勉強会概要


                                                                              2014.1.16

     第50回勉強会 群馬県に近世の文化財が少ない背景と高崎の文化財

1.地域文化に影響を及ぼす藩主の状況
 (1) 上野国各藩主の定着状況
  各地方の支配者はその地方の文化に大きな影響を及ぼすが、群馬県は小藩が多い上に
  定着が遅かった。1717年に高崎藩は定着したが、これ以前では七日市が1616年、伊勢崎が
  1681年、吉井が1709年に定着。しかし、いずれも1、2万石の小藩で殆ど影響が残っていない。
  館林6万石は1845年、前橋17万石は1868年と江戸時代末期である。

 (2) 高崎藩
  
松平(大河内)輝貞が、元禄8年(1695)から宝永7年(1710)までの15年間藩主、村上藩主を
  経た後、享保2年(1717)に再任、大河内家が明治元年(1868)まで10代151年続いた。
   大河内松平家は譜代藩としては比較的早く定着し、しかも、前半の藩主は政治・文化面共に
  優れた藩主がいた。しかし、後半は在任期間が短かったため文化貢献は余り見られない。
   ただ、10代輝聲が明治初頭にかけて数々の文化的資料を残している。



2.高崎藩のお家芸
  高崎藩主大河内松平家が遠祖とする源頼政は弓馬と和歌に秀でていたことがあり、高崎では
  主従共に流鏑馬と和歌に励んでいる。特に、
松平(大河内)輝高は幕臣を中心に形成された
  堂上派歌壇の中核的存在であり、その中心人物に家臣の
宮部義正が居た。宮部は、祖父義尚
  が家老、父義殷が番頭、自身も年寄。
藤原定家の流を伝える和歌師範の家である、冷泉家中興
  の祖と呼ばれる
冷泉為村に師事し、宗匠から門下第一と言われた実力者。後に幕府の和歌所
  に入り将軍の歌道師範となった人物。夫人万、嗣子義直とも歌名が高い。

     

                  写真:諸大家連歌帖(頼政神社蔵)

   残念ながら後世へ続かなかった。その理由は、三代輝高、四代輝和、五代輝延は熱心であったが、
  六代輝承が22歳で没した以降在位が短く、幕政のみならず大名間においても中心にならず、和歌の
  心得までには至れなかった。また、宮部が和歌所に入ってしまい、藩内での和歌への情熱が冷めて
  しまった。頼政神社に和歌の作品が数多く伝わっている。

  

                   写真:冷泉為村の和歌(頼政神社蔵)


3.一般の文化活動
 (1) 刀工→ 高崎の刀工は
新々刀
  江戸時代後半の高崎藩お抱え刀工は、実力者であったが全国水準の名声が得られなかった。

  ・
震鱗子克一 
   生年は不明だが中尾村生れ。本名は小島刀右衛門克一。江戸の刀工手柄山正繁に師事して修業、
   高崎に戻り鍛冶町(現宮本町部分)に住み、高崎藩お抱え刀工に。性質が短慮粗暴のため朋輩と
   争いが絶えず、文化2年(1805)不祥事を起し謹慎を命じられたが藩に無断で出奔。その後も作刀に
   励み、養子景一も刀工に。弟子も玉鱗子英一は川越藩松平氏のお抱えに。
    最高傑作は享和3年(1803)の作刀、篠原寛則の切試銘の有る刀。長さ2尺3寸9分(72p)。
   豪壮にして威厳なる刀装に、無類と見える地刃の出来は師を凌ぐとも劣らない。個人蔵

  ・長谷部義重 
   文政8年武州川越の生れ。父は農業を営んでいたが13歳で江戸で津山藩抱工細川正義に学び、
   高崎藩お抱え刀工に。鞘町に住みながら江戸に出て作刀技術の向上に努めたが35歳で死去。
   嘉永3年(1850)の作刀は、高崎藩指南役大戸重次の裁断銘がある太刀で、刃渡り2尺3寸8分(70p)、
   茎21pの右京拵え。 嘉永6年(1853)に愛宕神社に奉納された大太刀は、長さ3尺5寸1分(106p)。

   

                      写真:長谷部義重奉納の大太刀

 (2) 刀装
   「右京拵:うきょうこしらえ」或は「右京柄」
   刀の柄に紫壇・黒壇・などの赤木を用い、糸巻をせず、太刀拵の姿を示す金具が打ってある。
   高崎藩が掟とした刀装だが、腰刀としては鎌倉期からある系譜を引くもの。糸巻きの柄は戦陣中に
   雨に当って長く濡れたまま放置されると型が崩れ用に絶えなくなる。つまり、治にあって乱を忘れない
   姿を常に腰にせしめるため。上士だけでなく足軽まで高崎藩士全てが使用したが全部では無い。

       

                            写真:右京拵えの大小

   当初は軍装の刀剣を平常時の差料にしたもので、本来は質実剛健な造りを意図したものであったが、
   江戸中期以降精緻な刀装金具や変り塗りなど華美な装飾が用いられるようになった。
   江戸詰の者が右京拵えの刀を差して外出すると、上州の田舎武士と言われることを嫌って使用しない
   者もあった。

 (3) 絵師
  
青木周渓(1770-1845)
   新紺屋町の上絵屋。「
木曾街道倉賀野宿烏川の図」で知られる浮世絵師渓斎英泉門下。

   
 写真は「上州片岡郡清水観音十日ン夜之光景」

  
矢島群芳(1798-1869)
   父は高崎藩士矢島兵左衛門定喜。名は行善。幼少の頃から画を好み、大西奎斎・椿椿山に師事し、
   花鳥画、特に鶴を得意とした。 藩士になったが、絵師となり諸国を周遊して名声を得るが召喚される。
   作品は松井田五料茶屋本陣お東、下仁田道本宿名主蔵屋敷「双渓堂」にある。

     
  写真:矢嶋群芳の「雁」

  
一椿斎芳輝(1808-1891)
   江戸日本橋の米山家に生れ、初め谷文晁に学んだが、後に浮世絵師歌川國芳に師事した。
   高崎に来て旅宿住吉屋田中家の婿養子に。作品には「清水寺観音堂の絵馬」など

   

               写真:一椿斎芳輝の摺物「菅原伝授手習鑑




                                                                                2013.11.26


    第49回勉強会 史料展示会を実施できるまで (講師:多胡碑記念館 和田健一 学芸員)

 実際に展示するテーマの決定から展示に至るまでの作業スケジュールを和田さんより頂いた
 資料より抜粋・記載します。


 【展示テーマを決める(5W1H)
 (1) いつ
    展示がいつ開かれるのか季節感は重要で、準備期間は少なくとも半年以上は確保する

 (2) どこで
    展示はどこが会場になるのか 会場によって展示が不可能な資料もある
    博物館施設であればどの展示室か(企画展示室で開催するとは限らない)
    @温湿度 A紫外線 B搬入口 C展示ケース Dバリアフリー Eアクセス F会場費

 (3) なぜ(展示の理由)
    なぜそれを展示するのか(資料はあるのか、時宜にかなっているのか、関心度は、季節は)
    @ 資料の有無、借用できるのか、参考資料・論文等の渉猟と精読
    A (勃発・発生・生誕・没後)○○○年記念
     (例) 
天明三年の浅間山焼け(1783、230年)、明治の学制発布(1873、140年)
         
多胡郡建郡(711、1300年)
    B 関心度 大河ドラマに人物・時代を合わせる。 「古代東国文化」に乗るなど
    C 毎年開催しても来館者が見込める(季節感)→ 春の雛人形・雛祭り

    ※人気の高い企画 重要資料・作品の展示、骨董的な市場があるもの(書画・陶磁器・
      アンティーク・古銭・刀剣等)、高名な人物を特集(作家・画家等)、時代別(戦国・幕末維新
      ・第二次大戦前後)。それに対して時代別(平安〜室町期、江戸時代)、民俗・農業など
      身近すぎるテーマや郷土の偉人は人気が低い傾向がある。
      ただし、養蚕機織は世界遺産の関係で変化が生じている?
   ※※関心度が低いから、有名ではないから対象の知名度を上げる目的で取り上げるという
      場合もある。

 (4) だれが(主催者)
    リーダー(実務:資料の借用・展示と解説・図録目録・チラシ等の作成)
    補佐役(事務:資料の借用依頼書・借用書の作成と管理、保険・チラシポスター作製の
       契約等、書類と金銭の管理)

 (5) なにを(展示資料)
    コレクション⇔資料の借用(借用は大変だが展示会の輪が広がる、宣伝にもなる)
    @ 依頼をする(資料調査は重要:写真撮影と資料調査票の作成)傷・シミ等の有無、
       破損箇所を所有者に立ち会って記録する(トラブル回避)
    A 依頼文の作成(展示期間よりも長めに借用、図録のための撮影、展示準備と撤去)
    B 資料の借用(借用書の作成)
    C 御礼 金銭・菓子折り、御礼状

 (6) どのように



 【展示6〜3ヶ月前】
  (1) テーマ・タイトル(案)決定、資料の確認(コレクション・借用資料)
    @ 借用の交渉(資料調査)資料は本物か?真贋の判定→ 会場の確認
    A 取材・調査(自治体・機関・寺社・個人・地元団体)
       資料閲覧・転載、写真撮影など許可を得る(トラブル回避)
    B 図録・目録の作成           

  (2) 広報(展示の概要が固まる)→ 要項・案内・プレスリリース
    @ チラシポスターの作成(開催の3ヶ月以上前には入稿)→ 開催1ヶ月以上前には配布
       開始(広報は紙資料が主体、新聞やHPは副次的)
    A 広報や新聞・ラジオなどの活用(後援申請、開催の1ヶ月以上前)

  (3) 教育普及(展示を専門家によって補強する)
    @ 記念講演会(講師への打診は早いほど良い、人気の講師ほど多忙)
       講師との打ち合わせ(テーマに沿っているか、会場とPC使用など、送迎、謝金)
    A 市民参加事業
      ・史跡めくり(地元の郷土史家、郷土史研究会等を講師に迎える)
      ・体験事業(技術伝承者、ボランティア)
      ・講師との打ち合わせ
       (史跡めく湧:自分で下見、講師と下見、トイレ有無など、参加者に無埋けないか)
       (体験事業:参加者にとって魅力あるものか、危険ではないか)
      ・保険等



 【開催2〜1ヶ月前】
  (1) 展示資料の搬入
    @ 資料の借用作業(美術専用車による運搬、自分で運搬:展示保険)と展示、
       返却目の設定
    A 展示作業(キャプション・解説パネル作成、照明の調整)
    B 取材・調査の詰め(見切りをつける、今回はここまでという決断)
    C 図録・目録の入稿(開催の2ヶ月前には入稿、ゲラの修正)

  (2) 広報
    @ チラシポスターの完成と配布作業
       (事前に配布箇所を決めておく、郵送料、足で稼ぐ、区長便)
    A 雑誌等の取材対応 ※この時にチラシがあると良い

  (3) 教育普及
    講師との連絡・打ち合わせ



 【 開催 】
 (1) 展示
    @ 資料の調整、温湿度管理。     A キャプション・解説パネルの修正
    B 図録・目録の修正(正誤表)。    C 展示撤去後の資料の準備

 (2) 広報
    @ 新聞・ラジオ・テレビの取材対応。 A ホームページ

 (3) 教育普及
    記念講演会・史跡めぐり開催



 【 撤去 】
    @ 展示室の撤収。     A 資料の返却(資料に破損等はないか)
    B 関係者へ御礼状。    C 次回展示の準備


  最後に、和田さんより史料展示会を開催することについて、過去の事例を交えて、
    ・展示会は大変だが、やりがいのある作業
    ・失敗を恐れない勇気と謙虚さが必要。
    ・人のつながりによる相乗効果
    ・なるべくたくさんの展示会を見に行くこと(新しい気付きがある)
  とお話しがあり、現在、多胡碑記念館にて開催中の「
多胡碑の江戸時代」について
  紹介がありました。


  今回、展示テーマ決定時の資料調査票の作成や、展示保険の話など展示会開催時の
  ためになる情報を聞けて良かったと思いました。 和田さん、貴重なお話しありがとうござい
  ました。





                                                                                  2013.9.19

     第48回勉強会 群馬県に近世の文化財が少ない背景1 上州の支配状況

 群馬県下には、古墳時代の全国級の文化財は多くあるものの、近世(江戸時代)の文化財が
 あまり残っていない。
主な市に歴史博物館・資料館がないのもこの事が影響しているのではないか。
 何故残っていないかとして
考えられる理由の一つが上州の近世支配者の状況である。洋の東西に
 かかわらず、また、支配者の統治状況の良し悪しは別として、その地方の文化は支配者の資質も
 あるがお金を掛けたか否かが大きな要因である。
近世の支配者は藩主大名であり、大名に依っては
 治めた地方に文化が醸成された。しかし、上州にはそのような大名が定着しなかったのである。

 故に、地域文化が育たず、一般の言の葉にのる文化財が残っていない。

 1.地方の文化に影響が強い国持、大身国持大名
  国持大名とは、日本が六十六州の旧国のうち、1国以上を所領とした大名のこと。
  加賀・能登・越中の
前田家、薩摩・大隅・日向の島津家、筑前の黒田家、安芸の浅野家、周防・
  長門の
毛利家、因幡・伯耆の池田家、備前の池田家、阿波・淡路の蜂須賀家、土佐の山内家
  対馬の
宗家で、いずれも外様大名。この他に家門として越前の松平家と出雲の松平家がある。
   大身国持大名とは、国の全土ではないが、多くの地域を治めた大名で、陸奥一部(後の陸前)
  の
伊達家、肥後の細川家、肥前の鍋島家、伊勢・伊賀の藤堂家、筑後の有馬家、出羽の上杉家
  (後の羽前の一部)と佐竹家(後の羽後の一部)、大和の柳沢家がある。
  これらの大名は、その城下を中心に華麗な文化が発展し、今日それぞれ立派な歴史博物館が
  建てられ、大名やその地方に伝わる文化史料を伝えている。


 2.関八州の領主は徳川家の家臣
  
(1) 徳川政権の地盤
   徳川家康が豊臣秀吉の命で関八州(伊豆・武蔵・安房・上総・下総・常陸・下野・上野)を宛て
   られたとき、常陸・下野・上野・安房の国には外様小藩が残った。しかし、大半は幕府領として
   直轄し、20カ所余りに有力家臣を配置した。それらの地がその後の譜代藩領である。
     「大名」と呼ばれるものの徳川家の臣から成り上がった連中で、徳川会社の子会社社長
   あるいは支店長のような者で、
藩主自身の鍛錬や好きな事など治める地域に対する文化的
   
影響力もあったが、かなり限定的なものであった。

  (2) 幕府領の他は譜代大名領と旗本知行所が中心
   上野国も沼田藩真田氏(江戸時代初期)と小幡藩織田氏(同中期まで)、七日市藩前田氏
   外様大名で、譜代が7藩(
前橋高崎館林沼田安中伊勢崎小幡吉井)で、幕府領と旗本
   の知行所が中心であった。 明治初期の上野国の大名領は8藩合せても約28万2千石(48%)で
   大身国持大名で最も石高の少ない上杉家の約倍程度に過ぎない。文化的ゆとりの背景となる
   経営基盤・経済規模は非常に小さいものであった。  因みに、幕府領は約27万9千石(48%)、
   上野国以外の遠方大名の飛地が約2万石(0.4%)を占めていた。


  (3) 中小大名にして転封が多い
   徳川政権の方針と思われる一つとして譜代大藩を設けない。御三家や彦根35万石、会津28万石
   は例外として、17万石以下に抑えている。上野国でも、幕末の石高は、前橋17万、高崎8.2万、
   館林6万石、沼田3.5万・安中3万、小幡2万、七日市・吉井1万で、前橋を除くと中小藩ばかりのうえ
   前橋でも地元の石高は9万石弱で中藩の部類に過ぎない。 また、関東地方の城主は老中等
   幕閣を務めるために配されることが多く、そのため入替(転封)が頻繁であった。 
    館林藩が7家9回、高崎藩が7家8回、安中藩が5家6回、沼田藩が4家4回。前橋は2家3回と
   比較的少ないが、城主不在期間が約100年もあったことが要因。このようなことから、藩主大名の
   個人的な好みの文化が一部残ったものの、
それぞれの城下に定着しなかったため城下に文化が
   根付かなかった。


  (4) 石高が少ない
   各藩の石高には、将軍から正式に宛がわれた「表高」と、検地による実際の取れ高の「実高」が
   あり、それぞれも城下周辺領地の「城付き領」と「飛び領」がある。高崎藩の表高は8万2千石、
   実高は約8万7千石。 しかし、飛地が約3万2千石あるため城付領は約5万5千石と小藩に近い
   規模である。上野国で最も大きい前橋藩でも、表高17万石に対して実高が約20万3千石ある大藩
   だが、上野国以外の領地が約11万4千石と半分以上を占め、上野国8万9千石の領地も城下
   周辺には4万石程度しかなく、小藩の規模である。


 3.相給が多い
  
相給とは、一つの領村が複数の領主の給付地のことで、3人であれば「3給」と言う。
  上野国では、元禄16年(1703)に985村あり、領主の数は1,648人。 1村平均で1.67人いる
  計算になる。 また、1領主当たりの石高は平均325石と少ない。 藩領の村は大方一人なので
  幕府領や旗本知行所が如何に多くの支配者に与えられているかを現わしている。 これだけ
  
細分化された支配状況では、大名や旗本自身が余裕ある生活を送れなかったであろうし、芸術家
  などのパトロンにもなれなかったであろう。
 基本的には給ごとに名主が居り、領主の年貢徴収
  など代行をしていた。 従って
相給の村には複数の地主が名主を務めており、そのために大地主
  はいなかった。ましてや越後や庄内の様な豪農もいなかった。
 従って、豪農の家に残った豪壮な
  屋敷や書画・陶器などのお宝が上野国に余り見られない理由の一つである。


 4.館林藩と前橋藩の悪影響
  上野国はほとんどが中小藩で転封も多く、藩主大名が定着しなかった。 しかし、
もし館林藩
  徳川家と前橋藩酒井家が異動しなかったら、群馬県に近世の文化財が残ったかもしれない。

  (1)館林藩
   館林藩は、江戸時代初めは徳川四天王の一人榊原康政が10万石で配され、後に徳川綱吉
   藩主となった。
 綱吉は家光の次男で4代将軍家綱の弟。 家光と忠長のこともあり、江戸時代
   中期に入り幕府領を大きく割くことはできないためか15万石。 しかし、その領地のうち上野国
   だけでも邑楽・新田・山田の3郡の大半であった。 そのまま徳川宗家の分家として館林藩主で
   続けば、また元禄文化の中心である綱吉が藩主ならば、将軍とは段違いであるが譜代大名とは
   大きく異なるゆとりを見せたのではないだろうか。 
しかし、5代将軍になり、子供が後継者と
   なったが死去、そのため15万石を継ぐ大名は見つからず、これ幸いと幕領及び旗本領に分割
   されてしまった。
 内訳は、前記3郡の石高約129千石が幕府領27村29千石余、旗本知行所
   108村71千石余、幕府と旗本の相給が23村約28千石である。
    特質すべきことは相給の酷さで、邑楽郡北大島村4,667石は23給、山田郡竜舞村2,906石は
   16給にもなる分散統治で、文化的発展をもたらすゆとりがなかった。 それだけでなく
細分化
   された相給村では警察権が及びにくいため、博徒や犯罪者が横行するようになる。


  (2)前橋藩
   家康が関東に移った時、厩橋には側近平岩親吉が3.3万石で封じられた。 関ヶ原の戦いが
   終わった
慶長6年になると、譜代の筆頭格酒井重忠が入部し前橋藩が成立した。 その後、
   2代忠世、4代忠清が幕府における権力者となり15万石の譜代大大名にまで出世した。 
    忠清が権勢を振るったため他大名の嫉妬を受け、その反動で跡を継いだ忠寛は藩政の
   充実を図り、藩校を設置したり、城下の振興を進めている。 
このまま酒井雅楽頭家が前橋
   主を務めれば文化都市になったかもしれない。

    ところが大暴風雨により甚大な被害を受け、城も利根川の浸食に依り倒壊の危険がせまり、
   前述のように所領が分散している事を嫌い、
願い出て姫路15万石へ逃げ出してしまった。
    後に入部した松平(結城)朝矩は、引越し大名”と呼ばれるほど何度も転封で家中は疲弊
   しており、加えて
前橋城は倒壊寸前で、城を直さず明和4年(1767)川越へ移ってしまった。
    その後約100年間、川越藩の飛地となり、武士の多くが川越へ移り前橋の町はすっかり
   寂れてしまった。 
江戸文化の華やかなりし文化・文政時代(1800年代前半)に城下町でなく
   分領であったことは大きな文化的痛手である。






 
    本丸三層櫓のCG  週間 日本の城No.44 DeAGOSTINI より           2022年12月 もてなし広場にて撮影
                                                                                      2013.7.18

           第47回勉強会 高崎市街の基「城下町高崎」

1.和田城の跡に高崎城を築いた(高崎城の特徴は第98回勉強会ビデオを参照)
  慶長3年(1598年)、箕輪城を拠点としていた
井伊直政は所領の西毛地区の中で検討した結果、
 和田の地を選んだ。  城と言うと近世の城郭を連想するが
和田城は中世の城、つまり砦で規模は
 極めて小さかった。 
和田砦の位置は和田橋のたもととされて来たが発掘の結果、それを示す物が
 発見できず
現在のところははっきりしていない。
  「和田城の跡に築いた」と説明すると直政が縄張りをした城に近いものを連想する懸念が有り、
 誤解を招くので、「和田砦のあった所を基に広大な城を築いた」と表現すべきである。
  高崎城は烏川の淵を後背地とした要害の地であるが、前面は全くの平地であることが大きな特徴
 の平城である。 
関ヶ原の戦い以降1630年の頃までが近世の築城ラッシュで、特に大坂の陣(1614
  〜15)に向けて天下普請が数多く行なわれた。 高崎城は天下普請ではないが、家康の指示に
 基づく箕輪からの移転築城であった。

  (参考)
  天下普請の城には
名古屋城駿府城(静岡)、京都の二条城、近江の彦根城膳所城、丹波の
  
亀山城篠山城などがある。 その後に一国一城令が出され、一大名は一つの城に限られた。
  例外として、
白石城(伊達藩)や小松城(前田藩)がある。


2.大規模な縄張り
  
井伊直政が西上州の地に宛がわれた石高は12万石であった。 従ってその軍役義務として少なく
 とも800人程度の家臣と、その3倍程度の部下が備えられる居城が必要であった。 
しかも築城当時の
 信越地方にはまだ有力な外様大名が居たので、それらに対する抑えだけでなくその方面へ出陣する
 駐屯基地の役もあり広大な城地が必要であった。 実際、
秀忠が関ヶ原に向かった時は高崎城が
 駐屯地となり、それだけでは不足で城下の寺院も宿舎となっている。
  しかし、
直政が移封した後の城主は5万石につき高崎城の縄張りは身分不相応に大きいものとなった。
 未完成の城郭は着手から50年以上経た安藤氏の代に完成する。 藩士の数が大幅に減ったため
 城下に
予定された武家地が空き、そこは町屋となり商業都市高崎の発展の要因となる。
  城郭の全体は長方形をしており(本丸と二ノ丸は凹凸がある)、しかも外堀と土塁がほぼ一直線に
 延びた特徴ある縄張りである(シンフォニーロードと交差する所にある「出桝」のみ凸形になっている)

 5万石の城としては不相応な5万数千坪の広さと如何様にも利用し易い矩形の敷地は明治になって
 軍隊が駐屯するのに適していたと考えられる。


3.平城にして城下が平地
   近世になっての主だった城は平山城が多い(
姫路彦根弘前松江会津若松岡山熊本金沢
 水戸佐倉など)。 この型の城下は丘陵の上に在る城を取り巻く形で広がるため、城郭が街を分断する
 こととなる。 そのため明治以降の街を形成するのに城郭が道路建設の邪魔になり街が分断された。
  高崎は平城で土塁や堀が囲っていたものの、
城郭と城下の水準は同じ高さなので明治以降に城を
 中心に街を造っても道路を旧城内に通過し易かった。 
前橋城も平城であるが平地が舌状に伸びて
 主要道路である中心線から放射状に小路が走っていた。 それに対し
高崎は矩形の土地に碁盤目型
 に道が敷かれ商店街路の形成がやり易かった。

  (参考) 主な平城:名古屋松本広島駿府豊橋桑名二条宇都宮前橋古河


4.タテまち・ヨコまち、碁盤街
  城下町の基本は、城の大手前から立てに延びる道を中心に町割を行なうタテまちである。 高崎も
 大手前に箕輪から移した惣名主町の連雀町を配し、これに直角に結ばれる横道を配した町割を
 行なった。 その後
酒井家次が中山道を本町三丁目で曲げ城下の真中を通し、安藤氏がその道沿い
 の町に伝馬を担当させ、地子免除や六斎市開催の許可したことにより、多くの町屋が進出した。
 この目抜き通りは城に並行するヨコまちとなる。 従って高崎はタテ・ヨコが併存する城下町で、
 商業都市として発展する基礎となる。
 城下町は外部からの侵入に対する防衛上、道が鍵の手
 になっている場合が多い(萩・彦根・会津若松など)が高崎城下はほとんど碁盤目型になっている。
  前橋城下は大手前から馬の背に沿ったタテまちで、町屋はそれから下った地域にあるため放射状
 に拓けていたので、慣れていない外部の者には勘違いし易い街路となった。


5.西新波堰(
長野堰)による生活水
  
高崎城下は平地ではあるが細かく見てみると北西から東南に向けて下っている(海抜は楽間町130、
 新波地区120、上並榎町99、本町96、新町94m)
 この高低差・傾斜を利用して城下に水路を張り
 巡らし、西新波堰から引いた水路により住民の生活用水へ対応した。 当然井戸も各所に在ったが、

 西新波堰からの水が高崎城下を潤した。 明治末期に上水道が敷設されたが飲み水以外として利用
 されていた。 現在はほとんど暗渠となって下水道になっており気がつかないが、江戸時代から今日
 までの主要街路を知る事ができる。

 
6.城下の中央を中山道が通る
   中山道は、家康が関ヶ原の戦いの後に東海道と共に宿駅制として各駅に伝馬を設置し、秀忠の代に
 ほぼ完成した。 
城下町で宿駅は、東海道では小田原沼津駿府掛川浜松豊橋岡崎桑名亀山
  中山道では高崎の他は岩村田と加納(岐阜市)がある。 高崎宿のように城の大手門の至近距離に
 大街道を通している所は余りない。 高崎が城下町というより商都になった大きな要素である。

  また、住民にとって負担の大きい本陣がなかった(城下町である小田原は6軒、沼津・浜松・岡崎は
 3軒もあった)。 大名行列の宿泊は邪魔であり、強請りたかりの例弊使に至っては迷惑千万であった。
 旅籠も町の大きさの割には少なかった。 特に
中山道の中心市街の田町では、江戸時代後期になると
 
絹取引を中心に商業が活発となり商店が旅宿も兼ねていた。


7.軍事上の要衝から流通の拠点に
   街道が交差する要衝の地として始まった城下町高崎であるが、城下町の消費者である武士を対象に
 した町に止まらず、
高崎から何本もの街道が通っているので周辺部の町村だけでなく上州一帯および
 信越や下野地方を販路とする、今日的にいえば
流通問屋稼業の都市として発展した。
  特に、安藤氏の時代に伝馬の経済的負担を救済することも含め六斎市が、本町・田町・あら町に
 認められ、1ヵ月のうち18日も市が開かれるという商都になった。
  加えて、田町では絹市が六斎市と同時に開催され特段に賑やかとなった。 
高崎で仕入れて各地へ
 戻り商売し、各地の商品を持って高崎へと高崎の店に周囲の業者が仕入れに来た。 狭い範囲に
 何軒も同業者が店を開いて経営が成り立った理由はここにある。


8.遠構えと鉄道
   高崎城下は遠構えの中のことを言う。 明治時代に入って中山道が城下の真中を通っているから
 城下に鉄路を通す訳にはいかなかったろう。 しかし、その直ぐ外側を通した事が高崎の発展に
 つながった。 鉄路を通す事を敬遠して中心地から遠く離れた所に駅を設けた有力城下町がいくつも
 あったが、
高崎は積極的に誘致したうえ、駅の位置は町の発展に都合のよい位置であった。 つまり
 鉄路の内側の旧城下町の広さが、明治時代の街とすればほどよい広さであったのである。
  具体的には、旧城下の範囲は三の丸堀の外側から遠構えまであり、東西約700m、南北約1.2qの
 広さの地域と、それに北側の本町・赤坂町を加えた地域である。 その少し外側に鉄路を敷いたが、
 遠構えがもっと内輪であったら高崎中心市街地は規模の狭いことになったであろう。






                                                                                            2013.5.16
               第46回勉強会 幕末の政治情勢と高崎

1.幕末の老中就任状況
  
幕末期の老中就任は26年間で31名にもなり、再任もこの時期のみ。老中制の限界?
将軍
就任
氏名
在任
氏名
在任
氏名
在任
氏名
在任

12代
1841
94
佐倉
2
95
松代
3








1843
96
福山
14
97
長岡
14








1844
浜松
1
98
篠山
4








1845
99
宇都宮
6












1848
100
西尾
7
101
上田
7








1851
102
関宿
7













13代
1851
103
村上
11












1855
佐倉
3












1857
104
龍野
3
上田
1









14代
1858
掛川
1
105
鯖江
1
西尾
2




1860
106
2
関宿
2
107
岡崎
2
108
亀山
3
1862
109
山形
4
110
松山
2
龍野
0
111
唐津
1
112
浜松
2












1863
掛川
0
113
姫路
1
114
丸岡
1
115
長岡
2
1864
116
1
117
白河
1
118
高島
0
119
宮津
2
岡崎
2
120
松前
1








1865
121
棚倉
3
唐津
1
松山
3
浜松
2














15代
1866
122
沼津
0
唐津
2








1867
123
松山
0
124
姫路
1









 【参考】初期(側近老中制)の就任状況
   老中在任期間が10年以上で、城地は江戸周辺(現在も城下町として残る)が与えられていた。

将軍
氏名
在任
氏名
在任
氏名
在任
氏名
在任

3代
1623
4
前橋
32
5
佐倉
28
8
古河
10
10
川越
14
12
小田原
11













4代
1651




14
川越
30
16
33
17
岩槻
13
18
浜松
12














2.重要出来事発生時の老中構成
 (1) 嘉永6年(1853.6.3) ベリー来航時の老中
老中名
出身藩 石高
出 自
生年
老中
就任
年齢
経験
経歴等
福山 10万
先々代五男
1819.12.3
1843
25歳
35歳
10年
阿部家5人目
長岡 7.4万
先代四男
1799.12.2
1843
45歳
55歳
10年
兄達の死去などで家督
西尾 6万
先代長男
1795.2.9
1848
54歳
59歳
5年
阿部正弘と親戚
上田 5.3万
姫路藩主次男
1812.8.17
1848
37歳
42歳
5年
譜代姫路酒井家から養子
関宿 5.8万
分家旗本次男
1819.5.5
1851
33歳
35歳
2年
正室は阿部正精の娘

 

 (2) 安政5年(1858) 井伊直弼大老就任時の老中
老中名
出身藩 石高
井伊との関係
生年
老中
就任
年齢
経験
理由等
佐倉 11万
罷免
1810.8.30
1841
31歳
43歳
10年
一橋派、条約勅許えられず
上田 5.3万
罷免
1812.8.17
1848
37歳
47歳
10年
勅許得るべき主張
関宿 5.8万
罷免
1819.5.5
1851
33歳
40歳
7年
直弼の強硬路線に反抗
村上 5万
任命
1813.1.24
1851
39歳
46歳
4年
先代の長男、正室は毛利元義
龍野 5.1万
任命
1809.3.30
1857
49歳
50歳
1年
先代の三男、正室は酒井忠器
掛川  5万
再任→辞任
1799.8.28
1858
59歳
60歳
5年
水戸藩処分軽減を進言
鯖江 5万
任命→辞任
1804.3.20
1858
55歳
55歳
0年
水戸藩処分軽減を進言
西尾 6万
再任
1795.2.9
1858
64歳
63歳
8年
水戸藩処分軽減を進言
平 5万
太田の後任
1820.1.10
1860
41歳


先代の長男、正室は松平宗発


 (3) 元治元年(1864.7.18) 禁門の変時の老中
老中名
出身藩 石高
出 自
生年
老中
就任
年齢
経験
経歴等
長岡 7.4万
西尾藩主の三男
1824.10.22
1863
40歳
41歳
1年
河井継之介の進言で就任
高島 3万
母松平定信の娘
1821.6.7
1863
43歳
44歳
1年
戦国期からの名門。家柄格上
白河 10万
旗本の三男
1828.2.15
1864
37歳
37歳
0.1年
旗本からの実務能力者
松前 1万
3代前藩主六男
1829.12.10
1864
36歳
36歳
0年
蝦夷地大名、ロシアを含め西洋通
岡崎 5万
高松藩主四男
1817.4.12
1864
48歳
48歳
2年
実家は水戸徳川連枝 再任


  (4) 慶応2年(1866.7.20) 将軍家茂死去、同3年(1867.10.14) 大政奉還時の老中
老中名
出身藩 石高
出 自
生年
老中
就任
年齢
経験
理由等
宮津 7万
先々代の三男
1809.10.21
1863
55歳
59歳
4年
幼少で家督。父も老中
唐津世嗣
藩主の長男
1822.6.29
1865
44歳
46歳
2年
再任。外事に精通(藩主以外異例)
松山 5万
桑名藩主の八男
1823.1.4
1865
43歳
45歳
2年
再任。文武両道・経世の才
棚倉 6万
旗本の長男
1830.7.16
1865
36歳
38歳
2年
外国奉行、神奈川奉行等経験者
浜松 6万
姫路藩分家
1837.11.26
1865
29歳
31歳
2年
再任。実家酒井家、養父老中
淀 10.2万
二本松藩主七男
1834.7.2
1866
33歳
35歳
1年
再任。正室酒井忠発
沼津 5万
岡崎藩主の四男
1834.8.29
1866
33歳
35歳
1年
実家、養子先共に老中経験藩


 【参考】幕末政治上の主要人物
名 前
役 籍
出 自
生年

名 前
役 籍
出 自
生年
水戸藩主
水戸徳川の三男
1800-60

公卿

1809-98
公卿

1809-88

薩摩藩主
斉興の長男
1809-58
佐賀藩主
斉直の十七男
1815-71

彦根藩主
直中の十四男
1815-60
薩摩国父
斉興の五男
1817-87

福山藩主
正精の五男
1819-57
宇和島藩主
旗本山口直勝次男
1819-92

公卿

1820-1909
13代将軍
家慶の四男
1824-58

公卿
堀河康親の次男
1825-83
土佐藩主
山内南家豊著の長男
1827-72

薩摩藩士
吉兵衛の長男
1827-77
福井藩主
斉匡の八男
1828-90

薩摩藩士
利世の長男
1830-78
第121代

1831-66

長州藩士
藩医和田昌景長男
1833-77
薩摩藩士
肝付兼善の三男
1835-70

土佐浪人
八平の次男
1835-67
会津藩主
義建の六男
1835-93

15代将軍
斉昭の七男
1837-1913
公卿

1837-91

14代将軍
斉順の次男
1846-66
第122代

1852-1912







3.江戸時代後期の高崎藩主
藩主
生年
没年
藩主就任
将軍
幕府役職
正室

1775.12.15



5代輝高次男
1825.2.17



50歳
1800.11.25



25年

11代
1801年 奏者番
1802年 寺社奉行
1815年 大阪城代
1823年 老中
三河吉田藩主
松平信明
1817.3.16

6代輝延七男
1839.7.20

23歳
1825.4

8年
1838年 奏者番出羽鶴岡藩主
酒井忠器
1820.11.5

旗本次男
1840.9.14

20歳
1839.9

1年

12代

なし
1822.4.11

1862.8.11

40歳
1840.11

1846.9隠居 6年

なし
10
1860.6.18

1860.6.18

33歳
1846.9

19年
1849年 奏者番
1852年 寺社奉行見習
1856年 寺社奉行
下総佐倉藩主
堀田正睦
11
1848.10.15

10代輝聴長男
1882.8.15

34歳
1860.8

12年

14代
1866年 甲府城代
1867年 奏者番
1868年 陸軍奉行
出羽鶴岡藩主
酒井忠発
 また、幕末高崎藩(10代:輝聴〜11代:輝聲公)の行動はこちら


 参考文献:「お殿様たちの出世 江戸幕府老中への道」 山本博文著 新潮選書 




                                                                                2013.3.21

      第45回勉強会 高崎市の文化財 (特別講師:富樫氏)


 講演の概要を以下に示します。

1.
高崎市内の指定文化財(H23.10.1現在)
種   類
合計
3
0
0
3
史   跡
9
12
87
108
名   勝
0
0
1
1
天 然 記 念 物
11
6
18
25
重 要 文 化 財
9
27
151
187
重要無形文化財
0
1
1
2
重要有形民俗文化財
1
1
35
37
重要無形民俗文化財
0
1
24
25
登録有形文化財
22
0
0
22
合   計
45
48
317
410

 ※高崎市の特別史跡は、上野三碑

  地区別指定文化財件数
地区
高崎
倉渕
箕郷
群馬
新町
榛名
吉井
件数
161
36
31
28
18
67
69
410

※国指定特別史跡3件は岩手県平泉町京都市奈良県明日香村福岡県大宰府市と並び全国最多。


2. 文化財保護課所有・管理の資料
  
(1) 古文書類
    @ 桜井一雄家文書 → 「
高崎城絵図並びに文書
    A 塚越徳太郎家文書 → 下飯塚村 村役人家文書
    B 大谷俊夫家文書 → 田町問屋関係資料
    C 倉賀野家相伝文書 → 
上杉政虎感状など倉賀野城主家に伝わる文書
    D 落合まつ子家文書 → 青木周渓が書いた高崎談図
    E 梶山賢次郎家文書 → 和田宿以来、問屋をつとめた家に伝わる江戸期資料
    F 飯野久雄家文書 → 
上豊岡の茶屋本陣飯野家の古文書。米切手含む

  (2) 刀剣類
    @ 長谷部義重作太刀と高崎藩右京拵及び同短刀拵一式
        → 
右京拵は、松平輝貞により創始された高崎藩独特の刀装
    A 刀銘「上野住継政 昭和十九年七月」
        → 独学で刀工となった高橋継政の作。砂鉄を電気精錬した群馬水電(株)の「郡水刀」
    B 刀銘「上野国群馬郡高崎住長谷部義重 嘉永六丑年二月吉日奉鍛之」
        → 高崎の刀工 長谷部義重作。 安政6年8月23日、35才の若さで没す。光明寺に。
    C 刀銘「因州住□□」
        → 高崎藩士 中原家の子孫に伝えられた刀



3. 高崎城関係の文化財
  (1) 高崎城乾櫓 (群馬県指定文化財:昭和49年9月6日指定)
     元は、高崎城本丸の北西(戌亥)に所在。明治初年に陸軍省により払い下げ。
     昭和26年、本多夏彦らによって下小鳥町梅山家で発見。
     昭和51年、現在地へ移築復元。(金古町天田家の堀や栗崎町五十嵐家の鯱を参考)


  (2) 高崎城東門
     元は三ノ丸出枡形そばに所在。 下小鳥町 梅山家で発見。絵図に残る東門と形態不一致??

  (3) 桜井家旧蔵「高崎城絵図並びに文書」附 箱2点

  (4) 高崎城址(三の丸外囲の土居と堀)



4. 高崎城下の主な寺院と文化財
  (1) 竜廣寺 N
     開山は、白庵秀関。文禄2年(1592年)? 曹洞宗。高崎の地名誕生の寺として有名。
     ・
村上鬼城の墓 (高崎市指定史跡:昭和44年3月25日指定)。 
     ・
元ロシア人兵士の墓 (高崎市指定史跡:昭和61年2月13日指定)

  (2) 善念寺 G
     天文9年(1540年)に和田信輝が開基。弟の僧正故が開山。曹洞宗。
     ・
木造阿弥陀如来立像 (群馬県指定重要文化財:平成23年3月24日指定) 像高95.5cm。
      鎌倉初期の作。平成9年度の修理時に胎内文書発見。


  (3) 延養寺 J
     至徳年間(1384〜1387年)に慶覚が開基。また、24世良翁は「伊呂波便蒙鈔」や「砂降記」など
     著作を残した文学僧として知られる。
     ・
延養寺の円空作神像 (高崎市指重要文化財:平成9年2月24日指定)
      像の底に墨で「梅図」が描かれ「天神像」とも呼ばれる


  (4)  大信寺 H
     元亀元年(1570年)に創立。 開基は総誉 清巌。慶長3年(1598年)箕輪から高崎に移転。浄土宗。
     ・徳川忠長の墓(附忠長の霊牌その他) (高崎市指定史跡:昭和41年4月20日指定)
      3代将軍
家光の弟、寛永9年(1632年)高崎城に幽閉。翌年自刃。28歳。
      43回忌にして墓石を建てる。鎖で囲んでいたため「鎖の御霊屋」と呼ばれる。
      大信寺は、供養料として朱印地100石を賜る。
     ・
守随彦三郎の墓 (高崎市指定重要文化財:昭和51年1月14日指定)
      秤製造販売の特権を幕府より得た守随家分家彦三郎が元禄12年(1699年)、高崎秤座を開座。
      守随家分家による地方秤座は高崎・名古屋のみ。2代目以降は荒木姓を名乗る。


  (5) 長松寺 @
     永正4年(1507年)臨済宗として本町裏金井に創始。寛永元年(1624年)曹洞宗として再興。現在地
     に移転。 客殿は徳川忠長自刃の部屋と伝わる。他に血の出る墓といわれる墓石有り。
     昭和30年(1897年)4月から2年間、群馬県尋常中学校群馬分校となる。(現在の県立高崎高等学校)
     ・
長松寺の大間、向拝天井絵及び涅槃画像 (高崎市指定重要文化財:昭和60年2月14日指定)
      寛政元年(1789年)、火災により焼失した本堂再建時に狩野探雲が作成。甘楽郡野上村出身


  (6) 興禅寺 K
     治承元年(1177年)天台宗の僧 良尋開山。その後、天文年中(1532〜1555年)、珊珪文湖和尚
     復興開山。以後曹洞宗。当初は高崎城内にあったが天保10年(1839年)、本堂も移転。
     明治28年(1895年)4月26日、大信寺近辺を火元に火災が発生し663戸を焼失。山門だけ類焼を
     まぬがれたのは天井に
武居梅坡が描いた雲竜が水を噴いたため?
     ・
和田城並びに興禅寺境内古絵図 (高崎市指定重要文化財:昭和51年1月14日指定)
      天文から天正年間(1532〜1591年)の作で、高崎城築城以前の状況を示す。


  (7) 大雲寺 D
     箕輪で弘治年間(1555〜1558年)に開基。開山は然室玄廓。慶長4年高崎に移転。井伊直政の帰依を受ける
     墓地には、
武居世平武居梅坡、山本勘助子孫の墓がある。
     ・
大雲寺の武居梅坡作水墨雲竜の図 (高崎市指定重要文化財:平成11年2月26日指定)

  (8) 法輪寺 F
     羅漢山正覚院、天台宗。箕輪城下法峰寺の末寺。開山を豪舜。酒井宮内丞の開基
     ・法輪寺五百羅漢像 (高崎市指定重要文化財:昭和62年2月16日指定)


  (9) 大染寺 (28)
     大河内輝貞公により頼政神社を遷座。 明治7年(1874年)廃寺。 熊谷養平寺へ合併。

     ・ハクモクレン (群馬県指定天然記念物:昭和27年11月11日指定) 元和年間、良善寺建立時に
      植えられたと伝えられる。戦前は国指定天然記念物。昭和60年に市政85周年を記念して市の花に。


  (10) 威徳寺 (23)
     宝永6年(1709年)創立。無量院大僧都守中を開山。天台宗。明治9年(1876年)城外に移転。
     ・成田山光徳寺所在元威徳寺内陣 (高崎市指定重要文化財:昭和46年2月18日指定)
      18世紀初期の建造と推定。昭和45年現在地へ移転。






                                                                                                                       2013.1.17
        第44回勉強会 石について(講師:藤澤 潤一郎)

石:宝石から胆石や結石まで。その間にある石について石屋主人がお話しします。

1.建築用石材(江戸時代は”雲根”とも)の種類
 (1) 自然石
     @ 
変成岩 → 結晶質石灰岩(大理石)と蛇紋岩
     A 火成岩 → 深成岩(ミカゲ石など)と火山岩 ※下図を参照のこと。
     B 
水成岩 → 石灰岩、砂岩(多胡石),凝灰岩(大谷石、十和田石)、粘板岩   

                
          火成岩の一覧           
稲田石(ミカゲ石)      万成:マンナリ石(桃色ミカゲ石)

 (2) 人造石
     @ 
テラゾー
     A 凝石


2. 代表的な建造物
 (1)  東京銀座         世界最大の岩石博物館。一番のお薦めは和光(万成石↑を使用)
 (2)  
日本銀行本店 (能書家、伊藤桂州つながりで紹介。稲田石↑や真壁石を使用)
 (3)  
日本橋           (群馬の彫刻家、田中栄作氏つながりで紹介。稲田石↑を使用)
 (4)  
最高裁判所    (稲田石↑を使用。建築期間:1971年6月から2年9ヶ月、費用:当時126億円)
 (5)  
国会議事堂    (大理石や日華石を使用。建築期間:1920年6月から16年5ヶ月、
                費用:当時2574万円)


3.  藤澤石材店で手掛けた事例
 (1) 墓所
     @ 
徳川忠長卿   墓所改修工事 (参勤交代大名家の対応、松の木や埋葬時の話など)
     A 
小栗上野介公 供養墓改修工事 (大河ドラマ配役の話など)
     B 内村家墓所    大正初めに
内村鑑三氏が来店。(下書き捜索や青山霊園の話など)
           

           2011年10月16日 高崎の史跡巡り時、光明寺 内村家墓所

      C 堀越家墓所     堀越二郎氏(ゼロ戦:零式艦上戦闘機を設計した藤岡市出身の
                  航空機設計者 スタジオジブリの新作映画「
風立ちぬ」主人公)が有名

 (2) 記念碑
     @ 
富岡製糸場行啓記念碑 (行啓70周年を記念して昭和18年に。玄昌石:石巻産を使用)
           
  
                                工事中の記念写真(左から6番目が祖父)

     A 
多胡碑記                   (大正5年1月完成。 有名書家の費用の話など)
                        

     B 中島 知久平邸車寄    (1930年完成。現在、見学不可。万成石↑を使用)
            
  
                                         工事中の写真

     C 
町田 菊次郎碑           (昭和13年完成。 富岡製糸場碑を手掛けるきっかけに)
         
    
                     
藤岡 諏訪神社の池越しに見た石碑        石碑(表)
      
     D 佐久間 象山碑     (大正初めに完成。藤澤家本家のある上田市 龍洞院に)
                  当時のポストカードより

     E 妙義神社再建事業記念碑 (平成25年4月11日完成。仙台石使用)
           



                                                                                                                   2012.11.15
               第43回勉強会 江戸の大衆娯楽・見世物

芝居見物や相撲興行、寄席など見世物が非常に流行った。

1. 見世物
 (1) 動物見世物 
  寛永年間(1624−45)頃から猪・孔雀を見せたのが初めてで、寛文年間(1661−72)
 頃から虎・狼・鶴・オウムなどに芸をさせたりしたが、生
類憐みの令で出来なくなる。
  享保の頃から奇形なものを見せ、文政4年のラクダは大人気であった。
 やがて、猿・犬・鯉などの遺体を組み合わせ、鬼・河童・人魚などインチキ物が現れ、
  
大イタチ(大きな板に血のり)や大穴子(大きな穴に子供)などまで。

 (2) 人間見世物 
  熊女・蛇女・鬼娘・大女・ろくろ首、火吹き人間
  インチキもあるが、一部には人身売買や虐待などが問題でなくなる。

 (3) 細工見世物
  著名な伝説や歴史上の人物や情景を、各種の細工と人形で組み立ててスペクタル化
  した見世物。やがて生き人形に転ずる。

 (4) 曲芸
  ア.曲乗:馬の上で踊りや狂言などを行なう曲馬の芸、特に女曲馬
  イ.曲持:手・足・肩・腹などで俵・臼・人間などを持ったり上げたりする。
  ウ.角乗:水に浮かべた角材を足駄ばきで回しながら曲持を行なう
  エ.太神楽(鞠):元は伊勢神宮や熱田神宮の御札配りが見世物として行なった曲芸
  オ.曲独楽:神社などの人寄せから、大道芸、香具師の前置きなどへ
   ※ やがてエ、オは明治以降になって寄席芸の「色もの」となる。
  カ.大力芸:腹の上に石や米俵などを沢山乗せる。
  キ.軽業:籠脱け(底の無い長い竹籠などをくぐり抜ける曲芸)、綱渡り

 (5) 南京操り 
  小さい人形の各所に糸をつけ、舞台の高い所から巧みに糸を操って人形を生きているか
  のように演じる。小さくてかわいいもののことを「南京」と呼んだことからと命名されたとする
  説が有力。江戸時代初期に大流行した。手遣い人形が登場し衰退。

 (6) からくり(機巧・絡操・機関)
  ア.人形機巧:ぜんまいなどを用いて人形を操る。「のぞきからくり」が大正時代まで
  イ.田楽返し:背景の書割の一部を切り抜き、中心を軸に上下・左右に回転させ背面
    を出す。
  ウ.提灯抜け:東海道四谷怪談のお岩が提灯の中から出てくる方法

 (7) 手品
   奈良時代に中国から渡来した、軽業や曲芸、滑稽や物真似、奇術や幻術を簡単な楽器
   の伴奏で演じたのが「散楽」。朝廷の余興としてもてはやされた。
   平安時代には散楽は「猿楽」となり、呪師や放下師(散楽系の芸を演ずる遊芸人)は独立
   して幻術を演じた。
安倍清明ら陰陽師も使っている。
    ※陰陽師は、本来は陰陽五行思想に基づく陰陽道によって占う陰陽寮の官吏。本来の
     律令を離れ、占術や呪術を使うようになる。
   鎌倉時代に一時衰退したが、室町時代にまた盛んになり述師が幻術を演じ、戦国時代の
   
果心居士が有名である。
    ※
松永秀久の求めで亡妻を眼の前に現わし驚かせたと言われる。
   キリシタン邪法と同一視され厳禁と為り、平凡な術だけが伝承され江戸時代には手品・
   手妻と呼ばれ大衆芸能になった。初期は幻術(目くらまし)と呼ばれた。紙の蝶を扇子で
   舞わす「うかれの蝶」や水からくりの「滝の白糸」など。



2. 大道芸
 (1)南京たますだれ
   富山県の民謡「こきりこ節」に使われる「ささら」が原型。
   江戸時代に「南京無双玉すだれ」と言った。大国明の大都市の名前を付ける事に因り、
   すだれの希少価値を強調し、芸の価値を高める意図から、南京にもない「玉すだれ」と
   いうことから命名。
   すだれの玉数は流派によって異なり、24本、36本、46本など。

 (2)
ガマの油売り
   ガマの油とは、筑波山麓に生息する四六のガマが鏡に映った自分の醜い身体を見て
   脂汗を流し、それを収集して一定期間煮つめて製造した膏薬油。
   油売りは、その霊力を高めるために口上を述べながら売った。半紙大の和紙を二つに
   折りながら徐々に小さく切りながら切れ味を実演し、自らの二の腕に刀を当て傷つけ血
   の出たことを見せる。その切り口にガマの脂を塗ることで止血してみせる。



3.香具師(野師・弥四・野士)口上
  本来は香具を露店で売る人。香具とは香道具と同じ意であり、薫物(たきもの)、匂袋など
  に用いる。初めは香具を売って歩いたが、次第に扱う物が多くなり、日用品や食品などを
  扱うようになる。 当初は安物を売ることはなかったが、戦国時代以降、浪人が山野の草木
  をとって生活費を得ようと山師稼業を行ない、飢渇をしのぐため売薬をした。このことから
  野士という。また、売薬行商の元祖に弥四郎と言う者がいたので弥四とも言う。
   人集めの手段として芸を見せたり聞かせたりした。それにより商品を売った。今日まで
  残る技は啖呵売りである。 見世物などを興行して粗製の商品類を巧みな話術や口上を
  述べて売ったりする人を指すようになる。


  最後に、当日ロータリークラブとの繋がりで、横尾さんに仙助流南京たますだれを実演して
  頂きました。 ビデオリンク掲載しますのでクリックして見て下さい。
 

 
  横尾さんありがとうございました。




                                                                                                                          2012.9.20
                 第42回勉強会 高崎城下の神社

1. 我国の代表的信仰
  高崎城下には多くの社があったが、これは我国の多岐に亘る信仰のためである。ただ、
  江戸時代に入る直前に、
井伊直政公がほぼ新しく開いた城下町なので、中世からの
  伝統ある社はなかった。 全国の20社以上ある信仰対象の上位には、
八幡信仰(7,817)、
  
伊勢信仰(4,451)、天神信仰(3,953)、稲荷信仰(2,924)、熊野信仰(2,693)諏訪信仰(2,616)
  
祇園信仰(2,299)、白山信仰(1,893)、日吉信仰(1,724)、山神信仰(1,571)がある。
   これらの信仰の社から分霊分社したものが各地に多くあり、確かな数ではないが、
  上位は稲荷社3.2万、八幡社2.5万、神明社1.8万、天神社1万、大山祇・三島社1万、宗像社
  8.5千、諏訪社5.1千、日枝社3.8千、熊野社3千、祇園社2.7千である。


2. 代表的分霊社
 (1) 稲荷社 
  祭神は
須佐之男命の四男で稲の霊の神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ、
  宇迦とは穀物・食物の意)、別名は倉稲魂命(くらいねたまのみこと)。
   仏教や神道といった外に、田の神及びその使い女である狐を信仰する民族的信仰が
  基盤に在る。稲荷神と狐を同一視する観念から、庶民が狐の鳴き方や食べ方で豊凶を
  占ったり、行者や祈祷師などが稲荷神を守護神として祀り稲荷下げ"や稲荷降ろし"
  といった宣託を行なったりした。また、病気や不幸の原因が狐にあるとして、それらつきもの
  を落とす祈祷や、回復させるために稲荷を祀るように指導をした。
   稲荷社は正一位稲荷大明神を名乗る所が多いが、伏見稲荷大社が正一位の神階を
  授与されていたので、明治以降に勝手に正一位を付けるようになった。鳥居・旗・幟が朱色
  であることや、人名を冠した呼称があるのが特徴である。
   旧暦の二月初午が農事開始の時期であることから、農業神の性格を持つ稲荷ということ
  から祭日になったと思われる。この時季は火事が多いことから、地方によっては茶を飲ま
  ない、風呂を沸かさないなど火を避ける風習があり、このことから火妨の神様として、その
  御札を台所などに貼る信者が多い。 江戸時代後期には流行神のような様相を帯びて
  急速に広がった。 これは、江戸は火事が多かったこと、屋敷にお稲荷さんがある権力者
  田沼意次にあやかりたいこと、本来は穀物・農業の神だが商業神として町人からも信仰
  されるようになったことなどの説がある。「伊勢屋、稲荷に犬の糞」と揶揄されるほど数が
  多かった。 江戸時代高崎城下には、通町、石上寺、真福寺、普門寺、弁天堂、法華寺、
  善念寺、延養寺、興禅寺、長松寺、玉田寺、正法寺、安国寺にあった。
  
  写真:八幡宮(宮元町)


 (2) 八幡社
  祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)を主神とし、比売神(一般的には主神の妻か娘)、
  
神功皇后(第14代仲哀天皇の妃)を合せて祀る。奈良時代から平安時代にかけて応神天皇
  が八幡神として習合し始め、誉田別命と同一視されるようになる。神仏習合時代は仏様として
  八幡大菩薩とも呼ばれた。
   「幡」とは神の「依り代」としての「旗」を意味し、神功皇后が三韓征伐の往復路で対馬に
  寄った際に祭壇に八つの旗を祀ったことや、応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗が
  ひらめいたことから「八幡」と言われる説がある。  
   八幡社の総本社は大分県の宇佐神宮であるが、東大寺建立に際し宇佐地方の職人集団が
  奈良に移り宇佐八幡を勧請し手向山八幡宮が成立した。以来各国の国府などの付近に広まり、
  石清水八幡宮が多くの荘園を有したため、それらの土地に八幡信仰が広まった。その後、
   清和源氏が氏神とし、いずれもその流の源頼朝と足利尊氏が武家政権の中心となったこと
  からも、武人の神としても全国に広まった。このため、稲荷社に次いで数が多い。江戸時代の
  高崎城下には、真應寺、普門寺、延養寺、光明寺にあった。
  安産の神様としての信仰は、・神功皇后が三韓征伐の際に第15代応神天皇を身ごもっていたが
  無事出産したことによる。

 (3) 神明宮
  天照大神を主祭神とする伊勢信仰。伊勢神宮の所領である御厨に神明宮が祀られていたが、
  近世になり伊勢参宮が盛んになると、伊勢の御師が手代を使って毎年廻村して配札をし、その
  拠点に神明様が創られた。また、江戸時代中期には、旅ブームの中心であるお伊勢参りのため
  伊勢講を組織し代参者が御札を授かり配布した。
  江戸時代高崎城下では連雀町、龍廣寺、向雲寺にあった。

 (4) 諏訪社
  長野県諏訪湖畔の諏訪神社を中心とした諏訪信仰の社で、その数は全国に1万とも2万とも
  いわれる。祭神は上社が
建御名方神(たけみなかたのかみ、大国主命)、下社がその妃
  
八坂刀売神(やさかとめのかみ)である。狩猟(上社)や農業(下社)を守護する神社で、守護神
  とした武田氏が上州に侵入したこともあり、高崎にも数多くあったが武田氏の滅亡と共に他社に
  合併され、或は消滅した。それでも明治11年頃には県内でも西上州中心に859社もあった。
  江戸時代の高崎城下には、あら町、赤坂町、新紺屋町、通町にあった。

 (5)熊野神社
  自然信仰の聖地である熊野三山(本宮大社・速玉大社・那智大社)の祭神を勧請した神社。
  平安末期に熊野詣が盛んになり、熊野信仰が地方に伝播した。熊野修験者や熊野御師が
  地方の武士団に受け入れられ各地に勧請された。近世になると稲作や災難除けの神として
  信仰が拡大した。高崎神社が社名を変更する前は熊野社。



3. 江戸時代高崎城下の神社
 (1) 今日まで続く神社
  熊野権現(赤坂町)、愛宕山(南町)、諏訪明神(あら町)、頼政神社(宮元町)

 (2) 合祀された神社
  二ノ宮大明神(赤坂町にあり、祭神は月を神格化し夜を統轄する神の月読命)
  神明宮(伊勢の内宮あるいは外宮を分霊した社。連雀町にあった)
  市神宮(田町と本町にあり、祭神は祇園精舎の守護神・牛頭天王で、除疫神。京都祇園社
  八坂神社が本社)四阿屋権現(常盤町、四阿山を対象とした山岳信仰)
  諏訪明神・稲荷社(赤坂町・新紺屋町・通町)

 (3) 神仏習合(神仏混淆)でなくなった神社
  神祇信仰と仏教信仰と折衷し習合する流れが有ったが、8世紀後半から寺院に関係ある神を
  寺院の守護神や鎮守とするようになった。東大寺と手向山八幡宮、興福寺と春日大社などが
  代表的な例で、明治の神仏分離まで続いた。この行き過ぎた行為が廃仏毀釈。高崎も殆どの
  境内に鎮守があった。
   A.寺が廃止され神社も廃止
    明治維新の神仏分離策に伴い廃寺となった寺。それに伴い神社も廃された。
     石上寺(宮元町)と布留神社、真福寺(新町・延養寺の北隣)と稲荷社
     真應寺(田町・善念寺の北隣)と八幡宮・天満宮
     普門寺(本町)と若宮八幡宮・稲荷社
     弁天堂と天満宮・稲荷社・疱瘡神宮(疱瘡は悪神の疱瘡神の仕業で治療方法がなかった
     ので祈った。源為朝・少彦名命が祭神の場合が多い)
   B.寺は存続・神社は合祀
     恵徳寺・長松寺・大雲寺の白山宮(日本三霊山の一つ白山信仰)
     法華寺・善念寺・延養寺・興禅寺・長松寺の稲荷社  龍廣寺・向雲寺の神明宮
     延養寺の八幡宮、向雲寺の秋葉社(火の神、火除け)
     興禅寺の飯田明神社・白龍社・津波岐那社(椿名社、榛名山信仰)
   C.現続するが宗教法人名簿にない神社
     玉田寺・正法寺・安国寺の稲荷社、光明寺の八幡宮



4. 現在の神社
  前回取り上げた頼政神社以外に、高崎神社、愛宕神社・諏訪神社がある。

 (1)
高崎神社
  1240年代に和田氏が、相州三浦から二ノ宮・熊野社・御霊社の三社を、現在の和田橋付近の
  赤坂明神の社地榎森に勧請した。井伊直政公が高崎築城の際に熊野社を今の高崎神社の所に
  あった諏訪神社の社地に移した。  
  明治3年に村社、同18年に郷社、同40年の市域合併に際し境内社12、市内14町にあった28社を
  合併し、郷社高崎神社と改称した。その後も合併し市内17町に鎮座した36社を合併。大正14年に
  県下10番目の県社に昇格した。 明治の初めまでは氏子町は赤坂・相生・嘉多・常盤・四ツ屋・本・
  歌川・住吉の8町であったが、相次ぐ合併により城下の22町に氏子圏が広がった。 なお、境内に
  在る美保大国神社は、昭和4年に市内の商工業者が島根県美保関町の美保神社の
事代主命
  (えびす様)の分霊を迎え、 それまで祀っていた大国主神(だいこく様)と共に奉斎した。
  
   写真:高崎神社

 (2) 愛宕神社
  古来より山岳信仰の対象であった京都愛宕山山頂の愛宕神社から勧請した神社。火伏せの
  神様として信仰され全国に広まった。祭神は
軻遇突智命(かぐつちのみこと)=火産霊命
  (ほむすびのみこと)勝道上人(日光開山、735〜817)の弟子が神体を安置したと伝えられる。 
  和田庄領主和田六郎兵衛義信が建立し、元和2年(1616)松平阿波守信吉が再建。
  祭礼は9月24日、氏子の町は新田町、南町、新喜町、若松町で、南町や新喜町が幟を建て、
  飾り物屋台を出し賑わった。
  
  写真:愛宕神社

 (3) 諏訪明神
  慶長4年(1599)に箕輪下社より遷されたとある。
真田家が信州諏訪より宝石48箇を勧請し、
  その一つが当神社本殿に在るといわれる。享保14年(1729)と文化4年(1807)に焼失し、文化11
  年(1814)に遷宮された。明治40年に高崎神社に合併したが、再び長野県の諏訪神社から
  勧請し今日に至る。東向きの社であったが、シンフォニーロードの造成に際し移築し南向きになった。 
  あら町に在るが、以前の祭礼は新町以外の町も参加し、連雀町の俄踊りや獅子舞、花盛鉾
  飾り物台が出たし、本町の子供万歳や祇園囃子などがあり賑やかであった。
  
  写真:諏訪神社

 (4) 宗教法人名簿にない神社
  A.江戸時代から続く社(形は変った社もある)
    玉田寺玉田稲荷、正法寺の九蔵稲荷と浅間神社、安国寺豊川稲荷、光明寺八幡宮
  B.明治以降の社
    赤坂町の得利稲荷、鞘町の鞘町稲荷、柳川町の於光稲荷



5. 総鎮守と祭礼
 (1) 譜代主要城下町の総鎮守と祭礼
  関東地方の譜代主要藩の城下では、総鎮守の神社が今日まで続き、そこの祭礼を起源として
  町を挙げての祭りが開催されている。そのため、該当する神社に対する住民氏子の意識は高い。
  ・
川越城下の氷川神社は武蔵一ノ宮の大宮氷川神社を勧請した。川越まつりは当神社の
   「神幸歳」が起源である。
  ・
佐倉城下の麻賀多神社の氏子町から山車・御神酒所(屋台)が曳き出され、氏子青年の奉仕
   により御輿渡御が行なわれる。
  ・
古河藩の領地は下総(現茨城県と千葉県)と下野(現栃木県)に跨っていた。野木神社(現在の
   栃木県下都賀郡野木町にあり)は古河藩の鎮守祈願所として藩主が崇敬し、一般人は神明様と
   して信仰した。七つの郷を野木神社の神領と定め、末社が七村に建てられ、その「七郷めぐり」
   の神事に付随した行事が「提竿灯もみまつり」。 古河町の総鎮守は雀神社で、旧古河町全域が
   氏子町。
  ・
宇都宮二荒山神社は下野国一ノ宮で、353年に創建、宇都宮の名前の元と言われる地域の
   象徴。 年間に亘り数々の神事が行なわれる。

 (2) 高崎神社と高崎まつり
  高崎神社は高崎総鎮守となり、昭和40年代までの高崎神社例大祭は見世物小屋が出るなど非常に
  賑やかではあった。現在は、春と秋に例大祭を行なっているがその内容は極めてささやかなものに
  なっている。 市政70周年に開催された「高崎ふるさとまつり」(現高崎まつり)が祭礼ではなく、
  イベント的まつりであったことから、高崎神社との関連性が薄れている。県社になった折旧城下の町
  がみな氏子町になったが、その生い立ちから当社としての氏子意識が薄いと思われる。





                                                                                                                             2012.7.19
               第41回勉強会 頼政神社と高崎まつり

1. ョ政神社
  元禄8年(1695)大河内輝貞公が高崎城主に封ぜられた3年後、三ノ堀端に建つ
 石上寺境内(現宮元町東京電力高崎支社)に、遠祖である
源ョ政卿の廟を創建された。
 その後、輝貞公が越後国村上に転封された間は江戸湯島の霊雲寺に遷座されていたが、
 再度高崎城主となった翌年の享保3年(1718)に大染寺境内(現在地)に再建された。
 「正一位頼政大明神」として祀られてきたが、明治になり村社「頼政神社」となる。
  明治初期の記録によると、境内は2千坪強もあったが公園や国道用地などに削られ、
 現在は5百坪足らず。朱塗りの本殿、拝殿・幣殿、水屋などが建つ。社宝として代々の
 城主の筆による書画や、奉納された甲冑・刀剣など、文化財の指定を受けた物をはじめ
 貴重な歴史遺産が多数保管されている。

    写真:頼政神社



2.祭神・源ョ政卿
  
源ョ政卿(1104〜1180)は清和源氏の本宗源頼光の四世で、摂津源氏の流れを汲む
 平安時代末期の武将。弓の名手であると同時に歌人としても名高い。
  
保元の乱では源義朝や平清盛と共に後白河天皇方につき勝利、義朝と清盛が勢力争い
 をした平治の乱では清盛方に属して勝利。平家の天下の中で源氏としては唯独り役職に
 就き(宮廷及び京都治安の任である右京権大夫)、74歳の高齢のうえ平氏以外では珍しい
 三位となった。ほどなく出家したため世に「源三位入道」と呼ばれた。
  平清盛が安徳天皇を擁立すると不満を持つ後白川法皇の皇子以仁王(もちひとおう)が
 平氏追討の令旨を下し源氏に呼びかけた。ョ政卿はこの令旨に呼応し宇治で平氏と戦ったが
 敗れ平等院にて自刃。以仁王も討たれたが、その令旨はョ朝を初めとする東国の源氏
 勢力が蜂起する原動力となった。
  ョ政卿は『
平家物語』『源平盛衰記』など軍記物に再三登場する。歌人としては
 『源三位ョ政卿歌集』ほか勅撰集や諸家集に多くの歌が見られる。また、朝廷の警護に
 あたり
(ぬえ)を退治して天皇の病を治したという逸話や、挙兵の動機と言われる、
  子息仲綱の名馬を平宗盛が強奪しようとしたことを題材とした謡曲『ョ政』や『鵺』、
 古浄瑠璃『よりまさ』や浄瑠璃『ョ政追善芝』などが作られている。



3. 創建・大河内輝貞
  
大河内家は、源ョ政卿の孫にあたる顕綱の11代後裔にあたる秀綱を元祖。秀綱の次男
 正綱が新田源氏の末流松平親綱の養子となったため、江戸時代は松平姓を名乗ったので
 「大河内松平」と呼ばれる。慶應4年(1868)に布告により大河内姓に戻った。
  秀綱の長男久綱の嫡男信綱(三代将軍家光の老中として敏腕を振るい「知恵伊豆」と
 呼ばれた)が、正綱の養子となって興した伊豆守家(川越から古河を経て、明治まで三河吉田
 ・現在の豊橋7万石)、信綱の弟正信の子正久が興した上総大多喜家(現在の千葉県大多喜町
 2万石)、そして高崎の三家がある。
  輝貞公は信綱の長男輝綱の六男に生まれ、信綱の五男で独立した信興の養子となり、下野国
 壬生を経て高崎城主となった。ョ政卿が右京大夫であったことから、右京の官名を名乗ったため
 右京大夫(うきょうたいふ)家と呼ばれた。時の将軍綱吉の信任が厚く側用人に抜擢され、
 私邸へ何十度とお成りがあるほどの寵遇を受け、元禄8年(1695)高崎52,000石の城主となり、
 その後1万石を二度にわたり加増される。綱吉の死に伴い村上に転封されたが、吉宗が八代将軍
 に就くと高崎に戻り、老中格として80歳まで幕閣として将軍を補佐した。輝貞公が、幕府の要人で
 あると同時に、長期にわたって高崎城主にあったため、高崎は安定し繁栄の基礎が築かれた。
  本家の伊豆守信輝が、元禄9年(1696)に古河城内の立崎曲輪(頼政曲輪)にョ政神社を
 創建した。信輝の弟の輝貞公は大燈籠を寄進し、石上寺境内に頼政社を勧請した。ョ政卿を
 敬う姿勢は代々の城主に引継がれ、特に、3代から5代の城主は和歌に秀で、ョ政卿の年回忌
 の度に堂上派歌壇と呼ばれた各地の城主や公卿衆の和歌を集め奉納している。



4. ョ政神社の祭礼と町民
  
ョ政神社は城主の先祖を祀った神社であるが、城下の町人達も傍観しているわけにはいかず、
 神輿や神馬をはじめ、儀式調度品を担当する神官に加え、各町内の飾屋台(山車の前身)や
 幟・吹流しなど三百人にも及ぶ行列を連ねた。大手門前における興行には、家老、城代、年寄、
 町奉行など上席武士のための桟敷が設けられ、見物の衆が近郷から訪れ雑踏をなすほどで
 「上毛一の祭礼」と言われた。祭礼はョ政卿の命日が5月26日であることから、正月、5月、
 9月の26日に武家の祭典として流鏑馬が行われていた。
  高崎は城下町だけでなく交通の利便性から商都として発展、祭りは景気付けのためこの祭礼は
 町民にとってももってこいの催しであったと思われる。「ョ政神社御祭礼行列之絵図面」の行列に
 鞘町行灯,新町飾屋台高砂翁媼,砂賀町立物繰半月,田町飾屋台鯉の滝昇り,九蔵町飾台行灯,
 新田町飾台行灯,南町飾台行灯,通町飾屋台浦島太郎,赤坂町立物三番叟,相生町飾屋台恵比寿,
 寄合町飾台行灯,元紺屋町行灯・幟,中紺屋町幟・飾屋台鞍馬天狗と牛若丸,新紺屋町行灯,
 嘉多町幟,羅漢町行灯,白銀町幟・行灯,四ツ屋町幟が見られる



5. 山車祭り
  
享保年間(18世紀前半、徳川吉宗の時代)と思われる記録に、ョ政神社の祭典に屋台らしきもの
 が登場し、以後祭礼の中心として今日に継承されている。当時は、屋台小路(下横町と鍛冶町との境)
 から堀端へ出てョ政神社に集合し、現在のさくら通りからさやもーる、南銀座通り、新町通り、田町通り
 本町通り、高崎神社前を経てそれぞれの町へ帰った。
  屋台はやがて山車(関東地方は江戸神田型が伝わって来たといわれる。)に替っていった。明治
 時代になり木戸がなくなり頼政神社への通行が楽になると、各町内がこぞって大型の山車を造った。
  制作する職人は東京をはじめ近隣の者であったため、いずれも似たような型式となった。ところが
 高崎市内に路面電車が通るようになると、線路や敷石との加減から不向きとなった大型のものは
 他地域へ売却し、幅の狭い物となった。しかも、上電車線を保持するため道路の両側に電柱が建ち
 引張り線が中心市街地に張られてしまった。しかし、三段の櫓のうちの上段櫓と人形を上下させる
 方式を採り入れ、電線を掻い潜りながら自慢の人形を十分披露できる対応を行なった。



6.  高崎まつり
  ョ政神社の祭典は武士と町人が一体となった形であったので、武家政治が終わった後も町全体
 の祭りとして華やかなものであった。明治からの例大祭は5月26日に行われるようになり、この日は
 市の祭日として明治大正時代は市立学校は休校であった。時代の変化から市民の間における
 ョ政神社の存在が変わり、山車の引き回しを主とする行事は、1月14日の道祖神祭に行われる
 ようになっていった。 しかし、昭和に入ってからは衰退し、第二次世界大戦後は、従来からの
 氏子町内の奉賛する例祭として復活し、現在は5月26日のみである。その後は、高崎のまつりと
 しての山車巡行ではなく、皇室の祝典や市制周年記念といった行事での引き廻しと為り、祭礼の
 ための奉納行為で無くなっただけでなく不定期なものとなった。
  昭和50年に「高崎ふるさと祭り」が市民参加イベントとして始まり、山車巡行がその中心となった。
 昭和60年の第11回から「高崎まつり」と改称され、山車の輪番制が導入され、市制100周年、
 110周年の節目の年には38台全ての山車が出場している。頼政神社の祭礼屋台などを起源とする
 高崎の山車祭りであるが、祭礼の意義を再認識しなければならない状況になっているのが現実で
 あろう。





                                                                                                                               2012.5.17
      第40回勉強会 歌舞伎と仮名手本忠臣蔵 (講師:羽鳥 文江)

 
        上記、画像は菅原伝授手習鑑 羽鳥さんより頂いた絵葉書より
 
1. 歌舞伎の歴史

和歴

西暦

      歌舞伎に関する出来事

慶長8
寛永6
慶安5
延宝年間
延宝6
天和3

元禄6
元禄14
正徳4
寛延元
文政8
天保3
天保12
天保14
安政7
1603
1629
1652
1675
1678
1683

1693
1701
1714
1748
1825
1832
1841
1843
1860
出雲の阿国が京四条河原で歌舞伎踊り興行
阿国歌舞伎を真似て流行った遊女歌舞伎禁止。常設の芝居小屋出来る
若衆歌舞伎が禁止され野郎歌舞伎(立役・女形共男子が演ずる)へ
江戸四座(中村・市村・森田・山村)設けられる
坂田藤十郎が上方で「和事」で評判となる
近松門左衛門が大坂竹本座の座付作者として世に出、人形浄瑠璃全盛時代に。
 人形浄瑠璃から転じた
義太夫狂言が流行り始める
市川団十郎が江戸で「荒事」芸で評判をとる
浅野内匠頭が江戸城内で刃傷、翌15年浅野浪士吉良邸討入
絵島生島事件で山村座は取潰し、江戸三座となる
「仮名手本忠臣蔵」人形浄瑠璃として初演、3か月後に歌舞伎初演
四代目鶴屋南北「四谷怪談」を中村座で初演。気世話物の始まり
七代目市川団十郎、「歌舞伎十八番」を制定
五代目市川海老蔵(七代目団十郎)、贅沢禁止令違反で江戸所払い
江戸三座が猿若町へ集結される
二代目河竹黙阿弥三人吉三」を市村座で初演 白波物人気


2. 仮名手本忠臣蔵の歴史と特徴
 浅野浪士の切腹の12日後に早くも劇化されたが幕府は中止令。上方で次々にドラマ化
 されていたが、事件後47年目に狂言作者竹田出雲・三好松洛・並木正三の3人合作で
 制作される。恋と忠義と金をめぐる様々なドラマと、庶民の幕府に対する反抗心などが
 相まって人気を博す。
  幕府に対する目もあり、登場人物も舞台になった場所も変えてある。
 例えば、浅野内匠頭=塩谷判官、吉良上野介=高師直、大石内蔵助=大星由良之助、
 伊達左京亮=桃井若狭之助、梶川与惣兵衛=加古川本蔵、大野九郎兵衛=斧九太夫、
 寺坂吉右衛門=寺岡平右衛門。
  多くの義士劇が作られ演じられてきたが、この作品がその集大成と言われる。「仮名」
 は義士の人数47人が「いろは」47文字と同数であることから、「手本」はこの物語が人々
 の手本になることから。「忠臣蔵」は内蔵助の蔵と結びつけ、忠臣が蔵に入るほど沢山
 いること、
逸話が沢山詰まっているという意味もある。討入後47年目に作られたこともあり
 序幕における新田義貞の兜改めは47個の兜と同じ櫃に入っているなど、47に因んだ
 仕掛けもある。
 「
菅原伝授手習鑑(寺子屋)」、「義経千本桜(狐忠清)」と共に、浄瑠璃と歌舞伎で三大
 狂言と呼ばれる。また、曾我兄弟(外題「
寿曾我対面」「助六由縁江戸桜」「外郎売」)、
 
鍵屋の辻の決闘(外題「伊賀越道中双六」「伊賀越乗掛合羽」)と共に三大敵討の一つ。
 長い作品なので昼、夜の通し興行で演じられるが、最近は少なくなっている。大序は
 この作品だけで観ることが出来る特殊な幕で、開演前に口上人形が配役について述べる。
 序幕から大喜利までの役者名と役を聞くと30分近くかかる。続いて儀式ばった鳴り物に
 合せての幕が開くと役者たちは人形のように動かないで、目をつむり、静止している。


3. あらすじ
 ○大序(鶴岡社頭兜改めの場)
  鶴岡八幡宮に将軍の名代として弟の足利直義が下向。師直、若狭、判官が迎える。
  討ち死にした新田義貞の兜を八幡宮に奉納することの是非を巡り師直と若狭が対立し
  義貞の兜改めのため十二内侍の一人で兜を見知る判官の妻顔世が呼び出された。
  皆が兜奉納に社殿に行っている間に好色の師直が顔世に言い寄る。目にした若狭が
  これを救うと、師直は若狭をののしったので若狭が刀に手を掛けたところ、皆が戻り
  判官が中へ割ってとりなす。

 ○二段目(松切り)は最近の公演では演じられない。

 ○三段目(足利館門前進持の場・同殿中松の間刃傷の場)
  若狭の家老本蔵は主君若狭が師直を殺そうとしているので足利館へ出掛け、おびただ
  しい進物を届け、師直と家来の鷺坂伴内の袖の中へ金子を入れた。 
   賄賂を受け取った師直は若狭に対し下手に出る。師直を切るつもりで登城した若狭は
  拍子抜け。師直の矛先は判官に向けられ、いびりまくり侮辱したので判官は刀を抜き
  切りつける。その時、衝立の蔭に居た本蔵に止められ取り押さえられる。

 ○四段目(扇ヶ谷館判官切腹の場・同表門の場)
  足利館から判官に切腹の命が来る。死に装束の判官は由良之助が駆け付けるのを待つ
  緊迫感が走る。判官役者の技了の見せどころ。判官が腹に刀を突き立てたところに
  由良之助が駆け付ける。この場面では主従の目と目のやり取りが見所。何か間に遭わ
  ないときに使う「遅かりし由良之助」という言葉は、この場を観る観客が今か今かという
  気持を表したもので、劇中にそのような台詞はない。
  後段は城明け渡しの場で、由良之助がはやる家臣たちを諭し、形見の九寸五分を手に
  して仇討の決意を固める腹芸の見せ場。

 ○浄瑠璃(道行旅路の花婿)
  これは原作にはない。90年経って清元の名曲を舞踊劇化した。
  判官の家臣早野勘平は腰元お軽と恋中で、主君の刃傷の際に居合わせなかったので
  館へ帰れず、お軽と西方へ落ちのびる。その途中東海道戸塚の山中で、「主君の大事を
  よそにした侍は生きておられぬ」と刀を手にするがお軽に止められる。お軽に口説かれて
  思い直し、手に手を取り西へ向かう。

 ○五段目(山崎街道鉄砲渡しの場・同二つ玉の場)
  勘平とお軽は山崎で猟師をしているお軽の親元に身を寄せる。ある時、塩谷家の旧臣に
  会うと仇討の話を聞き、自分も仲間入りしたいのでそのための金子の都合をつけるからと
  家を教える。 勘平を元の侍に戻したいと願うお軽は父母と相談し、自分の身を祇園へ
  売ることにする。父与市兵衛が祇園へ行き半金50両を受取った帰りに、雨宿りをした稲掛け
  の中から手が伸び財布を奪われ刺殺される。犯人は元塩谷家臣の斧定九郎で山賊に身を
  落としていた。そこへ猪を追って来た勘平が鉄砲を撃ち定九郎に当り絶命。勘平は猪の
  つもりが人を撃ったと思い、手に触れた財布を奪う。

 ○六段目(与市兵衛住家勘平切腹の場)
  祇園から身売りの半金を持って迎えが来る。半金を入れた財布が夕べ奪った財布と同じ
  ものに気づいた勘平は、自分が舅を殺してしまったと思い悩む。お軽は駕篭で祇園へ
  売られて行く。 その後、舅の遺骸が運び込まれ、訪ねて来た塩谷の旧臣たちに仇討
  参加は拒否されたと聞いた勘平は、絶望のすえ切腹する。遺体をよく見た旧臣が、舅は
  刀傷で死んでいることを告げるが時遅し。不忠を詫びた勘平は連判状に加えられる。

 ○七段目(祇園一力茶屋の場)
  山科に移り住んでいた由良之助は祇園で遊興にふけり、仇討の気配を見せない。息子
  力弥が奥方からの手紙を届けに来ると、他人の気配がないのを確かめ読み出す。それを
  酔いさましに来ていたお軽が合せ鏡で読み、縁の下では九太夫に読まれた。お軽が読んだ
  ことを知った由良之助は梯子を使って二階から降ろし、身請けをしてやると言う。そこへ
  通りかかった足軽平右衛門はお軽の兄で、身請けを聞いた平右衛門は由良之助に仇討
  の気がないと無念がるが、お軽から手紙の経緯を聞き、お軽を生かしておけないと殺そう
  とする。由良之助は平右衛門を連判状に加え、縁の下の九太夫を殺す。

 ○八段目(道行旅路の嫁入りの場)
  本蔵の妻の戸無瀬と娘の小浪による道行

 ○九段目(山科閑居の場)
  戸無瀬と小浪は由良之助宅を訪れ、娘を許嫁の力弥と添わせてほしいと願うが、力弥の
  母お石は、本蔵が判官を抱き留めたことから起った大事につき断る。母子で死のうとして
  いる所へ虚無僧に身を替えた本蔵が現れ、力弥に切られ、由良之助親子に師直邸の
  絵図面を渡し息絶える。

 ○十段目(討入道具調達。現在では上演されない。)

 ○大喜利(高家表門討入の場・同広間の場・同奥庭泉水の場・同炭部屋仇討本懐の場)
  一様の火事装束に身を固め、奥の広間に慌てふためく高家の家来と義士の討ち合いとなる。
  内奥庭の泉水のほとりでは師直の剣士小林平八郎が義士の追撃に斬死。炭部屋から
  引き出した師直の首級を挙げ本懐を遂げ菩提寺へ引き揚げる。





                                                                                                       2012.3.15

                 第39回勉強会 江戸時代の貨幣経済

江戸時代貨幣の見本
享保大判(写真右上):享保10年(1725)6月12日鋳造開始、同12月1日発行初めて公式に
通用価値が定められ、
享保小判に対して七両二分、元文元年吹き替え後は元文小判
に対し十両の相場が一般化
万延大判(写真中央上):万延元年(1860)閏3月発行通貨として使用、万延小判に対し25両
○天保五両判(写真万延大判下):天保6年(1835)鋳造、天保年間のみ発行、中判ともいう
○南鐐銀大判(写真左上):幕府発行のものでなく、民間の好事家が造らせたもの
○二分銀(写真中央の長方形のもの):1両の半分


 


天保通宝(写真左端):天保6年(1835)鋳造、明治24年(1891)まで使用された。100文
琉球通宝(写真中央左):文久年間(1861-64)に薩摩藩が琉球救済を名目に鋳造した地方貨幣
寛永通宝(写真中央右):寛永13年(1636)鋳造、全国八カ所の鋳造所で造られた国産の通貨。
箱館通宝(写真右端):地方流通の銭
   


1. 江戸時代の経済構造の特徴
 米本位制と三貨制の並立と、一物多価。
 (1) 米本位制
  室町時代に銅貨が全国的に普及するに伴って、米を中心とした実物経済が貨幣化
  されるようになった。土地の評価も貫高制で表す。
  貫高制の根底には米穀に対する貨幣の長所が存在する。貨幣は、持ち運びのし易さ、
  長期の価値保蔵、武器調達の簡易さ等の利便性と、均等性、客観性の長所がある。
  大名は支配地の広さや軍事力の大きさを客観的に表示するのに、米の分量を採用
  したが、米量では客観性がないため、その難点を解決するのに均一性や客観性に
  富む銅貨が採用され、戦国時代に全国的に普及した。銅貨1000枚=1貫文を基本単位。
  天下を統一した徳川家康も、実物経済を基本とする体制、つまり農業を基本産業とし、
  土地を主要財産とする米遣いの経済を前提とする社会体制(重農主義)で出発した。
  ただ、大名支配地を貫高制ではなく、石高制(石・俵・扶持)に統一した。

 (2) 三貨制
  家康は、一徳川家の繁栄という狭い行動からだけでなく、天下掌握という国家的な
  行動において、貨幣が重要な働きをなし、決定的な力を発揮する事を熟知していたので
  小判という計数貨幣を導入した。一方で西国を中心に発達していた銀貨の使用は黙認し
  この結果、三貨制が確立された。
   しかし、貨幣経済の担い手となる商人が幕藩体制の根幹を揺るがす自由なエネルギー
  を発揮しないように、低階層に抑え込むことを図った。貨幣経済を推進する一方でその
  担い手を押さえようとすることは矛盾に外ならなかった。
   また、地域や使用階層によって別々に使う三貨制は、結果として一物多価を生んだ。


2. 貨幣制度
 (1) 金・銀・銅の三貨制度
  金と銀の二種類の貨幣が対等な本位貨幣にも拘らず、地域によって使う貨幣が違う。
  家康は、金の産地の東国を基盤にしていたので、金貨を中心とした計数貨幣を発行した
  貨幣制度の導入を図った。
   しかし、銀の産地が多い関西では秤量銀貨が使用されており、強い経済力を持つ大坂
  商人が東洋諸国との貿易に銀塊を使っていたこともあり、関西での銀貨制の習慣を変え
  られなかった。

  主な金山としては、羽後の阿仁・大葛・白根、陸中の佐比内、陸前の玉山、越後の鳴海
  佐渡の相川、甲斐の黒川・保、伊豆の土肥・縄地・青野、駿河の富士・梅が島、薩摩の
  鹿籠、大隅の山ヶ野など

  主な銀山としては、
石見の大森、但馬の生野、因幡の蒲生、対馬、羽後の院内・半田・
  八森、羽前の延沢、岩代の半田など。

  銅貨は渡来銭を使用していたが、渡来銭に替り寛永通宝の発行により統一された。
  金貨の小判1両=二分金×2=一分金×4=二朱金×8=一朱金×16
  銀貨との対比は、
   1両=丁銀50〜60匁 一分金=一分銀=二朱銀×8=一朱銀×16=五匁銀×12 
      現代の貨幣と比べると、金1両は米価比で約6万円。ただ、感覚としては30万円、
      銀1匁は4千円、銭1文は50円弱。

 (2) 金建て取引と銀建て取引
  A.地域によって遣う貨幣
   ・金遣い経済圏:江戸と東国(陸中から関東を経て尾張まで)
   ・銀遣い経済圏:大坂・京都と西国(陸奥から日本海側の羽後・越前を経て関西以西)

  B.取引品により遣う貨幣
   ・金取引:書画骨董など高級贈答品
   ・銀取引:上等なお茶、材木、呉服、砂糖、塩、職人の賃銀
       商人間の大口取引、大名・旗本の出入り商人に対する盆暮れ決済
   ・錢取引:商品が小口に分けられた時の決済、庶民の日常品、旅籠の宿泊料

  C.褒美としての貨幣
   大名へ大判(金貨)、旗本へ小判(金貨)、旗本以下へ白銀(銀貨)、庶民へ青緡(錢)
   大判は儀式・儀礼用に特化した貨幣



3. 変動相場制
 (1) 固定化に向けての対策
  定額計数銀貨:秤量の手間がかからない一定重量の銀貨として、貨幣流通の円滑化を
  目指して、明和2(1765)年に「明和
五匁銀」、安永元(1772)年には「南鐐二朱銀」が
  発行された。一定量の金貨とリンクさせた計数銀貨として、金貨の補助貨幣化を図った。
  これを我国の金本位制確立とする説あり。 二朱銀8枚(16朱)=小判1両

 (2) 差益商売
  A.
両替商
   金・銀・錢の三種類の独立した貨幣が、一つの国の中で同時並行的に使われていたので、
   離れた地域間の商取引や旅行の際に、その時々の相場で貨幣を交換する事が不可欠で
   あった。
   その仲立ちをする存在として両替商が発達した。
   当初は前時代の旧貨と新貨との交換手数料、その後、三貨の両替手数料が収入であった。
   金遣い経済圏と銀遣い経済圏がそれぞれ発展し、取引が盛んになるにつれ、金銀の相場の
   違いを利用した為替取引に伴う収益に比重が増していった。
   幕府は度々金銀の交換比率を公定したが、幕府がいくら交換比率を決めても金銀の価値は
   変動した。この変動をみながらの商売が発達した。
   本両替(大坂では十人両替)は、金銀を扱う為替、貸付、新古金銀の引換、上納金銀の鑑定
   包立、両替仲間の統制、金銀相場や錢相場の幕府への報告などの公用を務めた。
   三組両替(南両替)は、錢両替が主だが金銀も扱う。
   番組両替(三郷銭屋仲間)は銭だけ扱った。
   ほとんどの両替商は酒屋、質屋、油屋などを兼業していた。
   江戸の両替商は享保3(1718)には600人に限られ、大坂の両替商は嘉永期に本両替179人、
   南両替544人、銭屋仲間617人。

  B.
札差
   旗本・御家人(札旦那)の蔵米の受取と売却を請負った。
   蔵米の受領手数料は100俵につき金一分、売却手数料は100俵につき金二分、輸送費用など
   経費を差し引くと札差の手元には残らない程度の収入
   札差は支給予定の米を担保に札旦那への金融を行なった。この利息収入が主。貨幣経済の発達
   の中で、札旦那は唯一の収入である米を担保に札差から高利金融を受けるのが常になった。
   享保9(1724)には109株の札差が公認された。
    米本位経済が実質的に貨幣経済に取り込まれていく中で、幕藩体制に寄生する商業資本という
   性格もあるが支え続ける役割であった。札旦那は札差以外から融資が受けられないため、自転車
   操業を続けても現金が借りられる有り難い存在であった。
   幕府は札旦那の救済措置として、借金棒引きや金利引き下げを強行した。この措置に対し、札差は
   金融逼迫を理由に新規融資を停止して対抗したので、却って旗本等の資金繰りが苦しくなり、旗本
   側からの強い反対が出て札差規制は評判が悪かった。札差そのものを否定する徹底的な規制はして
   いない。
    幕府は、度々札差金融の最高利息を公定したが、対象は札差だけのため、架空の出資者を立て、
   そこから札差が金を借り、その金を札旦那に融資する形をとった。しかも、融資斡旋の礼金や奥印
   (保証人印)料なども取った。蔵米を買い叩いて米価安に誘導し、市中に売り払う時期になると
   供給量を調整するなどにより価格を吊り上げ莫大な差益を得るのが収入の主流となっていたとの
   見解もある。





                                                                                                             2012.1.19

              第38回 「米本位経済と政策・税制」 (講師:金澤 富夫)

1.米と税
   貨幣経済の成り立たない時代と納税に関し、租庸調に始まり米や物産で納税され、
   貨幣経済が一般的になった江戸時代中期においても年貢という形で米本位制が続いた。



2. 貫高制と石高制
   豊臣秀吉の太閤検地以前は田畑の収穫高を金銭に置き換えて、武士の俸禄も当時の通貨
   単位「文」の1000倍を1貫とし、500貫取とか表した。 1貫=1石
   太閤検地以降江戸時代を通じて石高制をとり、1万石の大名とか表した。
  
    ・
1石=玄米150kg=1両=現代換算約8万円
    ・1反=300坪=1石=1人の消費量
  
   現在は1反の田から480kg程収穫出来る。 また、1人当たりの消費量は約60kgまで減少。

   年貢の算出方式
    ・検見法→ 毎年田んぼの生育状況を検査し収穫見込みを立てる。
    ・定免法→ 平均値により収穫量を固定し課税…… 江戸中期以降中心

   
大名の石高
    ・表高→ 幕府に対しての軍役義務に対する基本数値で、1万石当たり200人(非戦闘員含む)
          を出さなくてはならない。
    ・実高→ 実際に大名の領地で取れる収穫高(一般にどの大名でも実高の方が多い)
         加賀百万石と言われる前田候でも表高約102万石に対し実高は130万石以上あった。

   太閤検地時代の表高: 約1850万石、人口1500万人と推定。
   江戸享保年間の表高:  2600万石、人口3000万人と推定。



3. 江戸時代の年貢と武士の給料
   年貢は概ね5公5民(農民と領主で半々)で、領主は村単位で年貢の数字を決め、これを農民が
   分に応じ納める。これを村請制と言い、その村の役員(村方三役)は村人の入札(イレフダ・投票)
   で選んだ。

   ・武士の給料
    1 知行取→ 知行地(自分の表高の村)を与えられ、その土地を管理し収納する
             500石取とすると実収入は250石
    2 切米取→ 500石取であれば、幕府や領主から500石の米切手で受け取る
    3 給金取→ 例えば10
2人扶持えあれば、現金で貰い2扶持は2石か現金

   ・武士の家計
    自家消費以外の米は換金して生活費に充てる。 換金先は札差(幕臣や諸藩の米を換金する
    幕府の認可事業者)や米問屋・掛屋(各藩の米代金の収納代理をする商人)で公定手数料を
    支払う。

    武士は「体面」を重んじるためにお金が掛るため、出るを制する事がなかなか出来ず、またデフレ
    経済で米で貰う給料が換金で目減りし、益々苦しくなる。 そこで武士はまだ貰わない来年の給料
    を担保にして借金をすることになる。



4. 江戸の米流通
    ・公儀御領(天領と言う表現は明治以降)→ 郡代・代官所→ 幕府の米蔵(浅草御蔵)→ 旗本・
     御家人→ 札差(幕府自体が米を売り払う場合は札差は使わないで、公儀御用の米問屋が行った。)
 
    ・大名御領分→ 江戸・大坂蔵屋敷→ 米問屋・掛屋・札差・大坂堂島米会所
     
大坂堂島米会所とは、公許の米取引所で、現物(米切手含む)を取引する「正米市場」と、先物
     取引をする「帳合市場」とがあり、特に帳合市場はヨーロッパで
ヘッジファンド取引がされる以前に
     すでに日本で行われていて、世界初の先物取引所である。

    ・武士→ 
米切手(米)→ 米問屋・掛屋・札差

    概ねこのような米の流通で換金された。

    町方の米流通は、江戸では仙台藩の米が大きく流通し、仙台藩の財政を支えた。
    関東各地より河川を利用し、日本橋伊勢町米河岸に集積、小網町や堀留町あたりに米問屋が多く
    あった。

     1 下り
米問屋→      東海北陸以西57ヶ国を扱う
     2 米問屋300〜400軒→ 関東米穀三組問屋→関東陸奥9ヶ国
     3 地廻米穀問屋→    関東陸奥9ヶ国の小規模業者
     4 陸附米穀問屋→    江戸近郊納屋物(商人系米)小規模

    以上、江戸への米の流通経路は概ね上記4系統で流入し、米問屋から「つき米屋」(小売店)経由で
    江戸庶民の口に入った。



5. 米本位制と流通改革
   八代将軍吉宗は米将軍の異名をとるほど米価の安定奔走し、享保の改革を行った。株仲間(同業組合)
  を組織させたり、加賀藩から借金して米を買い上げ米価の上昇を図った。 また、町奉行
大岡越前守
  貨幣の改鋳を行わせたり、勘定奉行
神尾若狭守に厳しく年貢の取り立てを行わせ35万石の増収を図るも
  凶作や豊作の自然現象に悩まされ、結果農村の体力を低下させ、人口減少へと繋がった。 また上米の制
  (各大名に1万石当たり100石を幕府に上納)や各藩に米を買わせたりして、流通量の調整を図ったが、
  結局米本位制に矛盾を感じながらも、貨幣中心経済に移行することが出来ないまま、その後の
寛政の改革
  や天保の改革へと突入していくのである。

   その後幕府は
上知令(江戸・大坂10里四方の土地と田舎の土地を交換し、大都市近郊を幕府領とする
  政策)の頓挫、株仲間の解散など様々な経済政策を打つが、決定打が無く、むしろ幕末の政治情勢とも相
  まって幕府崩壊の道へと進んで行くのである。

  百姓から米を年貢として取り立てることで武士の世の中が成り立っていた時代、米本位経済を転換させる
  ことは、武士の世の中の否定に繋がるものであったのではないだろうか?


 
※おまけの話
 @ 棄捐令
    棄捐とは借金の棒引きを意味し、寛政元年(1785)に寛政の改革を行った白河藩主で老中の
松平定信
   八代将軍吉宗の孫で御三卿田安宗武の7男)が行った政策で、旗本御家人を救済する為に、札差88軒
  (96軒中8軒は届け出ず)に総額120万両の債権放棄をさせた。 一時は借金棒引きで喜んだのも
  つかの間、その後旗本御家人は札差から借金が出来なくなり、その年の年末の資金繰りに困窮したそう
  であるが、120万両もの大金を棒引きにさせられた札差で潰れる店は一軒も無かったという。
     現代に於いても金融機関はバブル崩壊後相当な額の債権放棄をしてきたが、江戸時代と違うことは、
  金融機関の体力の低下で国際競争力が失われ、
メガバンク時代が来たと言うことだろうか?

 A 米本位経済と金融と淀屋
   大坂(あえて大阪ではなくおおざか)に「
淀屋橋」という橋があるのは御存知のことでしょうが、なぜ
   淀屋橋というかお判りでしょうか? これは江戸時代初期の大坂の豪商淀屋(米問屋はじめ金融業や
  先物取引・材木商などなどを商う)が自前で橋を架けたことに由来し、今でもその橋や地域を淀屋橋と
  呼んでいます。 時は17世紀中ごろ、五代目
淀屋辰五郎は幕府より町人にあるまじき分不相応の咎で
  「闕所(ケッショ)」の沙汰が下されました。 闕所とは財産没収の上、わるければ死罪にまでなる罪
  ですが、辰五郎は所払いになりました。 なぜこのような裁きになったかというと、淀屋は大名貸と
  いって西国大名の殆どに金を貸し付け(当時の大坂は現金ならぬ現銀と言って銀貨中心)、その額が
  銀1億貫(幕府予算の10年分程)に膨らんでいたということです。 借金が膨らんだ西国の大名たちは
  挙って幕府老中に何とかしてほしいと陳情し、幕府はある意味難癖をつけ闕所にしたという噂があります。
   ただ、本当の理由は定かではありません。しかし、
井原西鶴の浮世草子「日本永代蔵」にはこの淀屋
  がモデルといわれる短編があり、この話に信憑性をもたせているとかいないとか....





                                                                                                       2011.11.15

                         第37回 高崎の江戸文化・その2(庶民編)

俳 諧
惺庵西馬(1808−1858)
  田町富所家に生まれ、母方の嘉多町の志倉家を継いだ。長じて俳人児玉逸淵に学ぶ。その後、
  江戸で惺庵を開き多くの門人を抱え活躍。清水寺階段下に西馬が建立した松尾芭蕉句碑
  「観音の 甍みやりつ 花の雲」(下の写真)は、芭蕉150回忌の前年にあたる1842年、上州
  俳壇の指導者の旗揚げとして西上州俳人たちと清水寺で盛大な句会を開いた記念のもの。
  篆額は安房多々良の藩主で俳人の大内瀾長、句は当代一の書家巻菱湖。記念句集『花の雲』
  2冊を出版。弟子の為流が養子となり後継。







羽鳥一紅(1724−1795)
  下仁田町の石井治兵衛の次女として生まれ、田町の絹問屋羽鳥勘右衛門に嫁す。夫も同じく
  麦舟と号す俳人であり、高崎田町という文芸環境を得て才能に磨きがかけられた。建部涼袋
  (吸露庵、弘前藩家老の家に生まれ国学者、画家でもある)に学び、麦舟と共に高崎の吸露庵
  系俳諧の中心。加賀千代女とも文通があり、俳書『あやにしき』(1758刊)『くさまくら』
  (1764〜72刊)がある。
  1783年に発刊した『文月浅間記』は、浅間の大噴火の惨状を描いたもので、大いに評判となり
  愛読伝写された。その筆の素晴らしさは俳諧以上に才媛一紅の名を不朽のものとした。写真は、
  延養寺の句碑「植えてまてば げに長月や けふの菊」







狂 歌
六帖園雅雄(屋号に因んで桐雅雄とも言う)
  上州の狂歌は、四方赤良(太田蜀山人)の率いる四方連と、宿屋飯盛(石川雅望)の五側に二分されて
  いた。1827年の宿屋飯盛編『自讃狂歌集』に高崎五側の代表的狂歌師として雅雄が撰者に名を連ねている。
  雅雄は田町の古着商で、本姓は大谷氏、通称三右衛門。高崎・倉賀野・安中周辺に多くの門人を有したが
  37歳で没す。夫人も狂歌を詠み、泉源楼宇壽女。







武居世平(1798−1881菫庵東雄=すみれあん・はるお)
  世平は橘守部に歌道を学んだ後、宿屋飯盛に狂歌を学ぶ。狂歌の結社高崎水魚連社中をリード。1857年に
  江戸燕栗庵と共に撰者になって進めた、狂歌合わせには全国から700余人、3500余句が寄せられた。高崎藩
  最期の藩主である大河内輝聲の歌道師範。写真は成田山境内の世平歌碑



絵 画(高崎の「近世の三大画人」)
矢島群芳(1798−1869)
  高崎藩士矢島兵左衛門定善の子として江戸藩邸に生まれる。最初大西圭斎に学び、その後、南画家の椿椿山
  に師事した。藩を出奔して諸国を行脚し、和漢の歴史に通じ、禅学など学識も深く、また武芸に秀でていたため、
  その名声を藩主が惜しみ藩に召喚された。花鳥画、特に鶴の絵を得意とした。







一椿斎芳輝(1808−1891)
  日本橋米山家の二男に生まれ名は芳三郎。初め谷文晁に山水花鳥を学んだが、文晁の死後、浮世絵師歌川国芳
  に師事した。 高崎へ来て旅籠「住吉屋」田中モヨの婿養子となった。 清水寺観音堂回廊の大絵馬が有名である。
  同寺の住持であった田村仙岳和尚との縁からか、同和尚の実姉
菊池徳(国定忠次の妾)の肖像画を残している。
  高崎の著名な料亭など「宇喜代」「高崎館」「錦山荘」は、芳輝の末裔が経営。






武居梅坡(1831−1905)
  金井忠蔵の二男に生まれ、初め宮崎竹坡、のち岡本秋暉に絵を学んだ。新町の旅籠「油屋」田中吉兵衛方に婿入り
  したが、新町が伝馬役務めを遂行することが困難なことから起った御伝馬事件に荷担し入牢。このため事件落着後は
  離縁し生家に戻り、寄合町の武居世平方へ婿養子となった。 明治維新後は私塾を閉じ絵画に専念。梅坡のあとは
  梅堤(のち秋錦)がついだ。下図は梅坡筆の「堤金之丞下仁田戦争出陣の図」









                                                                          2011.7.21

                第35回 武家の作法に視る

 武士の立ち居振る舞いを律した姿勢
  武士の本分が軍人から行政官へと役割を変え、農工商の三民の上に位置し支配する側に。支配階級と
  して多大な名誉と特権を有すると同時に特別の「義務」と固有の「精神的価値」を築き上げていった。
  民の"見本"として生きるため厳しい道徳律で身をしばった。
 1.  
服装
  ・裃(肩衣と袴)が礼装であり平服。礼装は麻裃、肩衣と袴は同色同模様、裏布なし。下着は熨斗目
   (無地絹布の袖下半分と腰のあたりだけに縞模様や格子模様)の小袖。
  ・長裃(袴の裾が長く足を包む)は大名や高家、御目見以上の旗本が正式行事のとき着用。小さ刀
   (長さ6寸)を帯し、白扇を持った。(殿中での動作を制限、治安を維持。)
  ・継裃は肩衣と袴の色が異なる。下着には普通の小袖。
  ・半裃(袴の裾が足首までの半袴に同色の肩衣)は御目見得以下が出仕に着用。
  ・白衣(小袖だけで袴なし、着流し)は家門を据えない。


 2.  
家紋(原則は一姓一家紋、出自、同族意識、敵味方を見分け、何家であるかを識別。)
  ・幕府に正式に届け出た紋が定紋、その他は替紋、裏紋とも呼ばれる。
  ・公式礼装の裃・小袖には家紋を付ける。葬儀には付けない。
    裃は、背に一箇、胸の衽の左右に一箇ずつ、袴の腰板に一箇の合計4紋
    小袖は、背中に一箇、前両袖と後両袖の左右一箇ずつ合計5紋。
  ・略式礼の小袖は背中に一箇、前両袖に一箇ずつで三つ紋。
  ・女性の紋はなく、嫁ぐときは自家の紋を持たせる。


 【高崎藩主の家紋】
        
    井伊家      酒井家     戸田松平家    藤井松平家    安藤家     大河内松平家    間部家    大河内松平家

 *家紋を間違えた刃傷事件(江戸城7大刃傷事件の一つ)
   延亨4年(1747)、安中藩主板倉佐渡守勝清(左三つ巴紋)を恨んだ分家の7千石旗本が家紋を間違え、
   熊本藩主細川越中守宗孝(九曜紋)を殺害。
   細川家はそれまでの「寄り九曜」から「離れ九曜」に紋を変更した。
     
  → 


 3. 刀の佩用
  ・外出する場合は大小二刀を指す。(
何が起るか分からないから。誰の目にも武士と分る。)
  ・大小の差し方は、小刀は前半に、大刀は大小が直角になるように左腰帯に指す。
  ・礼装は殿中指しの柄を前方に送り出し、水平に佩用。(
直ぐ抜きにくい。刃傷防止)
  ・武士は全員右利き。(
集団で行動するので、左利きでは統制を乱すから。)
  ・江戸期に入り刃渡り制限(2尺3寸5分:約71p以内)がされる。
   (
慶長の頃浪人が3尺近い刃渡りの刀で暴れ、手を焼いた幕府が制限。
    幕末には、勤皇の浪士も佐幕の壮士も、3尺の大刀や2尺近い小刀も。)
  ・下緒で腰帯に絡みつける。(
鞘ごと敵に奪われない。鞘の位置、角度を正しく保つ。)


 4. 外出の身嗜み(
武士としての外聞を保つ。)
  ・武士は袴を着用のうえ、大小を佩用する。
  ・着流しの場合は編笠などを用いる。そうでない場合は浪人とみなされる。
  ・武士は月代を当たり、髯を剃り、揉上げを剃る。


 5. 外出の心得
  ・武士は外出時に懐中無一文であってはならぬ。(大型の紙容れを懐中に)
  ・紙容れには懐紙と金銀小粒、用心に砥石片、治療の三菱針、刀身の脂を拭き取る小皮片。
  ・右腰の後ろに印籠(血留薬・内服薬)。火打ち道具、へその緒書き、矢立、白扇など持参。
  ・武士は通行中に紛争や騒動、人集りに遭遇した場合は、急いでその場から遠ざかる。
   (
事件に掛り合えば必ず家名と主君名が出て、主君に迷惑が掛る。)
  ・武士は外出先で大小を紛失したり、置き忘れたり、盗まれれば重い罪科に問われる。


 6. 外出の態度
  ・武士は非常(火事・地震・刃傷・戦闘・非常呼集)の場合以外は走ってはならない。
   (
侍が疾走すれば庶民も動揺するから。)
  ・武士は軒下や、空家などに入り雨宿りせず泰然と歩く。(刀の柄を袂や手拭で覆ってよい。)
  ・武士は公道以外の抜け道・露地・他家の庭や空地など近道でも歩いてはならない。
  ・武士は廊下・道路において左側通行。(
右側通行では鞘がぶつかり紛争の元。右側背後は
    抜き打ちの敵を斬り払えるが左側背後は死角となるので他人が近づくのを嫌った。
)
  ・武士は急いでいても大名行列の供先前を横切ってはならない。


 7. 歩き方
  ・右手に白扇を握って袴の右前に当てるか、袖口を軽く握ってぴんと伸ばして歩く。
  ・左手は佩刀を軽く押さえるか、左袂を外に反して、大刀の柄の上に乗せる。
  ・歩き始めは左足から、両手を前後に振らず、手と足が右右、左左と一緒に出る歩行。
   (
鎧や具足を着用し戦場では携帯品が多く、手を振って歩く習慣はなかった。)


 8. 武家と女性
  ・武士は女性同伴禁止。数歩後を歩いてもならぬ。女性と立話や口を利くことも禁止。
  ・
月代剃り、髪結いなど主人の身の回りの世話など家事は男が行った。
   (
武士の職務は合戦。戦場に女性を連れて行けないため日常生活でも中間や小者が行う。)
  ・武士は毎日月代を剃り、髷を結い直す。殆どの者は自分で行った。
  ・武士の妻は主人に着物を着せかけない。
  ・炊事、洗濯、掃除も男が行う。町家では女中の役目。
  ・上級旗本でも夫人の身の回りを世話する女中は4〜5人。


 9. 武士以外の歩き方
  ・隠居や大家は両手を後ろに回して握り合わせて歩く。
  ・浪人やヤクザは懐手。
  ・職人は弥蔵(右手を袖の中に入れ蛇が鎌首を擡げた形、左手は懐中か帯に手先を入れる)。
  ・百姓は胸の前で手を組み合わせ、背を屈めて歩く。
  ・商人は前掛けを両手で巻き、中に手を入れるか、前で握り合せて歩く。
  ・女性は袖口を握り前で両手を揃えて歩く。


 10. 他家の訪問
  ・玄関で「頼もう」と声を掛け、応対の家人に立礼し来訪の意を伝える。名札名刺もある。
  ・許可を待つ間に左手で大刀を鞘のまま抜き取り、右手に持ち替えて右側に提げて待つ。
  ・「刀は」と問い、家人が「お預かりします」と言えば、大小を預ける。
  ・家人の許可を得て式台際まで進み寄り、左回りに身体の向きを変え家人に背中を向ける。
  ・左足の履物を脱ぎ、後ろ向きのまま左足を後方に上げて式台に降ろす。次に右足。
  ・左回転して応対の家人と正面する。脱いだ草履や下駄は爪先が玄関外へ向く。
   (
その屋敷で異変が突発して脱出する場合、そのままの方向で出ることが出来る。)


 11. 坐り方
  ・脇差は帯びたまま、大刀は右手に提げて座敷に通る。
  ・家人の許可があれば直立の姿勢から両膝を折り、左膝右膝と付け、足爪先は重ねず左右揃えて
   正坐、肩、胸、腹とゆっくりと垂直に保ち、右手の大刀は鍔が膝頭右側にぴったりと接するように
   (後方から鞘尻を掴まれてもぴったり付けた鍔のかすかな動きで危険を察知、その瞬間、右膝を
   浮かし、刀鍔を右膝頭下に置き、力を込めて床に押さえつける。鞘を後方に引かれたならば、
   鞘が敵の手に渡っても刀身は抜身で残される。)
   (
鞘中の刀身刃先が自分の方向に置くことは相手に害意の無いことを示す礼儀)




                                                                         2011.5.19
                               第34回 「町屋の町」から商都高崎へ

1. 城下の構成
  江戸期の城下は
郭内専士型が多く、郭の中は一部大商人を除き武家が殆どで街道を城下の
  外側に通して町の繁栄を図り町屋は城下の外。 高崎は武家も町家も混在した
総郛型であり、
  城下が町屋を中心に活動できた。 明治以降、城下町から都市への移行は街道沿いの細長い
  商家街の郭内専士型より町屋が塊の高崎の方が円滑。 
中山道往還通りの町は地子免除で
  多数の商家が進出した。



2. 商都高崎への政策
 (1) 地子免除
  高崎惣町の
連雀町と三伝馬町(本・田・あら) 伝馬役のため地子(屋敷地税金)免除→商売繁盛に
  
九蔵町の地子免除は酒井氏時代の北爪九蔵の活躍に伴う特例   【町名の由来はこちら】

 (2) 市の開催
  
井伊直政が金井宿、馬上宿を本町へ移転。六斎市が実施されていた。3と8の日。
  
安藤重博田町新町にも市日を制定。田町は5と10の日。新町は2と7の日。
  全国で六斎市は開催されるが、1,500mほどの間で2日に1度以上の割合での開催は稀。
  田町に絹市場を開催。一丁目は10と25、二丁目は15と晦日、三丁目は5と20の日。
  田町は、5と10の日に六斎市と絹市が開催、「当国第一の繁栄の大市なり」


3. 宿場町と在郷町的な両機能を有する複合まち
 (1) 往還通り(中山道)沿いの店舗
       

  ア.宿場関連
  旅籠は本町36軒、新町6軒。大街道の宿場としては比較的少ない。田町は商業中心のまちに。
  天保2年(1831)に本町14軒(内7軒休業)新町8軒と約130年でほぼ半減。 衰退ではなく
  小規模民宿から本格的な旅籠に脱皮。 最大規模の旅籠は敷地102坪(間口6間・奥行17間)で
  客間が6間42畳、最小規模は18坪の1間8畳。 推定合計収容人員は243人。 腰掛茶屋は
  城下入口の
赤坂町南町に集中。 18世紀開設の四ツ屋町相生町も三国街道の出入口に
  つき腰掛茶屋が多い。茶店は旅人と城下の庶民相手の飲食店が倍増。


  イ.町屋関連
   武家や商人・職人に対する生活必需品を供給する店舗が全体の7割。 田町と本町が商業の
  中心で業種・軒数共に多いが、田町は衣類関係、本町は荒物関係が目立つ。
   同じ伝馬でも新町は宿場に関連した食料品関連が中心で衣類関連がない。 旅籠中心で大店の
  業種がないので経済的に苦しい。 惣町・
連雀町は城下町形成期から地子免除の特権が与えられた。
  材木商が3軒集中し、紙屋2軒を独占。 連雀町以外は城下での紙問屋の営業は禁じられた。

  (2) 往還通り裏

   
   紺屋町・鞘町桧物町鍛冶町は、名前の通り職人が多い。商店は食品など日用品関連が主。
  
ラ・メーゾンの通り、煙草商が出店「煙草横町」、中紺屋町は古着屋が並び「古着横町」。
  新町の後背地は桧物町・鍛冶町と少なく、職人と数少ない商店。田町に比べ経済力が弱い。


4. 交通の要衝による町屋の発展
  (1) 問屋化により繁栄
    城下の町人だけでなく、高崎藩領の村々から六斎市日を中心に来る買物客。
   西北毛地方の在方商人を相手に卸売問屋化。専門性を持ちながら、日用雑貨的商品は多くの店で。
   高崎城下を中心に城下の商店が営業方面・地域を分担(例:狭山出身の茶舗)。
   西上州中心に生産の生絹(きぎぬ)や太織は、商品経済進展と共に商人や上層農民にまで需要が拡大。
   城下呉服問屋が「絹買宿」や「金融業」。販売だけでなく生産地との仲介へ拡大。


  (2) 他国からの進出商人
   近江商人は上方の手工業製品を持ち下り、返り荷として関東の特産物を上らせ、隔地間の市場価格差
   による利潤を取る。17世紀末頃から近江商人の上州進出が目立つ「上州持ち下り商人」の異名。
   やがて「上州店」を構え、其の後高崎に活動拠点。「近江屋」「十一屋」の名前が多い。
   他国からの進出商人、明治初期、越中と越後15戸。下野5戸、信濃4戸など。遠方は伊勢2戸。
   *近江商人 「近江泥棒」(がめつい)
    ・高島屋・大丸・西武・伊藤忠・丸紅・東洋紡・東レ・日本生命・ワコール・西川産業・武田薬品
   *伊勢商人 「伊勢乞食」(出納にうるさい)
   「江戸名物は、伊勢屋、稲荷に犬のふん」(多い事を揶揄) 越後屋三井・国分・にんべん


5. 秤役所の設置に見られる繁栄
  私製秤や勝手修理の横行→流通市場を混乱。慶長年間以来
秤座が設置。江戸守随家と京都神家。
  二ヶ所だけでは全国の秤需要満たせず、出張所を開設。
  守随家分家による地方秤座の開設は名古屋と高崎のみ。高崎は、四代目守随彦太郎の三男彦三郎が、
  元禄12年(1699)に開座。高崎繁昌の証。(
彦三郎の墓は大信寺に、名古屋守随家は続いている。)