末広町の歴史


          時代がどんどん流れていく中で、一時の記憶
                                            
中嶋育夫

1. はじめに
  明治17年(1884)地区内にこの地域の主産業である生糸・絹織物を輸送する両毛線が
 開通。 明治18年(1886)に信越線も開通し市の北側の新開地としての開発が始まり
 ました。 明治21年(1888)に高崎・前橋を結ぶ新道が県道として整備されると、いよいよ
 町としての形が整い、資料によればわが町末広町は明治35年(1902)正式に町内として
 誕生しました。 旧市街地の北の端に位置し「前橋新道」に沿って扇が広がる様に発展
 してきたことから、将来にわたり町の末広がりを祈念し命名されたと言われます。 
  また旧高崎藩主大河内家の家紋が『三つ扇』であったことから、扇が要を中心に外へ
 開かれる様にあやかったとも。 町の中央を大川と呼ばれた長野堰が流れていることから
 ”中川町”の案もありましたが末広町に決ったようです。


2. 町の象徴

 (1)高崎女子高校
  
  わが町の発展に大きく寄与したのが高崎女学校の建設だと思います。 日本が近代国家の
 仲間入りをするには欠かせない女子教育。 その県内第1号の女学校が町内に出来たことです。
 明治32年(1899)群馬県立高等女学校が本町に設立、翌年末広町に新築移転されました。
 このことは後に北地区が文教地区として多くの学校が建設される魁になりました。 県内唯一の
 女学校でしたので生徒が県内各所から集い海老茶色の袴をはいた女学生が勉学に励みました。
  市内出身者の割合は1学年50人の内1/3に満たない割合で、自宅から通えない生徒の為に
 寄宿舎が用意されていたようです。 その後各地に女学校が開設された為、市内の方がほとんどと
 なり市内に多くの卒業生を輩出することになりました。
 現在は文化会館、少年科学館、中央公民館となっています。

 (2) 高崎市立第二幼稚園
  もう一つの教育機関は市内2番目の市立幼稚園です。 大正14年(1925)開設。 地区内の
 多くの子供たちが通いました。 芋ほり大会、遠足、七夕まつり、運動会(市立高崎女学校で行った
 記憶があります)。 園長先生は市立高崎女学校校長が兼務していました。 昭和61年4月
 高崎幼稚園(1885年開園)と統合し現在の地に高崎幼稚園として開園となりました。 各種の
 選挙投票所にもなります。


3. 地区特有の産業
 (1) 染物屋
  
 
  長野堰(通称大川)に沿って何軒もの染工場がありました。 「高崎染」と呼ばれ「高崎友禅」
 「高崎捺染」として染色技術・技法が根付いていました。
  最盛期の昭和20年代には川沿いに幾つもの染工場の洗い場が張り出し又工場にはそれを
 乾かす巨大な物干しの櫓が建っていました。
 上流から丑丸染工場・小笠原染工場・中沢染物・松原染加工所・宇佐美 染物店がありました。

 (2) 材木屋
  わが町は旧市街地の外に位置し敷地の確保と道路事情から材木屋さんにとってこの地が好まれた
 のでしょう。 古久松木材店(コクマツ)・中曽根木材店(カネカ)・中島木材店(カネナカ)・広神家具材木店が
 ありました。


4. 主な会社
 町内には地域を支えている企業及び記憶に残したい企業があります。
 (1) 古久松材木店
  明治40年(1907)中曽根松五郎氏により創業。 関東有数の材木問屋。松五郎氏は一時
 上信電鉄の社長も兼任していました。 その子康弘氏をはじめ孫の弘文氏、曾孫の 康隆氏は
 いずれも国会議員として活躍されています。
  会社の敷地は広大なものでした。 本社工場跡地は桐山クリニックに、第一工場跡地は綿貫病院に
 青雲塾西の製品倉庫跡地は駐車場その他に、高砂町の加工工場はマンション・シーズガーデン高崎ラピア
 などに代わりました。 特に加工工場は危険でしたが子供たちの絶好の遊び場でした。

 (2) 群馬自動車燃料販売(株)
  昭和24年3月神戸米太郎氏により創業、2代目小野里金蔵氏の下で発展を遂げました。
 「群自燃」として知られ県内に14の直営店、従業員数100人の石油元売会社です。
  現在は燃料販売以外に中古車販売・車検代行等幅広く営業。

 (3)
群馬県畜産加工組合高崎ハム
  
  1938年2月町の北、飯塚町との境を流れる一貫掘川沿いに創業。わが国唯一の農民資本による
 食肉加工メーカー。
 現在は群馬県畜産加工販売農業協同組合連合会と改称しJA高崎ハムとして高崎市八幡原町で営業。
 町内の相当数の方が働いていました。 通称「高崎ハム」は高崎市が土地を無償で貸与する代わりに
 製品名に「高崎ハム」を使用することを求めた
ことによります。


5. 商店街の思い出
 
 
  第一町内は今はシャッター通りに成っていますが、商店が軒を連ねた商店街でした。 11月の
 恵比寿講には売り出しやら、くじ引きやら大賑わいでした。 二代目のサービスは三角くじ、時期に
 合わせ売り出しとくじ引き、子供たちの笑顔。 実際、スーパーマーケットの物は全てこの商店街で
 まかなえました。 逆に言えば、これらの商店は皆なスーパーマーケットに飲み込まれてしまった訳です。
  思い出の商店を並べてみると道路西側南から
 小林建設、たる平食堂、都丸文具店、森田屋荒物店、荒井洋品店、魚満魚店、小板橋ガラス店、
 植松製麺所群馬鉱金工業、村松酒店、二宮理髪店、斉藤豆腐店、花菱、高崎塩業、風月堂菓子店、
 越沢履物店、清水農機具店、共栄パチンコ、銀星社印刷、植原精肉店、榛名ヂーゼル、高橋茶店、
 金井菓子八百屋店、金田時計店、福田自転車店、福田毛糸店、小池たばこ店、田島自転車店、
 塚越青果店。
  道路東側北から 松本菓子店、本間魚店、すかや食堂支店、永井米肥店、斉藤天ぷら店、
 料理はらや、田島魚店、松尾共同被服、三共ドライクリーニング、福田雑貨店、桜井商店、松井瀬戸物店、
 反町風呂店、井上洋服店、小川米穀店、田角染物店、湯浅写真館,飯塚工具ボルト店、
 高橋茶たばこ店、伊藤自転車店、森田塗料、根本不動産、三K電気、藤井菓子店、白樺書店、
 松浦不動産、杉山電機、蝶屋刃物店、中島木材店。

 (1) 富士屋自慢焼き
  自慢焼きは今川焼の一種です、それとアイスクリーム=小倉アイスです。 当時一世を風靡し
 全国に広がったと記憶しています。 売り出しの際は、宣伝にチンドン屋を使うのがお約束でした。
 ドラムス、大太鼓、クラリネット、サキソフォン。 踊りは映画スターの中村錦之助に似たお兄さんが
 人気でした。 じきに洋食屋も併設、ここでハンバーグのおいしさを知った子供は沢山いたと思われます。
  更にケーキ店もはじまりましたがパットしませんでした。 ただ、御親戚に救世軍の関係者が居て
 12月のクリスマスの夜に信者の方が店頭に来てキャンドルを手に讃美歌を歌っていました。 また、
 私の転勤で行く先々の地に暖簾分けと思われる「自慢焼」の看板と暖簾を見つけました。
 本庄市、伊勢崎市、前橋市、足利市、小山市で見かけたような・・・。

 (2) 白十字薬局
 
  
  薬局と言えば白十字。第一町内で昭和2年に開業以来町内だけでなく市内の老舗薬局として
 医療をサポートしています。 創業者宮下武次郎氏は薬剤師兼市会議員として、2代目の和保氏は
 薬剤師会会長として、妻の初枝氏は薬剤師及び民生委員活動、それぞれ長年の地方貢献で時の
 内閣総理大臣から叙勲の栄誉を受けています。

 (3) ホシノスポーツ
  スポーツ店と言えばホシノスポーツ。特に高等学校、中学校にスポーツ用品を納めた会社です。
 時代も味方してくれました。 先ずはサッカーブーム、サッカー少年が店に押し寄せました。
 続くスキーブームでは県内一番の売り上げを誇りました。 社長は沼田出身の星野守司氏、支店は
 高崎2店、前橋2店、伊勢崎、桐生、藤岡に各1店舗、従業員数最大で35名、活気あるお店で
 した。 今は競合大型店の出店もあり縮小しているようです。


6. 珍しい施設
 (1) 青雲塾
  

  昭和22年(1947)4月の総選挙に立候補した中曽根康弘氏は全国最年少28歳で国会議員に
 当選。 青雲塾は昭和22年(1947)中曾根康弘氏が荒廃した祖国の国土と人心を復興再建する
 ことを目的に思想運動の拠点として設立されました。 詳しくは後に建てられた中曽根康弘資料館に
 お立ち寄りください。 私達は古い建物時代、お祭り・子供の日映画会・町の寄合・勉強会・選挙事務所
 と幅広く利用させていただき活動の拠点で私達の生活の一部でした。

 (2) 天理教高崎分教会
  

  天理教は江戸時代後期山中みき氏を教祖として奈良県天理市に本拠地を置き始まった宗教団体。
 親神天理王命が世界中の人間を助けて「陽気ぐらし」をさせてやりたいと言うおぼしめしから始まった教え
 と言われます。 明治26年11月15日高崎に「高崎出張所」を設立、明治32年(1899)末広町の
 現在地に移りました。 信者さん達が拍子木・太鼓・摺鉦・三味線など9つの楽器でお祈りする姿を興味
 深く見ていたものです。 高崎駅広場まで拍子木を鳴らしながら”神名流し”で歩いての布教活動は町内の
 風景と言えます。

 () 国鉄官舎
  現在のマンション・ベルメゾン末広の敷地に戸建ての国鉄官舎が幾つも建っている団地でした。 国鉄の
 北関東の拠点高崎機関区があったからで何人かの友達の家もありました。 余談ですが彼らの遠足旅行の
 際の運賃は破格の別料金でした。 他にも昭和町、飯塚町にも同じような官舎がありました。


7. 隣町の施設
 (1) 市役所と公会堂
  

  今の文化会館第2駐車場は本町分となりますが、一時市役所が置かれていました。 移転後は公会堂
 となり、更に市の下駄ばきアパート、公会堂の一部を利用した図書館、婦人会館、公民館と変遷を重ねました。
 火の見櫓の奥へと続く道の辺りが末広町です。
     
 (2) 聖光教会と聖光幼稚園
 
 
  聖光教会は大正3年(1914年)山田町に開所。 聖堂は昭和4年以降の建物ですが国の有形文化財に
 登録されました。 毎週日曜日には信者さんが集まりミサが行われて今日も鐘の音が聞こえます。 戦時中は
 敵性宗教として迫害を受けた時期もあったそうですが今も活動を続けています。
  聖光幼稚園は昭和になった頃から当時の司祭さんが教会独自の幼児教育の資格を取り園長として始めました。
 宗教・学校区に係わらず多くの幼稚園児が集まりました。 教育内容は勿論キリスト教の精神に基づいたもの
 でした。 園長夫人のたまい先生は朝日新聞の歌壇に時折掲載される歌人でお御堂の礼拝と讃美歌の合唱
 4月イースターの色のついたゆで卵、12月クリスマスと聖劇、庭の姫リンゴの木など思い出は数多くあります。

 (3) 北部水泳場(昭和26年〜平成18年)
  

  昭和町分になりますが夏と言えばプールです。男児はふんどし姿と水泳パンツが半々な時代でした。
 自宅から水着姿で通いました。 帰り際に受付けのおばさんが目薬(塩水)を入れてくれます。
 プール横の広場には焼きそば売りのおじさんが居ました。 小さなへぎに味のしみた麺、美味しかった。
 現在は北公民館。


8. 風俗

 (1) 選挙風景
 
  
  昭和の時代は中選挙区制が敷かれていましたので1選挙区から複数人が選ばれました。 当地区は
 群馬第三区と言って
中曾根康弘氏・福田赳夫氏・小渕恵三氏・山口鶴男氏の地盤でした。 特に高崎は
 中曾根康弘氏と福田赳夫氏が毎回首位争いをする激烈な選挙で、町内あげて中曾根康弘氏を応援した
 ものでした。 町内の夫人方は事務所の食事や接待係。 選挙区内の市町村から支持者がバスを仕立てて
 応援に来ますので、その方々に食事を提供します。 男性陣は自転車で鉢巻き姿、選挙カーに連なって市内
 遊説に伴走しました。 こんな話もありました、中曾根康弘氏は大柄でとってもハンサム。海軍将校時代は
 真っ白な海軍軍服姿で町内を闊歩し町内の女子のハートを鷲づかみ。(町内長老の話)

 (2) 日本シルク
  昭和20年30年代の子供にとってここは絶好の遊び場でした(現在は詳細不明)地区的には飯塚町?
 現在のヤオコー飯塚店です。 住まいの住所に関係なく私達の遊び場でした。 丸い池、長方形の大きな池。
 丸い池では丸太にまたがって舟遊び、長方形の池は草が茂る中でザリガニ捕り、竹棒にスルメの足をぶら下げて
 捕ったものです。

 (3) 紙芝居屋
  現在の井田歯科クリニックの場所に紙芝居屋さんが来ました。 観客は幼い子供で自転車荷台に折り畳み
 の紙芝居装置をのせ太鼓をたたきながら月光仮面・白馬童子の話を聞かせます。
  勿論料金代わりに水あめを買わせます。 白くなるまでこねると赤色の食紅を塗ってくれたものです。 夏は
 小さなとんがり帽子に入ったアイスクリームが楽しみでした。

 (4) たばこ店
  大人の世界としてはたばこ店が各町内にありました。 高崎は江戸時代から館たばこ・光台寺たばこで有名な
 たばこの銘葉産地だけあって市内のそこここにタバコ屋さんがありました。 わが町にも第1町内に高橋・小池、
 第2町内に矢島、第3町内に塚越・塚越さんがあったのを覚えています。

 (5) 川端薬師
  
 
  大川(長野堰)端に眼病治癒に効果がある薬師様の祠があります。 狭い三角の敷地に大きな銀杏の木が2本。
 末広町の壮年会(現在は末広会)が賽銭の回収・掃除・枝落としなどお守りしています。 毎年10月に祈祷師
 を呼んで例大祭が行われ町民ばかりでなく近所の方も参加します。 また、薬師前の大川は一世代前の子供たち
 にとって夏の水浴び場でした。 白や赤色のフンドシ姿の少年たちの叫び声が聞こえるようです。

 (6) 山車祭り
 
  
  末広町のお祭りは山車祭りで市の山車祭りに参加します。 祭は江戸時代の高崎城主大河内輝貞公
 遠祖
源頼政を祀った頼政神社の祭典が起源で、市中で行われていた道祖神祭りが基となって正月26日に開催
 されるようになりました。 末広町の山車の始まりは、他町同様大正時代の道祖神祭りから始まりました。
  昭和11年夏、町民の特別寄付により山車が制作されると市の山車祭りが開催される都度参加しています。
 他に小正月に行われるどんどん焼きにも出場していました。 お囃子は高橋源兵衛さんの高橋流(長谷川流)。
 源兵衛さんの直弟子で町内在住の荻原文治氏の指導の下、正統に近い演奏を実施しています。
 曲目「四丁目」「大間(雨だれ)」「神田囃子」「屋台囃子」「新屋台囃子」「梅ヶ枝」「ミンバくずし」「松づくし」「かまくら」
 等が挙げられます。 山車製作は町内大工 町田雄弘 、町内 棒屋清水万吉。
 人形は「静御前」。昭和32年10月埼玉県本庄市米福人形店、幕は上幕「岩と波」下幕「桜」嘉多町丹頂堂製作



 
本件の作成に当たり高崎新聞様や郷土史家の新井重雄様の文章・写真および青雲塾・中曾根康弘資料館の
 写真を使用させて頂きました。