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ワイフの貞操危機。.... 渋谷塔一

(03/8/18-03/9/8)


9月8日

Bel canto Arias
Vivica Genaux(MS)
John Nelson/
Ensemble Orchestral de Paris
VIRGIN/VC 545545 2
お店に置かれたこのCDを見て、「何だか宝塚の男役みたい」と話している2人連れの女性がいました。確かにこのジャケは、女子高の下駄箱で、放課後に「あの・・・・これ」と下級生から恋文を渡される先輩といった風情があります。しかも相撲部の(それは揃い踏み)。
この人はヴィヴィカ・ジュノー。そう、あのヘンデルのリナルドですばらしい歌声を披露してくれた期待のメゾ・ソプラノです。ヤーコプスのお気に入りとかで、デビュー・アルバムの「ファリネッリのためのアリア集」の印象も鮮烈でしたね。ただ、あの時はハッセやポルポラ、その時代の作品が好きな人にとってはたまらない逸品でしたが、まだまだバロックオペラがイマイチ認知されていない現在の音楽界では、彼女の歌声を知っているのはほんの少数派でしょう。ですから、今回のロッシーニ、ドニゼッティで、やっと多くの人に聴いてもらえることになるのではないでしょうか。
そんなわけで聴いてみました。最初に置かれているのが、有名なロッシーニの「チェネレントラ」のアリア、“不安と涙のうちに生まれ〜悲しみよ去れ”です。このアリア、というよりこのオペラを広く世に知らしめたのは、なんといってもかのチェチリア・バルトリでしょう。デビューしたての可憐な容姿と高いコロラトゥーラの技術で、(映像の発売もその人気に拍車をかけました)多くのファンを魅了、ロッシーニ自体の人気も飛躍的にUPしたのが記憶に新しいところです。
それを頭のすみに置いて聴き始めました。正直、「バルトリを超えることはないだろうな」と思っていたのですが・・・・。それが何と自然な歌唱なのでしょう。ロッシーニ特有の装飾音が全く無理なく耳に飛び込んできます。何より声そのものが耳に心地よいのです。バルトリは確かに巧いのだけど、彼女の声は少し尖がったところがあり、(それが魅力なのですが)どうしても「オンナのヒステリー」という言葉が頭をよぎってしまうのですね。しかしジュノーの場合はそれが全くなし。これはステキです。
同じくロッシーニの「今の歌声は」。この素晴らしさもとても言葉では言い表せません。あえて言うなら、変幻自在の魅力でしょうか。音一つ一つが意思を持って光り輝くような歌声です。楽譜通りに歌うのが精一杯という人も中にはいる難しいアリアですが、彼女はどれ一つとして同じメロディがありません。手を変え、表情を変え、歌い繋ぐさまの見事さ!
そしてドニゼッティ。彼のオペラアリアは、どちらかと言うとソプラノ主体かと思っていましたが、そんな考えは見事に覆されてしまいました。どの曲もわくわくしてしまいます。
メゾ・ソプラノのフローレスのような人・・・私の中では、彼女はそんな位置付けになりました。

9月6日

BACH-HONEGGER
Dialogue
Achim Fiedler/
Festival Strings Lucerne
OEHMS/OC 301
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCC-38018(国内盤)
「バッハとオネゲルの対話」と題された興味深いアルバムです。実は輸入盤で、かなり以前に店頭で見かけたものですが、その時は、例のポッペンの「リチェルカーレ」ばかりに気をとられ、こちらはついついやり過ごしてしまったと言うわけです。
そのポッペンはバッハとヴェーベルンを並べたものでした。およそ200年の隔たりを超えて導き出された音楽。その姿はかなり変貌を遂げていても、根底に流れるものは同じ、宗教的な側面も含めて、完全に理解することは困難ではありましたが、時代を超えた何かを受け取ることが可能だったのかな・・・と今でも少し不思議な気分を残しながら、その残滓に酔うのです。
この「バッハとオネゲルの対話」も同じようなコンセプトと言えましょうか。ただし、こちらの方がもう少し事情が複雑です。何しろ、オネゲルに於けるバッハの位置というのが、未だに解明されていないのですから。というよりも、オネゲル自体まだそれほど認知されているとは言えないのが現状です。下手に名前を知っているとびっくりされるほど(それは「タマゲル」)。「新古典主義音楽」を重んずる時代・・・1920年代のパリで活躍したオネゲル、しかし、「バッハに還れ」とのスローガンにいち早く目を背けた人としても知られています。「真似をするのでなく、対位法や構造を自ら研究し、導き出した結果がたまたまバッハに近いものであった。」そんな姿勢を貫いたオネゲルの音楽ですが、やはり重苦しい時代を反映してか、その作品には悲痛な影も見え隠れするのです。暗い時代、そして偉大すぎる先達、これらから目を背けようとしても、どうしても引き込まれてしまう・・・・彼の作品からそんな悲しみすら感じるのは、不遜な事なのでしょうか。
このアルバムは、そんな2人の関係を象徴するかのような構成になっています。例えば「フーガの技法」の“3つの主題によるフーガ”が中断され、虚空に放り出された耳に暴力的に割り込むオネゲルの前奏曲(もちろんモティーフはB-A-C-H)、この2つを並べることにより、オネゲルがいかにバッハから影響を受けたか、そして、その影響をどれだけ振り払いたかったか、おぼろげながら感じることができるでしょう。そして、交響曲第2番の有名なトランペットのコラール、こちらもバッハの旋律ではないのですが、影響を受けているのは間違いない(そう思わされる?)のです。本当のところはどうだったのか、考えれば考えるほど思考は迷宮に入り込んでいくのです。
演奏に関して言えば、バッハにしても、オネゲルにしても、正直ちょっと中途半端な感を拭えません。演奏スタイルをどちらかにあわせるのは所詮無理があることですし、両方満足させるのも困難でしょう。しかし、このアルバムの意図は別のところにあるはず。そんなことを考えているうちに、実際に聴いた時間の3倍以上、反芻して楽しんでいる私がいました。

9月3日

KHACHATURIAN,IBERT
Flute Concertos
Emmanuel Pahud(Fl)
David Zinman/
Tonhalle-Orchester Zürich
EMI/557563 2
このアイテムは、もうすでに紹介されているはずだ、と思ったあなたは、このページの超常連、そして、なぜ同じものをもう一度取り上げたかも、うすうす察しが付いていることでしょう。1月近く前にアップしたジャケ写と今回のものを比べてすぐ分かるのは、「Copy Controlled」のロゴマークの有無。前回はパユご自慢のGジャンの左腕の上に大きく白抜きで印刷されていたそのマークが、今回はどこにも見あたらないのです。そう、今世界中で問題になっている、パソコンによるコピーが出来ないような処理を施されたCD、いわゆるCCCDのクラシックレーベルでの最先鋒であるEMIの製品に、なぜか、CCCDではない通常盤があったのです。しかも同一アイテムで(品番は違いますが)。これは、聴き比べてみないわけにはいきません。
CCCDと通常盤、この表示の異なる2枚のCDは、たしかに全く音が違っていました。もちろん「違っている」とは言っても、それは2枚を並べて、ある程度ちゃんとした装置で再生したときに分かるようなものではあるのですが、その違いは確かに存在しています。例えてみれば、CDプレーヤーをワンランク上のものに変えたぐらいとか、ケーブルをきちんと吟味して良いものに変えたぐらい程度の違いでしょうか。
具体的に聴いてみましょう。ハチャトゥリアンの冒頭のようなにぎやかな部分では、違いはそれほど分かりません。ジンマンの重苦しい序奏に続いて入ってくるパユの垢抜けないフルートの印象も、全く変わりません。かすかに、エコー成分が通常盤では分離して聞こえるかな、程度の違いです。しかし、2楽章の頭、ファゴットとクラリネットのソロでは、それぞれの楽器の音色が、明らかに違って聞こえます。CCCDでは音の中のとがった部分が消えてしまって、全体に丸くなった感じ、確実に音の情報量が少なくなっているのが分かります。フルートソロのための曲、イベールの「小品」では、やはりフルートの音が違って聞こえることを確認できるでしょう。不思議なもので、CCCDによってかけられていたフィルターのようなものが取り除かれた結果、息の入り具合とか、ビブラートのかけ具合までもが違って聞こえてしまいます。もちろん、通常盤の方が、まさに「一皮むけた」ものになっているのは、言うまでもありません。イベールの協奏曲の第2楽章も、比較には絶好の場所。冒頭の弦楽器のふんわりとした雰囲気というか、空気感みたいなものが、CCCDでは全く失われているのがはっきり分かることでしょう。
EMIが、素人が聴いてもこれだけはっきり分かるものを、2種類同時に市場に出しているのは、全く理解の出来ない謎です(イギリス国内で売られているというこの通常盤は、ネットで簡単に入手できます)。CCCDにすることによって、これだけ音が変わってしまうことが明らかになってしまっては、だれもCCCDなど買わなくなってしまうのは自明のことだと思うのですが。そのうち、かつての社会主義国家体制のように、あえなく崩壊してしまうことでしょう(それはCCCP)。

8月31日

The Powers of Heaven
Orthodox Music of the 17th & 18th Centuries
Paul Hillier/
Estonian Philharmonic Chamber Choir
HARMONIA MUNDI/HMU 907318
ヒリアーとエストニア・フィルハーモニック室内合唱団の第2弾です。全世界でのリリースは秋の予定なのに、なぜか日本でだけ先行発売されるということ、日本には彼らのファンが多いと踏んだメーカーの判断でしょうか。
18世紀初頭、ピョートル大帝が首都をモスクワからサンクト・ペテルブルクに移して、西ヨーロッパの文化を積極的に取り入れる政策をとったのに伴い、イタリアから呼ばれたのがヴェネチアの作曲家ガルッピでした。彼が、ロシア語のテキストを用いて創り上げた「イタロ・スラヴィック」と呼ばれる様式は、その後、やはりイタリア人として宮廷楽長となったサルティに受け継がれ、そして、「ロシア正教会音楽の父」とも呼ばれる、ウクライナ生まれの作曲家ボルトニアンスキーによって完成を見るのです。この、甘い物好きの作曲家(ほんとに餡好き)の作品は「コンチェルト」と呼ばれ、ベル以外の楽器を持ち込むことを禁じたロシア正教会の中で、ア・カペラの合唱によって歌われるもの、それは、楽器によるコンチェルト・グロッソのように、声だけによるソロのアンサンブルとトゥッティの対比を見事に描き分けた、壮大な音楽になっています。このように、タイトルに「1718世紀のロシア正教会の音楽」とある通り、このアルバムではロシア正教会が「西欧化」を図っていた時代の様子を、ある程度長いスパンで見渡せるような構成が取られています。
ただ、これらの曲は、例えば20世紀になってから作られた、ラフマニノフの有名な「晩祷」などに比べると、いかにも洗練された印象が強く、ロシア、あるいはスラヴ民族から連想されるある種の土臭さが見事に払拭されています。したがって、「ロシア正教会」という言葉から連想される、いかにも低音を強調したピラミッド型の響き(そんな連想をするのは、私だけかも知れませんが)を期待すると、軽い肩すかしに遭うことになります。
そんな意味で、私がもっとも心をひかれたのが、そのような西欧化の波を受けていない頃の、アノニマスさんの作品(冗談ですよ)、男声だけによる「O Most Holy Maiden Mary」(もちろん、ロシア語で歌われているものの、英語表記)です。この素朴な音楽から、しかし、エストニア・フィル室内唱の男声パートは、何と純粋で、しかも深みのある響きを導き出していることでしょう。これは、つい先日聴いたMDR放送合唱団とは全く逆のベクトルを目指したもの、男声合唱に重量感や威圧感を求めるのではなく、均質の発声体の集まりから、濁りのないハーモニーを作り出そうという試みの、もっとも完成された姿が、ここにはあります。
このアルバムの曲は、合唱ファンにはなじみ深いものなのでしょう。おそらく、実際に演奏するときの参考のために買い求める人もいるはずです。しかし、これを聴いて、どんなに頑張っても到底このレベルの演奏など不可能だと悟って落ち込むよりは、何の邪心もなくこの素晴らしい世界を味わう方が、どれだけ建設的な体験となることでしょう。

8月28日

BRUCKNER
Symphony No.9
Nikolaus Harnoncourt/
Wiener Philharmoniker
RCA/82876 54332 2
(輸入盤 hybridSACD
BMG
ファンハウス/BVCC-34080/81(国内盤9月25日発売予定)
アーノンクールの最新盤、しかし、レーベルは彼がウィーン・コンツェントゥス・ムジクス時代から所属していたTELDECではありません。かつてはTELEFUNKENと呼ばれていた、SP時代からの由緒あるこのレーベルは、現在の親会社WARNERの「脱クラシック」という意向を受けて、もはや新しい録音は行わない「清算」レーベルになってしまったのです。リストラの憂き目にあったアーノンクールを拾ったのは、これも老舗のRCA、「移籍第1弾」と、まるでロック・アイドルのような扱いでキャンペーンを繰り広げているのは、ご存じのとおりです。RCAの親会社のBMGには、なにやらクラシックにはたいそう理解のあるパトロンが付いているとか、ここしばらくはこのような大物を中心にクラシック市場を引っ張っていってくれることでしょう。
レーベルが変わったということで、音が変わってしまうのではないかと心配する方も多いかも知れません。かつては、それぞれのレーベルには特有の録音方式というものがあって、同じ指揮者の同じオーケストラが、全く別の音に聞こえるということが多くありましたから。しかし、ご安心下さい。録音現場のスタッフ(レコーディング・プロデューサーやエンジニア)の顔ぶれを見てみると、TELDEC時代のものと全く変わっていません。というか、WARNERに見限られたTELDECは、制作現場が「TELDEX STUDIO」という会社を興して、独立した録音活動を行うようになっており、アーノンクールのようなお得意様の録音はこれからも継続することになっているのです。したがって、彼の場合はTELDEC時代と何ら変わらないスタッフによって作られたものが、ただ全く別の会社によって販売されるだけ、ということになるわけです。
さて、ブルックナーの交響曲が収録されたこのCD、2枚組だからといって、決して「8番」ではありません。大体、8番はすでにベルリン・フィルとのものが出ていますし。これは、「9番」、もちろん1枚のCDに収まる曲ですが、もう1枚には未完の第4楽章の断片を、アーノンクール自身のクールな解説によって聞かせるという、まるでバーンスタインの「ヤング・ピープルズ・コンサート」のようなものが入っています。しかも、全く同じものをドイツ語と英語で喋っている2つのバージョンが収められています。これは、1〜3楽章の本編とともに、昨年のザルツブルク音楽祭でのライブ、演奏会の前半にこの講演会(「ワークショップ」と言ってますが)をやって、休憩後に本編の演奏という構成だったのでしょう。同じ曲目で数回行っていますから、ドイツ語の日と英語の日があって、それを両方収めたというわけです。「第2主題」というのの後半が、チャイコフスキーの「1812年」にそっくりなのには驚かされます。
演奏は、アーノンクールにしてはちょっと意外。例えば先述の8番などに見られたこけおどしのような小細工は殆ど見られず、真っ向からこの大曲にぶつかっているという印象を強く受けます。しかも、ちょっと常軌を逸したようなテンションの高さが、最初から最後まで継続しているという、なかなかのものです。そのようなハイレベルのものを引き出したのは、あるいはウィーン・フィルの底力だったのかも知れません。ホルンをはじめとする金管の有無をいわせぬ迫力には、誰しも圧倒されるはずです。

8月25日

Ina Kancheva
Ina Kancheva(Sop)
Milen Nachef/
Bulgarian National Radio Symphony Orchestra
GEGA/GD 280
先頃、ソプラノのネトレプコをご紹介しましたね。知名度は今少しという感はありますが、それでも、来日にあわせ、様々な媒体でインタビューされていたり、名前が結びつかなかったとは言え、NHKの全国放送で歌声を披露したり、何より、DGからソロアルバムが出たのですから、すでにメジャーの階段を登り始めているといっても差し支えないでしょう。
そう考えてみると、あの美貌のソプラノ、ボンファデッリにしても、昨年の今頃はほとんど知られていませんでした。レコ芸の海外楽信のウィーンの欄で2、3回紹介されていた程度。その頃、海外のマイナーレーベルで「椿姫」のCDが発売されると聞いた日本のCD店の担当者が、独断で大口の注文を出して顰蹙を買った話もあるとか。まあ、結果的にブレイクしたので良かったのですが、もし、人気が不発に終わったら、今頃そのCD屋さんでは大量の売れ残りを抱え途方に暮れていたかもしれない・・・と言う笑えない話も。
さて、今回のアルバムはイナ・カンチェヴァという若手ソプラノ歌手です。恐らく日本ではまだ、その当時のボンファデッリ以上に知られていない歌手でしょう(ネットで検索してみましたが、日本語のページでは1件もヒットしませんでした。「田舎んそば」では無理もありません)。1977年ブルガリア生まれですから、まだ26歳。ジャケでもお分かりのように、なかなかの美形です。CD店の片隅にひっそりと置かれていたのですが、収録されている曲目を見て「ちょっと聴いてみようかな」という気になりました。何しろ「椿姫」の“花から花へ”や、ドニゼッティの「アンナ・ボレーナ」“私の生まれたお城に連れて行って”、そしてグノーの「ファウスト」ベッリーニの「清教徒」など大好きなアリアの数々ですもの。
ネトレプコや、ボンファデッリとの聴き比べもいいな。と思い購入、家で聴いてみたところ、いやぁ・・・本当に圧倒されました。強靭で輝かしい声は若さゆえでしょうか。特に高音のハリのある美しさは例えようもありません。曲に対する表現力も素晴らしいもので、「清教徒」の狂乱の場などは(短縮版ではありますが)恐らくボンファデッリを凌駕するでしょう。
これほどの人がいるのか。と感心しつつ、ジャケで紹介されているHPを訪問してみました。すると、ブルガリアではかなり知られた人なのですね。美しい舞台写真満載の充実したコンテンツ、そしてそこに一緒に写っているのは、かのカバリエです。ライナーを見ると、何でもカバリエのマスタークラスを受講したのだとか。独特の弱音の美しさは師譲りのものなのでしょうね。これからどんどん経験を積んで、そのうち日本にも来てくれるのでしょうか。
願わくは、このCDがもう少したくさん出回って、多くの人の耳に触れますように。何しろ私のような素人でさえ、背筋がぞくぞくするような興奮を味わったのですから、歌好きの人にはたまらない1枚だと思うのですよ。

8月24日

Debussy's Corner
Trio Medicis
Bernard Pierreuse(Fl)
Ning Shi(Va)
Francette Bartholomée(Hp)
CYPRÈS/CYP1637
ドビュッシーのピアノ曲「Children's Corner(子供の領分)」をもじった、洒落たアルバムです。しかし、演奏されているのはピアノ曲ではなく、フルート、ヴィオラ、ハープという編成の三重奏、もちろん、これはドビュッシー晩年のこの編成による「ソナタ」(1915)を中心にしたものであることは容易に察しがつくことでしょう。この極めて特異な楽器の組み合わせから、ドビュッシーは見事な音のアラベスクを生み出したわけですが、それに触発されて、後年同じ編成で作られた3つの作品を、ここでは聴くことが出来ます。
まず、リチャード・ロドニー・ベネットが1985年に作った「ソナタ・アフター・シランクス」は、ドビュッシーのもう一つの有名なフルートのための作品「シランクス」(これも、このアルバムの冒頭で聴かれます)をモチーフにしています。全音音階や、風変わりな5音階を用いたこの曲に慣れ親しんでいる人であれば、必ず魅了されるに違いない、気の利いた作品です。次の、武満徹の1992年の作品「そして、それが風であることを知った」は、おそらくこのドビュッシーのソナタのクローンとしてはもっとも知名度の高いものでしょう。CDも、ニコレ、ガロワエイトケン、小泉浩、工藤重典などによって、多数録音されていますし。やはり、ドビュッシーからの引用を含む、繊細きわまりない世界が繰り広げられる名曲です。そして、もっとも新しいものが、2002年に出来たばかりの、ベルギーの作曲家ベノイト・メルニエの作品「イマージュ」です。これは、フルートパートはアルト・フルートに持ち替える部分もあり、技術的にもかなり高度のアンサンブルの能力が要求される曲、事実、この録音では3人以外にわざわざ指揮者を立てて演奏されています。しかし、全体的な印象としては、やはりドビュッシーの薫りをふんだんに取り入れた美しいものです。パリの並木の雰囲気だって(それはマロニエ)。
ここでフルートを吹いているベルナール・ピエルーズという人の名前、どこかで聞いたことがあると思ったら、1982年に出版された「Flute Litterature」という、当時かなり話題になった書物の著者だったのです。これは、フルートが含まれている曲を全て網羅した、まるで電話帳のように分厚いリストなのですが、楽器の編成順(その組み合わせだけで15ページも費やされています)にあらゆる作曲家の曲が掲載されている様は、まさに壮観です。
と、話題には事欠かないこのアルバム、これで演奏が素晴らしければなんの問題もないのですが、これがどうも・・・。正統的なフレンチ・スクールの継承者ピエルーズさんは、木管の暖かみのある音色にこそ好感が持てますが、はっきり言って技量はもはや下り坂(ドビュッシーでさえ、指が回らない所があります)、そこへ持ってきて、他のメンバーもアンサンブルで火花を散らせようとする意気込みが全く感じられない生ぬるい演奏に終始しているため、およそ緊張感に乏しい仕上がりになっています。珍しい曲が収められているという、資料的な価値こそが、このアルバムの最大の存在理由でしょう。

8月22日

BRAHMS
Sonata No.3 etc.
Evgeny Kissin(Pf)
RCA/09026 63886 2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCC-31073(国内盤 9月25日発売予定)
若手ピアニスト、人気No.1のキーシンの最新アルバムです。いつまでも「少年」のイメージのある彼ですが、実は今年で32歳。いつの間にか、もう立派な中堅演奏家になっていたのでした。何となくわざとらしいジャケ写をみても、すっかりおぢさんになった彼の姿。今作は、それに相応しいブラームスの3番のソナタを中心にした1枚。これは楽しみです。
と言ってはみたものの、私は彼の演奏があまり好きでないことを最初に白状しておきましょう。成績優秀、スポーツ万能、家柄も良く、その上イケメン。中学や高校に必ず一人はいる所謂「いけ好かないヤツ」。(これはもちろん誉め言葉です。)当然女子にはもてもて。一般男子はただただ指をくわえて見ているほかない・・・そんな人気者のような人。それが私のキーシンに対する印象なのです。もちろんピアノもうまい(当たり前か)。聴いていて、「すごいな」と思う気持ちの隅に、ちょっとだけ嫉妬が混じります。そういうひねくれものの私ですから、波長が合うのはクラスの異端児、ただただマイペースを貫くA君や、ちょっととんがっているもう一人のA君。そしてめちゃくちゃうまいんだけど、少々オタクの趣味のあるH君なんかに興味が向いてしまうのですね。
今回のブラームス。メインの曲はピアノ・ソナタ第3番です。初期の作品とは言え、力強さとロマン性を兼ね備えた重厚な作品。もちろん演奏は難しいものです。そして当然のように、彼の演奏はカッコいいの一言につきます。ベートーヴェンの和音を3倍増量したような、分厚い音の連続がこんなにも爽快に流れるのは、全く見事というほかありません。1楽章、3楽章、そして終楽章。このどれもが唖然とするばかりの音の応酬。完璧なタッチ、完璧なアーティキュレーション、そして絶妙なアゴーギク。(全く、普段使わない用語を使いたくなるような演奏なのです!)ほんとにスゴイです。
しかし・・・・・第2楽章、第4楽章。ここはいささか問題ありです。あまりに優等生的なキーシン君、テストで赤点を取るか、手痛い失恋でもしないことには、特にこの第2楽章に深みを増すのは困難でしょう。余計なお世話かもしれませんが。因みにこういう部分、最初のA君なら噛んで含めるように説明してくれるでしょうね。
ですから、このアルバムの本当の聴き所は、5曲のハンガリー・ダンスです。ブラームス自身の編曲によるこの舞曲、これは本当にすばらしい。最後の第6番。これを聴いただけで、充分もとが取れるでしょう。思わずお腹が減ること、請け合い(それは「ハングリー・ダンス」)。

8月20日

Männerchöre der Liedertafel
Leipzig Hornquartett
Haward Arman/
MDR Rundfunkchor
CAPRICCIO/67 023
4本のホルンと男声合唱という編成のアルバムです。この編成ですぐ思い浮かぶのが、ウェーバーの「魔弾の射手」の中の「狩人の合唱」でしょう。いかにもドイツの深い森の奥から響いてくるような、勇壮なホルンの響きとオトコだけの合唱は、聴くものにワクワクするような高揚感を与えずにはおかないことでしょう。ホルンの前奏に続いて歌われる男声合唱、ちょっと聴くとその前奏と同じメロディーを歌っているようですが、実は「ソ、ド〜、ドレミファソ〜ミ(移動ド)」というメロディーは、だれも歌ってはいないのです。合唱の一番上のパートは「ソ、ド〜、ドソドレミ〜ド」という、ハーモニーのメロディー、でも、なぜかその上のメロディーが聞こえてくるような錯覚に陥るのは、ホルンと男声合唱がまるで同じ楽器であるかのような似た響きを持っているからに他なりません。その「狩人〜」も含めて、ホルンが付かず離れず絶妙なバッキングを担当している男声合唱の醍醐味を、存分に味わえるのが、このアルバムの最大の魅力になっています。
演奏しているのは、「MDR放送合唱団」。かつては「ライプチヒ放送合唱団」という名前で親しまれていた、由緒ある合唱団です。ディートリッヒ・クノーテやホルスト・ノイマンの指揮による数々の名演が、旧東ドイツのDEUTSCHE SCHALLPLATTENからリリースされていましたから、いかにもオーソドックスなその堅実な演奏に親しんだ人は数多いことでしょう。1998年からは、イギリス出身のハワード・アーマンが、指揮者・芸術監督の地位についています。長く自国の指揮者のみでその建固な響きを守ってきたこの合唱団が、イギリス人の指揮者を迎えたことは、非常によい結果をもたらしたことが、このアルバムを聴く限りでははっきり分かります。特に男声のみの場合、ともすれば力任せで重量感を強調していた傾向があったものが、ハーモニーには磨きがかり、細かい表情にも神経が行き届いたしなやかさが加わって、さらに素晴らしいものになっています。もちろん、お家芸とも言うべきドイツの田舎っぽさは健在で、乾杯のSEなどを交えたお酒の歌などは、まさに絶品です。
男声合唱の定番とも言えるメンデルスゾーンの「狩人の別れ」をはじめ、男声合唱本来の深い響きを味わうには最適のドイツロマン派の作品の数々は、この種の音楽が好きな人にはたまらない贈り物となるでしょう。間に挿入された、やはりロマン派のホルン四重奏だけによる小品も、完璧なアンサンブルと、魅力的な音色でとても楽しめます。ちょっとえっちですが(それはロマンポルノ)。
しかし、ここで聴かれる「狩り」、「森」などのキーワードがもっとも似つかわしく感じられる音楽からは、男声合唱が持つ最大の魅力が味わえるとともに、この合唱団が持つ限界すらも明らかになってしまっているのは、皮肉なことかも知れません。例えばあのプーランクあたりの繊細な音楽を表現するには、この指揮者をもってしてもいささか困難であろうことは、想像に難くありません。

8月18日

MASSENET
Thaïs
Eva Mei(Sop)
Michele Pertusi(Bas)
Marcello Viotti/
Teatro La Fenice di Venezia
DYNAMIC/CDS 427
DYNAMICお得意のライヴオペラシリーズです。
注目は、タイトルロールを歌うエヴァ・メイでしょう。以前、フレミングのタイスを取り上げたことがありましたが、重くしっとりとしたフレミングの「いかにも妖艶な娼婦」のような声に比べ、メイの声は、もっと清々しく軽いもの。(全盛期のポップに似ているという人もいます)どんなタイスになるのか、本当に楽しみではありませんか。
たった1人の女性(タイス)のために、アレクサンドリア全域が堕落しきる。この設定もスゴイものがありますが、それを見た一介の修道士アタナエルが「私がタイスを改心させよう」と決意するのも、やはり無理があるように思えます。「オランダ人」のゼンタにおける救済の裏返しなのかも知れませんが、基本的にオトコとオンナは考え方も違うはず。この食い違いが、最終的な悲劇を招くのでは・・・・と思います。
アタナエル役のミケーレ・ペルトゥージは現在最高のバス歌手の1人。若い頃から頭角を表し、ロッシーニ歌手としても名声を得ている人でここでもファムファタール(「宿命の女」ですね。「サンドイッチ」ではありません・・・それはハムハサーム)に翻弄される純粋な若者を演じてます。第1幕では、ほとんど歌い続けなくてはいけませんが、全く乱れがないのは素晴らしいですね。
さて、アタナエルは彼の友達であるニシアス(金持ちの遊び人)に「タイス救済計画」を話し協力を依頼します。そしてニシアスの家にやってきたタイスとの出会い。待ちに待ったエヴァ・メイの登場です。彼女が一声発するだけで、さっと舞台の雰囲気が変わるのがわかるほど、ここでの印象は鮮烈です。
アタナエルと自宅で会う約束をしたタイス、彼女は享楽的な生活を送っているにもかかわらず心の底では虚しさを感じています。「享楽を捨てて信仰を」と説くアタナエルをとりあえず誘惑してみますが、これは本当にとりあえず。彼女は心の底では平安も求めているのですから。しかし、この時点で、すでにアタナエルはタイスの虜になってしまっているのです。ここで奏される「タイスの瞑想曲」はタイス自身の心のゆれだけでなく、アタナエルの心をも映し出しているはずなのです。
右肩あがりに、タイスに寄せる思いが膨れ上がって行くアタナエル。それに反比例するかのように、信仰に魅せられるタイス。その思いが錯綜する最後の二重唱の美しさがたまりません。同じ「瞑想曲」のメロディに乗って、つぶやくように信仰の喜びを歌うタイス=メイの天上的と言える絶唱。(フレミングはここでもまだ官能的でした)そして喜びの内に息絶えたタイスに縋りつくアタナエルの悲嘆の声。
いざとなったら、きっぱり切り捨てることができるのがオンナの特性。それに比べ、オトコは一生ロマンティスト。痛いほど実感できる、小憎らしい作品です。

きのうのおやぢに会える、か。


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