勉強会概要3

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                   第111回勉強会 「高崎の学校」


1. 明治以前の教育
 (1) 藩校
  ア.
高崎藩「遊芸館」
    宝暦年間(1751〜62)大河内松平氏3代輝高が藩主の時に高崎城内に設置。 『旧高崎藩慨誌』に
   「老職に深井資盛・菅谷清章・宮部義旭等ありて大いに文武の振興を企画せられ、先ず伊予三島の
    人にして識見高く文武の両道に優れたる前谷淳治、次いで京都の人坂上重矩・野上道堅を聘して
    之を御抱と為し、以て教授に任じ三之丸の馬場を北郭の西北隅に移して...(中略)旧三之丸馬場跡
    に文武の大道場を建設し、之を遊芸館と命名し、
尾州の練兵堂備前の青雲堂・肥後の時習館・
    長門の明倫館等、諸藩の学堂に比する所の設備を為し、唐本の十三経を始め、諸種の図書を揃へ
    藩中の上下をして大いに文武の諸芸を振作せしめたり」とある。
  イ.他藩の藩校
     上記の
尾州の練兵堂は尾張藩の明倫堂か。 寛永年間(1624〜44)に設立?
    天明3年(1782)再興され藩士だけでなく農民や町人にも儒学や国学を教えたといわれる。

     備前の青雲堂は寛文9年(1669)岡山藩初代藩主池田光政がに設立した藩学「岡山学校」で
    同藩は日本最古の庶民学校「閑谷学校」も設立している。

     肥後の時習館は宝暦5年(1755)に熊本藩8代藩主細川重賢が設立し横井小楠・井上毅・
    北里柴三郎らを輩出した。

     長州の明倫館は享保3年(1718)長州藩5代藩主毛利吉元が江戸時代12番目に開校され
    吉田松陰・桂小五郎・高杉晋作・井上馨・乃木希典といった錚々たる人物が学んでいる。

  ウ.文武の奨励
     輝高の長男4代輝和は文武を奨励し
市川鶴鳴を尾州から招き侍講させた。 鶴鳴は松平定信が
    寛政の改革で行った寛政異学の禁に反対した”寛政の五鬼”と呼ばれる5人の漢学者の一人で
    当代有数の学者である。 武においては藩士に当代随一と称された
寺田五郎右衛門宗有がいた。
     宗有は藩主の命で幕府御家流の一刀流を江戸随一の一刀流中西道場で修業したが防具を
    付けての剣術は剣法の真意にあらずと平常無敵流を修め帰藩した。 しかし一刀流以外は認められず
    中西道場に戻り修業し直し”中西道場の三羽烏”筆頭と恐れられる名剣士となる。 彼の木刀に
    よる組太刀は千葉周作も学ぶようになる。
  エ.文武館
     遊芸館は安永3年(1774)に火災で閉館し再建計画も天明3年(1783)の浅間山大噴火による
    大災害や藩士邸380戸、町家20ヵ町1080戸が焼失した寛政10年(1798)の大火災で中止となり
    鎗剣術修業の講堂のみが現宮元町に再興されていた。 幕末の藩主輝聲時に藩立学校再興され
    「慶応三年十月寺院ヲ以テ仮リニ和漢学校ヲ開設シ同年文武学校建築工事ヲ竣ヘ明治元年一月
     ヲ以テ開業シコレヲ文武館ト号ス」 しかしながら明治5年(1872)の学制布告とともに閉館される。

 (2) 私塾
   江戸時代中期から幕府や藩以外に設けられた教育機関「私塾」があった。
  高崎城下にあった名の通った私塾は、
   学習館:寛政元年(1793)に高崎藩士江積逸八が柳川町に開いた漢学塾。生徒数は200人。
   内海塾:天保9年(1838)に高崎藩士内海孜が宮元町に開いた漢学塾。
   薫庵 :弘化2年(1845)に武居善次が寄合町に開いた和学塾。主に和歌を教授。門下生120人。
   赤見塾:嘉永元年(1848)に高崎藩士赤見寛が若松町に開いた漢学塾。生徒数30名。
   積小館:文久2年(1862)に神官市川左近が田町に開いた漢学塾。 左近は最後の藩主大河内輝聲
        の招聘を断り切れずに藩校文武館大学寮一等教授として藩士の指導に当たった人物。
   簗瀬塾:文久年間に高崎藩士簗瀬忠方の妻芳子が九蔵町正法寺に開いた漢学塾。生徒数200人。

 (3) 寺子屋
   寺子屋は寛文(1661年〜73年)期から始まり明治5年の学制発布まで存在。 寺院で開始したため
  ”寺子屋”と呼ばれるたが江戸では”筆學所”と呼ばれた。 明治期調査で上野国に1,261カ所あり高崎が
  所属する群馬郡は180カ所、最多は北甘楽郡の247カ所であり全国で1万6千ほどあった。
   経営者・師匠は武士・浪人・神官・僧侶・儒者・医者などで庶民が最も多く名主や組頭などの村役人も
  多かった。 教科は読書・漢文・習字・修身・珠算などで習字を主とする所が多く”手習い師匠”と呼ばれた。
  ”寺入り(登山)”と呼ばれた入学年齢は6〜18歳で7歳が最多で就学年数は3〜5年間。 授業時間は
  午前8時・9時〜3時・4時で謝礼は盆暮れに二朱〜一分程度。 師匠と寺子(筆子)の関係が一生涯続いた。


2. 初等教育の着手

 (1) 小学校の始まり
   日本初の小学校は明治2年(1869)5月2日開校の
京都上京第二十七番小学校(現京都尾池中学校)。
  東京ではなく京都が最初に小学校設立に動いた背景は幕末の動乱により日本の教育文化の中心を自負
  していた町が悲惨な状態になったことが挙げられる。 しかも実質上の都は東京に移ってしまった。この状況を
  打開するため自分たちで資金を出し教育施設を再建すべく立ち上がったと思われる。

 (2) 学制の発布
   明治政府は新しい国づくりに教育が不可欠との認識から明治5年(1872)8月2日太政官から”学制”布告し
  開明政策の一環として全国に小学校設立を図った。 学制とは日本初の近代学校教育制度で全国を学区に
  分け、それぞれに大・中・小学校設置を計画し身分や性別を区別せず国民皆学を目指した。
   群馬県では同年11月23日に第一番小学校厩橋学校(現前橋市立桃井小学校)が前橋に設立され
  次いで翌年2月10日には第二番小学校水沼学校(現桐生市立黒保根小学校)が旧勢多郡黒保根村に
  設立された。 水沼村に開設されたのは同村に民間初の洋式器械製糸「水沼製糸所」を造った星野長太郎が
  教育の重要性を認識して誘致を図り、500円の資金と星野家の菩提寺を校舎として提供したことによる。

 (3) 高崎町での設立
  

                     源桂閣(大河内輝聲)書 高崎学校掲額
   明治6年(1873)1月に内村水男(宜之、元高崎藩士で内村鑑三の父)が第36番中学区取締に任命され
  鞘町学校・四ツ谷学校などを設立して近代学校を出発させる口火を切った。 
   同年5月12日に高崎初の小学校である
鞘町小学校が私塾積小館に設立。現市立中央小学校の前身。
  続いて17日に四ツ谷小学校が旧山崎塾を校舎として、6月2日に高崎小学校が大信寺に、12日に新町小学校
  が延養寺に、7月12日に九蔵町小学校が大雲寺に、11月14日に赤坂町小学校が長松寺に、17日に下横町
  小学校が向雲寺に、翌7年4月17日に嘉多町小学校が覚法寺に開設された。 これらの小学校は明治10年
  (1877)1月に統合され第一番高崎小学校となり赤坂町小学校と下横町小学校は分校となる。
  明治11年(1878)2月に第一番高崎小学校から女児を分離し旧藩校文武館に移し第一番高崎女児小学校とした。

 (4) 就学状況
   国や県は小学校設立や就学の奨励を積極的に行ったが一般の人々は学問の必要を感ぜず、将来の仕事や
  生活に差し支えないと考えるものが多かった。 また教育内容が難しく寺子屋のように生活に直接役立つ内容で
  無かったことが要因と考えられる。 そのため旧城下地域8校は約半数(52.8%)が就学も農村地域は10〜30%
  の就学率で総じて低かった。 農村では家業に対する学校の必要感が薄く就学しなくても差し支えないと考える
  者が多かった。

 (5) 校舎の建設
   当初は大部分の校舎が寺院・神社・民家を借用した。 明治8年(1875)までに群馬県下に設立された459校
  のうち66%の331校が寺院を利用し新築校舎は10%の46校に過ぎなかった。 最初に設立された鞘町小学校
  校舎も
市川左近が田町に開いた漢学塾であった。 因みに左近は米沢出身の神官で大河内輝聲に藩校文武館
  の教授に招聘され維新後に鞘町に私立学校を設立した際に輝聲から「積小館」の額と名を賜った。
   左近は質素倹約の生活を送りその徹底ぶりは”けちんぼ先生”と呼ばれるほどであったが小学校や県師範学校
  設立の際に基金として2千円を寄付しお金の使い道の範を弟子に示した。
  
  市川左近の墓(龍広寺)

   当時、学校設立・維持は全て地区住民の負担で行われ莫大な費用を要する校舎建設は難事業であった。
  明治10年(1877)に旧城下8校が鞘町小学校に合併された高崎小学校は同年11月に石上寺跡に本格的な
  校舎を新築した。 建築費は総額4,472円余で有志による寄付金が3,100円、駅内区入費(行政区の一般
  行政費として集めた税金)1,371円であった。
   校舎の概要は、奥行13間(23.6m)、間口17間3尺(31.4m)、建坪が208坪5合(688u)、バルコニー付き
  洋風造作のモダンな建築であった。 教室は2間(3.6m)×3間半(6.4m)、4間(7.3m)×2間半(4.5m)の2室。

 (6) 旧城下地域への拡充
   高崎小学校は児童の増加が進み明治35年(1902)4月高崎北尋常小学校が請地町に、高崎南尋常小学校が
  八島町に独立し、本校は高崎中央尋常小学校と改称した。 因みに東小学校は大正4年(1915)4月弓町に開校。
   その他旧高崎市内では明治7年(1874)に塚沢・片岡・佐野小学校が開校。西小学校は昭和25年(1950)、
  城南小学校は同26年、城東小学校は同29年と昭和になってから既存の学校から分離独立する形で開校した。



3. 幼稚園教育の始まり
  明治9年11月に東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)附属として日本初の幼稚園開設。 その後全国に
 設けられた幼稚園の模範となり幼児教育の発展に大きな役割を果たしてきた。
  群馬県初の幼稚園は同19年(1886)8月に桐生山田第一小学校附属の桐生幼稚園(現桐生市立西幼稚園)。
 高崎市では同年2月1日に西群馬高崎第一尋常小学校に幼稚園開誘室を開設され幼児教育が始まる。
  開設は堤きよ(元高崎藩目附堤金之亟娘)が中心として進められた。 きよは明治6年に高崎小学校入学、下等
 小学8級〜1級と上等小学8級〜1級までを飛び級で進級し4年間で卒業。 その後東京師範学校に進み幼児
 教育の研究を重ね高崎小学校に三等訓導として赴任し児童の教育に携わる傍ら幼稚開誘室設置を果たした。
  明治21年(1888)12月22日に町立幼稚園として認可され宮元町の高崎第一尋常小学校附属の
高崎幼稚園
 して発足した。 初代園長は同小学校校長の
堤辰二(きよの兄)が兼任した。


4. 中等教育の普及と実業教育の実施

 (1) 群馬県尋常中学校の開校
   学制公布で初等教育が推進整備された後に中等教育に着手し明治10年に前橋に利根川学校、高崎に烏川学校が
  創設された。 同12年(1879)に県会で両校の県立移管が提案されたが県立中学校は当面一ヶ所で前橋と高崎では
  近過ぎると前橋にのみ設立することに決定。 これにより烏川・利根川両校は廃校となった。
   翌年(1880)1月県費支出による群馬県尋常中学校の開業式挙行。 開業間もなく生徒のストライキや学校長の
  更迭など前途多難な船出で同15年(1882)2月1日旧勢多郡小暮村に新築された校舎で正式に開校した。 その後も
  県費が打ち切られ廃校の危機があったが授業料と寄附金で賄い小暮では不便なことから龍海院を仮校舎に定め12月に
  紅雲分村に校舎移築が完了した。

 (2) 群馬県立高崎中学校
   日清戦争が終り列強に伍して行くには教育進展の要が求められ中等教育の進展が急務となった。 群馬県で6分校
  (藤岡町・東横野村・沼田町・太田町・甘楽郡・群馬郡)の設置が建議された。 ただ、この時点で高崎は前橋に近い
  という理由で除外されていた。 分校設立に教員の増加とそれに伴う教員俸給の負担、教員に適当な人材がいなければ
  生徒を役立つ人物に育成できない、教育内容に相違が生じる等の反対があった。 これに対して小学校教育の普及に
  伴い中学進学希望者が増加し本校のみではその希望にこたえられない、資金力の無い者は前橋まで修業に出せない、
  県下の有力者が中等教育の必要性を認め援助を惜しまないなどの賛成多数で分校設置が可決された。
   明治30年(1897)2月に6分校設置が文部省から認可され高崎・藤岡・沼田・安中・太田・冨岡の各町に決まった。
  同年4月1日群馬県尋常中学校群馬分校が赤坂町の長松寺を仮校舎として
開校した。 翌31年上和田町に新校舎が
  落成し、3月31日第1回修業証書授与後に移転した。 職員8名、生徒数131名、4学級編成であった。
   明治33年(1900)4月1日より本校となり群馬県高崎中学校と改称、修業年限は5年とし学科は倫理・国語・漢文・
  外国語・歴史・地理・数学・博物・物理・化学・習字・図画・体操。 授業料は月額1円(8月は除く)。
   翌明治34年6月中学校令に基づき群馬県立高崎中学校と改称。 昭和23年(1948)4月に学制改革により
  群馬県立高崎高等学校と改称。
 
 
              群馬県尋常中学校群馬分校仮校舎が置かれた長松寺と記念碑

 (3) 群馬県立高崎高等女学校
   明治15年(1882)前橋曲輪町に群馬県女学校を創設。 当時は京都・山梨・岐阜・徳島の5校だけ、群馬の生徒数
  は25名、5校合計も286名で明治19年には廃止。 文部省は明治24年(1891)に中学校令を改正して高等女学校の
  項を設け女子中等教育振興を打ち出した。 同30年(1897)11月の通常県会から高等女学校設置の審議が進められ
  延期と高崎設置で激しく対立。 前橋と高崎が競って土地提供を申し出て激しい誘致運動を展開、明治32年(1899)
  4月に高崎町大字本町179番地に群馬県初の群馬県高等女学校を
設立。 (因みに前橋女子高校の前身・前橋市立
  高等女学校は明治43年(1910)に設立。) 校舎は明治17年の上野高崎間の鉄道開通式に行幸された明治天皇
  行在所として建てられた春藹館で第一学年80名・二学年22名・三学年2名の計104名の入学が許可された。
   学科は修身・国語・歴史・地理・数学・  理科・家事・裁縫・習字・図画・音楽・体操、外国語と漢文は随意科目。
  授業料は月70銭(8月は除く)。 明治33年(1900)4月高崎市から寄付された末広町に新築移転。 
  昭和23年(1948)4月群馬県立高崎女子高校と改称。 
   
 群馬県高等女学校の後に高崎図書館となる

 (4) 高崎市立甲種商業高校
   中等教育が拡充される一方で実業教育に対する希求が高まり明治11年(1878)に神戸に日本初の商業学校である
  神戸商業講習所が開校。 その後横浜・新潟・名古屋・下関と港湾都市に設立された。 この流れは明治政府の富国
  強兵策の一つが輸出振興による経済発展で港湾都市の商業家が子弟の教育に力を注いだことによる。 他に内陸県で
  早期に開校したのは江戸時代の近江商人に始まり数々の商人を輩出した商都近江八幡の滋賀県商業学校や明治の
  最大輸出商品の生糸製造集約の町の福島商業補習学校で高崎に商業学校が早期に創設されたのは商業都市として
  繁栄していたことを物語る。
  
  創設の早い商業学校
   実業教育は伊勢崎の織物組合立染織学校・霧生町立織物学校・私立高山社蚕業学校などが細々と存在したが
  県立の実業学校はかなり遅れていた。 明治32年(1899)に中学校及び高等女学校・実業学校令が公布されると
  翌年頃から高崎で商業学校設立の動きが出てきた。 同35年(1902)の実業補習学校規定の改正を受け高崎の他に
  7校の補習学校が設立され高崎の場合は
商業補習学校。 同41年(1908)3月高崎市議会は商業補習学校を
  廃止・高崎市立甲種商業学校設立を決議し文部大臣から5月開校の認可が下った。 その後県立昇格の建議が
  提出されたが”高崎市は金があるから県立にする必要はない”と反論があり県立移管は行われなかった。
  甲種商業学校は本科3年・予科1年であったが明治44年(1911)に本科3年・予科2年に改正された。予科では修身・
  読書・作文・習字・算術・地理・歴史・英語・理科・図画・体操、本科では予科から理科と図画を除いた一般教養と
  専門教科の法規・簿記・商品・商事要項・商業実践が教授された。
  大正7年(1918)4月群馬県立高崎商業学校、昭和23年4月群馬県立高崎商業高等学校と度々改称。
   高崎発展のために工業の発展が不可欠で工業学校を創設することが急務とする意見に対し女子にも実業教育を
  与えんと女子職業学校設立の建議が市会に提出された。 両意見対立も大正13年(1924)3月中央小学校の
  常盤町移転で跡に高崎実践女学校を設立することとなった。 実践教育をモットーとしたが昭和23年(1948)4月
  市立の女子高校として高崎市立女子高等学校に改称。 (因みに工業高校は昭和15年4月に群馬県立工業学校が
  開校。 同23年4月に群馬県立工業高等学校に改称となる。)



5. 私立学校の開校
 (1) 英語学校
   明治3年(1870)8月に高崎藩は静岡藩士作楽戸痴鶯を教師として檜物町に藩立の「
英学校」を設立した。官立の
  外国語学校が東京ほか7ヶ所に開設されたのはその3年後であるから内陸地中規模藩が設立したことは画期的であった。
  しかし廃藩置県もあり3年余りで廃校となった。 第一期は士族50人を選抜して開校したが二期生は士族外からも入学
  多くの人材を輩出している。 最も著名な人物は宗教家・哲学者の
内村鑑三がいる。 他にも名古屋義病院(名古屋
  大学医学部の前身)の創設に院長兼教授として招かれた長三石、生糸貿易商の先駆者で日米友好促進拠点ジャパン
  ソサエティ設立に貢献した新井領一郎(孫の松方春子は駐日米国大使ライシャワー夫人として知られる)、1890年の
  第一回総選挙以来25回も連続当選し63年間国会議員を勤め「憲政の神様」と言われた
尾崎行雄がいる。
   その後は私立の英語学校が開校し同17年(1884)10月に開校した
猶興学館は柳川町に移り崎英和学校と称し
  教員4人、生徒男子85人・女子5人の規模で少なくとも同26年(1893)12月までは存在した。 同じく17年に西洋人
  との対話実習もあったことで知られる崎英語学校創設、話せる英語が魅力であった。 続いて同20年(1887)2月頃
  「英語専修学校」が鍛冶町に開校、就業年限は1年半で生徒男子43人・女子8人であった。 いずれも明治時代に
  閉鎖となってしまった。

 (2) 裁縫女学校
   明治39年(1906)4月1日に
私立裁縫女学校(現佐藤学園)が開校した。 創設者の佐藤夕子(タネ)は日露戦争の
  奇跡的大勝による国民の緊張感からの解放と産業界の景気回復により漂う浮華軽佻の気風に憂慮すべき世情として
  婦徳を涵養することを目的に設立された。 当時女子教育のための私立学校は前橋英和学校(現共愛学園の前身)や
  桐生裁縫専門学校があったが規模こそ小さかったが31歳の女性が一人で私立の女学校を創設した。 最初の生徒は
  6人であった。
   佐藤夕子は松井田町坂本の出身で長野県の財閥の跡取り息子に嫁し1児を設けたが夫の放蕩から離縁し、息子を
  東京で暮らす舅姑に預け東京裁縫女学校(現東京家政大学)を6カ月で卒業し文部省の中等教育試験裁縫科に合格
  静岡県の裁縫伝習所を経て田方郡立高等女学校に2年奉職後、高崎へ戻り柳川町のお堀端に佐藤裁縫女学校を
  開設した。 創立精神から教科は修身と裁縫・家政・洗濯、授業料は本科が1か月 50銭、研究科が80銭、専修科が
  70銭であったが生徒の経済的状況に応じて柔軟に対応している。





                                                    2023.7.20
               第107回勉強会 「家紋を分析してみる」


1. 家紋の歴史
  平安時代に
藤原実季(鳥羽天皇の外祖父・贈太政大臣)が宮中に出入りする御所車が多くなり
 自分の牛車に目印として「巴」を付けた事が最初と言われる。 現代まで続く西園寺家の巴紋は
 藤原実季の孫・通季が西園寺を称して以来続いている。
  室町時代以降多くの武家が紋を持つようになり戦国時代に敵味方を判別する目的で馬印・陣幕・
 神旗などにも用いられた。 江戸時代の武家は幕府に届出が義務付けられ商家や歌舞伎役者も
 屋号として用いるようになった。 明治以降は誰でも用いるようになる。

   左三つ巴        佐竹氏旗印


2. 定紋と替紋
  家の紋で公式な紋は「定紋」(表紋)と呼ばれ江戸時代は幕府に届け出る。 定紋以外の
 非公式な紋は「替紋」(裏紋)と呼ばれ大大名になると多くの家紋を使用、その代表が伊達政宗。
  伊達家の古来の定紋は「三引両」であった。 「引両」は源氏の流れを象徴する紋で源頼朝から
 拝領した幕紋の「二引両」を後代「竪三引両」に改め定紋としていた。 ところが伊達家14世稙宗が
 関東管領上杉家から婿引き出物として「竹に雀」を贈られるとこれを使用し15世晴宗以来伊達家
 累代の定紋となった。 有力大名家で替紋が増えたのは人脈を強固にする処世術として他家の紋を
 適宜使用したためで17世正宗が豊臣秀吉から拝領した「菊」と「桐」、細川家に所望した桓武平氏
 の流れを持つ「九曜」、正宗が初陣で使用した「雪薄」、20世綱村が近衛家から拝領した「牡丹」、
 21世吉村が手を加えた「蟹牡丹」(通称仙台牡丹)がある。

   


3. 屋号紋
  商家が店の暖簾などに使っているうちに紋(屋号紋)になった。
  ●越後屋の「丸に井桁三」は家祖三井高利が母親の夢想に基づき定めたといわれる。
   丸は天、井桁は地、三は人、すなわち天・地・人の三才を示すという。
  ●ヒゲタの由来は創業家田中家の屋号「入山田」を図案化した。
   「上」はヤマサ醤油と同様に幕府御墨付の最上位を表す。
  ●鰹節の「にんべん」は初代高津伊兵衛が伊勢の出身であることから屋号を「伊勢屋伊兵衛」
   とし伊勢屋と伊兵衛の「イ」をとり商売堅実を願う曲尺と併せ「カネにんべん」とした。
  ●抹茶小山園は元禄年間に宇治の小倉で茶の製造を始めた小山久次郎の「久」をとった。
  



4. 寺社紋
 (1) 寺紋
   綸宝など修業道具、開祖の在家の紋、有力な檀家の紋によるものが多い。 宗派の紋が多く
  個別寺院の紋は神紋に比べると少ない
  ア. 天台宗
   「菊綸宝」:比叡山に自生する叡山菊に仏教の法輪を重ねた。皇室の菊紋は宗祖最澄が
          叡山菊を献上したことによると言われる。
  イ. 真言宗…宗派ごとに異なる
   ●東寺派教王護国寺(東寺)の「八雲(東寺雲)」:占いが雲を用いて行われたことから。
   ●高野山派金剛峯寺の「五三桐」:天皇から宗祖空海が弘法大使の称号と共に天皇家の
     家紋「五三桐」を下賜された。
   ●「三つ巴」:空海の生家讃岐の豪族佐伯家の家紋。
  


   ●大覚寺派大覚寺の「菊」
   ●豊山派長谷寺の「輪違」:佛と衆生は元は同じで異なることはない「凡聖不二」の教えを表す。
   ●智山派智積院の「桔梗」:根来寺の塔頭であったが豊臣秀吉の焼打ち後、徳川家康が再興
     させた際、秀吉の子鶴松の菩提を弔う祥雲禅寺を吸収合併した。 同寺は造営奉行を務めた
     加藤清正の功績から清正の「桔梗」紋を寺紋にしており、それをそのまま智積院寺紋とした。
   ●醍醐派醍醐寺の「五七桐」:門跡寺の関係で天皇家の家紋。
  ウ. 曹洞宗
    曹洞宗では大本山の永平寺と總持寺を「両山」と呼ぶ。 永平寺の紋「久我竜胆」と總持寺の
   紋「五七桐」を並べて用い「両山紋」と称する。
  


  エ. 臨済宗…宗派によって異なる
   ●妙心寺派妙心寺の「八ツ藤」:開基花園天皇の「花園藤」に由来する。
   ●南禅寺派南禅寺の「入れ違い雨龍」:龍は角を持たずに水中に住み五百年で角を持ち千年
    後に翼を持つ龍になり天に昇り五穀豊穣をもたらす龍神になる。 雨隆は完全な龍になる前の姿。
   ●建長寺派建長寺・円覚寺派円覚寺の「三つ鱗」:開基北条時頼の家紋から。
  


  オ. 浄土宗
    「月影杏葉」:宗祖法然上人の生家漆間家の紋に由来し大正4年(1915)に現在の形に。
  カ. 浄土真宗
   ●本願寺派の「九条藤」:本願寺第22代門鏡如上人が九条道孝公爵の三女と結婚、
    九条家の紋「下り藤」を持参したことから。
    「五七桐」:本願寺第11代顕如上人の代から門跡勅許の沙汰があり皇室副紋である
     「五七桐」の使用が許され寺紋としていた。
    「鶴の丸」:親鸞聖人の生家日野家の紋。
   ●東本願寺派の「近衛牡丹」:宗祖親鸞聖人が藤原家の出身であることから。
  キ. 日蓮宗
    「平井筒に橘」:宗祖日蓮の出自が井伊氏一族であり井伊氏の家紋井桁と橘を組合せた。
    総本山の身延山久遠寺は「近衛牡丹」を寺紋にしている。 日蓮正宗は「鶴の丸」
  


 (2) 神紋
    神意を表す動植物や亀甲を象徴としたもの、祭神に関するもの、有力な氏子の紋などが多い。
   ●賀茂神社の「葵」:古く”あふひ”と読み”ひ”は信霊を意味し「葵」は”神に逢うこと”。
     御祭神降臨に「葵」を飾り祭りをせよとの御神記があったことから神紋となった。 松平郷は
    賀茂神社の神領で松平氏は有力な氏子として葵紋を使った。 松平氏を継いだ徳川家康は
    葵紋も継承。 他に酒井氏から譲り受けた説、本多氏と交換した説もある。
   ●善光寺の「立ち葵」:創建した本田善光の家紋に由来している、本田氏は本多氏とも書き両氏
    は同族で、本多氏は賀茂神社の社家の一族であったことから「フタバアオイ」を元に「立ち葵」が
    寺紋になった。 本多氏は「丸に立ち葵」
   


   ●諏訪大社の「梶の葉」:神功皇后が新羅征伐の際に諏訪・住吉の二神が梶葉松枝の旗を掲げて
    先陣を進んだことなどに由来。 上社は足が四本、下社は五本、一族が近世大名として生き残った
    諏訪氏は「四本足に三本梶」を用いた。
   ●湊川神社の「菊水」:祭神楠木正成の紋から。 正成が後醍醐天皇から恩賞として菊紋を下賜
    され、そのままでは恐れ多いと信奉していた水分(みくすり)神社の流水紋と併せた。
   ●八坂神社の「唐花木瓜」:祇園社は代々紀氏が社務執行を世襲し、その紀氏の家紋「木瓜」と
    武勇の神として崇敬される素盞鳴尊が祭神であることから武勇を表す「巴」紋を組合せ神紋とした。
   ●熊野本宮大社の「八咫烏」:八咫烏(那智烏)は当社の主祭神家津美御子大神(素盞鳴尊)の
    仕えで神武天皇を大和橿原まで先導した故事から、導きの神として信仰。八咫烏は太陽の化身で
    三本の足は天・地・人を表している。
   


   ●阿倍野神社の「笹竜胆」:山野草竜胆をモチーフに葉が笹に似ている 。源氏の象徴と知られるが
    正式には村上源氏と宇多源氏の代表紋。 村上源氏の長者北畠親房(後醍醐天皇の側近)・
    顕家(南朝の武将)を祭神としていることから北畠家の家紋を神紋にした。
   ●宇佐神宮の「尾長左三つ巴」:巴は弓を引くとき腕を保護する武具であったことから弓矢の神・
    八幡神の総本山宇佐神宮が神紋とし全国八幡社の神紋に。
   ●出雲大社の「亀甲に剣花菱」:亀甲形の内に剣花菱を配し三種の神器を表し神霊が宿る神
    ひもろぎ(臨時に神を迎える依代)を意味する。
   ●大神神社の(三輪山神社)「三本杉」:三輪の神を祖神する大神一族の杉紋から。
  


   ●天満宮の「梅」:祭神の菅原道真が梅の花を好み神紋とされたと言われる。 各神社によって
    異なる。 太宰府天満宮は「梅花」、北野天満宮は「星梅鉢」、湯島天満宮は「梅鉢」。
   ●大山祇神社の「折敷に縮三文字」:折敷(供物を載せる器・三宝)に当社の別称「大三島神社」
    の三を入れた。
   ●三島大社の「折敷に三文字」:当社の祭神は大山祇神と事代主神。大山祇神社神紋から。
  



5. 役者紋
 (1) 歌舞伎俳優
  ●市川團十郎…成田屋の「三升」:初代団十郎の父が侠客唐犬十右衛門から初舞台に三つの
    升を贈られた事に因む説などがある。
  ●尾上菊五郎…音羽屋の「重ね扇抱き柏」:初代菊五郎の贔屓筋から扇に載せた柏餅を扇に
    載せて受け取ったエピソードから。
  ●中村吉右衛門…播磨屋の「揚羽蝶」:羽化する時期で翔の形や斑紋が違うことから、造形の
    神秘の象徴として好まれた事から。
  ●市川猿之助…澤瀉屋の「澤瀉」:初代の生家が利尿薬となる薬草の匙澤瀉(さじおもだか)を
    扱う薬舗であったことから屋号を「澤瀉屋」に、定紋は屋号から。
  ●松本幸四郎…高麗屋の「四つ花菱」
  ●中村勘三郎…中村屋の「隅切り角に銀杏」
  


 (2) 落語家
   落語家の紋は「芸紋」と呼ばれ真打になると自分で選べ特異な紋を使う人もいる。 多くは師匠の
  紋を使う場合が多く結果一門の紋となっている。
  ●三遊亭圓朝「高崎扇」:義兄の永泉玄昌が小石川是照院15代住職。 この寺が高崎藩の
   菩提寺で大河内松平家「雁木三つ扇(高崎扇)」紋を芸紋に使いたいと元藩主大河内輝聲に願い
   出て許可され羽織を拝領し高座着に使用するようになった。 三遊亭小円朝の一門が使用している。
  ●三遊亭円生の「三つ組柏」:六代目橘屋円蔵の弟子であったが六代目三遊亭円生を襲名、師匠
   の定紋を踏襲し、以後、円楽など円生一門が使用している。
  ●林家正蔵の「中陰光琳蔦」:八代目正蔵は最後は林家彦六と改名。林家のうち彦六一門は「中
   陰光琳蔦」あるいは木久扇などは「細輪に光琳蔦」を使用している。同じ林家でも、初代三
   平が「花菱」の使用を始め、こん平、たい平など三平一門は「花菱」を使用。
  


  ●柳家小さんの「剣片喰」:一門の定紋は剣片喰だが小三治一門が「羽団扇」を使用するように、
   小さんの弟子から独立した各一門は色々。
  ●古今亭志ん生の「鬼蔦」:5代目志ん生は20回弱も改名しており、晩年も「鬼蔦」と「裏梅」を使い
   一門も様々な紋を使用。 息子であり弟子の志ん朝は「鬼蔦」を定紋とした。
  ●桂文治の「結三柏」:現在の文治は11代目、桂一門の宗家にあたり一門もこの紋を使用。
  ●桂文楽の「三つ割桔梗」:師匠は5代目柳亭左楽(定紋は片喰)。 6・7代目文楽は存在しないと
   言われる中、左楽が強引に8代目文楽を襲名させたと言われる。 5代目文楽までは桂一門の「結柏」
   が定紋であったが8代目文楽が「三つ割桔梗」を定紋とした。
  



6. 大名紋
 (1) 本家・本流と分家・分流
  ア. 酒井氏
    酒井氏の家紋は「片喰(酢漿草草)」。 繁殖力が強く一度根付くと絶やすことが困難である事から
   「家が絶えない」に通じ貨運隆盛・子孫繁栄の縁起担ぎから使用する家が多い。
    本流の酒井左衛門尉家は片喰紋を丸で囲った「荘内片喰)、分流の雅楽頭家は基本形の剣片喰
   の剣の部分を細く先鋭にし姫路藩主を務めたことから「姫路片喰」と呼ばれる。 雅楽頭家の分家
   若狭藩主酒井氏は本家の剣片喰を丸で囲んだ紋で「若狭剣片喰」と称される。
  


  イ. 大河内松平氏
    秀綱の長男久綱の長男信綱は秀綱の次男正綱の養子となる。 正綱に実子正信が生まれたため
   独立し伊豆守家を興し正信が大多喜家(備前守家)を継ぐ。 信綱の五男信興が独立し右京大夫家
   (高崎家)を興した。
    
伊豆守家の定紋「丸の中三蝶の内十六葉菊」(伊豆蝶)、大多喜家の替紋「三蝶の内十六葉菊
   (丸なし伊豆蝶)」
右京大夫家は簡略化された「浮線蝶」を城や陣幕など重要な物に使用している。
    
大多喜家の定紋は「三つ扇」、右京大夫の定紋は「雁木三つ扇」、そして伊豆守家は「三つ反り扇」
   を替え紋に使用している。
   


 (2) 似ている紋
  ア. 「鷹羽」
    鷹の羽根は和弓の矢羽根の材料であったことから「尚武」の精神を重んずる武家が家紋に使われている。
   ●「違い鷹羽」:多くの幕閣を輩出した阿部氏が有名。 備後福山藩主などの本家正次系の定紋は
    「丸に右重ね斑入り鷹羽」、武蔵忍藩〜磐城白河藩主などを務めた分家忠吉系の定紋は「石持地抜き
    左重ね鷹羽」。 もう一つの分家佐貫藩主の正春系の定紋は「丸に左重ね違い鷹羽」、
    通常分家の家紋は本家より複雑なケースが多いが、当家の定紋は多くの家が使用した「違い鷹羽」紋。
    安芸広島藩浅野氏の定紋は「丸に右重ね渦入り鷹羽」と違い鷹の羽のなかでも凝った紋であるが分家の
    播州赤穂藩浅野内匠頭の定紋も一般的な「丸に左重ね違い鷹羽」。
   ●「並び鷹羽」:関宿藩久世氏が「丸に斑入り並び鷹羽(久世鷹羽)」が代表。
   


  イ. 「澤瀉」
    この紋も葉の形が鏃の形に似ており「勝戦草」と呼ばれ縁起の良い草で多くの武家が愛用した。
   ●「立澤瀉」:水野氏一族が知られており唐津・浜松・山形藩主を務めた忠盛流水野氏は「水野澤瀉」と
    通称される立澤瀉に水流れ。 沼津藩主の忠清流水野氏は「丸に立澤瀉」。 同じ水野氏でも結城
    藩主の勝成流水野氏は「抱き澤瀉」。  
   ●「抱き澤瀉」:代表は長門毛利氏で「長門澤瀉」と称される。 毛利元就が戦に臨んだ際に澤瀉に勝ち虫
    のトンボが止まるのを見て勝利した事から家紋とした。他に定紋として一文字三星(長門三星)がある。
     


   ウ. 「柏」
     柏の葉は食物を盛る器「膳(かしわで)」として信仰と深い関係があり神紋として好まれた。 約500種
    代表的な紋は「三つ柏」で長岡藩・笠間藩・小諸藩牧野氏が「丸に三つ柏(牧野柏)」や山内家の「
    土佐柏」がある。 二枚柏は「抱き柏」が主流で豊後岡藩中川氏が定紋としている。
     


   エ. 「橘」
     橘紋は十大家紋の一つであるが定紋とする大名家は少ない。 彦根藩井伊家の「丸に橘(井伊橘)」が
    有名で関宿藩久世氏の「久世橘」と区別が難しいが久世氏の「久世橘」は替え紋である。
      


   オ. 「星」
     星紋の代表的な紋に「九曜紋」がある。 平安時代から流行した「九曜曼荼羅信仰」や妙見信仰の由来で
    ある北極星・北斗七星に基づく。 熊本藩細川氏が有名で事件を期に変更し「
細川九曜」と呼ばれる。
     事件は延享4年(1747)江戸城へ登城した熊本藩主細川宗孝(41歳)が旗本寄合衆7千石の板倉勝該
    (31歳)に背後から突然切り掛かられ絶命した。 勝該の本家遠江相良藩主板倉勝清が日頃から狂疾の
    勝該を致仕させて勝清の庶子に継がせようとした事を恨み刃傷に及んだ。 板倉勝清の家紋「九曜巴」紋と
    細川宗孝の「九曜」紋を見間違えた事に因ると言われる。 板倉氏の「九曜巴」は「二十七九曜」とも言われ
    板倉氏遠祖は「九曜星」を用いた桓武平氏良文で、初めは「九曜星」であったが武神八幡の紋「巴」の強力な
    呪術性を持った「九曜巴」に変えた。 妙見信仰と八幡信仰が凝縮した紋と言える。
     長州藩毛利氏の「一文字に三星」は通称「長門三星」と呼ばれる。 毛利氏の先祖大江氏は平城天皇の
    第一皇子安保親王の末裔を称し同親王の位が一品(第一位)であることから一文字を採用しこれに武神を
    表す三星(オリオン座中央にある星で大将軍星・左将軍星・右将軍星)を添えた。
     
   

   カ. 「藤」
     藤原氏を祖とする佐藤や加藤などの姓が多いため藤をデザインした紋は約900種あると言われる。
     



7. 家紋制定の云われ
 大名家などには家紋制定の申し送りがある。高崎藩大河内松平には次のような申し送りが残っている。
 (1) 浮線蝶
   「因仁平之功帝賜菊衣為家紋、仲綱公尊菊紋以蝶包之、元来頼国公紋ト云、当御家ニテハ至テ
    重キ御紋ニテ武器ニ用之、此御上下ハ御家ノ重事ニ被召、御流ハ藩之加印ノ外ハ不被下雖世子
    因願着之、世ニ謂之浮線蝶、言浮線綾者誤也」
   (注)頼光―頼国―頼綱―仲政―頼政―仲綱

 (2) 雁木扇
   「正綱公三州白山之社供奉之時神君扇之蔭ヲ御覧アリテ家紋ニ可致之旨上意也 釘貫三ツ組ニ
    因テ如此絵画之大多喜家ニテハ内外雁木トテ至テ重キ御紋ト云、当御家ニテハ依 厳有大君ノ命、
    天桂君以後平日用之」
   正綱は松平正綱、大河内秀綱次男で家康から長沢松平家を継ぐよう命じられ大河内松平家の祖に。
   徳川家康の近習出頭人。 厳有大君は四代将軍徳川家綱(厳有院殿贈正一位大相国公)。 
   天桂君は松平信興、戒名の天桂院殿香山無隠大居士から呼ばれる。

 (3) 釘貫・釘貫三ツ組
   「釘貫ハ長沢家之御紋、笹竜胆交而用之、即正綱公之御紋」
   「釘貫三ツ組、雁木扇ノ起リ也」 長沢家:十八松平家の一つ。

   





                                                    2023.3.16
                第105回勉強会 「国定忠治と高崎」


1. アウトローの時代
 (1) 博徒と侠客
   いつの時代にも乱暴狼藉を働く無法者は存在したが凶悪な犯罪者としては押込み強盗や相手・
  手段を選ばず放火殺人を行う無法者が主であった。 ところが幕末から明治の無法者は有宿者
  (一般人)は相手にせず、縄張り争いで殺人を平然とやってのけ警察権に刃向かう博徒が主であり
  
アメリカ19世紀中ごろに登場したガンマンのアウトローと似たところがある。
   「博徒」は博奕を生業とする者で幕末から明治期に賭博場の縄張りを形成し乱暴狼藉を働いた
  無法者を指す。 自分たちの力を誇示するため対抗する者や体制に刃向かうアウトローである。
   「侠客」は中国で義侠心をもって人の窮境を救う武力集団(三国志の劉邦も当初この類)を指す
  言葉であったが日本では義侠的行為で体制に反抗する者を言い江戸時代前半に旗本奴・水野
  十郎左衛門と男伊達を競った町奴・幡随院長兵衛が侠客の代表と言われる。
   江戸時代後半になると講釈師による博徒を主役とした講談が盛んになり、お上に立てつく博徒を
  英雄・美化し侠客のように持ち上げるようになった。 前半生の博徒から後半生は侠客と呼ばれる
  ようになった大前田英五郎や清水次郎長などがその典型である。 国定忠治も元々は凶悪な博徒
  であったが領主らが民衆に対し生活維持に適切な対応が出来ない中、自分の「盗区」の民衆に
  施しをしたことや神妙に処刑されるに至った一連の様相から侠客の仲間入りとなった。

 (2) 博徒が台頭した背景
   18世紀後半から江戸時代の国家体制が動揺し始め幕藩体制社会から離脱・排除される者が
  増えた。 禄を失った浪人や農民・町人の人別帳から徐帳された無宿者たちである。
   浪人は市井の民となり無宿は変名など様々な手立てで社会に紛れ込み世間から隔離されていた
  わけではない。
   経済活動は米から商品に移行し庶民でも現金を手にするようになり、物流は陸上・水上・海上を
  問わず拡大し宿場・河岸・湊が様々な形で賑わうと共に城下町や村役がしっかりしている農村とは
  異なり人別帳に捉われない社会が実現しアウトローに格好の棲み家となって行った。 その最たる
  地域が養蚕関連で現金経済が盛んになった上州、富士川舟運と伊勢湾海運で栄えた清水湊、
  干鰯(ほしか)・醤油・綿花栽培の盛んな近畿地方や巨大消費地江戸へ運搬する利根川舟運で
  繁栄した下総(「天保水滸伝」の縄張り争いで有名)である。
   上州では浅間山の噴火や洪水で水田が埋没流出し、荒地に桑を植え養蚕生糸の畑作に移行。
  災害を逆手にとって年貢の高い米作地を回避し年貢安の畑作地とする一方、収入が年一度の
  米経済から年数度の現金収入が得られる商品経済に移った。
   現金収入を得るようになった人々は地芝居や相撲興行などに娯楽を求め射幸心を煽る博奕に
  誘惑され風俗の悪化を招いた。 この世俗の変化で興行の仕切りや博奕場の運営に博徒が力を
  発揮することになった。

   米国では1848年に始まったカルフォニア・ゴールドラッシュと1869年の大陸横断鉄道の開通により
  1860〜90年代の西部開拓時代にアウトローが出現した。 新しい町の建設に伴う社会経済の
  軋轢でその社会の仕切り役を狙う者の利権に絡む争いや酒場と賭博の享楽に伴う争いが生じた。
   コルト拳銃の発明でガンマンが活躍するようになるとアウトロー同士の殺し合いから銀行や列車を
  襲う強盗にエスカレートしていった。


 (3) 主なアウトロー
   飯岡助五郎   1792〜1859   
ジェシー・ジェイムズ 1847〜1882
   大前田栄五郎  1793〜1874   ワイアット・アープ  1848〜1929
   笹川繁蔵     1810〜1840   ジョニー・リンゴ   1850〜1882
   国定忠治     1810〜1851   バット・マスターソン 1856〜1921
   武居安五郎   1811〜1861   ビリー・ザ・キッド   1859〜1881
   清水次郎長   1820〜1893   プッチ・キャシデイ  1866〜1908
   黒駒勝蔵     1832〜1871   サンダンス・キッド  1867〜1908


2. 博徒の賭魁・国定忠治
 (1) 博徒への道
   賭魁(親分)・忠治の実像に迫れるのは
羽倉外記の『劇盗忠二小伝』と『赤城録』に起因する。
  外記は
川路聖謨江川英龍と共に"幕府の三人兄弟"と呼ばれ幕府ブレーンの一人として改革に
  参画し代官を務めた旗本にして儒学者である。 忠治が博徒として賭魁に至った経緯は羽倉外記
  の『劇盗忠二小伝』に次のように記されている。 17歳で人を殺し厩橋の博徒頴五(田島栄五郎)
  にかくまわれた。 そこで百々(どうどう)村の親分紋二を紹介されて博奕打ちの世界に入り、三年後
  紋二が病死する際に駒札を譲られ親分の座に就いた。
   頴五とは大前田栄五郎のこと、勢多郡大前田村の生まれで祖父は名主を務めたが父や兄も
  博奕打ち。 若い頃に人を殺傷し全国を流浪し島抜けをしたとの話があるが不明、キップの良さと
  腕っぷしの強さから関東一の親分と言われ
新門辰五郎・岡安寅五郎と共に"関東の三五郎"と恐れ
  られた。 博徒の縄張り争いを治めることを稼業とするほどで「和合人」と称された。
   忠治の縄張りになった百々村は例幣使道の「間の宿」境町の鼻の先に位置し境町は島村伊三郎
  の縄張りであった。 このことから忠治は栄五郎が伊三郎に対し放った刺客とも言われる。 実際に
  忠治は伊三郎の賭場・世良田を狙っていた三ツ木文蔵を抱き込み、文蔵の子分らを連れ境村で
  伊三郎を待ち伏せし殺害、縄張りを奪い取った。 これにより博徒の賭魁・忠治が誕生した。
   忠治の子分は最盛期には500人を数えたといわれるが清水次郎長一家に比べ名前を知られた者
  が少ない。 羽倉外記の表現によると出家名の「晃円」を分解して名乗った軍師日光円蔵、怪力の
  持ち主で火鎗(鉄砲)の名手ハ寸才市、酒癖が悪いが非凡な剣才山王民五郎、手裏剣の達人
  三ツ木文蔵、動きが敏捷で日に400里を走る長鎗の使い手武井浅二(板割浅太郎)といった股肱
  の幹部である。
  
 『劇盗忠二小伝』

 (2) 凶状持ちの指名手配人に
   忠治が指名手配人になった原因は信州へに向かう際に「関所手形一札之事」を所持せず大戸の
  関所破りである。 上州-信州間は米・煙草・塩などの経済交流が盛んで高崎から室田・三ノ倉・
  大戸・鎌原・大笹・鳥居峠を越えて須坂・長野・中野へ抜ける信州街道の往来が盛んであった。
   忠治は松本の親分勝太の下に草鞋を脱ぎ、文蔵と共に賭場荒しをするなど地元の博徒と争った
  事もあった。 その後弟分の茅場長兵衛が中野にあった幕府代官所本陣の者に殺されたと聞き
  復讐のため鉄砲・鎗・刀で武装した子分を引き連れ中野に急ぎ乗り込み関所破りの罪になった。
  大戸で磔刑となる原因である。
   忠治最初の大事件である島村伊三郎の殺害は遺体引取に立ち会った伊三郎の家族が大事に
  なることを恐れ訴えなかったため役人に追われる身にならなかったが、その後忠治一家の蛮行が
  度々起こり放置しておくことが出来なくなり捕物方に追われる身となるも網の目を上手く掻い潜り
  捕まる事は無かった。 しかし三室勘助殺害は勘助が関東取締出役の道案内で幕府が威信を
  かけ総力を挙げて捕物を展開した。 回送された指名手配人相書の忠治は「
中丈殊之外太り
  候方、顔丸く鼻筋通り、色白き方、髪大たぶさ、眉毛こく其外常躰、角力取共相見候

   忠治の肖像画を描いた田崎早雲は足利藩足軽の生まれで若き頃は無頼の日々を送り忠治と
  面識があったと言われる。
  
 田崎早雲画「国定忠治」

 (3) 三室勘助の殺害
   天保13年(1842)田部井村の賭場に関東取締出役の捕り手が襲った。 忠治は日光円蔵と
  長脇差をふるって脱出したが子分の多くが召し捕られた。 小斉(おざい、現伊勢崎市小斉)の親分
  勘助が密告したと判明。 勘助は子分板割浅次郎の伯父でその場に浅次郎が居らず忠治は
  "
浅次郎が勘助と示し合わせて俺をはめたな。ヤツを捕えて斬ろう"と息巻くも円蔵が"浅次郎が
  裏切ったという明白な証拠はない。浅次郎を殺しても勘助が生きていては我々にとって将来手強い
  敵となる。浅次郎に勘助を殺させ二心無いことを証明させてはどうか
"と忠告し忠治はこれに従った。
   浅次郎は子分8名を伴って夜11時頃に小斉に入り泥酔して2歳の幼児太良吉を抱いて寝ていた
  勘助を鎗で突いた。 不意を衝かれた勘助は抵抗したが浅次郎は勘助の首を切り落とした。
  立ち回りの中で太良吉まで殺し下女まで負傷させた。
   忠治贔屓の大衆演劇や映画では道案内で博徒の勘助が甥浅次郎は忠治の股肱の子分と知り
  ながら忠治の居る田部井の賭場を襲わせたとされてきた。 勘助は二足の草鞋の悪玉に仕立て
  上げられ殺されたはずの太良吉は勘太郎となって生き返り、東海林太郎の歌う「赤城の子守歌」の
  哀切なメロディーにのって主犯の浅太郎に背負われて登場する。 しかし実際の勘助は博徒で無く
  東小保方村三室上組の名主中嶋勘助で人物たる事を示す逸話がある。
   檀那寺の長安寺惣代としての訴訟で住職の横暴と非法について理路整然と列挙して勝訴となり
  住職は罷免され流罪となった。 また百姓惣代として先納金返還と年貢減免を領主の旗本久永氏
  の陣屋役人に訴え正義の闘争を挑んだ。 ただ泣く子と地頭には勝てず三室を追われ隣村の小斉に
  移動した思われる。 その後人望と地域の事情通で地頭にも立ち向かう胆力を買われ関東取締出
  役の道案内を務めるようになった。 勘助の娘ふさは八寸村名主の木村牧太に嫁し木村家の墓地
  内に父勘助・母みき・太良吉の墓を建立し現在も木村家が守っている。
  
 勘助(左)・太良吉(中央)の墓

 (4) 「劇盗忠治」

  
   羽倉外記が残虐な博徒に対して「劇盗」と称した訳は自分たち幕府の官吏は天保の飢饉に苦しむ
  窮民に対し何も出来ないのに比べ忠治は私財を投じて米・銭を与えて飢民を救済し田部井村の
  磯沼を名主と共に改浚し村々を干災から守った事に起因する。 ただ私財といっても博奕や賭場荒し
  などで荒稼ぎした金であり丁重に仁義を切るも分限者を脅して借用した金である。
   盗んだ金を困った庶民に与えた盗賊鼠小僧と同様に忠治の支配地区に住む民衆は大いに助かり
  その任侠ぶりをもてはやした。 そのため忠治の逃亡を手助けするほどであった。
   この様な任侠の面も有り非情な博徒の親分に過ぎない忠治だが大衆演芸の格好の題材になり
  尾ひれが次々と付いてスターになった。 先ず講釈師と浮世絵師の世界で天保水滸伝などと共に
  人気を博し、明治時代以降に新国劇・映画・ラジオで「国定忠治」はアウトローながら義理人情に
  篤い民衆の味方の地位を築き上げた。 特に新国劇の"沢正"こと沢田正二郎(1892-1929)の
  "
赤城の山も今宵を限り、生まれ故郷の国定村や縄張りを捨て国を捨て、可愛い子分のてめえ達
  とも別れ別れになる首途だ。心の向くまま足の向くまま、あても果てしもねえ旅に立つんだ。加賀国の
  住人小松五郎義兼が鍛えし業物。万年溜の雪水に浄め俺にゃあ生涯おめえという強い見方があった
  のだ。
"は名セリフとして後の忠治役に引き継がれた。


3. 忠治の女
 羽倉外記は忠治伝「赤城録」で「忠治の正妻はお鶴といい、妾はお町といって美形で色気がある。また、
 五目牛村(伊勢崎市赤堀町五目牛)の後家お徳を妾にした。男勝りの気の強いところが気に入られた。

 とある。
 (1)
パトロンお徳
  
   徳は群馬郡上有馬村(渋川市有馬)一倉佐兵衛家に生まれた。 天保11年(1840)五目牛村
  菊池千代松の女房に入籍した。 佐兵衛は零細な百姓のため煮売茶屋を営み徳は茶屋の看板娘
  で徳の行動・忍耐力、任侠の様な対応は茶屋を切り回す渡世から体験し学んだと思われる。
   また徳は読み書き算用に裏付けられた世間知を身につけていた。 佐兵衛の菩提寺有馬村天台宗
  神宮寺で法印俊道が寺子屋を営み徳は8歳の頃から長期にわたって学び実用の学はもとより文雅の
  素養も身に着けている。 徳は有馬村で離婚トラブルを起こして飛び出し22歳で佐位郡五目牛村
  菊池千代松の月雇奉公人(臨時雇いの季節労働者)に、やがて千代松と再婚。 弘化3年(1846)
  徳の窮地を救い女房にまでしてくれた千代松が亡くなる。 徳は31歳で後家となるも一家の主として
  使用人を使って1町6反余の養蚕経営を行う菊池家を守り立てている。
   千代松が死去した年の冬に三室勘助を殺害し南会津逃亡の忠治が4年の旅から戻って来た。
  しかし日光円蔵や板割浅太郎ら国定一家の股肱の子分は次々と捕らえられ、かつての威勢は凋落の
  一途をたどっていた。 五目牛は忠治の縄張りに近く千代松とは旧知の間柄であったと思われる。
  千代松の家に忠治が転がり込み徳と懇ろの仲になった。

 (2) 愛妾お町
   天保8年忠治が名主宇右衛門と田部井村磯沼の改浚を行っていた頃、田部井村名主小弥太の
  養女の町は忠治に見初められ国定村の弟友蔵の"厄介"(被扶養者)という公的身分を与えられて
  妾になった。 ただし町と忠治の間柄は優れた容貌による愛妾という月並みな関係であった。
   嘉永3年(1850)町がたまたま滞在していた田部井村の兄庄八宅で忠治が中風(脳卒中)に倒れ
  目がくらみ身体が麻痺し言葉も言えず口からはよだれを垂らす始末である。 町は愕然として何も
  できない状態であった。



4. 忠治の逮捕
   町は弟の友蔵や子分の安五郎らを呼んで天下のお尋ね者忠治をどこに隠すか相談をした。 屋敷が
  広く使用人も多い徳の家が良いということになるが徳に発病の事情をどの様に説明するか思案の結果、
  徳の家に向かう途中で倒れたことにした。 しかし徳は嘘の言訳と町への嫉妬心から怒り忠治が病にも
  拘らず一行を追い返してしまった。 そのため磯沼改浚の同志として行動してきた宇右衛門が引取り
  遠方へ逃す算段をしたが追手から逃げられないと判断し探索方に見逃してもらおうと道案内へ賄賂を
  掴ませることに至った。 しかし先立つ金が無く子分の清五郎が徳に相談した。 徳は断ったら「女侠」と
  しての意地が廃ると思い資金を都合している。
   徳が提供した10両を道案内の左三郎・馬太郎・苫吉の3人に3両ずつ、仲介役の幸助に1両の礼金
  とした。 しかし左三郎が苫吉に1両しか渡さず仲間割れから忠治の潜伏先が関東取締出役に洩れ、
  召し捕られた。



5.磔刑される忠治
 (1) 民衆への見せしめの護送
   幕府は忠治がお上の法をものともせず悪行の限りを尽くしお上に徹底して逆らったと認識し見せしめ
  懲らしめる処罰方法を考えた。 つまり関所破りが重罪で極悪非道の者の最後は極刑を受ける事を
  民衆に告知するため関所破りの場・大戸関所で磔の刑を公開する事にした。 裁きを受けた江戸の
  小塚原で無く大戸で処刑を行う事は護送途中の襲撃で忠治を奪われる危険が考えら警備を固める
  本来の姿から逸脱する方法であった。 しかし幕府は忠治に痛めつけられた関東取締出役の権威を
  回復する狙いの方が大きく磔刑実行責任者岩鼻代官の検使手代2名、立会人の関東取締出役
  3名、上野・下野・常陸・下総・武蔵5か国29宿4町3村1河岸から招集した47人の道案内、磔刑
  執行役・浅草弾左衛門、非人頭・車善七配下の者、宿々から動員した人足ら合わせて200人以上
  の大名行列に匹敵する規模でお上に逆らったらどうなるかを人々に見せつける演出が執られた。
   しかし忠治を乗せた唐丸籠の様子は磔刑執行人らが同道する物々しい行例であるが見せしめよりも
  華々しいハレの行列と見えたのではないか。 この事は徳の目論見に上手く利用されることになる。

 (2)
パトロン徳の演出
   お上が見せしめのために護送の道中から大仰な行列を作って見物人を楽しませようと唐丸籠は竹の
  表面を削り取り目を粗くして全体に青網をかけ極悪人忠治を十分見ることが出来るように配慮され
  底部分を1尺ばかり緋毛氈で巻き緋と白の縮緬の布団を5枚重ねて忠治が座り非常に目立つ物で
  あった。 徳は見せしめを受けるのであれば芝居の世界仕立てに見せ「侠勇に生きた忠治」として死んで
  もらおうと考えた。 徳が忠治に用意した衣装は下着が白縮緬、上着は白綸子、首に大きな数珠と
  死出の旅を演ずるにふさわしい白無垢の手甲脚絆の死衣装中に綿の長い芯を入れて作った丸絎帯を
  前で締め三重の紫薄絹に座り羽二重に白絹を三重に羽織らせた。
   徳は目論見通り、見事に忠治を任侠の大立者に仕立て上げた。



6.高崎との関り
 (1) 清水寺住職田村仙岳
   有馬村の佐兵衛と中里村岸家から迎えた後妻の間に一男一女が生まれた。 長女が
、弟が
  仙岳である。 なぜ田村姓を名乗り出家したか分からないが佐兵衛の家は零細な農家で茶屋を営む 
  家から分家は出せなかった。 どこかの婿になるか商家の奉公人になるぐらいしか道は無く出家し僧侶
  の道を選んだのだろう。 その後の修行についても全く不明である。
   忠治が磔刑された直後の嘉永3年(1850)12月30日に仙岳は群馬郡福島村(高崎市福島町)
  の真言宗豊山派金剛寺から華蔵山弘誓院清水寺に転住した。 清水寺は享保2年(1717)から
  無住であり文政5年(1822)八幡村(高崎市八幡町)大聖護国寺住持の兼務となるも管理不行
  届きで建物などが大破となり村役人らが申出て弘化5年(1848)高崎城下(高崎市中紺屋町)
  玉田寺住職快音が入るも大聖護国寺へ移転。 快音の法類で柏木沢村(現榛東村広馬場)の
  字輪寺法印隆音が移住した。 大聖護国寺と朱印状でいざこざがあったが和解し隆音は隠居し
  仙岳が住職となった。
   その後仙岳は清水寺が高崎城の裏鬼門にあたることから高崎藩と深く関わり下仁田戦争で高崎
  藩士らの遺骸引き取りから供養や慰霊のための36士像を祀る田村堂の建設に関わり、五万石騒動
  の仲介や対応を指導し小薗江丹宮が指導した東郷と共に西郷から一人の犠牲者も出さなかった。
  「怪僧」と称される傑物ぶりは姉の徳同様の任侠であったが忠治と関わりは無かった。
   仙岳の墓は清水寺仁王門を経た先の歴代住職墓地にあり円筒状の墓石表面に中僧都仙岳、
  裏面に清水寺中興初代 明治32年12月23日 享年74歳と刻まれている。
   
    

 (2) 徳の寿像画の作者一椿斎
   徳の還暦を祝って贈られた寿像が現在も菊池家に残っている。 この絵の作者は高崎の一椿斎
  歌川芳輝で清水寺観音堂壁面に16面の絵馬を描いた浮世絵師である。 住職田村仙岳とは
  
昵懇(じっこん)の仲であったと思われ、姉・徳の還暦を祝して仙岳が芳輝に頼んで書いてもらった
  のであろう。
   芳輝は文化5年(1808)江戸日本橋米山家に生まれ名は芳三郎という。 初めは谷文晁に
  山水花鳥の画法を学んだが文晁の没後、浮世絵界の第一人者歌川国芳に師事し「一椿斎」の
  号と「芳輝」の名をもらう。 高崎に来て新町の旅宿・住吉屋田中モヨの婿養子となった。 芳輝の
  作品に清水寺の絵馬、観音堂内壁画観音像の他、「初市・高崎木屋」(アド・ミュージアム東京蔵)
  がある。 矢島群芳・武居梅坡と共に"
近世高崎の三大画人"と称されている。
   住吉屋田中家は幕末に起きた新町の「御伝馬事件」に関わり処払いで柳川町へ移り明治24年
  (1892)芳輝死去、墓は九蔵町の大雲寺。 その後田中家は「
宇喜代本家」として県下随一
  の大料亭となり昭和50年代まで続いた。





                                                    2023.1.19
                第104回勉強会 「酒井家と酒井家次」


1. 酒井家
 
 (1) 出自
   酒井氏は鎌倉幕府の初代政所別当・大江広元の一子忠成が起こした海東氏の流れを汲む。
  (他の大江姓有力者は広元の三男毛利季光を祖とする長州藩毛利家有り) 三河国碧海郡
  酒井郷の在地領主で海東忠成の五代目忠明が酒井氏を称した。 その孫忠則の娘に時宗の
  僧・徳阿弥(後の松平親氏)を婿に迎え二人の間に二子が生まれ第一が徳川家康の祖となる
  泰親、第二が酒井広親でこの系譜から酒井氏は『寛政重修諸家譜』で徳川氏と同じく清和
  源氏義家流としている。 徳阿弥は新田義重四男義季が上野国新田郡世良田徳川に住した
  新田源氏世良田氏流と称す。 義李の次男頼氏が三河守となりその8代目が親氏で鎌倉公方
  との戦いに敗れると難を逃れるため出家して徳阿弥と名乗った。 その後諸国流浪の末に
  三河国加茂郡松平郷に流れ着き松平信重の食客となりその教養を見込まれ婿養子になった
  とされている。

 (2) 二つの家系
   酒井氏は二つの大きな流れがある。
  ア.左衛門尉家
    親氏の長男氏忠の5代目
忠次の系譜を代々襲名する官途名から左衛門尉家と言う。
   忠次は家康が幼少期からの側近で三河吉田城主に取り立てられる。 家康が三河を支配
   する過程で東三河の旗頭に任命され、家康が豊臣政権下の筆頭権力者に上り詰める家康
   前半生の功労者である。
    忠次の長子が6代
家次で下総臼井3万石→上野高崎5万石→越後高田10万石を経て7代
   忠勝が信濃松代10万石へ転封となる。 元和8年(1622)に戦国大名最上氏が改易されると
   最上領57万石が分割され忠勝は羽前庄内(鶴岡)13万8千石に加増転封となる。 佐竹氏や
   出羽国外様の抑え役として徳川政権の早期に定着した藩として維新まで続いた。
    当家は二度ほど大きな事件があった。 一つは忠勝の弟で忠次の養子となっていたと言われる
   旗本の忠重が所領の農民騒動で改易となり忠勝の食客になった。 ところが忠勝晩年時に忠重は
   自分の息子を忠勝の娘と結婚させ忠勝の継嗣・忠当(ただまさ)を廃嫡させる御家乗取りを計った。
    しかし家臣が老中松平信綱に訴え裁定を受け忠当が無事8代となり忠重は絶縁された。
   忠当の正室千万が松平信綱の娘であったことが大きく影響したと言われる。
    二つ目は「三方領地替え」で11代将軍家斉の子を養子にした川越藩15万石の藩主松平斉典
   が実高が多く裕福な庄内藩への移封を図り、天保11年(1840)庄内藩転封命令が下り第7代
   藩主酒井忠器は越後長岡藩移封になる予定が庄内領民の阻止運動で長岡藩牧野忠雅が
   川越へ移る幕府案を取り消す前代未聞の出来事であった。
    幕末の庄内藩は奥羽越列藩同盟の主力として家老の子息酒井玄葉了恒(のりつね)を中心に
   新政府軍及び久保田藩・新庄藩連合軍と対峙し優れた戦術を以て敵を翻弄し負けなかった。
    指揮を執った第二軍大将酒井玄番は忠次の四男・了次を祖とする吉之丞家10代目で代々
   庄内藩の家老を務めその猛勇ぶりと見事な采配により新政府軍から「鬼玄番」と恐れられた。

  イ.雅楽頭家
    氏忠の弟家忠の5代目雅楽助正親が家康の三河支配に際し西尾城主に取り立てられた。
   その長男重忠が家康の関東移封で武蔵川越城主となりこの系譜は雅楽頭家と呼ばれる。
   重忠の子忠世が江戸幕府草創期の中心人物として加増を重ね前橋藩12万石に出世する。
   続いて忠世の孫9代忠清が4代将軍家綱時代の老中・大老として権勢をふるい「下馬将軍」
   と称される。 14代の忠恭は播磨姫路15万石へ転封となる。 前橋酒井家は財政難で
   居城が利根川浸食による普請が重なり所領の地味が十分でなく飛地が上野国内や他国に
   分散していたため所領替えを工作し、タイミングよく姫路藩主を継いだ松平朝矩が11歳で
   西国の抑え役藩主として幼少で不適であることから越後村上藩へ転封され酒井氏が姫路へ
   の転封に成功し以降明治維新まで藩主を務めた。
    幕末には21代忠績が老中・大老に祭り上げられるが将軍慶喜と共に江戸逃走し姫路藩は
   第三等朝敵(第一等は徳川慶喜、第二等は松平容保と松平定敬)とされる。 
    重忠の弟忠利は別家を起し川越藩主となり長男の忠勝は2代・3代将軍の老中・大老と
   して幕政を支え寛永11年(1634)小浜藩113,500石の藩主となる。 当家は徳川政権の
   早い時期に若狭国に定着し北陸道・北前船海運の抑えとして維新まで続いた。

  ウ.家紋
    酒井氏の家紋は
片喰(酢漿草)。これは多年草のカタバミの葉を型取ったもので雑草と
   して踏まれても枯れない生命力から用いられる。 酒井氏は新田氏以来の片喰紋を装飾し
   「丸に片喰」や「剣片喰」を用いた。 『柳営秘鑑』(江戸時代の年中儀礼・故事来歴・
   武家法規・格式などが掲載)に徳川家の三つ葉葵紋が酒井氏に由来していることが記載
   されている。
 
    
      左衛門尉家           雅楽頭家            小浜酒井氏
      丸に片喰             剣片喰             丸に剣片喰

 (3) 一族と江戸幕府における立場
   左衛門尉家と雅楽頭家とその分家を含めた酒井家は7家が幕末まで大名として続いた。
  その石高は合計49.8万石に及んだ。 「徳川四天王」と称される榊原家は1大名15万石、
  井伊家は本家35万石と分家2万石の37万石、本多家は何家もが改易に遭ったが幕末に8家
  が残るも小藩が多く24.3万石。 酒井家の隆盛ぶりがうかがえる。
   徳川政権草創期からの有力大名家が老中就任するケースは少ないが酒井家は左衛門尉家
  から11代忠寄が老中、雅楽頭家重忠系からは7代忠世・9代忠清・21代忠績が老中と大老に、
  14代忠恭が老中に就任している。 分家忠利系からは忠勝が老中・大老を務めた。



2. 酒井忠次
(1) 家康幼少期からの側近
  大永7年(1527)三河国額田郡井田城(現岡崎市井田町)に松平氏家臣・酒井忠親の次男生誕。
 天文11年(1547)松平竹千代(家康)が今川氏の人質として駿府へ送り込まれ16歳年上の忠次が
 同行した。 永禄3年(1560)年桶狭間の戦いの後、家康が岡崎に戻り独立すると家老となる。
  その後に起こった三河一向一揆で叔父酒井忠尚を始め酒井氏の多くや本多氏などが一向一揆
 側に与したが忠次は家康に従い一揆を鎮静化させた戦功により吉田城主となる。
 「一向一揆」と称されるが一向宗との宗教戦争と言うより寺の年貢に対する扱いで武士との確執が
 根底にあったようである。

(2) 家康第一の重臣
   徳川軍劣勢であった姉川の戦いで直面する敵の大将を破り、長篠の戦いでは鳶巣山砦を
  強襲陥落させ武田軍を攻略する大功を挙げている。 信長の横死後に武田の遺領甲斐・
  信濃掌握の中心役を任された。 石川数正と共に家康の宿老となったが数正が豊臣秀吉の
  下へ出奔する一大事発生。 徳川軍の全てを知る宿老の転身は徳川軍体制の立て直しが
  迫られ忠次が中心となり再構築する。 その人となりは家康や家中の信頼が厚く"海老踊り"
  と呼ばれる踊りで諸将を和ませたと言われる。 家康家中で最高位の従四位下左衛門尉に
  叙位任官された。

(3) 後継者
  忠次の室は松平清康(家康の祖父)の女で家康の叔母にあたる碓氷姫。 長男が継嗣の家次、
 次男の康俊は近江膳所藩主本多忠次の養子となり関ケ原の戦いで戦功を挙げ三河西尾2万石を
 与えられた。 大坂冬の陣では膳所を守備し夏の陣の戦功で膳所3万石藩主となる。 
  跡を継いだ俊次が西尾→亀山を経て膳所7万石に再封され幕末まで続いている。 三男信之
 は武蔵本庄城主小笠原信嶺の養継嗣に。 その後養父の死去で本庄藩1万石初代藩主となる。
 この系列は関宿藩.2.2万石古河藩2万石を経て越前勝山藩2.2万石として維新を迎えた。

(4) 逸話
  三方ヶ原の戦いでは武田信玄に大敗を喫して帰陣した家康本隊を迎え太鼓を打ち鳴らして
 味方の士気を鼓舞し敵を追い払い「酒井の太鼓」と呼ばれる。 武田軍に大敗した翌年の
 元亀4年(1573)正月に武田家から
  「
松枯れて 竹たぐひなき 明日かな」(松平は枯れて武田は比類ない将来が待っている)
 という句が送られてきた。 家康や家臣が激怒したが忠次はその句に濁点を付けて
  「
松枯れ 竹だ  なき 明日かな」(松平は枯れず、武田は首がない将来になる)
 と読み返したという。 このことから正月に門松の竹を斜めに切り落とすことが習慣になったと言う。
  この年の4月武田信玄は西上途中に死去している。
 愛鎗は甕を突き抜いて敵を倒した「甕通鎗」、愛刀は猪を斬った村正高弟正真作「猪切」



3.酒井家次
(1) 大名以前
  永禄7年(1564)忠次の長男として生誕。 長篠の戦いで父に従って鳶巣山砦攻略に参戦し
 軍功を挙げ家康より諱の一字を賜り家次と称す。 天正16年吉田城主を襲封、同17年
 従五位下宮内大輔に叙す。同18年北条氏の降伏に伴い小田原城受取りの任を果たし家康の
 関東移封に伴い下総国臼井城を賜い3万石を領す。 関ケ原の戦いへ向かう徳川秀忠軍に
 属し真田昌幸の籠る上田城を攻める。 斥候の士卒を討ち散し追手門際に至り城中の兵と
 鑓を合わせ城へ入ろうとするも城攻め中止命令にて家次は兵を退いた。
 秀忠軍の関ケ原遅参の一人として家康の叱責を受けた。

(2)高崎城下の整備
  慶長9年(1604)井伊直政転出後城主不在の高崎城へ移り2万石加増高崎藩5万石となり
 左衛門尉に改める。 中山道の道筋を椿町・通町を経て新町の東南から下之城へ抜けるを
 本町三丁目で田町方面に曲げ九蔵町・田町・連雀町・新町へと城下の中心部を貫通する幹線
 道路に変更した。 この道路整備が後の高崎城下の発展に大きく寄与する。
  また給人町に居住していた藩士を郭内に移しその跡地に町屋を建設し赤坂町とし新後閑村の
 住人を新設新田町へ移すなど城下町の整備を行っている。


(3)大坂の陣に参戦
  慶長14年(1609)大坂冬の陣に参戦。 家次に従軍した高崎の地侍4名の1人北爪九蔵が
 敵方に紛れ込んで城中に入り櫓に酒井家の旗を押し立てた。 これに勇気百倍の酒井軍が
 呼応・城へ突入し勝鬨を挙げたという。 家次は九蔵の軍功を称え高崎城下の土地を与えて
 町(九蔵町)名主に任命し諸役免除としている。
  慶長20年(1615)5月に再び豊臣方と衝突した大坂夏の陣・天王寺岡山の戦いで天王寺口
 の第四に列し首級を31も挙げる奮戦も豊臣方の猛攻に逢い散々に崩され敗走となった。 
 この戦で徳川軍は殆どが苦戦し戦後家次も譴責を受けるが1カ月後の閏6月に許される。

  
 田城三階櫓

(4) 田から庄内へ
  元和2年(1616)徳川家康の六男で越後高田60万石の城主松平忠輝が改易されると家次が
 没収された高田城の受取役を務め5万石加増され高田藩10万石へ転封となる。
 譜代有力者として期待されたが同4年54歳にて死去し大督寺に葬られる。
  家次の跡は長男の忠勝が襲封したが1年後に松代へ転封。 その3年後に出羽鶴岡13万
 8千石へ転封となると家次の墓も鶴岡へ移った大督寺に改葬された。

(5) 子息・子女
  忠勝:2代将軍秀忠から諱の一字を賜る。大坂の両陣に供奉し元和4年遺領を継ぐ。
     越後田10万石から信濃松代を経て最上義俊の改易に伴い羽前庄内13万8千石に
  直次:羽前左澤1万2千石に配されるが35歳で死去。
  忠重:4歳にして祖父忠次の養子となる。御家騒動を起こし絶縁される。
  了次・忠時・政時:いずれも庄内藩家臣となる。了次の子孫は代々庄内藩家老を務め
     10代了恒は奥羽越列藩庄内藩第二番隊長として新政府軍を苦しめ「鬼玄番」の
     異名をとる。
  子女:譜代中堅大名家の藩主に嫁がせている。
     松平甲斐守忠良‥下総関宿藩4万石、のち美濃大垣藩5万石
     水谷伊勢守勝正‥備中成羽藩5万石、のち備中松山藩5万石
     内藤帯刀忠興‥‥磐城泉藩2万石、のち磐城平藩7万石
     里見讃岐守忠英‥上野板鼻藩1万石、のち改易



4.菩提寺
 (1) 長龍山先求院大督寺
   家次を初め庄内藩酒井家の浄土宗の菩提寺。家次が下総国臼井へ転封となった際に
  徳川家の菩提寺三河大樹寺の十六世慶円和尚を招聘し大信寺創建。 家次の生母
  碓氷姫死去により法号大督寺殿に因み大督寺に改名した。 院号は父忠次の戒名
  「先求院殿天譽高月縁心居士」から採っている。 忠勝転封に伴い移転し元和8年
  (1622)鶴岡城三ノ丸に寺領を賜り150石与えられている。 城の南西に位置し裏鬼門
  鎮護の役割もあると思われる。 山門は切妻・桟瓦葺き・三間一戸の薬師門形式。
 
 大督寺山門

   当寺と隣接する酒井家墓域は高い漆喰壁と板張りの塀で仕切られ入口に格式ある唐門
  が配されている。 寺院建築であるが神式の注連縄が貼られ門内に鳥居が設けられている。
 
 
         酒井家墓所入口門                   門の裏に鳥居

   酒井家代々藩主の他、正室ら一族が埋葬され45基の墓碑が建立されている。
  墓石は浄土宗の寺院ながら明治新政府の推進する神道の神式墓標となっている。
  左衛門尉家の祖・忠次(本墓は京都の浄土宗大本山知恩院の塔頭先求院)、藩祖家次、
  庄内藩初代忠勝はいずれも戒名は浄土宗の"譽"の字の入った院殿居士だがこの墓所は
  「命(みこと)之墓」となっている。 6代忠真・7代忠寄・9代忠徳・
10代忠器は神式の亀趺
  (きふ)の台座に建つ墓標形式、11代忠発・13代忠篤・14代忠宝は明治になって死去
  したので法名が"命"となっている。 
2011年鶴岡旅行で入手した大督寺墓所配置図
 
                 亀趺を台座とした神式の墓が見える

  
      忠次の墓                     10代藩主忠器の墓

   
     亀趺の台座(会津でも)         江戸清光院から移された仏式の墓

   明治22年(1889)鶴岡各宗派寺院の協力で本堂を校舎に私立忠愛尋常小学校が
  創設された。 貧しい子供たちに当時革新的な弁当を給食し「学校給食発祥の地」とされる。

(2) 大珠山是字寺龍海院
  雅楽頭家菩提寺は前橋市の
龍海院である。 家康の祖父松平清康が岡崎に開基した
 曹洞宗の寺院。 清康が左手に"是"の文字を握っていた夢を見て岡崎の龍渓院住職
 模外惟俊に意味を尋ねたところ「是の字は"日下人"に分けられる。 これを握ることは天下人
 になることで清康様が果たせなくても孫の代までには実現する」と答えた。 清康は大いに
 喜び模外惟俊を開山とする是字寺を創建した。 ただ松平家は既に菩提寺として大樹寺が
 存在したため家臣の酒井雅楽助正親に管理を任せ酒井家はこれを菩提寺とした。 寺は
 酒井氏と共に川越→前橋に移り姫路藩へ転封となるも20代忠顕まで当主遺骨は当寺に
 埋葬された。 幕末期の21代忠績と22代忠惇は東京の染井霊園に墓があり龍海院に
 葬られなかったのには姫路藩が第三等朝敵にされたことが要因として考えられる。
 23代忠邦以降は東京の谷中霊園が酒井雅楽頭家の墓所となっている。





                                                       2022.11.16

                  第103回勉強会 「代官について」


1. 江戸幕府の代官
 (1) 代官とは
   代官は幕府領(御料所)と小禄の旗本領(御知行所)を治めた
  江戸幕府の勘定奉行支配下の地方行政官。 同様の職務に
  郡代があるが格は郡代の方が上で布衣、代官は無位の平士。
  役高は郡代が400俵前後であるのに対し代官は200俵前後。
   江戸時代初期の代官は在地の小豪族や地侍からも任命され
  世襲が多かったが中期以降は激減し親子二代の代官は約12%
  となった。 原因は何度か行われた代官に対する統制がある。

   五代将軍綱吉は代官に対し職務訓令七ヶ条を発している。 その第一条に"民は国之本也。
  御代官之面々常に民の辛苦を能察し飢寒等之愁これ無き様ニ申付らるべき事"とあるように
  儒学的な訓戒が示された。 その結果、綱吉在任中に51名が処分を受けている。
  年貢に絡んだ不正利得や年貢滞納・流用といった代官特有の処断理由が15件で第1位であるが
  職務怠慢や勤務不良が13名おり官僚機構の整備に起因している。

 (2) 代官所の構成
   時代により数の出入りがあるが勘定奉行の下に全国各地に40カ所前後の代官所・郡代所が
  置かれた。 支配範囲が広い場合は必要に応じて出張(でばり)陣屋も置かれた。
   代官所の構成は代官・手附・手代から成り、代官は年に数回現地陣屋に出向き部下である
  手附や手代は江戸と現地に分かれて勤務した。 手附は勘定所から出向の御家人(幕臣)で
  30俵2人扶持。手代は代官所が一般人(農民や町人)から代官所の経費或は代官の私費で採用
  した下級役人で非幕臣、手当は20両5人扶持。 苗字帯刀は許されたが手当は安く身分保障が
  ないので不正に走りやすかった。

 (3) 代官所の職務
   仕事は民政一般を担当する
地方(じかた)と治安・警察・裁判を担当する公事方(くじかた)
  分類される。
   
地方の職務内容は年貢の課税徴収や実情の把握調査、法令の伝達、宗門人別改め、河川・
  道路・橋等の土木工事、災害時及び凶作時の飢饉対策、新田開発。

   公事方は、治安・警察、裁判、風俗取締、犯罪人の逮捕取調と裁判が職務である。ただし
  刑事に関する取調や裁判についての裁量は非常に狭かった。


 (4) 代官所の支配高
   各代官所の管理する領地は一律ではなくかなりの幅があった。 多い所では上野国岩鼻、
  越後国水原、近江国大津など10万石を越えている。 一方少ない所では宇治の2万石で
  大きな開きがあり平均的でも一律でもない。 また大規模代官所は出張陣屋が設けられたが
  必ずしも支配石高に対応していない。 所属する吏員数にも対応しておらず一人当たりの
  支配高は2〜5千石まで開きがあり諸藩の数倍に及ぶ。 10万石台の大藩(津山・宇和島・
  桑名・若狭・大垣・松代・二本松・弘前など)で家臣1〜2千人のうち民政担当は100〜200人。
  これに対して代官所は20〜40人で圧倒的に少ない。
             代官所一覧


2. 代官に対するイメージ
  代官は旗本ながら下級官僚のため著名な人物は少なく一般的には代官=悪代官が通り相場と
 なっている。 悪代官が世間に定着したのは講釈師の流れを汲んだ『立川文庫』の影響が大きい。
 『立川文庫』は1911(明治44)年から1924(大正13)年にかけて196編発刊された大衆小説。
 各巻の主な主役は水戸黄門・大久保彦左衛門・真田幸村・猿飛佐助・真田十勇士・山中鹿之助・
 宮本武蔵・柳生十兵衛・塚原卜伝・佐倉宗五郎・岩見重太郎などで人気が高いのが真田十勇士と
 水戸黄門漫遊記であった。 水戸黄門が全国行脚し大名や代官の悪政を糺すスタイルが大衆に
 とって痛快で人気となり定番として悪役の代表として代官が登場しイメージが定着した。
  しかし治世不始末などで失脚した代官は1割程度で優れた代官が多く映画やテレビドラマに
 出てくるような悪代官は稀である。



3. 神になった代官
  代官の仁政に対し土民がその支配地に顕彰碑や生祠を建立し事績を讃えた例が数多くある。
        生祠(生前に神として祀った社)や顕彰碑が支配地に建立された代官

 
 (1)川崎平右衛門定孝(1694−1767) 陣屋跡に川崎大明神、新田開発地区に川崎神社あり。
   武蔵国多摩郡押立村(東京都府中市)の農家に生誕。先祖は北条氏の家臣で韮山城で戦死した
  といわれる。 荒地の開墾・竹木園芸の御用を務めながら私財を投じて貧弱農民の救済を行い
  徳農家として信望が高かった。 享保6年(1721)大岡越前守忠相の声掛りで武蔵野の新田開発に
  加わった。 監督者の二人が不正を行い川崎が任され功績を挙げる。 元文3年(1738)の大凶作
  時に開墾農民が出稼ぎで村を離れ農村は荒廃、川崎が新田地域復興の責任者に指名される。
   受任に際し用水対策復興資金(1年につき250両を6年分)の支給を幕府に願出て支援を受け、
  南武蔵野の小金井と北武蔵野の鶴ヶ島に復興事業陣屋を設置して事業にあたった。 また、
  精励報償制度の制定、肥料類の一括購入、収穫買上げによる飢饉対策貯蔵などを実施している。
  川崎が成功した要因として農民出身の事情通として農民の保護や農業の技術指導に優れ新田の
  恒久的発展を目指したことが挙げられる。
   宝暦4年(1754)美濃国本巣郡の本田陣屋3代目代官に就任し長良川治水工事に功績、宝暦12年
  (1761)石見国大森代官へ赴任し石見銀山の調査・開発、湖干拓に成果を挙げ、明和4年(1767)
  勘定吟味役(布衣)に昇進した。

 
(2)中井清太夫九敬(1732−1795) 芋大明神と呼ばれ各地に頌徳裨あり。
   安永3年(1774)に甲府上飯田陣屋、安永6年〜天明7年(1787)甲府長禅寺前陣屋に在任。
  天明6・7年相次ぐ凶作と大洪水に伴う農民救済対策で馬鈴薯の栽培を実施。 甲斐国九一色郷
  (山梨県西八代郡上九一色村)が栽培適地で多量の収穫が図れ食糧難を脱した。
  この芋は甲州芋(飛騨では信州芋)と呼ばれ中井は普及宣伝を精力的に行った。
   幕府の新規事業禁止の中、富士川沿いの水害対策に取り組み人工水路の開削を行うことで
  水害対策に実績を挙げ天明8〜寛政3年(1788〜1791)磐城国磐前郡小名浜代官となった。
   名代官と称せられる一方、甲斐の新田開発地域の検地粗略や小名浜の払米対応不都合と中傷を
  受け免職させられている。

 
(3)早川八郎左衛門正紀(1739−1808) 早神様と呼ばれ頼山陽も「思徳之碑」撰文。
   元文4年(1739)井上河内守の家臣和田市右衛門の次男として生誕。 田安家家臣早川伊兵衛の
  養子となり明和3年(1766)に本家の幕府直参早川家を相続し廩米100俵・月俸5口となる。
   明和6年に御勘定へ昇進し関東諸国の河川工事に功労があり、天明元年(1781)出羽国尾花沢
  (山形県尾花沢市)代官に就任。 大凶作・大飢饉においても人間の努力や不断の用意で克服可能と
  善政を心掛け農民の普段の生活態度にこれを求めた。 天明7年に美作国久世(岡山県久世町)代官
  に就任。 支配地は美作国2郡・備中国3郡に散在していたが代官巡廻に村役が出迎えするなど
  形式的な仕来りを廃し実質を重んじた民政を推進した。 また学校典学館を建て農民を教化し
  功労を評価し学舎「敬業館」設立し教諭書『久世条教』を農民に配布、津山川・旭川・成羽川の
  改修・修理、吹屋・吉岡銅坑の復興を実施。
   早川の転任に際し1798年と1801年に美作・備中五郡代表が留任嘆願書を江戸表へ差出すほど
  慕われた。 享和元年(1801)関東地廻役代官となり遷善館を久喜陣屋に設立し自らも学業しながら
  民衆の教化を行う。 荒川・多摩川・利根川など河川を改修し氾濫から農村を救った。

 
(4)寺西重次郎封元(1749−1827) 寺西神社や頌徳裨・記念碑が多数建てられる。
   広島藩下級藩士の子として生誕。 父が浪人となり幼くして出家し備後国竜興寺に入る。
  15歳で還俗し父の没後に徒士、寛政4年(1790)徒士組頭となり磐城国塙(福島県東白川郡塙町)代官
  に就任。 文化11年(1814)岩代国桑折(福島県伊達郡桑折町)代官となり管轄領は塙6万・小名浜3万・
  桑折5万に及んだ。 塙代官の平均在任期間は3年半だが勘定組頭に昇進して一時江戸詰後に桑折に
  戻り通算36年間に亘り塙代官を務めた。
   天明の大飢饉(餓死者10万2千人,疫死3万人,一家死滅廃屋3万5千軒)を受け領民に対し尽力。
  寺西八か条(@天はおそろし A地は大切 B父母は大事 C子は不憫 D夫婦むつまじく E兄弟仲良く
  F職分を出精 G諸人あいきょう と分かり易い)を領民に示す。 その他『子孫繁昌手引草』
  (子間引や堕胎の防止)を領内に配布し懐胎届や出生届に子養育料を貧困の度合に応じ1両〜2両扶助
  農家の休日設定、他国からの移住推進、絶家再興に無利子10ヶ年の貸付、領内久慈川・川上川の橋
  修理・堰の修築・護岸工事、救農土木事業など多くの施策を実施。 半田銀山を開発し領内各地で
  心学講和会を開催した。



4. 国定忠治の実伝筆者 羽倉外記用九(もろちか)
  寛政2年(1790)大坂で羽倉権九郎秘救(やすひら)の子として生誕。父の日田代官所転任で日田に移り
 父と共に日田の碩学広瀬淡窓に教えを受ける。
  文化5年(1808)父病死により代官職を継ぎ同7年越後国脇野町代官所(新潟県三島郡三島町大字脇野町)
 へ転任。 同12年下野国東郷代官所(栃木県真岡市東郷)、文政4年(1821)遠江国中泉代官所(静岡県
 磐田市中泉)、同6年駿河国駿府紺屋町代官所(静岡市紺屋町)・信濃国飯島代官所(長野県上伊那郡飯島挺)
 を歴任。 天保2年(1831)関東幕府直轄領支配に栄転し禄高230俵・布衣となり殿席は躑躅間に。
  支配地は下総・上野・下野・伊豆国、支配高は85,763石余、部下は手附・手代17名。同13年納戸頭・
 勘定吟味役となる。 儒学者古賀精里に学び日田時代に教えを受けた儒学者教育者広瀬淡窓を世に出す。
 
川路聖謨(勘定奉行・外国奉行)・江川英龍(韮川代官・洋学実学先駆者)と幕末三人兄弟と呼ばれ
 幕府の改革に参画したブレーンでもあった。 特筆すべきは
国定忠治の実伝『赤城録』を著している。
  忠治死後に虚像が氾濫する中、本書は学者幕吏が考証主義で極悪人について冷徹にして簡素な叙述で
 忠治の実像に迫ることが出来る。



5. 岩鼻代官所
(1) 岩鼻陣屋の設置
  寛政5年(1793)総工費(含井戸2本)340両で創設、代代官は吉川栄左衛門と近藤和四郎。 廃止までに
 9名が就任。 同時期に北関東の下野国吹上(栃木市)・藤岡(藤岡町)・真岡(真岡市)・常陸国上郷
 (茨城県豊郷町)などに陣屋設置。 その背景として支配体制を揺るがす不斗出者の増加、出生の減少、
 間引きの増大に伴う農村人口の減少、荒地手余地の増大などの諸問題が噴出。 加えて天明の浅間焼け
 による凶作で農村が極度に疲弊し百姓一揆が頻発するようになったことが挙げられ寛政の改革として
 本百姓体制再建を目指した農村復興、財政の立て直し、綱紀粛正のための出先機関の設置であった。

(2) 建設費負担は地元
  安価に仕上げるため陣屋建設費用を支配する村割り高で負担、建築資材は管内で調達、請負職人も
 入札、現場監督も村代表者によった。

(3) 岩鼻村に陣屋を建設した目的
  岩鼻村は中山道・日光例幣使道に近く倉賀野には河岸がある交通の要所に位置し支配する御料所の
 ほぼ中央に位置。 従来の代官所と異なり代官が常駐し村方の指導や年貢納入事務を直接取り扱うため
 の陣屋であった。 当時上州・野州・常州南部・武州北部に増加していた無宿人や博徒横行に対する
 取締り強化を目的とした。

(4) 統治の主要眼目
  施策として小児養育手当支給(農村人口減少対策)、博奕禁止、若者に対し農民復帰を教諭、公序と
 して都市化した農村風俗の是正を進め手余地や荒地の復興と新田開発を推進した。



6. 諸藩の代官
(1) 諸藩における代官の地位
  諸藩に代官が置かれた背景は家臣の地方知行が蔵米化し代官がまとめて知行地を徴税管理する武士の
 サラリーマン化による。 小藩では少禄の徒士クラス、中クラスの藩では上士が任じられた。
  広島藩など大藩では数百石取もいた。 また遠方の飛地などは在地の富農に代官を任命した例もある。

(2) 高崎藩の代官
  役職名は並代官・平代官で俸禄は5〜6両二人扶持。 飛地の代官は郡奉行の下で手代や手伝を部下に
 徴税管理を行った。 二人の名代官伝説が伝わる。
 ア.一ノ木戸代官 馬場新五右衛門(禄50石)
   馬場の帰藩に際し領民が留任を求めた「お慕い願」がある。 留任を願いやむを得なければ息子大輔を
  代官にしてほしいという趣旨。 背景として一ノ木戸領民が大河内家初代高崎藩主松平輝貞に対し好感を
  抱いていた。 そのため藩主の大坂城代就任で一ノ木戸が幕領となることを恐れ替地反対運動「御慕願」
  を起したことに倣った。
 イ.銚子飯沼代官 
庄川杢左衛門(禄50石)
   現地に残る頌徳裨と温情代官伝説及び民謡「じょうかんよう節」がある。 天明の大飢饉の折に倉米を
  拠出して領民を飢餓から救った。 没後33年の文政6年に村人が頌徳裨を建立し領民難渋を見かね独断で
  救済し切腹したと伝説になった。 坤為地でも「郷土の恩人」として小学校の副読本に掲載されている。





                                                       2022.9.15

                  第102回勉強会 「源頼政と高崎」


1. 源頼政の概要
  長治元年(1104)三河守源順綱の孫・兵庫頭源仲政の長男に生まれる。 高祖父の源頼光は畿内に
 地盤を持つ摂津源氏の祖につき頼光五世と呼ばれる。 白河院判官代として白河法皇に仕え蔵人,
 兵庫頭,右京大夫など歴任した大内守護*の武人であるが頼政の人生前半については歴史に登場しない
 ので深く知られてはいない。

    *大内守護…禁裏を守護する番役で源頼光が就任して以来源氏が世襲した。
  保元の乱(1156年)と平治の乱(1159年)に登場し勝ち組に属したため平氏の天下においても源氏の
 長老として存在し清和源氏として初の従三位に昇り公卿となる。 しかし、平家の専横に対し後白河天皇
 の第三皇子以仁王と結んで治承4年(1180)挙兵したが敗れ5月26日宇治の平等院にて自害。
  源頼政の決起挙兵は以仁王の令旨により挙兵した源頼朝の動機であり、結果として武家政治開創者
 と言える。 武人以上に歌人として一流で特に武人歌人の代表で『新古今和歌集』など勅撰集に59首も
 入首。 自選歌集として『源三位頼政卿集』があり、『平家物語』にも次の和歌が詠まれたとある。
  昇殿を許された際に「
人知れぬ大内山の山守は 木隠れてのみ月を見るかな」と。
  また、三位を望み「
昇るべきたよりなき身は木のもとに しひ(四位)を拾ひて世をわたるかな」とある。


2. 清和源氏の嫡流・源頼光
 (1) 摂津源氏
   清和源氏は清和天皇の子孫が臣籍に入った賜姓皇族で皇子4人と皇孫6人が賜り15流もある。
  主な流は義家流(十八松平・新田・足利)、為義流(立花・大友)、義時流(石川)、義隆流(森)、
  義光流(佐竹・武田諸流・小笠原)と頼光流がある。
  

   第六皇子経基の子満仲の嫡子頼光を祖とする頼光流は摂津国多田地方を根拠としたため後世に
  なって摂津源氏と呼ばれる。 頼光の弟筋にあたる頼信の流は河内源氏と呼ばれる。
  

 (2) 摂津源氏の台頭
   関東地方の桓武平氏や河内源氏の一部や甲斐源氏は関東地方を地盤として強化拡大したが
  近畿付近の勢力は当時の支配勢力である藤原氏らと結び付きを強化し、それを足場として社会的な
  地位の向上を図った。 満仲や子の頼光・頼信は公家貴族と本格的に接触し公家の先兵的役割となる。
   貴族による政治権力は宮廷内でのことで放火や殺傷事件が日常化していた都では公家の外出は
  不安であった。 また神仏信仰を進めたため社寺と神官・僧侶を保護しその勢力は僧兵・神人を
  抱え政治的社会的に大勢力となっていた。 武備を持たない公卿は親衛軍の必要性からそれに応え
  武士が中央へ進出し始めた。 頼光は何か所も地方の受領を歴任(992年に備前守、1001年に美濃守
  1010年に但馬守,1018年に伊予守,1020年に摂津守)し、受領を通しての蓄えを藤原道長らに献じ
  結び付きを深めた。



3. 歴史の舞台に登場
 頼政は人生の前半に関する記録が少ない中、保元の乱・平治の乱を契機に歴史の舞台へ登場する。
 (1) 乱の背景
  ア. 天皇家の確執
   72代白河天皇が摂関政治から政治の実権を取り戻すために上皇となって院庁をつくる。
   独自の軍事力として院近臣"北面の武士"を有し院政を開始。 院政を機能させるには天皇は
   上皇の息子か孫であることが必要で崇徳天皇が第一皇子、近衛天皇が第九皇子でいずれも
   鳥羽上皇の子で院政を行う条件は整っていたが鳥羽上皇は崇徳天皇が妻得賢門院と白河法皇の
   不倫の子と知り退位させると愛妾美福門院との間に生まれた近衛天皇を即位させる。 しかし
   近衛天皇が16歳で死去し後白河天皇を即位させる。
     

  イ.摂関家藤原氏の確執
    藤原忠実(1078生)は政治的未熟さから白河法皇の不興を買い事実上の関白罷免を受け謹慎、
   長男忠通が関白に任じられ忠実が謹慎中に次男頼長が誕生する。しかし、白河法皇が死去し
   鳥羽上皇の院政が開始すると政界に復帰し忠通が名ばかりの関白になってしまう。 加えて
   忠通に男子がいないため頼長を養子とし忠実と忠通の親子関係が悪化していった。
    藤原忠通(1097生)は実子が誕生すると摂関家の地位を実子継承させるため頼長の養子縁組を
   解消し頼長養女が近衛天皇の女御になっていたが"摂関以外の者は立后できない"と鳥羽法皇に
   奏上し自分の養女を入内させ忠実・頼道との間に確執が生じていた。
    藤原頼長(1120生)は執政の座につき政治改革を進めたが周囲と衝突することが頻繁となり
   近衛天皇は頼長を嫌うようになる。 そして近衛天皇を呪詛した疑いを掛けられ鳥羽法皇の
   信任も失い失脚。
  ウ.源頼政の立場
   鳥羽法皇の頼政に対する信頼は厚く法王は重篤に陥った際に愛妾の美福門院に"頼りにすべき
   武士は頼政"と伝えられたと言われる。 鳥羽法皇の信頼が厚く大内守護の頼政は美福門院を
   支持する側についた。

 (2)
保元の乱(1156年)→ 頼政勝ち組に
  対立の構図 *関係は左側からみて
   

  天皇方が上皇方に比べ多数の有力武将を先んじて召致したことが天皇方の勝因。
  清盛300騎・義朝200騎・義康100騎の計600騎で頼政は予備隊の立場。特記すべき戦功は無し。

 (3) 平治の乱(1160年)→ 頼政の勝利
   保元の乱に勝利した後白河天皇が権力を掌握し側近の信西(藤原通憲)が勢力伸長する。 信西は
  国政改革を推進する一方で清盛一派を厚遇(清盛播磨守・頼盛安芸守・敦盛淡路守・常盛常陸介)し
  清盛は太宰大弐に就任して日宋貿易に深く関与し経済的に繁栄する。
   美福門院は後白河天皇が自分の子息が天皇に即位するまでの中継ぎと言われたと主張し譲位を
  求めて二条天皇を即位させた。 この結果、後白河院政派と二条天皇親政派が生まれ武力に劣る
  後白河法皇は武蔵守藤原信頼を抜擢し武蔵国繋がりから源義朝を取り込み信頼派が出来る。
   政治の実権を握った信西一門の政治主導に反発した後白河院政派と二条親政派が信西排除で一致
  したが平清盛が中立を保ち動けなかった。 ところが清盛が熊野参詣に出掛け、京都に軍事空白が
  出来ると義朝らが信西政権へクーデターを起こした。 その後実権を握った信頼派に対し二条天皇
  親政派が直ぐに反目。 中立であった清盛が反信頼派の二条天皇親政派に加担したため衝突となる。
   

  頼政はこの時も美福門院に近い立場から親政派に付き、源光保も途中から親政派へ変わり信頼派は
  あっけなく敗れた。



4. 武家政権開創への挙兵(1180年)→ 頼政の敗北・自刃
  保元・平治の乱を通して政治の実権を握った平氏に対し置き去りにされた後白河院政との間に軋みが
 出始める。 鹿ケ谷陰謀事件を契機に清盛は兵を率いクーデター断行。 京に乱入し院政を停止させ
 後白河法王を幽閉する。 高倉天皇を譲位させ高倉帝と清盛の娘徳子との間に生まれた安徳天皇を即位
 させ平氏の天下となる。 後白河法皇の第三皇子以仁王は自分を飛び越え幼児の天皇を即位させ大義を
 無視し宮廷を我が物にする清盛の征討を決意し平氏の専制横暴を阻止するため頼政と組んで挙兵する。
 (頼政の挙兵動機の説)
  ・息子仲綱の愛馬を清盛三男宗盛が所望し譲ったところ、宗盛が馬を仲綱と名付け"仲綱、仲綱"と
   呼びながらむち打ち酷く侮辱されたことを恨んだ。
  ・鳥羽院直系の近衛天皇・二条天皇に仕えた大内守護として恣意的に行われた高倉天皇・安徳天皇の
   即位に反発して。
  ・平氏に対し反発する寺社の一つであった園城寺(宮廷・公卿の信仰者多く特に源氏が信仰)に対する
   攻撃命令を受け出家していた身を理由に反抗し平氏に捕らわれることを恐れ以仁王へ組した。

  以仁王と頼政は諸国の源氏と大寺社に平氏打倒の令旨を発し源行家が使者となって各地へ届ける。
 挙兵計画は露見したが清盛は暫くの間頼政の関与を信じなかったという。 平氏懐柔工作で延暦寺などが
 中立の立場を取り奈良に向かっていた以仁王が疲労から落馬し平等院で休息をとっている所、平家軍が
 押寄せ戦闘となる。 頼政は5月26日の宇治川合戦で敗北し平等院鳳凰堂裏で自刃、享年77。
  頼政の挙兵は失敗するが以仁王令旨の効果は大きく平氏の滅亡へ繋がる。その結果、源頼朝が鎌倉に
 武家による政権を樹立したことから武家政権の創設となる挙兵であった。



5. 武勇と歌人としての逸話
 武人としての頼政と歌人としての頼政について『平家物語』と『源平盛衰記』に記載されている。
 (1) 『平家物語』の鵺退治

 
           頼政卿鵺退治の絵馬                        高松山長明寺
   近衛天皇が毎晩何かに怯えるようになり困った側近らがその昔帝の病気平癒祈願のため源氏棟梁
  源義家が御所に参内し"陸奥守源義家"と叫び弓の弦を三度鳴らすと病魔が退散し帝の容態は見る間に
  回復した故事に倣い同じ源氏一門で武勇の誉れ高い頼政が選ばれ御所の庭を警護した。 ある夜鵺
  (頭が猿,胴が狸,手足が虎尾が蛇,鳴き声がトラツグミ似)が現れた。 頼政は弓で射止め郎党の猪早太が
  太刀で仕留めた。 帝は快癒された喜びから「獅子王」という太刀を下賜された。
  その太刀「太刀無名(号獅子王)・黒漆太刀拵」が現存し国指定重要文化財になっている。
   下賜する際に左大臣頼長が鳴いて渡るほととぎすに見て「
ほととぎす名をも雲居にあぐるかな」と突然詠み
  かけると頼政は「
弓張月のいるにまかせて」とよどみなく下の句を詠み文武に優れた頼政に皆感動したという。

 (2) 『源平盛衰記』の菖蒲(あやめ)御前
   菖蒲御前は配流の身で伊豆長岡古奈の地に在った殿上人とその側室の間に生まれた。
  頼政が鳥羽院の女房になっていた菖蒲御前に心を寄せ3年間に亘ってその慕情を和歌に託して贈るが
  返事がなかった。 鳥羽院の知る所となり鳥羽院が菖蒲御前に聞いても事情が判然とせず菖蒲御前と
  年恰好も容姿も良く似た美女二人に同じ衣装を着せ待機させ頼政を呼び"汝、菖蒲に懸想するよし、
  誠の恋ならば三人中誰が彼女か見分けよ"と命じた。 院の寵愛する女を申し出る事はできないし見分ける
  自信がなく間違えれば当座の恥どころか末代まで笑いものになってしまう。 困り果て躊躇していると院が
  再び尋ねられたので「
五月雨の 沼の石垣水越えて いづれが菖蒲 引きそわつらふ」と奉答した。
   院は感心して女の手を引きたて"これぞ菖蒲よ 只今汝に賜うぞ"と仰せられた。



6. 側室 菖蒲(あやめ)御前
 伊豆長岡の古奈の生まれで鳥羽院女房の後に頼政の側室となる。 頼政が平等院で自刃すると落ち延び
 その地で頼政と子供の供養を続けたと言われ落ち延び先に二説がある。
 ・安芸国賀茂郡説
   郎党猪野隼太(勝谷右京)に伴われて落ち頼政と早世の息子の菩提を弔う観現寺を建立。 福成寺
  真浄上人に帰依して出家した。 同地に菖蒲御前を祀る小倉神社(東広島市八本松町原)が元久元年
  (1204)に創祀されている。
 ・伊豆国古奈説
   郷里に戻り弘法大師が高さ約3mの自然石に刻んだという弥勒菩薩の下に草庵を結び菩提を弔う。
  現在は西琳寺(本尊弥勒菩薩は菖蒲御前の念持仏)となり菖蒲御前供養塔がある。 古奈から数里
  離れた伊豆国西浦河内の禅長寺にて剃髪し西妙と号して菩提を弔い89歳で一生を終わる。

   禅長寺には高崎藩主松平輝貞が高崎城南に頼政神社を創建後、禅長寺に頼政堂を建て毎年百石
  寄進している。 (2022年10月伊豆への研修旅行で訪れた様子は
こちら)
 
         九華山禅長寺頼政堂              菖蒲御前座像                源頼政卿座像

7. 清和源氏頼光流の子孫
  源頼光を祖とする主な大名家として太田氏が挙げられる。 中世に江戸城を築いたとされる太田道灌の
 流の太田氏は近世になり三代将軍家光の老中として頭角を現し駿河国掛川5万石の城主となっている。
  次に三河国吉田藩8万石,高崎藩8.2万,上総国大多喜藩2万石の三大名家を輩出した大河内氏が
 知られる。 他に豊後国豊岡藩7万石の中川氏、備前国岡山藩31.5万石と因幡国鳥取藩32.5万石の
 城主池田氏。 最後に上野国沼田藩3.5万石城主となった土岐氏、安芸国広島藩42万石の浅野氏、
 但馬国出石藩5.8万石城主の仙石氏らがいる。 清和源氏の中でも義家流には松平氏がおり、支流の
 新田・足利を流れとする大名も多く著名である。



8. 源頼政を祖とする大河内氏
  頼光の孫順綱が三河守にあったことからか以仁王の乱で祖父頼政と父兼綱が死去し孫の顕綱が三河国
 額田郡大河内郷(愛知県岡崎市大平町字大河内)に落ち土着し「大河内」を称したという。
  後裔の大河内金兵衛秀綱が徳川家康に仕え寛政重修諸家譜で清和源氏頼光流の頼政を祖とした。
 秀綱の次男正綱が新田源氏の松平右衛門大夫親綱の養子となり以後江戸時代は大名の大河内家は
 松平を名乗った。 正綱の養子となった甥の信綱が独立し伊豆守家を起し孫の輝貞が伯父信興の養子と
 なり壬生藩を経て高崎藩主になり高崎大河内家は官途名右京大夫から右京大夫家と呼ばれる。



9. 頼政墓所と祭神の神社
 (1) 墓のある寺院
  宇治川の戦いで敗れ自害した京都府宇治市蓮花の平等院鳳凰堂裏の"扇の芝"に宝篋印塔がある。
  その他に兵庫県西脇市高松町の松山長明寺阿弥陀堂の横に、ここは頼政卿の所領であった。  
 (2) 祭神とする神社
  頼政卿を遠祖とする末裔が祭神として祀った神社が各地にある。 まず下総国古河城主となった松平
  (大河内)信輝が古河城内(茨城県古河市錦町)に建立した頼政神社がある。 これに倣って信輝の弟
  輝貞が高崎城主に栄進した際に建立したのが高崎の頼政神社。
   頼政の家臣である下河辺藤三郎が埋葬したと伝わる龍ヶ崎市横町の祠や明治45年に旧吉田藩士が
  吉田城址に建立した豊城神社( 豊橋市東田町北蓮田)がある。
   下総国に祭神頼政の神社が在る背景は頼政の父の仲政が下総守に任じられ赴任した時に同行した
  ことや頼政郎党の渡辺競の子孫が向古河村(渡良瀬川対岸の埼玉県北川辺町)に住んでいたこと、
  下河辺藤三郎が下河辺荘(古河市・五霞町)の出身、猪早太の曽孫徳星丸が立崎(古河市横山町)に
  徳星寺を開いたと伝わる因縁があり頼政の首を持って故郷へ落ち葬った伝説が郎党たちの故郷に伝わる。
   頼政伝説のあった下総国では頼政を崇めることで地域に受け入れられたのであろう。 そのため頼政
  を遠祖とする松平(大河内)信輝も古河城主になりあやかったと思われる。



10. 高崎と頼政卿
  頼政卿を遠祖とする松平輝貞が高崎城主となり頼政神社を創建したことが高崎とのつながりである。
 頼政卿にまつわる下総国の古河城主となった松平伊豆守信輝であるが三河国吉田へ転封となり古河の
 頼政神社と離れてしまい古河城内の頼政神社は城内に止まり領民との結びつきが弱くなった。 ところが
 高崎城主の右京大夫家は幕末まで高崎城主を続け頼政神社の例祭も続け頼政神社例大祭に高崎
 城下の町民を参加させたことにより高崎住民に浸透した。
  明治になっても江戸時代に行われた頼政神社例大祭が群馬第一の盛大な祭りとして続き、山車行列が
 変形しながらも高崎町民に受け継がれたことが高崎と頼政卿を結び付けている。





                                                         2022.3.17

             第99回勉強会 「西上州の雄 長野氏の興亡」

                                                      補足資料
1.上野長野氏
 (1) 長野姓の由来
   浜川地方は元々"長野"と呼ばれた地域の一部である。「和妙類聚抄」七巻に群馬郡の郷名が記されて
  おり、現在の浜川・新波・楽間など高崎市の北西部と箕郷町の南部一帯が長野郷に入っている。 また
  古代東山道の上野国内ルートは上信国境入山峠(軽井沢バイパス)から坂本(安中市松井田)、野尻(
  安中市安中)を経由して国府の群馬郡を通り下野国へ向かっていた。 長野郷はこの街道に沿った地域で
  土着した豪族がその土地の名を名字とするのは一般的であり長野氏も国府に近い由緒ある地名"長野"を
  名乗ったのであろう。

 (2) 出自と系譜
   長野氏の系図では
在原業平(825-880)を遠祖としている。 業平は第51代平城天皇(774-824)の
  第一皇子阿保親王(792-842)の五男・従四位下右近衛中将兼美濃権守。 著名な歌人で三十六歌仙の
  一人である。 業平が上野国太守に叙任され関東に下ったとあるが太守に任じられた信頼すべき記録はなく
  そもそも親王の身分の人が任国へ下ることはなく伝説の域である。 長野氏系図は数多くあるがども近世初期に
  各々の家の伝承を基に記録されたもので浜川系図(浜川町長野弾正家蔵)・和田山系図(箕郷町和田山
  長野正夫家蔵)・長年寺系図(下室田町長年寺蔵)・橋林寺記録(前橋市橋林寺)・長昌寺記録(前橋市
  長昌寺記録)・秋間系図(安中市秋間石井泰太郎家蔵)が比較的信頼度が高いものとして挙げられる。
   しかし、最も活躍した業政も業正の表記があり父を憲業あるいは信業、または方業の養子などがあり
  憲業の先代業尚も尚業の表記がある。 また、遠祖在原業平にちなみ"業"の文字を通字としているが敬意を
  表し名頭に"業"の字を付けるのが正当と考えるが下につけている人もあり疑問である。
 
 長年寺の長野氏七代の墓


2.長野氏の経済基盤
 (1) 浜川地域の環濠屋敷
   浜川を中心とした地方は相馬ヶ原扇状地の先端地域で榛名の伏流水が湧出し、箕郷町から榛東村の
  溜池地帯を上位伏流水地帯とすると浜川〜井出・菅谷方面までが中位伏流水湧出地域と言え、早くから
  水田耕作が行われていた事を証明する古代水田跡が井野川や早瀬川流域に多く発見されている。 
   1108年の浅間山噴火はこの地方の耕地を一時全滅状態に陥れた。 伏流水を貯水し田植え時期に
  引水するための溜池が一帯に多く分布しているがこれらは近世初頭からと思われ、中世に溜池が殆ど造られ
  なかった。 それは環濠屋敷による貯水が大きな役割を果たしていた事による。 砦や舘跡の濠は相当の
  貯水力があり防衛面だけで無く灌漑用水も兼ねていた。 北新波砦跡なども館の中央を北から南に走る
  古い溝跡が発見されており、舘築造以前の開発に用いられた溝が舘の堀の貯水により不用になった事から
  と考えられる。 環濠屋敷が多いのはそれだけ水田が開かれ長野氏の経済基盤となっていた。

 (2) 河川からの灌漑
   伏流水の湧出が少なくなると貯水した水田開発も限られ、水不足を解消するため水量の多い川から取水
  する用水開鑿の必要があった。 長野氏勢力下の浜川南部〜小塙地方の灌漑は箕郷町西明屋で白川
  からの取水による。 俗に「十二堰」と呼ばれ上芝・下芝・行力・楽間・北新波・南新波・上小塙・下小塙・
  浜川・上小鳥・保渡田・井出の12か村が関係していた。 高崎の灌漑の一つである長野堰は長野康業が
  開墾したと言われるが康業は乙業の七代前・鎌倉時代の人物で烏川から取水する大工事を単独で行う力は
  なかったであろう。 また、暴れ川の白川を横断しなければならず樋で横切るような水利技術はまだ考え
  られないので伝承の域を出ない。 いずれにしても長野氏を中心とする勢力は古くは湧水を環濠に張り
  十二堰などを造り長野郷の台地を開発した経済力が長野氏を支えた。
 
 北新波砦跡


3.長野氏の勃興
 (1) 上州一揆として発展
   南北朝時代の上野国は上杉氏が守護職、長尾氏が守護代として支配していた。 長尾氏は総社長尾と
  白井長尾とに分かれ15世紀前半までは総社長尾氏が全盛期であったがその後は両者の対立もあった。
   上杉氏の被官となっていた上野の国人層は一揆を結び各々自衛の体制を強化していった。"一揆"とは
  中世の自営武士団が揆を一にする集団の表現。 一揆には二種類あり"平一揆"や"白旗(源氏の白旗に
  由来)一揆"などの血縁集団が発展してきた族縁的結合と"上州一揆"や"武州一揆"の一定の地方を単位と
  して発展した地縁的結合で、長野氏は15世紀以降に頭角を現してきた地縁集団一揆に分類できる。
   また、支配体制から見ると鎌倉公方あるいは古河公方を中心とした勢力は主に血縁的統合の一揆、
  関東管領家上杉氏の傘下にあるものは地縁的結合の一揆が多かった。 上杉氏対足利公方の合戦である
  永享の乱(結城合戦)で関東管領山内上杉憲実の跡を受けた弟の上杉清方に味方した者は上州一揆と
  上杉氏被官の人々でその大部分は西毛地方の者であり東毛地方の武士の名は見えない。 長野氏も
  上州一揆の一員として名を連ねている。

 (2) 関東の統治者
   長野氏が台頭した頃の関東支配体制は足利氏の古河公方と関東管領の上杉氏が統治。 足利公方と
  上杉管領は以下のような関係にあった。
   ア.鎌倉公方
     室町幕府将軍が関東10か国(相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・下野・上野・伊豆・甲斐)を
    将軍の代理として統治するために設置した鎌倉府の長官。"公方"は将軍の呼び方で鎌倉将軍のこと。
     その職は足利尊氏の四男基氏の子孫が世襲した。 当初の正式な役職名は"関東管領"であったが
    やがて執事家である上杉氏が鎌倉公方の補佐役として"関東管領"と呼ばれるようになった。

   イ.古河公方
     鎌倉が次第に幕府から独立行動を取り始め1439年に第4代鎌倉公方足利持氏と6代将軍足利義教
    が対立し持氏が討たれ鎌倉府が滅亡した(永享の乱)。 すると持氏の子成氏を第5代鎌倉公方として
    本拠を鎌倉から古河に移したので古河公方と呼ばれ、その後約130年間引継がれる。

   ウ.関東管領上杉氏
    上杉頼重の女子・清子が足利貞氏の側室となり尊氏をもうけると上杉家は足利将軍家と姻戚関係となる。
   この姻戚関係を背景として上杉氏は関東で勢力を拡大し、4代当主の上杉憲顕が初代関東管領に就く。
    15代上杉憲政が北条氏に敗北し長尾景虎(上杉謙信)に上杉家の家督を譲るまで続いた。 鎌倉山内に
   居館を置いた事から山内上杉家という。 一方、重顕の養孫顕定が関東に下向し鎌倉公方に仕えたが
   事実上の宗家山内上杉家が関東管領を殆ど独占しこの家は大きな勢力を持てなかった。 しかし、関東の
   領有を巡り山内家との対立が顕在化すると古河公方足利成氏に接近し勢力を拡大した。 鎌倉の扇谷に
   館を置いたので扇谷上杉と称される。 北条氏に敗北し執事太田道灌の死とともに没落していった。
   


 (3) 山内上杉傘下上州一揆の中心的存在に
   長野氏は、山内上杉氏の傘下として15世紀末には上杉氏被官中最も有力な武士団に位置付けられていく。
  上野国は守護上杉氏の領国であり長野氏は上野国の中央部・長野郷浜川を中心に勢力を拡大してきた。
   山内上杉氏の上杉憲定・憲基・憲実らが鎌倉の明月院や鎌倉八幡宮に土地を寄進しているがそれらの
  土地は長野氏勢力下の浜川西部地域で上杉氏と深く関わっていたものと思われる。
   1477年関東管領上杉氏の有力家臣である長尾景春の乱に上野国守護代として統治していた景春の父
  長尾景信との関係から長野氏は長尾景春の味方をしている。 この戦いで上州一揆の旗本長野左衛門尉
  為兼と長野孫六郎房兼が討死したと記録され上州一揆の中心的存在になっている。 ただ、爲兼と房兼に
  該当する人物は長野氏系図にみられない。



4.長野氏の勢力拡大
 (1) 拠点鷹留城の構築
   1501年に長野業尚は白井(渋川市)の双林寺(曹洞宗、守護代長尾景仲が開基)の三世曇英を招いて
  長年寺を創建しており1490年代に鷹留城を築城したと考えられる。 長野氏は長尾景春の乱など平地の
  浜川地方に拠点を置くことは防衛上の不安が有り別の戦略からも要害の地に鷹留城を築城したと思われる。
   鷹留城は標高1300mに建つ山城で南北400m、東西300m、東側の谷底から本丸までは比高70m。 
  本丸を中心とした北部と南端の一郭を別の単位とする一城別郭。 両部分間の大堀切りは長さ170mあり
  両部分に付けられた腰曲輪は完全に分断されている。 この頃の業尚は管領上杉顕定の執事であったと
  伝えられ鷹留城のような奥地に引っ込むことは無かったと考えられる。 むしろこの城は業尚及び憲業が
  吾妻方面進出の拠点であり侵入する敵を喰い止める位置に築かれた。 後に永禄年間に武田軍が西上州に
  侵攻時は阻止の拠点になった。 戦略的に長野氏にとって極めて重要な城であった。    
  
 鷹留城

 (2) 要所大戸を攻撃
   長野憲業は業尚に代わって長野一族の統領となり上杉顕定没後に関東管領となった上杉憲房から"憲"の
  字を下賜されるほど信頼され山内上杉氏の重臣として家宰格の立場にあった。 憲業の代になると吾妻
  方面進出が本格化する。 1513年頃、長野氏勢力が倉渕村三ノ倉には及び大戸の要害攻略に動く。
   大戸は箕輪方面から東吾妻や西吾妻へ進むためには押さえておかねばならない交通・軍略上の要地で
  手子丸城と呼ばれた岩山に築かれた城が阻んでいた。 この城は西は温川、南は手子丸川が断崖をつくり
  急峻な山に郭が階段状に築かれた天然の要塞。 大戸氏の抵抗は強く南からの攻撃は権田辺りで阻まれて
  いた。 憲業は榛名山を越え大戸の東方へ進出を図ったが1530年に吾妻町川戸の戦いで傷を受けその年の
  11月に死去し攻略はならなかった。

 (3) 吾妻から信濃を見据え
   東吾妻地方は岩櫃城主大野氏の家臣斎藤憲次が大野氏を滅ぼして東吾妻国人層を固めていた。 憲次も
  その子憲広も上杉憲政から"憲"を下賜された上杉家被官であることから長野氏は斎藤氏に接近していった
  と考えられる。 西吾妻地方は東信濃〜吾妻方面に勢力のあった滋野氏を祖とする。 羽尾氏と鎌原氏が
  対立していた。 1541年甲斐の武田信虎、北信濃の村上義清、中信濃の諏訪頼重が一斉に東信濃へ攻撃を
  かけて来た。 その結果祢津氏や望月氏など滋野一族は降伏し真田氏は幸隆の妻が羽尾の娘という関係も
  あり羽尾氏を頼る。1541年以降の東信濃国人衆の動揺は吾妻地方へも波及し吾妻地方の国人衆も長野氏に
  頼らざるを得なくなる。 憲業の跡を継いだ業政は吾妻進出をあきらめず吾妻地方国人層の動揺に乗じ、
  大戸城主大戸左近兵衛や羽尾城主に娘を嫁がせ親子関係で懐柔策をとり戦わずして吾妻地方の大部分を
  勢力下に収めることに成功した。

 (4) 中毛進出の拠点厩橋城
   勢多郡宮城村三夜沢の赤城神社の記録などから長野氏勢力は利根川を越えて赤城南麓へ及んだことが
  窺え、剣聖と呼ばれる上泉伊勢守信綱は前橋市東方の上泉城主であるが箕輪落城まで長野氏と行動を
  共にしている事が証明している。 厩橋は東山道の要路で軍事上からも重要な位置にあった。 かつての利根川は
  現在の広瀬川や桃木川の流域を流れていたが中世後期は現在の流域に近い流路に変わっていた。
   厩橋の地は新旧利根川に挟まれた地形になっており東上州進出には利根川を越えるための居城が必要であり
  台頭してきた長野氏が厩橋城を築いた。 この城を中心に付近の地侍を味方につけ厩橋衆という武力集団を形成。
  隣接する武力集団大胡衆も味方に付け管領上杉氏の家臣団として総社長尾氏と和解が成立したようである。

 (5) 関東管領上杉憲政の没落
   長野業政の時代になると管領上杉憲政麾下で長尾氏を凌ぐ地位になり西上州の在地武士の国人衆や一揆
  の大部分を掌握していた。 管領の上杉憲政は武将としての人格に欠けていたので1537年に北条氏康に
  河越城を攻略されると上野国平井城に兵を引き平井城が関東管領府となり長野業政らは平井城に出仕した。
   1545年上杉憲政は古河公方足利晴氏を擁し在地武士を集めて河越城奪還軍8万の兵で北条綱成の守る
  河越城を包囲した。 1546年北条氏康が8千の兵を率いて河越城救援に向かい夜襲をかけ上杉軍を敗走
  させた。 長野業政も一族を挙げて上杉軍に加わったが長子吉業が討死、多くの上野武士が戦死している。
   平井城に退いた憲政は河越での大敗で北条に対し恐れをなし北条を討つ気概もなく上野・武蔵在地武士の
  信頼を著しく低下させた。
   この頃武田信玄は村上義清と戦っており各地の諸将に甲州兵を分けて手当てしていたため甲州勢は手薄の
  所が多かった。 憲政の腹心らはこの機に乗じて甲州へ攻め入り武田を滅亡させるべしと進言した。
   多くの諸将は北条攻めに恐れをなしていたためこの説に同意。業政は武田攻めに反対し北条と一戦を交え
  敗戦の汚名を雪ぐべしと力説したが武田攻めが決した。 上州一揆の面々が先陣となり甲州へ進軍したが
  武田軍反撃を受け上杉勢は平井城へ引き揚げた。 甲州攻めの失敗は関東管領上杉氏の権威を失墜させ
  1551年北条氏康は大軍を率いて平井城攻略に向かってきた。 上杉方の業政や太田美濃守を中心に防戦に
  努めたが憲政の寵臣らが逃亡し敗色濃厚となり憲政は戦う気力を失い越後の長尾景虎下へ落ち延びた。



5.長野業政西上州を掌握
 (1) 政略結婚による結集
   上杉憲政の越後落ちにより北条の軍門に下る者も多かったが箕輪の長野業政は西上州の在地武士を結集
  し平井城を奪回・上杉憲政を再び上州へ迎えようとした。 北条・武田と対決するには西上州に大防御線を
  構築しなければならなかった。 本城箕輪城を強化すると共に敵味方の形勢を見て離反しやすい国人衆を
  しっかりと味方に付けておくため武将間の政略結婚によって結集を図った。
  業政(1491-1561)には12人の娘がいたので次の城主に嫁がせた。
   一女:小幡城主・小幡尾張守信定   二女:国峰城主・小幡図書助景定
   三女:忍城主・成田氏          四女:木部城主・木部宮内少輔定朝 
   五女:大戸城主・大戸左近兵衛    六女:和田城主・和田業繁
   七女:倉賀野城主・金井淡路守景秀 八女:羽尾城主・羽尾氏
   九女:浜川長野氏藤井氏?      十女:厩橋城主・長野氏
   十一女:鷹巣城主・依田氏       十二女:鷹留城主・長野忠業

   箕輪城を中心とした防御線としては総社長尾氏と白井長尾氏、吾妻岩櫃城斎藤越前守、妻を迎えている
  沼田城沼田氏との結束で北方は守られた。 かかる状況から北条氏も武田氏も西上州を容易に攻略できず
  政略目標として利根川の東は北条、西は武田の協定をしたほどであった。
 
 (2) 知勇兼備の武将
   長野業政は陣頭に立って奮戦し退く時は殿を務めるなど勇将の一面も、箕輪城に敵を引き付け散々に
  悩ます知将の面もあり国人衆の信福を得ていた。 業政の頑強な防衛に手を焼いた武田信玄は業政と親交
  のある小幡信定や真田幸隆を使って懐柔策を採ったが業政は最後まで甲・相の軍門に降る事無く、西上州
  の多くの諸将も信頼して防禦に務め業政生存中は箕輪城の攻略は成し得なかった。



6.長野業政の軍団
 (1) 長野氏の軍事組織                                        お城地図
   長野業政の軍団は長野氏が直接支配する箕輪衆(長野衆)と上州の同心国人衆からなる。 箕輪衆は
  直臣旗本衆と親戚支城衆で終始箕輪城と運命を共にした。 直臣旗本衆は長野軍団の中核で譜代の家臣と
  血縁的には遠くなり家臣扱いとなっている給人衆、箕輪から1里程度とさほど遠くない地に居住し太鼓や
  鐘・狼煙などの合図で直ぐに駆け付けられる。 親戚支城衆は鷹留城、浜川砦、菅谷城、厩橋城などの者で
  城主は業尚以後に分かれた人々で長野勢力が拡大期に入ってから分かれ独立し支城をもった一族である。
   同心国人衆の一つは管領上杉家の被官で白井城主・総社蒼海城主の長尾氏とその傘下の国人衆など上杉家
  譜代衆で管領上杉家の再興を目指す長野氏と同じ目的を持つ武士団。 もう一つは姻戚衆で業政の娘嫁ぎ先
  の城主たち、安中・松井田・和田(高崎)・倉賀野・小幡・大戸・羽尾などがおり業政存命中は箕輪に従って
  いたが業盛の時代になると離反する者も出た。 最後まで長野氏と共に武田氏と戦ったのは安中・松井田・
  倉賀野たちであった。 外様衆はこれら以外の国人衆で吾妻岩下衆や東の大胡衆などがいた。 外様衆は
  戦国大名がその懐柔に心を砕いた層で長野氏の場合も業政に好意を持って味方同心した。
  大胡衆の上泉伊勢守は客将として迎えられ箕輪落城まで長野氏と行動を共にしている。

 (2) 内出に直臣を配置
   長野氏の直臣は「内出」(他氏では「寄居」や「根小屋」)と呼ばれた箕輪城外の近隣に居住していた。
  主な砦や館は
   箕郷町:東明屋砦・原中砦・松之沢砦・下善地砦・上善地砦・生原砦・上芝砦・冨岡砦・和田山館・
       白川砦
   榛名町:御門城(本郷字御門)・七曲砦(本郷七曲)・高浜砦・宮沢砦
   群馬町:菅谷城・引間砦・中泉砦・保渡田城
   高崎市:浜川砦・乙業館・矢島砦・北爪砦(いずれも浜川)・北新波砦満勝寺館(北新波)・住吉城(沖町)・
       井野屋敷(楽間町)・青木屋敷(小八木町)・萩原城・島名城(元島名町)
   前橋市:蒼海城(元総社町)
   吉岡町:漆原城・長塩屋敷(東原)



7.箕輪城への襲来
 (1) 箕輪城の防衛線
   東方は厩橋を中心として古利根川沿いに箕輪衆や厩橋衆、譜代武士団が固めた。 北方は利根川渡河点に
  八木原氏・漆原氏が配され左岸にも引田(富士見村)・大胡・上泉など厩橋衆の砦が分布。 その間に総社衆
  や白井衆など長尾氏関係武士団が総社蒼海城・植野勝山城・箱田城などに拠り東からの敵の西上州を阻んで
  いた。 西方は室田鷹留城を中心に吾妻口を固め大戸城から羽尾城まで親類衆が、東吾妻一帯は岩櫃城の
  斎藤氏が味方した。 南方は松井田・後閑・安中・和田・倉賀野の諸城を姻戚関係で結び、更にその南の
  鏑川・神流川のラインに大小様々な砦が分布。 その第一線は小幡城・国峰城、鏑川沿いに宮崎・冨岡・
  庭谷・本郷・奥平・塩川・馬庭・山名・木部・根小屋の各砦が配され平井城と小幡城間に岡本・峰・上野・
  白倉・天引・長根・吉井・一郷山・新堀・深沢・日野金井などの城砦があった。 鏑川の奥地は下仁田の
  鷹巣城を小幡三河守景守が守り余地峠を越えて西上州へ進入する武田軍に備えていた。

 (2) 武田・北条勢の動向
   上杉謙信は関東管領として上杉憲政を擁して1560年に関東へ進軍した。 この時武田信玄は北条氏との
  対決を避け北条氏政を支援するため越中・加賀の一向一揆に越後侵入を働きかけ、謙信の背後を脅かして
  いる。 翌年信玄・氏康が共同作戦下で関東に出陣し、翌1562年に信玄・氏康が共に関東の上杉方諸城を
  攻略している。 武田・北条両氏は不可侵同盟を結び関東の上杉勢力の駆逐に協力していた。 利根川を
  境に東上州は北条、西上州は武田が侵攻した。


 (3) 南毛戦線の崩壊・小幡氏一族の分裂
   関東管領上杉憲政の越後落ちは上州の在地領主に少なからず動揺を与え上州一揆の中には甲相勢に接近
  する一族が出始めた。 憲政亡き後の西上州を束ねる長野業政にとって容易ならぬ事態になっていく。
   この頃西上州において長野業政と並ぶ有力武士に小幡尾張守憲重(信定)がいた。 小幡氏は平安末期に
  甘楽郡小幡付近に土着した一族で武蔵七党・児玉党の子孫と伝えられ堅固な国峰城を居城とする名族である。
   憲重は小幡衆の統領として「千騎の大将」と言われ長野業政と共に西上州の上杉体制を支えていた。
  父の小幡景憲は山内上杉家宿老で図書助景純(景定)は憲重の弟である。 憲重・景純ともに長野業政の
  娘婿で業政としては上州の南方の守りを小幡一族に委ねていた。 ところが憲重と景純の間にほころびが
  出てしまった。 北条氏康が憲重は小田原に内通している偽書を以て景定を誘い、この謀略に業政も
  引っかかってしまった。 業政は憲重の力量を油断ならぬ存在として、景純は小幡衆の長として甘楽郡
  一円を手中に握る野心から二人にとって憲重は目の上の瘤的な存在であった。 その結果、憲重の留守に
  景純は業政の援助を受けて国峰城を奪い取り憲重を追放してしまった。 業政の行動は上杉憲政亡き後の
  上州一揆の動揺を抑え西上州の結束を固めるために大きく寄与したが武田氏の南毛進出のきっかけを
  作ってしまった。 上州進出を考えていた武田信玄は憲重を召し抱え1560年上信国境の佐久郡大日向に
  5千貫を与え憲重は武田の上州侵攻の先兵として出陣した。 翌年国峰城を攻略し信玄の"信"をもらい
  信定と改めた景定は旧に復した。

 (4) 吾妻方面からの真田氏侵入
   永禄4年(1561)長野業政が病死した(1560年の記述有り)。 墓は長年寺にもあるが遺骸は長純寺(箕郷町
  富岡)に葬られた。 西上州の総帥業政の死は味方していた多くの国人層に動揺を与え国人衆は生き残る
  ため武田か北条に傾斜せざるを得なかった。 まず吾妻方面から真田幸隆が迫る。 真田氏は吾妻西部の
  羽尾氏や大戸氏とは同じ六連錢の旗印をもった同族である。 真田幸隆は1541年に武田・村上・諏訪に
  攻撃された際に箕輪の長野業政を頼り保護を受けた恩義があったはずだが先祖伝来の地を回復するには
  武田氏に与する以外に無いと仇敵武田氏に臣従した。
   吾妻地方の国人衆は岩櫃城の斎藤憲広を中心に羽尾幸全らがいた。 羽尾氏は真田幸隆の妻の父であり
  幸全の妻は業政の娘で幸全は姻戚関係から苦衷の立場であった。 ところが羽尾氏は地域内において
  鎌原氏と不和があり背後にいる真田氏・武田氏を敵に回すことになる。 長野氏は羽尾氏へ援軍を送る
  余裕はなく娘婿の大戸氏が両軍の和議に入った。 しかし真田幸隆は武田軍総大将として岩櫃城を攻撃。
   1564年岩櫃城が陥落し吾妻方面の箕輪方は無く箕輪城は榛名山方面からの脅威にさらされることになる。
 
  長純寺と長野業政の墓

 (5) 和田氏の離反と倉賀野落城
   和田城は倉賀野城と共に箕輪城の南方を守る重要な支城で長野業政は和田業繁に娘を嫁がせていた。
  業繁は「三十騎の将」といわれる程度であったが業政が死去すると数年後には武田信玄に臣従したようで
  武田方へ去ったのを知った上杉景虎は小勢ではあるが和田城を攻撃し脅威を与える程度で引き揚げている。
   その後武田方は和田城を箕輪城攻撃の重要な前線基地とし倉賀野城との分断を図り箕輪方にとって
  大きな痛手となる。 倉賀野城は代々上杉氏に仕えた倉賀野氏の居城で箕輪城の東南方面防衛の中心で
  あった。 業政は城主の倉賀野(金井)淡路守景秀に娘を嫁がせ藤岡・平井方面からの敵に対し木部や山名
  などの諸城と共に武田・北条勢に備えた。 業政没後から武田軍の侵攻が始まり甲相連合軍が倉賀野城を
  攻撃。 倉賀野氏を助けた橋爪若狭守等の防戦により連合軍は倉賀野攻略を果たせなかった。 しかし、
  1565年信玄の第3回倉賀野城攻撃で落城し和田氏の武田氏帰属と倉賀野の落城により箕輪城の防衛
  ラインは狭められてしまった。

 (6) 東山道筋を突破される
   箕輪城の東山道筋の防衛は松井田・安中の2城を中心に構築されていた。 安中城は1559年総社衆の
  安中越前守忠政が築城した。 東山道沿いの経済上・交通上重要な位置に築かれ碓氷川と九十九川に
  挟まれた台地の先端に築かれ松井田城ほど強固で無かった。 松井田城は新堀から松井田にかけての北側
  一帯を要塞とした巨大山城で南北1500m東西1000mもあり尾根には堀切りがあり忠政の子・左近大夫忠成が
  碓氷峠を越えて来る武田勢に対した。 鷹留城や箕輪城へ結ぶラインには後閑城と秋間山雉郷砦があった。
   信玄の松井田・安中攻めは1559年に始まるが、後詰に倉賀野党がおり上杉輝虎の信州への動きもあり
  攪乱するだけであった。 甘楽郡や多野郡の長野勢の城砦を攻略すると1565年に西上州へ総攻撃をかけた。
   6月に倉賀野・木部城が陥落、安中・松井田もこの年に落城したと思われる。 この結果、箕輪城の
  防衛線は碓氷川の線から烏川の線に後退せざるを得なくなった。

   松井田城


8.長野氏の滅亡
 (1) 若田原の戦い
   1566年9月 箕輪方が安中市板鼻の北に位置する若田原丘陵で武田方を迎え撃つため出陣した。
  若田原は碓氷川の崖上にありこの丘陵を武田方に占領されると箕輪城までの間に有利な地形はなくなる。
  烏川はどこも渡河が容易で烏川左岸には箕輪方の砦や館はあっても武田方の大軍を喰い止める堅固なもの
  ではなかった。 つまり若田原は箕輪方の生命線でありここでの勝敗は直接箕輪城の存亡にかかわった。
   かつて若田原で長野業政と信玄は一戦を交えたがその時は倉賀野氏や安中氏が後詰の兵を出撃させた
  ので信玄は総力を若田原に投入できず後退した。 碓氷川の崖上に鷹巣城があり南西方面からの攻撃は
  非常に困難であるが台地に上ってしまえば攻撃は容易な地形である。 従って信玄は東方から攻撃した
  と思われる。 甲州勢は飯富虎昌・馬場信房・山県昌景・原昌胤など武田の名立たる将や武田方に臣従
  した小幡信定や吾妻の大戸勢を加えた2万〜2万5千と言われる大軍を信玄自ら率いて来た。

 (2) 鷹留城の陥落
   1566年9月 武田軍は南からの侵攻と同時に吾妻口からも長野業政の弟・業氏が守衛する鷹留城に猛烈な
  攻撃を開始した。 前線の三之倉方面の砦を落とし下室田付近へ進んで松山城を攻略すると鷹留城は直ぐ
  であった。 白岩地区は箕輪城と鷹留城を結ぶ重要な防衛線で武田方は両城を分断するため攻撃開始。
  若田原で箕輪方が総力を挙げて防戦している間に信玄の本陣にいた那波無理之助が秋間山の雉郷峠を越え
  高浜砦を奇襲した。 烏川左岸の崖上丘陵にあった高浜砦は城主が箕輪城に詰めており城主の留守を急襲
  され、たちまち那波の手に落ちた。 高浜砦を失い白岩で敗れた箕輪方は鷹留城との連絡が困難となり両城の
  別城一郭の機能が発揮できなくなった。

 (3) 箕輪落城と長野氏滅亡
   長野方が若田原から兵を退くと信玄は一気に箕輪城へ総攻撃をかけた。 西からは吾妻方面の在地武士
  を味方にした真田幸隆が、南からは信玄が武田の本隊を率いて攻め上がった。 蓑輪周辺の砦や館の武士は
  箕輪城に集結して最後の一戦に備えた。 善戦したが持ち堪えられず業盛は城を枕に自害して果てた。
   この落城を『箕輪軍紀』は1563年2月22日としているが倉賀野・松井田・安中城の落城などから長年寺
  住職の手記にある1566年9月29日であろう。 箕輪落城時に業盛に殉じた者もいたが多くの長野氏家臣は
  この地に土着し、信玄が新箕輪城主・内藤修理亮昌豊の麾下に留まることを許した。 また信玄に仕えず浪人
  となった者も
上泉伊勢守をはじめ数多くいた。





                                                         2021.11.18

                   第96回勉強会 「三河 本多氏


1. 本多一族
  三河本多氏は豊後国本田郷の出身で"本田"あるいは"本多"を名乗っていた一族。 三河本多氏とは別に
 織田信長の臣から江戸時代は大和高取藩主を務めた本多氏がいる。 京都の賀茂神社神官を経て三河国
 松平氏に仕えた。 賀茂神社の神紋は"双葉葵(賀茂葵)"で本多家は神官を務めたことから家紋を"丸に立葵
  右離れ"とした。 本多氏が仕えた松平氏が徳川政権を樹立すると多くの大名や旗本を輩出した一方で改易
 された家も多かった。 幕末まで残った大名家は8家、旗本に至っては数十家ある。
  
徳川四天王本多忠勝を祖とする平八郎家が最も著名で紆余曲折を経て三河岡崎藩(5万石)・播磨山崎藩
 (1万石)・岩代泉藩(1.8万石)が残った。
 この他に彦八郎系(康俊の家系)には近江膳所藩(7万石)・伊勢
 神戸藩(1.5万石)・三河西端藩(1万石)。 
作左衛門系(重次の家系)は丸岡藩(4.3万石)があったが改易と
 なってしまった。
  家康の参謀として力を発揮した正信を祖とする弥八郎系は後継者正純の宇都宮藩が改易、根本藩も無嗣
 断絶となり大名家は途絶えた。 
三弥左衛門系(正重の家系)は駿河田中藩から安房長尾藩(4万石)。
 
彦次郎系(康重の家系)は信濃飯山藩(3.5万石)でそれぞれ明治維新を迎えている。
           
 本多家家紋


2. 本多平八郎家
  本多平八郎忠勝を藩祖とする系列。 家康が関東8ヶ国に領地替えになると本多忠勝は関東で徳川領地に
 ならなかった安房国里見氏の抑えとして上総大多喜10万石に配され、その後伊勢桑名15万石に。 子孫は
 播磨姫路を経て大和郡山へ、相続争いから一時12万石と減封され陸奥福島15万石で転封後に再び姫路に
 配されたが藩主が幼少のため越後村上に移された。 ここで無嗣のため除封となったが本多忠勝の徳川家に
 対する貢献から三河刈谷に5万石で存続し以降下総古河、石見浜田を経て三河岡崎に定着した。
 (1) 本多忠勝
   徳川四天王・徳川三傑の一人でその武勇は数々の逸話が伝わる。 生涯大小合わせ57回の合戦に出陣
  したがかすり傷一つ負わず武田との
一言坂の戦いの猛勇さを武田方の家臣が"家康に過ぎたるものが二つ
  あり、唐の頭に本多平八"と讃えた。 唐頭とは徳川家中で流行っていた輸入したヤクの毛を付けた兜。
   忠勝の愛鎗は蜻蛉が止まると真っ二つに割れたと言われる"蜻蛉切"で"日本号"(黒田節で知られる
  黒田長政家臣母里友信の大身鎗)・"御手杵"(おてぎぬ、室町時代から結城家に伝わり子孫の結城松平家が
  所有していたが東京大空襲で焼失。 現在はレプリカが何鎗かある)と共に日本三名鎗と称される。
   また愛用の兜の鹿角脇立は和紙を何枚も貼り重ね黒漆で塗り固めたもので自分が討ち取った相手を弔う
  気持ちから数珠を掛けていたという。
    
  本多忠勝像と甲冑

 (2) 本多忠政
   父忠勝の跡を継ぎ伊勢桑名10万石城主。 大坂の陣に出陣し軍功を挙げ姫路藩15万石へ転封、譜代で
  初めての姫路城主として西国探題職に就く。 前城主池田氏のやり残した築城及び修復工事の他、娘婿
  小笠原忠真10万石のために明石城を、次男政朝5万石のために龍野城を築いた。
   二代将軍秀忠の信認が篤く徳川一門に値する黒書院溜間を最初に許され枢機に参画した。 秀忠病気に
  際し忠政を召したため姫路より江戸へ駆けつけたが突然倒れ逝去、56歳であった。

 (3) 本多忠刻
   忠勝の子忠政と家康の第一子岡崎信康の女熊姫との間に生まれた。 家康が駿府で病んだとき母と
  見舞いに行った際に大坂落城により帰東していた豊臣秀頼未亡人千姫との婚姻を命じられ正室に迎え
  姫路藩分藩を創設し千姫のため増設された化粧櫓に居住した。 千姫が伏見から江戸へ帰る途中、
  伊勢桑名で城主忠政の嫡子として船夫らを指揮する忠刻を見ていた。 端正にして眉目秀麗の忠刻の姿は
  千姫の心に深く焼き付き付けられていたため家康の命に直ぐ従ったと言われる。
   忠刻は優れた容姿だけでなく剣術を好み宮本武蔵を召し抱えて自ら剣術を修めるほどの武将で忠政の
  後継者として期待されていたが30歳で卒去してしまった。
   
 姫路城西の郭・千姫化粧櫓 

 (4) 本多政朝
   忠政の次男で叔父の忠朝が大坂夏の陣で討死し嫡子政勝が幼少のため忠朝の遺領上総大多喜5万石を
  与えられた。 忠政の姫路転封に伴い播磨竜野に転封となる。 兄忠刻の卒去により宗家の継嗣となり
  忠政の急死により姫路藩15万石を相続した。 容貌端麗にして気品があり祖父忠勝に似ていた。
  武道や学問を好み和歌・書道・茶の湯に造詣深く政治に意を用い池田光政とも深く交わった。 しかし
  39歳の若さで逝去。

 (5) 九六騒動
     

   徳川四天王のうち彦根藩井伊家30万石は突出しているが平八郎家は酒井・榊原家と同じく15万石を
  宛行われ忠政、忠刻、政朝と優秀な人物が続いたが4代政勝の欲から歯車が狂ってしまった。
  廃絶の危機もあったが忠勝の功績から5万石(格は10万石)で存続した。 歯車が狂ったのは3代政朝が
  遺言で実子政長が成長するまでの間、忠朝の子政勝を養子として相続させるとしたが政勝が自分の子
  正利に相続させようとしたことからである。 政朝の遺言通り政長を藩主にとする家臣らが正利の
  相続に反対し藩内が対立。 時の大老酒井忠清が正利側についたため一層問題が混乱したが、結局
  政長が9万石、正利が6万石の裁定で決着した。 15万石が9万石と6万石に分かれて決着がついたこと
  から世に"九六騒動"と呼ばれる。 政長が本多弥八郎家5代目となり相続以前の3万石がプラスされ
  12万石となるが毒殺される。 この騒動のため政長の養子忠国は一旦郡山藩を相続したが左遷的に
  陸奥福島へ転封となり正利は播磨明石6万石のうち3万石を忠国へ返還し存続していたが横暴な行状を
  咎められ岩代大久保(福島県須賀川市)1万石へ左遷。 その後も不行状のため改易となる。
  
 
          大和郡山城                            姫路城

 (6) 子孫
   7代忠孝は幼少のため姫路から越後村上へ転封となり12歳で急逝したため無嗣徐封となる。 しかし
  忠勝の功績から支藩の播磨山崎から忠英の長男忠良を8代とし三河刈谷5万石として存続。 格式も
  10万石とされ忠良は老中にまで出世した。 11代忠肅から岡崎藩5万石となる。



3. 本多彦八郎家
 本多彦八郎康俊を藩祖とする系列
   
三河西尾2万石→ 近江膳所3万石→ 西尾3.5万石→ 伊勢亀山5万石→ 膳所7万石
 (1) 本多康俊
   本多康俊は徳川四天王の一人酒井忠次の次男に生まれたが織田信長の人質を経て本多忠次の養子に
  なった。 康俊の母は松平広忠の妹であるから徳川家康の従兄弟にあたる。 因みに忠次の長男家次は
  下総臼井藩を経て井伊直政の後の高崎藩5万石を宛行われ越後高田藩10万石に。 その後息子の忠勝が
  出羽庄内藩15万石に封され幕末まで続いた。 康俊は関ケ原の戦いに参陣し三河西尾2万石に抜擢され
  大坂冬の陣・夏の陣で首級を100余も上げる戦功により膳所藩3万石に加増された。
       
 西尾城

 (2) 子孫
   康俊の長男俊次が2代目を相続し三河西尾藩・伊勢亀山藩を経て1651年に膳所7万石に再封された。
  以後廃藩置県まで転封せず。 膳所(滋賀県大津市)は京都への入口守衛の地で家康の従兄弟という
  徳川家の姻戚筋から要衝の地を任されたと考えられる。
   俊次次男の康将から分家独立した忠恒が河内国西代藩(大阪府河内長野市西代町)1万石に、また
  忠恒次男の忠統が伊勢国神戸藩(三重県鈴鹿市)1万石の大名に取り立てられている。 本多家の中でも
  酒井の流れを引く彦八郎家は中小大名ながら無難に続いている。



4. 本多作左衛門家
 本多作左衛門重次を藩祖とする家系
 (1) 本多重次
   徳川家康が登用した"三河三奉行"の一人だが気性が激しく怒りやすいため"鬼作左"の渾名と共に
  家康にも直言するほどわきまえないタイプの武将であった。 小田原攻めの折、岡崎に立ち寄り重次と
  対面する予定の秀吉に会わず蟄居処分を受けている。
   短く要領を得た手紙の"一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ"はこの人物が長篠の戦い
  の陣中から留守中を取り仕切る妻にあてた手紙である。 お仙とは息子の仙千代(のち成重)のことで
  成重が城主となった丸岡城のある坂井市では日本一短い手紙"一筆啓上"コンクールが行われている。

 (2) 本多成重
   重次の長男。 松平忠直が越前福井75万石を相続したが家臣間で争論が起こると若年の忠直を
  補佐するため付家老として4万石を与えられ丸岡城に入る。 大坂の陣では福井勢の中心として
  活躍し特に夏の陣では300騎を率いて真田幸村軍を破り大坂城一番乗りの功名をたてた。
   忠直の悪政に諫言し却って攻められたこともあり忠直が改易されると江戸幕府へ戻される。
  1624年に譜代大名に取り立てられ4万石に6300石加増され丸岡藩主となる。
   4代重益が暗愚であったため弟重信擁立派と暗愚藩主傀儡派が対立。 お家騒動が激化したため
  改易となる。
          
 丸岡城


5. 本多弥八郎家
 本多弥八郎正信を藩祖とする家系
 (1) 本多正信
   本多俊正の次男。 父と共に家康に仕えていたが
三河一向一揆が起こると弟正重と家康に敵対する。
  一揆が鎮圧されると加賀国へ出奔していたが家康の参謀的立場であった大久保忠世の取成しにより
  鷹匠として再仕官し家康が天下を取る段階で参謀として重用されるようになる。 武田氏滅亡後は
  武田家臣団の取り込みに関わり甲斐・信濃の統治を担当した。 小田原征伐後、家康が関東へ転封に
  なると相模国玉縄(鎌倉市)に1万石(2万2千石の説も)を宛行われる。 家康との信頼関係は正信の
  深謀遠慮が家康と合ったからである。 例えば加藤清正ら秀吉七将に襲撃された石田三成が家康邸に
  逃げ込んだ際、七将に三成を引き渡さずに一旦庇い天下取りの捨て石としたこと。 また三成の嫡男重家
  の処遇について重家が出家すると言っているので赦免すべきと主張した。 理由は三成が西軍大名を糾合し
  起こらなかったかもしれない天下分け目の戦を計画、西軍をたたく理由を与えてくれたことは徳川家にとって
  大功の人物の子であるとした。 更に家康が将軍職に就任する際は朝廷交渉に尽力し本願寺法主兄弟
  の対立を利用して分裂させるなど策略を巡らしたとの逸話が数多くある。 秀忠が2代将軍に就任すると
  秀忠付年寄となり幕政に参画する。

 (2) 本多正純
   正信の長男で父と三河一向一揆で家康に敵対も共に復帰し江戸幕府が開幕すると駿府の家康は
  正信でなく正純を側近においた。 正純の家臣岡本大八が日野江藩主有馬晴信から加増の約束に
  多額の賄賂をとり欺いた事件を起こした。 大八は火刑、晴信は流刑となったが大八はキリシタンである
  ことへの処分で正純は難を逃れている。 この事件をきっかけに幕府は禁教政策を本格化させている。
   家康死去後に秀忠の側近となるが家康以来の側近を権威に秀忠や他の側近から怨まれるようになり
  3万石から下野小山藩5.3万石の城主となり続いて宇都宮藩15万3千石の大大名となる。
  ただ正純は政敵の怨嗟や憤怒を斟酌して固辞したともいわれる。 結局正純は失脚するがその原因は
  俗に
宇都宮釣り天井事件(秀忠が日光東照宮参拝の際に宇都宮城に宿泊する寝所天井に仕掛け
  して圧死させるという作り話)
とか将軍直属根来同心を処刑したとか鉄砲を無段で購入した等々伝わる。
   真実は不明であるが有力な説は福島正則の改易を諫止したことや宇都宮藩の拝領を固辞したなど
  秀忠の面目を損なったからではないかと言われる。 出羽国由利藩5.5万石への転封を命じられたが
  固辞したため秀忠の逆鱗に触れ改易のうえ由利へ流罪となりその地で死去。
     
 宇都宮城

 (3) 子孫
   正純の長男正勝も同罪で由利へ流罪となり父より先に死去。 政勝の長男右京亮正好は外祖父
  美濃大垣藩戸田氏鉄のもとに母親と身を寄せ祖父・父の墓参を許可されず出奔し、途中の高崎
  城下に留まり高崎藩主安藤重信の兄直次の孫である旗本安藤直政の客臣となる。 その後武蔵国
  小平で和田と改姓し代官となる。 正勝の次男正之は尾張犬山城主成瀬正虎に迎えられ、その後
  3千石の寄合旗本として遠国奉行などに就いている。



6. 三弥左衛門家
 本多三弥左衛門正重を藩祖とする家系
 (1) 本多正重
   本多俊正の四男で兄正信と共に家康に仕えるが三河一向一揆で敵対し鎮圧後帰参。 掛川城攻め
  姉川の戦い、一言坂の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いに出陣し武功をあげた。 しかし徳川家を
  出奔し滝川一益、前田利家、蒲生氏郷と主を代えながら徳川家に帰参。 徳川秀忠の参謀として
  下総舟戸藩1万石の大名となる。

 (2) 子孫
   長男正氏は豊臣秀次事件で殉死し次男正包は早世、外孫養子の正貫が2千石に減封され旗本と
  して存続。 4代目の正永が舟戸藩(千葉県柏市)1万石に返り咲き、若年寄を務め上野沼田藩2万石に
  転封後に老中に就任し4万石を宛行われた。 沼田藩前藩主真田信利の悪政後を立て直している。
  後継者が駿河田中藩主を務め幕末に至る。



7. 彦次郎家(豊後守家)
 本多彦次郎康重を藩祖とする家系
 (1) 本多康重
   父の広孝が今川支配下の松平宗家に仕え康元(徳川家康)の岡崎城帰還後に領地回復の戦いに
  尽くすなど家康の戦闘部隊長として活躍した平八郎忠勝より一代前の功績者で譜代の臣として最も
  早い段階で三河田原城主となる。 康重はその嫡子として元服の際に家康から偏諱を受けたため
  諱は"康重"。 家康の関東移封に伴い田原から上野白井藩2万石に配され群馬県に所縁のある
  大名である。 関ケ原の戦いの後に豊臣重臣であった田中吉政が筑後柳河32.5万石へ移封となると
  康重が5万石で入封、徳川最重要拠点・岡崎城の譜代初城主となった。
      
 岡崎城

 (2) 子孫
   三河本多一族の中で最も苦しい時代の松平家に忠勤を尽くしてきた彦次郎家は順調に進めば徳川
  家臣団の中で重要の立場にあったであろう。 しかし4代利長が駿河横須賀藩5万石を継ぐも不行跡や
  悪政のため(明石藩本多正利の改易連座もあり)改易になり先祖の功を勘案され出羽村山藩1万石を
  与えられた。 利長は甥の助芳を養子として迎え5代とする。 その後助芳は越後糸魚川藩を経て
  信濃飯山藩2万石へ転封となり本多氏が幕末まで藩主を務めている。 後に飯山藩は3.5万石となる。


8. 加賀藩寄合八家(加賀八家)
  100万石の大大名加賀前田家には家臣団に独特な組織があった。 貞享3年(1686)5代藩主前田綱紀
 の藩職制改革で"八家(はっか)"が制定された。 この制度は加賀藩の最上級藩士で1万石以上の禄を
 与えられた大名クラスの重臣で藩内では家老より上位となる年寄役・人持組頭で戦時には軍団長と
 なり部隊の指揮を務めた。 江戸時代は1万石以上を大名と呼び徳川御三家の付家老が大名並の万石
 取りであったが加賀藩の八家は別格の存在である。 八家は次の家々で世襲である。

        

9. 本多政重
  本多正信の次男として生まれ徳川家の家臣倉橋長右衛門の養子となる。 しかし二代将軍秀忠の乳母
 大姥局の息子を斬り殺して出奔。 その後は次々と著名な武将の家臣となる。
 (1) 主君歴
   大谷吉継の臣となりその後宇喜田秀家に仕え正木佐兵衛と称し2万石を与えられる。 関ケ原の戦い
  では西軍側として奮戦するが西軍が敗れ逃走隠遁。 臣下の立場であり正信の子であったためか罪に
  問われず。 福島正則に仕えたが直ぐに辞し加賀藩2代前田利長に3万石で召し抱えられる。 前田家
  が旧主宇喜田秀家の宴席にあたることから辞す。

 (2) 上杉家での役割
   父正信への接近を図っていた上杉景勝の執政直江兼続に請われ婿養子として兼続の娘・お松と婚姻、
  景勝の偏諱を受け直江大和守勝吉と称す。 お松が病死したが兼続の懇請により養子縁組は継続。
  兼続の弟の娘・阿虎を養女として再婚。 慶長14年から本多安房守政重を名乗る。 上杉家米沢藩に
  仕えた政重は幕府に対する仕切り役として1609年には10万石分(米沢藩石高30万石の1/3)の軍役免除
  に貢献している。

 (3) 前田家での役割
   1611年上杉家から離れ武蔵国岩槻に隠遁。 藤堂高虎の仲介により前田家に帰参3万石を拝領し
  年若い前田利常の補佐にあたる。 徳川幕府は常に大藩加賀前田家に対して警戒し前田家も幕府に
  疑いを掛けられぬように苦労していた。 幕府から越中国の返上を迫られた時はこれを撤回させ、
  幕府への反逆疑いを掛けられた時は江戸へ出向き釈明し厳罰を回避した。 これらの功績により
  数度加増を受け家禄は5万石となり本多家は加賀藩の筆頭家老の家となる。

 (4) 子孫
      政重―政長―政敏―政質―政昌―政行―政成―政礼―政和―政通―政均

   6代藩主前田吉コが財政再建に大槻伝蔵ら御用部屋を重用した。 伝蔵が成上りであることと
  吉コの寵愛を暈に掛けたため門閥派と対立し"加賀騒動"が起こった。 前田土佐守家5代直躬が
  中心となり大槻派を一掃したが5代本多政昌も大槻排斥を訴えた。
   幕末の当主本多政均は藩主前田斉泰と共に西洋軍制を導入し尊皇攘夷派と親しい世子慶寧を
  謹慎処分とし藩内攘夷派を処罰した。 薩摩藩との交渉役を務めていたが明治2年に旧攘夷派の者に
  暗殺される。
   
いしかわ赤レンガミュージアムに加賀八家本多家の甲冑や刀鎗などの武具・調度品・古文書が"
  展示されている。
   
 本多政重    






                                                         2021.7.15
                   第95回勉強会 「徳川慶喜の評価


1. 慶喜が世に頭角を現す
 (1) 父斉昭の影響
   父の水戸藩9代藩主
徳川斉昭が慶喜を優れた子供と大きな期待をかけ手許において薫陶したと言われるが
  子沢山の斉昭だが正室との男子は長男慶篤と七男慶喜だけである。 慶喜と同年生まれの五男は側室の子で
  容姿が良く養子向きと鳥取藩主の継嗣に送り込まれた。(鳥取藩池田家は家康から松平姓と葵紋が許された
  徳川親藩扱いの家柄である。) それ以外の次・三・四・六男は夭折してしまったため後継ぎの慶篤に万一が
  あった場合に備え慶喜を手元に置き英才教育と尊皇思想の徹底を行ったと思われる。
   斉昭は37人(男22,女15人)の子をもうけたが18人(男10,女8人)が夭逝。成人した19人(男12,女7人)は
  悉く有力諸藩の養子或は正室として送り込んだ。 斉昭が井伊直弼と対立し失脚する頃まで水戸家
閨閥
  藩主は斉昭を敬服し慶喜に対しても聡明な若者と評していた。 斉昭を慮って褒められた慶喜は資質以上に
  優秀の評判が高まったと考えられる。 ただ慶喜は余程のことがない限り斉昭に反対意見を示さず常に消極的な
  態度をとった。 また、父に対する老中や諸役人、特に大奥の強い反発を意識し言動を抑える習性があった。
   このことは成人しても続いた。

 (2) 宮家との深い関係
   慶喜の尊皇の気持ちは水戸徳川氏が深い尊皇思想であったことによる。 
徳川光圀が大日本史編纂に
  取り掛かかり水戸学が尊皇思想を大きく強く増幅したがそれ以上に宮家との姻戚関係が影響した。何人もの
  正室を宮家から迎え特に有栖川宮家とは深い関係にあった。 12代将軍家慶の正室は有栖川宮第六代
  織仁親王の第八王女で斉昭の正室・第十二代王女の実姉にあたる。 つまり慶喜は家慶の甥にあたり家慶が
  親しみを持つ大きな要因である。 そのことからいざという時の将軍補充システムである御三卿の一橋家へ慶喜を
  養子に出すことを命じた。 継嗣の家定が病弱のうえ他に男子がいないこともあった。
   因みに有栖川宮家は第107代後陽成天皇の皇子が初代で天皇家と関係が深く水戸徳川とも縁が深い。

  【有栖川宮家略系図】
   初代 好仁親王:107代後陽成天皇の第7皇子。第3皇子が108代後水尾天皇
   二代 良仁親王(後に111代後西天皇):後水尾天皇の第8皇子。第19皇子が112代霊元天皇
   五代 職仁親王:霊元天皇の第16皇子。第4皇子が113代東山天皇
   六代 織仁親王:第8王女 喬子は12代将軍家慶御台所。第12王女吉子が水戸藩9代斉昭正室
   十代 威仁親王:九代 熾仁親王の弟、次女の實枝子女王が慶喜の子息慶久と婚姻
        實枝子と慶久の娘である喜久子は大正天皇の弟高松宮寛仁親王と婚姻

 (3) 慶喜が将軍に推された背景
   徳川幕府将軍は一度だけ徳川一族以外から迎える計画があった。 4代将軍家綱逝去時に大老酒井忠清が
  有栖川宮三代 幸仁親王を宮将軍に迎えようとしたが頓挫し5代将軍は綱吉となった。 その後は将軍に継嗣が
  ない場合は尾張徳川か紀伊徳川から迎えるとし8代将軍に紀伊徳川から吉宗が選ばれた。 吉宗は自分の就任
  にあたって尾張徳川ともめたので御三卿システムを設けた。
   1858年7月6日13代将軍家定逝去時に無嗣であり後継可能な徳川一族は以下の人物が考えられた。 
  慶喜は水戸藩に属していたら対象外であった。
   ・紀州藩慶福:12代将軍家慶の甥。父斉順は11代将軍家斉七男。家斉の孫。当時12歳。
   ・尾張藩慶臧:12代将軍家慶の従兄弟。父田安家斉匡は家斉の実父治済の五男。当時22歳。
         尾張藩は10代斉朝から13代慶臧まで4代にわたって家斉系養子、藩内では宗家・幕閣に対し不快。
         連枝である高須家から慶勝を迎えた。
   ・田安家慶頼:12代将軍家慶の叔父。家斉十一男斉荘を養子に迎えたが斉荘が尾張家12代復帰。30歳
         井伊直弼と組み慶福を推す南紀派。
   ・一橋家慶喜:12代将軍家慶の甥。家慶正室と慶喜正室が実姉妹。21歳。
         慶福が14代将軍家茂となるが1866年に逝去。この時29歳。
   ・清水家   :家定逝去時は不在であった。

   将軍後継の系譜にある尾張,紀州,御三卿の中で紀州慶福か一橋慶喜が候補であったが慶喜の父斉昭に対し
   大奥を始め嫌悪する有力者が多く、また慶福の血筋の方が近かった。
    御三卿とは、
    ・田安家:吉宗次男 宗武が創設。2代治察,3代斉匡,4代斉荘,5代慶頼,6代寿千代,7代家達。
             斉匡の八男 慶永(福井藩主),十男 慶臧(尾張藩主)
    ・一橋家:吉宗四男 宗尹が創設。2代治済,3代斉敦,4代斉礼,5代斉位,6代慶寿,7代昌丸,8代慶喜
    ・清水家:9代将軍家重の次男重好が創設。11代将軍家斉の五男が2代敬之助,七男が3代斉順,
        十一男が4代斉明。二十一男が5代斉彊
  10代家治の長男が18歳で死去し後継が絶えると一橋家二代治済の長男家斉が11代将軍に、その子家慶が
  12代、孫の家定が13代と将軍家を継ぐ。 しかし家定に子が出来ず清水家3代斉順が紀州藩主に就いていたが
  その子供の家茂が14代に就き、結果として家斉の孫にして御三卿から将軍を輩出することとなった。
   しかし一橋家八代昌丸が夭逝し慶喜が水戸徳川家から末期養子となることで宗尹から続いた一橋家の血筋は
  絶えてしまった。 徳川宗家は養子で繋いできた田安家の7代家達が相続する。



2. 慶喜が輝いた"一会桑"時代
(1) 一会桑の登場
   一会桑とは一橋慶喜、会津藩主 松平容保、桑名藩主 松平定敬の頭文字から呼ばれる。 水戸藩7代藩主 治紀
  の次男が9代藩主 斉昭でその七男が慶喜、五女規姫は尾張徳川家の御連枝・美濃高須藩10代藩主 松平義建
  の正室。 義建と規姫との間に生まれたのが尾張藩14代藩主 徳川慶勝。 義建と側室古森氏との間に生まれたのが
  尾張藩15代藩主 徳川茂徳と会津藩9代藩主 松平容保。 義建と側室奥山氏との間に生まれたのが桑名藩5代藩主
  松平定敬である。 つまり徳川慶勝・徳川茂徳・松平容保・松平定敬は慶喜と叔父甥の関係で四人の著名な兄弟は
  「高須四兄弟」と呼ばれる。 叔父甥の三人が京都勤務となり慶喜は禁裏守衛総督として孝明天皇の信頼を一身に
  受け、この時点では薩摩藩と連携し攘夷派公家と長州藩を抑え幕府の屋台骨を支えていた。
   松平容保は京都守護職、松平定敬は京都所司代に任じられ慶喜を補佐する立場で以後も慶喜を支えた。

 (2) 孝明天皇の存在
   孝明天皇は終始一貫して攘夷を唱え開国路線の幕府とは相反していた。 薩長は一方で志士たちが攘夷を唱え
  ながらニューリーダー達は現状では外国と戦うことは愚かであり、幕府に外交政策が任されないと自分たちの
  新しい政策を進める必要があった。 しかしこの政策を正当化するうえで孝明天皇の強烈な攘夷思想は障害で
  あった。 具体的には長州藩は直目付永井雅樂の航海遠略策を藩論として採用するとこの海外雄飛を朝廷が受け
  入れて幕府に命じ幕府が受諾すれば公武合体がなり人心が一定すると考えた。 しかし藩内の攘夷派反対運動と
  孝明天皇の攘夷思想の前に航海遠略策を藩の方針として続けられなかった。 長井を罷免し朝廷内の急進的な
  尊皇攘夷の旗頭を務めた三条実美らと強く結びつき尊王攘夷運動をリードして行く。
   薩摩藩は井伊直弼暗殺以来幕府独裁政治が破綻したと見て朝廷と幕府が協力する公武合体を国是と定めた。
  そこで旧体制の象徴である関白九条尚忠の解任と安政の大獄で処罰された中川宮や近衛忠煕の復権を求めた。
  この結果、松平慶永の政治総裁職、一橋慶喜の将軍後見職就任が実現した。

 (3) 一会桑と孝明天皇
   薩長は京都を舞台に孝明天皇を取り込む策を巡らすが一会桑は孝明天皇の攘夷思想を尊重。 孝明天皇は
  一会桑を自己の代弁者としての役割を積極的に見出していった。 会津藩は最初から攘夷志向が強かったが
  慶喜は京都に定住するようになると当初の開国論は消え孝明天皇の攘夷実行の要請に同調するようになった。
   しかし開国路線を推し進める江戸の老中や諸役人と対立を招き鎖国体制の打破を決意した越前藩や薩摩藩
  など雄藩と衝突が深まり攘夷主義を掲げ中央政府に乗り出してきた長州藩とライバル関係になった。


3. 慶喜の評価を左右する事件 (以下の
紫色部分は渋沢栄一らが慶喜から聞き取った『昔夢会筆記』より)
(1) 慶喜を頼った天狗党を見放した
  「
攘夷とか何かといろいろ言うけれどもその実は党派の争いなんだ。 攘夷を主としてどうこういうわけではない。
   情実においては可哀そうなところもあるが何しろ幕府に手向かって戦争をしたのでその廉でまったく罪なしと
   言えない。 それでその時は私がなかなか危い身の上であったので何分にも武田(耕雲斎)のことを始め口に
   出すわけにはいかない事情があった。 降伏をしたので加州はじめそれぞれへ預けて後の御処置は関東の方で
   対応せよということでて引き上げた。
    (田沼玄番頭から処刑について)相談はない。 ただかくかく降伏したということを江戸へ言ってやって江戸から
   は田沼玄番頭を上京させて御受取るといい受取りに来た。 それで田沼玄番頭へ降伏した者を引き渡し此方は
   全く手が切れ、田沼が斬罪か何かにやったというわけだ

   慶喜は武田耕雲斎を評価し上洛の際などに帯同させている。 ところが慶喜が京に止まり耕雲斎は江戸に戻り
  水戸藩内において市川笑左衛門らとの抗争で耕雲斎は失脚。 その後天狗党首領に祭り上げられ慶喜を頼った。
   慶喜は禁裏守衛総督という幕府のリーダーであり、如何に水戸藩出身者であっても幕府に刃向かう犯罪者を
  支援することは慶喜の立場を危うくすることになる。 元治2年(1865) 幕府追討軍に任せて降伏させることは当然の
  ことで慶喜の評価を落とすことにはならないと思う。

 (2) 参預会議の決裂
   参預会議主要メンバーの松平慶永と島津久光の両名が攘夷至上主義的な孝明天皇に開国の必然性や横浜鎖港
  反対を言上し朝幕双方が開国に合意できる機会であった。 ところが慶喜は攘夷の立場として横浜鎖港を堅持する挙に
  出たため慶喜は開国派と思っていた松平慶永や島津久光も動転し、何を考えているのだと憤慨・帰国し参預会議は
  空中分解した。 慶喜と会津は孝明天皇と同じ攘夷派と示すことにより孝明天皇の信頼を背景に国政をリードする
  策に出た。 薩摩は生麦事件を起こし薩英戦争敗戦で幕府に多大な負担を及ぼしておきながら開国へ方針転換し
  島津久光が横浜開港を主張し国政の主役に躍り出ようとする行為に対し慶喜は我慢がならず横浜鎖港を主張した。
   因みに参預会議は元治元年(1864) 天皇の前で朝議を行うため設立。 構成員は一橋慶喜,松平慶永,伊達宗城
  (伊予宇和島藩主),山内容堂(土佐藩藩主),松平容保,島津久光。
   慶喜の本音は孝明天皇を奉じた一会桑で幕末の対外政策を進めようと考えており、島津久光が薩摩藩の武力を
  背景に提案した参預会議に嫌悪感を抱き久光が攘夷から開国に転じて国政をリードする懸念を感じたのである。

 (3) 宗家相続辞退と将軍職辞退
  ア.14代将軍家茂が万一の場合を考慮し後継を要請された際の経緯
  慶応元年(1865)5月15日 将軍家茂が長征のため発進する際に"跡目は田安亀之助(後の家達)立つべし"
   (和宮付女官庭田嗣子の『宰相典侍嗣子記』より)と仰せられたことに対し「
天璋院なども承知と言われるが予は
  少しも知らなかった。 当時知っていれば亀之助を立てて後見をするとか行ったであろうが全く知らなかった。
  結果予が相続するに至った


  イ.慶応2年(1866)7月 宗家相続の議論が起きた時
 「
大奥・諸有司などに対し大いに懸念するところがあり相続しても折り合うか否かをいたく憂慮した。 辞退の要因の
  一つである。 また板倉(老中の板倉勝清)らが相続のことをしきりに勧めた時に"自分には見込みの人あり"と言った
  (元福井藩主松平茂昭が養父松平慶永の事績を書かせた『続再夢紀事』より)というが記憶に在らず。


  ウ.宗家の相続は受けたが将軍職を辞した経緯
  「
板倉などより"将軍になるとならぬとは思召し次第なり。 ともかくも御相続だけは御請け遊ばすべき"と申す故
   さらばといって相続したるにて相続の上は広く天下の諸大名を会して国是を議し公論の帰するところに従いて
   去就進退せんとの考えなり。 されば将軍職を固く辞退した


  エ.慶応2年8月8日 御名代出陣につき参内して節刀を賜りたる時
 「
予が駑鈍大任に堪えずとて将軍職を固辞し徳川に限らず他の大藩中其人を選んで将軍に任ぜられたいと奏上した
  (岩倉具視の秘書多田好問が著わした『岩倉公実記』より)とあるが記憶なし。 あるいはさることを申し上げしかも
  全く忘却せり

  父親斉昭が大奥や幕閣に嫌われていたことが就任を固辞したことの背景にある。 育った人生観から解るが優秀と
  期待されていたが故に火中の栗を拾わない姿勢に批判がある。

 (4) 大政奉還のかけひき
   慶応3年(1867)10月14日 徳川慶喜奏聞「上表」文

  「臣慶喜謹テ皇國時運之改革を考候ニ 昔王綱紐ヲ解テ相家権ヲ執リ 保平之亂政権武門ニ移テヨリ 祖宗ニ至リ
   更ニ寵眷ヲ蒙リ 二百餘年子孫相受 臣其職ヲ奉スト雖モ 政刑當ヲ失フコト不生今日之形勢ニ至リ候モ 
   畢竟薄コ之所致 不堪慙懼候 況ヤ當今外國之交際日ニ盛ナルニヨリ 愈朝権一途ニ出不申候而者
   綱紀難立候間従来之舊習ヲ改メ 政権ヲ朝廷ニ奉歸 廣ク天下之公儀ヲ盡シ 聖斷ヲ仰キ 同心協力
   共ニ皇國ヲ保護仕候得ハ必ス海外萬國ト可竝立候 臣慶喜國家ニ所盡 是ニ不過奉存候 乍去猶見込之儀モ
   有之候得者可申聞旨 諸侯江相達置候 依之此段謹テ奏聞仕候 以上」

   慶喜は「大政奉還」とは言わず「政権返上」と言っていた。当時の常套語。上奏文を意訳すると、
  「
予が政権返上の意は早くから決していたが成案はなかった。 公卿・堂上の力ではことが成らず、諸大名とて同様。
   諸藩士でも治まらない。松平容堂(土佐藩山内容堂)の出した建白書に上院・下院制を設けるとあるのは良い考え。
   上院に公卿・諸大名、下院に諸藩士を補選し公論により事を為せば王政復古の実を挙げることが出来る。 日本も
   行く末は西洋の如く郡県になるべしと語ったが実は漠然たる考えにて順序・方法など夢にも思い浮かばず。 この時点
   では施行は到底出来ぬと思っていた

   大政奉還後の処分や徳川家の立場についての決心は
  「
真の考えは大政を返上して自分が俗に言う肩を抜くとか安を偸むとかいうことになってすまない。 大政を返上した
   上はあくまでも国家のために尽くそうという精神であった。 しかし返上した上からは朝廷のお差図を受けて国家の
   ために尽くすという精神だね。 それで旗本などの始末をどうするまでには考えが及ばない。ただ返上したからは
   これまでの通りに一層皇国のために尽くさぬではならぬ・肩を抜いたようになってはすまぬというのが真の精神で
   あった。 後で家来をどうしようかということまでに考えがまだ及ばなかった

   山内容堂などの計画は議政府を設け諸大名・旗本・諸藩士から俊才を抜擢し会議制度で政治を行う案。
  容堂の腹の底では議政府議長を御前(慶喜)に願って徳川家を政治の中心とする形であった。
  それについて「
何があったか知らぬがその考えは容堂の方にあり、こちらにはない。 すべて返上した以上は朝廷の
   命を奉じて何でもやろうとする精神であった。 色々あっただろうがそれは他の方の話で(予には)関係ないことだ

  とある。
   慶喜ファンの見方は慶喜がその権力を犠牲にして内乱の勃発を防ぎ日本を欧米諸国からの植民地化の危機から
  救ったと歴史上の結果論から大政奉還を高く評価する。 また研究者の多くは慶喜は政権を返上しても新たに誕生する
  議院又は政府の首長として依然として実権を掌握できるとの見通しに立っての決断。 あるいは大政奉還により自己の
  権力を犠牲にしようとしたのではなく従来の政治機構を否定した上で日本的元首制の大君制を創出しようとしたとの
  見解である。 しかし本心は不明だが慶喜の回顧録では皇国に尽くすの一点のようである。

 (5) 京都を脱出し下坂の実情
   慶喜は大坂へ引き下がる時、たとえ刺殺されとしても会津藩と桑名藩を諭して国へ帰らせ、そののち再び上京して
  「
"今は一己の平大名に過ぎないが願わくば前々どおりお召し使い下さるべし。 朝廷の御為には粉骨砕身仕るべし。"
   と懇願すればよかったが会桑二藩を諭すことが出来ず、"いかようにとも勝手にせよ"と言い放ったことが一期の
   失策なり。 かく後悔したる際に神保(修理長輝)の建言を聴きたればむしろその説を利用して江戸に帰り堅固に
   恭順謹慎せんと決心したがそのことは心に秘めて人には語らず

  神保修理は不戦恭順論を慶喜に進言し江戸に戻り善後策を練ることを説いたとされる。 主戦論が高まりこのまま
  放置すると朝敵になる恐れありと進言しようとしたが慶喜らは神保を置いて大坂城を脱出し江戸へ離脱。 神保は
  会津藩軍事奉行添役として会津藩軍権をもって出陣も"幕府軍が鳥羽伏見の戦いで敗れた要因は神保の進言で
  大将が戦線離脱したため"と非難され神保は結局自刃す。 この経緯について勝手にせよと言ってしまったことと将士間
  コミュニケーションのズレから大坂城逃亡の汚名に繋がってしまった。

 (6) 慶応4年(1868) 鳥羽伏見の変
  ア.薩摩藩の江戸攪乱が大坂に伝わり城中大騒ぎになった際
 「
大坂城中にては上下暴発の勢いほとんど制し難く、松平豊前守(注1)のごときは"令を出して大坂を徘徊せる薩人一人を
  斬るごとに十五金を与えん"などと無謀の議を出すに至りしも、予はこのごときは血気の小勇なりとて制止せり

   (注1)松平豊前守は大多喜城主松平(大河内)正質・老中格、鳥羽伏見の戦いでは幕府軍総督として戦うも敗北し新政府軍
      から鳥羽伏見の戦いの巨魁は大河内豊前と竹中丹後と見做される。大多喜に戻り謹慎したため第一等の朝敵は免れた。

 「時に京都より越前の中根雪江(注2)、尾州の某等四・五人下坂して予の入京を勧めたれば予もさらば軽装をもって入京
  せんと考えたりしかど会桑両藩以下旗本の者等これを聴かず。 "好機会なれば十分兵力を有して入京し君側を清むべし"
  と主張し老中以下大小目付に至るまでほとんど半狂乱の有様にて、もし予が討薩を肯定すれば如何なることを
  仕出さんも知るべからず、何さま堅く決心の臍を固めおる気色なりき

   (注2)中根雪江は福井藩士で松平春嶽の参謀。春嶽が関わった政治活動を著した『再夢紀事』などを記している。
 「この時、予は風邪にて寝衣のまま蓐中(ふとんの中)にあり、板倉伊賀守来たりて将士の激昂大方ならず、このまま
  にては済まなければ所詮帯兵上京の事なくては叶わない由を反復して説けり。 予『孫子』を示して「知彼知己百戦不殆」
  ということもあり試みに問わん、"今幕府に西郷吉之助に匹敵すべき人物ありや"と言えるに伊賀守しばらく考えて
  "無し"と答える。"さらば大久保一蔵ほどの者ありや"と問うに伊賀守また"無し"といえり。予さらに吉井幸輔以下
  同藩の名ある者数人を挙げて"この人々に拮抗し得る者ありや"と次々に尋ねるに伊賀守また有りということ能わざり。
  因って予は"このごとき有様にては戦うことも必勝期し難きのみならず、遂にはいたずらに朝敵の汚名を蒙るのみ
  なれば決して我より戦を挑むことなかれ"と制止した


  イ.部下の出陣を止められなかったこと
  板倉・永井等はしきりに将士激動の状を説いて「
公もしあくまでもその請を許し給わなければ畏けれども公を制し
  奉っても脱走しかねない勢いなりと言う。予は"よもや己を殺すみが脱走することはもちろんなるべし。さては
  いよいよ国乱の基なり"とひたすら制馭の力の及ばざるを嘆ぜしが江戸にて薩邸を討ちし後はなおさら城中将士の
  激動制すべからず、遂に彼等は君側の奸を払う由を外国公使にも通告して入京の途に就き、かの鳥羽・伏見の戦
  を開きたり。予は終始大坂城中を出でず戎衣(軍服)をも着せず、ただ嘆息しおるのみなりき。この際の処置は予も
  もとより宜を得たとは思わないが今にていえばこそあれ当時の有様にては実にせんすべきも尽き果てて形のごとき結果に
  立ち至りしなり


  ウ.勝海舟の進言の真相
 「
予は開陽丸に塔じ江戸に帰るとき船中にてこの上はひたすら恭順の外なき旨、はじめて板倉以下に申し聞かした。
  もちろんこの決心は既に大坂を発する前に定まりいたれども当時はいささかもこれを漏らさず。されば帰府の後、
  勝安房守予に勧めて"公もしあくまで戦い給わんとならばよろしくまず軍艦を清水港に集めて東下の敵兵を扼し、
  また一方には薩州の桜島を襲いて敵の本拠を衝くの策に出すべき"と言いたれども予は"既に一意恭順に決した"と
  言っても耳をも傾けざるより。勝も"しからばそれなりに尽力仕るべし"と言って遂に西郷吉之助と会見し江戸討入を
  止めるに至った。 勝のこの時の態度は世に伝うる所とはいささか異なるものあり。すべて勝の談話として世に
  伝わるものには多少の誇張のあることを免れず



4. 慶喜の特性である"変節"
  幕府内の地位上昇と中央政局の影響力拡大は一橋家当主という地位と英明さ、および多くの有志大名の支援に
 負うところが大きい。 有志大名の期待は幕府の私的権力行動を抑え全国的利益達成への水路づけであり幕府内で
 これに応えられ協調工作をなしうる者は慶喜しかいなかった。 この有志大名からかけられた役割期待と共に幕府から
 かけられた役割期待にも応えなければならず両者の利害は対立することがしばしばで対立する期待の中で懊悩の表れ
 が"変節"である。  この変節が現れた代表的な事件が横浜鎖港問題である。 慶喜は開国論者で攘夷論が激昂する
 文久3年でも自説を公言して憚らなかった。 従って横浜鎖港は反対のはずだが文久3年8月18日のクーデター後に
 幕府は薩摩藩の開国論への同調を嫌って横浜鎖港という部分的鎖国政策をとろうとした。 慶喜は翻意を要請したが
 幕府閣僚は将軍の名を借りて政策の変更を肯んぜず、幕府決定に従わざるを得なかった慶喜は酒の勢いを借りて
 横浜鎖港を強要した。 横浜鎖港に反対すると思っていた有志大名は"一橋殿の意見は日頃とは全く相違せり"と唖然と
 なった。 この慶喜変節は幕府と有志大名の利害対立している間ついてまわり慶喜の体質とみなされるようになる。
 有志大名は失望の度を深めつつも期待し幕府も抜きがたい猜疑心をもちつつも必要とした。 慶喜はそうした政治的立場
 にあった。 家茂の死後は名実ともに政局の中心に位置し幕府と有志大名とが慶喜に求めた期待を逆手にとって両者を
 より自由に操作するようになる。 だが自らよるべき権力母体や献身すべき政治体を持たず慶喜の置かれた政治的立場は
 容易に理解される性格のものでなく誤解されやすいものであった。


5. 慶喜に対する評価
  慶喜に好意を寄せる者はまず慶喜の"変節"に当惑し次に躊躇し最後に不信を覚えた。
 孝明天皇の絶大な信頼を得ていた一会桑時代の会津藩士
山川浩(のち帝国陸軍少将)の『京都守護職始末』
 「
一橋卿は資性明敏にして学識あり、加ふるに世故に馴れたるを以って処断流れるが如く頗る人望ありと雖も
  是は単に外観のみ、其実の志操堅固ならずして思慮屡変ず、これに依って前後其処断を異にする事も敢えて
  自ら省みざるのは卿の特性なり
」と言っている。
 朝廷内部における慶喜の支援者にして政友であった
中川宮朝彦親王(久邇宮、中川宮は通称)
 "
一橋の人となりは時々転変し今度上洛以来の現状につきて申さんに文久3年(1863)冬頃の意見を本心とすべきや
  此節・元治元年(1864)3月の意見を本心とすべきや了解に苦しまるヽなり。 故に今後とてもいかなる随意の事
  あるべきか測られず
"と称している。
  自らの政治生命を徳川慶喜擁立運動にかけた
松平慶永
 "
慶喜公は衆人に勝れたる才子なり。 しかれども自ら才略のあることを知って家定公の嗣とならんとの事をひそかに望めり"
 といささか悪意のある不確かな文章を書いている。 その原因の多くは慶喜の政治的態度にあった。 また、"
公は英邁に
 あらせられる故に却って自力のみを頼みて他を顧み給わざるの御過失なしとは申し難し
"と苦言を呈している。


6. 慶喜を囲む主な係累
 (1) 兄弟(徳川斉昭の子女)
  夭逝:男10名+女子8名=計18名 成人:男12名+女7名=19名 子女計37名 
   長男 慶篤:水戸藩10代藩主
    5男 昭徳:因幡鳥取藩32.5万石養子に、14代藩主池田慶徳
    8男 昭融:武蔵川越藩15万石養子に、10代藩主松平(結城)直侯
    9男 昭休:武蔵忍藩10万石養子の後、備前岡山藩31.5万石養子に、11代藩主池田茂政
   10男 昭音:石見浜田藩6.1万石末期養子 4代藩主松平(越智)武總
   11男 昭縄:下野喜連川藩5千石養子に、11代藩主喜連川縄氏
   16男 昭嗣:肥前島原藩6.5万石末期養子に、18代当主松平(深溝)忠和
   17男 昭邦:常陸土浦藩9.5万石養子に、11代藩主土屋挙直
   18男 昭徳:水戸藩11代藩主徳川昭武
   19男 昭則:岩代会津藩25万石養子に、10代藩主松平喜徳
   22男 昭燐:常陸守山藩2万石養子に、8代藩主松平頼之

   長女 賢姫:伊予宇和島藩主伊達宗城婚約者
    3女 祝姫:水戸藩家老・助川海防城主山野辺義正 夫人
    6女 松姫:南部盛岡藩10万石11代藩主南部利剛 夫人
    9女 八代姫:陸前仙台藩62万石13代藩主伊達慶邦 夫人
   11女 茂姫:有栖川宮熾仁親王 夫人
   12女 愛姫:下総高岡藩1万石11代藩主井上正順 夫人
   15女 正姫:因幡鹿奴藩3万石10代藩主池田徳澄 夫人

 (2) 慶喜の子供
  夭逝:男5名+女3名=8名  成人:男5名+女8名=13名 子女計21名
   
4男 厚 :男爵(現日新火災海上保険取締役)
   
5男 仲博:鳥取藩池田家養子14代当主侯爵(大正天皇侍従長)
   
7男 慶久:慶喜継嗣・公爵・貴族院議員 長女喜久子=高松宮
   
9男 誠 :男爵・貴族院議員
  
10男 精 :勝海舟養子・伯爵(浅野セメント・オリエンタル写真工業重役)

   
3女 徹子:一橋家11代当主伯爵徳川達道 夫人
   
4女 筆子:阿波徳島藩蜂須賀家17代当主・貴族院議員副議長 夫人
   
7女 浪子:松平斉(旧津山藩主松平斉民八男) 夫人
   
8女 国子旧高崎藩主大河内輝耕 夫人、養子輝信…旧安芸広島藩浅野長之次男
   
9女 経子:伏見宮博恭(軍令部総長)王妃
  
10女 糸子:四条隆愛・侯爵(陸軍軍人) 夫人、長女富士子=大河内輝信 夫人
  11女 英子:水戸家13代徳川圀順・公爵(貴族院議員) 夫人
   (母:
新村 信、 中根 幸)






                                                         2021.5.20
                   第94回勉強会 「二つの護国寺」

                                                   特別公開ビデオ

T.天台宗  天龍護国寺(講師:中嶋 育夫)
 1. 概要
   当山は第56代清和天皇の御代 貞観六年(864) 上並榎町に延暦寺第三代座主・円仁こと慈覚大師が開山。
  京都の比叡山延暦寺に模して建立され山号を新比叡山、院号を本実成院、寺号を天龍護国寺とした。
   円仁が栃木県壬生町生まれということもあってか北関東の学生僧が集まり宿泊のため僧坊300余を有し、東門は
  現在の研屋本社辺り、西は我峰町辺りで関東一の大伽藍であり、本尊は慈恵(じえ)大師 良源(912〜985)で
  元三大師と呼ばれる。 幾度も火災に遭ったがそのつど再建され今日に至っている。
   円仁が開山・再興した寺は関東に209、東北に331もある。 ちなみに天台宗の宗祖は最澄(767〜822)で
  伝教大師と呼ばれる。 天台宗座主は、
    初代が義真(781〜833)・修禅大師、二代が円澄(772〜837)・寂光大師、
    三代が円仁(794〜864)・慈覚大師、四代が安慧(794〜868)、
    五代が円珍(814〜891)・智證大師で、良源は十八代座主である。

  
 
                本堂                             山門
   高崎藩主安藤家や大河内松平家の城外祈願所として許されたため葵の御紋を本堂屋根瓦や山門幕に
  使用する事が許された(縁日等に掲げている)               



 2. 寺宝の勅額「天龍護国寺」
   延長6年(928) 醍醐天皇が小野道風に書かせ下賜されたと伝わる。
  "度々の戦火を逃れるため、寺の南にあった鏡池に架けられた橋の端に
  くくり付けて守った。" (住職談)。
  愛知県春日井市にある「春日井市道風記念館」には小野道風が全国
  五か所の寺に勅額を書いたと記録され、その中に天龍護国寺もある。

   小野道風(894〜66)は平安時代中期の貴族で
三蹟(跡)と呼ばれる
  能書家の一人。 他の二人は藤原佐理(すけまさ)、藤原行成(ゆきなり)。

   ちなみに空海・嵯峨天皇・橘逸勢(たちばなはやなり)は
三筆と呼ばれる。


 3. 本尊の良源
   当山御本尊の良源は天台宗中興の祖、諡号は慈恵大師。正月三日に入滅したことから元三大師とも、
  "大師さま"と呼ばれる寺(近隣では調布市の深大寺、佐野市の厄除け大師(正式には惣宗寺)、川越市の
  喜多院、前橋市の青柳大師など)の縁日は正月三日となっている。
   当山の東北の角に建つ案内石塔には"厄除け元三大師 天龍護国寺"とある。 御朱印も"厄除元三大師"
   で護摩符は元三大師が鬼の姿になり疫病神を退散させたときの姿を写し取ったもので角大師などと呼ばれ
   魔よけのお札として知られ江戸時代以降全国に広まった。 江戸時代は門松の後ろにこの札を貼る風習が
  あり、川柳に"門松に 隠れ顔なり 角大師"と詠まれている。
  
  
       案内石塔                御朱印                    護摩符


 4. 並榎八景絵巻
   文化元年(1804)に群馬郡本郷村(現本江町)の狩野派の絵師である神宮守満が近江八景にちなんで
  護国寺から眺めた風景を描いた「並榎八景絵巻」が残されている。当山の16世住職一元上人を中心に
  高崎の風流人が呼んだ漢詩と和歌が添えられている。
 
 
          @ 新比叡山晩鐘                         A 稲荷山墓雪
         漢詩:鳥山宜範(高崎藩士)                漢詩:鼎亭彭(本町 梶山与惣右衛門)
         和歌:慈縁(一元上人)                   和歌:佳明(高崎藩士)


  
            B 雁田落雁                            C 烏川漁舟
         漢詩:田熊(高崎医師)                   漢詩:南陵金正風具(豊岡の住人)
         和歌:知恒(田町の商人)                  和歌:敬徳(田町絹問屋 羽鳥四郎兵衛)


  
            D 愛宕晴嵐                             E 片岡秋月
         漢詩:流水軒(長松寺住持)              漢詩:鳥水田豹(砂賀町の医師)
         和歌:宋閑(田町の商人)                和歌:深井景平の母(高崎藩士深井藤兵衛の妻)


  
            F 唐崎夜雨                              G 筏場
         漢詩:周明(群馬郡箱田村の仏工)                漢詩:大沢知恒(田町の商人)
         和歌:良真(岩鼻村観音寺住職)                 和歌:武雅(上並榎村名主)


 5. 境内の史跡
  (1) 稲荷山古墳出土石棺の蓋
    当山の周辺には古墳がかなり多くあったと思われる。 稲荷山古墳は、当山の東に架かる稲荷橋を
   北に行った方面、現在の真木病院の南付近にあった。 全長120m,後円部径73m,高さ8.2mの前方後円墳で
   この石棺は明治25年(1892)稲荷神社社殿改築時に後円部墳頂で発見された。
    昭和31年(1956)第四中学校新設工事に白鳥飛来の湿地であった学校敷地を稲荷山古墳の土砂で埋めた。

  (2) 信玄の鍋掛石
    武田信玄が西上野侵攻時に当山を宿舎として使用したため長野業正の攻撃で戦火に見舞われ建物から
   文書類まですべて焼失してしまった。 信玄の宿営炊飯の際に鍋を掛けたと言われる。
  
 
              石棺の蓋                              信玄の鍋掛石

  (3) 奉読誦法華妙典一萬五千部供養塔
    宝暦2年(1752) 南の正門左横に建立。 檀家や寺に関係者のみならずこの世の人々の霊をあまねく供養すると
   いう証。

  (4) 念佛一億供養塔
    文化11年(1814) 山門左横に「並榎八景」の主催者 一元上人慈縁が建立。

  (5) 庚申碑
    万延元庚申(1860) 山門右横に当所講中が建立。 庚申は十干十二支の庚(かのえ)申(さる)で
   年号、日付、時間の単位で巡る。 庚申信仰は庚申の日の夜に体内に住む三尸(さんし)の虫が身体から
   抜け出しその人の悪い行いを天帝に報告し寿命を縮めるので身を慎んで徹夜し三尸が報告できないように
   する風習。
  
  
        一萬五千部供養塔          念佛一億供養塔          庚申碑


 6. 日枝神社

   天龍護国寺に隣接して建つ当社は
  貞観年間(859〜877)に近江国坂本
  日吉大社から勧請し寛政3年(1791)
  当山14世智廣が境内に石宮を建立。
   近江国の日吉大社は日枝山(後に
  比叡山と呼ばれる)の神である大山咋命
  (おおやまくいのみこと)を祀った。
  比叡山に最澄が天台宗延暦寺を開いて
  からは大山咋命・大物主神を守護神とし
  日吉神社・日枝神社ともいう。全国に
  ある3800社の日枝神社の本社である。
                                   左:日枝神社        右奥:稲荷社



U.真言宗  大聖護国寺(講師:堤 雅之)
 1. 概要
   当山は八幡町の上野国一社八幡八幡宮の東に隣接している。 江戸時代は同社別当寺で現在は八幡宮と
  続けて参拝する"ふたとこ参り"という
神仏習合が復活?されている寺院である。
 
 
             八幡八幡宮                         大聖護国寺

   健保4年(1216)に高野山別格本山清浄心院の定弘法師が開山し山号は神通山、院号は遍照院、寺号が
  大聖護国寺。 宗派は真義真言宗の豊山派(本山は奈良県桜井市長谷寺)に属する。 本尊は不動明王。
   三代将軍家光の子 綱吉が館林城主に就くと母である桂昌院が帰依していた亮賢を招き住職とした。
   桂昌院は本尊の不動明王を含む五大明王(密教特有の尊格である明王のうち中心的役割を担う5名の明王で
  不動明王を中心に東西南北に配置)や、三十六童子(不動明王の眷属36名の童子)など多くの仏像を寄進し
  山門や客殿及び不動堂を建立している。 桂昌院の深い信仰もあり当山は隆盛を誇ったが天保8年(1837)
  に不動堂脇より出火し伽藍の多くを焼失した。 しかし五大明王・三十六童子等は焼失を免れ現在に伝えられ
  修復作業中である。
  
  
   波羅波羅童子      不動明王          開山八百年で堤会員が手掛けた客殿

 2. 桂昌院
   京都の八百屋の娘に生まれたと言われ名前をお玉と伝えられる。父は北小路(本庄)太郎兵衛宗正。
  寛永16年(1639)3代将軍家光に公家の姫出身の伊勢慶光院尼僧(お万の方)が見初められ大奥に入ると
  その方の部屋子として大奥に入り仕えた。 やがて春日局の目に留まると指導を受け将軍付御中臈となり
  家光に見初められ側室お玉の方になる。
   正保2年(1646)綱吉を生み、慶安4年(1651)家光が逝去すると落飾し桂昌院となり大奥を離れ
  筑波山知足院に入る。 綱吉が将軍に就くと江戸城三の丸に入り女性最高位の従一位藤原光子の名前を
  賜る。 八百屋の娘から将軍の生母となったため"玉の輿"の語源とされる。 また、弟の本庄宗資は桂昌院の
  縁故から大名に取り立てられ足利藩を経て笠間藩4万石に、宗資の跡を継いだ資俊は松平姓を賜りこの家は
  笠間から浜松藩、吉田藩を経て廃藩置県まで宮津藩7万石藩主を務めている。

 3. 桂昌院と当山との関係
   当山二十四世亮賢は上野国生まれ、富岡の得成寺で出家し長谷寺で修学。卜筮(ぼくぜい)の名声が
  高かった。 桂昌院が家光の子を身ごもった時、亮賢に安産祈願を依頼し無事誕生後も吉祥の相を
  言い当てたともされる。 桂昌院は深く不動明王を信じ延宝2年(1674)に当山に山門・不動堂・客殿の
  伽藍を寄進した。 そのこともあり当山は隆盛を誇った。
   綱吉が五代将軍に就任すると桂昌院は江戸城に入り祈願寺として江戸音羽の高田薬園に神齢山悉地院
  大聖護国寺を建立し亮賢を初代住職に招き入れた。

 4. 伽藍の整備
   本堂は昭和55年(1980)に立て直され、平成27年(2016) 開山800年にあたり記念事業として本堂や客殿
  不動堂などが新築され枯山水の桂昌庭も造園されている。
  

       不動堂                        本堂                客殿

  
 
      綱吉公・桂昌院・亮賢和尚のお墓                      山門

 5. 本庄氏と大河内松平氏の関係

   桂昌院の出身である本庄氏は大河内松平氏が藩主を務めた
  高崎藩及び吉田藩・大多喜藩と結び付きが深く大河内松平氏
  から養継嗣や藩主夫人を受け、高崎藩は本庄氏から養継嗣を
  受けている。 桂昌院の弟宗資の系統は資俊(笠間・浜松)、
  資訓(浜松・吉田)、資昌(浜松・宮津)、資尹(宮津2代)、
  資承(3代)、宗允(4代)、宗発(5代)、宗秀(6代)、宗武(7代)
  と藩主を務め、資訓の継々室は高崎藩主松平輝貞養女、
  宗允の室は高崎藩主松平輝和の娘、宗秀の継々室は高崎藩主
  松平輝延の娘で資承は大多喜藩松平正温三男からの養継嗣で
  あった。 また桂昌院の兄の北小路道芳は本庄を名乗り、
  館林藩家老に、孫の道章が美濃高富藩1万石の大名になった。
  5代道信は大多喜藩松平正温次男、6代道揚は吉田藩松平信復
  五男、9代道貫は吉田藩松平信明四男からの養子。
   一方8代道昌の五男は高崎藩主輝徳の養子となり8代松平輝充
  を名乗っている。

 
    家紋・九つ目結
     護国寺の寺紋
     本庄氏の家紋

 

 6. 仏像の修復と庭園
   現在当山では仏像の修復が進行している。 2005年の本堂改築の際に仏像修復を担当した仏師が修復を
  開始した際に本尊の内繰り空洞の中から"延宝2年館林藩徳川綱吉母桂昌院"と書かれたものを発見し桂昌院
  の寄進ということが確認された。 三十六童子は本土の箱の中から手足バラバラで発見され現在修復中。
   4か月で一体を修復するペースのため令和7年完了、不動明王を囲む四大明王は令和9年頃完了予定であり
  41体が並ぶ不動明王曼荼羅の世界が出来上がる。
   客殿に枯山水の庭園「桂昌庭」が造られている。 桂昌院の一生を岩で表現した高崎では見られない美しい
  庭園である。
  
 拝観可能日など詳細はコチラ
                  桂昌庭








             「漢詩 内山峡」の石碑 中央下側に”青天を衝く”と有り
                                                         2021.3.18
                   第93回勉強会 「渋沢栄一 二つの疑問」


 渋沢栄一は"近代日本資本主義の父"と称せられる。 我が国へ資本主義経済を採り入れ多くの事業を起こした
実業家でありながら私利私欲による弱肉強食の競争を諫めた。 他方並行して社会事業にも尽力し先駆的な役割
を果たされた。 その片鱗は青年時代に顕れているが当時の思いは後の人生とは真逆で過激な攘夷思想に傾倒し
頼りにならない政府の転覆を考えていた。
 
なぜ攘夷思想に染まり高崎城襲撃を思い立ったのか。 なぜ徳川幕府体制が諸悪の根源と思いながら一橋家に
仕官したのか。 二つの疑問について考えてみよう。

Tなぜ幕府転覆を思い攘夷思想に染まったか
1. 岡部藩政による影響
  渋沢栄一が高崎城を乗っ取り兵備を整えた後に横浜で外国人焼打ちにするという過激な計画を思い立つきっかけ
 が岡部藩政である。 自伝で"岡部藩の役人が御用金を命じる態度に憤り、世官世職の積弊が充満し政府を腐敗
 させているので徳川の政府は滅亡するに相違ない"と述懐していることからうかがえる。

 (1) 生誕地の領主 岡部藩
   渋沢栄一の生まれ育った武蔵国榛沢郡血洗島村は岡部藩領の一部であった。 岡部藩は安部氏が旗本から
  成上った譜代小藩で四代信峯の時に岡部村に陣屋(城持ちになれない大名の館)を設けて支配したので岡部藩
  と呼ばれ、明治元年に十三代藩主信登が三河国八名郡半原村に陣屋を移したため半原藩とも呼ばれる。
   慶安2年(1649)に信盛が大坂定番に任じられ1万9千石余を宛行われて大名になり、江戸時代を通じ13代に
  亘って転封せず石高2万石前後で廃藩置県まで続いた。 その所領は5か国10郡に分散しているうえ小さな村
  ばかりで米経済では苦労があったと思われる。 また、藩主は江戸定府で四・五代以外は大坂定番や大坂加番
  を務め藩主や家臣は江戸や上方の文化に接する機会が多く文化度は高かったのではないか。
   大坂定番は在番中役料が3000俵、大坂加番は在番中禄高同等の合力米が加給された。 ただ幕府役人や
  他藩との交際、江戸大坂の物価高など出費の苦労があったと推測される。

 (2) 藩主安部氏
   安部氏は信濃国諏訪郡から駿河国安部谷に移り住み元真が"安部"と称した。 元真は今川義元・氏真に仕え
  安部谷に知行を受けていたが武田信玄の侵攻を機に徳川家康に仕えた。 元真の後を継いだ信勝は家康が関東
  入国のとき武蔵国榛沢郡と下野国梁田郡に5250石余の采地を与えられた。 慶長5年(1600) 大坂で信勝が
  死去し信盛が17歳で家督を継いだ。 寛永13年(1636) 三河国八名郡4000石の加増を受け慶安2年(1649)
  大坂定番に任じられると摂津国豊島・川辺・能勢・有馬郡に1万石加増され大名に列せられた。 二代信之
  20250石を宛行われ、以後信友、信峯,信賢,信平,信允,信亨,信操,信任,信古,信宝,信登と13代に亘り転封
  せず続き、初代信盛から三代信友、七代信允と八代信亨が大坂定番に、計8人・12回も大坂加番に就いている。
   大坂定番の任期は不定期、加番は1年で複数人が就任している大名も多くみられる。 また、定番は就任手当
  加番は在任手当が支給されるので就任を希望する藩もあったという。
   

   安部氏の出世は徳川家康の母於大の方の閨閥が要因と考えられる。 於大の方は水野忠政の次女で弟に
  水野忠重(徳川二十将の一人、伊勢神戸城主)がいる。 その忠重の娘が家康の旗本岡部信勝(岡部藩初代
  藩主信盛の父)の正室である。 つまり正室が於大の方の姪、徳川家康の従妹にあたり同じ大坂定番を務めた
  保科正貞が出世したケースに似ている。 正貞の父正直の室は於大の方と久松俊勝の子供多劫姫で正貞と家康は
  伯父・甥の関係にあたる。 加えて正貞は兄正光の養子になっていたが二代将軍秀忠の三男正之が保科正光の
  養子となったため廃嫡される。 しかし正之が秀忠の子として正式に認められたので正貞は保科家の正統を継承した。
   家光の配慮もあり大坂定番就任を契機に摂津国に1万石加増を受け大名になり上総飯野藩を立藩。
  両家共に出世したのは家康の母″の血筋家柄のハロー効果に他ならない。

 (3) 岡部藩領
   初代藩主阿部信盛は父信勝から旗本として5千石の家督を相続し加増され1万9千石の大名に出世したが、
  そのキッカケは大坂定番就任に際し摂津国内に加増されたことである。 旗本から成上った大名の典型で所領は
  5か国10郡に分散し武蔵・上野国は岡部陣屋、三河国は八名郡半原村(新城市富岡)の半原陣屋、摂津・
  丹波国は豊島郡野畑村(豊中市桜井谷)の桜井谷陣屋で管理していた。

      

 (4) 御用金問題
   栄一が岡部藩の陣屋代官が御用金を命ずる態度が横柄で憤りを感じたと述懐している。 何故そのような
  態度をとったのか。 陣屋を置いた武蔵国榛沢郡は下手計・矢島・普済寺・岡部村で各村は800石を超えて
  いるが米生産は平均450石弱と少なく米経済上では豊かな村々とは言えず全藩領の4分の1に過ぎない。
   血洗島村は村高554石のうえ旗本徳永鋳次郎との相給(複数支配)であったが藍玉の生産販売がこの村の
  経済を潤していた。 羽生から深谷にかけ利根川沿いの埼玉県北部の藍玉は生産量では本場徳島の阿波藍に
  劣るが江戸に近い利点があり米だけの村に比べれば現金収入があり裕福であった。 このことから年貢の他に
  御用金(調達金或は才覚金)を求められることが定例化していたと思われる。
   領主の徴税の基本は米であったが藩財政補填のため御用金と称する借入金に頼った。 例えば高崎藩でも
  飛地の銚子領では醤油という特産物による多額の現金収入があったためほぼ毎年のように造醤油仲間に対し
  才覚金の御用があった。 藩から依頼状が仲間代表に出され仲間が図って案分し代表が金子をまとめて渡した。
  領主側としては借入金であるから横柄な態度をとることはない。 栄一が岡部藩の陣屋代官が横柄な態度を
  とったと述懐しているが別の岡部藩陣屋役人にトラブルが生じていることから岡部陣屋にも不良な役人が
  いたかもしれない。 摂津国と丹波国の飛地を支配していた桜井谷陣屋で役人が不正横領し、それに対して
  桜井谷6か村(南刀根・北刀根・少路・野畑・柴原・牧田)が二度に亘って百姓一揆を起こしている。

 


 2.  攘夷思想の影響を及ぼした人々
  (1) 師であり同志の従兄弟
  ア.尾高新五郎惇忠(1830〜1901)
    栄一の父元助(市郎左衛門)の姉やえと下手計村名主尾高勝五郎保孝の子、栄一の従兄にあたる。
   17歳で私塾尾高塾を開き漢学を教授、水戸学の信奉者として尊皇攘夷思想を栄一に教えた。 栄一と共に
   高崎城襲撃・横浜異人街の攘夷を計画。 戊辰戦争の際は従弟渋沢成一郎と共に彰義隊に入り箱館まで
   参戦している。 明治維新後は栄一の縁で
官営富岡製糸場の初代場長を務めた。
    惇忠からの栄一に対する攘夷の影響は、横浜異人街襲撃に繋がり渡仏頃まで攘夷の想いを持っていたが
   外国と商売する考えも秘めており淳忠の教えに対し闇雲ではなかったと思われる。 徳川斉昭の攘夷には
   懐疑的で、『実験論語処世談』に"(水戸)烈公と仰せられる方が元来世間で評判せられるほどに偉大な人物
   でなく、余程偏狭な処があって実際は政治の手腕は乏しかったものとみえ藩内の党争が絶えず…"偏狭な人
   と称している。

  イ.尾高長七郎弘忠(1836〜1868)
    江戸の海保塾で儒学を学び講武所剣術教授伊庭秀俊の下で心形刀流を学んだ。 兄惇忠の影響から
   長州藩の久坂玄瑞や
多賀谷勇、薩摩藩の中井弘伊牟田尚平、水戸藩の原市之進、出羽国出身の
   
清河八郎ら尊皇攘夷派志士らと交流した。 文久元年(1861)栄一が下谷練塀小路の儒学者海保漁村の
   塾に入ったのは長七郎の導きであった。
    長七郎は輪王寺宮(有栖川宮韶仁親王第2皇子)を擁立し日光山で攘夷の挙兵を図るため多賀谷と共に
   宇都宮藩の
菊池教中を訪ね、菊池の縁者で藩の教授を務めていた大橋訥庵に協力を求めたが大橋や水戸
   藩士の一部は老中安藤正信襲撃を計画していたので賛同を得られず取り止めた。 長七郎もこの謀議に加わる
   ことになる。 しかし計画変更を郷里の仲間に伝えるため戻っていたところ謀議が漏れ一部の者で決行。
    その嫌疑を逃れるため栄一の手引きで京都へ逃亡した。


    ・多賀谷勇(1829〜1864) 萩藩家老毛利筑前家臣。坂下門外の変計画で捕縛。
    ・伊牟田尚平(1812〜1869) 薩摩藩領主肝付兼善家臣。清河八郎の"虎尾の会"、
      米国公使館員ヘンリー・ヒュースケンを暗殺。喜界島に流罪、赦免後に江戸で破壊工作。

    ・菊池教中(1828〜1862) 江戸の豪商佐野屋二代目。安政の大地震で大打撃を受け姉の夫大橋訥庵
      の伝手で宇都宮藩の新田開発に功績を挙げ、士籍を与えられ菊池姓に。

    ・大橋訥庵(1816〜1862) 上州群馬郡出身の長沼流兵法家清水赤城四男。宇都宮藩主戸田忠温
      の招きにより江戸藩邸で儒学を教授。
坂下門外の変の計画者

  ウ.渋沢成一郎(1838〜1912)
    幼名は喜作、明治以降も喜作を名乗る。 従弟の栄一と行動を共にして一橋家祐筆となる。 栄一がパリ万博で
   渡仏中も幕臣としての行動をとった。 鳥羽伏見の戦いに参戦し慶喜の大政奉還に最も反対したが江戸帰還後は
   将軍慶喜警護を主張し志を同じくする幕臣らを集め彰義隊を結成。 投票で頭取就任も武闘派副頭取
天野八郎
   と対立し彰義隊を脱退。 振武隊を結成し新政府軍と戦い敗戦後に榎本武揚率いる旧幕府脱走軍に合流し
   箱館戦争に参戦・投降し投獄される。 明治以降は赦免され栄一の仲介で大蔵省に勤務後民間財界で活躍した。


    ・天野八郎(1831〜1868) 上野国甘楽郡磐戸村(南牧村)名主大井田吉五郎の次男。 慶応元年(1865)
      定火消与力広浜家の養子、将軍家茂第三次上洛時に200俵取りの武士となり出生地の"天の岩戸"にちなみ
      天野八郎と改名。 彰義隊結成に加わり副頭取に推挙されたが渋沢成一郎と意見対立も江戸府内での徹底
      抗戦を主張し頭取並となり実権を握る。 敗戦後戦場を脱出したが捕えられ獄中死。

 (2) 志士との交流
   江戸で尊攘派志士と交流していた尾高長七郎は折々江戸から友人を連れてきて慷慨憂世(世を憂い怒り嘆く)の
  談論を行っていた。 栄一も志士を自邸に招じて国事を談じ攘夷の熱病に染まって行く。 志士は薩摩の
中井弘
  長州の多賀屋勇、宇都宮の広田精一や戸田六郎等であった。

    ・中井弘(1839〜1894) 薩摩藩士横山休左衛門詠介の子。脱藩して京へ上り浪人となり後藤象二郎や
      坂本龍馬らと交流。 慶応2年(1866)イギリスへ密航留学、翌年春に帰国し宇和島藩周旋方となる。
      佐賀県知事、貴族院議員。鹿鳴館の名付け親。

    ・広田精一(1840〜1864) 大橋訥庵に学び宇都宮藩の藩校修道館教授。 禁門の変で長州軍に加わり
      真木和泉らと共に天王山で自刃した。

 (3) 江戸遊学
   文久元年(1861)長七郎の伝手で下谷練塀小路(千代田区神田練塀町85番地付近)の儒学者海保漁村の塾に
  入り神田お玉が池ほとり(千代田区岩本町2丁目)の北辰一刀流道場玄武館で剣道を研いた。 海保塾と玄武館は
  1Kmほどの距離にあり学者町で玄武館の門人も学問に接する機会も多く政治情勢に関心を持ち尊皇攘夷運動に
  走る者が多かった。 尊攘派志士や佐幕衛士として活躍した者が数多く栄一にも影響を及ぼしたと思われる。
   後世に伝わる話は海保塾での影響より玄武館で修行した剣士に尊攘活動家が多く高崎城襲撃計画の際にも
  栄一と行動を共にした者は玄武館門人が主であった。 栄一の真の目的は塾生や武芸者と広く交遊を求めて
  相語るに足りる人材を物色しそれらの人々と力を合わせ一丸となって積年の大望を遂げたいとの思いであった
  からと振り返っている。


 (4) 坂下門外の変
   文久2年(1862)1月15日 水戸浪士6名が江戸城坂下門外で老中安藤信正を襲撃し疵をおわせた。 その3日前
  1月12日に計画が漏れ首謀者大橋訥庵が南町奉行所に捕縛された。 訥庵は公武合体を否定し幕府打倒を説く
  王政復古論者で老中を暗殺し朝廷から攘夷の勅命を受け一橋慶喜を擁立して日光山に挙兵することを画策した。
  長七郎は訥庵らの老中暗殺計画に加わることになり兼ねてからの攘夷経過の変更を仲間に伝えるため手計村へ
  戻っていた。 長七郎が江戸へ戻るのを栄一は引き止め京へ逃し自身は坂下騒動に関係して捕縛された人々の
  留守宅を歴訪し嫌疑の目で見られていた者を逃走させるなど後始末をした。 当時の京都は攘夷論の根本で
  諸藩有志家も集合し議論が多く今の実情を知ることに役立つと思い京都行きを勧めたと栄一は述懐している。
   面白いのは、この時は栄一が長七郎の無謀な行為を止めたが、後日高崎城襲撃計画の際には長七郎が栄一らの
  暴挙を諭すことになる。 結果として長七郎の京都情報収集が冷静な判断に結びついた。



 3. 玄武館剣士と高崎城襲撃
  北辰一刀流玄武館道場には諸藩の武士が出入りしていたため尊攘派の志士らも修業しながらも政治・海防などに
  ついて激論を交わしていた。 直に接しなくても栄一に感化を及ぼした剣士も多く栄一の方も大事を共に出来る
  人物を探した。 結果としての大事は高崎城襲撃でその仲間は玄武館で絆を深めた剣士たちであった。

 (1) 玄武館とは
   剣術道場"玄武館"は千葉周作(1794〜1856)が創始し幕末期の江戸三代道場の一つとして隆盛を誇った。
  玄武館には江戸に藩邸を構えた多くの大名家臣が学び道場内ではペリーの来航を機に世情不安な情報が飛び交った。
   天保10年(1839)周作が水戸藩徳川斉昭の招きで水戸藩剣術師範となり同12年馬廻役100石の扶持を受けた。
  次男栄次郎、三男道三郎も同藩馬廻役になっている。 このような状況から玄武館では尊攘運動を通じ水戸藩士ら
  と交流を持つ者が多く弟子が天狗党の乱に関わったため水戸藩で北辰一刀流は禁止となった。
   栄一が入門したときは栄次郎の代になっていたが尊攘思想を中心に政治情勢に対する議論が行われていた。
  次男栄次郎は文久2年に29歳、三男道三郎は明治5年に37歳と若く死去したため閉館。 明治16年に周作の孫が
  山岡鉄舟の後見を受け再館した。

 (2) 玄武館の剣豪
  ア.森要蔵(1810〜1868)
   玄武館四天王と謳われた剣豪で麻布に道場を開き門弟が千人も抱えた。 上総飯野藩保科氏の家臣となっていた
   ため藩主保科氏の本家保科松平氏を支援するため会津戦争に息子虎雄(16歳)と参戦し戦死。 玄武館には
   攘夷志士が多い中、佐幕派の一員として意地を貫いた一人。 孫に野間道場を開いた野間清治(講談社創設者)
   がいる。

  イ.有村治左衛門(1839〜1860)
   薩摩藩士の四男として生まれ薬丸自顕流を学び北辰一刀流を修める。 水戸浪士と交流、桜田門外の変に参加
   し井伊直弼の首級を挙げたとされる。 この大事件は栄一が江戸へ遊学する1年前の出来事であるが同世代の
   栄一に影響を与えたと思われる。


  ウ.清河八郎(1830〜1863)
   安政元年(1854)弱冠25歳で神田美川町に"清河塾"を開く。 嘉永4年(1851)玄武館に入門し北辰一刀流兵法
   免許を得る。 文武兼備し弁舌に優れた英才、桜田門外の変の1か月前に"虎尾の会"を結成。米国公使館員
   ヒュースケンを暗殺し監視していた幕府の手先を無礼斬りし追われ身であった。
    文久2年(1862)11月、幕府政治総裁松平春嶽に建白書を提出し認められ、翌年十四代将軍家茂の上洛を
   護衛するため結成された浪士組を率い上京するも本意は尊皇攘夷としたため江戸へ戻された。 京に残った芹川鴨
   や近藤勇らが後の新選組を組織した。 江戸に戻り尊攘活動を進め幕府に狙われ新徴組佐々木只三郎らに暗殺
   される。 "回天の魁士"と称され時代を憂う多くの人物に影響を及ぼした。
  
  
        清河八郎像         清河神社(山形県清川町)

  エ.新選組隊士
   新選組にも北辰一刀流剣士が何人もいた。 近藤と意見対立から切腹に追い込まれた総長 山南敬助(1833〜1865)、
   初期隊士最年少で天然理心流試衛館でも修業した副長助勤・八番隊長 藤堂平助(1844〜1867)、
     藤堂が北辰一刀流伊東道場で修業した縁から入隊した参謀兼文学師範伊東甲子太郎(1835〜1867)がいる。
     伊東は御陵衛士を組織し脱退、尊攘運動に動き新選組隊士によって暗殺される。


 
4. 行動を共にした玄武館の門人
   栄一が大事を打ち明けても良いと信じた朋友は玄武館の真田範之助,横川勇太郎,竹内練太郎,佐藤継助、海保塾の
  中村三平の5名であった。

  ア.真田範之助
    天保5年(1834)武州多摩郡左入村(八王子市加住町)豪農名主 小峰久次郎の長男として誕生。 父は八王子
   千人同心 増田蔵六に天然理心流を学び免許皆伝となり自宅内に道場を設ける。 範之介は弟松之助と父の道場で学び
   19歳で戸吹村(八王子市戸吹町)の天然理心流松崎和多五郎に師事し中極目録を得て下恩方村(八王子市上恩方町)
   の同流山本満次郎に学ぶ。 "天然理心流三術并薙刀武術門人姓名録"に記録されており、剣術・柔術・棔法(棒術)
   を含めた正式な三術を修得した。 その後北辰一刀流玄武館に入門し千葉栄次郎没後は塾頭を務めた。
    尾高長七郎を玄武館へ導いた人物。 水戸藩武田耕雲斎との交流から天狗党の旗上げに際し資金面の協力と
   同志を集め天狗党へ参画しようと一派を率いた横浜襲撃で鹿島に向かう途中に幕吏に追われて江戸に逃げ潜伏。
   結局、江戸市中警護の
新徴組に見つかり包囲され6名と斬り合い斬殺された。 31歳

  イ.横川勇太郎
    弘化4年(1847)武蔵国多摩郡横川村(八王子市横川町)の名主横川十右衛門長男として誕生。 横川家は八王子
   千人同心の家柄で勇太郎は14歳で北辰一刀流玄武館に入門。横川村と一里ほどの左入村出身の真田範之介が塾頭を
   務めていたからであろう。勇太郎は範之助を兄のように慕い尊王攘夷運動に身を投じたが不完全燃焼であった。

  ウ.竹内練太郎・佐藤継助
    大正2年3月の竹内練太郎の顕彰碑除幕式に参列した渋沢は"(竹内は)下総小金の人で豪農ではないが身柄の良い
   農家の出身。千葉周作道場の撃剣生で窃に相語らい死を与にする盟を締いし仲"と式辞を奉じている。
    佐藤継助は盛岡藩士、戸田一心流長嶺七之丞門下。

 5.高崎城襲撃計画
 (1) 目的は天下の耳目
   栄一は尾高惇忠による教授に加え江戸遊学時における道場仲間からの感化により攘夷一途に思い込み幕府では
  攘夷は出来ないと考え天下の耳目を驚かすような大騒動を起こし幕政の腐敗を"洗濯"し国力を挽回すると暴挙を
  企てた。 事を起こす対象が高崎城であった確固たる理由は分からないが目的からして成功後については論外で
  あったかもしれない。 後日高崎城襲撃について"向不見の野蛮な考えで笑うべき話"と述懐していることからして
  蜂起することしか考えていなかったのであろう。

 (2) 未遂に終わる
   血洗島村から近い比較的大きな城は高崎城か忍城(行田市)で距離も約27qと約23qで似たような地にある。
  高崎藩8.2万石に対し忍藩は10万石。栄一は藍の買い付けで上州へ来ていたので忍より高崎の方が身近であったの
  だろう。 高崎城を襲撃して武器を奪い鎌倉街道を南下して横浜異人街襲撃を計画した。 襲撃班は栄一ら千葉道場
  出身の"慷慨組"や北武蔵の土豪出身儒者を中心とした"天朝組"と九十九里の"真忠組"があった。 "真忠組"だけが
  立ち上がり幕府の追討を受け壊滅した。 いずれにしても計画だけで実行しなかったことが後の渋沢栄一の人生を
  助けることになった。




U. なぜ一橋家に仕官したのか
  栄一は岡部藩のやり方に不満疑問を抱き幕藩体制変革の思いが昂じて倒幕に向かい攘夷運動に感化され高崎城および
 横浜異人街の襲撃に命を懸けていた。 しかし幕府側の一橋家に仕官しパリ万博徳川昭武一行の随行員になっている。
  表面的に見れば真逆の身に変わった背景には一橋家の家臣構成と仕官を取り持った平岡円四郎の存在があった。
 ただし、幕府に仕官した意識は持っていなかった。


 1. 一橋家とは
 (1) 大名とは異なる御三卿
   八代将軍吉宗が将軍家に後嗣がない場合の供給先として御三卿を設定しその一つが一橋卿である。 家康が将軍
  後嗣供給先として制定した御三家は吉宗と尾張藩主徳川宗春の確執から将軍家との血縁関係が疎遠になっており
  紀州藩主慶福が家茂と改名して十四代将軍になるまで後嗣供給先でなく御三卿は独立した家でなく将軍家家族の存在
  であった。 一橋卿初代は吉宗四男の宗尹で四代斉礼までは親子で繋がったが以降は短命続き養子を迎えて維持された。
   8ヶ国22郡に分散した10万石の領知は所領の大名と異なり賄料に過ぎず当主が変わっても問題にならなかった。
  


 (2) 幕臣と抱人の家臣団
   近世大名家臣団は知行を媒介とした主従関係で構築されていたが御三卿の家臣団は大名家とは大きく違っていた。
  家臣は幕臣と抱人(独自採用)から構成され幕臣は御三卿邸を幕府一役所として扱われ大名家に仕えているのと異なり
  一橋卿の家老等上級役人(いわゆる八役)は幕臣の一時的出向先であった。 また抱人は随時採用のため栄一も農民
  からの下士であるが簡単に仕官できたのである。 一橋卿が発足してから122年の間に家老に就いた者が62名もいた。
   その在任期間は最長18年の者もいたが1年に満たない者が6名もおり平均の在任期間は4,5年でまさに一時的な
  ポストであった。 平岡円四郎もその一人で在任期間は1か月であった。



 2. 仕官のキッカケ平岡円四郎
 (1) 平岡円四郎
   文政5年(1822) 下谷練塀小路に旗本岡本忠次郎正成の四男として生れ1838年に旗本平岡文次郎の養子となる。
  諱は芳中。川路聖謨,橋本左内,藤田東湖らと交際があり、嘉永6年(1853)東湖の進言により一橋慶喜の小姓になる。
   安政の大獄では一橋派の危険人物として処分され小十人組に左遷。 文久2年(1862)12月に慶喜が将軍後見職に
  就任すると翌年5月に一橋卿用人に復帰した。 一橋家は用人が政務を執ることになっていて家老は幕臣の老後の
  務め場所であった。 平岡が聡明で学問を好み雄弁家であったため慶喜の知恵袋として敏腕をふるい名を轟かせて
  いた。 栄一の述懐によると"
幕吏のうちではずいぶん気象のある人で書生談などがいたって好きであった"と言う
  ように格式が基本の江戸時代にあって特異な人物であった。 ただ主君慶喜が公武合体派の中心的立場にあったため
  それを推進する仲介役として攘夷派駆逐を画策したため攘夷派から狙われ、元治元年(1864)5月一橋家家老に就くが
  6月に水戸浪士の江畑広光や林忠五郎らによって人一橋邸の傍らで暗殺された。 栄一は旅先であったため14,5日
  経って知った。 43歳であった。

 (2) 栄一と平岡
   平岡は下谷練塀町に住んでおり栄一は同じ町に在った海保塾と近くのお玉が池の千葉道場に通っていたので知人の
  紹介で喜作と共に知り合いになり二人で度々訪問して懇意になっていた。 そして平岡から"
足下らは農民に生れた
  ということであるがだんだん説を聞いて談じ合ってみるといたって面白い心がけでじつに国家のために力を尽くす精神が
  みえるが残念な事に身分が農民では仕方がない。 幸いに一橋家には仕官の途もあろうと思うし拙者も心配して
  やろうからすぐに仕官してはどうだ
"と一橋家への仕官を勧められたこともあった。
   そのことから京都へ向かう際に平岡宅を訪ね夫人に面会し京都へは一橋家用人平岡円四郎の家臣としての先触を
  出すことを許されるべく依頼に及んだ。 夫人は平岡からは両人が訪ねてきたら許してやれと言われていた。
  このため無事東海道を通過できた。 ただこの時も平岡の家来になる気は毛頭もなく京まで無事着く便宜上のことで
  あった。



 3. 仕官の勧めに対し
 (1) 栄一の人生観
   栄一は"
高山彦九郎(勤皇思想家・新田郡細谷村出身)や蒲生君平(儒学者・宇都宮出身)のように気節のみ高く
  功能のない行為で一身を終るのは感心できない。 潔いという褒辞は下るであろうが世の中に対して少しも利益がない。
   志がある人だといわれても世のために効がなければ何にもならぬ
"と述懐しているように非常に現実的な考えの人で
  ある。 行動を共にする渋沢喜作が"
幕府を潰すことを目的に奔走しながら今日にその支流の一橋に仕官することに
  なれば活動が尽きて糊口の工夫を設けたと謂われる
"と言ったが今日卑屈と謂われても糊口のために節を枉げたと
  謂われても自身の行為をもって赤心を表白するという意念を堅め焦眉の場合だから試みに一橋家へ奉公に出掛けて
  みようと出向いた。

 (2) 一橋卿への仕官
   平岡に対し"
一橋公が当世に志あるものを召し抱えもし一朝天下に事のあった時にはその志士を任用して現在の禁裏
  守衛総督の職掌を尽くす考えがあるなら鎗持ちでも草履取でも役目の高下は毫もいとわない
"と伝え、慶喜との謁見に
  進んだ。 慶喜との謁見に際しても臆することなく持論を述べている。 今日は幕府の命脈もすでに滅絶状態である
  のに幕府の潰れるのを繕うとすれば一橋家も潰れる。 宗家を存続させるのであれば遠く離れて助けるしかない。
   方法とすれば、天下多事の時は天下を治めようとする人も天下を乱そうとする人もある。 天下を乱す人こそ他日に
  天下を治める人になる。 天下を乱すほどの力量のある人物をことごとく館に集めれば他に乱す者がなくなって治める
  者が出るという英雄が天下を掌に回すという考えを述べた。

 (3) 幕臣への抵抗
   一橋慶喜は賢君で材能が多いので将軍にとの声が大きくなった。 しかし相続のことは切に止まることを提案した。
  瓦解寸前の幕府を一日も長く保つため慶喜が相続を辞退し他の親藩から幼弱の人を選んで将軍家を継続し慶喜は
  補佐役の京都守衛総督の役を尽くすべき。 ただこの総督は兵力も財力も不十分なので畿内または近傍に50万〜
  100万石の加増を計画するよう水戸藩用人原市之進に説いた。 原はもっともだから直接慶喜へ進言せよと。
   しかし慶喜は大坂へ下り拝謁できなかった。 この考えは一橋卿仕官の節に訴えた"
幕府を潰すのは徳川家を中興
  する基である
"が根底にあった。 "将軍家相続に反対で相続することとなり失望の極みであった。 慶喜が賢明などと
  いわれてもやはり大名だから仕方がない。 自分たちの建言が十分に腹に入らないであろうから去るよりほかにないと
  考えていたが意思に反して事が進み御目見以下の役向で謹仕することになってしまった。 そのため少しも仕事に手が
  つかなかった
"と述懐している。

 (4) 欧州派遣
   パリ万国博覧会日本代表として徳川昭武を遣わすこととなり万博の随員として栄一が選ばれたように伝わるが実際は
  昭武の留学付添で昭武をフランスに5〜7年留学させることが目的であった。 しかし昭武一人という訳にゆかず水戸の
  人間を7人付き添わせることにした。 ただ7人は洋学を志す人でなく外国人を夷狄禽獣とのみ思っている頑固者で覚束
  ないので水戸の7人と相伴って昭武に学問させるのは大変困難である。 ついてはこの任は栄一が適任であるので受諾
  せよというものであった。 本意でない幕臣になってしまったところ降って湧いたような留学という僥倖がやって来た。
   十代の頃に外国と貿易を行う商人への思いが攘夷論を主張し外国人を軽蔑してきたがフランス語の猛勉強を開始する
  栄一の柔軟な世のためになることに向く行動力が現れた。
   一行には外国奉行向山隼人正(号は黄村。昌平坂学問所教授方、徳川家達に従い駿府へ行き"静岡"と命名)や
  同組頭田辺太一(号は蓮舟。横浜鎖港交渉でフランスへ渡航した経験があり、明治初期の外交官)ら優れた人物が
  いたことも幸いしたと思われる。







                                                       2021.1.21
                 第92回勉強会 「宿場について」


1. 街道と諸施設
 (1) カイドウの表記
  江戸時代の主要五街道完成時期は以下の通り、呼称は年代により変わって行った。
   東海道53次:寛永元年(1620)完成
   中山道67次:元禄7年(1694)完成、東海道の草津と大津を加え69次
   日光道中21次:寛永13年(1636)頃完成
   奥州道中27次:正保3年(1646)完成、17次は日光道中と重複
   甲州道中43次:明和9年(1772)完成

  カイドウは"海道"と表記され江戸時代後半に"街道"が多く現れ、明治時代は両方が使用されていた。
  "往還"とも記されるが、この言葉は道を指す場合と通行者・旅人を指す場合がある。
   律令制時代に制定された"五畿七道"は地域を表すものであったが国府を繋ぐ道路の表現にも使用。
  "五畿"は大和・山城・摂津・河内・和泉の五ヶ国、"七道"は東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・
  南海道・西海道のことで、東山道は近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽の各国が含まれる。
   享保元年(1716)幕府が新井白石の意向で出した御触で東山道・山陰道・山陽道の山の字は"セン"と
  読むとした。 東山道は中筋の道につき"中山道"と称す。 東海道・南海道・西海道は海国の道路につき
  "海道"と称し、海なき国の下野国・甲斐国を通る道は日光道中・甲州道中とする。
   文化元年(1811)幕府道中奉行が各道の発着地の問い合わせに対して"街道"と回答。 その書類には
  東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道、水戸街道、佐倉街道と記されている。

 (2) 諸施設
  ア.間の村
   宿場と宿場の間に茶屋などが設けられ旅人の休憩などに利用された村を"間の村"という。
  中山道の鴻巣-熊谷宿間は4里6町40間(約16.4q)もあり通称吹上宿が形成された。 当初は休憩だけで
  宿泊は許されなかったが、旅人が増え宿泊を請けるようになり"間の宿"と呼ばれるところも出て来た。
  人足などが駕籠を止めて休憩(杖を立てる)することから"立場"とも言った。 坂本-軽井沢宿間の碓氷峠
  頂の茶屋もこれに当る。 中山道25次望月宿から26町(2836q)、26次芦田宿へ18町(1963m)の村は
  茂田井宿として当時の景観を今日まで残している。
   

                間の宿 茂田井宿

  イ.一里塚
   慶長9年(1604)徳川秀忠の命で金山奉行大久保長安が総監督となり路傍を整備。その一環で街道一里毎
  両側に一里塚を築いた。 この塚は旅人にとって距離の目安となり駄賃・人足賃の支払いなどにも便宜があった。
   塚には主に榎が植えられ五街道一里塚の木の総数581本のうち67%にあたる319本が榎であったと言われる。
  他に松が157本、杉が46本であった。 榎は根が深くはって塚が崩れ難く枝が張り木陰になるからと言われる。
   江戸から28番目の藤塚の一里塚は、『中山道宿村大概帳』に"北之塚ハ藤塚村地内富士浅間之社前有之、
  南之塚ハ上豊岡村地内百姓家裏有之"と記されている。 25里目は倉賀野町上町西交差点付近、そこから1里
  26番目が九蔵町旧橋本捺染裏、そこから1里が藤塚で27番目は何処にあったのか疑問が残っている。
   
 
       南側の一里塚         北側は残存せず浅間神社のみ

  ウ.関所
   "入り鉄砲"は江戸での暴動防止、"出女"は諸大名恭順の証として人質的に留め置かれた夫人らの江戸脱出
  を取締るため設置され時代が下るに従って一般人の検問にもなった。
   設置場所は戦国時代の戦略上効果が期待される場所と異なり、それぞれの地点を回避すると深山幽谷などに
  迷い込んでしまう場所や川端や湖尻など、そこを通らないと大変な遠回りになる場所に設けられた。
   上野国は14か所設置され最も多かった。 箱根・遠州今切・木曽福島・碓氷は四大関所と呼ばれる。
   

                     碓氷関所跡


2. 宿駅伝馬制
  街道が発達するのに重要な役割を果たしたのが伝馬である。 戦国大名は軍事的必要から領国に宿駅を設置し
 伝馬を常備していた。 慶長6年(1601)東海道と中山道の各宿に対して徳川家康の"伝馬朱印状"と伊奈忠次・
 彦坂元直・大久保長安連署による"御伝馬之定"を交付したのが始まりとされる。 伝馬朱印状には"此の御朱印
 なくしては伝馬を出すべからざる者也"という言葉に朱印が押されている。 これを提携していない者には
 各宿が公用の伝馬を出すことを禁じた。 御伝馬の定は各宿場が常備しなければならない馬数(36疋)や荷物など
 を継ぎ送る54ケ条からなる定書。 この制度は幕府の書類の輸送や幕府役人及び大名が江戸から各地へ移動を
 円滑に行うために制定されたもので当初は庶民の往来のためのものではなかった。
  駿府の大御所家康の死去に伴い元和2年(1616)将軍秀忠に権限が一元化されると、東海道と中山道の各宿に
 改めて荷物の目方及び駄賃・人足賃に関する定書が一斉に交付された。
  寛永15年(1638)幕府は東海道100疋・100人、中山道50疋・50人、日光道中と奥州道中は25疋25人に
 改定される。


3. 宿場の始まり

  "宿"は"宿駅"とも呼ばれ平安時代末期から使われ出したと言われる。 街道が整備されると共に発展した集落で
 最も重要な役割は隣の宿駅から運ばれてくる公用の荷物や通信物を次の宿駅へ円滑に運ぶ業務であった。
  このことが定着したのが"宿駅伝馬制度"である。 宿駅にはこの制度の継ぎ送り業務を行う問屋場が設けられ
 やがて宿駅には宿泊施設として旅籠屋や木賃宿の商売が始まり参勤交代制に伴い本陣や脇本陣が設けられた。
  宿は当初は農村とさほど変わるものではなかったが交通量の増加や商品流通の活性化に伴い、商人や職人なども
 定住化するようになり、接客の客間を有する町屋が現れ後世の人がイメージする宿場となった。
  明治に宿駅制度が廃止され宿場は変形して行ったが、宿駅は"駅"の呼称で残り高崎近在でも新町宿は"新町駅"
 金古宿は"金古駅"と呼ばれていた。



4. 宿場の構成
 (1) 問屋場
   幕府公用旅行者や大名などが宿場を利用する際に必要な馬や人足を用意しておき、彼らの荷物を次の宿場迄
  運ぶ業務を行う場所を"問屋場(といやば)"と呼ぶ。 問屋は業務を担当する責任者で年寄と共に宿役人、村方の
  名主と合わせて宿三役と呼ばれた。 宿内の最高責任者で宿駅及び助郷村々の人馬を差配し公私の人馬継立や
  休泊に関する一切の業務を管掌した。 年寄は問屋を補佐し宿駅によっては問屋・名主を兼帯することもある。
   人馬継立が渋滞しないように差配し休泊面や付随する諸問題、宿内取締り・往還掃除・町場見分のための巡廻、
  盗難・喧嘩などの事件取締を行った。
   問屋場の下役に毎日出勤し人馬の出入りを正確に記帳する事務担当の帳付、馬の差配を行う馬指、人足差配
  の人足指がおり、人馬共に差配する場合は人馬指と呼ばれた。
  

                安藤広重の東海道五十三次"藤枝"の継立

 (2) 高札場
   木の板札に幕府や領主が定めた法度や掟書などを書き人目を引くように高く掲げられた場所。
  札板には隣接する宿までの公定運賃(時には改定運賃)などの定や徒党禁止・切支丹禁制などの掟書について
  表題・本文・年月日・発行主体が記載された。 町や村の入口や、宿場の場合は中心部に設けられるところが
  多く高札場があった場所は"札ノ辻"と呼ばれていた。 高さは概ね3m、間口は3〜5m。高札番が設けられ
  常時高札場の整備・管理、高札修理や新設を務めさせた。
  

           倉賀野宿の高札場跡

 (3) 旅籠屋・木賃宿
   宿場の宿泊施設には旅籠屋と木賃宿があった。旅籠屋は一般の旅人を宿泊させ夕食と朝食を出し昼食弁当を
  出す処もある。 木賃宿は素泊まりで旅人が米を持参し薪代を払って自分で米を炊くか、炊いてもらう報償で
  "木賃"は薪代のことで"木銭"。 戦国期までは木賃形式が一般的であったが江戸時代に食事を提供する宿が
  始まり元禄時代から旅籠屋が主となる。 木賃宿は大道商人・助郷人足・雲助・日雇稼などの零細庶民の旅宿
  として続き"御安宿""雲助宿"などと呼ばれた。 問屋の配下にないため実態の把握は難しい。
   旅籠屋も食事のみを供する平旅籠屋と飯盛女を抱えた飯盛旅籠屋があった。 飯盛女は旅籠屋で飯炊きや給仕
  などに携わりながら客の求めに応じ売春を行った。 飯盛女を抱えている旅籠や宿場が繁盛・増加すると黙認
  していた幕府は享保3年(1718)旅籠屋1軒につき2人まで認めそれ以上は堅く禁じた。     

   
                    奈良井宿の旅籠徳利屋

 (4) 本陣・脇本陣
   近世宿駅の本陣は諸大名の休泊を専らにしながら大坂・二条の御番衆や奉行・代官など武家の他、勅使
  (天皇の代理として宣旨を伝達する役)・公家・門跡などの休泊にも充てられた。 戦の際に大将が陣を張った
  "本陣"に由来する。 本陣を務める家は田畑山林を多く持ち家屋敷も広く間数もある在地の有力者が大名の
  依頼を受けて宿を務め、寛永年間に"本陣"と呼ばれるようになり参勤交代の制度化によってその需要は一気に
  高まった。 問屋・年寄などの宿役人を兼帯することが多く苗字・帯刀を許される者もいた。
   本陣の敷地は広く建坪は200坪前後あり宿場内で一番広大な建物であった。 構造上の特色は門構と玄関を
  有し内部には"上段の間"が設けられ脇本陣や旅籠屋などは許されなかった。
   大名行列など多人数の場合、本陣には藩主や家老・上級中級家臣などしか泊まれず下級家臣や従者などは
  脇本陣や旅籠屋に分宿した。 時として一般の旅人も宿泊することは出来る。
   休泊を希望する場合は利用の可否について本陣宛に"先触"を出す。 本陣は承諾の場合は"請書"、何らかの
  理由で引き受けられない場合は"断書"を出すか別の宿へ振り替える旨返答をする。 休泊が決定すると
  事前準備のため宿割を担当する家臣らが宿場に赴き"指示書"が出される。 本陣は間取図などを差出し
  "宿割"が行われ宿割帳が作成される。 賄や寝具は休泊者側で用意し本陣への休泊料はなく祝儀や拝領金
  として"心付"にとどまった。 旅籠屋に対しては休泊料の交渉が行われる。 本陣や宿場の入口に休泊主の
  受領名や官途名と休泊の別が大きく書かれた"関札"が掲示された。 休泊当日には、本陣玄関前に定紋付の
  陣幕を張り提灯を掲げた。 本陣当主は礼装で町外れに出迎え行列を先導して本陣へ案内した。
   断書作成の一番の理由は予定が競合・重複する"差合"で参勤交代の時期は外様大名が4月、譜代大名が
  6月と定められ集中し易かったため。病気や暴風雨、増水による川留などによる予定変更もあった。
   競合の調整基準は第一には公的性格の軽重で勅使、御三家、大坂・二条の番衆、一般大名の順。
  一般大名は原則契約の先後で身分や格式は問われなかった。 関札が掲示されるといかなる大藩も宿泊する
  ことは許されない。
   

              本庄宿の田村本陣の門


5. 宿場と問屋場・旅籠屋・本陣の実態

 (1) 宿場規模
   宿場の大きさを宿の街並みの長さ、人口と家数でみると東海道の宿場規模の大きさが際立っている。
  町並はいずれの街道も城下町の宿場が大きい。 東海道は岡崎・府中・桑名・浜松・亀山・小田原など10か所
  中山道は高崎と加納、日光道中では宇都宮と古河、奥州道中は白河・喜連川・太田原。甲州道中は横山宿が
  八王子十五宿で構成されていたことによる。
   兼城下町の宿場も人口と家数は町民と町屋が主であるため城下町のウエイトは下がる。 従って東海道は
  大津・熱田・品川、中山道は本庄・高宮・熊谷、日光道中は千住・越谷、例幣使道は天明・栃木・犬伏が
  代表的な大きな宿場であった。

  

 (2) 問屋場
   宿内に一か所が大半だが数か所が交代で勤めた宿場も有り、小規模な宿場は一軒で問屋業務を
  務めきれなかったと思われる。また、当初は一ヶ所であったが交通量増大により加えられた。
   東海道53次は77%の41宿が一ヶ所であるのに対し中山道では一ヶ所が25宿と4割以下であった。二ヶ所が
  30宿と多く三ヶ所が5宿、四ヶ所と五か所が各1宿、六か所が3宿、七か所が2宿あり、複数個所の宿が63%
  を占めている。
   上州路は街道が交叉していたためか高崎と倉賀野が三ヶ所新町・板鼻・松井田が二ヶ所と安中宿以外は
  複数が分担していた。 また、信濃国の宿場は小規模のためか26宿のうち7割以上の19宿が二ヶ所で分担した。
   伊吹山脈を挟む美濃国と近江国に跨る56番目赤坂宿から62番目番場宿まで問屋場数の多さが目立つ。
 
 

 (3) 旅籠屋
   旅籠屋の数が各道の宿村大概帳に記録されている。大・中・小と分けられているが基準は分からない。
  宿場平均軒数は中山道が26.8軒、東海道55.6軒、日光道中38.6軒、奥州道中27.7軒、甲州道中11.4軒で
  旅籠屋の数が往来量を表していると思われる。 ただ、中山道を武蔵・上野国に限ると63.6軒と多く江戸近郊の
  往来の多さを表している。 信濃国・美濃国・近江国は山中の小さな宿が大半で旅籠屋数も23.2軒と少ない。
   東海道の熱田宿248軒と桑名宿120軒はこの区間塩尻宿旅籠小野屋が船旅でどちらかに宿泊するため多かった。
  この他に中山道最多の深谷宿80軒以上の宿が、岡崎112軒、四日市98軒、小田原95軒、浜松94軒、品川
  93軒もあり、往来の多さを物語っている。
  


 (4) 本陣・脇本陣
   本陣は基本的には各宿に一ヶ所あるが中山道は高崎と岩村田、例幣使道は五料、甲州道中は7ヶ所無し
  東海道では平均二ヶ所あり大名行列は勿論、公卿や幕府役人も多く通るので浜松宿は6ヶ所も有り、
  脇本陣を含めると箱根が7ヶ所、小田原・岡崎・桑名は6ヶ所有り、平均建坪も221坪と規模も大きい。
   脇本陣は本陣で泊まり切れない場合の宿舎で東海道9、中山道4、日光道中2、甲州道中15の宿場は無く
  奥州道は全宿一ヶ所ある反面、例幣使道は1宿しかなかった。 大きさも建坪200坪以上の処もあったが
  本陣に比べれば小型であった。
  

   本陣の収入は大名の宿泊は"祝儀"のみで基準はなく大名の経済が窮迫すると祝儀は減少。公卿や門跡に
  至っては色紙や短冊を与えるだけで金銭は少なかった。
   大名行列によっては備付の家具や什器が紛失(実態は盗難)し、その補充に費用がかかった。
  大建造物なので修理費用が発生、大規模災害による被害は定宿の大名から金銭を拝借し対応した。
   文久2年(1862)参勤交代制が緩和される。
 
 和田宿の本陣居室棟
  和田宿の本冠木門






                                                       2020.11.19
                 第91回勉強会 「高崎が生んだ豪商・茂木惣兵衛

                                                   特別公開ビデオ

1. 人物・家系
  
耳たぶが大きく肉厚の耳は「福耳」と言われ金運に恵まれ福運があると言われる。 茂木惣兵衛が横浜豪商中
 の首位を占めた理由は「耳たぶにあり」と言われた。 勤勉家で情誼に厚く人を良くまとめるタイプで権利義務で
 人と争うことをしなかった。 横浜の町会や市会議員は引き受けたが市会トップや代議士には立候補せず、
 初代横浜市長候補に推薦されたが辞退している。商人としての生涯を全うした。


   
  初代惣兵衛 後に保平を称す。(1827−1894)

  二代惣兵衛 はじめ保次郎(  ? −1912)初代惣兵衛の甥

  二代保平  はじめ泰次郎(1872−1912)名古屋の瀧定助の子

  三代惣兵衛 はじめ良太郎(1893−1935)二代保平の長男
   (妻は初代惣兵衛の娘)



2. 経歴
 ・文政10年(1827) 高崎城下九蔵町の質商大黒屋茂木惣七の長男として生まれた。
 ・天保8年(1837) 新田郡太田町の太物商今井仙七の店に奉公し、やがて支配人に抜擢され惣兵衛に改名。
 ・嘉永5年(1852) 桐生新町の絹物商新井長兵衛の養嗣子となる。 前橋・高崎の市に絹販路を拡張し、
  信濃国上田の豪商布田や藤本から委託を受けて生糸を前橋へ取り次ぐなど商いを拡大する。
 ・嘉永7年、事情は定かでないが新井家を出て高崎へ戻り茂木姓に復する。
 ・その後、時期は不詳であるが、横浜に出て野沢屋に勤める。 野沢屋は武蔵国児玉郡出身の野沢庄三郎が
  横浜弁天通りに開業した雑貨商であった。 庄三郎が生糸売込を開始し生糸貿易に従事する者が必要となり
  信州の中山浜次郎に相談し惣兵衛の名が挙がったと思われる。(惣兵衛と何らかの取引有り?)
 ・嘉永6年に横浜港が開かれると上州前橋の糸を「常武」なる者が野沢屋に持ち込み惣兵衛が販売面を担当し
  同僚の中里忠兵衛が舶来織物などの購入面を担当した。
 ・万延元年(1860)12月、弁天通四丁目の石川屋平右衛門の養子となり店を相続。 石川屋は生糸・水油・
  昆布・茶・荒物を商い、野沢屋と石川屋の双方を切り盛りした。
 ・文久元年(1861)12月、野沢庄三郎が病没すると翌年野沢屋の暖簾を譲り受け石川屋を野沢屋に改め
  野沢屋惣兵衛を名乗る。 一方の中里忠兵衛も独立し本町三丁目に同じ屋号の野沢屋を開業し生糸売込を
  開始する。

    
                       横浜の茂木惣兵衛 野沢屋

3. 横浜一の生糸売込商

  横浜が開港すると外国商館への生糸売込問屋が台頭する。 著名な問屋として中居屋重兵衛・吉村屋幸兵衛・
 野沢屋庄三郎など上州・武州出身の人物が活躍していた。 
  明治に入って小野組(明治3年 井筒屋善三郎が開業)と三越(明治5年 横浜店開業)が江戸時代からの特権
 商人として蓄積した豊富な資金と政商の地位を力として生糸売込を開始し野沢屋などは圧迫される。
 小野組は経営する製糸場(福島二本松や信州深山田)の生糸を井筒屋から外国商館へ売り込み、陸奥・出羽・
 信濃の生糸の四割以上を集荷した。 三越も前橋に支店をおき製糸家に原料繭の買入資金融資により上州を
 中心に生糸を集荷した。 他に明治2年(1869)前橋藩 敷島屋庄三郎という人物が生糸売込を開始している。
  明治7年、為替方規制改正に伴い井筒屋は閉店し三越も急速に生糸売込高を低下させた。 それにより
 野沢屋は取扱高を明治6年(1873)13%から明治9年26%に伸ばし生糸売込商中1位に躍進した。
  明治21年に渋沢商店に一時首位明け渡したものの以後惣兵衛存命中は1位を続けた。

  【野沢屋・茂木商店の生糸扱い高】

  
 惣兵衛が躍進した要因は信濃系生糸の取扱いによる。 出身地上州高崎に隣接し地の利と地縁があったのであろう。
 明治6年の井筒屋のシェア46%に対し、明治9年には惣兵衛が45%になっている。



4. 器械製糸への取組
 惣兵衛のシェアが拡大したもう一つの要因は、
 ・経営の重点を生糸売込においた
  輸出ブームの主力であった蚕種の扱いを抑えた。 惣兵衛の蚕種売込枚数1,092枚に対し、小野組は
  91,661枚、亀屋は70,419枚、三越は12,232枚と桁違いであった。 そのため投機性の高い蚕種貿易の
  損失が少なかった。 明治7年蚕種が供給過剰となり価格低落。 横浜では輸出蚕種44万枚余を焼却。
  明治10年渋沢栄一や原善三郎らが政府に交渉要請し20万円・洋銀30万ドルを借入し損害救援にあたった。
 ・器械製糸に注目
  生糸生産の主流は農家の副業で、手法は座繰り糸であった。
  官営富岡製糸所や小野組の製糸所が模範工場として水力を動力とした器械製糸所が設立。
  長野県北国街道沿いや岐阜県高山に器械製糸「キカイ場」が登場し、惣兵衛の明治12年の集荷のうち
  信濃系のうち三分の一は機械糸であった。山形・埼玉・山梨など器械製糸も集荷。


5. 製糸業界・金融業界に貢献

 (1) 日本の製糸業発展に寄与
  生糸売込商は製糸家へ金融を行いその金利収入(A)を得る。 方法は一つに荷為替手形引受(担保は生糸)
  製糸家はその荷為替手形を銀行に持ち込み「割引」(融資手法の一つ、手形額面から金利を差引いた金額受取る)
  受取ったお金を運転資金に充当する。 生糸売込商は荷為替手形決済を機関銀行から無担保信用借りで手当てし
  信用借の金利(B)を支払う。 この金利差(A-B)が生糸売込商の金融活動利益となる。

 (2) 民間銀行の設立
  ・第二国立銀行
   明治7年設立。国立銀行法に基づく銀行のため「国立」と称するが民間銀行
   頭取は原善三郎、副頭取は茂木惣兵衛。後に原商店の機関銀行。

  ・第七十四国立銀行
   明治11年設立、頭取は茂木惣兵衛。後に茂木商店の機関銀行。

  ・茂木銀行
   明治29年設立、頭取は茂木惣兵衛。茂木合名会社の機関銀行。


 (3) 三銀行の変遷
  ・第二国立銀行
   明治29年10月 第二銀行と改称。昭和3年4月、横浜興信銀行に買収され昭和32年1月横浜銀行と改称。

  ・第七十四国立銀行
   明治31年4月 横浜七十四銀行と改称。大正7年6月 七十四銀行に改称。大正9年12月 横浜興信銀行に整理委託

  ・茂木銀行
   大正7年8月に七十四銀行に合併される。

   
      写真:第二国立銀行                        第七十四国立銀行

 (4) 第二国立銀行と第七十四国立銀行の高崎支店
  第二国立銀行は明治8年横須賀支店と共に開業。
第七十四国立銀行は明治16年開業。いずれも茂木惣兵衛の
  故郷である高崎九蔵町に店を構え両店は向かい合っていた。


  
 写真:九蔵町に建つ              第二銀行(埼玉銀行)    七十四銀行(横浜銀行)


6. 社会貢献
 (1) 熱海梅園
   明治18年(1885)岩倉具視の命を受け大湯間歇泉(熱海温泉源泉)隣に国内初の温泉療養施設
  「?気館(きゅうきかん)」を作った内務省 長与専斉が同施設に併せて遊歩公園の必要性を提唱。
  茂木惣兵衛がその建設資金協力を申し出て、翌年熱海梅園が開園した。
   1888年に熱海第二御料地、1845年国有地になり、1960年無償で熱海市へ払い下げられ観光名所に
   面積は4.4ha、約60品種470本の梅が咲く梅林名所。

   写真:梅園内の記念碑

 (2) 高崎での寄贈・寄付
   
八幡八幡宮社殿修復の大願主として500両と灯明料50両を寄付、大燈籠にその名前が刻まれている。
  
 
          写真:左右1対の唐銅燈籠          右側燈籠に”横濱弁天通 野沢屋惣兵衛”

   高崎市の青年実業家の集まり「同志茶話会」の発案で若者の勉学のため私立図書館建設が進められ、
  その建設費の募集に際し、茂木惣兵衛・保平が1,000円もの多額を寄付している。 因みに寄付金合計は
   4,700円であった。
 
 
  写真:高崎図書館平面図                     高崎図書館開館

 (3) 横浜の経済困窮者へ寄付
   故人の遺言により葬儀は質素に行われたが、各界から3000人の会葬者があった。争議を質素に行うかわりに
  横浜市・戸太村・中村・根岸村など貧民5,000人に施米料各50銭を寄付している。

  
         写真: 横浜市中区・相沢墓地                           茂木家墓所高崎市からの献灯


7. 茂木財閥の終焉

 名古屋の瀧家から養子として入った茂木泰次郎(二代保平)が事業を発展させ六事業を展開させた。
 茂木合名会社・野沢屋呉服店・野沢屋輸出店・野沢屋絹商店・茂木銀行・茂木土地部である。
  1915年後半から日本は第一次世界大戦(1914〜18)による好景気となり、三代惣兵衛は茂木合名を総合商社化し
 薬品・鉛・鋼材・羊毛など貿易にも進出。 「西の伊藤忠兵衛 東の茂木惣兵衛」とまで称される商社となった。
  しかし、大正9年(1920)第一次大戦が終結するとバブル経済は崩壊、生産過剰となり戦後恐慌を迎えた。 これにより
 茂木財閥の機関銀行であった七十四銀行が休業・倒産し他の部門も終焉を迎える。



8. ライバル・原善三郎
   文政10年(1827)武蔵国児玉郡渡瀬村(神川町渡瀬)に中継商太兵衛の長男として生まれた。
  慶応元年(1865)横浜に亀屋を開店し、生糸荷主から生糸売込商へ転身。 信州飯田系生糸の買い占めが当たり
  数千両の利益を上げる。
 
 
                                 神川町の旧原製糸所跡の原邸

   横浜弁天通りの中村屋儀兵衛の店を千両で買いとり、有力生糸売込商に成長、茂木惣兵衛と横浜生糸売込商の
  双璧となる。 横浜における外国商人に渡る生糸の19〜22%を占め、財閥や華族に並ぶほどの資産家に成長。
   1898年の高額所得者番付では、1位:岩崎久弥(1,214)、2位:三井八郎右衛門(657)、3位:前田利嗣(266千円)、
  4位:住友吉左衛門(221)、5位:島津忠重(217)、6位:安田善次郎(186)、7位:毛利元昭(185)、8位:大倉喜八郎(143)、
  9位:徳川茂承(132)、10位:松平頼聰(126)、18位:渋沢栄一(93)、20位:原善三郎(87) 23位:茂木惣兵衛(76)
  ( )内の単位千円
  横浜商法会議所の初代頭取、横浜市会の初代議長を務める一方で、地元埼玉県選出代議士から貴族院神奈川県
  多額納税議員に就任した。

 原富三郎(三渓)
  跡見学園の教え子であった善三郎の孫娘と結婚した原富三郎は原商店を合名会社に成長させた。 号を「三渓」といい、
 芸術に造詣が深く、横浜本牧に京都や鎌倉から歴史的建造物を移築配置した名庭園を造り、現在は国の指定名勝「三渓園」
 として公開されている。 三渓は存命中新進芸術家の支援・育成に力を注ぎ、前田青邨・横山大観・下村観山などの名作が
 庭園から生まれている。







                                                  2020.6.18

                 第88回勉強会 「高崎の伝説」

1. 高崎の名前について
 (1) 龍廣寺の白菴説
   高崎藩士川野辺寛編『高崎志』(1792年完成)によると、井伊直政が箕輪から居城を
  移す際に地名を「松ヶ崎」としたい旨を龍廣寺の住持白亜菴に相談した。
   白菴は「諸木には栄枯がある。公は命を受けてこの城を築き盛事大名を成したのだから
  成功高大の義として"高"を採り「高崎」にしては如何か提案した。 直政は大いに悦んで
  「高崎」と名付け「高崎」の二字を以って龍廣寺の山号とするよう命じたという。
   龍廣寺は、井伊直政が下野国富田(栃木市平井町太平山麓)の大中寺から八世白菴秀関を
  招いて箕輪に開山した龍門寺の末寺にあたる。
  同書の中で「里老の説に慧徳寺英潭と伝わるのは誤りで今は龍廣寺の古記に従う」とある。
 ※現在ではこの逸話が定説となっている。

 (2) 慧徳寺英潭説
   高崎の郷土史家西田美英編纂『高崎寿奈子』(1755年)によると、井伊直政が地名を改め
  「松崎」と号したいと英潭に問うと「松は千歳で改まるから、"松"を"高"に読んでは如何か。
   高きことは一分一寸から始まり幾万丈と限りなく万代長久の祝である」直政は大いに悦んで
  「高崎」と名付けたという。
   慧徳寺は、井伊直政が伯母慧徳院宗貞尼のために箕輪日向峯に一宇を創設し慧徳院と
  号し高崎へ移った際に榎の森の北に移し慧徳寺と号し、酒井家次が城主の時現在地へ移した。

 (3) 鷹崎説
   川野辺寛編『高崎志』に「松井田・安中・和田・倉賀野の地を検討した時、試しに鷹を
  放ち集まった所を城地と定めることにした。 鷹を放ちこの地に止まったので鷹崎城と
  名付け後に高崎と更めた。理由は和訓が同じ故と伝わるが謬説に似たもので採用しない」
  と記載あり。



2. 徳川忠長と松平長七郎
 (1) 松平長七郎は徳川忠長の遺児
   長七郎は1661年に48歳で死去したことから1614年生まれとなる。父親とされる徳川忠長は
  1606年生まれである。
 ※忠長9歳のときの子供となり親子は考えられない。 忠長の正室昌子は小幡藩主織田信良の
  娘として1614年に生まれで母親としては不自然である。そもそも二人の間には子供はいない。
  忠長は子供がいないまま自刃し昌子は忠長の死後誰にも嫁がず、忠長の姉千姫(天樹院)の
  住む竹橋御殿で余生を送っている。
 
 (2) 長七郎の後ろ盾には紀州大納言がいた
   長七郎は一時期江戸で暮らしたのち諸国漫遊の旅に出、途中で紀伊大納言徳川頼宣に
  謁見した。 頼宣は長七郎の身の上に同情・援助し長七郎最後の地も紀州という設定に
  なっている。 この背景には忠長が駿府藩主時代に頼宣は江戸への往来の途中に駿府城に
  立ち寄り忠長と面談している。 このことから将軍家光及び幕閣から謀反の疑いをかけられた
  という話がある。 この風評が長七郎と謁見の話に結びついたのではないか。
 ※1651年に起きた「慶安の変」で首謀者由井正雪が頼宣の印章文書を偽造。 頼宣は幕閣に
  謀反を疑われ、10年間紀州帰国差し止めで長七郎と面談出来る状況でなかった。

 (3) 長七郎の子供が鷹司松平家の祖である
   長七郎が諸国漫遊の途中、伊勢国で暴漢に襲われていた江戸の木綿屋新兵衛と娘みつを
  助けた。 父親は命を落としたが長七郎とみつは大坂で暮らしていた。 暴漢と出会い
  みつに新兵衛の仇を討たせ、大坂町奉行所へ届出たところ徳川一族に連なることから赦免
  される。 長七郎は島原の乱に参陣すべく妊娠していたみつの身柄について頼宣に相談
  すると鷹司家へ預けることが出来た。 そのみつが産んだ男子が後に鷹司松平家の祖と
  なった松平信平であるという。 
 ※実際の松平信平は元関白鷹司信房の四男として1636年生まれで、信房が1565年生まれで
  71歳時の子となり正室や継室の子でないことから「みつの子」の話に作られた。
  鷹司松平家は、武家になりたかった信平が姉の孝子(三代将軍家光の正室)の口利きで公卿から
  武士になったことに始まる。 3代信清が1万石で吉井藩主となった。
 ※長七郎の話は村上元三柞『長七郎江戸日記』を日本テレビ系列で1983〜1991年に3シリーズ
  233話も放映されフィクションが実話のように思われた。



3. 滅法弥八事件
 滅法弥八とは、高崎藩士長野彌八郎のことで通称源兵衛、諱は喜恭、渾名が滅法弥八である。
 親譲りの勇敢剛毅にして武技に熟達し主君は松平(大河内)輝延。
 輝延は1800年に高崎藩主に就任。1802年に寺社奉行、1815年に大坂城代、1823年に老中。

 (1) 高崎から江戸までを馬と一緒に翔った
   藩主松平輝延が馬を駆けって高崎から江戸まで25里の道程を1日で達した。到着し横を見ると
  彌八郎が徒歩で共に達していた。 輝延はこれを見て「滅法早かったな」と褒めたという。
   以来、当時の人々は「滅法弥八」と呼ぶようになったという。
 ※大名が街道を馬でかつ25里も駆けること、2泊3日の行程を大名が1昼夜で行動すること
  はあり得ない。


 (2) 将軍お抱えの鷹匠を斬殺したが無罪
   藩主輝延が寺社奉行在番中に11代将軍徳川家斉の鷹狩りに随行、彌八郎もお供をした。
  その際に輝延が家臣に鷹匠から鷹を借りるよう頼ませた。 鷹匠は将軍に対し無礼である
  と横柄に咎めたので家臣は面倒になるので平謝りしたが聞かず、鷹匠は賂金を強要した。
   彌八郎はその態度に腹を据えかねて鷹をひねり殺し鷹匠を斬殺してしまった。
  輝延が将軍の信頼厚く重職にあったことから一命を許され謹慎でことが収まったという。
 ※鷹匠は将軍の近くで鷹を操り大名が将軍付近に侍るとしても陪臣が近づくことはあり得ない。
  武士とは言え殺人は許されない。 殺害したのであれば当時輝延は寺社奉行であったが
  殺人罪を謹慎に済ますことはあり得ない。


 
(3) 飛地銚子領の温情代官切腹
   滅法弥八が起こした上司殺人未遂事件取調で新事実が判明した。
  庄川杢左衛門は飛地銚子領で飢饉を救った「命の恩人」として慕われている代官である。
   1790年天明の飢饉の際に独断で米倉を開け住民に米を配給した。 この遺徳を讃えて
  33回忌の1823年に頌徳裨が建てられた。 消息が分からないため責任をとって自刃した
  と伝わる。
 ※実際は栄転して高崎へ戻り、杢左衛門の通称を名乗った後継者が取調に登場する。

  上司殺人未遂事件事件とは
   高崎城内の年寄深尾又右衛門屋敷に忍び入り床下に三晩潜んだ末、斬りつけ深手を
  負わせ逃亡。 1年3か月諸国を逃げ回った挙句、傷害事件を起こして幕府に捕まり高崎へ
  送られ裁判の結果死罪になった。 白州での言い分は乗馬稽古の拒否、金銭貸借の返済
  遅れ、宴席手配の不首尾など様々な場面で又右衛門に嫌がらせを受けたとして恨みを
  持っていた。 1825(文政7)年に取調を行った堤半蔵(後に新五左衛門)の裁判記録控えに
  杢左衛門が登場する。
  
  
   「1825年6月 出奔人弥八郎儀深尾又右衛門ニ為負深手候一件口書写」より


4. 寺田五右衛門と金比羅勧請
 (1) 寺田五右衛門宗有(1745〜1825)
   高崎藩士江戸詰の家に生れ14歳で中西派一刀流(将軍家御家流小野派一刀流から分派)
  に入門した。 三代目中西子定(たねさだ)は稽古道具を開発し現代剣道の草分け的存在で
  中西道場を江戸随一の隆盛に導いた。 木刀と刃引きを用いた組太刀稽古を併用していたが
  四代目子啓(たねひろ)は完全に竹刀稽古としたため、宗有は「これは真理に違う」と
  中西道場を辞め平常無敵流の四代宗家・池田八左衛門成春に入門し12年間の修行・免許
  皆伝となり帰藩した。
   しかし高崎藩の師範は一刀流しか認めず高崎在勤の民政役として大いに手腕を発揮。
  1796年に再び藩主輝和公から一刀流の修行を命じられ中西道場に帰参。 木刀による
  型稽古のみに徹し免許皆伝となる。 1801年急逝した師から四代目子正の指導を引継ぎ
  中西道場に留まり後進の修行に尽力。 自らの剣術を天眞一刀流と称し弟弟子の白井亨義謙
  に二代宗家を譲る。 寺田と白井に加え高柳又四郎(小説『大菩薩峠』机龍之介のモデル)は
  "中西道場の三羽烏"と称され、幕末最強剣士に指折られる。
   白井亨は天眞一刀流を継ぎ後日自ら天眞傳兵法を創始。 五尺三寸の長刀で江戸各道場を
  荒らした大石進を二尺足らずの短い木刀で破った剣豪。 高柳は自分の竹刀に触れさせずに
  相手を倒す「音無し剣法」の名人。 千葉周作は中西道場で修行中に宗有に組太刀の指南を
  受ける。 自書『剣法秘訣』の中で「寺田氏の木刀の尖から火炎燃え出る」と述べている。
  古伝剣術を学びながらも竹刀打ちを否定せず時代の流れを掴み北辰一刀流を興した。
   宗有は居合術、柔術、槍術、砲術も免許皆伝、天文、地理、医術にまで長けた万能人で
  子孫の方は皆医学界で活躍。臨済宗中興の祖白隠の高弟東嶺に参禅 毎朝300回の水浴びや
  数日間に及ぶ断食を死ぬまで鍛錬が剣術に対する不動心気迫に繋がった。

 (2) 幕末の剣豪
  上位9人は次の人物で、上位3位は
中西道場の三羽烏
   @  寺田 五右衛門 (1745-1825)
   A  
白井 亨義謙  (1783-1843)
   B  
高柳 又四郎利辰(1808-?)
   C  
大石 進種次  (1797-1863)
   D  
千葉 周作成政 (1793-1851)
   E  
永倉 新八載之 (1839-1915)
   F  
沖田 総司   (1842-1868)
   G  
男谷 精一郎信友(1798-1864)
   H  
千葉 栄次郎成之(1833-1862)
 天保の三剣豪
   @  直新影流男谷派 男谷 精一郎
   A  直新影流島田流
島田 虎之助
   B  大石神影流    大石 進
 幕末の三大道場 (四代道場)
   @  
神道無念龍錬兵館斎藤 彌九郎善道
   A  
鏡新明智流士學館4代桃井 春藏直正
   B  
北辰一刀流玄武館千葉 周作
    (  
心形刀流錬武館   伊庭 八郎秀頴)

 (1) 讃岐金比羅宮から一昼夜で分霊を江戸藩邸までに勧請した
   "多中の金比羅さん"は宗有が一昼夜で讃岐金刀比羅宮との間を往復し分霊を勧請した。
  新後閑村に鎮座、通称は琴平神社だが正式には稲荷神社。 琴平宮を崇拝する宗有が
  江戸小石川の高崎藩中屋敷内に勧請。 1816年に稲荷神社に合併した。
 ※金刀比羅宮は、香川県仲多度郡琴平町に在り江戸との距離約750q。一昼夜だと時速31q
  三昼夜でも一時も休まず時速11qが必要であり得ない。

 (2) 竹光で石を割った
   1815年に藩主の供をして大坂へ向かう途中、大井川の河原で草履の紐を結び直すと
  鞘から刀が抜けてしまった。 それが竹光だと分かると駕籠かきが笑った。 宗有は
  「気に入らないことがあると直ぐ刀を抜いて首を斬り落とす癖がある。 だから自戒の
  ため旅には真剣を差さない。しかし竹光とは言え正宗の名刀と変わらない」と言って
  傍らの大石を竹光で斬りつけると石は真っ二つになったという。
 ※1815年は松平輝延が大坂城代に就任した年で家臣も供をして東海道を上ったであろうが
  宗有は大坂城代勤務でなく、勿論竹光で石を割ることはできない。
 (1796年に前藩主輝和の命で中西道場で再修行。 1801年三代中西子定が死去し、
  1815年は四代目の後見をしていた。)

 (3) 木刀の先から火炎が燃え出る
   木刀による組太刀稽古と竹刀稽古の優劣について論じられ宗有は素面素小手、相手は
  防具を付けて対峙した。 相手が面を打とうとすると胴を、小手を打とうとすると突くぞ
  と声を出し思念の動くところを悉く読まれて未然に抑えられてしまった。 また宗有の
  剣先から火が吹くかと思われる気迫に相手は満身汗だくで何もできずに引き下がった。
   何人かが挑んだが皆同様な目に遭い、その後組太刀の悪口を言わなくなった。
 ※この試合を見て千葉周作は組太刀の重要性を悟り宗有の流れを汲んで千葉周作の五行形
  を完成。 宗有の気迫に対して「木刀の先より火炎燃え出る」と表現した。







                                                  2020.3.19

                 第87回勉強会 「大名の領地」

                                            この時のビデオはこちら
1. 藩領とは
 (1) 藩は本拠地の行政単位ではない
   大名領は"御領分"と呼ばれ高崎は松平様御領分と言った。 因みに幕府領は"御料所"
  旗本領は"御知行所"と言う。 江戸幕府から宛がわれ、藩主が代わる毎に領知朱印状が
  出された。
   朱印状の最後に「…都合○○石目録在別紙事,如前々充行之訖,全可領知者也,仍如件」
  などと「前々の如く充行(あてがい)訖(おわんぬ)」と記載されている。
   明治になり中央集権を目指す政府は大名領を大名の居城や陣屋がある地名を冠して
  呼ぶことにした。 大河内松平氏は大名家が三家あったので全て松平様御領分になって
  しまうがそれぞれ居城地の名前から右京大夫家は高崎藩、伊豆守家は豊橋藩、備前守家は
  大多喜藩と呼ばれた。 しかし"藩"は廃藩置県で廃止されたので正式には"藩"は4年間
  だけであるが地名呼称は大名の名前より表現しやすいので、その後も専門家・一般者を
  問わず"藩"を使用している。
   大名領を地名呼称になったため藩が大名の治めた行政単位のように思われている。
  例えば、薩摩・大隅国を領する薩摩藩は鹿児島県となるが日向国の一部も領地であった。
   また、備前・備中・美作の3国が岡山県となったが岡山藩領は備前国と備中国の一部を
  
領していた。 薩摩藩や岡山藩より規模の小さい前橋藩や高崎藩などは前橋市や高崎市と
  思われがちであるが両藩共に飛地を有していたし、前橋城や高崎城の周辺(城付き領)が
  全て藩領ではなく、他者の支配地が混入していた。


 (2) 藩領には本拠地と遠隔地があった
   本拠地の城あるいは陣屋の周囲に在る領地を"城付き領"と言い、居城周辺以外の離れた
  場所に在る領地は"飛地"と言った。 一部の大名を除きほとんどの大名領は城付き領と
  飛地で構成されていた。 高崎藩の場合では平成の合併前の市域がほぼ城付き領で現在の
  新潟県三条市付近にあった「一ノ木戸領」、千葉県銚子市周辺にあった「銚子領」、
  埼玉県新座市にあった「野火止領」が江戸時代後半の飛地である。
   また、藩主が代わっても次の藩主の領地として続く"不変部分の所領"と藩主が代わると
  変動する"可変部分の所領"があった。 高崎藩で言えば安藤氏・大河内松平氏・間部氏
  いずれの時代でも領地であった村と交代したことにより変動した村があった。

 (3) 二種類の飛地
   飛地は大名の転封に伴い藩主が交代しても替らない藩に付随している"
藩付き飛地"と
  大名の転封に伴いその大名の異動先の飛地として続いた"
家付き飛地"がある。
  
銚子領は高崎藩主が間部氏から大河内松平氏に代わっても飛地の"藩付き飛地"であり
  
野火止領は大河内松平氏が高崎から村上/村上から高崎へ移っても領地の"家付き飛地"
  である。


2. 外様大名と譜代大名の領地
 (1) 外様大名の領地
   律令制による国を全て領地とした"国持大名"が多い。

   ア.国持大名で飛地なし
   ・島津氏の薩摩藩77万石は薩摩国と大隅国および日向国諸県(もろかた)郡。
   ・浅野氏の広島藩42.6万石は安芸国と備後国の大半。
   ・毛利氏の長州藩36.9万石は長門国と周防国。周防国に支藩の徳山・長府・岩国藩領有り。
   ・黒田氏の福岡藩47.3万石は筑前国だが支藩の秋月藩と一部中津藩領有り。
   ・池田氏の岡山藩31.5万石は備前国と隣接する備中国4郡に集中している。

   
イ.国持大名で飛地あり
    いずれも大大名だがごく小規模の飛地を有する藩もあった。
   ・前田氏の加賀藩102.5万石は加賀国と能登国と隣接する越中国。越中国には支藩の富山藩領
    飛地は近江国高島郡今津・弘川・海津の3村。この地は江戸幕府体制前から琵琶湖海路を
    利用する港として手放さなかった。
   ・伊達氏の仙台藩62万石は陸前国と陸中国の一部。飛地は常陸国3郡・下総国1村・近江国
    蒲生郡18村と野洲郡2村。それぞれ江戸藩邸と大坂藩邸駐在藩士の米手当て地
   ・細川氏の熊本藩54万石は肥後国。飛地は豊後国大分・海部・直入郡。この地は細川氏の前
    加藤清正の時代からの領地で熊本から瀬戸内海へ出る道筋として活用された。
   ・池田氏の鳥取藩32.5万石は因幡国と伯耆国。伯耆国には支藩の鹿奴藩と若桜藩領。
    飛地は武蔵国秩父郡寺尾村。理由は不明である。


 (2) 親藩大名の領地
   徳川氏一族が藩主の藩に御三家と親藩(家門)があるが吉井藩など特例を除いてほとんどが
   大藩であり、国持大名に近い所領形態であった。
   ・越前松平氏の福井藩67万石は越前国2郡全域と5郡の大半で国持大名並であった。 
    国内に江戸時代中期から丸岡藩5万石・大野藩4万石・勝山藩2.2万石があり当初は越前松平氏
    一族が藩主であった。
   ・保科松平氏の会津藩23万石は岩代国4郡と1郡11村及び隣接する下野国塩谷郡6村と越後国4郡
   ・越前松平氏の松江藩18.6万石は出雲国だが支藩の広瀬・母里藩領有り。
   これ等の藩は飛地がなかった。

 (3) 譜代藩の領地
   徳川松平氏の一族や家臣から成上った大名を譜代と呼ぶ。

   ア.飛地なし
    外様に対する江戸幕府防衛上の拠点で開幕後早い時期に有力な譜代大名配されたことが領地の
    まとまっていた要因と考えられる。
   ・庄内藩17万石の酒井氏は羽前国田川郡と羽後国飽海郡。
   ・姫路藩15万石の酒井氏は播磨国8郡全域と2郡の一部。
   ・小倉藩15万石の小笠原氏は豊前国4郡全域と1郡の一部。
   姫路藩は代々有力大名が配されたが幼年藩主が生じたため入れ替えが行われた。

   
イ.飛地あり
   ・井伊氏の彦根藩35万石は近江国5郡と2か所の飛地で武蔵国荏原郡10村と多摩郡9村は徳川政権を
    支える藩として江戸近郊に所領が宛がわれた。 また、下野国安蘇郡15村は2代藩主井伊直孝が
    徳川家康の遠忌法会の際に将軍家光の名代として日光東照宮の代参したことから、以降先例と
    して彦根藩固有の御用となった。 そのため日光例幣使道の天明宿・犬伏宿のある一帯が当藩の
    所領1万9千石余の飛地となった。 彦根藩は35万石の大藩にして彦根周辺に多くの所領を有して
    いたが彦根市は彦根藩のごく一部。
   ・小田原藩11.3万石の大久保氏は相模国と駿河国。箱根山中や富士山麓で農地が少ないことがあり
    飛地というよりは伊豆国20村・常陸国16村・武蔵国16村・河内国16村・美作国32村に分散していた。
    小田原藩が小田原市ではない。
   ・佐倉藩11万石の堀田氏は下総国佐倉周辺の印旛郡141村のほか下総国内に6郡73村。その多くは
    江戸へ続く成田街道沿いと江戸湾へ出る地域。その他5か国に114村の飛地。
    前藩主の大給松平氏6万石との差5万石を補うため飛地というよりは分散領地となった。
    今日の佐倉市は佐倉藩の一部分に過ぎない。
   ・忍藩10万石の奥平松平氏は武蔵国の忍(行田市)付近の他、藩付飛地として城付き領と同じ武蔵国
    ながら離れた秩父地区にあった。 この他に白河・桑名藩との三方領地替えで飛地があった。
    忍藩が岩代国白河藩へ、白河の久松松平氏が伊勢国桑名藩へ、桑名の奥平松平氏が忍藩へ転封。
    伊勢国の員弁・朝明・三重の3郡が家付き飛地の形で忍藩奥平松平氏の領地となった。 
    この飛地が発生した背景には久松松平氏が桑名から越後高田と岩代白河を経て出身地の桑名へ
    戻った転封があった。 久松氏は高田時代の越後国蒲原・三島・苅羽・魚沼郡の領地を白河藩の
    飛地に、そして桑名藩の家付き飛地となった。そのため桑名藩の城付き領の桑名藩以外の伊勢国
    員弁・朝明・三重3郡の多くの部分が忍藩へ奥平松平氏の家付きの形で飛地となったのである。



3. 高崎藩の所領
 (1) 変遷
    慶長3年(1598)に井伊直政が高崎城を築き入城、12万石が宛がわれていたが詳細ははっきりしていない。
   その後、酒井家次、戸田松平氏、藤井松平氏がいずれも5万石で短期間に転封したが高崎藩領に変化は
   なかった。
   元和5年(1619)に安藤氏が5万5600石で入封、5万石を越えた分は近江国2郡に宛がわれた。
   元禄8年(1695)に松平(大河内)輝貞が入封してから、加増や大坂城代を務めたことから領地が変動し始めた。

 (2) 飛地
    松平輝貞が越後国村上へ転出した後も飛地
野火止領は"家付き飛地"であった。野火止領は大河内氏先祖の
   墳墓の地で要請して認められた特殊な飛地である。
    享保2年(1717)輝貞が再び高崎藩主になると村上藩時代の飛地
一ノ木戸領も"家付き飛地"として高崎藩の
   領地となった。
 輝貞の高崎藩への再封に際し前任の間部詮房時代の所領であった下総国海上郡銚子領
   高崎藩の"藩付き飛地"
として続いた。

    三代輝高と四代輝和が大坂城代の時に一ノ木戸領と畿内の領地の入替が行われた。 大坂から離れた
   関東地方などの大名が大坂城代や京都所司代に就くと大坂勤務の藩士らの米の手配もあり河内国や摂津国に
   幕領が宛がわれた。 河内国の16郡556村29.3万石は幕領・旗本知行所・地元藩領(狭山・丹南)の他、14藩
   (畿内外:小田原・高徳・館林・沼田・下館・加納・岡田・神戸、畿内:高槻・郡山・小泉・淀・伯太・膳所)
   の領地で構成されていた。 また、摂津国12郡975村41.6万石は幕領・旗本知行所・地元藩領(高槻・麻田・
   尼崎・三田)の他、12藩(畿内外:一橋・田安・小田原・古河・加納・岡部・飯野・岡田、畿内:芝村・小泉)
   と宮家や公家領で構成されていた。



4. 上野国の諸藩領
 (1) 上野国内の分布
    吾妻郡は全てが幕領、北毛は沼田藩と前橋藩、西毛は小幡藩・七日市藩・吉井藩・安中藩・高崎藩、
   東毛は前橋藩・伊勢崎藩・館林藩の領地と、幕府領と旗本領であった。その他に上野国外の藩領が9藩、
   他国に比べると比較的少ない。地域は東毛地区が殆ど。
    淀藩は勢多郡に13村の飛地があった。 10.2万石の規模ながら本拠地山城国には4郡48村しかないため、
   常陸国1郡8村、下総国4郡47村、近江国8郡80村、河内国3郡24村、和泉国3郡8村、摂津国1郡15村に分散。
    岩槻藩は本拠地武蔵国7郡71村の他に所領が分散していた。 そのうち上野国では勢多郡5村と那波郡2村
   のうえ2.3万石の割には安房国2郡10村、上総国5郡83村、下総国1郡4村、常陸国1郡1村、山城国1郡1村と
   分散していた。
    西端藩も1万石の小藩ながら本拠地三河国には1郡5村しかなく三河に移る前の武蔵国に1郡6村、上野国は
   新田郡に6村と邑楽郡に1村、下野国1郡1村、上総国2郡7村、下総国2郡5村、伊豆国2郡6村に分散している。
    この他に岡部藩2.2万石が新田郡に4村、一宮藩1.3万石が佐位郡に3村、泉藩1.8万石が勢多郡に9村、
   松山藩2.5万石が勢多郡に6村飛地を領してた。
  
 
(2) 飛地の比重が大きい
    譜代藩の平均的な領地構成は城付き領が60%台であったが、吉井藩は殆どの領地が県内に飛地として
   点在していた。 陣屋のある多胡郡吉井地区には6村しかなく上野国内5郡20村と上総国2郡6村と飛地の
   比重が極めて高かった。
    館林藩も飛地のウエイトが65%と高かった。 城付き領は邑楽郡43村・新田郡1村で飛地が下野国2郡4村・
   出羽国39村・河内国3郡37村もあった。 藩主の秋元氏が山形藩から館林藩へ転封となった際に旧領の
   羽前国村山郡を家付き領として引き継いだ。 因みに村山郡458村36.5万石は地元藩領(上山・山形・天童・
   新庄・松山・長瀞)より館林藩をはじめ土浦・佐倉・棚倉藩の飛地が大きなウエイトを占めていた。
    安中藩も本拠地の碓氷郡34村と群馬郡6村の他に下総国の香取郡9村・匝瑳郡10村・海上郡4村があった。







                                                  2020.1.16
                 第86回勉強会 「安藤家三代


1. 三河安藤氏
  安藤氏は三河国の土豪で安藤家重が松平広忠(徳川家康の父)に仕え天文9年(1540)に
 織田信秀との三河安祥城攻防戦で討死。 子の基能も元亀3年(1572)の武田軍との
 三方ヶ原の戦いで戦死した。 基能の子に
長男直次次男重信がおり、直次系安藤氏
 の祖となる直次は家康の命で十男頼宣の紀州藩付家老となり田辺藩主を務める。

  重信系安藤氏の重信は譜代大名として5か所の藩主を務める。 歴史的にも一般的にも
 重信系が知られているが
宗家は直次系である。


2. 直次系安藤氏
  安藤直次は弘治元年(1555)に生まれ姉川の戦い、長篠の戦いに参戦し、小牧・長久手の戦い
 では敵将池田信興を討ち取りながら手柄を譲った逸話で知られる。 関ケ原の戦い後に家康の側近
 老中としてその誠実さを買われ駿府政権で幕政の一翼を担った。
  慶長15年(1610)に徳川頼宣の付け家老に任じられる。 掛川藩2万8千石に宛行われ、
 元和5年(1619)に頼宣が紀伊国和歌山へ移ると田辺城3万8千石の所領を宛行われ、以後
 明治まで末裔が務めた。 紀州藩付け家老は他に新宮3万5千石水野家、貴志1万6千石
 三浦家、伊勢田丸1万石久野家がある。 因みに尾張藩は4家、水戸藩は1家あり。



3. 重信系安藤氏
  安藤重信以降の流れは重信系と呼ばれる。下総小見川藩2万石から始まり高崎藩5万6千石
 備中松山藩6万5千石、美濃加納藩5万〜6万5千石、磐城平藩6万7千石の藩主を務めた。
 幕府に在っては、重信、信友、信成、信正の4人が老中に就任している。

  (1)安藤重信 弘治3年(1557)〜元和7年(1621)
    天正12年(1584)小牧長久手の戦い、慶長5年(1600)関ケ原の戦いで徳川秀忠軍に属し
   上田城攻めに加わった。 慶長15年に上野国多胡郡に5千石を宛行われ、同16年に
   秀忠付老中に列して土井利勝、本多正信らと共に政務を差配した。 翌年下総小見川藩
   2万石を宛行われる。 同19年に大久保忠隣改易の際に小田原城を、 元和5年(1619)
   には福島正則改易の際に広島城の受取りを任されている。 この年に高崎藩5万6千石
   に宛行れたが秀忠の閣僚として活躍し藩政に手が回らないうちに2年後64歳で死去、
   養子の重長が襲封。

  (2)安藤重長 慶長5年(1600)〜明暦3年(1657)
    重信の娘を正室とした本多正盛の長男に生まれた。 慶長14年に徳川家康に拝謁し
   重信の養子となる。 大坂の役に重信の代りに参陣し敵兵を討ち取った。
   元和5年(1619)上野国板鼻に2千石を賜う。 同7年重信の死により遺領を相続し板鼻の
   所領は返納している。 寛永12年寺社奉行、同14年に奏者番を兼任する。嫡子の重之が
   既に死亡していたため嫡孫の重博が跡を継ぐ。
    寛永9年(1632)に徳川忠長を預り高崎城に幽閉、将軍家光の密命を帯びて訪れた老中
   阿部に正式な書面を求めて抵抗したが、家光の意向を察知した忠長が自刃してしまう 

   慶安3年(1650)に江戸城西ノ丸普請の総奉行、明暦元年(1655)には二ノ丸普請も担当し
   栄進が期待された。
   

    同3年の江戸大火では江戸城本丸が類焼するに及んで幕臣たちが城外の井伊邸に将軍を
   避難させようとするのを止め、江戸城西ノ丸への避難を主張し将軍に移ってもらう。
    結局井伊邸は類焼したが西ノ丸は無事であった。 翌年病床に伏し58歳で死去。
   『徳川実機』では「卓絶なる才人」とその死を惜しんでいる。

  (3)安藤重博 寛永17年(1640)〜元禄11年(1698)
    父重之は19歳で亡くなっていたので祖父で先代の重長の死により高崎藩主を継ぐ。
   寛文2年(1664)奏者番。
(元禄8年(1695)備中松山藩主水谷氏は末期養子が遺領を継ぐ前に
   死去したため弟を立てたが受け入れられず(3千石の旗本に)、5千石加増で転封となる。)
   『土芥寇讎記』には「生まれながら利発で柔和な性格を持ち、領民を気遣い、奢らず、
   怒らず、孝心もあって噂はよいとされている。 ただ、能楽を好むため散財が多い。
   これさえ改まれば名君である」と記されている。 重博が能楽に入れ込んだことは
   清水寺に奉納の演能の絵馬、足門町八坂神社に伝わる白式尉・黒式尉の面と高崎に
   残された文化財からも窺える。 能楽が何よりも好きであった将軍家綱の影響が強いと
   思われる。
   

                清水寺の演能の絵馬 (高崎市指定文化財)

  (4) 重博以降の安藤家
    重博の跡を継いだ四代信友は正徳元年(1711)に美濃加納へ転封、大坂城代を経て
   享保7年(1722)侍従・老中に就任し将軍吉宗が推進する享保の改革に関与した。
   後継者に苦労し五代目となった信尹は奢侈を好み財政が悪化、綱紀が乱れ重税に
   苦しめられた民衆が強訴を起こし家中からも訴えが出たりした不行跡により強制隠居
   となり、跡を継いだ六代目信成は宝暦6年(1756)に1万5千石減封のうえ磐城平藩へ転封
   となった。 信成は天明元年(1781)寺社奉行、同4年に若年寄、寛政5年(1793)に老中に
   就任し在任中の功績により没収されていた美濃国旧領1万7千石が戻された。
    弘化4年(1847)十代信正が藩主となる。母親は吉田藩松平(大河内)信明の娘、正室は
   宮津藩松平(本庄)宗発の娘で高崎藩松平輝和の孫(実際は姪)にあたり高崎大河内家との
   縁が深い。 嘉永4年(1851)寺社奉行、安政5年(1858)若年寄を経て、万延元年(1860)
   侍従・老中に就任し幕政の中心として公武合体政策を推進した。
    しかし文久2年(1862)坂下門外の変により失脚した。

  (5) 阿久和安藤氏
    分家のうち基能の弟定次系は阿久和安藤氏と呼ばれその三代目に安藤治右衛門正珍
   がおり慶長9年(1604)の生まれで安藤重信とは又従兄弟の関係にあたる。
   正珍は剣豪荒木又右衛門による伊賀越えの仇討ちとして有名な「鍵屋の辻の決闘」に
   関わった旗本たちの一人である。
    この出来事は岡山藩主池田忠雄が寵愛する小姓の渡辺源太夫に藩士河合又五郎が
   横恋慕して関係を迫ると拒否されたため、又五郎が逆上して源太夫を殺害してしまった
   ことに端を発する。 又五郎は逐電し逃げ込んだのが江戸の安藤正珍の屋敷である。
    安藤家へ逃げ込んだのは河合家は安藤家が小見川藩時代からの家臣であったことに
   よる。 池田侯は幕府を通して又五郎の引渡しを求めたが安藤が旗本仲間と図り拒否。
    これが従前から燻っていた大名と旗本間の確執に火を注ぐ形になったのである。
   ところが池田侯が疱瘡のため急死し跡を継いだ光仲は鳥取へ国替えとなり、喧嘩両成敗
   として旗本たちの謹慎と又五郎の江戸追放の処分を行った。 ただ、逝去した池田侯が
   又五郎を討つよう遺言したため事が大きくなった。 兄が弟の主君が配下の仇討ちは
   逆のため出来ないが、源太夫の兄の渡辺数馬は仇討ちをせざるを得ない状況になり
   鳥取への移封には従わず脱藩。 上意討ちの様相を呈し姉婿で郡山藩剣術指南役荒木
   又右衛門に助太刀を依頼し又五郎の行方を探った。 奈良の旧郡山藩士の家に身を
   隠していた又五郎は危険を察知し叔父で元郡山藩剣術指南役河合甚左衛門と妹婿で
   鎗の名人の桜井半兵衛ほか総勢11名で江戸へ向かおうとした。 数馬と又右衛門と
   門弟2名で伊賀上野の鍵屋の辻と呼ばれる地で待ち伏せ、又右衛門が甚左衛門と半兵衛を
   討つと他の者は逃げてしまい数馬が死闘の末に又五郎に傷を負わせ又右衛門が止めを刺した。



4. 高崎藩における安藤氏の事績
  (1)伝馬宿の拡張
    中山道の伝馬宿が慶長6年(1601)頃に設けられ高崎には本町に問屋場が置かれた。
   井伊直政が高崎城を縄張りした以前から問屋であった梶山与惣右衛門が本町へ移り
   そのまま伝馬問屋を許可された。 交通の要衝である高崎は年々往来する人々や
   輸送荷物が増加したため本町一ヶ所では捌ききれなくなった。
    そこで重長は寛永9年(1632)から田町と新町を伝馬とした。 伝馬は定められた
   人馬を用意しておかなければならない一方、公的業務は無賃あるいは料金が低額の
   ため経済負担が大きかった。 しかし民間の宿泊者や流通が盛んになり、また、
   繁栄に伴い様々な商売も加わり町の発展基盤となる。 増加業務の負担分散と経済要因を
   広く活用するため高崎宿の一か月の伝馬業務を三町が交代で担当するシステムを
   導入することにより高崎を大きく発展させる政策となった。

  (2)六斎市の設定
    本町・田町・新町は伝馬宿のため経済的な負担があるので地子が免除され町役人の
   給与も城主から支給されていた。しかし負担も大きかったので経済援助を目的として
   延宝3年(1675) 三町に市日を設定した。 一か月のうち本町が三と八の日、田町が
   五と十の日、新町が二と七の日に市が開かれる六斎市である。
    本町の端から新町の端まで1200mほどの町において六斎市が三ヶ所で開催された。
   武州川越の九歳市や越州新発田の十二歳市など六斎市より多く開催される市もあったが
   月に18日も市が開かれる町や宿場は珍しく高崎宿へ行けば二日に一度は市がたっている
   ということで近郷近在から人々が集まって来る商都となった。
    本町は酒や醤油などの醸造業、質屋、絹・油・塩・茶・薬種・小間物などの卸小売業
   田町は呉服・絹類・太物など繊維関連の卸問屋と穀物・肴・小間物などの問屋が、そして
   新町は穀物問屋、小間物問屋、旅籠屋がすき間なく軒を連ね江戸以外では最大の商都に
   発展した。

  (3)絹市場の設置
    元禄3年(1690) 田町に絹の売買を独占する特権を与え他の町に絹取引を厳重に禁じた。
   そのため西上州特産の絹類が田町に集積、それを買い求めて諸国の商人や京都や江戸の
   越後屋や白木屋といった都市呉服問屋も進出する市場となった。
    田町絹市は一丁目で十日と二十五日、ニ丁目で十五日と晦日、三丁目で五日と二十日に
   市立てが行われ、市日には道路に仮設された絹買店が15〜17店舗も立ち並んだ。
   田町は六斎市と重なり一段と商売繁盛、賑やかなまちとなり「お江戸みたけりゃ高崎田町
   紺の暖簾がひらひらと」と謡われる町となった。

  (4)高崎城の完成
    井伊直政が転封してしまい高崎城の築城工事は中断していたが、重博は寛文7年(1667)
   工事を再開した。 茅葺きのままであった本丸の館を三層の櫓に建替え、並行して瓦葺きの
   子の門(北門)と大手門を建立し凡その工事が終了した。 さらに連雀町の民家の一部を
   東へ移動させ枡形を造った。 さらに大手門の脇を堅固な切石で固め南門や赤坂門の
   棟上げを行い城郭工事が終了した。



5. 駿河大納言事件
  徳川忠長は二代将軍徳川秀忠の三男、三代将軍家光の実弟である。 駿河国・甲斐国と
 遠江国の一部55万石を領し官位が大納言であったことから「駿河大納言」と呼ばれた。
  辻斬り疑惑、家臣手打ち、浅間神社の神獣である猿狩りを行うなどの行状が悪評として
 流布され寛永8年大御所秀忠によって甲斐国に蟄居させられた。 秀忠が亡くなると「狂気」を
 理由に寛永9年(1632)幕府は忠長卿を高崎城へ幽閉すると発表した。
  背景には家光との確執、幕府に懸念を抱かせるような他大名との交流から権力闘争が起きる芽を
 摘むためなどが考えられる。 重長は将軍の実弟を高崎城へ迎え日夜丁重に処遇した。
  しかし翌年将軍の使者として老中阿部重次が密かに高崎城を訪れ重長と会見した。
 重次は「忠長卿は高崎に幽閉された後も狂気が改まらない。忠長卿を自殺に追い込むように」
 と将軍の意中を口頭で伝えた。 驚いた重長は「たとえ将軍の命令であってもことは重大で
 是非とも『御墨付』が欲しい」といって応じなかった。 その後両者の間で何回か交渉が繰り返され
 最終的には重次が家光の御墨付を持参したので事は決行された。
  重長は忠長卿の住まいを警備している藩士に庭の縁から少し離れたところに鹿垣を厳重に
 張り巡らせるようにと命じた。 忠長卿は何故そのようなことをするのか作業の指揮をとる藩士に
 質問した。 藩士が「江戸からの命令の様です」と言うのを聞いて事情を察し、忠長卿は一日中
 部屋に籠り身の回りをしていた侍女を別棟に下がらせ、童女に酒の支度をさせ戻った時には
 白小袖の上に墨の紋付を打ち掛け前にうつぶしていたという。享年29歳
  重長は忠長卿を預かったことにより1万石を加増され6万6600石となった。

 
 
   駿河大納言忠長卿肖像画(大信寺藏)         大信寺墓地内の忠長卿の墓


6. 香道と茶道
  (1) 安藤家御家流香道
    二代将軍秀忠の娘和子(まさこ)が第108代後水尾天皇の中宮となり寛永6年天皇が突然
   譲位すると院号宣下を受け東福門院となる。 天皇も和子も各種の芸術に優れたセンスの
   持ち主と言われる。 香道については趣向を凝らした複雑な組香を考案し遊戯性の強い
   盤香を作成させている。 安藤重長の長男重之の室となった藤堂高次の五女(高虎の孫)
   蝶は重之が19歳で亡くなり未亡人になると東福門院御所に参殿し、ここで香道に接し
   斯道を江戸へ持ち帰りそれが安藤家の留流として伝わった。

  (2) 御家流茶道
    安藤家四代信友は千利休、細川三斎、一尾伊織、米津周防守から伝えられた茶道に
   初祖重信が残した古田織部の切紙(奥秘を伝授する免許)を合わせ両派を伝える安藤家の
   留流とし、1970年から一般の人々にも伝授している。


     千利休 :わび茶の完成者、茶聖 
     細川三斎:利休七哲の一人、熊本藩55万石藩主
     一尾伊織:三斎流一尾派の創始者、旗本 
     米津周防守:旗本、留守居役等歴任
     古田織部:利休七哲の一人、織部焼の創始者、大坂の陣関連で疑われ一族滅亡







                                                  2019.11.21
                 第85回勉強会 「間部詮房


1. 生い立ち
   寛文6年(1666)甲府藩主徳川綱重の家臣西田清貞の子として生まれる。
  間部詮房が世に出るきっかけとなった綱重は三代将軍家光の次男である。 四代将軍と
  なった兄家綱に継嗣がおらず、後継者選定時に綱重は亡くなっていたので綱吉(34歳)
  と鎌倉幕府に倣って宮家から将軍を迎える案で幕閣内で意見対立があったが綱吉が
  五代将軍に就いた。 この時、綱重の子の綱豊は18歳と若く綱重が正室を迎える前に
  身分の低い女子に産ませたため家臣の養子に出されており外されたと言われる。
   しかし、綱吉にも継嗣がなく家光の孫であることが決め手となり綱重の子・綱豊が
  六代将軍となる。

   家光B 家綱C(1641〜1680)
         
綱重(1644〜1678)ー綱豊(家宣E1662〜1712)ー家継F(1709〜1716)
         綱吉D(1646〜1709)

  詮房は猿楽師・喜多七太夫の弟子であったが、父が綱豊の家臣であり喜多の推挙も
  あってか(甲府宰相)綱豊の小姓に抜擢され「間鍋」を綱豊の命により「間部」と改姓した。
  *猿楽は明治以降「能楽」と呼ばれる。喜多座は四座(観世・宝生・金剛・金春)に次ぐ
   流派で、徳川秀忠・家光の後援を受けて大いに盛んになった。



2. 経歴
  貞享元年(1684) 甲府藩小姓、切米150俵10人扶持。
  元禄4年(1688) 藩奏者役格700俵、
  元禄12年(1699) 用人1200俵となる。 【ここまでは甲府藩士】

  宝永元年(1704) 綱豊が綱吉の養継嗣として江戸城西ノ丸に入ると書院番格・西丸奥番頭で
              官位は従五位下越前守。
  宝永2年(1705) 西ノ丸側衆となり相模国内に知行3000石の旗本。 【ここまでは幕臣】

  宝永3年(1706) 若年寄格として相模国内に1万石宛行、無城の大名になる。
  宝永6年(1709) 綱豊が六代将軍に就任すると老中格側用人に起用され、侍従。
  宝永7年(1710) 老中格の城である高崎城主に就任し5万石の城持ち大名となる。
  正徳2年(1712) 家宣が逝去し家継が第7代将軍に就任。家宣という後盾を失い新将軍
              家継幼少のため将軍の意思が疑問視され反対派の攻撃の的となる。
  正徳6年(1716) 家継逝去。吉宗が八代将軍に就任すると側用人御免。
  正徳7年(1717) 越前国村上5万石へ転封され赴任間もなく死去。継嗣がなく実弟詮言が
              襲封も直ちに鯖江5万石へ転封となる。 鯖江は無城で左遷的異動。



3. 「正徳の治」
   家宣は将軍に就任すると綱吉時代の側用人の松平輝貞と松平忠周を解任。
  大学頭に林信篤を迎え新井白石に職責を一任した。 白石は加増されても1000石の本丸寄合
  につき殿中に入れず間部が将軍へ取り次いだ。 白石の幕政運営は旧弊を正すことが主眼で
  保守派の幕閣とは齟齬が多かった。 因みに五代将軍綱吉の側用人として権勢を誇ったと
  言われる柳沢吉保は幕政に関与しなかったが間部は白石と共に幕政を主導した。
  正徳の治の主たる政策は次の通り

   ・正徳金銀の発行
    元禄金銀及び宝永金銀を回収し慶長金銀の品位に戻す通貨の吹き替えを実施。
    インフレ鎮静を試みたが経済成長に伴う通貨の自然需要増の前政策を無にしデフレ進行。
    本件は政策と言うより白石が綱吉政権の勘定奉行荻原重秀を悪人と呼び「有史以来の奸物」
    と嫌ったことが大きい。 萩原は何度も罷免を申出たが代わる人物がいないため引続き奉行の
    地位にあり、三度目の申出で罷免となった。
  ・海舶互市新例
      長崎貿易の決済に金銀が多用され、白石は開幕から宝永期に国内通貨量のうち金貨1/4、
    銀貨3/4が海外に流出したと計算した。 対策として輸入規制と商品国産化推進のため
    長崎入港の異国船の数および貿易額の制限を実施した。 清国船は年間30艘/銀6千貫、
    オランダ船は年間2艘/銀3千貫に限定した。 抑商・農本主義路線への回帰であった。
   ・朝鮮通信使待遇の改訂
    通信使の接待が幕府財政を圧迫してきたため待遇の簡素化が目的であった。
    もう一点は将軍称号を「日本国大君」から「日本国王」に変更させた。
   ・武家諸法度の改訂
    武家諸法度は将軍が代わる度に変更してきたが、綱吉時代の「天和令」の和漢混交文を
    家宣の「宝永令」で日本文に改正し文治政治の理念を明確にした。



4. 新井白石
   先祖は上野国新田郡新井村(太田市新井町)の土豪と言われ、明暦3年(1657)新井正済の子と
  して生誕、間部より9歳年上である。 正済は上総国久留里藩 土屋利直の家臣であったが、
  久留里藩二代目藩主 土屋直樹が狂気で、正済は出仕しないことを咎められる懸念を感じ、
  親子で土屋家を追われた。 天和3年(1683)古河藩 堀田正俊(大老)に仕官できたが、正俊が
  殿中で刺殺されると浪人となり独学で儒学を学んだ。 貞享3年(1686)朱子学者 木下順庵に
  入門し、順庵の推挙で甲府宰相 徳川綱豊に仕官したがわずか40人扶持の薄給であった。
   ただ、薄給の身ながら六代将軍家宣の侍講として幕政運営に携わる。 一介の旗本として
  後にも先にも白石のみである。



5. 江島生島事件
   正徳4年(1714)に起きた間部詮房が失脚する原因と言われるスキャンダルである。
  家宣の正室 左大臣近衛基熙の娘熙子(落飾し天英院と呼ばれる)には子供がいなかった。
   一方側室ながら喜世(落飾し月光院と呼ばれる)は鍋松(後の家継)を生み将軍の生母として
  影響力が大きくなっており、天英院派と月光院派で確執があった。
   月光院の右腕で大奥御年寄の江島が将軍家宣の墓参代行の帰りに山村座歌舞伎役者の
  生島新五郎を宴会に招き大奥門限に遅刻した。 この不祥事から江島は失脚し高遠藩にお預け
  生島は三宅島への遠島となった。 処分が比較的穏便であったのは月光院の嘆願によると
  言われ代りに月光院の影響力は大きく下がった。 この事件は天英院派と月光院派の
  確執による陰謀説もあり、更に鍋松は月光院と間部の密通によるという俗説もあるほどであった。



6. 間部氏と大河内松平氏との因縁
   鯖江藩は間部氏入封までは農村で、現在の鯖江市は昭和30年に市制。人口約6万8千人の
  眼鏡の生産で知られる都市。
   7代詮勝が幕末期に老中となるが井伊直弼と対立し罷免される。 しかし、幕閣の一員と
  して責任を取らされ1万石減封を受けた。 詮勝の子供が大河内松平氏の養子となっている。
  次男が吉田藩主松平(大河内)信璋の婿養子となった信古で老中に就任。 
  五男は大多喜藩主松平(大河内)正和の婿養子となった正質で、幕末期に老中格として幕政
  の舵を取り朝敵にされた。



7. 高崎藩での治政
   詮房は家宣の側を片時も離れず勤務し、また幼少の将軍家継を補佐し江戸城内に殿居。
  高崎へは入らなかった。 在任中に城下町が拡大発展し、常盤町・四ツ屋町・新喜町(現和田町)
  が成立した。 特産物として桑の皮の漉きたてを試み「桑紙」と名付けた。『延喜式』に記載される
  小祝神社を再建、高崎城乾櫓を単層から重層に改修、吾妻川右岸の三国街道における
  川の関所「杢ヶ関」の管理を安中藩から引き継ぎ修復している。



8. 所領の変遷
   幕臣から大名へ昇進したため蔵米から旗本知行地、そして大名としての領知を宛行れた。
  書院番頭格、西ノ丸番頭時代は相模国内愛甲・高座・鎌倉3郡に3千石であったが、若年寄格
  に昇進した際の1万石は相模国内の愛甲・高座・鎌倉・大住4郡であった。
   この後に西ノ丸側用人として加増された1万石は、和泉国大鳥・泉2郡摂と摂津西成郡で、
  家宣将軍就任の際に加増された3万石が相模国上知、大鳥郡・西成郡・伊豆国2郡・下総国
  海上郡であった。 高崎城主就任時の城付領は前任者松平(大河内)輝貞の5万2千石のうち
  上野国群馬・片岡・碓氷3郡の3万石加増に止まり、経済的に有用な和泉・摂津・伊豆3国
  (一部上知)と共に銚子の所領は手放さず高崎藩の飛地となった。



9. 高崎藩に有効な飛地
   詮房は下層の身分から立身したことから大名家に生まれ育った者に比べ経済社会情勢を
  承知していたであろう。 幕閣として幕領の中から経済性に優れた地域を所領とすることが
  できたと考えられる。

  (1) 畿内の領地
   ア.和泉国の所領 
     前領主は柳沢吉保。館林宰相綱吉が将軍継嗣になると幕臣となり、1694年に1万石
    加増された領地が和泉国大鳥郡と泉郡。 詮房が1707年に1万石加増された場所と同じ。
     ここは和泉木綿の生産地で石高以上に経済性の優れていた地域であった。 隣接する
    奈良地方に木綿市場が出現し綿作の技術が普及、溜池と大坂地方からの出肥が綿栽培
    の後押しをした。
     慶長期に庶民の衣料素材が麻から木綿に移行、寛永期に綿作地が耕地の六割となる。
    元禄期には絹織物職人が木綿織りに移行し木綿生産が急成長、和泉木綿は広く流通した。

   イ.摂津国の所領
     都市化に伴う浪速の畑場8ヵ村は蔬菜類産地として発達、淀川を挟む村々も渡しが
    あり交通の要衝、渡し賃を徴収できた。

  (2) 銚子
   ア.河川交通の拠点
     九十九里から銚子辺りの鮮魚は利根川の木下(きおろし)河岸(印西市)等から陸揚げされ
    江戸へ運ばれていた。 また、東北諸藩の年貢米の輸送路は常陸国那珂湊〜那珂川〜
    涸沼南端海老沢河岸〜荷駄で鉾田川紅葉河岸〜北浦〜潮来河岸へ。 銚子港〜常陸川〜
    潮来へ直接入港する廻米船もあった。
     承応3年(1654)に江戸湾に流入していた利根川の水路変更する「東遷」が完成すると
    潮来〜利根川〜江戸川〜江戸へ直送する「内川廻し」が主力になり利根川水運の前身である。
     利根川により大量の土砂が銚子河口に運ばれ銚子港から千石船の遡航が困難になると
    銚子港で高瀬舟に積替えが必要となる。 すると東北地方など広い地域を後背地とした
    遠隔地交易の拠点となり銚子は東廻り海運の重要な港になる。
     寛文10年(1670)に務場(役人出張所)が設置され東北地方の幕領から江戸へ運ばれる
    幕府上米の運搬船は必ずここに立ち寄り、御穀宿(廻米を処理する問屋)が銚子港周辺
    荒野村に6軒、今宮村に1軒設置された。
     元禄期頃から鰯は干鰯や〆粕に加工生産され九十九里浜方面も陸路をとり利根川河口
    から二里程上流の高崎藩領の野尻・小船木河岸と幕領の高田河岸から積み出しされる。
     奥州産の干鰯も銚子産として、また、東北諸藩の廻米も扱われ大集積地となった。
    下総国関宿(野田市)や上野国境河岸(伊勢崎市)の商人から下野国や上野国方面へも
    回漕するルートとなり、野尻・小船木の両河岸は大いに繁栄、船の入出港の通行料
    口銭が藩財政の貴重な収入源となった。

   イ.商業的漁業地
     江戸が大消費地に発展すると上方漁民が関東地方沿岸に進出。 特に紀州漁師の
    進出により、まかせ網(鰯巻網、漁船6隻、漁夫8〜90人)や八手網(網を水面から懸垂させて
    張る浮敷網)など漁法に大きな変化をもたらした。
     船保有が少ない時代は一艘毎の定納制であったが漁獲量が増大した間部氏時代には
    漁獲量に応じて賦課する漁獲高制となる。 また、農民にも漁業が認められると、百姓の
    銭儲け・現金収入が潤った。 一方で漁業に関わる各種課税を導入し銚子は経済性の高い
    所領となった。 更に畿内や中京で綿作等商品作物の栽培が盛んになると肥料としての
    干鰯や鰯〆粕の需要が高まり、干鰯場は請負願いが必要となり代官所の意向で決定。
     そして干鰯場の面積に応じて所有者に賦課し荷口口銭を上納するようになる。
    銚子の石高は約1800石だが漁業関係の永納は約4500貫に及び大河内松平氏も引き継ぎ
    高崎藩の飛地とした。







                                                  2019.3.20
            第81回勉強会 「日本の武具入門:甲冑編」


1. 奈良時代の甲冑
  
   古墳時代から奈良時代にかけての甲冑は、矧合わせ目を綴じた「短甲」や、
  小札(短冊のような小板)を威し(連結)て構成した「挂甲」。
   唐から新様式の布に鉄若しくは革の小札を縫いつけた綿甲が伝わる。



2. 平安時代の甲冑
  平安時代中期になって大鎧が登場。それまでの裲襠式挂甲(うちかけしきけいこう)
  が変化したと考えられている。 遣唐使の廃止で国風文化が育ち地方武士の台頭、
   特に東国の騎馬を使った武士団の一騎駈けの騎射戦に適応する甲冑として
  大鎧と兜が発達した。 馬に乗って矢を射るための機能性と敵からの矢による
  攻撃からの防御性を追求して登場。
   小札を綴る絲や韋などの威毛の色彩感により華やかなものになった。

  代表的な大鎧
    
         紺絲威鎧             赤絲威胴丸鎧
        伝河野通信所用          伝源義経奉納
        大山祇神社蔵           大山祇神社蔵

    ・鎧の中心の胴は、数多くの小札を絲や細い韋紐を以て縦に威す。
    ・前後と右脇の方を一続きにしてU字型に胴を守り、右脇の隙間
     に脇部分を守る脇楯をあてがう。
    ・胴正面は弦走韋を胸部の保護と騎射を容易するため鹿鞣し貼る。
    ・右胸部分を守る3段小札の栴檀板(せんだんいた 弾力性あり)
    ・左胸を守る表面を革で張った鉄板の鳩尾板(騎馬武者が馬上で弓
     を放つ際に敵に左半身を向けるため左脇の下を防禦する)
    ・騎馬武者の主武器が弓で両手が塞がり盾の代りに敵の矢から身を
     守るため、両肩に最上部に鉄製で革を張った冠板を付けた6段な
     いし7段下りの大袖を楯として取り付けた。
    ・背面は前後に屈伸しやすく押付板(胴背面上部の革を張った横長
     の板)の下の板を逆板とし、中央に総角(あげまき 蜻蛉十文字
     に結び房がついている装飾的な色鮮やかな紐)付の金輪を付け、
     これに大袖の懸緒と前かがみになった際に袖が垂れ下がらないように
     する水呑緒を結び留める。
    ・腰や膝を保護し、鞍の前輪と後輪に打掛け騎乗の安定を図れるよう
     胴の下部は前後と左右に各1間の大きな草摺を付けた。
    ・下段には蝙蝠付(左右の草摺を取り付けるための革。蝙蝠が翼を
     広げた姿に似ている)畦目(うねめ)で横一線に綴じ付け札を補強し、
     X字型に菱縫と綴じ付け札を補強。



3. 鎌倉時代の甲冑
   源平合戦のころを継承しながら、鎌倉中期に至り元の来寇を受けてから
  戦闘の様相が変化し、騎馬戦から徒歩集団戦に移り甲冑も変化した。
   武人が天下を制覇すると武門の象徴として装いを凝らし、甲冑の実用性を
  離れて武将の風雅を示すようになった。特に戦勝祈願などで神社に奉納する
  甲冑は装飾性を競った。

  鎧の構造
   ・小札が精巧になり、威絲の幅が狭く薄くなり、胴廻は上下同幅で腰が締まった感じ
   ・栴檀板と鳩尾板が狭小となり、草摺は前後よりも左右を長く仕立てた。
   ・大袖は7段仕立てとなり、胸板や冠板が大きくなった。

  代表的な鎧
   
 源頼朝奉納の紫綾威鎧  赤絲威鎧(梅枝鶯蝶金物付)   菊金物赤絲威鎧
  大山祇神社蔵           春日神社蔵          櫛引神社蔵



4. 南北朝時代の甲冑
   胴丸は平安末期の絵巻に着用が描かれているが、徒歩で戦う従者は
  鎗や薙刀などを用いたため簡便な武具として生まれた。 右引合せの胴の
  形式は室町時代までは「腹巻」と呼ばれたが、室町末期から「胴丸」と呼ばれ
  「腹巻」は背引合せの胴を呼ぶ。
   南北朝時代に入ると大規模な地上戦接戦や山城の攻防戦など地域的な
  戦闘が多くなる。 大鎧に代り軽便簡易な武具が求められ、上級武士も
  馬上戦・徒歩戦両方に対応できる胴丸に兜を被るようになる。 南北朝のころ
  から兜・袖・籠手・脛当を付けた重装備で使用。 太股部分の防御力と機動性を
  増すため草摺を五間から七間へ増やした。 各部の名称は胴丸・腹巻共に
  ほとんど同じ。

 代表的な鎧
    
       白絲妻取威大鎧          燻(ふすべ)紫韋威鎧
       伝南部信光奉納          日本最古の現存胴丸
       櫛引八幡宮蔵             大山祇神社蔵

  胴丸の構造
   ・栴檀板と鳩尾板がなくなり、大袖を付けない。
   ・肩保護の胴丸肩上(わたがみ)に杏葉(染め革でくるんだ鉄板)を付ける。
   ・胴背面の上部に横長の板で肩や背中を防禦する押付板。
   ・金具廻から両肩に続けて前の胸板の高紐に懸け合わせる部分を肩上。
   ・胸板は体を取り囲むように小札を繋ぎ合わせ、弦走韋がなくなる。
   ・脇を動かしやすいように脇板で補強し引合緒で胴と結ぶ。
   ・草摺が四間から七間ないし八間に細かく分かれ機動性を確保。

  付属品
   腕から手の甲まで守る籠手、大股部を守る佩楯、膝上部分を守る臑当の
   着用が始まる。 下級武士は裸足が多かった。 上級武士も胴丸を使う
   ようになると足袋・草鞋を履く。



5. 兜
  
  平安中・後期に鍛鉄技術が向上し、矧板(はぎいた)と鋲が大きい厳(いか)星兜
  が登場。 鎌倉時代になると鉢の形がふっくらと大きく矧板数が増え、鋲が小さく多い。

  構成要素
   ・兜の本体である鉢の前面左右に敵の矢から顔面を守る吹返を付ける。弓矢の
    使用頻度が下がると視界確保のため縮小してゆく。 前部にはつばに相当する
    眉庇
   ・兜鉢の下端に背後からの攻撃から首を守る小札製の防具である錣が付く。
   ・鍬形→鎌倉時代に鍬形台を鋲で留め左右に鍬形を差し込むようになる。
   ・外部から強い衝撃や力が頭部に伝わらないように、前立・脇立・頭立・後立がある。
   ・戦国時代になるとヤクや牛などの毛を植え付けたつけ物が流行。
   ・兜を頭部と固定するために顎で結ぶ紐
 
  兜の種類
    
    星兜 鋲を鉢の表面に    片白 「しろめ」で飾る   筋兜 鉄板の接ぎ目を筋状に
 
    
 突ぱい 筋兜を簡略に       張懸          総覆輪          頭形(ずなり)



6. 室町・桃山時代の甲冑
   応仁の乱以降の戦国時代には戦乱が絶え間なく、戦闘形式は徒歩集団が主。
  鎗の発達と鉄砲という新兵器の出現によりスピード化され、軽装で活動しやすい
  甲冑が大量に必要となる。 同時に激しい攻撃に備えて身体の各部分を隙間なく
  防護する新しい形式の甲冑として、頬当、咽喉輪、籠手、臑当、佩楯など数多くの
  武具を付けた当世具足が登場。 「当世」とはその当時の意。

  構成部分
   ・兜の吹返は形式的になり、代りに飾りとしての立物や特徴ある立物を付ける。
   ・顔面を守りながら敵を威圧する面頬や猿頬、喉を守る喉輪(下げ)を使用。
   ・胴は鉄板などを使ったものが登場し、前後の胴を開閉できるように蝶番でつないだ。
   ・細長い1枚ものの鉄の横板札に素懸(間隔を置いて上から下へ粗く威す)したもの。
    菱綴りにして上下を連結した最上胴や、鉄板を鋲で留めた桶側胴が登場。

  著名な当世具足
    
      徳川家康           伊達政宗          井伊直政
  伊予札黒糸威胴丸具足    
黒漆五枚胴具足  朱漆塗紺糸威桶側二枚胴具足
    久能山東照宮蔵       仙台博物館蔵      彦根城博物館蔵

    ・1枚の鉄板を打出して前胴と後胴を作り、蝶番で繋ぎ合わせたのが二枚胴(仏胴)。
    ・同じ様式で西欧の甲冑様式を導入したのが南蛮胴で、胴前の中心を高くした鳩胸。
    ・鉄板を前・後・左・右2枚の合計5枚にしたものを五枚胴。
    ・板の栓を抜くと解体できる栓差し連結の胴は、天正期の甲冑師 明珍の住まい鎌倉
     雪ノ下に因み雪ノ下胴と呼ばれる。
    ・背中部分に旗指物用の受筒上部を支える合当理(がったり)と下端を支える待受が付く。
    ・肩部分を防御する袖は腕の動きを邪魔しないように小型化。
    ・腕を守る籠手は篠・筒・鎖・指貫など色々な形式。
    ・腰から腿を守る草摺、草摺から臑当の間を守る佩楯、膝からくるぶしを守る臑当がある。



7. 復古調の甲冑
      
  鉄黒漆塗盛上本小札紫裾紺胴丸    黒漆塗本小札紺絲威大鎧(稲妻の鎧)
      佐倉藩主堀田正愛           高崎藩主松平(大河内)輝聴
     佐倉市麻賀多神社蔵              頼政神社蔵

   幕末期になると外圧に備えて防衛力を強化する中で、藩内の武装点検をし
   藩主は家臣の士気高揚のために甲冑を新装した。
   (輝聴公は稲妻の鎧を作らせ、三日三晩に渡って家臣に披露した。)
    両鎧制作の背景に正愛の孫娘 万が輝聴の正室という姻戚関係があったか
   と思われる。



8. 鎧の付属品
    
 
   面頬        喉輪             脇当               篠籠手

 
        松葉籠手                     伊豫佩楯

  
           鎖帷子               脛当           産籠手



9. 高崎藩の甲冑
  
         高崎藩目付 堤金之亟の下仁田戦争出陣図

   
     鉄砲足軽          高崎藩備付桶側胴       手鎗担足軽
                ※いずれにも
大河内家家紋が中央に






                                                  2019.1.15
                第80回勉強会 「日本の武具入門:刀剣編」

1. 刀剣の分類
 「剣」は主に両刃の物を指し西洋の剣などが代表、「刀」は主に片刃の物の呼称で日本刀が代表。
 この他に銃剣、ナイフ(小刀や庖丁等)



2. 日本刀の分類
 「日本刀」は日本国外からみた場合の呼称で、古来は「かたな」とか「けん・つるぎ」と呼び「日本刀」と
 いう呼び方はしていなかった。
 (1) 直刀
  平安時代中期以前の反りのない真っすぐな刀
  
 
 (2) 彎刀
  平安時代中期以降に現れたもので反りがある
   

  太刀
  
 
  刀
  

 (3) 作刀時代別
  古 刀:平安時代中期〜桃山時代末期 慶長元年(1596)以前の作刀
      相州(神奈川県)・大和(奈良県)・山城(京都府)・備前(岡山県)・美濃(岐阜県)の五か国の
      刀鍛冶が作刀したもので、「五か伝」と呼ばれる。 その他は「脇物」と呼ぶ。
  新 刀:江戸時代前期の慶長元年〜後期の安永末年(1781)の作刀
      実用性が重視され、前期は斬ることに重きが置かれた。
      屋内での戦いを想定して突くことに適した刀
  新々刀:江戸時代後期の天明元年(1781)〜明治維新の作刀
      古来の伝統を至上とする物を「復古新刀」 鎌倉南北朝時代の豪壮な太刀を理想
      志士らを中心に長くて重い刀が流行したが長すぎる刀は実戦では扱いにくい



3. 刀身の構造と作刀手順
  上から棟金(むねがね),心金(しんがね),刃金(はのかね)の3層を鍛接し厚さ20幅40長さ90mm
  程の芯にあたる芯金部分を打ち延ばし、その両側に側金(がわがね)を両側から重ね、沸かして鍛接し
  厚さ15幅30長さ500〜600mm程に打ち延ばす。
  作刀手順は、鋼を鍛錬し、延ばし、加熱と冷却を繰返し、生研ぎ、藁灰で油脂分を落とし乾燥させる。



4. 刀の各部

    目貫(目釘の鋲頭が装飾品に変わり付けられた)
    鍔:柄と刀身の間を挟んで柄を握る手を防護する部位、刀身、笄、小柄を通す穴がある
    切羽:鍔が柄と鞘に接する両側に添える薄い金具
    ハバキ:刀が鞘から抜け落ちるのを防ぎ固定する部品


 


5. 主な刀工(刀鍛冶)
 (1) 古刀の刀工 名前太字は国宝の作がある 下線は位列一位
  大和国 保昌国光・貞宗(保昌五郎)、手手院重弘
  山城国 三条宗近(天下五剣・国宝三日月宗近)・吉家
       長谷部國重(正宗十哲・信長愛刀へし切長谷部)
       粟田口國友久國國安國清・有國・則國國吉
       吉光(天下三名工・一期一振・信濃藤四郎)・國綱(天下五剣・国宝鬼丸國綱)
       来國行(不動國行・釣鐘切國行)・國俊(愛染国俊)・國光・國次(正宗十哲)
  備前国 古備前友成正恒包平(国宝大包平)・高平・助平信房
       福岡一文字則宗・吉房・助眞・吉平・助包・則房
       長船光忠・長光(物干竿)・景光・近景・兼光(正宗十哲・波泳ぎ兼光)
  備中国 青江貞次・恒次(天下五剣・重文数珠丸恒次)・次家
  相模国 左近國綱・國光、藤源次助眞(日光助眞)、藤三郎行光・五郎入道正宗(日本三名工)
  美濃国 志津兼氏(正宗十哲)、金重(関派の祖・正宗十哲)
  伊勢国 千五村正(妖刀村正)         
  豊後国 行平(国宝古今伝授の太刀) 
  筑後国 三池光世(天下五剣・国宝大典太光世) 
  越中国 郷義弘(日本三名工・正宗十哲)・則重
  伯耆国 大原安綱(天下五剣・国宝童子切安綱)・眞守
  筑前国 左(国宝江雪左文字・正宗十哲)
  石見国 出羽直綱(正宗十哲)

 (2) 新刀の刀工
  山城国 埋忠明壽(新刀の祖)、東山美平(明壽門下)、堀川國広(刀剣界革命児)
       三品伊賀守金道・和泉守金道・丹波守吉道・越中守正俊(京洛の刀工一派)
  武蔵国 野田繁慶(江府三作)、長曾祢興里虎徹(江府三作)・興正・興久・興直
       越前康継(江府三作)、大慶直胤
  摂津国 河内守國助(大坂鍛冶の祖)・二代國助(中河内)、井上眞改(大坂正宗)
       津田越前守助広(濤瀾刃創始者)・助直
  美濃国 孫六兼元(関の孫六)、和泉守兼定(関鍛冶・中村半次郎の愛刀)
  肥前国 武蔵大掾忠吉・忠広
  陸前国 山城大掾國包(伊達政宗の愛刀)
  紀伊国 南紀重國(新刀最上位)
  加賀国 辻村兼若(加賀正宗)
  岩代国 和泉守兼定・大和守秀國(土方歳三の愛刀)、三善長道(会津の虎徹・近藤勇愛刀)

 (3) 新々刀の刀工
  武蔵国 水心子正秀(新々刀の祖)・秀世、源清磨(四谷正宗)、大慶直胤
  山城国 南海太郎朝尊(新々刀西の横綱)
  薩摩国 奥大和守元平、主水正正清
  越前国 肥後大掾貞國、山城守國清   
  備中国 水田國重



刀にまつわる言葉
 一刀両断    : 断固たる処置や決断の速さ ← 一太刀で真っ二つに斬る
 単刀直入    : 直接に問題の要点に入る ← 一振りの刀で敵陣に切り込む
 抜き打ち    : だしぬけに事を行う ← 刀を抜くや否や斬りつける
 素破抜く    : 突然人の隠し事などをあばく ← 刀をだしぬけに抜く
 真剣勝負    : 命がけで行う ← 真剣で勝負を決する
 大上段に構える : 居丈高な態度 ← 刀を頭上高く振りかぶり構え
 太刀打ち    : 物事を張り合って立ち向かう ← 太刀で闘う
 返す刀     : ある者を攻撃した勢いで他者を攻撃する ← 斬りつけた刀で素早く翻して他を斬る
 受け太刀    : 口論で一方的にまくしたてられ守りに入る ← 敵からの攻撃を太刀で防ぐ
 抜き打ち    : 予告なしに物事を行う ← いきなり刀を抜いて切りかかる
 小手先     : 些細な機会を利かせる ← 刀を小手の先で細かく打つ
 諸刃の剣    : 一方では大層役に立つが他方では害を与える ← 刀の両辺に刃のある剣
 鎬を削る    : 激しく争う ← 刀の鎬が削り落ちるほど激しく斬り合う 
 切羽詰まる   : 全く窮する ← 刀の鍔と鞘とに当る部分「切羽」が詰まると刀を抜きにくくなる
 たたらを踏む  : 力余って空足を踏む ← 「たたら」の「ふいご」を強く踏む
 焼き入れ    : 気合を入れる ← 刀の刃を高温に加熱した後に水に入れ急冷し硬くする
 鍛錬      : 修養・訓練を積んで心身を鍛える技能を磨く ← 刀を鍛える
 とんちんかん  : 物事が行き違い前後する ← 刀鍛冶の相槌は交互に打ち音が揃わない
 相槌を打つ   : 相手に同意を現しうなずく ← 師が槌を打つ合間に弟子が槌を打つこと
 土壇場     : 物事が決定しようとする最後の瞬間・場面 ← 首を斬る刑場
 付け焼刃    : にわか仕込みの勉強、態度を装う ← 鈍刀に鋼の焼刃を付け足した偽物
 急刃凌ぎ    : その場の工夫で状況を切り抜ける ← 戦場で刃が欠けその場の石で刀を磨いて対処
 研ぎ澄ます   : 鋭敏にする ← 少しの曇りもなく十分に磨く
 地金が出る   : 表面を繕っていたものの本性が出る ← 研ぎ減って芯金出てしまう
 身から出た錆  : 自分の悪行のため自ら受けた災禍 ← 刀を手入れせず出た刀身の錆
 なまくらもの  : だらしない怠け者 ← 切れ味の悪い刀
 折り紙付き   : 保障するのに足りるという世間の評判 ← 鑑定保証の折紙がついている
 極め付き    : 確かな品質を持っている ← 鑑定書「極め書き」が付いた刀
 伝家の宝刀   : よくよくの場合以外には使わない手段 ← 代々家宝として伝わっている名刀
 真打ち     : 落語など最も優れた演者 ← 御神刀は何本か打った中で一番出来が良いものを「真打」
 懐刀      : 内密の計画にあずかる知恵者 ← 懐に入れて持つ小さな守り刀
 助太刀     : 仲間の手助けをする ← 太刀を持って味方を援助に行く
 きんつば    : 刀の鍔のように焼いた菓子 ← 金または金色の金属で作った鍔 銀鍔焼きがルーツ
 元の鞘に収まる : 元のカップルなどに戻る ← 元の鞘であればすんなり収まる
 反りが合わない : 気心が合わない ← 刀の反り具合が合わないと鞘にうまく入らない
 目抜き     : その町で一番賑やかな場所 ← 刀の柄についている彫刻を施した小さな金具
 鞘当て     : ちょっとした意地立から起こった喧嘩 ← すれ違いに互いの鞘の鐺が当たり咎める
 抜差しならぬ  : どうにもならない ← 刀を抜くのも差すのもままならぬ窮地
 押っ取り刀   : 大急ぎで駆け付ける ← 急なことで刀を腰に差す間もなく手に持ったまま