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裸婦、会える?! 神戸、行くっ!....渋谷塔一

(01/5/16-01/6/2)


6月2日

MAHLER
Rückert-Lieder u.a.
Dietrich Henschel(Bar)
Kent Nagano/Hallé O
TELDEC 8573-86573-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
WPCS-10899(国内盤 6月20日発売予定)
誰しもが思うことですが、マーラーの音楽には様々な要素が内包されていますね。その中でも重要な位置をしめているのが、彼独特の死生観。「それ」はどの曲にも執拗に付いてまわり、聞く人は皆、否が応でも自らに問いかけをせずにはいられない音楽なのです。
今回のヘンシェル&ナガノの、この歌曲集は、1905年当時、実際に行われたコンサートの前半部分と全く同じ曲順。そう、例のシェーンベルクなども参加した「私的演奏会」です。しゃれたプログラムにも感心しましたが、それよりも驚いたのは、ここでの音楽の作り方が、私の今まで知ってたこの演奏とは全く一線を画す物だったことです。
ナガノの指揮はいつぞやのメシアンの時のように、自由自在にオケを操り、どの曲も見事に纏めています。ヘンシェルの歌も、素直でスマートです。ディースカウ等の演奏を聴き慣れた耳には、最初「少々物足りないな。」と思ってしまったのですが・・・。何度も繰り返して聴いてるうちにそんな考えは吹き飛んでしまいました。
とにかく出来のいいのが、正面から「死」を扱った曲です。例えば「Revelge」。自分が死んだ事にも気がつかず、ひたすら太鼓を叩き続ける少年の独白を綴った皮肉な歌。これを、手元にあるヴァイケル&テンシュテットの85年録音盤と聞き比べて見て、あまりの違いに心底驚きました。ヴァイケルの歌は、少年は自分の死を自覚している事を明確にしています。「どうせ死んじまったさ。もういいさ。」と、半ば自棄気味の行進曲です。(ディースカウもこういう解釈でした。)しかし、ヘンシェルは違います。緊迫した雰囲気からは、戦場で必死になって太鼓を叩く少年の姿のみが浮かび上がって来るのです。しかし、管弦楽の伴奏は、あきらかに異質の音楽を奏でています。そう、「お前はすでに死んでいる」と。ヴァイオリンの甘美なメロディも、木管のおどけたメロディも、全ては別世界の音。こんな事を強く感じたのは、今回が初めてです。
「亡き子」もそうで、以前のような「いかにも慟哭」といった表情つけは一切行っていません。だから、こちらも最初は素っ気無いようにも感じるのですが、これを肩透かしと取るか、高等戦術と取るかで、このアルバムの楽しみ方が180°変化するでしょう。本当に悲しいときは、大声で泣き叫ばないものなのかも知れませんね。
そう考えて聞きなおすと、最初はただ美しく感じただけの「私はこの世に忘れられ」などの曲も、違った意味合いが見えてきたのも自分なりの発見でした。
宗教曲を演奏する時も、20年ほど前と今では、まるきり様式がちがいますね。マーラーの歌曲もそれと同じで、古くはレーケンパーに代表される、振り絞るような「亡き子」の演奏がもてはやされたものですが、誰とでも「カキコ」でつながりあえる現代の人の心には、今回の解釈の方が素直に届くような気がします。

5月31日

MOZART
Piano Concertos Nos. 22&27
Alfred Brendel(Pf)
Sir Charles Mackerras/Scottish Chamber O
PHILIPS 468 367-2
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
UCCP-1034(国内盤 6月21日発売予定)
お待ちかねのブレンデルのモーツァルトの新譜です。共演しているのは、お馴染みマッケラスとスコットランド室内オーケストラ。以前の2024番も素晴らしい演奏でした。今回は22番と27番という聞き応えのある2曲、これも聴く前から楽しみではありませんか。20番代の協奏曲の中では、比較的地味な存在である22番ですが、変ホ長調という調性のせいか、柔らかい音色と流麗なピアノパートが魅力的な佳品です。
さて、ブレンデルの演奏です。交響曲39番と同じような冒頭部分が印象的な第1楽章。オケによる提示部は各奏者の腕試しと言ったところです。よくここで思い切り力が入ってる演奏に遭遇するのですが、マッケラスはこの部分を難なく乗り切っているのがさすが。曲の流れにきれいにはまってます。で、テーマがブレンデルに受け渡されるのですが、ここからがスゴイ。ちょっと聴くと、幾分さらっとしているように感じるのですが、それはメロディの歌わせ方がとても自然だから。心から慈しむような優しい弾き方に、彼のモーツァルトに寄せる愛情を感じます。
カデンツァはブレンデルの自作。まるでつぶやくような自由な音楽は、後から後から止め処もなく溢れてくるのでしょう。まるでモーツァルトがブレンデルの手と心を借りているかのようです。
2楽章のアンダンテ。ここもブレンデルはことさら悲しさを強調することなく、あくまでも穏やかです。そうそう、中間部のフルートソロ部分、ここを聴くと、「モーツァルトはフルートが嫌いだった」という逸話はウソだ。と思えるからお試しあれ。
終楽章。これがまた良いのですよ。このニュアンスに富んだテーマの歌わせ方は、誰にもまねできないでしょう。それと中間部のアンダンテの美しさ。まるで宗教曲のような静謐な音楽は、華やかなこの楽章にあって、場違いのような印象さえ受ける不思議な部分ですが、ここが文句ない出来栄え。ここのカデンツァにも注目。ベートーヴェンへの橋渡しがさりげなく行われています。ブレンデルのニヤニヤ笑いが目に浮かぶようなカデンツァです。
22番で字数が一杯になってしまいましたが、もう1曲の27番。この曲については、数限りない名盤が存在していますし、聴く人ごとにオススメが違うという厄介な曲でもあります。それだけに、みんな思いいれが強いと言うことでしょうか。私は、この演奏で一番気に入ったところは2楽章の装飾。この、自由な遊び心がブレンデルたる所以でしょうか。「ここまでしていいの?」と思ってしまうほどです。(かといってグルダのような崩し方をしているわけではありません。)
心の洗われるような珠玉の一枚です。オススメ。

5月28日

JOSEPH JAMES
Requiem after J.S.Bach
Sumi Jo(Sop),Edward Burrowes(Tr)
Stephen Barlow/Philharmonia O
BLACK BOX BBM1023
先日のホルストに続いて、イギリスの新しいレーベル「BLACK BOX」からリリースされたCDです。このレーベルの事実上のオーナーのクリス・クレイカーは、今までに数々のレーベルで現場の製作を担当してきた人、1997年に第1弾のCDを発売して以来、なかなかこだわりを見せる製品をリリースしてきています。もちろん、ここで聴かれるジョセフ・ジェームズの「レクイエム」も、世界初録音、1997年に初演されたものを、1年後にレコーディングしたものです。
ところで、この作曲家、イギリスのベテランとして、映画音楽やオペラなど数多くの作品を発表していますが、おそらくこの名前を知っている人は殆どいないのではないでしょうか(実は私も知りませんでした)。それもそのはず、「ジョセフ・ジェームズ」などという人はこの世には存在していないのです。種を明かせば、これはスタンレー・ジョセフ・シーガーとフランシス・ジェームズ・ブラウンという2人の作曲家が共同で作業をする時のペンネーム。フィレンツェのダラピッコラのもとで勉強していた時に知り合って、半世紀近くのコンビだといいますから、イギリスの藤子不二雄ですね。
で、「海の王子」(誰も知らないって)ではなく「オバQ」にあたるのが、この「J・S・バッハによるレクイエム」というわけです。バッハのクラヴィーア曲を素材に、ラテン語の歌詞を付けたアリアや重唱、合唱などを織り交ぜた、1時間弱の壮大な作品です。オーケストレーションが現代的になっているだけで、バッハの原曲は、殆どもとのままの形で出てきており、とても分かりやすい仕上がりになっています。一聴して連想したのが、だいぶ前に取り上げたオルフ版「ルカ受難曲」。ただ、やり方は似ていても、こちらの方が外見はずっとスマートなのは、国民性の違いでしょうか。曲全体がなにかシニカルなパロディを秘めているのではと思わせられるのも、その国民性がなせるわざ。
ただ、演奏面で今ひとつ詰めにかけるのが惜しまれます。「半音階的幻想曲とフーガ」のフーガを素材にした「Kyrie」に見られるように、ソプラノのスミ・ジョーのコロラトゥーラはバッハとは完璧に相容れないスタイルです。正確なソルフェージュで歌ってこそ明らかになるパロディなのでしょうに。チェンバロも参加しての「バロック風アリア」に仕上がった「Agnus Dei」も、バロウズ君の十八番と思いきや、音程にも声の伸びにもいつもの精緻さがありません。
さらに、これは意図的なものなのか判りかねるのですが、オーケストラに微妙なパート間のずれが感じられるのが気になります。やはり、曲の目指すところがいまいち明確に把握できていないせいなのでしょうか。これに反して、合唱は、始まりこそいささか存在感が薄かったものの、曲の終盤近くへ向けての盛り上がりには素晴らしいものがあります。
しかし、曲自体は肩透かしを食わせるかのように意外な終わり方をするのですから、これはやはり何かネタがあるのでしょうね。

5月25日

REYNALDO HAHN COLLECTION
Catherine Dune(Sop)
Didier Henry(Bar)
Stephane Petitjean(Pf)
Clavier SQ etc.
MAGUELONE MAG111・111
(3枚セット・分売可)
陽水からクレマン・ジャヌカンまで、何でも聴くようにしている(つもりの)私です。フランス物も、六人組とか、フォーレ、マスネあたりは結構得意分野です。しかしながらアーンについては未開発。今回のこの3枚セット、私のようなアーンビギナーにとってはとてもうれしい贈り物といえましょう。
レイナルド・アーン(1874-1947)はベネズエラ生まれ。3歳の時に一家がパリに移住、音楽の天才少年として6歳で社交界デビュー。主にオッフェンバックの歌曲の弾き歌いで人気を博したとか。そこでマスネと出会い、パリ音楽院で彼に師事。71歳で亡くなるまでパリを本拠に活発な音楽活動を行いました。
やはり、アーンと言えば代表作は歌曲でしょうか。当時流行した、ヴェルレーヌやルコント・ド・リールの詩に付けられた数々の歌曲は、作品目録にて、その存在を知ることが可能ですが、あまり音として聴く機会がないのがほんと残念です。
何しろ、彼の名を知らしめているのは、ほんの小さな歌、「私の歌に翼があったなら」1曲のみなのですから。これは彼が13歳の時の作品で、本来なら習作の域を出ないのでしょうが、SP時代、この曲を好んで歌った歌手のおかげで、広く人口に膾炙したのです。
とはいえ、白状してしまうと、私はこの歌を聴いた事がありませんでした。で、今回のアルバムに収録されている「Oh! For the wings of dove」がてっきりその歌だと思い、「なかなか13歳の曲にしては良く出来てるじゃん」なんて愚かな感想を抱いてしまったものです。(余談ですが、この歌曲、シュトラウスの「どうして隠していられよう」Op19-4とよく似ています。うれしい気持ちが飛翔するというのは、誰しも似たようなイメージがあるのでしょうか?)
実はこの歌曲集は、どの曲も全て世界初録音。資料的にも重要な位置を占めるでしょう。もちろん演奏については必ずしも、フランス的な典雅な歌い方ではありませんが、曲の持つイメージはおぼろげながらつかむ事が出来るように思います。
あとは、1枚がピアノとヴァイオリンの協奏曲集。これも初めて聴きましたが、なかなかどうして。「サロン風」という代名詞ははずしても良い出来栄え。もちろんショーソンの影響もありますが、やはり独自の世界でしょう。
もう1枚。こちらは室内楽曲で、ピアノ五重奏曲(これは他の演奏で聴いた事がありました。)、ヴァイオリンソナタと小品。これもなかなか洗練された筆致で、特に各楽章の動機の関連付けなどはかのフランクを思い起こさせる作りです。
3枚続けて聴いたら、すっかりおしゃれになったような気がするおやぢでした。ア〜ン、わたしってス・テ・キ。・・・・
もちろんこんなに聴きたくないに人は1枚売りもありますが、セットで買った方がお安いですよ。

5月24日

HOLST
The Planets
York2(Pf)
BLACK BOX BBM1041
ホルストが、有名なオーケストラ曲の「惑星」を作曲した時、フルスコアに先立って2台ピアノのためのスコアを作っていたことは、よく知られています。最近、娘のイモジェン・ホルストの校訂で楽譜が出版されたあとは、数組のデュオチームによってレコーディングもされています。というのはマスターの受け売り、詳しいことはこちらをどうぞ。現在出ているCDが紹介されています。
ところが、今回のCDは、それとは別の「ピアノ連弾」つまり1台のピアノを2人の奏者(4手)が弾く形にアレンジされたものです。これは、ホルストの晩年に、勤務先のセント・ポール女学校の同僚のために編曲されたもの。その同僚、ヴァリー・ラスカーとノラ・デイも編曲作業に力を貸しています。しかし、この楽譜は最近までその存在が忘れられていたのを、このCDの演奏者である夫婦デュオの「ヨーク2」の片割れ、ジョン・ヨークが発見して出版、そして「世界初録音」したというわけです。なんでも、セント・ポール女学校の食器戸棚の中に、さりげなくしまってあったとか。何がきっかけで新しい発見があるかは神のみぞ知る。きちんとサインが入っていたので、まさか旧石器時代の地層を掘る(す)と出てきた「捏造品」ではないのでしょうけれど。
「2台ピアノ」版は「オケ版」が発表される前に作られたものですが、この「4手」版は、「オケ版」の成功を充分見届けたのちの作品。スコアなどはもちろん手元にはないので、正確なことは分かりませんが、細かいところで違って聴こえてくる個所があります。「4手」のほうがよりピアノ的な、ききばえのする音形が選ばれているような感じは確かにします。
もう一つ、このCDには仕掛けがあって、カップリング曲にやはりこの女学校ゆかりの人たちに献呈されたピアノ曲が集められています。ラスカーに献呈された「Chrissemas(ミスタイプではありません) Day in the Morning」とか、デイのための「O! I hae seen the roses blaw」という具合。つまり、このアルバムは、ホルスト晩年の、良い仲間に恵まれた生活の1ページを記録したもの、とでも言えるのではないでしょうか。
演奏のほうも、そんな心温まる交流が髣髴とされるような穏やかなものになっています。ピアノ版「惑星」といえば、マスターお勧めのネトル/マークハム盤の精緻な演奏が耳にこびりついていますから、「4手」というハンディを差し引いても、このヨーク夫妻は生ぬるく聴こえてしまうのは仕方のないことなのかもしれません。だから、あえて「ひとと比べる」ということをしない限り、そこそこ楽しめるアルバムではあります。

5月23日

SOPRANIST
Oleg Ryabets(Male Soprano)
ビクター・エンタテインメント VICC-60236
今回の1枚は、先ごろ来日を果たした、オレグ・リャーベツの初のソロアルバムです。
さて、このオレグ・リャーベツ、カウンター・テナーより高い音域を持つ歌手で、声域でいうと「メール・ソプラノ」に分類され、一時期、引く手あまただった、米良美一よりも高い声です。彼が一躍脚光を浴びたのは、98年のリヨン国立歌劇場でのペーター・エトヴェシュの新作オペラ「三人姉妹」でのこと。
原作は、もちろんチェーホフですね。容姿に障害を持つ緑の服が好きな三姉妹の物語…それは「グリーンスリーブス」でした。…とにかく、このオペラでは、その姉妹役を演じるのは全て男性。倒錯的な響きと、あの山海塾を主催する、天児牛大の演出の特異さも手伝って、かなり話題になった記憶があります。ただし、この時点では、まだ彼は知られていなかったので、もっぱら評価はアヴェ・マリアでおなじみのスラヴァ(ただし実名で歌っていた)に集中したものです。
その後、加古隆とのコラヴォレーションアルバムを発表したりと、じわじわと注目されていたのですが、今回はソロアルバムという事で、彼の歌声をたっぷり堪能することが可能です。今回収録されているのは、半分がバロックオペラのアリア、そして、半分はヴェルデイやロッシーニ、べッリーニなどの歌曲とアリアです。
ヘンデルやスカルラッティは、まことに申し分ありません。曲がシンプルな分、声の表現力が大きく物を言うという事。確かに女声とは違う妖しい魅力があります。しかしながら、近代曲は?でした。例えばロッシーニの「約束」。いくら声域が広いとはいえ、ソプラノの声域というのはかなり無理があるのでしょう。声を出し切らない分、感情移入が激しすぎて、妙に重くなってしまいます。
先日のブルックナーのオルガン版の7番ではありませんが、これを聴いてると、なんだか落ち着かないのです。よく知っている曲のはずなのに、まるで違う曲のように聴こえる。このなんともいえない違和感は一体どこからくるのでしょう?もしかしたら「ソプラノで聴くのが当たり前」という先入観が植え付けられているのでしょうか。
やはり、彼のために書かれた現代曲の方がずっと聞き応えがあるのでしょう。それと、ここに収録されているようなバロック物。もともと「ゆがめられた」声を使うこの時代の音楽、(もちろん彼は完全なる男性、決してファリネッリのような人工的な声ではありませんよ)ここらあたりがふさわしいのかもしれません。
曲も声も、各々は完成された精緻な美しさを持つのに、なんか一緒になると変なんだよな。ただし、一度聴いたら忘れないだろうな。そのくらい強烈なインパクトを持った声の持ち主であることは間違いありません。

5月21日

SIBELIUS
Symphonies Nos. 2&4
Sakari Oramo/
City of Birmingham SO
ERATO 8573-85776-2
(輸入盤)
ワーナーミュージック・ジャパン
WPCS-10649(国内盤)
昨年かなり気に入った指揮者の一人が、このサカリ・オラモです。あのポピュラー名曲として名高い、グリーグの「ペール・ギュント」をひたすら楽しく聴かせてくれたのには、あのしんのすけくんも「おらも大感激だぞ〜」ですって。
その彼のCDリリース第2弾は、彼の故郷フィンランドの大作曲家、シベリウスの交響曲です。前作グリーグ作品を録音してた時、その才能に惚れ込んだERATOのチーフ・プロデューサーが、平行して行われたコンサートをライヴ録音したと言うのですが、その時点では、予算もなく、ましてや発売計画もなかったのだとか。これはプロデューサーの英断に感謝しなくてはいけませんね。
収録曲は交響曲2番と4番。ただし2番については、いつぞやのセルの凄絶なる名演が頭にこびりついてます。「それを払拭するのは容易ではないな。」そう思いながら聞いてみました。
しかしながら、冒頭の部分をちょっと聞いただけで、そんな心配は雲散霧消しました。このオケはどちらかと言うと金管より弦の方が雄弁。(金管の咆哮を期待している人には、少々肩透かしかも知れませんね。)その優しく厚い響きで、あの冒頭の語りかけるような広がりを持ったメロディが奏されるのを聴いたら、誰もがこの演奏を好きにならずにはいられないでしょう。
それでいて音楽の流れは極めて自然。何しろ2楽章と3楽章の処理の仕方が良いのです。明暗をくっきりと分けた音の作りは、それだけで、かなりの緊張感を伴い、いやがうえにも終楽章への期待を膨らませるのです。もちろん、終楽章の爆発的なエネルギーの放射は凄まじいもの。もともと盛り上る要素の強い曲だからでしょうか、とにかく熱演です。
4番がまた素晴らしい出来。この曲は、親しみやすい旋律に溢れた2番とは違い、全体的に暗くて深い曲想に終始しています。つぶやくような低弦(ほとんど無調)に始まり、弦楽器の果てる事もないような呼応。ここがまたゾクゾクするように神秘的。グリーグの時にも感じたのですが、曲の構造をしっかり把握して、メリハリをつけるのが上手い人だからこそ、なかなか名演のない(きっと難しいんでしょう)この4番をここまで一気に聞かせることが可能なのでしょう。特に、3楽章の佇まい。やるせない弦の響きと木管の掛け合いが不気味な世界を演出しています。
誰かが、「この曲ってマーラーの10番のアダージョに似てるよね」とか言ってましたが、確かに似たところがあるかもしれません。とにかく、弦楽合奏が完璧でないとかっこよくない曲ですね。
コレを聴きながら満員電車に乗っていたのですが、一時だけは、世間の喧騒を離れ、しばし鬱蒼たる森の中にいる気分を味わった、ちょっとセンチメンタルなおやぢでありました。

5月18日

WAGNER
Götterdämmerung
Gustav Kuhn/
Orchester der Tiroler Festspiele
ARTE NOVA 74321 80775 2
来春の「フェストターゲ」では、ベルリン州立歌劇場が、「オランダ人」から「パルジファル」までのワーグナーの主要作品10点を一挙に上演するのだとか。指揮はもちろんバレンボイム、演出はクプファーというから、話を聞いてるだけでも、ため息物です。しかも、同じプログラムを2回繰り返すとか。すご〜い。
さて、そういう豪華な話は聞かなかった振りをするとしまして、今回の1枚は、同じく1年に1作のペースで「ラインの黄金」、「ジークフリート」と進行してきたクーンの「指環」プロジェクト第3作目。お待ちかね「神々の黄昏」です(これって、ショルティの指環の録音と同じ順番ですね)。
毎年6月にオーストリアのイールで開催される音楽祭の目玉公演のライヴ録音というもので、第1作の「ラインの黄金」だけは、サンカルロ歌劇場のオケでしたが、「ジークフリート」とこの「神たそ」は「イール祝祭管弦楽団」という、ちょっと怪しげなオケなのも、なんともいえない味わいを醸し出しています。だいたいこのオケのノリは以前紹介した、ノイホルトのバーデン国立の演奏のようなものです。この大曲をライヴで演奏するのはまさに至難の業。大きな事故さえなければ、良しとするほかありません。
例えば、最初のジークフリートとブリュンヒルデの愛の二重唱、盛り上った後のオケの間奏の一番いいところで、すてきなミスがあったり。いいや、許しちゃえ。なにしろ、ところどころで、「ちゃんとワーグナーの響き」がするのですから。
年1作という事で、メンバーにも若干の変更があり、例えば、「ライン」ではヴォータン役が、渋いバリトンドーメンだったのが、ジークフリートでは、ユハ・ウーシタロと言う若い北欧のバリトンになってしまい、ちょっと残念だったり(「牛太郎」というぐらいですから、外見は立派なのでしょうが)。
しかしながら、クーン主催の歌手養成機関「アカデミア・モンテグラル」の成果を発表するのも、このプロジェクトの大きな目的。ここは若き歌手たちの青田刈りにいそしむとしましょう。ジークフリート役のウッドロウ、この人はクーンのお気に入りのようで、いろんな作品に顔を出してます。まだヘルデン・テノールというにはちょっと物足りないのですが、これからに充分期待できそうな人。ブリュンヒルデはウィーン生まれのジルバーバウアー。ちょっと線が細いかもしれませんが、何とか役をこなしてます。まだ、そのくらいの評価しかできないところがつらいのですが。ま、歌いこなすだけでも大変なので、良いではありませんか。
お約束の幸田浩子さんはヴォークリンデ役。ラインの黄金と同じですね。なかなか良かったですよ。
確かに、歴代の名演奏や、バイロイトの名演と比べると、こちらは発表会の域を出ないかもしれませんが、先程も書いたように、もしかしたら、いずれこの中から、真のジークフリートや、ブリュンヒルデが育つかもしれません。そう思うと、とても楽しいではありませんか。もう、過去の遺産を食いつぶすのも限界だと思うので。

5月17日

BRUCKNER
Symphonie Nr.7
Ernst-Erich Stender(Org)
ORNAMENT CD11455
ブルックナーの交響曲をオルガンで演奏するという試みは、これまでにシュメグナーの4番(94年)とロッグの8番(97年)がよく知られています。教会のオルガニストとしての職にもあったブルックナーですから、彼の創作の源にはオルガンの響きが存在しているに違いないと考えたこれらのオルガニストたちの着眼点は、確かに的を得たものでした。しかし、彼らが演奏していたものは、あくまでも元の交響曲の単なる移し換えにすぎず、オルガン曲として聴いたときにはなにかしら消化不良的な面を認めざるを得ませんでした。
しかし、今回、交響曲第7番のオルガン編曲版を作り、自ら演奏しているシュテンダーは、そのようなある種どっちつかずの編曲とは一線を画した、オルガンの固有の表現というものを全面に押し出した作品を提示してくれました。
オルガンという楽器は、なにしろ何千本というパイプを1人の奏者が操って音を出すわけですから、演奏上の制約は相当なものがあります。オルガンのための名曲を残している古今の作曲家たちは、その「癖」のようなものを知り抜いていて、それを上手にオルガンにしかできない表現に変えていったのですね。例えば、クレッシェンドやディミヌエンドを連続的につけるという普通の楽器だったらなんでもないようなことも、特にドイツ系のオルガンでは全く不可能、ストップを加えたり減らしたりして、段階的にダイナミックスを変えることしかできません。
というわけで、決して交響曲の2番煎じではない、あたかもオルガンのためのオリジナル曲であるかのように生まれ変わった「7番」を聴いてみることにしましょう。第1楽章冒頭、弦楽器でモヤモヤ演奏される部分からして、あいまいさのない8フィートプリンツィパル管の響きがうれしくなります。盛り上がりに向かって徐々にストップが増やされ、やがてフルオルガンの咆哮でオルガンスムに達します。これぞ、オルガンの醍醐味と言わずにおられましょうか。
第2楽章のコラールもいかにもオルガン的。金管楽器がレガートでしっとりと歌うものとは全く異なる世界、無骨と言っても差し支えない素朴さが、この楽器の身上です。続く、夢見るようなテーマに2 2/3フィート管で倍音をつけるのも心憎いアイディアですね。
第3楽章の付点音符を楽譜通りに弾いて欲しいなどと願うあなたは、オルガンのことがまるで分かっていないシロートです。オルガンのアクションは「トラッカー・アクション」といって、鍵盤の先に付いた何メートルもある長い棒を動かして、ウィンド・チェストとパイプの間を開閉して音を出すという、いわば力まかせの構造になっていますから、細かい音符をその通りに弾こうなどというのは性能の限界を超えたことなのです。同じ理由で、第4楽章のテーマがメロディーの体をなしていないとしても、楽器の特性として目をつぶることが大人の了見なのは、言うまでもありません。

5月16日

MAHLER
Symphonie Nr.7
Rafael Kubelik/
Symphonie-Orchester des Bayerischen Rundfunks
AUDITE 95.476
おなじみ、クーベリックのライヴ音源シリーズ、今回はマーラーの交響曲の中でも難解な7番です。演奏は1976年2月5日。彼がバイエルン放送響の首席としてばりばり活躍してた時期の録音だから、面白くないはずがないでしょうね。きっと何回聴いても楽しめるはず。
今回は、全くの偶然で、同時期のスタジオ録音を聴いていたばかり。それというのも、先日のシノポリの「スターバト・マーテル」を聴くときに比較盤が欲しかったのですが、たまたま家にあったのがクーベリックだったというわけです。(DG 453 025-2 76年9月録音)あまりCD数の多くないこの曲にあっては、貴重な名盤ではありますが、今回のシノポリと比べると、聴きようによっては「うるさいかな」とも思えるくらい賑やかく、派手な演奏で、その分、シノポリの静謐さが一層強調された結果になりました。特に終曲の「肉体は死して朽ちるとも霊魂には天国の幸福を被らしめたまえ」という言葉の扱いの違い。シノポリの諦観に比べ、クーベリックの希望に満ちた明るさは全く面白いくらいに対照的でした。やっぱり70年代のクーベリックは、よく言われるような「穏やかな人」とは、かなりイメージが違うようです。
で、この7番ですが、ここではその明るさが良い方に作用している気がします。何と言っても第1楽章から思い切りはじけてます。「おいおい、こんなに燃えてていいの?」そんな感じ。冒頭から、何かに急き立てられるようで、この大きな音楽の流れが心地良いような、落ち着かないような不思議な味わいを醸し出しています。
いつものことなのですが、あまりにも感情が先走りするせいか、アンサンブルが時として崩壊の一歩手前の危うさを見せるのですが、(これは第1番の終楽章もそうでした)あくまでも一歩手前で、きちんと止まるところが、バイエルンの底力でしょう。とにかく第1楽章の強烈な邁進力には、ただただ驚くばかりです。
2楽章と4楽章で若干の気持ちの静まりはあるものの、このテンションは終楽章まで持続します。そうそう3楽章の不気味さもばっちりです。中間部でのこわれそうなヴァイオリンソロが秀逸。4楽章の一見のどかな表情も、たぶん見せ掛けで実は今にも爆発しそうなエネルギーを蓄えているのが随所でちらほら。なんとかこの曲の最後までは持ちこたえるのですが。
それが一気に終楽章で炸裂です。いやぁ、すごい。なんとまぁ。お約束の金管のひっくり返りなどは、この際、目を瞑りましょう。なにしろ、あまりにも気持ちよさそうに吹いていますからね。ここまで盛り上れば、さぞかし奏者のみなさんは完全燃焼だろうな。そう思わせるだけのパワー溢れまくりの、熱い「夜の歌」でした。
やっぱり夜は燃えなくては、おやぢとは言えませんね。

おとといのおやぢに会える、か。


(since 03/4/25)

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