「ヨン様のことを考えると、胸がなんだかどきどきしちゃうの」そう、人間は何かしらのときめきがないと生きていけません。そして、その対象は人によって違うんです。だから、美容院で無条件に「ヨン様」の雑誌を渡された時は、泣きそうになるくらい私は「ヨン様」にはときめきませんが、マティアス・ゲルネの歌声には無条件にときめいてしまいます。そう、私にとっての「冬のアナタ」は、まさに「ゲル様」なのです(意味不明)。
彼のアルバムだったら、何でも誉めまくってしまう私ですが、とりわけ今回の1枚は宝物。これは、リーダークライスなどの歌曲集ではなく、シューマンの数多くの歌曲の中から、彼自身が選りすぐりの25曲を集めたというアルバムです。若い頃の作品から晩年の作品まで、本当に磨きぬかれた歌の世界を堪能することができます。シューマンの歌曲は、陰影を帯びた彼の生涯にぴったりと寄り添ったものばかり。なかでも、このアルバムにも6曲が選ばれている曲集「ミルテの花」作品25の零れ落ちるような歓喜と愛の表出はとりわけシューマンらしい作品として知られています。その中の第1曲目「献呈」。このアルバムを手にする前から楽しみにしていた歌です。これを聴いてみました・・・・・。思わず涙しました。ひっそりと始まるシュナイダーのピアノ。そして、決して声高に幸せを歌い上げるのではなく、どちらかと言うと抑えた表現で歌うゲルネの本当に柔らかく深いビロードのような声の響き。まさに陶然とする一瞬です。そして夜の空気を震わせるような張り詰めた中間部。打って変わって、想いが弾けるように花開く再現部。ひっそりと奏でられるピアノの後奏。とても「美しい・・・」などという言葉で伝えられるようなものではありません。
ときめくのには理由などいらないのだ、と強く痛感した、もう若くはないおやぢのつぶやき。伝わりますか?

おとといのおやぢに会える、か。


accesses to "oyaji" since 03/4/25
accesses to "jurassic page" since 98/7/17