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(東北限定)さまよえるオラヤンダ人....渋谷塔一

(00/9/17-00/9/26)


9月26日

TE DEUM
Myung-Whun Chung/
Coro e Orchestra dell'Accademia Nationale di Santa Cecilia
DG/469 076-2
(輸入盤)
ユニバーサルミュージック
/UCCG-1013(国内盤)
「テ・デウム」というのは、ラテン語で「神であるあなた」ぐらいの意味でしょうか。この、神を賛美する言葉から始まるテキストに、古今の作曲家が曲をつけて、さまざまな名曲が生まれています。敬虔なキリスト教徒であれば、自らの信仰の証しとして、これらの曲を自らの手で生む努力を惜しまなかったといえるでしょう。
アジアのカリスマ、チョン・ミョンフンは、膨大な「テ・デウム」のリストの中から、17世紀のシャルパンティエ、18世紀のモーツァルト、19世紀のヴェルディ、そして20世紀のペルトの作品を選びました。なぜこんなにきちんと各世紀ごとの選曲になったかというと、このCDはヴァチカンの公式CD(何が公式なのかはよく分かりませんが)なのだそうで、ミレニアム記念行事の一環として録音されたものなのです。われわれにとっては「ミレニアム」などというものはステーキの焼き具合と大して区別が付かない程度の認識ですが、さすが総本山のヴァチカンはやることが違います。
ところが、一人の演奏家が4世紀にもわたる作品をきちんと様式を踏まえて演奏するというのは、実はとてつもなく困難なこと。そこで、チョンがとったのは、すべてを自分の美学で処理して、聴衆に提供しようという方法です。幸い、彼には熱烈な信奉者もいることですし、求められているのはなんといっても「チョン・ミョンフンの音楽」なのですからね。
その目論見は、見事に成功したかに見えます。どの曲のどの部分を切り取ってみても、思い入れたっぷりのチョンの音楽が聞こえてきます。これで、合唱団の技術的なレベルがもう少し高くて、オーケストラの音色に節度というものがあったならば、文句なしに彼の術中にはまっていたことでしょう。
残念なことに、シャルパンティエではベルカントとの違和感、モーツァルトではギャラント感の欠如、ヴェルディでは緻密さの不足、そして、もっとも期待していたペルトでは、真の深遠さとは異質なものしか感じることは出来ませんでした。
そう、普段から寡黙な私にとって、こんな雄弁なペルトなどは戸惑うばかり。同じメンバーが、前作のフォーレのレクイエムではとてつもない集中力を発揮していたことを思うと、今回のプロジェクトがいかに難しいものであったかがわかろうというものです。
もっとも、ヴァチカンの売店でのお土産には、このぐらい分かりやすいものの方が喜ばれるのかもしれませんが。

9月24日

BACH
Matthäus-Passion
Helmuth Rilling/
Gächinger Kantorei
Bach-Collegium Stuttgart
HÄNSSLER/CD 92.074
人間というものは、いくつになっても変われるもの。最近のヘルムート・リリンクの演奏を、録音を通してみていると、そんなことが強烈に感じられてしまいます。
彼にとっては、多分2回目となるこの「マタイ」、録音されたのは94年、で、95年ごろに一度リリースされていたはずなのですが、マイナーレーベルの悲しさ、その頃は入手することは出来ませんでした。それが今回、「ばっはいや〜ん」に併せて、全集の装丁で出直り、やっと手に入れることが出来たというわけです。ただし、これもディストリビューターの思惑に左右されやすいマイナーレーベルの悲しさ、普通のお店では172枚組という全集の形でしか販売されないはずです(値段は10万円ちょっとですから、この際一家に一セットお買い求めいただくというのも手ですが)。
前回の録音が1978年。なぜかソニー・クラシカルというメジャーレーベルから発売されたため、今までどちらかといえば地味なで目立たない演奏家だったリリンクが、一躍一般の音楽ファンに知られるようになったのです。しかし、彼は基本的にショービズとは無縁の人、ヨハネ、ロ短調ミサなどをリリースしたあとは、ひたすらマイペースで自分のレーベルのためにこつこつ仕事をすることになるのです。
そんな彼が、最近になって芸風が変わってきたと感じられるようになったのは、99年に録音されたロ短調ミサを聴いてから。上り調子の若手の歌手を起用して、自由に伸び伸びとやらせる中から、リリンク自身も最近のスタイルを積極的に取り入れようとしていたのでしょう。
今回の新盤を旧盤と比べてみると、そのスタイルの違いには愕然とさせられます。以前は、何事にも冒険を嫌う穏健家だったものが、とても挑戦的で攻撃的な音楽を仕掛けるようになってきているのですから。
これは第1曲目から分かること、まるで○クールかと思えるほどの溌剌としたテンポ設定。さらに、有名な終曲でもその違いは歴然としています。
新盤でエヴァンゲリストに起用されたのが、ミヒャエル・シャーデ。この間のHYPERIONのシューベルトにも顔を出していましたが、もともとはガーディナーのセッションの常連。いわば、オリジナル楽器系の最先端の薫りをもって、リリンクと共演しているわけですね。いくぶん感情過多とも思えるほどの豊かな表現力で進行されるレシタティーヴォ・セッコは、旧盤での端正なアダルベルト・クラウスとは全く異なる世界です。有名なペテロの避妊、じゃなくて否認のシーンや、群集が「バラバ!」と叫ぶところまでの運びなど、まるでオペラを聞いているようです。
他の歌手の不調もあって、全体としてみると不満が残る演奏ではありますが、一人の音楽家が時代とともに変貌してきた様を生々しく体験できるという点では、極めて興味の深い録音です。

9月21日

JUHANI NUORVALA
What's a Nice Chord...
Heikki Nikula(Cl)
Petri Alanko(Fl)
BIS/CD-1107
現代の作曲家というのは、ほんとに聴いて見なければ分からないという事は、前にも書きましたね。でも、このあいだのマーンコプフ(カタカナで書くな!)みたいなカチカチのタイプよりは、もっと聴きやすい方向が最近の流れみたいな気が、私にはするのですが、どうなのでしょう。そして、今のクラシックの作曲家が避けて通れないのが、ジャズやロック。三枝(さえぐさ)サンも吉松サンも、自分の中に自然にこういった音楽が入り込んでいるから、あれだけすんなり聴ける曲を書くことができるのでは。あ、もちろん、「聴きやすさ」と曲の評価とは全く次元の異なるものですけどね。
1961年生まれのフィンランドの若手、ヌオルヴァラは、そういった意味ではまさに時流に乗った作曲家といえるのでは。
この中でもっとも古い作品の「弦楽四重奏曲第1番」(1993)は、プロになりたてのまだ気負いの残るものですが、混沌としたたたずまいの中から、いつとはなしにリズミカルなフレーズが見え隠れしてきます。同じ弦楽四重奏曲でも、1997年の第2番になると、チェロがリズムパターンを弾き始めればこれは紛れもなくジャズの語法、変拍子を駆使した終楽章では、ある種俗っぽささえ感じられてしまいます。
クラリネットとカンテレ(!)のための「3つの即興曲」では、このなんとも不思議なキャラクターを持つフィンランドの民族楽器の可能性を極限までひきだしています。そう、かつて武満が日本の民族楽器である琵琶に対して行ったように。ただ、このフィンランドの青年の場合は、方向性が武満とは若干異なっているため、出てきたものはとてつもなくポップ。なんせ、カンテレでチョーキングやチョッパーが聞けるんですから。
アコーディオン3台(ここでは一人で多重録音)のためのタイトル曲は、われわれ日本人にはとてもなじみがわく音楽。ほとんど演歌と言っていいメロディーからは、アジアに起源をもつフィンランド人のルーツを見る思いです。
で、実は、最後に入っている「トゥイッチング・ゲイト」という小アンサンブルの曲がお目当てだったのですが、これはジャズっぽいけどジャズにはなりきれないもどかしさが目立ってしまって、あまり楽しめませんでした。フルートのアランコも、クラリネットやトランペットの音に埋没してしまって、イマイチ存在感が薄かったですし。
今回はヌオルヴァラの器楽曲(インスト・ナンバーと言うべき?)ばかりでしたが、ヴォーカル曲も聴いてみたい気になりました。タオル腹の歌手の朗々とした歌で。

9月17日

BACH
Unaccompanied Cello Suites
Edgar Meyer(Cb)
SONY/SK 89183
(輸入盤)
ソニーミュージック
/SRCR-2537(国内盤9月20日発売予定)
私の友人にアマオケでコントラバスを弾いている人がいます。その彼が、この間チョン・ミョンフンのリハーサルを見学してきたと、興奮気味に話してくれました。わざわざ行ったのは、バスティーユ管の首席奏者がコントラバスの独奏曲を弾くことになっていたからだとか。友人はだいぶ前からフレンチボウを使っているのですが、そのソリストもフレンチで、いろいろ教えられることが多かったということです。
今回、バッハの無伴奏チェロ組曲を世界で最初に(と書いてあります)コントラバスで演奏して録音したエドガー・メイヤーもフレンチ使い。そのせいかどうか、私はこの楽器については素人ですから良くわかりませんが、オリジナルのチェロと比べても、全く何の違和感もなく聴くことが出来ました。
最初の音を聴いただけでは、まるでガット弦のチェロのようなふわっとした柔らかな音で、とてもコントラバスとは思えません。ヴィブラートもほとんどかけていませんから、思い入れたっぷりにしかめっ面をして弾かれるチェロよりも、ずっと軽い印象があります。テクニックもいくら早いところでも全く大丈夫、何の問題もありません。
で、これを聴いて新たに認識されたのが、コントラバスの音色の幅広さ。懐が深いとでも言うのでしょうか、やはりあの胴体の大きさ、弦の太さに由来するのでしょうか、実に多彩な音色が現れては消えるという、めくるめく世界を体験できました。それに加えて、低い音では弦が共鳴してとても雄大な響きが味わえます。こんなことはチェロでは決して出せない世界です。
この曲は、最近では他の楽器で演奏される機会も多くなっています。かつては、ものめずらしさも手伝って、チェロの音符どおりに弾けてさえいれば、まず喜ばれたものですが、最近ではそうもいきません。あたりまえの話ですが、いかに音楽的な本質に迫るかが問われるようになってきています。
メイヤーの演奏を聴いて、たとえば組曲第5番のフランス風序曲で、ハ短調の深い響きの中から始まった抑制された音楽が、次第にテンションを高めて最後のピカルディの和音にたどり着くまでの道のりをたどってみると、ここには確かにコントラバスでしかなしえない表現が存在していることに気付きます。
コントラバス弾きの友人はこれを聴いてどう思うことでしょう。
ちなみに、ピカルディというのは、ピカチュウのフランス風の呼び名。

きのうのおやぢに会える、か。


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