(1) 代官とは 代官は幕府領(御料所)と小禄の旗本領(御知行所)を治めた 江戸幕府の勘定奉行支配下の地方行政官。 同様の職務に 郡代があるが格は郡代の方が上で布衣、代官は無位の平士。 役高は郡代が400俵前後であるのに対し代官は200俵前後。 江戸時代初期の代官は在地の小豪族や地侍からも任命され 世襲が多かったが中期以降は激減し親子二代の代官は約12% となった。 原因は何度か行われた代官に対する統制がある。 |
「臣慶喜謹テ皇國時運之改革を考候ニ 昔王綱紐ヲ解テ相家権ヲ執リ 保平之亂政権武門ニ移テヨリ 祖宗ニ至リ 更ニ寵眷ヲ蒙リ 二百餘年子孫相受 臣其職ヲ奉スト雖モ 政刑當ヲ失フコト不生今日之形勢ニ至リ候モ 畢竟薄コ之所致 不堪慙懼候 況ヤ當今外國之交際日ニ盛ナルニヨリ 愈朝権一途ニ出不申候而者 綱紀難立候間従来之舊習ヲ改メ 政権ヲ朝廷ニ奉歸 廣ク天下之公儀ヲ盡シ 聖斷ヲ仰キ 同心協力 共ニ皇國ヲ保護仕候得ハ必ス海外萬國ト可竝立候 臣慶喜國家ニ所盡 是ニ不過奉存候 乍去猶見込之儀モ 有之候得者可申聞旨 諸侯江相達置候 依之此段謹テ奏聞仕候 以上」 |
2. 寺宝の勅額「天龍護国寺」 延長6年(928) 醍醐天皇が小野道風に書かせ下賜されたと伝わる。 "度々の戦火を逃れるため、寺の南にあった鏡池に架けられた橋の端に くくり付けて守った。" (住職談)。 愛知県春日井市にある「春日井市道風記念館」には小野道風が全国 五か所の寺に勅額を書いたと記録され、その中に天龍護国寺もある。 小野道風(894〜66)は平安時代中期の貴族で三蹟(跡)と呼ばれる 能書家の一人。 他の二人は藤原佐理(すけまさ)、藤原行成(ゆきなり)。 ちなみに空海・嵯峨天皇・橘逸勢(たちばなはやなり)は三筆と呼ばれる。 |
天龍護国寺に隣接して建つ当社は 貞観年間(859〜877)に近江国坂本 日吉大社から勧請し寛政3年(1791) 当山14世智廣が境内に石宮を建立。 近江国の日吉大社は日枝山(後に 比叡山と呼ばれる)の神である大山咋命 (おおやまくいのみこと)を祀った。 比叡山に最澄が天台宗延暦寺を開いて からは大山咋命・大物主神を守護神とし 日吉神社・日枝神社ともいう。全国に ある3800社の日枝神社の本社である。 |
桂昌院の出身である本庄氏は大河内松平氏が藩主を務めた 高崎藩及び吉田藩・大多喜藩と結び付きが深く大河内松平氏 から養継嗣や藩主夫人を受け、高崎藩は本庄氏から養継嗣を 受けている。 桂昌院の弟宗資の系統は資俊(笠間・浜松)、 資訓(浜松・吉田)、資昌(浜松・宮津)、資尹(宮津2代)、 資承(3代)、宗允(4代)、宗発(5代)、宗秀(6代)、宗武(7代) と藩主を務め、資訓の継々室は高崎藩主松平輝貞養女、 宗允の室は高崎藩主松平輝和の娘、宗秀の継々室は高崎藩主 松平輝延の娘で資承は大多喜藩松平正温三男からの養継嗣で あった。 また桂昌院の兄の北小路道芳は本庄を名乗り、 館林藩家老に、孫の道章が美濃高富藩1万石の大名になった。 5代道信は大多喜藩松平正温次男、6代道揚は吉田藩松平信復 五男、9代道貫は吉田藩松平信明四男からの養子。 一方8代道昌の五男は高崎藩主輝徳の養子となり8代松平輝充 を名乗っている。 | 家紋・九つ目結 護国寺の寺紋 本庄氏の家紋 |
初代惣兵衛 後に保平を称す。(1827−1894) 二代惣兵衛 はじめ保次郎( ? −1912)初代惣兵衛の甥 二代保平 はじめ泰次郎(1872−1912)名古屋の瀧定助の子 三代惣兵衛 はじめ良太郎(1893−1935)二代保平の長男 (妻は初代惣兵衛の娘) |