TopPage


痒み、さんざんっス。.... 渋谷塔一

(02/8/28-02/9/17)


9月17日

BRAHMS
Piano Quartets Nos. 1&3
Lars Vogt(Pf)
EMI/CDC 557377 2
ラルス・フォークトの主宰する、「発電所」音楽祭のCDが今年も到着しました。「芋煮会」のシーズンにあわせたのでしょうか(「フォークリフト」・・・これは難しいぞ)。
この音楽祭についてはいつぞやもご紹介したことがありますね。最初「Spannungen」という語感から、オランダの音楽祭かと思ったくらいでしたが、そろそろ知名度もあがり、今では誰でも知っている(?)有名な音楽祭になったというわけです。
今年の発売分は、このブラームス1枚と、ハイドンやモーツァルトの古典派が1枚、そしてヒンデミット、ベルクなどの近代物で1枚。いつものことながら、幅広いレパートリーには目をみはるものがあります。
最近、あるピアニストにお話を伺う機会がありました。彼の生地イギリスでは、本当に多くの室内楽のコンサートが開かれていて、演奏する側も、聴く側も室内楽というジャンルをとても身近に感じているというのです。しかし、日本では、まだ室内楽というジャンルが確立しているとは言い難いのでは、と彼は言うのです。その時は「そうかな?」と思ったものです。だって、演奏会案内を開けば、東京近郊だけでも毎日多くの室内楽コンサートが開かれているのですから。しかし、やっぱり同じ日にオーケストラのコンサートがあったら、私はオケを聴きに行っちゃうだろうな、とも思ったのでした。だって、何かの本で「室内楽(特に弦楽四重奏)は、最低限の楽器で行うアンサンブルで、奏者のぶつかり合いを緊張しながら聴く物である」みたいな定義を読んでしまってからは、「そうか、室内楽は、緊張して体中を耳にして聴かなくてはいけないんだ」と思っていましたからね。
何はともあれ、このブラームスです。ピアノのフォークトは、最近ブラームスのピアノソナタもリリースしてまして、こちらでも名演を聴かせてくれます。甘さと渋さが同居したとでも言うのでしょうか?時として、ものすごく歌わせるかと思うと、打って変わって素っ気無くなる。気まぐれなオンナのような表情がたまりません。
このピアノ四重奏では、各奏者がリラックスして演奏を心から楽しんでいる様子が伺われます。第1番もステキですが、なんといっても、ヴィオラにあのカシュカシアンが参加した第3番が聴き物。冒頭の息を潜めるような緊張感、弦の長いフレーズには不気味ささえ漂います。曲が始まると感情の爆発のような華々しさ。決然とリズムを刻むフォークトのピアノ、まとわり付くような弦。
「ああ、ブラームスだなぁ。」としみじみ感じる一瞬でしょう。動きに満ちた第2楽章。叙情的な第3楽章。そして、ヴァイオリンソナタ「雨の歌」にも似た終楽章。せわしなく動き回るピアノに乗って歌われる切ない音楽、ここでも「ああ、ブラームスだなぁ」と感じるのです。
各々の奏者が、本当にのびのびと屈託なく演奏するブラームス。これだったら聴く方も、緊張する必要などないでしょうね。

9月15日

LIGETI
Cello Concerto, Violin Concerto etc.
Palm(Vc), Zimmermann(Vn), Károlyi(MS)
Reinbert de Leeuw/
Asko/Schönberg Ensenble
TELDEC/8573-87631-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
/WPCS-11413(国内盤 1023日発売予定)
「リゲティ・プロジェクト」の第3弾です。レーベルが変わってからは順調にリリースが進んでいますから、どうやら計画通りに全集が仕上がることでしょう。
今回は、メインとしてはチェロ協奏曲とヴァイオリン協奏曲ですが、いずれも初録音ではありません。1966年にジークフリート・パルムのために作られたチェロ協奏曲は、初演者によるWERGO盤と、ケラスによるDG盤、1992年にサシコ・ガヴリロフという、手芸好きの(「刺し子」ね)ヴァイオリニストのために作られたヴァイオリン協奏曲は、彼自身のDG盤が出ており、いずれもライブでも数多く演奏されている作品です。
このアルバムでは、チェロ協奏曲は再びパルムが登場しています。ブックレットの写真を見ると、昔の精悍な面影はいずこ、完璧な老人の姿になっていましたが、演奏にはいささかの衰えもありません。特に第2楽章の複雑なポリフォニー、デ・レーウの的確な指揮に支えられて、まさに今作られたばかりのような、スリリングな60年代が眼前に広がります。
ヴァイオリン協奏曲のほうは、若手、フランク・ペーター・ツィンマーマンのソロ。作品が完成したのも1992年ですから、チェロ協奏曲を作った人と同じ人による作品とは到底思えないような、伸び伸びとした「叙情性」が見られるのは、なかなか興味のあるところ。第2楽章の「アリア」などは、ちょっと間違えると流行りのネオ・ロマンティシズムに変節してしまったかと思えるほど。しかし、さすがはリゲティ、4本のオカリナという突拍子もないサウンドを持ち込んで、辛くも一線は守っています。
さて、「全集」の名に恥じず、今回も世界初録音が収録されているのはうれしい限りです。1973年の「時計と雲」という、12人の女声とオーケストラの作品は、当時の「微細音程」を駆使した、言ってみれば「アトモスフェール」と「ルクス・エテルナ」をいっしょにしたような響きがたまりません。この当時リゲティはミニマリストから多くの影響を受けていたというのも、音楽の端々から感じ取ることが出来ます。
そして、2000年に作られたばかりの「笛・太鼓・フィドルで」こそが、このアルバムの目玉であることは明白です。初期の「アヴァンチュール」、「ヌーヴェル・アヴァンチュール」を髣髴とさせるような、声(低い女声)と打楽器のための7曲からなる曲集ですが、ヴェレシュ・シャーンドルの擬音を多用したハンガリー語の歌詞に、多彩な打楽器(スライド・ホイッスルや、クロマティック・ハーモニカも参加)によるリズミカルなバックがつく様は、まるでメシアンの世界です。驚異的な表現の幅を持つカタリン・カーロイの声は、リゲティが最晩年に到達したエンタテインメントの境地を、見事に具現化しています。それにしても、60年代、あれほど人を寄せ付けなかった孤高の存在が、ここまで聴き手に心を開けるなんて、いったいだれが想像したことでしょう。

9月13日

English Choral Works
Edward Higginbottom/
The Choir of New College, Oxford
IMPOGRAM/92011/20
最近のCDの価格崩壊ぶりには、目覚しいものがあります。その推進役になっているのは、ご存知、オランダの「Brilliant」というレーベルですが、それと関連があるようなないような、得体の知れないレーベルのボックスセットが、CDショップの棚やエンドに所狭しと並べられている様は、壮観としか言いようがありません。中身は玉石混交、箸にも棒にもかからないようなお粗末なものもありますが、丹念に探せばとんでもない宝物に出会うこともありますので、値段が安いからといったバカにすることは禁物です。
今回見つけたのは、そんな宝物の一つ。レーベル名は今まで聞いたこともない、ちょっとひとの劣等感を刺激するようなものですが、もちろん、そんな悪意が込められているわけはありませんね。10枚組みで4290円、Brilliantに慣れた目にはそれほどの割安感はありませんが、それでも1枚ワンコインでおつりが来るのですから、十分な安さです。
演奏しているのは、ヒギンボトム指揮のオクスフォード・ニュー・カレッジ聖歌隊。ERATOから4枚の「ア・カペラ」シリーズ、DECCAからもBLUEBIRDという、良質のヒーリングアルバムをリリースしている、いわばこの分野でのメジャーどころです。で、曲目というのが、タイトルにもあるような、イギリスの合唱作品。合唱好きのおやぢは、折に触れてタリスとか、バードといった、そのあたりの作曲家のCDをご紹介してきましたが、これはまさに、イギリスの合唱作品の集大成といったおもむきをもつボックスなのです。
1495年生まれのジョン・タヴァナーから、1810年生まれのサミュエル・ウェズリーまで、300年を超えるイギリス合唱音楽の歴史が、この10枚の中に凝縮されています。トーマス・タリス、ウィリアム・バード、トーマス・トムキンス、オルランド・ギボンズ、ヘンリー・パーセル、ウィリアム・クロフト、モーリス・グリーン、ウィリアム・ボイス。ねっ、このラインナップを見てそそられない合唱ファンがいるでしょうか。
あいにく、この手のものには付き物のあっさりしたパッケージですから、ブックレットのたぐいは一切ありません。録音年代すらもわからねんだいという心細さ。正直言って、私ですら聴いたことがある曲は殆どないという渋い選曲ですので、何らかの解説や、リブレットは欲しくなりますが、逆に何もないところで未知の楽しみを開発するのも、なかなかのものではないでしょうか。それというのも、演奏がとても素晴らしいものだから。この聖歌隊、星の数ほどあるイギリスの同種の団体の中で、現在もっとも高い演奏能力と音楽性を持っていることは確実です。トレブルの安定した発声は驚異的、それを支える成年男声が、柔らかく包み込んで、極上の響きをかもし出しています。これからしばらく、思いがけない宝物の一つ一つを丹念に聴きこんでいくという、至福のひと時が、私には待っているのです。
おそらく、録音には数年のスパンがあり、エンジニアも異なっているのでしょう、中にはやや平べったい音も聴かれますが、総じて水準は高め、残響も少なめで芯のある音になっています。

9月11日

SILVESTROV
Silent Songs
Alexei Martinov(Voice)
Alexei Lubimov(Pf)
MEGADISC/MDC 7840/41
「出会い」とは不思議なもの。昨日まで全く未知であったのに、なにかのきっかけで深くはまり、そこから違った世界が広がっていく。それは人であったり、また音楽であったり。と、私にしては珍しく感傷的になってしまいましたが、今回は、まさにそんな1枚です。
先日あるCDを聴いていた時のこと、なぜかとても懐かしい気持ちになりました。その中のシルヴェストロフの「使者」という作品がとりわけ耳に残ったのです。曲自体は一種のモーツァルトのコラージュなので、「メロディに対する懐かしさなのだろうかな?」と思ったのですが、そうでもなく、記憶を辿ると、以前ここでも取り上げたクレーメルの「アフター・モーツァルト」に収録されていたのでした。しかし、それはシンセサイザーの風の音まで駆使した説明的な音楽で、きっと一度聴いて記憶の底に沈んでしまっていたのですね。今回、再度その原型(ピアノソロヴァージョン)を聴いて、改めて静謐な美しさに心をひかれるとともに、曲に対するイメージが固まってきて、作曲家についても、そのCD(これはECMの新譜です)を演奏していたリュビーモフについても調べてみたくなったのです。
アレクセイ・リュビーモフはロシアの中堅ピアニストで、以前はオリジナル楽器演奏で有名だった人です。それと平行して、現代音楽、特にこのシルヴェストロフを好んで演奏しているのですね。「リュビーモフのシルヴェストロフをもっと聴きたい。」早速お店に行って、この2枚組の「静かな歌」を購入してきたのですが、これがまさに期待通りの嬉しい出会いだったというわけです。
この歌曲集、何の予備知識もなしに聴けば、まず作曲年代を言い当てるのは不可能でしょう。(因みに彼は1936年、ウクライナ生まれです)そう、一番近いのが、先日のヴィスによる武満歌曲集でしょうか。しかし、あのようなちょっと媚びるような音楽ではなく、あまりにも静かで、もっと内省的な音の連なり。ある時はブラームスの後期ピアノ曲のような佇まいさえ見せてます。
ロマン派への回帰。彼の作風をそう評する人もいるようですが、この歌を聴く限り、それは違うような気もするのです。それを成功させたのは、かのR・シュトラウスでしょう。あの「四つの最後の歌」に表出された黄昏の音楽がまさにその世界。しかし、シルヴェストロフの音楽は、過ぎ去ったもの、または失われたものを回想する時に立ち表れる、苦味を伴う懐かしさを含んでいるように思います。どちらかというと「嫌な思い出」でしょうか。表向きは親しみ易いメロディで、ともすればヒーリングにも使えそうなのだけど、傷ついた心を最後まで癒すことはなく、途中で空中分解してしまう・・・。そんな危ない面も内包した彼の音楽。
付き合い始めて3日で、ここまで心をかき乱されるなんてやっぱり「出会い」って不思議なものだと、つくづく感じたのでありました。「出会い系」は不謹慎ですが。

9月8日

De Louis XIII à Boulez
Cyprien Katsaris(Pf)
PIANO21/PIA21 008
私はピアニスト好きらしい、と最近自覚したのですが、好みは大層偏ってます。上手い人が好きでも、キーシンやポゴレリッチはイマイチ。ポリーニやアルゲリッチは認めるけど、敢えて私が手を出さなくても・・・。そうなると、後はデビューしたてのほやほやの新人か、今回のカツァリス、アムランと言ったヘンタイ系が得意分野になってくるのです。
今回は、以前カツァリスのCDをまとめて購入した時に、「後で聴こう」と大事にしまっておいた1枚です。なにせ自称「カツァリスマニア」の私、「ウェストサイド・ストーリー」のベルナルドのセリフは、全部そらでいえます(それは、「チャキリスマニア」・・・だれもわかんないって)。そうではなくて、新譜が出ると内容も確かめることなく購入。そして入手したことで安心して、ついつい聴くのは後回し。(マニアの方なら、この心理おわかりですね。)今回改めて手に取って、「もっと早く聴けばよかった・・・・」とほったらかしを心から後悔した次第です。
ジャケを見ればおわかりの通り、「ルイ13世からブーレーズまで」フランス音楽400年の変遷を辿る、壮大な内容で、世界初録音もたくさん含まれています。さすがカツァリス。やってくれるなぁ。スタジオ録音とライヴ収録が混在していて、中には、日本公演での演奏も収録されていたりと、そちら方面でもなかなか興味深いもの。とまどったような拍手を聴いてにやにやするのもなかなか良いものです。
内容は、先ほども書いた通り、400年にわたるフランス音楽のカタログのようなもの。しかし、選曲は実に多彩で、リュリやラモーの典雅な曲があったり、お約束のドビュッシーがあったり、そして最後はこれもお約束のブーレーズ。74分の収録時間に、これらがぎっしり詰まってます。ラモーの「タンブーラン」などは、ちょっと余所余所しく、生真面目な風を装ったかに見えるには彼特有の遊び心なのでしょうか。「リスト編曲のラ・マルセイエーズ」やら、「ゴドフスキー編曲のサン=サーンスの白鳥」などという反則技も。この「白鳥」がいかにもカツァリスらしくて良いのです。極めて単純な原曲に加えられた、摩訶不思議な旋律。
これをカツァリスは鮮明、かつグロテスクに抉り出して見せてくれます。
時代が下って、ラヴェルやプーランクあたりになると、演奏も俄然面白くなります。軽快さとオシャレ心も彼の持ち味。ここら辺は「さすが!」です。
圧巻はメシアンの「幼子〜」からの「愛の教会の眼差し」。収録時間も13分と一番長く、彼の力の入れようが伺いしれるではありませんか。これがまた素晴らしい。メシアンお得意の「愛と鳥の歌の融合」をここまで見事に提示されては、もう何も言う事はありません。先日聴いたオグドンの同曲が、苦難の果てに辿り付いた愛の証しだとすれば、このカツァリスのは、ジェット機で南の島の教会に行って聴いた鳥の声。くらいの違い。
そして最後に置かれたブーレーズの鮮やかなこと。400年の重みも一陣の風で吹き飛ぶ・・・そんな印象でした。

9月6日

フルート名曲集
Karlheinz Zöller(Fl)
小林道夫(Pf)
東芝EMI/TOCE-55415
最近のフルート界は、若手の台頭が目立ちます。オーケストラの「顔」とも言える首席奏者も世代交代が進み、新しい魅力を振りまいてくれています。シカゴ交響楽団のマテュー・デュフー(「デュフォー」という表記が一般的ですが、あえてフランス風に)とか、フィラデルフィア管弦楽団のジェフリー・ケイナーあたりが、その代表選手でしょうか。実は、最近、この二人が相次いでソロアルバムをリリースしたので、聴いてみました。しかし、何か物足りない思いにかられてしまったのです。テクニックは完璧、音も美しく、それなりの音楽性みたいなものも見え隠れはするのですが、なんか淡白で、強く迫ってくる力が全く感じられないのです。
そんな時に聴いたのが、このツェラーのCDです。1974年といいますから、先ほどの二人がまだ幼少の頃、日本に「ベルリン・フィルハーモニー・ゾリステン」と演奏旅行に来ていたツェラーが冬の札幌で録音したものです(ホールの屋根にはツララ)。録音直後にLPで出て以来、再発もされず、CD化が待望されていたもの。先ほどの新人たちを聴いたあとでは、ここで聴かれるツェラーのフルートの存在感には圧倒されてしまいます。一つ一つの音、あらゆるフレーズの端々に、ことごとくツェラーの生命が宿っているのですから。
演奏している曲は、ドップラーの「ハンガリー田園幻想曲」を除けば、フルートを特に熱心に聴いている人か、自分で演奏する人以外にはほとんどなじみのない曲ばかりです。例えば、クーラウの「ディヴェルティメント第6番」をちゃんと聴いたことのある人が、いったいどのくらいいることでしょう。事実、現在この曲のほとんど唯一の録音として、資料的にも貴重なものではあるのですが、音楽的にも、この渋さの中にヴィルトゥオージティを秘めた曲の、まさに理想的といってよいものを提供してくれています。最後に収められたライネッケの「ウンディーヌ」は、そんな中でもわりと頻繁に演奏されるもので、CDも数多く出ていますが、ツェラーの演奏はドイツ人にしかなしえない几帳面な、しかし、多くの奔放なファンタジーをあわせもつ素晴らしいものです。彼の終生の欠点であった低音と中音の境目あたりの音程の悪さも、さほど気にならないほどです。小林道夫のピアノも、冴え渡っています。
ご存知のように、ツェラーといえばベルリン・フィルの首席奏者。この録音当時はジェームズ・ゴールウェイにその席を明け渡していましたが、75年にゴールウェイが去ったあとには再度入団、定年を迎える93年まで、このオーケストラの「ドイツの音」をていねいに守りつづけてきました。彼の後釜に座ったのが、例のエマニュエル・パユ。この時から、ベルリン・フィルの音は根無し草のような無節操なものに変わり、その流れが、デュフー、ケイナーといった若手によって、いまや全世界に広がっているのです。

9月4日

LISZT
Études d'exécution transcendante
Freddy Kempf(Pf)
BIS/CD-1210
「おやぢ」を注意深く読んでいる方ならおわかりかと思いますが、この原稿はただ一人の手によるものではありません。主に書いているのはもちろん私ですが、ここのマスターも、その隙間を縫うように原稿をはさみこんでいます。さて、その違いがお分かりになるでしょうか?しいていえば、マスターの文章は格調高く、何より音楽の趣味がよいのが特徴です。それに比べて、私のはやや偏った内容。何より少し危なげな物(それは曲も演奏も)が好きなのです。
今日取り上げるのは、現在来日中の若手ピアニスト、フレディ・ケンプの新譜です。先頃、ちょっとした理由があって、彼のことをいろいろ調べる機会があったのですが、どのインタビュー記事を読んでも「温かい人柄」とか「端正な演奏」とか書いてあって、「そうかそうか、とても真面目な人なんだな」と思いました。家に、以前入手した彼の「謝肉祭」があったので聴いてみたら、ちょうど、キーシンの演奏に不満を感じてた私の耳には、とても興味深く、面白く聴けました。確かに、ちょっと聴くと、極めて端正で真面目な演奏に聴こえます。しかし、例えば謝肉祭の「前口上」。最初は重々しい和音の羅列で、ここはキーシンの演奏に比べると、確かにぎこちなく聴こえます。以前はここだけ聴いて評価してしまった記憶がありますが、聴き進むうちに、一瞬、音楽が崩壊しかける部分があって、そこに耳が釘付けになったのです。「なんだ、この人?」そう思いました。
調べ物をしているうちに、何となくわかってきました。まだ若い彼、たぶん謝肉祭の時は、かなり自分を抑え込んでいたにちがいありません。真面目な風を装ってたからこそ、ぎこちない。では、本当は・・・・。
自己主張も強いし、やりたい事もいっぱいありそうです。それは、今回国内盤として発売されたショパンでも明らかでした。かなりヘンタイ的なバラードです。「暗い曲が好き」と語ってましたけど、4番なんかまさにうってつけ。終盤は狂気の嵐です。
で、今回のリスト。実はそういった一連の作業をする前のこと、行き付けのお店で、このリストの「超絶技巧練習曲」を耳にしたのです。一見何気ない佇まいなのだけど、妙に妙に耳に残る演奏で、思わず一目惚れ。ついつい買い求めてしまいました。で、今回改めて聴いてみると、すっかり自分を曝け出しているのがよく分かります。もう爆発しまくりです。「崩壊マニア」の私の耳を捉えるに十分な演奏を披露してくれた彼、どんな人か調べてみたくなるのは自然のなりゆきと言えましょう(ほうかい?)。

9月1日

K-19 THE WIDOWMAKER
Original Score
Julia Migenes(Sop)
Valery Gergiev/
The Kirov Orchestra and Chorus
HOLLYWOOD RECORDS/2061-62371-2
米ソ冷戦下の旧ソ連での実話を元にした映画が「K-19」です。アメリカでは7月に公開され、大ヒットとなりましたが、日本での公開は12月、まだしばらくかかります。ソ連の原子力潜水艦を舞台にしたアクション作品、原題にある「Widowmaker」というのは、日本語に訳せば「後家造り」。建造の段階で事故続きのため、死者が相次いで未亡人が多数発生したという、縁起の悪い潜水艦のあだ名です。最初に艦長だったリーアム・ニーソン(彼には、2つ違いの兄がいます、その名はリーアム・ニーサン)と、彼が罷免されたことによって新たに乗り込んできた新艦長ハリソン・フォードを中心とする、なかなか見応えのある作品だということです。
この映画の音楽を担当したのは、クラウス・バデルト。ハンス・ジマーが中心となった作曲家チーム「メディア・ヴェンチャーズ」に属していて、今までは、それこそジマーの下請けのような仕事をしていた人ですが、現在公開中の「タイムマシン」で晴れて一本立ち、その実績が認められて、今回の「K-19」での起用となりました。
このサントラの最大の魅力は、あのワレリー・ゲルギエフが指揮するキーロフ管弦楽団が演奏しているということです。このような大物を起用するとは、よっぽど音楽に力を入れているに違いありません。と思うのは、しかし、この世界の事情を知らないクラシックオタクの浅はかさ。現実はもっとシビアなものがあります。クラシック界では「カリスマ」と呼ばれる大指揮者といえども、マーケットの規模からいけばハリウッドの映画産業の比ではありません。この優秀なオーケストラと指揮者をセットで、しかもサンクト・ペテルブルクで録音セッションを組むほうが、ハリウッドの寄せ集めのミュージシャンを使うよりはるかに経費が少なくて済むのです。それでもなおかつ、PHILIPSとの仕事とは比べ物にならないほどの高額のギャラが、ゲルギエフたちの懐には入るのですから。
なにはともあれ、ゲルギエフたちは、与えられた仕事を実に高い次元でこなしています。バデルトのスコアは、バラライカ、バヤンなどの民族楽器を随所に用いてはいるものの、基本的にはオーソドックスで堅実なもの。親しみやすいメロディーがたっぷり込められたロマンティックな音楽は、ゲルギエフの体質に見事にマッチして、十分な成果を上げています。内容的にはほとんど同じテーマを繰り返し用いるという単純な構成、変な小細工がない分、情熱がストレートに伝わってきます。この甘いテーマ、途中では男声合唱で行進曲風にも歌われますから、一度聞いたら忘れられないものです。
このような、言ってみれば屈辱的な仕事を淡々とこなすゲルギエフたちの心意気は、スクリーンに映し出された男のドラマに負けることなく、豊かな感動を呼ぶことでしょう。

8月30日

Of Ladies and Love...
Michael Schade(Ten)
Malcolm Martineau(Pf)
HYPERION/CDA67315
若手テノール、ミヒャエル・シャーデの初のソロ・アルバムです。このタイトル、いったい何と訳せばいいのでしょうね。言ってみれば、愛しい人への呼びかけを集めた曲集とでもいうものでしょうか。アデライーデ、ネル、シルヴィア、チェチーリエ、一体、この1枚に何人の女性の名前が織り込まれているのでしょう。
このシャーデは、以前、ブーレーズの「大地の歌」で歌っていた人。バッハのカンタータや、モーツァルトのオペラなどにちょくちょく顔を出しているので御存知の方もいるかもしれませんね。最近は、オペレッタなども歌っているそうですから、これからもっともっと名前を聞く事になるのでしょうね。
さて、シャーデの歌には、私達を引き込んで止まない魅力があります。最初のベートーヴェンの恋の歌が、ここまで美しく歌われるのには本当に感動しました。他愛もない恋の歌のはずなのに、何度も繰り返される「Adelaide!」のフレーズの悩ましい事と言ったら・・・。もし、私がアデライーデだったら、少しぐらい喉が痛かろうが(それはアデノイド)彼の情熱にすぐさま絆されてしまうかも。
まったく個人的なことですが、このアルバムに収録されている曲は、私が若かりし頃、夢中になって聴いたもの。どれもが懐かしい曲ばかりなのです。ただし、恥ずかしがり屋だった私は、「愛を語るには、日本語以外がいいなぁ」なんて的外れな感想を抱いたものですが。今、時が巡って、自らも少しばかりいろんな体験を経て、改めてこのような赤面物の愛の歌を聴いていると、様々な思いが胸に去来します。特に、何か大切な物をどこかに置き忘れたような甘酸っぱい思い。そんな焦燥感に苛まれるのも、人生の折り返しを迎えた証しなのでしょうか。シャーデの真っ直ぐに伸びる美しい声が、一層その思いに拍車をかけます。ネル、シルヴィア、ツェチーリエ、リディア・・・、あの頃、確かに私も彼女たちに恋していたのかもしれません。
とは言え、いくつになっても恋心は持ち続けたいもの。最近、惚れているのが、リストのペトラルカのソネット、こちらも、クヴァストホフやディースカウの諦めきった表情とはまるで違う、「若者の恋の歌」で、何度も聴き返したものです。
ピアノのマルティノーもいつ聴いても上手い人です。ムーアや、ポールドウィンのように、伴奏を知り尽くしている人なのでしょう。ベートーヴェンでも、フォーレでも、R・シュトラウスでも全て持ち味を生かした音楽を聞かせてくれるのは、本当に見事です。

8月28日

SAINT-SAËNS
Symphony No.3
Maurice Duruflé(Org)
Georges Prêtre/
Orchestre de la Société des Concerts du Conservatoire
東芝EMI/TOCE-55445
EMIといえば、世界最古を誇るレコードメーカー、そのカタログの膨大な量は、想像を絶するものがあります。かつて「名盤」と謳われたものでも、いまだにCD化されていないものは数多くあることでしょう。そんな、隠れた愛聴盤に光を与えてくれたのが、この「幻の名盤」という、国内企画のシリーズです。クリュイタンス、ビーチャムといった、懐かしい大家が光り輝いていた時期の録音の数々には、惹かれるものがあります。
その中で、私が一番喜んだのが、この、プレートルによるサン・サーンスの3番です。かつてLPで購入して、それこそ擦り切れるほど聴き込んだアイテムですから、CD化は以前から心待ちにしていたものでした。余談ですが、「擦り切れる」というのは比喩ではなく、本当に1回かけると、レコードプレーヤーの針の先にはおびただしい削りかすが付着していたものです。もっとも、これは、当時の東芝音楽工業が独自に採用していた「エバー・クリーン」というレコード盤の素材によるもので、ゴミが付かないように帯電防止剤を大量に配合した結果、その帯電防止剤自身が染み出してきて針についてしまうという、お粗末なものでした。ですから、このCDをスタートさせて、マスターテープのバックグラウンド・ノイズが聴こえてきた瞬間、頭の中に去来したのは、透明なレコード盤の赤い色と、片面演奏するごとに針の先を掃除した時の、有機溶剤の匂いでした。
それはともかく、何10年かぶりに再会したこのプレートルの演奏には、やはり独特の味がありました。実は、この演奏には少なからぬ傷があって、パリ音楽院管弦楽団のアンサンブルはさっぱりで、とても安心して聴いていられるものではありません。さらに、モーリス・デュリュフレの弾くオルガンのピッチが、とんでもなくオーケストラとずれていて、昔聴いた時もかなり気になったものでした。しかし、この曲の録音が行われた、そのデュリュフレがオルガニストとして勤務していたサン・テツィエンヌ・デュ・モン教会のアコースティックスには、そんな欠点をも補って余りあるほどの魅力があるのです。今の普通のオーケストラ録音ではちょっとありえないような豊か過ぎるエコー、建物全体が作り上げる響きが、強い説得性を持って迫ってきます。これはまさに、あの頃のフランスだから許された音響世界、この世のものとは思えないほどの色彩感あふれるサウンドの中からは、サン・サーンスが持つこけおどしともいえる芳醇さが漂ってきます。
カップリングは、やはりデュリュフレのオルガンをフィーチャーした、プーランクの「オルガン、弦楽器&ティンパニのための協奏曲」。プーランクの持つ「粋」とはちょっと隔たった、もっと剥き出しの豪快さが感じられる演奏です。オルガニストとしてのデュリュフレ、あの「レクイエム」の作曲家としてのイメージとは、ちょっと違うような気がしてなりません。

さきおとといのおやぢに会える、か。


(since 03/4/25)

 TopPage

Enquete