勉強会概要2

   


                                                  2018.11.15

             第79回勉強会 高崎藩の職制

1. 江戸時代初めまでの職制

  各大名の組織は戦国時代までの備(軍隊編成)が踏襲され始まる。
 先鋒の主な役名
  陣将隊 陣将、組頭、組士、与力、物頭、小頭、足軽
      旗奉行、旗差配与力、差配、旗持、旗助手、幌役、使番、目付、用所役人
      医師、徒士目付、金鼓役、黒鍬
   番頭隊 隊長、組頭、与力支配、組士、与力、物頭、小頭、足軽
           幌役、目付、医師、黒鍬
 中軍の主な役名
   近習頭、小姓役、供番、大組与力、大組物頭、大組足軽
   持筒頭、持弓頭)、持差配与力、持弓銃足軽、徒士頭、徒士、長柄頭、長柄之者
   奏者番、使番、目付、徒士目付、甲賀之者、側医師、医師、納戸役、祐筆、茶道坊主
   厩別当、馬医下乗供、厩之者小頭、軍事奉行、与力、軍事奉行添役
   大銃打手、幌役、大銃打手助手
 輜重(しちょう)隊の主な役名…軍需品手配輸送
   小荷駄奉行、廻米役、兵糧方、普請奉行、武具奉行、普請方役人、武具役人



2. 外様藩の組織と譜代藩の職制
 薩摩・長州・仙台など中世から続いた一族連合体の体制の藩は、それぞれの家の独特な藩制が
 維持された。 織豊時代の家臣から関ケ原の戦いを経て大大名になった福岡・広島・徳島藩など
 も独自の職制を敷いている。
 譜代藩は藩の規模により役職の数に差があるが基本的に幕府の職制を下敷きにしている。



3. 譜代藩の基本的職制
  


4. 高崎藩大河内松平家の職制
  藩の規模や年代によって役職は改廃され、軍事体制の職名が平時になっても用いられた。
  また、一つの職に上席、席、格を設け格差をつけた。
 (1) 基本的な上位の役職
  ア.家老  役職名ではないが国元と江戸詰があり、月番制
        藩によって執政や参政の呼称がある 幕府では老中に相当する
  イ.城代  設置されなかった時期も多い
        幕府では大坂・駿府・伏見・京には藩主を置かず城代が置かれた
        大坂は譜代大名、他は老中支配の大身旗本が務めた
        家老職の筆頭を城代家老と呼ぶ藩もあった
  ウ.年寄  幕府や諸藩によっては家老などの総称だが、高崎藩では独立した役職
        *以上を高崎藩では老職と呼ぶ
  エ.番頭  戦時は備の指揮官 平時は警備部門の最高責任者
      幕府では大番の指揮官を大番頭…幕府軍の一番先手の備え
      騎馬隊指揮官(侍大将) 小姓組番頭 書院番頭
      侍頭、組頭と呼ばれる場合もある

 (2) 平時の役職
  ア.側用人 家政を総攬する責任者 諸藩では役目が異なる
        江戸幕府では将軍の側近 命令を老中らに伝える役目
  イ.奏者役 藩主への取次
        大名や旗本が将軍に拝謁する際、在国の大名が献上品を使者に持たせて江戸城に
        派遣した場合、その氏名と献上品内容を確認し、将軍に報告する
        軍が下賜する場合はその伝達
        大名の転封などの重大な決定や大名家の不幸に際し上使として派遣される
        将軍の前で元服を行う大名の世子に礼儀作法を指導する
        20〜30名 4名は寺社奉行を兼任 出世の登竜門
  ウ.小姓頭 藩主の側近である小姓や小納戸を統括する 用人との兼務も
  エ.用人  主君の用向きを家中に伝達し庶務を司る
        公用人 藩主が幕府の老中や側用人など要職にあるときに、参勤交代が行われなく
        なり藩は江戸在府となり、城使及び江戸留守居役は対幕府・諸藩等との外交専門の
        用人である公用人になる
        藩主が京都所司代に就任した場合は京都に赴任する
        藩主が致仕すると元の職名に戻る
  オ.留守居 物頭級の有能な家臣から選ばれ、江戸藩邸において幕閣の動静把握、幕府から
        示される様々な法令の入手や解釈、幕府に提出する上書の作成を行った
        前例に従って落ち度のないことが第一と考えられ、それに資する先例を情報収集
        交換する。幕府公認の留守居組合を作っていた諸藩の外交官
        家老・用人・側用人が兼務する藩あり
  カ.町奉行 藩が町方として指定した地域・城下を管轄する
        宿場町など町方に指定されない地域は郡奉行の管轄
        警察と裁判所 広い範囲の行政も担当 町方の人別改め 防災
        幕府では江戸町奉行、大坂町奉行
  キ.郡奉行 1郡に1人 郷目付、代官・手代などの部下を配して年貢の収納、訴訟、農民の統制
        宗門改め、幕府では勘定奉行の支配下
  ク.小納戸 本丸御殿の雑用係
        幕府では江戸城本丸御殿中奥で将軍に勤仕、日常の細務に従事する
        若年寄の下で御目見以上 旗本や譜代大名の子弟
        御膳番、奥之番、肝煎、御髪月代、御庭方、御鷹方、毒味、洗顔・歯磨き準備
    納戸  大名や旗本が献上した物(収蔵買入) 将軍が下賜する物(下贈品)
        中奥番士の役の用度係
  ケ.小姓  奥向きの雑用に携わる奥小姓
        主君の外出の際に騎馬で随従する騎馬小姓(小姓組)、徒歩で随従する歩行小姓
        (中小姓)に区分される場合もある
        元服前に近侍する若年の小姓を小小姓

 (3) 戦時の役職が平時に
  ア.旗奉行 旗指物の管理 幕府では老中の支配 布衣2000石
  イ.鑓奉行 持組の鎗隊長 幕府では老中の支配 布衣2000石
  ウ.持筒頭 持組の鉄砲隊長 平時は城内中仕切門を警固
        幕府では持筒与力と同心を率いて将軍を護衛1500石
  エ.持弓頭 持組の弓隊長 与力10人 同心50人
  オ.物頭  鉄砲組、弓組などを統率する長
  カ.長柄奉行 柄の長い鑓組の隊長
  キ.使番  戦場において伝令や監察 敵軍への使者
        江戸幕府では若年寄支配化 役料500石 役高1000石
        二条城・大坂城・駿府城・甲府城などの幕府役人の監督
        大名火消・定火消の監督
  ク.目付  馬廻格の藩士より有能な人物が登用された
        足軽や徒士の戦果及び勤務を監察する
        江戸幕府では旗本や御家人の監察 政務全般を監察 徒目付・十人目付
        若年寄の管轄 店員10名 役高1000石
    大目付 幕府老中の下、大名や高家及び朝廷を監視 1632年発足
        万石級の禄高と〇〇守の官位叙任
  ケ.馬廻  戦時では戦場における大将の親衛隊 家格の呼称に
        大名の側近として日常の警備や事務の取扱など吏僚的な職務を果たす
        家老から直接統率を受ける家格以上を馬上資格 給人以上を馬上資格
        幕府では両番(書院番・小姓組番)
  コ.中小姓 足軽と侍の中間に位置する下級武士の呼称
        身分的には侍の最下層に属す
        幕府体制においては徒歩で将軍に従う徒士小姓組の主だった者




                                                  2018.9.20
         
    第78回勉強会 北下総・北武蔵の城砦

1. 関東の支配者が鎌倉府から古河公方へ

 室町時代の関東地方は鎌倉幕府を滅ぼした足利氏の勢力下に入り、東上野・北武蔵・北下総・
 下野南部そして常陸南部の利根川水系流域では、豪族たちが水運を活かした経済圏と河川や湖沼を
 防衛に活かした砦や城を築いて支配していた。

 (1) 足利氏の系譜
   足利氏の本姓は源氏であり、清和天皇の皇子貞純親王の子である経基が独立し源の姓を賜った。
  清和源氏一族は孫の満仲から頼光の摂津源氏と頼信の河内源氏に分かれ、頼信・頼義・義家・義親
  為義・義朝と続き頼朝が鎌倉幕府を起こした。 義親の次男義国から義重の新田氏と義康の足利氏
  分かれる。 足利氏は以降、義兼・義氏・泰氏・頼氏・家時・貞氏と続き室町幕府を建てた尊氏となる。
  足利幕府は初代尊氏・2代義詮・3義満・4義持・5義量・6代義教・7代義勝
  鎌倉公方は初代基氏・2代氏満・3代満兼・4代持氏・5代成氏
  古河公方は初代成氏・2代高基・3代晴氏

 (2) 古河公方
   京を本拠とした室町幕府は鎌倉幕府の中心地関東地方を分国統治するため鎌倉府を創設。
  初代鎌倉公方に室町幕府初代将軍足利尊氏の次男基氏を充て、関東管領と諸国の守護らが
  その補佐役となった。 
   第4代鎌倉公方の足利持氏は室町幕府5代将軍義量夭逝後に前将軍足利義持が病床で
  弟4人(青蓮院義円・相国寺永隆・大覚寺義昭・堀井義承)のくじ引きで青蓮院義円を還俗させ
  6代将軍にしたことに不満に持ち「永享の乱」に。 持氏は6代将軍義教及び関東管領上杉憲実に
  討たれ鎌倉府は滅亡するも、関東の豪族らは持氏の遺児成氏を第5代公方として鎌倉府を再興へ
   これが原因で諸豪族と関東管領山内上杉家・扇谷上杉家が緊張関係となり、享徳3(1454)年
  成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺し「享徳の乱」が勃発。 室町幕府は成氏を討伐し鎌倉を制圧
  したが、成氏は古河へ移り古河公方になる

 (3) 古河へ移座の背景
   足利成氏が鎌倉から古河へ移った背景にはいくつかの基盤が整っていた
    @防衛基盤→ 利根川・渡良瀬川が武蔵国西部を基盤とする上杉氏に対する天然の要害
    A軍事基盤→ 下野の宇都宮・那須・小山氏、下総の結城・千葉氏、常陸の佐竹・小田氏ら
              豪族の結束点であった。
    B経済基盤→ 鎌倉公方の御料所のひとつである下河辺荘の拠点
  水海・関宿・古河・栗橋の各地を地盤とする下河辺荘の経営は足利家の家臣簗田氏と野田氏
  古河公方の勢力下は利根川・渡良瀬川の東側の下野国・下総国・常陸国大半・上総国。
  上杉氏の勢力下は上野・武蔵両国の大半と相模国・伊豆国で、上野国東部・武蔵国北東部・
  常陸国南部は係争の地域となった。

 (4) 下河辺荘
  下総国葛飾郡(千葉県北西部から埼玉県東部)にある荘園
  現在の市町村では、
( )内は平成の合併前の町村
   茨城県古河市(総和町・三和町)・境町・五霞町・坂東市(猿島町)
   千葉県野田市(旧野田市・関宿町)・流山市
   埼玉県加須市(北川辺町・大利根町)・久喜市(栗橋町・鷲宮町)・幸手市・杉戸町・
   春日部市(庄和町)・越谷市・松伏町・吉川市・三郷市
  古利根川・荒川・渡良瀬川・古墨田川が流れる関東平野の沖積低地で河川利用による水運が発達。
  鎌倉期辺りから河川の氾濫による自然堤防上に人工堤防が形成され集落と耕地を形成。
  開発領主 下河辺行義は藤原秀郷の子孫で下野国小山氏の一門 源頼政を介して鳥羽法皇
  一族へ寄進し領主に。 頼政の敗死後に頼政の首を持ち帰り立崎に葬ったと伝えられる。
  行義の子の行平が源頼朝の信頼を受け、引続き下河辺荘の荘司職が安堵される。
  古河公方となった足利成氏は室町幕府・関東管領と対立したが、和睦成立後も下河辺荘に拠点



2. 地域の主な城
 (1) 古河城…古河市
   築城は平安時代末期あるいは鎌倉時代初期といわれる下河辺行平が渡良瀬川と東側に広がる
  沼地に挟まれた半島状の台地・立崎(竜崎)に築いた。
  第5代鎌倉公方足利成氏が享徳の乱で鎌倉を追われ、古河の鴻巣に古河公方館を設けた。
   その後、整備して移動したのが古河城で戦国時代の関東の中心に
  この時代の城域は近世古河城本丸付近と推定され、古河公方館と舟で往来可能な広大な水城
  永禄年間(1558-1570)には、上杉謙信と北条氏康が公方擁立を争い当城の争奪戦に、
  後北条氏の関東支配の時代になると古河城は管理下に
   江戸時代になると幕府要職者の居城となり日光街道の宿場町であると同時に徳川将軍の日光
  社参の宿城で、近世の城域は東西約450m〜550m、南北約1800m 関東有数の規模
  西側は渡良瀬川に接し残り三方は水堀で、東南から南側は通行困難なほどの沼地。
  土塁に囲まれた複数の曲輪が直線状に配置された連郭式
  北から観音寺曲輪・桜町曲輪・三の丸・二の丸・本丸・頼政曲輪・立崎曲輪
  観音寺曲輪北側に追手門、桜町曲輪東側に御成門、両曲輪辺りは武家屋敷 二の丸に藩主御殿

  江戸時代の主要閣僚の居城
   1590〜1601   2年間 小笠原氏1代   3万石→  信濃飯田藩5万石
   1602〜1612  10年間 戸田松平氏1代  2万石→  常陸笠間藩3万石
   1612〜1619   7年間 小笠原氏2代   2万石→  下総関宿藩2.3万石
   1619〜1622   3年間 奥平松平氏1代  11万石→  下野宇都宮藩11万石
   1622〜1633  11年間 永井氏2代    7.2万石→  山城淀藩10万石
   1633〜1681  48年間 前期土井氏5代  16万石→  志摩鳥羽藩7万石
   1681〜1685   4年間 堀田氏2代    13万石→  出羽山形藩10万石
   1685〜1693   8年間 藤井松平氏2代  9万石→  改易 復活して出羽上山藩3万石
   1694〜1712  18年間 大河内松平氏2代 7万石→  三河吉田藩7万石
   1712〜1759  47年間 本多氏2代    5万石→  石見浜田藩5万石
   1759〜1762   3年間 松井松平氏1代  5万石→  三河岡崎藩5万石
   1762〜1868 106年間 後期土井氏7代  7万石
   大老…土井利勝・堀田正俊
   老中…永井尚政・松平信之・本多忠良・土居利厚と利位・松平(松井)康福

 (2) 栗崎城…茨城県猿島郡五霞町元栗橋
   古河公方の重臣野田氏の城であったが、足利成氏の古河城移座に伴い成氏の居城に
  永禄年間に後北条氏により城が接収され、野田氏は北条氏の傘下に入る。
  秀吉の小田原征伐後、徳川家康家臣小笠原秀政が古河藩に入封、古河城修復し当城廃城
  旧利根川・渡良瀬川に接し、鎌倉街道中道と接続する水陸交通の要衝
  常陸川水系は現在の利根川下流域・霞ヶ浦・北浦・太平洋に
  旧利根川・渡良瀬川水系はは現在の東京湾に
  五霞町元栗橋と久喜市栗橋にまたがり、権現堂川で二分されていた説と東側のみの説あり
  権現堂川に沿って東西300m、南北500mの広さ
  1〜4の曲輪が外側を囲み、5〜11が内曲輪、6、7、9、10の曲輪が中枢部

 (3) 水海城…古河市
   鎌倉公方の家臣簗田氏が下野国梁田御厨から下河辺荘に移住して居城に
  享徳4年(1455)足利成氏が古河に移住し古河公方と呼ばれると関宿・水海を支配
  享徳の乱の最中に関宿城を築いて関宿に進出?し、本家が関宿、分家が水海を支配
  後北条氏に敗れてその麾下になり、小田原征伐では浅野長吉の軍勢に開城
  簗田氏の進出以前から利根川の港津を中心とした町が形成されていた
   ア.旧水海城
    古河城から南に約約8q、関宿城・栗橋城からは約4q、半島状の微高地上の先端に
   位置東側を深谷沼、南側を南水海沼(現利根川)などに囲まれ
   南から「御城」「内城」「蔵屋」の3曲輪が南北に370m連なる蓮格式の城
   イ.新水海城
    旧水海城から北に約1qの地に位置(現古河市立水海小学校の南東付近)
   1、2、3曲輪からなり、1曲輪は50〜70m四方で空堀幅は10m
   永禄から天正期の構築と推定される


 (4) 関宿城…旧関宿町
   関宿地区は利根川水系等の要地にあり、関東の水運を抑える拠点
    長禄元年(1457)に古河公方の家臣簗田成助が築城?
    永禄元年(1558)に古河公方足利義氏が簗田晴助と古河城を交換し入城
   戦国時代末期には北条と上杉の間で争奪戦が繰り広げられた(関宿合戦)
   上杉・佐竹の援助を受けた簗田晴助⇔北条氏康・氏政
   北条方の勝利により北条氏の北関東進出の拠点となる江戸時代は譜代大名の居城
    1590〜1616 久松松平氏2代 2万石→  美濃大垣5万石
    1617〜1619 能見松平氏1代 2.6万石→  駿河横須賀6万石
    1619〜1640 小笠原氏2代 2.3万石→  美濃高須2.2万石
    1640〜1644  北条氏1代 2万石→  駿河田中2.5万石
    1644〜1656 牧野氏2代 1.7万石→  京都所司代
    1656〜1669 板倉氏2代 5万石→  伊勢亀山5万石
    1669〜1683 久世氏2代 5万石→  備中庭瀬5万石
    1683〜1705 牧野2代 5.3万石→  三河吉田7.3万石
    1705〜1868 久世氏8代 5万石
   牧野成貞は五代将軍綱吉の側用人 久世氏から広之と広周が老中
    1671年 江戸城富士見櫓を模し御三階櫓を建築
    1742年 利根川上流で堤防破壊 関宿城下に甚大な被害 城郭大破
   平成7年(1995) 模擬櫓(千葉県立関宿城博物館)は河川改修等で無関係な場所に建築
   


 (5) 逆井城…茨城県猿島郡猿島町(現坂東市)
   北側を西仁連川と南北30qに広がる飯沼(江戸時代の干拓で外周部掘削)で防御。
  飯沼の歪曲部の台地の先端に築城、北に本丸、南に曲輪が広がり大軍の収容が可能で
  享徳年間に小山義政の五男常宗が逆井氏を名乗り居城とした。
   天文5年(1536)常宗の孫の常繁が古河公方の臣下として後北条氏と対立する。
  逆井氏が敗北落城後、後北条氏の勢力下となり北条氏の忍者集団・風魔一族が拠点に
  したといわれる。 小田原征伐により廃城、再建構築物として櫓門・井楼矢倉・主殿・土塀・木橋
  や移築された関宿城門がある。
   


 (6) 忍城…行田市
   北を利根川、南を荒川に挟まれた扇状地に点在する沼地と自然堤防が防衛施設
  15世紀後期に成田氏が扇谷上杉に属す忍一族を滅ぼし築城。
  1559年上杉謙信の関東遠征に成田氏は恭順し、謙信の小田原城攻めに城主成田氏長が参加。
  1574年謙信の関東管領就任に伴い離反したため、忍城を包囲し城下に放火。
  秀吉の小田原征伐に伴う攻防戦で城主成田氏長は小田原城に籠城したため、氏長の叔父泰季を
  城代として約500人の侍・足軽と約1000人の雑兵・農民・町人が籠城。豊臣方の忍城攻めの
  総大将は石田三成、大谷吉継・真田昌幸も加わっていた。
   三成は延長28qに及ぶ石田堤を築き水攻めもこれに耐え抜いた浮き城として有名。
  小田原落城により開城し江戸時代は忍藩の居城。 家康が関東入封で四男松平忠吉を10万石で
  配すも11歳につき松平深溝家忠1万石で補佐。 忠吉は関ケ原の戦い後に尾張52万石に、幕府代官
  伊奈忠次・大河内久綱が管理。 1632年に松平(大河内)信綱が3万石で入封、川越6万石へ
  転封すると阿部忠秋が5万石。阿部氏は初代忠秋・2代正能(10万石)・3代正武・4代正喬・
  5代正允が老中就任。 文政6年(1823)の三方替えで正権が白河藩へ、白河藩松平(久松)
  定永が桑名藩へ、桑名藩松平(奥平)忠堯が忍藩へ
   松平定永の父定信が隠居の身で久松松平の本拠に戻りたく仕掛けた。 阿部正権は3歳で襲封し
  病弱・藩政混乱で左遷的に動かしやすかった。
   




                                                  2018.7.19
         
    第77回勉強会 明治時代以降の大河内家

 大名大河内松平家では廃藩置県で大名・知藩事の地位を失ったが、明治時代に入っても立派な
 人物を輩出している。


1. 大河内 輝聲(1848〜1882)
 (1) 経歴
   嘉永元年に高崎大河内家9代藩主輝聴の長男として生誕。母は下総国佐倉藩主堀田正睦の娘。
  1860年父の逝去により13歳で襲封し、はじめは輝照(てるあき)と名乗った。 14歳、麻布善福寺
  に置かれた米国公使館の警固、皇女和宮降嫁の中山道警備役を仰せ付かった。 16歳、品川第三
  御台場の守衛を命じられる。
   翌年には水戸藩の内紛から発生した「常陸浮浪の徒」の追討軍の一員として、家臣が常陸那珂湊
  での戦に出陣。また、その一群である「水戸天狗党」の上京を阻止し捕縛せよとの幕府命令により
  出陣し、いわゆる「
下仁田戦争」で36人の戦死者が出た。
     (下仁田戦争については、こちらを参照願います。 第53回勉強会 下仁田戦争と慰霊木像について)
   幕末の幕府体制は落ち着かず、1865年18歳で陸軍奉行並。翌年甲府城代に任じられる。
  1867年20歳で奏者番に就くが大政奉還となり1868年進軍して来た東山道総督軍に恭順。
  小栗上野介の追補を命じられた。

 (2) 維新前後の輝聲
   朝廷から全大名に上京命令が出され、当所は徳川家の臣下として諸大名に先駆け上京辞退を老中に
  届け出、多くの譜代大名に影響を及ぼした。 しかし、家老らが反対すると翌日には高崎へ戻り判断
  態度に苦労している姿が見える。 1869年の版籍奉還で知藩事に任命され廃藩置県で知藩事を解任
  された。 高崎藩校「文武館」を再建、「高崎英学校」を全国の英語学校に先駆けて開設している。

 (3) 変人・風流人
   英学校を開設したと同時に「大学南校(東京大学の前身)」で英語を学び、「散髪廃刀令」の布告に
  率先して髷を切り、家臣の髷を追い回して切るなど時代を先取りする姿勢を示すと同時に、当時の
  武士としては変わっている。 東京墨田川畔の今戸「桂林荘」にて自由な生活に入り、同荘2階の
  1室の椅子や調度品は全て中国製で中国文化に傾倒している。

 (4) 筆談集『大河内文書』
   輝聲は侍講らの影響から一番好きなのは漢詩文、漢詩文を作るには中国人と付き合うことが一番の
  早道と考え、輝聲と家臣及び学者らが清国駐日公使何如璋及び随員らと漢文で筆談を行った。
   筆談を記した紙を製本し八種の筆話集にまとめられた物は総称して『大河内文書』と呼ばれる。
  明治10年(1877)の筆話集は干支の丁丑から『丁丑筆話』と名付けられた。 筆談者は日中韓の
  外交官・文化人が合計132人(日本69人、中国58人、韓国5人)。 筆談回数は667回、筆談内容は
  政治から日常生活まで硬軟取り混ぜ非常に広範囲に及ぶ。 明治前期の日中韓の文化交流を研究
  するに有用で非常に珍しい貴重な史料となっている。
   公使の何如璋は科挙の一つ進士で、その中でも第一位が撰ばれる翰林院に入った優秀な官僚で
  明治10年に初代駐日公使となり3年間在職。 琉球帰属を寺島宗則外務卿と激しい交渉、高名な
  文人でもあり私的交流を望む文人墨客の訪問が絶えなかった。
   主な登場人物は日本側は内村宜之(家臣、漢学者、キリスト教思想家内村鑑三の父)、関義臣
  (旧福井藩士、海援隊、貴族院議員)、青山延寿(旧水戸藩士、儒学者)、石川鴻斎(漢詩文家、画家)、
  依田学海(旧佐倉藩士、漢学者、演劇評論家)
   清国側は張斯桂(駐日副公使)、王治本(号?園)・王仁乾(号タ斎)・王藩青(号琴仙)、沈梅史・
  廖枢仙(公使随員)、黄遵憲(駐日参事官 号公度)、何定求(公使の弟)

 (5) 落語の神様圓朝との交わり
   落語家三遊亭圓朝との逸話に、圓朝は芸を誉められ羽織を与えられた。 鏑木清方画の圓朝像
  (第11回帝展出展・重文)は三つ扇の紋のある羽織を着ている。 大河内家高崎藩士の江戸菩提寺
  是照院の住職玄昌が円朝の義兄にあたり、是照院の寺紋が
三つ扇


 2. 大河内 輝剛(1855〜1909)
 (1) 経歴
   安政元年、輝聴の次男として生まれた。 1871年17歳で藩士宮部譲らが知藩事輝聲(当時23歳)
  を引退させ輝剛の擁立を図り、脱藩し鹿児島へ行こうとしたが江戸で藩士に捕えられ高崎へ護送
  され威徳寺に幽閉された。 19歳で慶応義塾に入りそののち塾監教師となる。
  32歳で広島師範学校校長に任命される。 38歳で日本郵船会社に勤務し大本営の御用担当。
  1896年42歳で英・独などを視察。 1902年48歳で衆議院議員に当選。 この時元藩士の帝国党
  宮部襄(55歳)と争ったため旧藩士が二分される。 翌年2回目の当選、この時も宮部襄及び
  高崎城下元町年寄関根作三郎と三つ巴、翌年の三回目の対決では宮部に敗れる。
  1906年52歳で歌舞伎座社長となるが在任中1909年に死去。

 (2) 歌舞伎座社長
   歌舞伎座が1889年に開設し1896年に株式会社組織になる。 団菊左(九代目市川團十郎・
  五代目尾上菊五郎・初代市川左団次)による歌舞伎黄金時代になったが、1903年に団菊、
  翌年に左が没すると興行に陰り役員が手を引く。 輝剛が社長に迎えられ立て直しを図った。


 
3. 大河内 輝耕(1880〜1955)
 (1) 経歴
   明治13年に輝聲の嫡男として生誕。2歳で父が亡くなり4歳で子爵に叙爵。 学習院から
  東京帝国大学法科大学へ進み卒業。 高等文官試験に合格し大蔵省入省。 主計局大蔵
  書記官主計課長・大蔵参事官・専売局理事・東京地方専売局長等を歴任。
   1924(大正13)年の子爵補欠選挙で貴族院議員に当選。 昭和22年貴族院廃止まで議員。
  夫人は徳川慶喜の八女国子。

 (2) 貴族院議員としての輝耕
   貴族院は皇族議員・公候爵議員・伯子男爵議員・勅選議員・多額納税者で構成される。
  政党はなく国家的見地から議論ができ、時には政府や軍の方針に批判的であった。
  輝耕の徹底した調査で鋭く切り込む質問に歴代政権は大いに苦しめられた。 リベラリストと
  して左右両翼にわたって急進性を持っていた。 昭和18年2月本会議で翼賛選挙の実態について
  政府の姿勢を質す。 東郷首相に対し正面切って批判する反骨精神で臨んでいた。 東条の
  「総選挙をちっぽけな問題」と言い放ち、翼賛候補への資金援助と非推薦候補への官憲弾圧を
  正当化する姿勢を批判。 東京大空襲で多くの人が逃げ遅れた際の国会答弁では「人尊きか、
  物尊きか」と政府に迫る。 「火は消さなくてもよいから逃げる」ことを徹底させるよう内務大臣に
  要請したが、内務大臣は「初めから逃げてしまうのはどうかと思う」と避難対策を認めず。

 (3) 華族制度の廃止
   家族制度の存廃についてGHQから具体的提示はなかったが、天皇を取り巻く特権集団として
  華族を利用する方針に傾いていた。 これに対し廃止を主張したのは日本側で、貴族院議員
  輝耕の廃止の考えは日本国憲法審議の中で「華族というような社会上の厄介者を廃してしまう
  ことは良い事」「大局的見地から明治憲法と決別の私情を振り切り、新憲法に光明を求めなければ
  ならない」と発言し聴くものの涙を誘った。



 4. 大河内 正質(1844〜1901)
   弘化元年、越前鯖江藩主間部詮勝の五男に生誕。 大多喜藩主正和の養子となる。 父親の詮勝は
  老中首座、次男は吉田藩主信璋の養子に入った信古。 1864年に奏者番、1866年に若年寄、1867年に
  老中格へと栄進し将軍慶喜の下で幕府軍の指揮を統括。 1868年に天皇への正月祝儀の先遣隊を率い
  鳥羽伏見で薩長軍と対立し鳥羽伏見の戦いとなる。 この責任から正質を閉塞処分、新政府が朝敵
  として大多喜藩領は没収されたが嘆願により安堵復官。 版籍奉還により大多喜藩知事となる。
   1872年御練兵御用掛、陸軍少佐、近衛集成隊長、明治天皇の乗馬教授。 貧乏貴族救済のため
  正敏が実兄の吉田家信古の嫡男信好の養子に入り娘ミツ子が兵庫県伊丹の小西酒造(「白雪」)に
  嫁いで、経済援助を受ける。


 
5. 大河内 正敏(1878〜1952)
 (1) 経歴
   旧大多喜藩主大河内正質の嫡男から旧吉田藩主大河内信古の後継信好の養子となる。 明治36年に
  東京大学造兵科を卒業しドイツ・オーストリアに留学する。 明治44年、東京大学工学部造兵科教授に。
   大正3年貴族院議員になったが、大正7年理化学研究所の研究員となり大正10年理化学研究所三代目
  に就任。 昭和2年の理研は発明・発見の特許159件、研究成果を工業化するため理化学興業を設立。
   昭和15年に理研重工業など60数件社の理研コンツェルンを形成する。 昭和20年戦犯容疑者として
  巣鴨拘置所に収監されたが翌年釈放、公職追放により所長を辞任。 コンツェルンも解体される。
   昭和27年に大河内記念会設立、大河内記念賞制定。

 (2) 理化学研究所
   渋沢栄一を設立者総代として皇室・政府からの補助金と民間の寄付金を集め、1915(大正4)年に
  帝国議会で決議され1917年に創設される。 物理学・工学・生物学・医科学など基礎研究から応用研究
  まで行う国内唯一の自然科学系総合研究所。 戦前は15大財閥の一つ理研コンツェルンはGHQにて
  解体された。
 
 (3) 理化学研究所の所長
   理研は発足当時から資金難で危機を打開するため正敏が選ばれ三代目の所長になる。 現状を
  打開するため当時としては画期的な研究員制度を導入したため主任研究員が研究室の実質経営者で
  研究テーマ・予算・人事など運営全般が任された。 このため全国から優秀な人材が集まり
  「科学者たちの自由な楽園」と呼ばれ、長岡半太郎(土星型原子モデルの提唱者)、鈴木梅太郎
  (ビタミンの発見、文化勲章受章)、本多光太郎(日本人初のノーベル物理学賞候補者、文化勲章受章)
  湯川秀樹(ノーベル物理学賞受賞、文化勲章受章)、朝永振一郎(ノーベル物理学賞受賞)、寺田寅彦
  (「天災は忘れた頃にやってくる」で知られる)等を輩出。

 (4) 理研コンツェルンを設立
   研究所の経営圧迫を打開するため研究所から生み出された発明発見を工業化、それにより得られた
  利益の一部を還元する「科学主義工業」。 理研マグネシュウム・理研ピストリング・理研特殊鉄鋼
  理研電線・理研コランダム・理研感光紙・理研計器・理研ゴムなどが起業された。

 (5) 高崎と理研
   
山田昌吉高崎商工会議所会頭は久保田宗太郎高崎市長に協力を求め、東三条通りへ工場誘致を計画。
  旧藩主大河内家に所縁の大河内正敏が主宰する理研コンツェルンの軍需産業に白羽の矢を立て、
  昭和13年から、理研製機・理研電磁器・理研水力機械・理研合成樹脂・理研空気機械等を誘致設立。
  高崎の工業化が図れた。
   理研合成樹脂は高分子化学工業と合併し昭和高分子、理研鍛造は前橋市元総社町で続く。
  故有田伝蔵は理化学研究所から理研合成樹脂技師を経て
群栄化学工業を起こす。



                                              2018.5.17
              第76回勉強会 頼政神社と大河内松平家


T.頼政神社
 1. 高崎と頼政神社の関係

 (1) 大河内松平家が古河城内に創設
   平家との合戦に敗れて自刃した頼政卿の首を家来が密かに持ち去り、東国まで来て
   休息後に立ち上がろうとしたところ、首が急に重くなりここに葬れとの霊託と考えて
   埋葬し、その上に祠を建てた場所が古河の立崎と伝えられる。
    大河内氏は源頼政卿を遠祖として崇拝しているところ、松平(大河内)信輝が川越
   城主から立崎曲輪に頼政卿の祠がある古河城主となった。 松平信輝は大河内松平氏
   が徳川幕府にあって名声の高い松平信綱(川越城主で老中)の孫にあたる。 
    そのような因縁もあり、元禄7年(1694)に古河城内に頼政神社を建立した。
   (大正3年に渡良瀬川改修工事に伴い城址の西部の現在地に移転)このとき高崎城主と
   なった松平輝貞は大灯籠を寄進している。

  (2) 高崎城南端に創設
   元禄8年に高崎城主となった松平輝貞は、本家に倣って元禄11年に高崎城の鬼門除けの
   石上寺境内に頼政堂を建立し、同年に源頼政卿と菖蒲御前を祀る伊豆禅長寺にも
   頼政堂を建て毎年100石を寄進している。 輝貞が宝永7年(1710)に村上へ転封された
   間は江戸湯島霊雲寺に遷座されたが、享保2年(1717)に高崎へ再封になると、翌年
   高崎城南端大染寺境内(現在地)に頼政大明神を建立した。


 2. 祭神源頼政とは

  (1) 源氏の本宗・摂津源氏
   皇子・皇孫以下、天皇の子孫が臣籍に入って姓を与えられることを「賜姓皇族」と言う。
    源氏も平氏もその一つである。 平安時代に入ると皇室経済は逼迫し、皇子・皇孫の
   数も増加したため冗費を省く必要が生じ、皇族に賜姓しその整理を図ることが歴代天皇
   の傾向となり、多くの賜姓皇族が生まれ源姓が圧倒的に多かった。
    52代嵯峨天皇に始まり、54代から60代の仁明、文徳、清和、陽成、光孝、宇多、醍醐
   と続き、その後も村上、冷泉、花山、三条、後三条、順徳、後嵯峨、後深草、亀山、
   後二条の18に及ぶ。「清和源氏」が特に知られているが、清和天皇の皇子4人と6人の
   皇孫が源姓を賜ったので15流もある。 この15流の中で、源義家に代表される「河内源氏」
   が武的勢力を伸ばし鎌倉幕府を開いた頼朝が武家の棟梁となり嫡流を主張。
    その後も同流の足利尊氏が正嫡を主張したため「河内源氏」が清和源氏の正流と見られて
   いるが、清和天皇第6皇子経基の子満仲の嫡子である摂津守頼光の「摂津源氏」が嫡流で、
   清和源氏の本宗である。 頼光は大江山酒呑童子の征伐伝説で知られる。

  (2) 頼政卿の経歴
        清和天皇―2代―満仲―頼光(摂津源氏)―3代―
頼政―14代―松平信綱―信興―輝貞
                       頼信(河内源氏)―4代―義朝―頼朝
                                2代―義国(新田源氏)―17代―徳川家康

     頼政卿は1104年に生れた源頼光の四世で、弱冠にして白河院判官代として白河法皇に仕え、
     蔵人,兵庫頭,右京大夫と京官ばかり務めた宮廷武士。 弓の名手であり歌人としても著名。
   頼政卿は、保元の乱では源義朝や平清盛と共に後白河天皇方につき勝利を得た。
    平治の乱では初め義朝方に加わったが、仕えた公家との関係があり途中から平家方に属し
   義朝方が敗れ平家の天下となった。

   保元の乱:1156年、後白河天皇と関白藤原忠道に対する崇徳上皇と左大臣藤原頼長の争い。
         源氏も平氏も親子や兄弟が両派に分かれ対立
   平治の乱:1160年、後白河法皇と二条天皇の側近の権力闘争が武家に及び戦闘になる
   

    平治の乱後、源氏として唯一人宮廷と京都の治安の任に就き右京権大夫に任ぜられた。
   内昇殿も許され、74歳と高齢のうえに平家以外では珍しく三位となり、出家したため
   源三位入道と呼ばれた。
    20年後の1180年、清盛が孫にあたる安徳天皇を擁立するに及んで、不満を持つ後白河
   法皇の皇子以仁王(もちひとおう)が平家追討の令旨を下し源氏に呼び掛けた。 この令旨
   を奉じたのは頼政卿の子の仲綱で、卿もこれに呼応して以仁王に合流し宇治で戦ったが
   敗れ平等院で自刃した。 以仁王も討たれたが令旨は東国において頼朝を初めとする
   源氏勢力が蜂起する原動力となった。

  (3) 頼政卿の逸話
   『平家物語』では、平家討滅の挙兵動機が卿の嫡男・伊豆守仲綱の秘蔵の名馬を平清盛の
   次男・宗盛が強請し、これに「仲綱」と名付けて辱めたことに端を発したと書かれている。
    これを題材とした謡曲『頼政』や浄瑠璃『頼政追善芝』などが作られている。
   『平家物語』のほかにも『保元物語』『平治物語』『源平盛衰記』などの軍記物には再三
   登場する。数奇な運命の将として興味深い方であるが、残念ながら主役ではないので頼朝や
   義経に比べると知名度が劣る。 しかし、卿は数奇な生涯と相俟って逸話も多い。
    鵺(ぬえ。頭が猿、銅が狸、尾が蛇、手足が虎、鳴き声がトラツグミに似ている怪獣)と
   呼ばれる怪獣が、近衛天皇の仁平年間(1151〜54)と二条天皇の応保年間(1161〜63)
   の二度にわたって現れ天皇を悩ませた。 故事に倣い武士が警護に当たることとなり頼政卿が
   召され二度とも怪獣を弓で射落し見事に退治して天皇の病を治したという。
    この様子は西脇市の長明寺や古河市の頼政神社に絵馬として掲げられている。



 3. 和歌と頼政神社
  (1) 和歌の名人頼政卿
     頼政卿は文人として詠歌の才に優れ『新古今和歌集』など勅撰和歌集に約60首が採録され、
    精力的に和歌を詠進したため『源三位頼政卿歌集』には687首も収録されている。
   詠歌における特色の一つは歌会で優劣を争ったもの。もう一つは菖蒲御前(あやめごぜん)や
  待宵の小侍従(まちよいのこじじゅう)とのやりとりに代表される女性との恋の贈答歌である。
   因みに菖蒲御前は卿の夫人で卿が戦死した後は遺骨を持って故郷の伊豆に隠れた。
  菖蒲御前を娶ることになった逸話から、香の世界に「菖蒲香」がある。 同じ姿をした美しい
  女性たち(香)の中から、自分の愛する人(香)を、間違いなく見つけ出すよう課題を受けた
  武人の伝説と和歌を基に創られた美しい組香。
   「五月雨に 池のまこもの水まして いずれあやめと引きぞわすらふ」源三位頼政

  (2) 和歌と大河内家
    大河内松平家の当主は頼政卿にあやかり弓馬と和歌詠みを得意とした。 特に三代輝高、
   四代輝和、五代輝延は多くの歌を残している。家臣にも歌詠みが多く、特に藩の年寄(重役)
   の宮部義正が冷泉家(藤原定家の流れを伝える和歌師範の家として今日まで続く)中興の祖と
   言われる冷泉為村の門下第一の実力者として活躍したこともあり、また老中筆頭であった
   輝高は堂上派歌壇の中心として頼頼政神社に奉納された安永8年(1779)「頼政六百年忌奉納和歌」
   には錚々たる公卿と大名が歌を連ねている。


 
4. 高崎山車祭りの源
   享保年間(18世紀前半、徳川吉宗の時代)と思われる記録にョ政神社祭典に餝屋台(かざりやたい)
  が登場し以後祭礼の中心として今日の山車に継承されている。 当時は屋台小路(下横町と鍛冶町
  との境)から堀端へ出てョ政神社に集合し、現在のさくら通りからさやもーる,南銀座通り.新町通り
  田町通り,本町通り.高崎神社前を経てそれぞれの町へ帰った。 藩政時代の例大祭は毎年1月,5月,
  9月に行われ1月26日が盛んであった。
   神社に奉納されている「御祭禮御行列之絵圖面」には町家から参列した飾屋台,幟,吹流し.獅子舞
  などが描かれている。 他にも各町内が年番で俄踊りを奉納した。 藩主の祖を祀るため神輿渡御
  には藩士が護衛し厳粛にして堂々たる儀式は他に類を見ないものであった。 追手門前での興行
  には家老をはじめ上席藩士のための桟敷が設けられ、見物人が近郷から訪れ雑踏をなすほどで
  関東地方屈指の祭であった。 節倹の発令により俄踊りは取り止めとなったが代わりに流鏑馬の式
  が5月には大染寺境内で、9月には城内二の丸で行われた。
   明治になると町屋の餝屋台は江戸神田から流れてきた山車に代り、現在の高崎山車になったと
  言われる。 神仏分離により大染寺は廃寺、当社の格は村社となったが、祭日は頼政卿が自刃された
  命日の5月26日に実施され、昭和初期まで高崎市の祭日として学校も休みとなった。 2千坪強も
  あった境内には多くの露店が出、花火も上がり大変賑やかであった。 時代の変化から市民の間に
  おけるョ政神社の存在が変わり、山車の引き回しを主とする行事は正月14日の道祖神祭に行われる
  ようになり最近の高崎まつりに引継がれている。 境内は度重なる国道拡幅などから5百坪足らずと
  なった。




U.高崎城主大河内家
 1. 大河内松平家とは

  (1) 江戸時代以前の大河内家
    源頼政の二男兼綱(父と共に宇治川で戦死)の子の顕綱が三河国額田郡大河内郷で土豪となり
   大河内姓を名乗る。 以降は政顕−行重−宗綱−貞綱−光将−国綱−光綱−真綱−信政−信貞
    5代貞綱は尾張守護斯波義達と駿河守護今川氏親と三河国の勢力争い。同じ国人井伊氏と
   共に斯波氏に組し、永正14年(1517)引間城(後の浜松城)に籠り敗れる。

  (2) 江戸時代初期の大河内家
   松平家の養子に入った正綱が大河内松平家を築く。
   大河内・松平の略系図
    

   ア.秀綱(1547〜1618) 大河内家12代 輝貞の高祖父
     三河国寺津城主として吉良家の家老であったが吉良家中の内紛により家康の家臣伊奈備前守
    忠次を頼り、家康の家臣として700石を賜る。 伊奈忠次(1550〜1610)は、関東代官頭として
    治水事業で知られ、関東地方各地にある事績は「備前堀」等の名称が付いている。
    現在の埼玉県伊奈町の町名は忠次に由来する。

   イ.久綱(1570〜1646) 秀綱嫡男 信綱の実父・輝貞の曽祖父
     710石の公事方(民政・訴訟担当)を務め、室は深井藤右衛門好秀の娘(信綱の母)。
    深井家の本姓は白井長尾氏で上野国白井から武蔵国深井(現在の埼玉県北本市深井)に土着。
    高崎藩家中に深井氏が多いのは、深井好秀の孫茂兵衛資成が輝貞の義父信興に仕えた
    ことにより、一族の多くの者が仕官したため。

   ウ.正綱(1576〜1648)秀綱次男 信綱の養父・輝貞の養曽祖父
     12歳で新田源氏の末流十八松平氏の一つ長沢松平氏の松平(長沢)正次の養子となる。
    計数に明るかったことから関ヶ原の戦いで軍資金調達に貢献し、家康の側近中の側近で
    臨終の際に枕元に侍り「長沢松平を絶すな」と遺言を承る。 家康の遺骸が久能山に
    埋葬された時及び日光回葬の時も棺を担ぐ。 初代の勘定頭(後の勘定奉行)で、
    相模国甘縄(鎌倉市)に22,000石を給わる。 東福門院和子入内に供奉 蒲生氏郷や
    徳川忠長改易の時に上使として派遣される。 秀忠は家康側近の殆どを敬遠したが
    正綱は重用され、その権勢は老中に匹敵した。 家光は幕閣から正綱を排除したが
    日光東照宮造営奉行に起用し祭礼法会等の差配をさせた。
     寛永2年(1625)〜慶安元年(1648)まで24年間日光を往復。紀州から取り寄せた杉の
    苗木を植樹したのが現在の日光杉並木である。 正綱が杉の苗木寄進を申出→諸大名から
    「東照宮に対し何とけちなこと」と非難←正綱は「末をご覧あれ」と。

  (3) 大河内氏と松平氏 
    徳川家康の本姓は三河国松平郷に基づく松平である。 頭角を現し始めたころ由緒ある
   家系を示す必要(駿河・遠江・三河一帯の有力者の今川や吉良が源氏の流れであることに対抗)
   から、1566年 祖は上野国新田郡得川の新田四郎義季→朝廷から家康のみが徳川の姓を許された。
    三河統一をほぼ実現→名実ともに三河の支配者たることを内外に示し、家康の代以前に
   分家した一族の14家は引き続き松平を名乗った。 家康以降も宗家と御三家以外の者には
   松平を名乗らせ一族の結束を強化した。 また、姻戚関係を結び福岡黒田氏,廣島浅野氏,
   仙台伊達氏,岡山池田氏,高知山内氏に松平姓を与え、関が原では敵であった薩摩島津氏や
   長州毛利氏にまで及ぶ。 松平姓を与えられた大名は25家もあった。
    大河内家は元々頼政卿の末裔で当然源氏。 松平氏養子による源氏ではなく系図は
   大河内の分流のままにしていた。 慶応4年(1868)布告「松平姓は本姓に復す可き事」
   により大河内に。


 
2. 大河内松平家を有力大名に引き上げた松平信綱
  (1) 名門長沢松平家の養子となる
    大河内信綱は慶長元年(1596)に久綱の嫡男として現在の上尾市に生れる。 同6年に
   叔父松平正綱の養子に。「父の跡を継げば代官、叔父松平の子なら側近として道が開ける」
    元和6年(1620)養父正綱に嫡子利綱が誕生したので養子縁組を解消し一家(翌年正信が誕生)
   をたてる。 信綱の五男信興が独立した分家が高崎の右京大夫家、正綱の次男正信は玉縄城主
    その子正久を初代とする備前守家は大多喜2万石。 菩提寺は三家とも野火止(埼玉県新座市)
   の平林禅寺。

  (2) 出世街道を進む
    9歳で後の将軍家光の小姓(堀田正盛,阿部忠秋,三浦正次らと)になったのを契機に27歳で
   御小姓頭番頭800石、従五位下伊豆守に。 31歳で1万石、相州厚木等を給わり大名。
   34歳で都合1万5千石、上野国白井郡・阿保郡等を賜る。 37歳で六人衆(阿部重次35歳・
   三浦正次34歳太田資宗33歳・阿部忠秋31歳・堀田正盛25歳)に。 武蔵国忍藩3万石拝領
   従四位下老中に就任。

  (3) 家光・家綱治世の筆頭
   ア.3代将軍家光の政策をリードし徳川幕府体制を確立
     大名の妻子を江戸に住まわせる制度,田畑の永代売の禁止,外国貿易を長崎・平戸に限り
    日本人の海外渡航・帰国を禁などの法を定める。郷村高帳・正保の国絵図を作成させる。
    島原の乱を総大将として鎮圧しこの功績により川越藩6万石城主に。
     3代将軍家光が死去し堀田正盛・阿部重次が殉死する。 信綱に対し何故殉死しないのかの
    批判に対し「幕閣にあって亡き上様の厚恩に浴さなかった者はいない。その者たちが皆
    殉死したら誰が大納言様を補佐するのか」

   イ.4代将軍家綱の参謀
     1651年 慶安の変(由井正雪事件)勃発。 信綱が警察機構を動員し迅速に解決し
    大名改易に伴う浪人急増の抜本対策→大名の末期養子を緩和する。
     自ら総奉行となり玉川上水開墾。水道奉行に関東郡代伊奈忠治(忠次の二男)、玉川兄弟に
    工事請負。明暦の大火(振袖火事)の翌年江戸定火消役を定める。



 3. 高崎城主大河内家
  (1) 初代輝貞が江戸幕府随一の実力者の家に生れる
    1666年3代家光、4代家綱の名参謀。 幕府の屋台骨を背負った松平信綱の孫として誕生。
   1672年兄信輝が家督相続の節、武蔵国埼玉郡内に5千石分地。 1675年四代将軍家綱に
   初お目見え。 1682年酒之丞から輝貞と改名。

  (2) 旗本としての経験を積み将軍綱吉の側役に
    1688年5代将軍綱吉の中奥御小姓,1689年御側を命ぜられ右京亮,1690年2千石加増で
   合わせて7千石。綱吉が本郷お茶の水に聖堂を建立、御用掛惣奉行。 聖堂普請成就の功により
   備前義景の作刀と金7枚を賜う。

  (3) 一門大名の養継嗣に
    1691年信興の家督を継ぎ3万2千石を賜う(7千石は返上)叔父信興の養継嗣から大名。 
   家臣は大河内松平家一族に仕えている者で構成 他藩へ養子と異なり主従関係は円滑。
    1692年下野国壬生藩3万2千石、家臣は加増の都度、大河内一族の家臣の次男三男を
   多く採用している。

  (4) 将軍綱吉に重用される
    1693年綱吉の学問の弟子を仰せつかり時服二拝領。 1694年御側御用人に命ぜられ
   柳澤出羽守と共に務め1万石加増,従四位下に。 1695年に右京大夫。将軍家の御成が
   都合24回、1万石加増、高崎城へ所替え5万2千石。

   *御側用人
    綱吉政権になって導入された役目。 大老堀田正俊が若年寄稲葉正休に江戸城将軍御座の
    近くで刺殺されたことを契機に、老中・若年寄らと将軍の連絡役として数人が就いていた。
     中でも、柳沢吉保、牧野成貞と輝貞が際立っていた。 牧野は綱吉が館林藩主時代の
    家老からの就任で連絡役であった。 柳澤は館林藩士の子供に生れて旗本からの就任。
     非常に有能なうえ、将軍の意向を良く汲み取り信頼は絶大であったが一方で、老中等
    幕閣の立場を尊重し政策には関与しなかったので軋轢はなく、身の処し方が稀に見る
    天才だったと言える。(綱吉死亡後の柳澤に対する処遇から見ると、権力者に対する反動は
    なく、江戸時代の政治史上珍しいケース)
     輝貞は牧野が隠居した後に柳澤とのコンビで側用人を務めたが、主力は柳澤で輝貞公は
    学問の師弟関係を中心とした側役を務めたものと思われる。
     6代将軍が家宣になると御側御用人を罷免され鴈間詰となり1711年越後村上へ所替となる。
    1717年、8代将軍吉宗は綱吉に親しみを持ち、その側用人であった輝貞の人物を認めていた。
    溜間詰になり再び高崎へ所替、御側御用人を命ぜられる。 1720年に老中申合名代、
    1730年に御意見番として老中格に。

  (5) 頼政神社を高崎城内に創建
    寛永寺貫主・輪王寺門跡・天台座主公辨法親王に「正一位頼政大明神」の名前を頂く
   高崎城南端の大河内松平家の祈願寺である大染寺境内に頼政大明神社を建立。





                                              2018.3.15
         第75回勉強会 高崎藩飛地・一ノ木戸領と長岡藩


1. 藩領と飛地
  「藩」という言葉が大名の治めた行政単位的に使われたため一国を支配した薩摩藩や
 岡山藩はその後の鹿児島県や岡山県と思われ、前橋藩や高崎藩は前橋市や高崎市と
 同じように思われがちである。 しかしながら藩領は城(陣屋の場合もある)の周囲に在る
 「城付き領」と居城周辺以外の離れた場所に在る「飛地」で形成されていた。
  しかも、城付き領は配置される大名によって変化しない「不変部分の所領」(一部分は
 増減変動した)は城の周囲を全て含んでいるわけではない。 また、飛地は個々の大名に
 よって変動する「可変部分の所領」であるだけでなく、石高の多い譜代や家門大名程
 「分散的知行形態」を余儀なくされていた。 従って藩領は今日の市町村のように
 まとまっていなかった。 最近でも県や市町村の間に他の県や市町村が挟まった状態を
 「飛地」と俗称しているが、江戸時代の飛地は何百キロも離れている場合が数多くあった。
  飛地は大名によって変動する場合が多いが転封で藩主が交代をしても替らない飛地
 「藩付き飛地」と、大名の異動に伴いその異動先の藩で飛地として続いた「家付き飛地
 がある。 高崎藩大河内家はその両方を有していた。



2. 高崎藩の飛地
  高崎藩は慶長3年(1598)に関東領国を支配した徳川家康の重臣井伊直政が高崎城
 を築き入城したことに始まり、江戸幕府下の組織としては開幕の翌慶長9年に酒井家次が
 入封して成立した。 酒井氏は5万石の譜代藩ながら城付領のみで飛地がなかった。
  その後、戸田松平氏、藤井松平氏がそれぞれ5万石を宛行われたが短期間で転封
 となり高崎藩領に変化は無かったと思われる。(領知目録が残っていないため不明)
  元和5年(1619)安藤氏が5万5600石で入封すると5万石を越えた分を近江国2郡に
 宛行われ初めて飛地が発生した。 元禄8年(1695)松平(大河内)輝貞が加増を受けた
 時に飛地が変動したが、その後宝永7年(1710)に輝貞が越後国村上へ転出し享保2年
 (1717)再び高崎藩主になった時、村上藩時代の飛地 越後国蒲原郡一ノ木戸領は
 大河内松平家の「家付き飛地」として続き、前藩主間部詮房の所領であった下総国海上郡
 銚子領は領主が替っても高崎藩の「藩付き飛地」となった。
  三代輝高と四代輝和が大坂城代に就任した時に一ノ木戸領と畿内の領地との入替が
 あったが、辞任後は一ノ木戸領が戻り高崎藩の所領は城付領と三か所の飛地(一ノ木戸、
 銚子、武蔵国新座郡野火止領)となる。  野火止領は先祖の墳墓の地につき認められた
 特殊な飛地であるが、他は譜代大名が城付領以外に宛行われることが多い通常の飛地
 である。 この二ヵ所の飛地にはその形成の背景や支配状況、飛地領民の高崎藩に対する
 想いなどから大河内松平家及びその家臣と領民の深い関係を物語る記録が伝わっている。
  本領とは異なる飛地支配が行なわれる状況があったのではないかと推測される。


3. 家付き飛地一ノ木戸領
 (1) 高崎藩領以前の一ノ木戸  
【越後国中越・下越地方諸藩・幕府分布図】
   慶長3年(1598)上杉景勝が会津へ移封になると越後国45万石は堀秀治の支配となった。
  秀治は与力大名の村上頼勝を本庄(後の村上)9万石、溝口秀勝を新発田6万石、堀直政を
  三条5万石、堀親良を蔵王堂(現長岡市蔵王)4万石に配し領域は互いを牽制させる
  かのように入り組んでいた。 村上氏と堀氏が改易された後、正保元年(1644)村上藩は
  本多忠義(徳川四天王 本多忠勝の孫)が10万石で入封し譜代藩になったが、その後
  姫路藩15万石を襲封した松平(結城)直矩、榊原政倫、本多忠孝が幼少のため、幕府は
  姫路藩主には不適任としてその都度当藩との入れ替えが行なわれた。 そして本多忠孝
  が無嗣のため除封になるところを本多忠勝の功に免じて一族の忠良が5万石に減封のうえ
  相続し翌年三河刈谷藩へ転封となり松平(大河内)輝貞が入封した。
   この様に上杉氏から堀氏への領主交代で安定していなかった地方を66年間に亘って譜代
  名門や家門の4家6人の藩主が腰掛け的に交代する処遇地であった。
   一ノ木戸領が含まれる三条地方は三条藩に属したのち3大名家領を経て幕府領となる。
  慶安2年(1649)松平(越前)直矩が村上藩15万石に入封すると前任堀氏10万石との石高差
  を補うため三条地方を含む飛地「四万石領」が宛行われた。 この飛地を取り巻くように隣接の
  新発田藩・長岡藩・会津藩他の領村と水原と出雲崎の代官所が管理する幕府領および新発田・
  桑名両藩の越後国大名預所(幕領取締強化と年貢増徴のため有力大名に委ねる)が周囲に
  入り組んでいた。 幕領であり管理が諸藩という二面性に加え、預所の割替えや取扱の改革も
  行なわれる複雑な支配地域であった。

 (2) 飛地一ノ木戸領の成立と変遷
   享保2年(1717)松平(大河内)輝貞が高崎藩7万2千石に再封されると前藩主 間部詮房
  5万石との差として村上藩領の一部三条地方38カ村2万1千石が高崎藩領として宛行われ
  飛地一ノ木戸領が発生した。 大坂城代に就任すると従来の領地が上知され代りに畿内に
  与えられる慣行があり、宝暦2年(1752)大坂城代に就任した三代輝高は一ノ木戸領の代りに
  摂津国他に2万石を与えられた。 同11年に輝高の老中就任により一ノ木戸領のうち26カ村が
  続いて天明元年(1781)に四代輝和が襲封すると一ノ木戸領の残りの村々が上知された畿内の
  所領村々の替りに与えられた。 替地は旧領でなく他所を宛行われる場合が多いが旧一ノ木戸
  領は全て高崎藩領に戻った。 寛政10年(1798)輝和が大坂城代に任じられると一ノ木戸領
  は畿内の幕府領と替地が行なわれたが輝和在任中の同12年に死去したため高崎藩領に戻った。
   文化12年(1815)五代輝延も大坂城代に任じられたが替地は行なわれず一ノ木戸領42カ村
  は大河内松平氏の「家付き飛地」として廃藩まで続いた。

 (3) 一ノ木戸周辺の状況
   姫路藩15万石から村上に入封した松平(越前)直矩は幕府領の蒲原郡三条地方
  と三島郡寺泊地方が宛行われた。 この地方は村上から100qも離れ、従来からの領地
  「十一万石領」に対し「四万石領」と呼ばれ洪水多発地帯だが穀倉地帯であった。
   松平氏は小面積でも一筆ごとに厳しい総検地を行ない表高15万石に対し毛付高は
  21万石余を打ち出した。 同じ石高ながら豊潤な播磨国から地味の低い越後国下越
  地方への転封であり侍屋敷地を拡張するほど家臣も多く大藩としての立場を維持する
  ため実高の増収を図った。 この毛付高を基礎に年貢諸役が賦課され厳しい取り立て
  を恐れた百姓が隣の庄内地方へ駆落ちし、引き渡しを求め返還される程であった。
   榊原氏も新田検地や改出を時々実施し田畑に対して概ね領主が六割、百姓が四割
  という高い税率のため農村が一層疲弊した。 城付領の租税徴収方法は前年の出来
  を勘案する土免制が採られたが三条地方は旧幕領時代を踏襲していた。 榊原氏が
  入封すると土免制を採ることが申し渡され、百姓没落による年貢などの減少を防ぐ
  ため田地の売買を認め、諸役も田地譲渡に付けて渡すこととし本多氏も踏襲した。
   しかし、三条地方は河川が集中した水害常襲地帯のうえ、大名や旗本の所領替の
  際に地味の良い田や利用価値の高い河川際や山林は幕領となり余った土地が大名領
  とされた。 加えて村上藩領は年貢が過酷であるため百姓は幕領との差に不満を
  持っていた。 このような地方が本多忠良の15万石から5万石への減封に伴い、
  村上藩領と幕府領に分けられた。 村上藩領に組み込まれた八カ組の百姓等はこれ
  を不満とし幕府領編入を求めて黒川代官所へ嘆願書を提出した。
   当時は郡奉行―代官―大庄屋―庄屋―組頭―百姓の郷村支配組織が確立されており
  領地の数か村から10数か村を10の組に分けそれぞれ帰農武士や土豪地侍からの有力
  農民を大庄屋に就け年貢収納など農村支配にあたらせた。 この大庄屋への多額な
  給米が村の負担のうえ、その専断に百姓が難儀する場合が多かった。
   幕府は正徳4年(1714)に諸国代官へ幕領における大庄屋の廃止を命じたが村上藩領
  に編入された村では大庄屋が残りこの事も不満の一因であった。
   大河内松平氏へ領地の正式な引渡しが行なわれる前に村上藩領に編入された
  「四万石領」8カ組の村々が代官所への訴え、幕府勘定奉行への越訴、老中への駕篭訴
  等を行なった。 正徳元年に江戸評定所において判決を受けるまでの間、村々では
  村上藩領編入を納得した「得心百姓」と幕領編入を望む「不得心百姓」が激しく対立し
  村の運営がマヒ状態になった。 結果は幕府代官が8カ組の大庄屋・庄屋を呼び寄せ
  村上藩役人立ち会いのもとに村上藩領として引渡した。

 (4) 高崎藩の支配状況
   宝永7年(1710)六代将軍家宣の側用人 間部詮房が老中格城主になるため高崎藩
  5万石へ、五代将軍綱吉の死去に伴い側用人の座を追われた松平(大河内)輝貞が
  高崎から村上藩へ移封となった。 この転封は幕閣内実力者の交代による左遷的転封で
  輝貞は前村上藩主本多忠良が処罰的に三河国刈谷藩5万石に減封された後に移った。
   この結果、大河内松平家が初めて一ノ木戸領が含まれる地域と関ることとなった。 輝貞は
  本多氏時代からの騒動が収まっていない領地への入封で引継処理は円滑に進まず幕府
  代官から全ての領地受取り完了したのは八カ組騒動が終わった後、しかも3回に分けての
  変則的なものであった。
   このとき輝貞は騒動のさなか年貢を納入しなかった村々に対し相応の減額をし村役人を
  三条役所に呼び出して51カ条の条目を読み聞かせ八通の定め書を渡し、大河内松平家
  方針の徹底と騒動終了後の扱いを明らかにした。
   この新藩主の処置に対し百姓は好感を持ったと考えられる。 輝貞は高崎城付領において
  年貢の徴収法の変更による混乱を起こさないため前任安藤氏の徴収法を踏襲していた。
  再び高崎へ入封になってからも同様であった。
   安藤氏時代から続く「古領」と大河内松平氏になって所領となった「新領」では徴収法が
  異なりそれぞれの村の中でも細かい相違があるなど七通りの算法が適用されていた。
  旧来の方法から大幅に変えると民政上の混乱を招くので前領主徴収法をある程度受け入れ
  ざるを得なかった。

 (5) 一ノ木戸領民と高崎藩
  ア.一ノ木戸領村々の替地反対運動
   宝暦2年(1752)三代輝高が大坂城代に就任し一ノ木戸領村が幕府領に編入される
  ことになった。 これを聞きつけた村々は庄屋らを郡中惣代として出府させ
  幕府領編入反対運動を展開したが成功せず村々は石瀬代官所支配下になった。
   反対の理由は代官が農民総代に幕府領になっても今年の年貢高は今まで通り
  高崎藩時代と同じ額であると説明したが幕府領に組み入れられると来年以降の
  年貢増加の気配が強く窺えたからである。 四代輝和の大坂城代就任が伝わると
  再び幕府領と替地される不安を抱き、総代を選んで高崎と江戸で替地反対運動を
  起こし「御慕願」を作成した。
   高崎藩は替地願いを提出しないことを確約したが幕府には認められず約束は
  反古になり高崎藩の預り地にする要請をしたがそれも拒否された。
   農民はあくまでも要求を貫徹させるため老中に駕篭訴を行なったが失敗し、
  寛政12年(1800)に幕領となり出雲崎代官所の支配下に置かれた。
   しかし、この時の百姓代表は今年の年貢高並びに全ての事柄を高崎藩時代と
  同じにする確約を取り付けた。 輝和が大坂城代在任中に死去したことにより
  一ノ木戸領は翌年には高崎藩領に戻った。 このことは輝貞の領地政策、輝高の
  前例から一ノ木戸領は「家付き飛地」の位置づけにあり加えて輝和の替地に関わる
  反対運動が強く影響したからと考えられる。 明治維新に似たような運動が
  発生した。 散在していた諸藩飛地を本拠地城下にまとめるという風評が流れ
  一ノ木戸領の百姓が村替えに不安を抱き「村替取止願書」を提出する行動を起こした。
   高崎藩の恩恵を強調して惣代が出府途中、高崎城下で村替えの対象にならない
  ことが分かり帰国し実行されなかった。

  イ.飛地領民の陣屋役人に対する想い
   寛政12年(1800)四代松平輝和が大坂城代に就任後、一ノ木戸領は畿内の領地と
  村替が行なわれた。 この頃一ノ木戸代官の馬場新五右衛門帰藩に対し留任を
  求めた「お慕い願」が提出された。 その文面は新五右衛門の帰藩がやむを得ない
  ことであれば息子の大輔に代官役を継がせるよう配慮して欲しいと申し立てた。
   輝高が老中就任により高崎に戻ると畿内領地と越後旧領の替地が行なわれ、
  再び一ノ木戸に陣屋が設けられてから就任した代官の記録が残る。再任者もあり
  親子で勤務した者もいたから馬場の留任や息子に継がせる要請も無謀とはいえない。
   ただ、代官職は基本的には二人体制で馬場も二人で務めている。 奉行も代官も
  在任期間は殆ど一年半以下で相互に牽制するような体制にあり一ノ木戸領が畿内の
  所領と替地された寛政12年にもう一人の代官齋藤と共に高崎へ戻っている。
   何故馬場だけにお慕い願いが残っているのであろうか。 確かに馬場は7年
  数か月と長いが藩主輝和の大坂城代就任に伴う幕領化に反対した「御慕願」提出の
  時期でもある。 馬場の異動が原因なのか替地に伴う陣屋の閉鎖(月日不明)が
  原因なのか、いずれにしても領民が支配の変化を怖れた行動と考えられる。
   一旦高崎藩領から離れた一ノ木戸領が再び高崎領になると飛地時代最後の代官
  馬場は最後の奉行堤弥右衛門と村の請取に携わっている。 「お慕い願」が影響
  したものと推測される。
   明治4年(1871)の廃藩置県で高崎藩が高崎県から第一次群馬県になった時、
  検見役人(墓石肩書は高崎藩民政権少属)の片柳礼三が一ノ木戸領中之口村で切腹し
  それを悼んで庄屋が農民と共に建てた墓石が、新潟市西蒲区中之口の羽黒神社脇の
  共同墓地にある。 墓石の側面には「この地方一帯は信濃川の水害による大凶作で
  農家の生活の極端な困窮を知り年貢米を独断で大幅に減免した。 そのことが
  高崎藩に伝わり、責任をとり庄屋大川氏の庭の池の端で切腹して若き命を断った」
  ということが書かれている。 礼三が派遣された前年の明治3年に高崎で年貢減免と
  税法改正運動の「五万石騒動」が起きている。 当時の藩は既に自治権がなく政策は
  明治新政府に伺いを立てる状態であった。 藩は領民の整然とした要求活動に
  理解を示しながらも強訴の扱いをする新政府との間で苦慮していた。
   結局、政府は税法改正を認めず年貢減免は今年限りとする裁断を下し大総代3人が
  処刑された。 礼三は「五万石騒動」を目の当たりにして一ノ木戸領に出向いたで
  あろう。 百姓の窮状を目の当たりにした礼三は藩は年貢減免を認めるかもしれない。
  たとえ藩の正式決定が減免を認めなくても切腹してしまえば農民に罪が及ばないと
  判断しての行動であったと思われる。 一方の百姓は検見役人の減免の言葉を
  認めてもらう行動の証左にしようとしたのではと考えられる。
   礼三の子孫は大蔵省や日本銀行に勤め旧高崎藩士族の会にも出席しており礼三の
  事件は罪人扱いではないようである。
   一方、高崎市在住の末裔の家には「不名誉なことだから話題にしないように」と
  伝えられてきた。 この一件は文字通りには理解しにくい。 ただ、領民が墓石に
  「大凶作で農家の生活の極端な困窮を知り年貢米を独断で大幅に減免した」と刻んで
  いるのは輝貞以来の救民策に対する恩恵をはじめ、高崎藩に対する良好な関係が
  下敷きになり引続きの高崎藩領を期待したからではないかと考える。


 4. 高崎藩の支配と飛地領民の意識
   一ノ木戸領は高崎藩石高の三割弱を占める重要な米収入の領地であった。
  松平(大河内)輝貞が村上藩に転封となった時に「四万石領」と呼ばれた飛地は極めて
  不安定な状況下にあった。 前任の本多氏時代まで年貢や賦役などの厳しさで、
  村上藩への編入を望まない領民が幕領となる要請運動を行なっており、幕府の裁定に
  得心した村民と不得心の村民の間で抗争もある極めて不安定な状況下にあった。
   輝貞は城付領と同様に前任者の税法を踏襲したのでは領民の反発を招く恐れがあり
  騒動中の未納年貢を減免し以降も長期に亘り調整を行なった。 輝貞は高崎藩へ
  再封となり一ノ木戸が高崎藩の飛地になっても村上藩時代の支配条件を継続した。
   村上藩入封の際に執った一ノ木戸領を含む「四万石領」に対する年貢対応は領民に
  好感を以て受け入れられたと考えられる。 輝貞以降の一ノ木戸領の支配に変化が
  起きた際に領民は高崎藩やその家臣との継続を望む行動を起こした。
   @ 輝高の大坂城代就任に伴う替地で幕府領になることへの反対運動
   A 輝和の大坂城代就任に際し輝高同様の処置に対する「御慕願」
   B 廃藩置県に際し心配された城付領への組入れ阻止運動

   これらの出来事はいずれも輝貞が執った施策の光背効果であり、状況を変えたく
  ない領民の意識からと考えられる。 家臣に関る出来事として代官の帰藩に対して
  留任を願う「お慕い願」と検見役人独断による年貢減免の責任を執っての切腹を悼んで
  の墓石がある。 前者は無謀な願いとは言えないが藩主の大坂城代就任に伴う替地と
  前後した時期と思われるので藩に対する「御慕願」と同様に他の大名や代官の支配下に
  なる変化を望まないための行動であろう。
   後者は墓石に哀悼の意を刻むことで高崎藩とその家臣が領民に恩恵を与えてくれた
  ことを次の支配者に訴える意味を持っていたのではないか。
   この様に輝貞の左遷が元で飛地となった一ノ木戸領であるが百姓に年貢猶予など
  配慮を示した支配から高崎への移封後も「家付きの飛地」になった。




長岡藩と一ノ木戸領

 1. 長岡藩とは

   現在の長岡市域は高田藩領であった。 元和2年(1616)藩主松平忠輝が大坂の役に
  おける不始末により除封されると堀直寄が8万石で蔵王堂城に入った。 その後、
  現長岡駅付近に新たに築城し城下町を移した。 直寄が2年後に村上へ移封になると
  牧野忠成が入封した。 藩主の牧野家は徳川家康の三河以来の家臣で忠成の父康成が
  家康関東移封の際に三河牛久保(現豊川市牛久保)から上野大胡2万石に配され、襲封
  した忠成が長峰5万石を経て長岡へ6.2万石で入封となり2年後1万石加増され7.2万石
  の譜代中堅藩で、譜代としては幕末まで変動しなかった数少ない藩である。
   長岡藩領は長岡を中心とした古志郡(263村)と蒲原(83村)・三島(70村)・刈羽(17村)
  の3郡で構成され大半を占める古志郡は越後国の米どころであった。 蒲原郡最北に
  新潟湊を有していたため上方との北前船の物流による運上金などの収入が表高を
  遥かに上回り豊かな財政状態であった。 しかし、天保年間に新潟湊が幕領として
  上知されて収入が減じ、一方で藩主の老中や京都所司代就任に伴う出費増や軍事費の
  増加に伴い財政状況が悪化した。
   この窮地を打開するために起用されたのが河井継之助である。"幕末の藩財政再建
  の神様"として名声の備中松山藩山田方谷に学び、財政立て直しと兵制改革を進めた。


 2. 北越戦争
   窮乏する藩政改革を進めたが戊辰戦争が起り藩論が二分されると家老に就任した
  継之助は藩主信任のもと教順派を抑え、佐幕派にも自重を求め藩論の決定権を掌中に
  収めた。 そして新政府軍からの献金・出兵要請を黙示し会津藩などからの協力要請
  に対しても明言を避け武装中立を維持した。 新政府軍が進軍してくると継之助は
  敵陣の小千谷慈眼寺へ出向き談判に及んだ(小千谷談判)。
   新政府軍と会津藩や幕府軍との調停役を務めるからと侵攻の猶予を願い出た。
  対応した土佐国宿毛家臣で新政府軍軍監督村誠一郎(高俊 23歳)は密偵などを
  通して長岡藩が軍備を整えていることから会津側と見做し「敵か味方か」を迫った。
   継之助は「真の官軍であるならば恭順するが会津への攻撃は官軍の名を借りた私的
  制裁と権力への野望である」と説得した。 これに対し岩村は論破できず継之助の
  提案を詭策として一蹴し会談は決裂した。 継之助が求めた山縣有朋(30歳)や黒田清隆
  (28歳)に面談していれば事態は変わったと言われている。
   会談決裂により長岡藩は奥羽越列藩同盟に加わり新政府軍と戦闘、継之助が準備
  したガトリング砲を始めとする最新兵器を装備し地元の利を生かした作戦で、一時は優勢の
  状態もあったが圧倒的な新政府軍の武力に押され長岡城は陥落し会津へ落ち延びた。


 3. 周辺藩の対応
  (1) 新発田藩の場合
    越後国は江戸時代後半に入ると新発田藩と支藩の村松藩と椎谷藩以外は譜代藩
   (高田・糸魚川・長岡・与板・村上・三日市・黒川・三根山)が占めていた。
    ※飛地として会津・桑名・上山・高崎・沼津藩領がある
   表は6万石。 幕末に11代溝口直溥(なおひろ)のとき高直しで10万石になった。
   藩領は岩代国信夫郡6,700石と蒲原郡に飛地があり、阿賀野川と信濃川下流域で
   蒲のような水草が生い茂る低湿地帯で広大な所領地は水害と開拓の歴史であった。
    10代直諒(なおあき)が著した『報国説』は庶民にも読まれ、藩内は勤皇の思想が
   行き渡っていた。 幕末の動乱にあたり新発田藩は周辺藩の奥羽越列藩同盟の圧力に
   抗しきれず、やむなく同盟へ加わる姿勢をみせた。 同盟側は新発田藩の動向を
   懸念し参戦を確実にさせようと謀り、幼少の藩主溝口直正を人質にしようと試みたが
   新発田藩が背後で動きながら領民を動かした強い抵抗に遭い阻止され、新発田藩は
   新政府軍に合流して参戦し長岡藩と対戦することとなった。
    この新発田藩の裏切りが北越戦争の勝敗を決した要因の一つとしてあげられる。
   そのため新発田城下は戦火を免れたが、一方の長岡では士族の家では新発田には
   嫁をやらないという因習が残るなど長岡の新発田に対する怨念は薩長に対する以上
   のものといわれている。

  (2) 高崎藩の場合
    高崎藩の飛地一ノ木戸領は蒲原郡(45村。三条市中央部から北へ燕市、中之口村、
   月潟村と、西へ分水町、弥彦村)に点在していた。 この地域はもともと村上藩飛地
   「四万石領」の一部であったため引続き村上藩領が入り組んでいた。 また、幕領や
   幕領桑名藩預所と村松藩など越後国の小藩の領地が入り組み長岡藩の主力である
   古志郡領が一ノ木戸領の南を占め、蒲原郡領(分水町・弥彦村・吉田町・巻町・
   潟東村・西川町・新潟市)が概ね高崎藩飛地の西側に広がっていた。 このため、
   一ノ木戸陣屋は長岡藩との交流があったと思われる。
    鳥羽伏見の戦いが勃発し一ノ木戸陣屋は越後国における高崎藩の名代として
   会津か朝廷か二者択一の決断を迫られていく。 このような中、薩長軍が押し寄せて
   くるのではとの噂から新潟港の扱いについて、長岡・村松・会津の3藩が開いた
   会議に一ノ木戸陣屋が出席したことから北越戊辰戦争に巻き込まれて行った。
    ところが本藩は新政府軍に恭順し薩長主体の新政府軍の一員として越後に出兵
   する最中に一ノ木戸陣屋は高崎藩飛地の安泰を願って賊軍のレッテルを貼られた
   会津藩に荷担し会津まで赴き数名の死者を出した。




                                    2018.1.18
        
      第74回勉強会 幕末の動乱と下仁田戦争
        
        ―なぜ下仁田戦争は起こったのか―

 元治元年(1864)高崎藩が世にいう水戸天狗党との戦闘は「
下仁田戦争」と呼ばれます。
戦争と言っても勢力争いや領地争いではなく、今日的に言えば水戸天狗党の阻止逮捕の
幕命を受けた高崎藩の警察的行為と水戸天狗党が実力突破に及んだ戦闘であります。
 両者の間には思想的な対立や勢力争いがあったわけではありません。 「戦争」という
表現では本質を表しておらず幕末の政治混乱に巻き込まれた事件であり実態が不明確な
政治犯にして民衆に対する略奪放火等の兇行犯を取逃してしまった事件であります。
 下仁田戦争がなぜ起こったのか、元治元年11月16日前夜の状況について探ります。

T 元治元年までの動き

 1. 時局に影響を及ぼした人物の去就
  元治元年の前、弘化・嘉永・安政・万延・文久の20年間において、次の人物の去就が
 大きく影響を及ぼした。 まず国内政治体制を脆弱にしたきっかけの一つが水戸藩主
 徳川斉昭である。斉昭は信仰的攘夷とそれに基づく藩政改革により藩内に混乱を招き、
 朝令暮改的な言動により藩士や領民に不満分子をもたらし何かと家康以来の慣行を
 度外視し幕政に注文を付けていた。 弘化元年(1844)に謹慎隠居を命じられたが、
 却って水戸藩と幕府の関係を悪化させ徳川御三家という立場の者が幕府の権威を低下
 させる行動を取っていた。
  次に江戸幕府の開幕以来、幕府が国政の主導権を担っていたが弘化2年(1845)に即位
 した孝明天皇により幕府と朝廷の関係は大きく変化した。 それまで幕府との対応を関白
 以下の公卿に任せていた歴代の天皇と異なり、孝明天皇は幕府からの相談事に対し意見
 を言い幕府の言うままにならなかった。 この結果、朝廷主導の場面が増加し天皇の生理的
 ともいえる攘夷が幕府だけでなく公卿や後の尊攘派も右往左往させた。 
  一方幕府は嘉永6年(1853)に病弱と噂されていた徳川家定が第13代将軍に就任。
 すぐに後継将軍問題が発生し政権争いが渦巻き、これに政策が絡み泰然とした方針が
 執れなくなった。 弱体化する幕府の体制を立て直すため安政5年(1858)に彦根藩主
 井伊直弼が幕閣の切札として大老に就任した。 直弼の基本方針は徳川体制の堅守で
 あったが、これは旧体制の遵守でもあり幕政に口を出すことが認められていない御三家や
 外様大名、公卿およびその家臣らを力で抑えようとしたことから反発を招いてしまった。
  直弼が推して徳川家茂が第14代将軍に就任したが直弼暗殺の跡を受けて推進された
 公武合体策は和宮降嫁もあり落着いたかに見えた。 しかし朝廷側の要求はエスカレートし
 幕府は将軍と閣僚が京都に駐在するほど地位が逆転した。 
  対外的にはペリー来航は日米友好条約で真の開国までは行かなかったが安政3年(1856)
 にタウンゼント・ハリスが米国総領事に就任し、通商条約締結を強要すると幕府は開港へ
 舵を切った。 これにより攘夷と開国がぶつかり合ったが文久2年(1862)の「文久の改革」
 により一橋慶喜が将軍後見職に、福井藩主松平慶永が政事総裁に就任し、参預会議に
 よる有力大名参画の政治体制が進められるかと思われたが、横浜鎖港問題から国政を
 幕府に委任するか政権を朝廷に返上するか二者択一を迫られ、朝廷からは「告示に関して
 は諸藩に直接命令を下すことが有り得る」とされてしまった。 慶喜はこれを受け入れ職に
 留まったが幕閣の猛反発を招き、慶永は翌年罷免され文久3年(1863)に慶喜と連携し
 横浜鎖港を推進する川越藩主松平直克が政事総裁に就任し老中と軋轢が高まってしまった。

 2. 動乱を起こした出来事
  元治元年の動乱に至る下敷きとしては幕府の権威低下と無謀な攘夷論の横行と言える。
 まず、嘉永6年(1853)に老中阿部正弘が米国国書返書に対し広く献策・意見を求めた。
 開明的民主的行動ながら幕府の権威は失墜し人材登用による実効が上がった反面幕政批判
 が始まった。 安政5年(1858)に日米修好通商条約を勅許を得ずに調印したことが尊王攘夷
 運動に拍車がかかり、同年朝廷から水戸藩へ出された勅旨「戊午の密勅」は前代未聞の諸藩
 への勅条で幕府権威は失墜し、水戸藩では幕府からの抗議に返却するか否かで抗争が起り、
 これがきっかけで反幕府行動が高まった。 そして万延元(1860)水戸藩と長州藩との狂信的
 攘夷派が攘夷を実行に移すため「成破の盟約」を結んだ。
  万延3年(1863)の14代将軍徳川家茂上洛は公武合体と孝明天皇の攘夷の意向を実行
 するためであったが、3代家光以来であり将軍が朝廷に下ったとし勤王派の勢いを助長することと
 なり「尊王攘夷」の言葉が独り歩きする。

 3. 元治までの動乱事件
  幕府閣僚を襲撃は政権に対するテロ行為は幕府の権威を失墜させ動乱へ大きく動いた。
 万延元年(1860)井伊大老を暗殺する「桜田門外の変」が勃発。 彦根藩邸から江戸城
 桜田門まで僅かな距離で供周りより少ない人数で幕府の最高権力者の首を取られる事件は、
 衝撃だけでなくテロの実効性を世に知らしめてしまった。
  続いて文久2年(1862)の「坂下門外の変」は公武合体政策推進者である老中安藤信正
 (磐城平藩主)襲撃で、公武合体の破滅だけではなく自分たちの意に沿わないことは暴力で
 抹殺する風潮を高めた。 更に暴力による攘夷実行として同年に「東禅寺事件」が起こる。
 外国人(英国人)を襲撃し殺害する行為が攘夷実行という短絡的風潮となり、責任は政府に
 求められ幕府権威はどんどん低下した。
  すると文久3年(1863)に攘夷決行として無謀な「下関事件」と「薩英戦争」が起った。
 前者は長州藩が外国民間船砲撃をきっかけに四か国艦隊に長州藩が砲撃された事件。
 後者は生麦事件をきっかけに英国艦隊が薩摩藩と衝突した事件で、いずれも責任は
 政府である幕府に押し付けられた。 事件は地方藩である薩長が起こし始末は幕府という
 構図は、もはや幕府には藩を抑えられないという意識を持たせ倒幕につながる。
  薩長同盟が結ばれるまでの間、薩摩藩と長州藩の確執から断絶が続くきっかけとなった
 「禁門の変」が起る。 「8月18日の政変」と呼ばれる朝廷内の権力闘争の結果敗れた長州派
 の公卿が長州に落延びた「七卿都落ち」をきっかけに、朝廷支配奪回を目指した長州藩
 過激派が朝廷防備の幕府側会津藩や薩摩藩と戦闘し、宮中に向け発砲し朝敵となった
 事件である。 この事件から理由は何であれ「玉」と俗称された天皇を手中にした方が
 優位という我国の古典的な意識が明確になった。



U 水戸藩の影響
 水戸天狗党は元水戸藩士を中心とした集団なので当然のごとく水戸藩の事情が大勢を支配
 していた。 水戸藩は伝統的尊王思想に加えて幕末に常陸国沿岸へ外国船が出現したこと
 から藩士の信仰的尊王意識に攘夷熱が乗じて、また藩主斉昭の朝令暮改的言動が藩内の
 混乱を招き一方の藩士を中心とする「尊攘」思想が全国に伝播した。 尾張藩や紀州藩に
 負けない藩になろうとする斉昭の大国主義と、そのために財政窮迫の藩政を改革しようとした
 結果失敗した。 この情勢下で藩主擁立を起因とした権力争いが劇烈を極め、また無理な
 改革により頻発する農民騒動が藩士間の確執に重なる状況であった。

 1. 伝統的尊王思想が柱の藩
  (1) 御三家の立場より公家との関係
   水戸藩は徳川御三家の立場を重視する藩士・領民と尊王意識が強い藩主とそれを支持
  する藩士という二重構造の藩であった。 2代光圀の正室は御陽成天皇の皇子(母親は
  近衛前子)近衛信尋の二女で信尋は関白左大臣近衛信尹の養子となり自身も関白左大臣
  を務めた。 公家から正室を迎える状況はその後も続き5代宗翰と6代治保は関白左大臣
  一条兼香の娘、斉昭は宮家の有栖川宮織仁親王の12女、3代綱条は右大臣今出川公規
  (今出川家は藤原北家の支流閑院流西園寺家の庶流で公家清華家の一つ)の娘が正室。
  徳川家内部から正室を迎えたのは4代宗尭(3代綱条の子吉孚の娘)と7代治紀(紀州藩主
  徳川重倫の3女)だけである。
   尾張藩は10代斉朝は家斉の弟治国の長男一橋斉朝、11代斉温は家斉19男、12代斉荘
  は家斉12男、13代慶臧(よしつぐ)は家斉の弟斉匡10男である。 尾張徳川家の血脈を維持
  するために設けられた連枝高須松平家からは、8代宗勝、14代慶勝、15代茂徳がいる。
   紀州藩は、11代斉順は家斉7男、12代斉彊は家斉11男、13代慶福(後に14代将軍)は
  11代斉順の子である。 ところが水戸藩は宗家からの継嗣迎え入れを行わず阻止している。
  8代斉脩が継嗣なきまま死去した時、家老一派が後継を11代将軍家斉系列御三卿清水家
  からの養子受け入れようとしたが、藩内が二分されてまで受け入れを阻止し斉昭を擁立し
  徳川政権に歯向かう結果となった。

  (2)『大日本史』編纂事業
   もう一つ尊王意識が強い背景には『大日本史』の編纂がある。 2代藩主徳川光圀が
  編纂に取り組み明治39年に完成するまで水戸徳川家事業として代々藩主が継続した。
  『大日本史』は神武天皇から100代の帝王の治世を扱う紀伝体(東アジア歴史書の書式)
  の史書で「大義名分的な尊王論」と言われ、編纂に携わった者から生まれたのが後日
  「水戸学」と称される。この学派が神道を土台にした尊王論である。

 2. 尊王攘夷論の混乱
  (1)『新論』の影響
   『新論』は文政8年(1825)水戸学の会沢安(正志斎)が藩主徳川斉脩に献上するため
  著した。 日本の国体としての優越性を前提とし「攘夷」の主張が正しいのは情勢の問題で
  はなく、日本という国の性格に基づく本質の問題であると主張した。
   「社会に広がっている諸種の弊害を除去し、支配体制を強めることを主君に進言する
  ことで世人と談説するものではない」とし、斉脩は「忌諱に渉る者有」との理由で公刊を
  認めなかった。 しかし密かに筆写され吉田松陰、真木和泉、平野國臣ら多くの志士の
  間で読まれ、あたかも尊王攘夷論の経典・理論的支柱の一つとなった。 
   後年は尊王攘夷鎮派の領袖として文久2年(1862)には一橋慶喜に対して開国論を
  説いた『時務策』を提示している。 このようなことから尊王攘夷激派からは「老耄
  (ろうぼう=老いぼれ老人)」と批判された。

  (2)『新論』の概要
   欧米諸国が我が国を窺う実情を説き外国の侵略意図は直接的な侵略ではなく、
  キリスト教の浸透や通商に伴う民心の動揺離反を誘うことに焦点おいているとした。
  意図的に攘夷を鼓吹することによって民心を結集することが目的としている。
   攘夷の方策として外敵を撃退し鎖国体制を固守しようとする現状維持的な議論で
  なく幕府を中心とした内政改革を実現し、その結果武備の充実をもって国威を海外
  にまで発揚させたいと主張している。 国家長久の計として忠孝尚武、民を重んじた
  日本伝統の精神・政治体制を詳しく述べ、庶民教化のための根本を国教として神道を
  力説した尊王論である。 この主張が別個の思想に由来する攘夷論と尊王論とが
  政治論として結び合うこととなった。

 3. 徳川斉昭の登場
   斉昭は7代治紀の三男で幼名は敬三郎。 兄の8代水戸藩主斉脩の正室は11代将軍
  家斉7女の峰姫、次兄の頼恕は高松藩主の養子となり弟も養子に出ていた。 8代斉脩
  には子がなく重態に陥ると世子問題が起る。 斉脩夫人の弟清水侯を養子に迎えようと
  する一派と弟の敬三郎を擁立しようとする一派が対立した。 敬三郎排斥・清水侯擁立
  の首謀者の江戸家老榊原淡路守ら権門一派は反対派から「奸」と呼ばれた。
   敬三郎擁立の一人に水戸歴史館の一秀才,一儒生に過ぎなかった若い藤田東湖(23歳)
  がいた。 この擁立運動の先頭に立ち斉昭の信任をかち得ると同時に、殆どが下級藩士の
  新進の人材を結集して政治的一派を築くことになる。 斉昭が藩主就任も藩内の融和が
  図られず斉昭擁立派・下級藩士・対幕府強硬派vs斉昭排除派・上席藩士・幕府尊重派
  という構図に進む原因をつくってしまう。 加えて女性に対するうわさが絶えず人品を危惧
  される人物であった。

 4. 徳川斉昭の改革
   天保8年(1837) 斉昭は一連の藩政改革を行った。 経済立て直しとして全領地の検地、
  藩校弘道館及び郷校の建設,江戸定府制の廃止,国民皆兵路線の推進,西洋近代兵器の
  国産化、また幕府に対し蝦夷地の開拓や大型船建設の解禁などをへ提言した。
   内政改革は新たなる検地によって農民の不満が高まり一揆が頻発し、財政厳しい中の
  偕楽園造成や『大日本史』編纂負担に対する批判も高まり改革は頓挫した。
   また認められない直接の幕政介入を公然と始め人材登用になった反面、老中に息の
  かかった者を推挙入閣させ幕閣の反感を買っていった。 そのような中、仏教抑圧及び
  神道重視策(寺院の釣鐘や仏像を鋳して大砲の材料に,廃寺や道端の地蔵の撤去,村ごとに
  神社設置の義務付け)に対する領民の反動,鉄砲斉射(大砲を一斉に発射)事件により、
  徳川斉昭は隠居謹慎を命ぜられ慶篤が藩主になる。
   水戸においては斉昭(烈公)は明治初年(1867)に光圀(義公)と共に常盤神社に祀られ
  歴代の藩主の中で崇拝されている。 この背景は明治15年明治天皇の勅旨をもって常盤神社
  の社号は賜った明治史観の影響と思われる。
   なお摂社(本社祭神と縁深い社)の東湖神社は藤田東湖が祭神(藤田彪命)。



V 文久の改革と横浜鎖港問題
1. 島津久光の登場
   島津久光は前藩主で兄の斉彬が死去後の藩主忠義の実父として薩摩藩で絶大な権力を
 有していた。 斉彬が臨終の節、「公武融和実現の宿志を継承し尽力すべき」との遺言を
 承けた。 将軍家の三百年来の厚恩に報いるため、また公武合体・皇威振興・幕政改革
 を実現できるよう建白するため藩兵を率い上京した。 久光の建白は武力を背景として
 いるため威嚇的であったが朝廷は江戸へ勅使を派遣することとなり久光と薩摩藩士千名
 が随行した。 この結果、安政の大獄で処分された人事が解かれ参勤交代の緩和,洋学
 研究の推進,軍事改革,服装の改革などが実施されることとなった。
  また、一橋慶喜が将軍後見職、松平春嶽が政治総裁職、松平容保が京都守護職に就き
 幕閣の強化と京都治安の安定を図った。 幕府が冷静に捉えれば久光の提言は幕藩体制
 を堅持する強い後援者の出現であったが度量に欠け外様の意見で動くことに抵抗を感じた。
 久光一行の帰路に派生したのが生麦事件である。

 2. 参預会議の設置
  文久3年(1863)12月末、久光は公家の近衛家や中川宮朝彦親王を通じて朝廷に運動
 して「参預会議」を成立させた。 当時の有力大名の中から選出して朝廷が任命した「参預」
 (現代の評議員)をメンバーとして構成し、日本の政策の協議を諮ろうとした。
  朝廷/幕府/諸大名三勢力間の意見疎通を図る公武合体策の柱になる中心の政治制度
 として諸大名が朝議や幕議に参加するためであった。 メンバーは将軍後見職一橋慶喜,
 京都守護職会津藩主松平容保,前越前福井藩主松平春嶽,伊予宇和島藩主伊達宗城,
 前土佐藩主山内容堂。 提案者の島津久光は無位無官のため当初はメンバーでなかったが
 元治元年(1864)1月13日従四位下左近衛權少将となり就任した。


  島津 久光 1817.10.29〜1887.12. 6 薩摩11代藩主斉彬の弟、第12代藩主の実父 国父
  伊達 宗城 1818. 8. 1〜1892.12.20 旗本山田直勝二男→伊達寿光養子→宇和島藩主伊達宗紀養子
  山内 容堂 1827.10. 9〜1872. 7.26 山内家連枝山内豊著の長男→土佐藩11代藩主
  松平 春嶽 1828. 9. 2〜1890. 6. 2 田安徳川家3代斉匡の8男→福井15代藩主松平斉善の養子
  松平 容保 1836.12.29〜1893.12. 5 尾張藩連枝高須藩主義建(水戸藩6代藩主治保の孫)の子→会津藩9代藩主
  一橋 慶喜 1837. 9.29〜1913.11.22 水戸藩主徳川斉昭7男→一橋家9代


 この会議が上手く立ち上がらなかった要因に幕府の代表たる慶喜が最年少であり根回し型の
 性格でなかった故、独断性が強かったことが考えられる。

 3. 横浜鎖港問題
  孝明天皇は骨髄からの攘夷主義者であった。久光や春嶽といった参預は孝明天皇を
 はじめとする朝廷の強硬な攘夷政策を変化させようと苦労していた。 幕府は開港を
 受け入れたものの朝廷の支持や好意・信頼を獲得するためには朝廷の方針通り「鎖国」
 を受け入れる方が政策上都合よかった。 つまり開港した横浜港の閉鎖,所謂「横浜鎖港」
 を強硬に主張する長州の意見を受入れ方針を決定したものの、今度は薩摩からの意見
 を背景とした開港という「開鎖問題」を利用して薩摩藩らの諸大名勢力を朝廷から
 締め出し幕府が朝廷を取り込んで幕府主導による公武合体策を実現させようとした。
  全国的に「攘夷熱」が依然醒めやらぬ状態であったので幕府はその民情を考慮し、
 幕府に対する反感を買わないためにもわざと「開国策」を唱えず、敢えて「鎖国策」を
 主張した。 一方久光や春嶽は頑固なまでに攘夷論を主張する朝廷の意見や幕府の
 政策を変化させるためもともと開国論であった慶喜の手助けになるものと、開国策の
 主張に大きな期待を寄せていた。ところが老中の水野忠精や酒井忠績が「薩摩藩主導の
 開国論には幕府としては断じて従うことが出来ない。 横浜鎖港は江戸の御前会議で
 決定したもの。 前年は長州藩の強硬な攘夷論に振り回され、今回薩摩藩の開国策に
 従うことになれば幕府は一定の見識がないものと思われ幕府の威信にかかわる」と反対し
 慶喜はそれを受け入れた。
  幕府は久光の働きかけを信用せず猜疑心を以て見ており薩摩の開国策に反対した。
 本音は薩摩主導久光の提案では気に入らなかった。 藩主でもない人間に前年幕政改革
 を指図されたことに不満を持っており、対面ばかりを重んじた対応であったと言える。

 4. 政治総裁の交代
  (1) 松平慶永の罷免
   文久の改革に伴い越前藩主松平慶永(春嶽)が幕府の政治総裁職に就任した。
  慶永は田安徳川家3代徳川斉匡(8代将軍吉宗の曾孫)8男に生れ、越前福井藩15代藩主
  松平斉善(11代将軍家斉の22男)の養子となる。 越前松平家は家門であり慶永が
  先見性のある有能な人物で幅広い人脈を背景に現実的な政治改革を進めるリーダーで
  あった。 しかし対外政策上鎖港は諸外国との危機を引き起こす可能性が高いので
  「横浜鎖港」に反対し罷免された。

  (2) 松平直克の就任
   慶永罷免後約半年後に川越藩主松平直克が政治総裁職に就任した。 直克は
  筑後久留米藩9代藩主有馬頼徳の13男(男子5番目)に生れ、優れた人材であったため
  長じて藩主跡目騒動に巻き込まれた経験を持つ。 久留米藩は兄頼永の信頼を
  得ていた水戸学を奉じる「天保学連」が影響を及ぼしていた。 その頼永が病に臥す
  と天保学連の若手が凡庸な7男(男子3番目)頼咸に代え、聡明な13男の直克(6男は
  津和野藩主亀井家の養子)を擁立しようとした。 しかし、指導層は長幼の序を乱す
  と反対し頼咸が襲封した。 (このことが尾を引き天保学連は前者が「内同志」、
  後者が「外同志」と分裂し抗争を始めている) その後川越藩松平直侯(水戸藩主
  徳川斉昭の8男)の婿養子となり、直侯が23歳で隠居(数か月後に死去)したため
  藩主となる。 川越藩松平家は越前福井松平と同じ結城松平家の系列で、徳川家門
  大名であるため直克に政治総裁職が回ってきたと思われる。 この直克がまずは
  横浜鎖港を実行すべきであり天狗党騒動の鎮静加は後回しにとする考えであった。
   開国派,公武融和,諸大名合議制を推進する松平慶永が退き、代わりに登場した
  松平直克は、水戸学の影響が強い久留米藩の出身のためか思想は攘夷であり天狗党
  には同情的な人物であった。



W 天狗党の変
 1. 筑波山挙兵
   後に天狗党の首謀者となる藤田小四郎は藤田東湖の庶子であったが父親の名声もあり
  尊王攘夷を口にする連中の支持を得ていた。 小四郎を中心とする水戸浪士らの目的は
  安政5年(1858)の日米修好通商条約に基づく横浜港(当時は神奈川港)の開港を阻止する
  ことであった。 しかし水戸藩内でも意見が通らず参預会議で横浜鎖港問題は決裂して
  しまった。「戊午の密勅」事件以来、水戸藩内にあっても尊皇派と佐幕派の確執が激しく
  加えて上士と下士、改革派と保守派の抗争,上席者間の権力闘争がうごめいていた。
   元治元年3月27日、小四郎など軽輩の士,各地の郷校で学んでいた攘夷派の村役人・
  郷士・神官などが水戸藩町奉行田丸稲右衛門を首領として筑波山に挙兵し「筑波勢」と
  呼ばれた。 旗揚げした時点では横浜鎖港が目的であったので水戸藩外の尊王攘夷の
  浪士も多数参加していた。 しかしこの行動は当初から矛盾を抱えていた。 
   挙兵を権威あるもののするため日光東照宮参拝を試みた(神聖な徳川家の御廟が
  汚されると判断され断られている)。 尊王攘夷運動のため幕府政策の横浜開港に
  対し反対し鎖港を求め自分たちの行動を権威づけるため、徳川幕府が最も基本とする
  徳川家康に求めることに矛盾を感じる。 神君家康に訴えるための行動であったかも
  しれないがこれ以外にも何通りにも分かれていた水戸藩士を中心とした集団は目指すところ
  方法など得体の分からない面が多い。

 2. 鎮圧対象から藩内抗争に
   挙兵後隊員を募集し増員となると費用が増大し豪商や豪農から資金援助が必要と
  なった。 当初は万事うまくいっていたが次第に援助の要請がエスカレートし強要・
  圧力・強奪が増え非協力者に対して押込み・打壊し・放火をする狼藉者が現れ出した。
   領民も水戸浪士隊の取締りを藩に訴え幕府も徒党を組んでの資金集めや無許可での
  行動、まして武器を携えての集団を看過できず諸藩に鎮圧兵を要請すると共に幕府
  自ら鎮圧隊を編成して浪士隊を追い詰め出した。
   水戸藩の市川三左衛門らを中心とする保守門閥派が藩校弘道館に学ぶ書生と結んだ
  「諸生党」が筑波勢鎮圧に乗出した。 朝比奈弥太郎・佐藤図書らを中心とした一派らを
  加えて上京し尊王攘夷穏健派の江戸家老武田耕雲斎・目付山国兵部らを致仕あるいは
  謹慎処分として退け、市川・朝比奈・佐藤が家老に就き実権を握った。 しかし、「鎮派」
  の執政榊原新左衛門・戸田銀次郎は江戸へ向かい武田耕雲斎が加わり江戸藩邸に入り
  藩主慶篤に意見具申し朝比奈・佐藤は罷免され尊王攘夷派が江戸藩邸を握った。

 3.複雑な勢力構図
   尊攘派に占拠された江戸藩邸の情勢を朝比奈・佐藤から聞かされた市川らは水戸城下に
  入り反門閥派の藩士や浪士を捕え筑波勢の家族にも弾圧を加えた。 水戸藩としても
  藩内の諸生党と天狗党の領民を含めた対立抗争を早く平定しなければとし水戸家連枝の
  宍戸藩主松平頼徳を藩主徳川慶篤の名代として水戸へ向かわせた。 江戸にいた鎮派の
  榊原が同行し千人余りの諸士が合流し「大発勢」と呼ばれた。 この大発勢が水戸城に
  入ることを諸生派が各地で妨害し、市川は入城を頑なまでに断り両者の間で砲撃戦に
  なった。 頼徳側は水戸城下を戦乱に巻き込むことを恐れ那珂湊へ移った。
   大発勢に筑波勢が大挙して加勢し市川勢を攻撃し市川勢は逃げ去った頼徳勢は榊原
  以下2千人余りで水戸に向かいこの軍事力を背景に水戸城に入ろうとした。 
   しかし市川勢は砲撃など反撃するだけでなく幕府追討軍総括田沼玄番頭意尊に援軍を
  要請。 幕府追討軍2千人余が水戸へ向かった。 幕府指示に対応するため水戸藩主
  徳川慶篤名代の水戸藩正規軍松平頼徳勢に対し、情報連絡の不備からか幕府内の体制
  弱体化からか市川勢からの言に乗って幕府軍が加勢することになった。
   しかも松平頼徳勢に尊攘派の藤田小四郎らの筑波勢,林五郎三郎らの潮来勢が連合し
  この側から見れば自分たちは藩主に従った正当な部隊である。その意を聞かず武力攻撃を
  行う市川らは反乱分子と考えられる。 一方水戸城を占拠している諸生派軍は幕府追討軍
  総括の命で幕府の一員として諸藩と共同作戦を担う正規軍で攻撃してくる尊攘派は賊軍
  である。 両者とも自分たちが正しく相手に非があると主張した。 事態打開のため老中に
  直訴すべく江戸へ向かったが、田沼に遣わされた者に捕らわれ幕府正規軍に弓を引いた
  反乱軍の指導者として死罪に処せられた。

 4. 那珂湊の戦い
   松平頼徳が切腹させられた後、幕府軍は総攻撃を開始したが大発勢・筑波勢・潮来勢
  の連合軍が勝利した。 10日余り後に再び幕府軍が総攻撃をかけたがいずれも撃退され
  頼徳軍が勝利した。 しかし追討を構成する諸藩は忍藩・佐倉藩・二本松藩・新発田藩・
  高崎藩・宇都宮藩・棚倉藩・関宿藩・壬生藩・福島藩という寄せ集め軍であったが1万を
  超す大軍になり次第に優勢となる。 すると筑波勢・潮来勢と同一視されることを恐れた
  榊原の軍は幕府側に投降した。 466人の投降者約半数が高崎藩と関宿藩に預けられた。
   その後両藩の他、佐倉・古河・忍の中規模藩から飯野・請西の小藩の計22藩に分割扱い
  となった。 大発勢にあっても武田耕雲斎や山部兵部らの隊は投降に反対したが投降者が
  出るようでは幕府の大群に勝てる見込みはないと考え、京都禁裏守衛総督一橋慶喜に
  訴えるしか道がないと決定した。 元治元年11月1日武田耕雲斎の下「水戸浪士隊」と
  名乗り大子を出発し京へ向かう。 この一行が下仁田と和田峠での戦闘を経て若狭国
  敦賀で投降した。 この一派が狭義の「天狗党」である。



X.天狗騒乱勃発前夜
 (1) 横浜鎖港を求める天狗と狼狽する幕閣
   元治元年に入ると天狗党の動きが活発になる。 老中板倉勝清は天狗党は大軍で
  水戸藩だけでは鎮静しがたいという風聞に接し同藩に鎮静化を要請するとともに、
  同藩の手に余り横浜に押し寄せて外国勢力と衝突するような事態となれば万事が
  瓦解する。 昨春の生麦事件賠償問題のようになってはと危機感を訴え江戸の老中
  だけでなく滞京老中も一橋慶喜を交えて評議し鎮静方を一緒に考えるよう要望して
  いる。 天狗党の動きを非常に憂慮しているだけでなく幕閣の弱体化が窺える。
   老中井上正直は度々の説諭にもかかわらず領内の浪士集結騒ぎが一向に鎮静化
  できない藩主徳川慶篤の無策を痛烈に非難している。 しかし幕府が慶篤を処罰
  すれば水戸藩では藩をあげて慶篤を擁して割拠する風説もあり江戸老中は動きよう
  がない状態であると滞京老中に報告している。

 (2) 幕閣・水戸藩主の動揺する方針
   徳川慶篤と武田耕雲斎は天狗党など尊攘激徒がいつ横浜へ襲撃をかけるかも
  しれない情勢の中で激徒を鎮静化するには横浜鎖港をするしか手立てはないと主張。
  これに対して井上ら幕閣は孝明天皇が上洛した将軍家茂に「無謀な攘夷」は好むところ
  ではないとする内容を示した宸翰の趣旨に基づいて激徒を鎮静化すべきであると主張
  し双方の意見が対立した。 友好通商条約を締結した流れからすれば幕府は三港を
  開港する方向であったが鎖港問題が起り参預会議のメンバーが幕府と慶喜の意向を
  尊重し鎖港を幕府方針に変更した。 このため政治総裁職松平慶永は罷免となり、
  体制側の方針が揺らいでいて分かりにくい構図が発生した。
   松平直克が政治総裁職に就くと将軍家茂に横浜鎖港を急ぐべきと説き幕議を決定
  すべく申入れた。 朝廷が幕府を通じて水戸藩主徳川慶篤に横浜鎖港の断行に尽力
  する旨を命じたこともあり天狗党の鎮静化をはかるためにも横浜鎖港の決行を急いだ
  と思われる。 これに対して軍艦奉行勝義邦は老中板倉・酒井・井上に鎖港に強く
  反対する旨を説いている。 趣意は横浜商人を退去させ鎖港を断行すれば外国との
  戦争に発展するから。朝廷の攘夷論に迎合する幕府の鎖港政策は時代に逆行する。
   天狗党の鎮圧には消極的で横浜鎖港校章を最優先させるべきと主張していた水戸
  藩主徳川慶篤は天狗党の民衆に対する狼藉が頻発する事態を受け一転して天狗党
  鎮圧に乗り出した。(天狗党に促されての鎖港実行では威信に関わるので、鎖港実行
  のためにも天狗党を打つと変節したかとも考えられる。)

 (3) 天狗党討伐と幕閣の変動
   老中板倉勝清は水戸家老を呼び出し天狗勢は臣たる道に背き,公法を犯し,諸家脱藩
  の徒を加え軍用金と称して押し借り同様のことをするのは水戸藩にとって恥辱であり
  一刻も早く水戸表に引き取らせるよう命じた。 このため天狗勢の鎮圧に消極的で
  あった慶篤も武田耕雲斎らを更迭した。 一転して門閥派が主導権を握り天狗党討伐
  へ加速した。
   しかし横浜鎖港については政治総裁職松平直克が慶篤の兄弟である一橋慶喜・
  鳥取藩主池田慶徳・岡山藩主池田茂政らと連携しあくまでも貫こうとした。
   不同意な老中板倉・酒井・井上ほか若年寄、大目付らを放逐する旨将軍に進言した。
  共に鎖港派であった慶篤と直克が一転して対立を深める中、老中は天狗党追討の命令
  を次々下し、門閥派と幕府隊が出兵した。 直克は不満として再度横浜鎖港と天狗党
  鎮撫を将軍に説得し不同意であった老中らは罷免された。


   下仁田戦争については、こちらを参照願います。 第53回勉強会 下仁田戦争と慰霊木像について 


                                                      2017.5.18
        
          第70回勉強会 高崎の寺院
1. 旧高崎市の寺院
   下滝町に建つ慈眼寺は、天平年間(729-745)東大寺の良弁僧正の開山といわれ華厳宗で
  あったが、弘法大師が諸国巡錫で当地へ立ち寄った伝承もあり真言宗の中心寺院になり、中世
  には真言宗の僧侶養成の談義所となった。 弘仁8年(817)に伝教大師が鬼石町緑野寺を
  中心に布教活動が展開された。 一方、天台宗の天龍護国寺は貞観6年(864)慈覚大師に
  より創始され、この古刹を中心に真言・天台の二大宗派が上野国にも広まった。
   平安時代末期になると戦乱が続く中で浄土信仰が盛んになり、浄土宗・浄土真宗・時宗が
  成立し、鎌倉時代に盛んになった禅宗が戦国時代になると地方の武士に受入れられ曹洞宗の
  寺院が数多く建立された。
   平成の大合併以前の旧高崎市に続いている寺を宗派別にみると、全国的な状況と同じように
  真言宗と天台宗が多い。 続いて、関東地方の鎌倉時代以来の傾向である武家に信仰された
  曹洞宗が多く浄土真宗が少ない。

   真言宗51(高野山派38、豊山派10、智山派2、醍醐派1)、天台宗18
   禅宗は曹洞宗23と黄檗宗1、臨済宗1
   浄土宗5、浄土真宗4(本願寺派2、大谷派2)、時宗2、日蓮宗2など


2. 高崎城下の寺院
 
  江戸時代の高崎城下には、真言宗9および天台宗3にくらべ、城下の為か曹洞宗が6ヶ寺と
  多く浄土宗も徳川崇家との関係からか3ヶ寺あった。 大きな城下町兼宿場町のためか 
   主な宗派(真言・天台・浄土・浄土真・曹洞・日蓮)が揃い、虚無僧や修験者の寺が目立つ。

 (1)高崎城下成立前からの寺
   興禅寺 治承元年(1177)に新田義重開基と云われる 
           その後、臨済宗を経て天文6年(1537)に和田信輝が再興し曹洞宗になる。
       高崎城築城に伴って三ノ丸奥に移転縮小、享保2年(1717)墓地を前栽町に移動
           天保11年(1840)に堂宇を現在地へ移した。
   玉田寺 永正元年(1505)に和田信輝が開基 真言宗豊山派
   普門寺 天正3年(1575)玉田寺末寺 廃仏毀釈で廃寺
   善念寺 天文9年(1540)に和田信業が開基 浄土宗
   龍宝寺 愛宕山の別当 真言宗醍醐三宝院の末寺 神仏分離で廃寺
   覚法寺 1774年の類焼もあり創始年不明 本堂の向きが南→北→西 浄土真宗本願寺派
    正法寺 文禄2年(1593)箕輪妙福寺より和田へ移る 日蓮宗

 (2)箕輪からの移転の寺
  ア.井伊直政に因る高崎城下創設に伴い、箕輪から移った寺院
   石上寺 箕輪城鬼門除け 真言宗豊山派 代々城主の祈願所 廃仏毀釈で廃寺
   安国寺 足利直義が全国に66寺建立の一つ 浄土宗 彦根へ移った寺は宗安寺と改名
   大信寺 井伊直政移封に伴い彦根へ移宇し両所にある 駿河大納言忠長卿の菩提所 浄土宗
   大雲寺 碓氷郡秋間村桂昌寺末寺 直政彦根移封に伴い彦根へ移宇し両所にある 曹洞宗
   法華寺 箕輪椿山法華堂を井伊直政家臣西郷藤左衛門が中興して寺に 日蓮宗
   延養寺 開基は足利尊氏 高野山真言宗 境内に幕末の御伝馬事件記念碑が建つ
   慧徳寺 井伊直政伯母慧徳院宗貞尼のための慧徳院を高崎に移し寺に 曹洞宗
   慈上寺 箕輪城主長野業正の招きで田宿に住 普化衆虚無僧寺 田宿が移転し田町へ
   金剛寺 諏訪明神上社の別当寺 天台宗
  イ.井伊直政が建立
   龍広寺 箕輪龍門寺の白菴を引いて開山 城地名づけに関わり山号「高崎山」

 (3)江戸時代に創建
  ア.酒井氏時代
   光明寺 開山惠賢の祈祷により城主酒井家次の子息の病が癒えたことから開基 慈眼寺末寺
   法輪寺 箕輪村法峰寺末寺 酒井宮内丞(高崎城主酒井忠次の子息宮内大輔忠勝か)が開基
   永泉寺 通町庚申寺の隣 修験當山派 慶長14年(1609)箕輪より移る
   天徳寺 同所 修験當山派 慶長15年よりこの地に住す
  イ.安藤氏時代
   向雲寺 慶長元年酒井家次開基の説は誤り 安藤重信が開基
   清海寺 普化衆虚無僧寺 田町慈上寺の弟子が以前に行者清海が住んでいた跡に創建 廃寺
   良善寺 安藤氏の祈願寺 安藤氏転封の後この地は松平氏の大染寺に
   眞應寺 高野山真言宗 柴崎村光明寺の末寺 廃寺
   眞福寺 延養寺末寺 諏訪明神下社の別当 廃寺
   長松寺 従前は臨済宗 寛永年間興禅寺六世が再興し曹洞宗
  ウ.大河内松平氏時代
   威徳寺 天台宗東叡山寛永寺末寺 松平輝貞が敬慕する将軍家礼拝のため城内に建立
      高崎城取壊しに伴い廃寺 市重文の内陣が成田山光徳寺に移築された
   大染寺 江戸湯島霊雲寺(将軍徳川綱吉の支援に因り元禄4年創建)の末寺 真言宗
      松平輝貞が菩提寺の代りに帰依 高崎城取壊しに伴い廃寺 現高崎公園



3. 江戸時代の寺領
  
江戸時代に主要な寺社に幕府や藩から領地が与えられた

 (1)城下の寺
   慈眼寺(下瀧村30石と宿大類村12.4石)、護国寺(上並榎村20石)、興禅寺(赤坂村15石)、
   玉田寺(赤坂村12.5石)、石上寺(赤坂村5石と新後閑村7.5石及び 南大類村10.5石)
   安国寺(下和田村12石)、慧徳寺(赤坂村15.5石)、延養寺(赤坂村12石)、大雲寺(赤坂村15石)、
   大信寺(保渡田村7石と下和田村100石→駿河大納言墓守として)、龍広寺(赤坂村10.5石と
    下和田村2.4石)、光明寺(赤坂村11石)、向雲寺(赤坂村3.5石と下和田村8.5石)、
   長松寺(赤坂村10石)

 (2)高崎藩城付き領の主な寺
   天龍護国寺(上並榎村20石)、慈眼寺(下瀧村30石と宿大類村12.5石)



4. 明治に廃寺
  
江戸時代にあったが、明治政府の政策に因り多くの寺が廃された。

 (1)神社の別当寺
   江戸時代は特別な神社を除き、寺院が神社の窓口としての別当寺があったが、
  慶応4年(1868)の神仏分離令により龍宝寺(南町の愛宕山別当)、眞福寺(あら町の諏訪明神
    下社別当)、金剛寺(新紺屋町の諏訪神社上社別当)が廃寺

 (2)普化宗の寺
   臨済宗の一派で檀家を持たず葬儀にも関与しない虚無僧寺の慈上寺(田町)と清海寺(あら町)
  があった。 普化宗は徳川家康から交付された「虚無僧御定11カ条」があり、幕府は浪人の
  取締りや隠密探索に利用したといわれる。
   幕府と関係が深いとされ、明治4年(1871)太政官布告をもって廃止され廃寺となった。

 (3)修験道の寺
   修験道は日本古来の山岳信仰に仏教・陰陽道などの要素が習合して成立した宗教。
  庚申寺・永泉寺・天徳寺・護国院(いずれも通町)、宝教院(新田町)、唐沢寺(砂賀町)は
  明治5年(1872)の修験禁止令により廃寺となる。 

 (4)檀家が無い或いは少ない寺
   高崎城内にあった威徳寺と大染寺は高崎城主の祈願寺であったため廃された。また、
  高崎地区に本寺があった末寺の眞應寺(田町)・普門寺(本町)龍宝寺(南町の愛宕山別当)は
  檀家がないため廃止される。



5. 各寺院の話題
  長松寺 (赤坂町)17代住職山端息耕は子守の子女に教育を受けさせるため「私立樹徳子守学校」
    を創設。明治36年〜昭和19年まで在学者3000人、卒業者1000人
    群馬県立高崎高等学校の前身である高崎中学校が置かれた発祥の地である。
    高崎市重要指定文化財の「天井絵」・「涅槃画像」がある。
  大雲寺 (九蔵町)高崎市重要指定文化財の「武居梅坡の水墨画龍図」
  光徳寺 (成田町)明治9年に本町梶山与三郎氏所有地へ、高崎城内三ノ丸に在った「威徳寺の内陣」
    が移転された。翌年成田山新勝寺の出張所となり、その後光徳寺に。
  法輪寺 (羅漢町)本堂内壁面棚上に安置された「五百羅漢157体」は高崎市重要指定文化財
    幕末から明治初頭の高崎の絵師一椿斉芳輝筆の「間引の図」がある。
  善念寺 (元紺屋町)「阿弥陀如来像(惠信僧都作?)」は高崎市重要指定文化財。
    和田三石のうち「円石(まるいし)」が門前の橋の一面に。(他の一面は光徳寺境内)
  安国寺 (通町)明治4年11月〜5年1月に第1次群馬県庁の庁舎に使われ、明治9年8月〜9月に
    第2次群馬県庁が置かれた。 文化4年(1807)愛知県豊川市妙厳寺豊川閣より分身した
   「豊川稲荷?枳尼尊天」がある。
  大信寺 (通町)高崎市指定史跡「駿河大納言忠長卿の墓」がある。 徳川忠長は寛永8年(1632)
    高崎城内で自刃。墓は総高234m、墓所の唐門は昭和20年8月14日空襲で焼失。
    高崎市重要指定文化財 東国33ヶ国秤座「守随彦三郎の墓」
  延養寺 (あら町)高崎市重要指定文化財「円空作神像」(県内円空仏15体中4番目の大きさ39.7p)
    がある。「文月浅間記」著者羽鳥一紅の墓と句碑、文久2年(1862)〜慶応2年(1866))の
    御伝馬事件の碑が建つ。  
  向雲寺 (下横町)鍛冶町出身の本見林兵衛の子にして千日回峰の願行を遂行した「大行満願海」
  興禅寺 (下横町)高崎市重要指定文化財の「和田城並び興禅寺古絵図」がある。
    26世 田辺鉄定が明治39年に開設した「高崎育児院」は昭和12年まで続いた。
  光明寺 (若松町)「内村家五代之墓」と六代・七代の墓がある。古墳上に建つ護摩堂内に
    愛染明王木像があり「愛染堂」と呼ばれる。
  龍廣寺 (若松町)収容中病死した日露戦争におけるロシア兵捕虜3名の「ロシア兵の墓」、
    市川左近他の多数著名者の墓がある。
  清水寺 (石原町)高崎市重要指定文化財の城主安藤重博が奉納した「能楽の絵」「龍頭観音の絵」
    斎藤宣長奉納の「算額」がある。下仁田戦役戦没者慰霊「田村堂」が建つ。
  永福寺 (寺尾町)「新田義重の墓」や幕末の日本画家「矢島群芳の墓」がある。
  天龍護国寺 (上並榎町)高崎市重要指定文化財「寺号勅額」は延長6年(928)醍醐天皇に下賜された
    もので小野道風書といわれる。「並榎八景絵巻」がある。
  大聖護国寺 (八幡町)江戸音羽護国寺(五代将軍徳川綱吉母桂昌院の祈願寺)の初代住職は当寺24世
    住職亮賢僧正
  宗傳寺 (上豊岡町)「欄間の鏝絵」地元左官滝次郎正勝作 「格天井の絵画・和歌」がある。
  満勝寺 (北新波町)高崎市重要指定文化財「阿弥陀如来立像」
  来迎寺 (浜川町)「長野氏累代の墓」(五輪塔8基、宝篋印塔26基)と高崎市重要指定文化財「阿弥陀如来像」
  光台寺 (山名町)高崎市重要指定文化財「線刻地蔵菩薩」(安山岩を加工し線彫りの地蔵)
    「舘たばこ」のはじまりの地。
  心洞寺 (木部町)木部城主木部氏の館跡 「木部駿河守範虎の五輪塔」「木部姫物語」伝説
  安楽寺 (倉賀野町)将棋駒型に加工した天引石に凡字「異形板碑」「倉賀野見立八景」
  慈眼寺 (下滝町)高崎市指定史跡「江原源左衛門重久の墓」、高崎市重要指定文化財
    「五鈷鈴・五鈷杵・金剛盤」がある。





                                                      2017.3.15
        
    第69回勉強会 大多喜と館山 −高崎と所縁の深い研修旅行先ー

1. 房総半島を取り巻く情勢
  「関八州」とは、上野・下野・常陸・下総・上総・安房・武蔵・相模の関東8ヶ国のことで、「房総」は
  安房国の「房」と上総・下総両国の「総」を採って呼ばれる。

  (1) 小田原征伐 
    天正18年(1590)に豊臣秀吉が北条氏を攻略した戦いで、ほぼ天下を手中にした秀吉側から
   「小田原征伐」とか「小田原征討」と呼ばれる。 関東地方の支配体制が大きく変化した戦いで
   殆どの大名が秀吉軍に加わり上杉や武田と互して関東地方西半分に勢力圏築いていた北条氏を
   圧倒的な数の威力で滅亡させた。

  (2) 小田原征伐直前の関八州の勢力
    北条氏が相模・武蔵・上野、佐竹氏が常陸、宇都宮氏が下野、結城氏が下総北部、里見氏が
   安房・上総下総南部を支配していた。 各大名の小田原征伐に対する対応と終戦後の処遇状況は、

   ア.佐竹義宣(1570−1633)
     常陸太田を中心に支配していた佐竹氏18代義重の子で、小田原征伐に参陣したため秀吉より
    常陸国54万5800石を安堵された。 一方、水戸地方の江戸重通は小田原征伐へ不参陣のため
    所領没収され佐竹氏が常陸太田から水戸城へ入る。 その後、関ヶ原の戦いでは態度不明確に
    つき羽後国へ移封される。

   イ.宇都宮国綱(1568−1608)
     宇都宮氏21代広綱の子で結城朝勝は兄弟。小田原征伐に参陣し下野18万石となったが
    慶長2年(1597)突如秀吉に改易される。 理由は諸説あり、浅野長政の三男を養子にする話が
    破談になった恨み?と言われる。

   ウ.結城晴朝(1534−1614)
     結城地方を中心とした結城氏16代正勝の子で小田原征伐に参陣し土浦城・下館城一帯を
    与えられる。 一時は宇都宮広綱の次男(佐竹義重の甥)を養子に迎えるところ後日取り消し、
    徳川家康次男で秀吉の養子となっていた秀康が結城晴朝の養継嗣となった。

   エ.里見義康(1573−1603)
     房総半島南部を支配していた安房里見氏7代義頼の子で小田原征伐に参陣し所領安堵かと
    思われたが、勝手な制札を出したことが惣無事令(大名間の私闘を禁じる)違反となり上総・下総は
    没収され安房のみ安堵となった。 この事件をきっかけに徳川氏と通じるようになり関ヶ原の戦い後、
    論功行賞により常陸鹿島3万石が加増され12万2千石となる。

  (3) 徳川家康の移封
    小田原征伐後、秀吉は家康の領地を三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5ヶ国から上野・下総・上総・
   武蔵・相模・伊豆の6ヶ国へ移封させる。 家康は旧北条氏領を中心に家臣や一族を配置した。
    主な配置は越後・信濃方面に対し井伊直政を箕輪12万石、平岩親吉を厩橋(前橋)3万石に。 
   下野・奥羽方面対策として榊原康政を館林10万石、結城秀康を結城10万石に。 常陸・安房
   方面の対策として本多忠勝を大多喜10万石、鳥居元忠を矢作4万石、大須賀忠政を久留里3万石
   に配した。



2. 大多喜
  (1) 中世からの要衝地
    上総国は房総半島の中央部分を占め300m程度の丘陵が連なり中世の山城が点在していた。 
   主たる城塞として大多喜城(海抜73m 高低差44m)と久留里城(海抜121m 高低差79m)がある。
    中世における上総国の拠点で、房総半島の背骨に位置し外房へも内房へも進出しやすい状況にあった。
   いずれの城も現在は再建されたもので前者は鉄筋コンクリート造り3層4階、後者は鉄筋コンクリート造り2層の
   模擬天守が建つ。 大多喜城は16世紀中頃は安房里見氏の重臣正木氏宗家の居城であったが
   1590年に徳川家康の関東入封に伴い本多忠勝が10万石で配された。

   

  (2) 本多忠勝
    19歳にして旗本先手役大将に抜擢され以後の徳川軍の戦いに全て参戦(酒井家次・榊原康政
   ・平岩親吉・鳥居元忠・大久保忠世・井伊直政らと共に)。 姉川の戦いの単騎駆けをはじめ、徳川軍の
   士気を常に奮い立たせ関ヶ原の戦いの後に伊勢桑名へ移る。 忠勝の死後、忠朝が5万石で襲封したが
   大坂夏の陣で戦死。政朝も2年後姫路へ転封となり、大多喜との関わりがなくなる。

  (3) 小大名が短期間に入れ換わる
    本多家が転封になった後は、大多喜の重要性が薄れ、小大名が次々と入れ替った。

      1617年〜19年 阿部正次3万石→ 小田原へ
      1619年〜23年 不在
      1623年〜1623年 青山忠俊2万石→ 網戸へ
      1623年〜38年 不在
      1638年〜71年 阿部正能(正次の兄弟忠吉の孫)1万石→ 忍へ
      1671年〜1702年 阿部正春(正次の跡を継いだ重次の子)1.6万石→ 刈谷へ
      1702年〜1702年 稲垣重富2.5万石→ 烏山へ

   *新参譜代の有力大名の阿部家の体制が固まるまでの間、大多喜藩が一時的藩主の場所であったかの
    異動があった。

   

  (4) 大河内松平時代
    1703年 松平(大河内)正久が相模国甘縄(現在の鎌倉市)より2万石で入封。 明治維新まで
   9代170年余大河内松平氏が治めた。 藩主の大河内松平氏は家系の上では一族の宗家に位置し、
   信綱が独立し徳川政権における中心人物になったため当家は分流的立場になった。 高崎藩との関係は
   7代正敬の子・輝聴が高崎藩8代城主輝充の養子になっている。 内陸の小藩につき穏やかな城下町
   として続いた。



3. 館山
  (1) 安房里見氏
    里見氏は、河内源氏の棟領八幡太郎義家の子・義国の子のうち一人が新田義重、一人が足利義康
   であり、義重の庶長子・義俊が里見を地盤とし初代とされる。 11代目に当る義実を安房里見氏の初代
   とするが次の成義と共に二人の素状は確認できない。 そのため高崎市の中里見地区を地盤としたと言われる
   新田里見氏との繋がりを主張する説は疑問視されている。 13代義通から記録に登場し、その後内紛が
   あったが16代義堯・17代義弘の時代に後北条・武田・上杉の勢力争いの中で勢力拡大していった。

  (2) 館山藩の成立
    天正8年(1580)頃に、義弘の後を継いだ義頼が館山城を築いたと言われる。 同16年から18年に
   かけて義康が改修した。 義康は小田原征伐の際に惣無事令に反して独自の制札を出し豊臣秀吉の
   不興買い上総国を没収され安房一国となり、豊臣政権下の一大名と位置付けられた。 関ヶ原の戦いに
   おける戦功により常陸国鹿島郡3万石が加増され12万2千石となり、弟の忠豊も上野国板鼻藩1万石の
   大名にとりたてられた。

  (3) 里見氏館山藩消滅
    慶長8年(1613)義康が31歳で死去すると、後継者の忠義が大久保忠隣の孫娘を妻としていたため
   忠慶長10年に隣の失脚に連座したとして伯耆国倉吉へ移封された。 倉吉藩の3万石は表面上の石高で
   実質は4千石にもならない配流・蟄居処分同然の転封であった。 元和3年(1617)鳥取藩主が池田光政に
   なると同8年に忠義の死で倉吉藩は無嗣改易となり鳥取藩領に組込まれた。

  (4) 旧館山藩領の分割
   ア.安房国部分
    鴨川地方は元和6年(1620)、西郷氏による東条藩1万石が成立。 元禄5年(1692)に下野国上田移封廃藩。
    鋸南地方は元和8年(1622)、内藤氏による勝山藩3万石が成立。 寛永6年(1629)に廃藩。
    南房総方面は寛永15年(1638)、三枝氏による三枝藩1万石が成立。 翌年廃藩。
    館山地方のうち北条地区は寛永15年(1638)、屋代氏の北条藩1万石が成立も正徳2年(1712)に改易。
    享保10年(1725)、水野氏が1.2万石で再藩となるが文政10年(1827)廃藩。 
    館山地区は天明元年(1781)に秋葉氏による館山藩1万石が成立し明治維新まで続いた。
  
   イ.上総国部分
    多くの小藩(鶴牧・久留里・請西・佐貫・飯野・一宮・大多喜藩)に分割され、多くの藩の飛地が散在。
   
(羽前長瀞・岩代福島・上野前橋・上野吉井・下総結城・下総生実・下総高岡・安房館山・三河西大寺・土佐高知新田藩)

  (5) 戯曲里見八犬伝の世界
    館山藩が一躍有名になったのは、曲亭(滝沢)馬琴が著した長編伝奇小説『南総里見八犬伝』による。 
   馬琴は文化11年(1814)から天保13年(1842)にわたって発表。 あらすじは結城合戦で敗れた里見義実が
   娘「伏姫」を助けた者に娘をやると云ったところ、飼い犬「八房」が助け出したため伏姫は約束を守ったが家臣が
   伏姫を助け出そうとして鉄砲を打つと伏姫に当ってしまい、姫の胎内から「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の文字を
   持つ8つの玉が生れた。 その後、飛び散った玉を持って生れた八犬士の流転と集結の話が続き、苦難を乗り越え
   里見氏に忠義を尽くしたという物語である。 八人の剣士は皆「犬」の字と八文字の一字が含まれている。
   
犬塚信乃戌・犬川荘助任・犬山道節与・犬田小文吾順・犬飼現八道・犬村大角儀・犬江親兵衛・犬坂毛野胤

  (6) 壮観な祭り
    館山地方には山車と御輿による壮観な祭りが続けられている。 山車15台、屋台5台、御船4台、神社御輿9基、
   合計33の信仰祭事の出物が巡行する。 商都的要素の山車・屋台と漁港要素の御船が同時に出場することと
   全基が神社に所属する御輿である信仰に基づいた珍しい祭事である。





                                                           2017.1.19
        
         第68回勉強会 松平(大河内)輝貞

1. 高祖父が徳川家に仕え曾祖父が松平に
  
大河内・松平の略系図

   大河内秀綱久綱――――正信(1621)
   松平正次  ―
正綱信綱―輝綱(1620)―信輝(1660)
                    ―信興(1630)―
輝貞(1665)

 (1) 秀綱(1547〜1618) 大河内家12代 輝貞の高祖父
   三河国寺津城主として吉良家の家老 吉良家中の内紛により家康の家臣伊奈忠次を頼り、家康の
  家臣として700石を賜る。 伊奈備前守忠次(1550〜1610)は後の関東代官頭。 治水事業で
  知られ関東地方各地にある事績は「備前堀」等の名称が付いている。 現在の埼玉県伊奈町の町名は
  忠次に由来する。

 
(2) 久綱(1570〜1646) 秀綱嫡男 信綱の実父・輝貞の曽祖父
   710石の公事方(民政・訴訟担当)を務め、室は深井藤右衛門好秀の娘…信綱の母
  深井家の本姓は白井長尾氏で上野国白井から武蔵国深井(現在の埼玉県北本市深井)に土着。
  高崎藩家中に深井氏が多いのは、深井好秀の孫茂兵衛資成が輝貞の義父信興に仕えたことにより、
  一族の多くの者が仕官したため。


 (3) 正綱(1576〜1648) 秀綱次男 信綱の養父・輝貞の養曽祖父
   12歳で松平(長沢)正次の養子 *長沢松平氏は十八松平氏の一つ
  計数に明るかったことから関ヶ原の戦いで軍資金調達に貢献。 家康の側近中の側近で臨終の際に
  枕元で「長沢松平を絶すな」と遺言を承り、家康の遺骸が久能山に埋葬された時及び日光回葬の時も
  棺を担いだ。 初代の勘定頭(後の勘定奉行)、 相模国甘縄(鎌倉市) 22,000石
   東福門院和子入内に供奉 蒲生氏郷や徳川忠長改易の時に上使として派遣される。 秀忠は家康
  側近の殆どを敬遠したが、正綱は重用され、その権勢は老中に匹敵したと云う。 家光は幕閣から排除
  したが日光東照宮造営奉行に起用し祭礼法会等の差配。 寛永2年(1625)〜慶安元年(1648)まで
  24年間、日光を往復している。 紀州から取り寄せた杉の苗木を植樹したのが現在の日光杉並木で、
  正綱が杉の苗木を寄進すると申出たところ、諸大名から「東照宮に対し何とけちなこと」と非難を受けたが
  正綱は「末をご覧あれ」と言ったと云う。
  *日光杉並木:特別史跡・特別天然記念物 東照宮などと共に世界遺産



2. 祖父信綱が徳川幕府に貢献
 (1) 名門長沢松平家の養子となる
    大河内信綱は慶長元年(1596)に久綱の嫡男として現在の上尾市に生れ同6年に叔父松平正綱
   の養子となる。「父の跡を継げば代官、叔父松平の子なら側近として道が開ける」の逸話がある。
   元和6年(1620)養父正綱に嫡子利綱が誕生したため、養子縁組を解消し一家を立てた。
  (翌年に正信が誕生、後の大多喜藩祖)

 (2) 出世街道を進む
   9歳で後の将軍家光の小姓(他に堀田正盛、阿部忠秋、三浦正次ら)になったのが契機。
   1623年 27歳で御小姓頭番頭800石、従五位下伊豆守
   1627年 31歳で1万石、相州厚木等を給わり大名
   1630年 34歳で都合1万5千石、上野国白井郡・阿保郡等を賜る。
   1633年 37歳で六人衆(阿部重次35歳・三浦正次34歳・太田資宗33歳・阿部忠秋31歳・堀田正盛25歳)
   武蔵国忍藩3万石拝領 1634年に従四位下 1635年に老中に就任
   
 (3) 家光・家綱治世の筆頭
  ア.3代将軍家光の政策をリードし徳川幕府体制を確立
   1634年 大名の妻子を江戸に住まわせる。
   1635年 外国貿易を長崎・平戸に限る。 日本人の海外渡航・帰国を禁じる
   1637年 島原の乱を総大将として鎮圧。 この功績により川越藩6万石に
   1642年 田畑の永代売の禁止。
   1644年 郷村高帳・正保の国絵図作成。
   1651年 3代将軍家光死去 堀田正盛・阿部重次が殉死するが、「幕閣にあって亡き上様の
      厚恩に浴さなかった者はいない。その者たちが皆殉死したら誰が大納言様を補佐するのか」

  イ.4代将軍家綱の参謀
   1651年 慶安の変(由井正雪事件)勃発。信綱が警察機構を動員し迅速に解決。大名改易に
      伴う浪人急増の抜本対策→ 大名の末期養子を緩和する。
   1653年 自ら総奉行となり玉川上水開墾。 水道奉行に関東郡代伊奈忠治(忠次の二男)、
      玉川兄弟に工事請負
   1657年 明暦の大火(振袖火事)→ 翌年江戸定火消役を定める

 

3. 輝貞公履歴と栄達のポイント
 (1) 徳川幕府随一の実力者の家に生れる
   1665年 3代家光、4代家綱の名参謀 幕府の屋台骨を背負った松平信綱の孫として誕生
   1672年 兄信輝が家督相続の節、武蔵国埼玉郡内に5千石分地
   1675年 四代将軍家綱に初お目見え 1682年 酒之丞から輝貞と改名

 (2) 旗本としての経験を積み将軍綱吉の側役に
   1688年 5代将軍綱吉の中奥御小姓
   1689年 御側を命ぜられ 右京亮
   1690年 2千石加増、合わせて7千石
      綱吉が本郷お茶の水に聖堂を建立、御用掛惣奉行
      聖堂普請成就の功により備前義景の作刀と金7枚を賜う

 (3) 一門の大名養継嗣に
   1691年 信興の家督を継ぎ3万2千石を賜う(7千石は返上)叔父信興の養継嗣から大名
      家臣は大河内松平家一族に仕えている者で構成 他藩へ養子と異なり主従関係は円滑
   1692年 下野国壬生藩3万2千石。 家臣は加増の都度、大河内一族の家臣の次男三男を採用

 (4) 将軍綱吉に重用される
   1693年 綱吉の学問の弟子を仰せつかり時服二拝領
   1694年 御側御用人に命ぜられ柳澤出羽守に差添え相勤め 1万石加増 従四位下に
   1695年 右京大夫 将軍家の御成が都合24回。 1万石加増 高崎城へ所替え5万2千石
      御側用人の役目が将軍との深い関係が出来ただけでなく、適任であった。
   1698年 日光大明院公辨法親王御来臨  石上寺境内に頼政明神の社を建立

    松平輝貞甲冑図
  *御側用人
    綱吉政権になって導入された役目。 大老堀田正俊が若年寄稲葉正休に江戸城将軍御座の
   近くで刺殺されたことを契機に、老中・若年寄らと将軍の連絡役として数人が就いていた。
   その中でも、柳沢吉保、牧野成貞と輝貞公が際立っていた。 
    牧野は綱吉が館林藩主時代の家老からの就任で連絡役。 柳澤は館林藩士の子供に生れ旗本から
   の就任。 非常に有能なうえ将軍の意向を良く汲み取り信頼は絶大であった。 一方で老中等幕閣の
   立場を尊重し政策には関与しなかったので軋轢はなく身の処し方が稀に見る天才だったと言える。
  (綱吉死亡後の柳澤に対する処遇から見ると権力者に対する反動はなく、江戸時代政治史上珍しいケース)
    輝貞は牧野が隠居した後に柳澤とのコンビで側用人を務めたが、主力は柳澤で輝貞公は学問の師弟
   関係を中心とした側役を務めたものと思われる。

  
 (5) 高崎を老中格城主の地に確立
   1701年 1万石加増 侍従 
   1704年 1万石加増 都合7万2千石
   1705年 武蔵国新座郡の内5箇村は先祖の墓所、願いにより領知に


 (6) 将軍吉宗の信頼
   6代将軍家宣から疎まれ御側御用人を罷免され鴈間詰となり越後国村上へ所替
   1710年 初めて高崎への御暇を賜る。 越後国村上へ左遷的に転封
   1711年 村上へ移る
   1717年 8代将軍吉宗は綱吉に親しみを持ち、その側用人であった輝貞の人物を認めていた。
      溜間詰になり再び高崎へ所替。 御側御用人を命ぜられる
   1720年 老中申合名代
   1730年 御意見番として老中格に

   1747年 死去。享年83歳 墓地は東叡山明王院、後に平林寺に改葬


4. 綱吉・吉宗が輝貞を起用した背景

 (1) 柔構造体制の起用
   徳川幕府成立後、次第に武闘派体制から文治派体制に移るにあたり家光の時代になると出頭人が
  幕府の中核を占めた。 家綱の時代にはこれらの大名家が譜代門閥を形成し家格が固まる硬構造に
  なっていた。 綱吉はその生い立ちも影響してか、能力ある者を抜擢する柔構造の体制により自らが
  リーダーシップをもって政治を行なった。

 (2) 文治政治遂行の相談役
   綱吉の側用人として、単に権力者におもねることなく温和な人柄と学識から将軍の政治転換に寄与した。
  家宣・家継時代は左遷されたが、綱吉の死後も生類憐れみの令を守って鳥獣の肉を食べず雨の日も
  風の日も綱吉霊廟に日参し綱吉が生きている様に振る舞った。 吉宗は綱吉に恩義を感じていたことも
  あり輝貞の行動を良としていたため、将軍になると再び側用人に任じられた。
   二人の将軍の側用人を務めた唯一人である。 柳澤吉保や間部詮房は政治的実権に関わる立場に
  あったが、輝貞は相談役的立場であったからか、綱吉時代15年、吉宗時代13年の合計28年間も
  御側御用人の役目を全うしている。
   
      松平輝貞官服図

 (3) 温和な行政策
   温和な人柄と儒学を学んでいた素養は藩政にも表れ、幕閣にあっても御意見番として有用であったと
  思われる。 村上藩へ転封になった際、同藩は何代にもわたって年貢が苛酷なうえ前任者本多氏と領民は
  後に「四万石騒動」と呼ばれた軋轢の最中であった。 輝貞は騒動のさなかの未納年貢を相応の減額を
  行い、以後も調整に応じる穏便な対応をした。 後世、一ノ木戸領民は藩主への領知替え反対運動の
  「御慕願」や、代官の転勤に対する「お慕い願い」など、高崎藩とのつながりを欲する契機となった。





                                                       2016.11.17
        
             第67回勉強会 井伊直孝
1. 家督相続前
  
井伊直政には二人の男子 共に天正18年(1590)生れ
   長男、直勝 正室(松平康親の娘、徳川家康の養女)の子 幼名万千代
   次男、直孝 側室(正室の侍女印具氏、諸説あり)の子 幼名弁之助
 
  正室が弁之助親子を城から追放し安中の
北野寺に預けられる。
  直政も正室に遠慮し、慶長6年(1601)直孝11歳の時に初めて面会。 その有能さを見込み
  手元で育てたいが正室が認めないため、母親がいなければ自分が育てざるを得ないと思い刺客を
  差し向け殺してしまう。

  慶長7年直政死後に徳川秀忠の近習→ 秀忠将軍就任で従五位下掃部助→ 書院番頭
  慶長15年(1610)上野国白井藩1万石・大番頭→ 伏見城番役と順調に昇進。



2. 家督相続
  
慶長19年(1614)の大坂冬の陣で家康が井伊家の大将に指名。 八丁目口攻略
  真田丸の戦いで松平忠直と共に真田信繁の挑発に乗り500人の死者を出す大被害。
  先走った突撃は軍令違反だが味方を奮い立たせたと家康が可庇い処罰なし。

  直政死去後に嫡子の直継が家督を相続したが若年故、家老が政務→家臣団纏まらず。
  慶長20年 憂慮した家康の裁定により直孝が井伊家の家督を相続し彦根藩2代目藩主に
   直政の遺領18万石→ 直孝が彦根藩15万石を継承、直勝は安中藩3万石を分知。
  家臣団は家康の命で直政家臣となった武田氏の遺臣などは直孝に、井伊谷以来の者は直勝に

   井伊家家臣の出身別構成〔%〕
  
禄高 \ 出身
近江
上野
甲斐
遠江
三河
駿河
全体
12. 0
12. 0
11. 0
10. 0
8. 3
4. 7
50石以上
14. 0
12. 0
11. 0
8. 2
5. 7
4. 2
300石以上
8. 5
13. 7
13. 7
15. 8
15. 8
7. 4
  遠江国は井伊谷以来の譜代(中野越後ら)
  上野・甲斐・駿河は滅亡した戦国大名の旧臣(長野十郎左衛門・宇津木治郎右衛門ら)
  
三河は家康から付属された家臣(木俣清左衛門・西郷藤左衛門・椋原介右衛門ら)
  近江は彦根城主になって以来の比較的身分の下位の者


3. 井伊の赤牛・夜叉掃部
  
赤備えで猛進する姿は父直政が「赤鬼」と呼ばれたそれ以上→ 「夜叉掃部」と呼ばれる。
  慶長20年(1615)の大坂夏の陣で藤堂高虎と共に先鋒、八尾・若江の戦いで木村重成・
  長宗我部盛親を打ち破り、大坂城天守櫓に逃げ込んだ秀頼と淀殿へ家康の最後の意向を
  伝えに乗り込む。 秀頼らは聞き入れず、この櫓へ大筒を撃込まれ自害。
    → 大役果たし5万石加増、従四位下侍従に



4. 直政同様の大役
   
直政が佐和山城に配された狙いと同様→ 彦根城で朝廷・公家と西国大名対策
  近江・山城の鷹場を拝領→ 京都周辺で諸勢力と交わり→友好関係の下地づくり
  反幕府的動向の探索 ⇔ 万一の場合の彦根の軍事力
  大坂の陣における起用と西側への抑え…直政の再来



5. 大老家のはじまり
   
寛永9年(1632) 大御所秀忠が死去の直前 直孝と松平忠明(家康外孫・大和郡山藩)
  を枕元に呼び、家光の後見を務めるよう遺言→ 幕政に加わる→ 元老・執政
   家光政権 将軍の上意を伝え代理として行動…家康遠忌法会日光東照宮将軍名代参詣
      → 彦根藩井伊家固有の御用
       将軍の周りを警固する…朝鮮通信使の応接
       次期将軍の後見…家綱元服の加冠



6. 徳川四天王の後継者("ー"は実子、"=”は養子を示す)
  
酒井忠次(1527〜1598)
   ― 家次(1564〜1618 下総碓井3万石→ 上野高崎5万石→ 越後高田10万石)
   ― 忠勝(1594〜1647 越後高田10万石→ 信濃松代10万石→ 出羽庄内14万石)
    *酒井長門守事件…忠勝の弟忠重に欺かれお家乗っ取りの陰謀


  本多忠勝(1548〜1610)
   ― 忠政(1575〜1631 伊勢桑名10万石→ 播磨姫路15万石 従四位下侍従)
   = 正朝(1599〜1658 播磨龍野5万石= 播磨姫路15万石)
   = 正勝(播磨姫路15万石→ 大和郡山15万石
       養子政長と実子正利の間で跡目争い…
九・六騒動)

  榊原康政(1548〜1606)
   ― 康勝(1590〜1615 上野館林10万石)
     *康勝の長兄忠政は大須賀氏へ養子、次兄忠長は20歳で死去により館林藩主に
     康勝に子がなく忠政の子忠次が養子
   = 忠次(1605〜1665 遠江横須賀6万石= 上野館林10万石→ 陸奥白河14万石
         → 播磨姫路15万石 井伊直孝死後幕府の大政参与 従四位下侍従)
     *5代政倫幼少のため越後村上へ、 8代政岑遊女遊び越後高田へ


  井伊直政(1560〜1602)
   ― 直孝(1590〜1659 近江彦根15万石→20万石→30万石 正四位上左中将)
   ― 直澄(1625〜1678 長男直滋出奔のち隠居 従四位上左少将 大政参与)
   ― 直興(1656〜1717 直澄の弟の子 直孝が生前に継嗣を決めた 正四位上左中将
              大政参与)





                                                      2016.09.15
        
             第66回勉強会 井伊直虎直政
1. 直虎以前の井伊家
 
(1) 井伊家略系図
   井伊家では歴代の当主の代数は『
寛政重修諸家譜』による。(南北朝期の7名を加えた説あり)
    共保…13直平―14直宗―15直盛―
直虎
               女子(今川義元義妹となり関口親永に嫁す)
               直満―16
直親―17直政
               南渓(井伊家菩提寺の龍潭寺住職)
               直義
    ア.共保(1010〜1093)井伊家初代。遠江国井伊谷八幡宮神社の御手洗の井の傍らに
          捨てられていた男子の神童ぶりを聞きつけた遠江国司藤原共資が養子とし、娘と婚姻
          させた。
    イ.直平(1489〜1563)井伊家13代。1479年生誕の説あり。菩提寺の白淨庵を龍泰寺
          に改めた。1563年に天野氏攻めの途中急死(毒殺説あり)
    ウ.直宗( ? 〜1542)井伊家14代。直平長男、田原城攻めで戦死。
    エ.直満( ? 〜1545)直平三男、家老小野道高の讒言により今川義元に殺害される。
    オ.直義( ? 〜1545)直平四男、直満と同じ。
    カ.直盛(1526〜1560)井伊家15代。父は14代直宗、母は井伊直郷の娘。桶狭間で戦死。

    
       直政公(17代)         直盛(15代)       井伊共保の木像

 (2) 井伊家の立場
    井伊家は、遠江国の守護大名斯波氏に属した国人(地頭から在地の領主になったもの)で、
   駿河国の守護大名今川氏とは対立関係にあった。 永正10年(1513)駿府の今川氏親に
   攻められた斯波義達・14代井伊直宗・引馬城主大河内貞綱("知恵伊豆"の異名をとった
   松平信綱の9代前)連合軍は敗れ、直宗は降伏して今川氏に仕えることになる。
   (斯波義達は出家、大河内貞綱は自害)
    このとき、小野兵庫助が今川家から井伊家の付家老として派遣される。 小野は今川家の
   井伊家に対する監視役的立場であった。

 (3) 井伊家家老小野の暗躍
    小野家は近江国佐賀郡小野村(現滋賀県大津市)を本貫とする豪族から枝分かれし、
   遠江国豊田郡小野村に土着したと伝えられ、今川氏に仕えていた。 15代直盛のとき
   小野道高(政直)が井伊家筆頭家老を務めていた。 直盛には嫡男がおらず娘一人だけで
   あったので直満の子亀之丞を養子に迎え、娘(「おとわ」と言われる)と結婚させることにした。
    しかし、直満を嫌う道高はこの結婚を阻止しようと天文13年(1544)主人筋の今川義元へ
   直満と直義に謀反の疑いがあると讒言し、訴えを受けた義元は二人を自害させた。 
   亀之丞も殺される危険が迫り、これを察知した直満の家老今村藤七郎正実が連れて逃げ、
   龍泰寺(後に龍潭寺)住職の南渓を頼り、信濃国伊那郡市田村の松源寺へ逃れた。
 
 (4)
井伊直親が当主
    直親は天文4年(1535)井伊直満の子として誕生、幼名亀之丞。 信濃にかくまわれてから
   10年後の天文23年、小野道高が死去すると直盛は今川氏に亀之丞の恩赦を願い出て認められた。 
    許嫁のおとわは次郎法師と名乗り出家していたので、直盛は亀之丞を一族の奥山朝親の娘と
   結婚させ直親と名乗らせた。
    永禄3年(1560)桶狭間の戦いで今川義元の先陣を務めた直盛ほか一族・重臣の多くが
   討死した。 直親が井伊家の家督を相続し第16代の井伊家当主となった。 その翌年、虎松
   (後の直政)が誕生。 この頃の井伊家筆頭家老は小野道高亡きあと道好が務めていた。 
   道好は道高の子とも、一族ともいわれる。 永禄5年、道好は今川氏真に対し直親が徳川家康と
   組んで謀反を起こそうとしていると讒言した。 今川氏一族で新野城主の新野親矩が、妹の夫が
   直盛であることもあり取りなし駿府に呼んで釈明させることにした。 ところが、駿府城に向かう途中に
   掛川城主朝比奈泰朝に取り囲まれ討ち取られてしまった。



2. おんな地頭直虎
 (1) 誕生の経緯
    直虎については、『井伊家傳記』(龍潭寺蔵)によるところが多い。 今川氏側は執拗に虎松の
   命を狙ったので、龍潭寺(龍泰寺が直盛の法名により改称)の南渓和尚が三河国の鳳来寺にかくまった。
   井伊家の後継者が居なくなったが、直盛の未亡人祐椿尼(新野親矩の妹)と南渓和尚が相談の上、
    永禄8年、次郎法師を還俗させ「直虎」と名乗らせ井伊家の当主とした。 結果、女性の地頭が
   誕生した。 出家していたが尼僧名を名乗らず「次郎法師」と名乗っていた。この名は「次郎」と「法師」
   という井伊氏の二つの惣領名を繋ぎ合せたと言われる。 永禄11年まで3年間地頭として井伊谷を守った。
    『
井伊家傳記

 (2) 直親との関係
    直虎が直親の許嫁で、直親の死(実際は信濃国へ逃れていた)を歎き出家したとする話は、龍潭寺に
   伝わる「井伊家傳記」に記されている。 ただ、直親が信濃へ逃れた時点は10歳、直盛は19歳であり、
   直盛に娘が生れていたとしても(娘の生年は不明。1582年48歳で没したとする説があるが、逆算すると
   1534年生れとなる。 父の直盛は1526年生れにつき、8歳の時直虎が生れたこととなり不自然)
    父親の生れから一般的に推測すると、直虎2、3歳で自ら出家をしようとする判断は考えにくい。
   ただ、龍潭寺の直虎の墓石は直親と並んで建っているので、直親を慕い続けていたという逸話に
   信ぴょう性を与えている。

 (3) 地頭としての力量
    この時代、外部の者には直虎が女であるとは思わず、そのために直虎の名前で花押を書いた書状を
   発給した。 永禄9年今川氏真は井伊谷一帯に徳政令(借金を帳消しにする令)の公布を命じた。
    背景には、小野道好が絡んでいた。 商人祝田禰宜と手を組んで農民を扇動し、今川氏真に
   徳政令を求めて訴えを起こしたことによる。 徳政令を出さなければ農民が反乱を起こすし、出せば商人
   からの借金が出来なくなり井伊家の経済が破綻するという難しい局面である。 そこで、直虎は寺を
   保護して収入を上げ銭主方と結託して徳政令を出さずに経済を確保し難局を乗り切った。
    しかし、家老小野と祝田ら徳政令要求派との対立があり、これは今川氏にとっては介入する絶好の
   機会であり、今川氏からの圧力には耐え切れず徳政令公布命令から2年後の永禄11年に公布に
   踏み切らざるを得なくなった。 氏真は統治能力がないと直虎を地頭から罷免し井伊谷を直轄地として
   小野直好を代官とした。

 (4) 居城の奪還
    小野道好の専横は続き井伊谷城は奪われてしまうが、小野の専横に井伊谷三人衆(近藤康用・
   鈴木種時・菅沼忠久)が反旗を翻し徳川家康の加担を受け実権を回復した。 道好は捕らえられ、
   讒訴した罪で処刑された。 元亀3年(1572)甲斐の武田信玄がそれまでの同盟を破棄して侵攻。
   井伊谷城は武田家臣の山県昌景に明け渡したが、信玄が病に倒れ武田勢が甲斐へ撤退したため
   直虎は井伊谷城を奪還することができた。

 (5) 直政を庇護
    直親が誅殺され虎松も命を狙われたが、新野親矩が今川に助命を嘆願し認められ、新野のもとで
   母親(奥山親朝の娘)と暮らした。 直虎が養育したとする説があるが永禄7年に新野が討死した後は
   15代直盛の正室(新野親矩の妹)と母親に養育されたようである。
    永禄11年武田が今川に攻め入った際、家老の小野道好が今川からの命で虎松を亡きものにしよう
   と軍勢をもって迫ったので、虎松を出家させることにして浄土寺、三河鳳来寺に入れられた。

 (6) 直政の仕官
    「井伊家伝記」では直虎を直政の養母と記しているが、直政が直虎の実子でない事から、実子以外に
   家督相続をするためには養子縁組の要があるため「養母」としたと思われる。
    天正2年(1574)直政が父の13回忌のため龍潭寺に来た時、直盛の正室(直虎の母)・直虎・
   直政の母(奥山親朝の娘)・龍潭寺住職が相談し家康に仕えさせることとした。 鳳来寺に帰さない
   ため直政の母が松下源太郎に再嫁し直政を松下家の養子にした。 松下源太郎は井伊家の家臣
   であったが今川氏真滅亡のあとは徳川家によって領地を召し上げられやむなく家康に仕えていた。
    天正3年、直虎は見栄えするような小袖を用意し家康が初鷹狩りに出た際に路辺にて御目見え
   遊ばされるように計り、家康は虎松の出生からの苦労を聴き、また、その面構えから容易ならざる者と
   感じ取り立てた。



3. 直政の事績と人柄
 (1) 近習時代
    天正3年家康に出仕すると300石と万千代の名前を与えられる。 天正4年高天神城の攻略の際に
   家康の寝所に忍び込んだ武田方忍者を討ち取るなど戦功を立て3000石に。 同6年1万石、同8年
   2万石。 同10年「家康の生涯艱難の第一」と言った伊賀越えを果たした。 この年直虎没す。

 (2) 井伊の赤鬼
    万千代から兵部少輔直政を名乗り4万石を与えられ一部隊を編成することとなる。 家康は直政が
   若年のため、自分の家臣から木俣清三郎守勝、西郷藤左衛門正友、椋原次右衛門政直の三人を
   選び、直政を補翼すべく附け家老的存在として付属させた。 また、武田家家臣一條右衛門大夫信龍
   (信玄の異母弟、天目山で討死)、山縣三郎兵衛昌景(武田二十四将、長篠の合戦で討死)、
   土屋惣蔵昌恒(武田二十四将、天目山で討死)、原隼人正昌胤(武田二十四将、長篠の合戦で討死)
   の率いた四隊の従士74人、関東の処士43人、合計117人を直政に属させた。 
    「その兵器みな赤色を用ふべきむね鈞命をかうぶり」兜・鎧をはじめ戦で用いる全ての装備品を赤色で
   統一させ所謂「井伊の赤備え」となった。 同11年家康の養女で駿河国三枚橋城主松下康親の娘
   「花」と結婚する。 同12年、井伊谷三人衆を付属され小牧長久手の戦いで先手の大将として初めて
   赤備えの部隊を率いる。 池田勝入・森長一・堀秀政の軍と戦い戦功を挙げ、赤色の武具をまとい
   天衝きの大きな前立の兜をかぶり、長槍を振り回して敵を蹴散らす姿から「井伊の赤鬼」と内外から
   恐れられるようになった。 同13年、真田攻めの撤退を指揮し、この後6万石に加増された。

 (3) 徳川家の筆頭に
    井伊家が徳川家と対等な家格であったことが背景にある。 直政の祖父直満の姉(大伯母)は今川義元
   の側室(人質的立場か)であったが、今川義元の義妹として今川一門の関口親永(瀬名義広)のいわゆる
   拝領妻となった。 その二人の間に生れた娘が家康が人質時代に結婚した築山殿(従姉弟違)という姻戚
   関係にある。 秀吉は直政の武力・政治的手腕を高く評価し、天正14年(1586)従五位下に叙位させ
   豊臣姓を下賜した。 直政へ豊臣姓下賜は弟の秀長や後継者の秀次らと同年で、家康家臣の中では
   榊原康政・大久保忠隣・高力清長が賜った。 しかし、官位に関しては酒井忠次をはじめ家康の重臣は
   諸大夫に止まる中、公家成に該当する侍従に任官された。 秀吉が自分の家臣に誘ったが断ったという
   逸話があるように、家康を飛び越えて直政を懐柔しようとしたことも推測される。 家康が関八州へ移封と
   された時、直政は徳川一族や譜代の重臣が最高10万石であったのに箕輪12万石を宛がわれた。
    これも秀吉が関与していたとの説があるが家康は直政の出自と武力、交渉能力を考えて家臣団の筆頭
   に据えた。

 (4) 人斬り兵部
    家臣団の中で随一の所領を与えられ重臣の中でも一段上の官位に付いたため周囲の嫉妬や反発が
   あった。 後に直政と共に四天王と称された榊原康政は若かりし頃は直政をライバル視し家康の起用を
   妬んだと言う。 年を重ねてからは「心友」といわれる間柄となり信頼し合っていたが本多忠勝は最後まで
   反りが合わなかったと言われる。 三河譜代ではなく若くして出世して行く直政は嫉妬され反発されたが
   家康に対し滅私奉公でそれらの声を退けたが、あまりに厳しすぎる奉公は自分だけに止まらず周囲にも
   強く要求した。 自分自身の気性も激しかったようで家臣の失敗を許さず手討ちにすることもあったので
   「人斬り兵部」とも称され、血を見るのが好きとオーバーに言われることもあった。

 (5) 外交官直政
(高崎学検定講座時の資料はこちら)
    徳川家康の片腕として武力以上に力量を発揮したのが関ヶ原の戦い前後の調略や戦後処理における
   外交官直政である。 様々な要因から石田三成を中心とする勢力と徳川家康との衝突が起るであろうとの
   予測から、直政は黒田長政と築いて来た個人的な信頼関係で長政を介して秀吉配下の大名の多くを
   味方に引き入れることに成功。 加えて味方を明らかにしないまでも動かない様、更に裏切るように進めた。
    関ヶ原の戦い後は、西軍の総大将を務めた毛利輝元との講和交渉を担当した。 輝元には家康への
   忠誠を誓わせ、輝元からは直政の取りなしにより長門・周防の二カ国が安堵されたことに感謝され、今後の
   「御指南」役を請う起請文が直政に送られた。
    同じく意に反して西軍に与した長宗我部盛親の謝罪の仲立ちも行った。 小牧長久手の戦いで交渉に
   あたり、聚楽第行幸のとき侍従以上の大名行列に供奉し昇殿し儀式に列席した縁から父親の元親とは
   入魂の仲で、息子とも親しい間柄であった。 真田昌幸・信繁親子の助命にも進退を懸けてまで尽力した。
   昌幸の長男信之の要請を受けたもので信之が将来徳川家に尽すだろうと考えてのことからといわれる。

 (6) 寡黙な故の怖さ
    家臣に気安く声をかけることは殆どなく、元来、寡黙な性格であった。 家康がお江に宛てた「訓誡状」に
   「井伊兵部事、平日言葉少なく、何事も人にいはせ承り居候、気重く見へ申候得共、何事も了簡決し
   候へば直に申者にて候、取りわけ我等何そ了簡違か、評議違か、為にならぬ事は、皆人のいぬ所にて
   物静に善悪申者にて候、それ故、後に何事も先、相談いたし候様に成申候」と記されている。
   お江に対して、あるべき言動の例として、直政をわざわざ挙げている。家康の眼鏡にかなった人物であった。





                                                      2016.05.19/7.21
        第64、65回勉強会 県都と県名はどのように制定されたか

       −旧国最大藩の朝廷に対する態度と県都・県名との関係を中心として−
はじめに
 明治新政府は「
府藩県三治制」により支配体制の軟着陸を図った。 藩名は城下や陣屋が
 所在する地名を採り、藩庁は城下町に置かれた。実質的には従前と変わらなかったので
 明治4年7月14日に
廃藩置県を断行し、「藩」は「県」に改称し県庁は藩庁に置かれた。
  知藩事に変わっていた旧藩主の権力をはく奪する事は出来たが、まだまだ「県」の数は多く
 中央集権のためには集約する必要があったので、同年11月2日に270有余あった県を大幅に
 集約して「3府72県」とした。
  「藩」制定時、施設面や都市の集約度を高めるため、藩庁を県庁にすることが効率的につき
 城下町が県庁所在地(以下「県都」という)になるのが順当と考えられる。 しかし、城下町で
 ないが県都となった町、県の名前が県都に因らない県、そして、県名が定まる迄に長い年月の
 かかった県もある。 
  新政府創設に加わった藩は「忠勤藩」、様々な形で抵抗した藩は「朝敵藩」、鳥羽伏見までは
 「幕府支持」で以降は「朝廷支持」か「中立」或は「日和見」の藩は「曖昧藩」といわれる。
 この分類で県都と県名の関係をみると、
地域の最大藩が「忠勤藩」「朝廷支持藩」の県は、
 そこが県都となり、県都名が県名となっている。

  一方で、地域の最大藩が「朝敵藩」や「曖昧藩」の場合は県都名が県名にならなかった。
 結果として六割以上の県は旧国の江戸時代最大藩名が県名に使われなかった。
 想像するに
 新政府の一部首脳の思惑により県都と県名が決まったと思われる。 なぜ、旧国の最大藩が
 総て県都とならなかったのか? なぜ、県都=県名でない県が出来たのだろうか?
 
注:宮武外骨『府藩県制史』:「忠勤藩」「朝敵藩」の観点から、廃藩置県時の県名と藩


T 県名成立の類型(東京都、大阪府、京都府、北海道、沖縄県は除く)
 1. 県都が県名になる
  慶応4年閏4月21日、明治新政府の政体書公布により62%が県都=県名であった。 
  しかし、@県都が「忠勤藩」「朝廷支持藩」かそうでないか A旧国の最大藩であったか否か 
  B
西南戦争前に県名が決定したか否かによって、県都と県名の決定過程を類型化し、
  その背景に各藩と新政府との関係がどの様に影響したかをみてみる。 この他に、新政府が
  創設等に関った結果、県都=県名の型がある。

 
   (1) 最大藩で廃藩置県時に県名確定
     鹿児島・山口・広島・高知・岡山・福岡はいずれも「忠勤藩」、
秋田は寝返った功績により、
    
和歌山は藩政改革が新政府軍制の基となり新政府の模範たる藩であった。

   
(2) 最大藩が県名ながら確定が遅れ
     
鳥取佐賀・徳島は「忠勤藩」「朝廷支持藩」、熊本・福井富山は「朝敵藩」「曖昧藩」で
    あったが、熊本県は全国大多数の県名や県都・県域が決まった明治9年に白川県からの
    改称であり、徳島は13年に、福井と鳥取は14年に、富山と佐賀は16年と成立は遅れた。
     背景としては、廃藩置県から5年以上経過し旧藩名の印象が薄れたこと、士族の乱が
    収まったこと、鳥羽伏見の戦い以降朝廷支持に回り戊辰戦争では新政府軍として戦った
    ことが挙げられる。


   (3) 城下町以外が県都
     最大藩はいずれも「朝敵藩」か「曖昧藩」であった。( )内は、前が最大藩城下町、後が県都。
    
青森県(弘前、青森)、千葉県(佐倉、千葉)、新潟県(高田=現上越、新潟)、長野県(松代、長野)
    岐阜県(大垣、岐阜)、奈良県(大和郡山、奈良)、長崎県(島原、長崎)、宮崎県(延岡、宮崎)


   (4) 新政府の創設や藩名変更の藩
     県名が制定される直前に、新政府管轄下になっていた地や地名変更になっていたため、
    一見県都=県名に見えるが「朝廷支持藩」ではない。
     
福島県:岩代国最大藩は会津藩。福島藩は三河国重原へ移されていた。県都が旧福島藩城下に。
     
山形県:出羽国最大藩は米沢藩。山形藩は近江国朝日山へ移されていた。県都が旧山形藩城下に。
     
静岡県:駿府藩は徳川氏存続のために新設された藩で、地名に因んで静岡藩となり県都は静岡に。
     大分県:現県域は旧豊後国と旧豊前国の一部。最大藩の中津藩は豊前国にあり大分県としては北隅
          かつ鳥羽伏見以降に朝廷軍に返った藩。府内藩が郡名を採って大分藩となり県都は大分に。


  
2. 県都と県名が異なる県
   (1) 最大藩が「朝敵藩」・「曖昧藩」
     県都は最大藩の城下町になったが、県名がその藩名に由来しない県。
    岩手・宮城・茨城・栃木・群馬・山梨・石川・愛知・
三重・島根・香川愛媛の12県
    いずれも最大藩が「朝敵藩」「曖昧藩」のため、城下名は県名にならず。確定時期は「3府72県」以降。

   (2) 城下町以外が県都
     最大藩はいずれも「朝敵藩」か「曖昧藩」であった。 ( )内は、前が最大藩城下町、後が県都。
    埼玉県(忍、旧浦和)、神奈川県(小田原、横浜)、滋賀県(彦根、大津)、兵庫県(姫路、神戸)。




U.忠勤・朝廷支持藩に対する県都・県名
 1. 県都と県名が同一
   (1) 廃藩置県時に県名決定の国持「忠勤藩」
     「忠勤藩」の鹿児島・山口・高知・福岡・広島・岡山は、廃藩置県の際の藩名がそのまま県名
    になりその城下町が県都になった。 いずれも薩摩、長門・周防、土佐、筑前、安芸、備前の
    国持ち大名で薩州や長州、薩藩や長藩、薩摩藩や長州藩など旧国時代の国名を冠した呼称を
    経て、城下の地名を採って鹿児島県や山口県などになった。 鹿児島県が薩摩・大隅、福岡県
    が筑後・筑前、山口県が長門・周防、広島県が安芸・備後、岡山県が備中・備前・美作、複数の
    旧国を併せた県が成立。 幕藩時代の大藩から新政府主力藩として、中央集権推進のため
    地域の集約を図り、その城下名を県名とした。

   (2) 廃藩置県時に県名決定の「後発忠勤藩」
    
秋田県
     ア.維新前後の久保田藩
       羽後国の最大藩の秋田藩が県都になり県名になった。 秋田藩は当初は奥羽列藩同盟に
      参加したが逸早く脱退して新政府軍へ寝返った。 同盟藩側からの攻撃を受けたが、この様な
      経緯から「忠勤藩」として扱われる。
     イ.秋田県の制定
       幕藩時代の佐竹氏城下は「久保田(当初は窪田)」と呼ばれ、慶応4年の藩名制定時には
      久保田藩であった。 久保田は佐竹氏が常陸国から移封された際に築城した地名であり、
      この地方の古来の名は秋田につき久保田藩から秋田藩へ改称し、廃藩置県の際には秋田県
      となる。 出羽国全体を考慮し奥羽列藩同盟脱退による朝廷側のため改称したと考えられる。

    
和歌山県
     ア.維新前後の紀州藩
       大政奉還後、紀州藩の呼びかけで御三家・譜代諸藩の重臣が紀州藩邸で会合協議し、
      「徳川臣子として一致団結して幕府を支持」と「朝廷から命じられても王臣とならない」ことに。
       若年寄永井尚志の指示で紀州へ逃げ込んだ鳥羽伏見の戦いの幕兵や会津・桑名の兵を
      紀州藩施設のほか城下寺院にまで分宿させ、敗兵への援助を公然と庄屋らに指示し、敗兵が
      紀州藩領を離れた時期になって探索を命じる親幕府の行動を執った。 このことは、朝廷側
      から幕軍敗兵を庇護したと厳重な詰責され、紀州藩主は再三陳謝し朝廷に二心のないことを
      表明した。 しかし嫌疑は容易にとけず、紀州藩士が賊徒に加担し種々陰謀を計画と嫌疑を
      受け、朝廷から監察使が土州藩兵130人余を率いて来藩し圧迫した。 このため、新政府軍
      への出兵戦労が少ないからと軍資金15万両を献納させられ奥州征討軍に1500人出兵。
      この出兵で奥州征討軍に加わることを許され、上納3万両の軍資金も返還された。
     イ.藩政改革策が新政府に貢献
       藩主徳川茂承は幕末の藩政改革の際に失脚していた
津田 出(いずる)に藩政改革を
      命じた。津田の改革論は郡県制と徴兵令を根幹としたもので、これを同藩出身の陸奥宗光
      が岩倉具視と後藤象二郎に提示し「和歌山藩に藩政改革を断行させて諸藩の模範とするのが
      良策」と説得した。 これが評価され茂承の帰藩と上表した版籍奉還が許され和歌山藩知事に
      就任した。 津田の藩政改革論は近代国家のモデルとして明治新政府の行政制度に大きな
      影響を及ぼし、参議西郷隆盛は津田を大いに評価傾倒し大蔵卿大久保利通へ繋ぎ、大蔵少輔
      に任じた。 津田の建策と人脈が和歌山藩の朝敵からの転換に大きく影響した。 この結果、
      和歌山藩は廃藩置県の際に忠勤藩扱いとなり、県名も和歌山県となり津田が大参事になる。
       津田が大蔵少輔に転出すると実弟の正臣が大参事心得から大参事に昇格して県政を担当。
      津田兄弟が大参事を務めたことから「3府72県」でも田辺・新宮両県を併合し和歌山県になる。
     ウ.県名改正の申請却下
       慶応5年5月、和歌山県令北島秀朝は「和歌山県を改めて名草県としたい」と太政官に上申した。
      水戸藩出身の北島は、和歌山藩が旧幕府を助けた「朝敵藩」にもかかわらず、藩名がそのまま
      県名なのは不適当と考えたのであろう。(当時の県庁は海部郡、名草郡と上申した疑問がある)
      大蔵省は改称するとかえって人心疑惑を生じるとして却下した。 しかし、御三家の水戸県は
      4年11月に茨城県に、名古屋県は5年4月に愛知県に改称されている。 また、同時期に福井県
      参事から申請された足羽県への改称申請も承認されている。 和歌山県は、津田の建策が
      新政府に及ぼした影響が強く、藩名に基づく県都=県名として残ったが、旧紀州藩は紀伊国と
      伊勢国が領分であったものの、伊勢国領分は三重県に割譲されての結果であった。


   (3) 県名決定が遅れる
    
佐賀県
     ア.維新前後の佐賀藩
       明治新政府を成し遂げた勢力は薩長土肥”と称されるが、肥前は近代兵器の威力を
      土台の軍事力と岩倉具視の後押しから新政府の中心に後発的に入った。 従って、薩長に
      とって心喜ばしからざる勢力であった。 藩主鍋島直正(閑叟)は日和見的な行動のため曖昧な
      見方をされていた。 例えば、関白近衛忠煕に京都守護を願い出て攘夷の勅諚と天盃を受ける一方
      将軍の文武相談役在京尊攘派大名21名に対して行われた攘夷決行諮問の時に参内せず、
      病躯を押して参内したものの長州追討を進言しただけであった。 二条城で将軍を訪問した際も
      何もしていない。 しかし、後継者の鍋島直大は横浜裁判所副総督に就任し同所が鍋島軍の本陣を
      機に新政府軍となった。 その結果、上野戦争の主力として大村益次郎の指揮とアームストロング砲
      などの近代兵器の威力で勝利した。 また、東北戦争では九州諸藩連合軍4,700名中2,851名を
      派遣し、戊辰戦争を通じ4,711名もの藩兵を動員し新政府軍の中心を担った。 卓抜な軍事力から
      新政府内の立場が急激に強まり、議政官参与に鍋島直大大木喬任が文部卿、大隈重信と
      副島種臣は外務卿、江藤新平が司法卿に任命された。 この様に新政府内の重職に多くの人材を
      送り込みながら、藩名が県名として残るか否かの時点では、佐賀藩出身者の間では意見・立場を
      異にしていた。
     イ.伊万里県の設置
       肥前国は伊万里県と長崎県に分割された。 旧国が2県以上に分割されたのは肥前と武蔵国
      だけで日米修好通商条約対象の長崎など5港を管轄する県の領域をできるだけ狭く抑える目的
      からと言われる。 肥前国は佐賀藩35.7万石と、支藩の蓮池(5.2万)・小城(7.3万)・鹿島(2.5万)を
      内高とし鍋島4庶流と竜造寺4分家の合計が大半を占め、他に唐津藩(6万)と半島ごとに島原藩(7万)
      平戸藩(6.1万)、大村藩(2.7万)。 島国の壱岐福江藩(1.2万)と対馬厳原藩(5.2万)で構成されていた。
       廃藩置県で本藩の佐賀県と厳原県が合併して伊万里県に、次に小城・蓮池・鹿島の支藩と唐津藩
      が伊万里県に合併した。 島原・平戸・大村・福江の各県は長崎県に併合された。(後に厳原は長崎県に)
      県庁を何処にするかの際、佐賀城下は肥前国の南東端であり、伊万里港は西北端に位置している。 
       このような位置関係に在ったが仮の県庁は伊万里に決まった。 何故佐賀でなく伊万里か。 
      伊万里から佐賀に戻った時の理由に「廃藩時に伊万里が港として海外へ輸出する陶器の積入れの
      ため海運の便が良いから」とある。
     ウ.佐賀の乱と自由民権運動の影響
       第2代権令
多久 茂族は伊万里が辺鄙で事務上支障をきたし、佐賀は筑前・筑後との便も良く
      役所も整うことを理由に大蔵省に佐賀移転を具申し承認された。 ところが明治6年の政変で
      江藤新平らが下野し、佐賀では新政府の政策に反対する空気が充満した。 (大隈重信は
      大久保利通と共に殖産興業と財政再建派の参議として政府に残った) 士族の社会的復帰を願う
      「憂国党」と、薩長藩閥に不満を持つ「征韓党」が反政府的な機運で結成。 士族の秩禄処分に
      対する不満や天災・疫病に悩む農民の社会不安も募り士族反乱の兆しが出始め、ついに明治7年に
      佐賀の乱が勃発した。 大久保利通と彼に引上げられた佐賀県権令岩村高俊(土佐出身)が
      佐賀の乱を収束。 しかし、士族の不満は続く難治県のため同9年に筑後国を中心とした三瀦県に
      合併させられ、佐賀県の名が消える。
     エ.佐賀県復県運動
       肥前閥大隈重信は自由民権運動に理解を示し国会開設を訴えた。 そのため伊藤博文
      中心の薩長閥と政治的確執となり、佐賀県の復県運動が続けられたものの同13年に徳島県、
      同14年に鳥取県が独立したのにかかわらず佐賀県は独立に至らなかった。 明治14年の政変で
      大隈は下野し立憲改進党を結成し被合併県の不満を鎮静化させる動きを示したが、三瀦県の
      旧肥前国部分は長崎県と合併され県民は独立運動を展開し続けた。 ようやく同16年、富山、
      宮崎と共に隣県から独立した。 同10年以降の成立のため県都が県名になった。

    
鳥取県
     ア.維新前後の鳥取藩
       鳥取池田家の態度は佐幕と尊王の間を揺れ動いた。 藩主池田慶徳は、嘉永3年(1849)
      水戸徳川家からの養子のためか、水戸学の影響もあり改革派=尊攘派が藩政改革を推進した。
       ところが万延元年(1860)、改革派の中老が辞職し保守派が就任し改革が手直しされた。
       その後保守派=守旧派と尊攘派との対立が激化したが藩主慶徳は積極的に対処せず、
      元治元年(1864)再び尊攘派が藩政の中枢を占め、有力指導者の堀正次郎は尊王の純理論
      から禁門の変に対する長州の朝廷に対する攻撃を非とし鳥取藩は長州征討の山陰道一番手
      となる。 しかし、堀が征長反対派によって暗殺されると尊攘派藩士は免職・閉門となり、守旧派
      =佐幕派が要職に就いた。 ところが鳥羽伏見の戦いを境に急速に朝廷側に傾き、新政府軍と
      して関東・東北に参戦することとなった。 この様に鳥取藩は勤王と佐幕が目まぐるしく変わり
      「曖昧藩」といえる。 因幡国と伯耆国は実質的には鳥取池田家が支配していた。 明治2年6月
      に鹿奴及び若桜の2支藩は鳥取藩に統合され、戊辰戦争での忠勤が認められて廃藩置県では
      鳥取県になり、「3府72県」の際も県都は鳥取で県名も鳥取県であった。
     イ.島根県への併合
       明治6年6月、会見郡で3万人以上の民衆が戸長や豪農・豪商を打ち壊す「血税一揆」が発生
      した。 直接のきっかけは「徴兵論告」の中の「血税」という言葉を人の生き血を絞り取ることと
      誤解したことと言われるが、本質は政府や県の施策全体に対する不満である。 県は大阪鎮台
      の派遣を要請し、住民の要求を取り上げず大量に逮捕し厳科に処した。 地租改正条例の結果
      鳥取県は全国で第2位の高率県となり、明治8年12月に久米・八橋両郡112カ村の農民が地租改正
      不服従運動を繰り広げ、官憲の弾圧や大地主の説得によって下火となったが県は同9年秋、
      地価の一部を修正して減税を認めた。 しかし鳥取県下の民情は非常に悪かった。 山陰地方の
      因幡・伯耆・隠岐・出雲・石見の5カ国は一ヶ国では小規模のため明治政府としてはどの様に
      集約するかが問題であった。 鳥取藩の本拠地因幡においては民衆の新政府に対する激しい
      反対の本質に士族支配の復活があることから難治県と看做された可能性が高かった。 
      背景には新政府軍の一員として軍備など負担をこなしたものの、元からの朝廷側でなかったこと
      もあった。 廃藩置県後の府県統合計画において因幡国は美作・備前(現岡山県)と合併して
      北条県に、伯耆と隠岐国は出雲国と合併して島根県にとする案もあった。 明治9年8月に実施
      された形は、浜田県と共に島根県に合併させられ県都は松江となったのである。
     ウ.鳥取県の再置
       島根県への併合により鳥取はさびれ、鳥取県民の島根県政に対する不満・反感が募った。
      根底にある感情は討幕運動に貢献した鳥取藩が山陰道鎮撫使の取り調べを受けた島根藩に
      併合され、鳥取池田家32万石が松江松平家18万石の下に置かれた屈辱感にある。 そして、
      士族が家禄奉還や賞典禄削減で窮乏した生活不安を背景とする新政府への反感である。
       不平士族の結社(共立社・悔改社)が中心となって鳥取県再置運動が展開され、萩の乱や
      西南戦争へ呼応、自由民権運動と結びつくなど政府も反政府的行動を放任できなくなった。 
      明治13年に「悔改社」という貧困士族の授産運動から拡大された。 同時期に福井県が
      石川県・滋賀県から徳島県が高知県から独立したことが鳥取県の再置に拍車をかけた。
       明治14年、悔改社の後身「共斃社」(旧藩時代の下級士族が中心)が米価引下げを狙った
      米の県外移出を禁止する「米の津出し禁止願」を県庁へ差出すと同時に実力行使に出た。
      米騒動までは拡大しても幅広い住民の支持は得られなかったが、手段を選ばぬ活動に批判的で
      あった上士を基幹とする「愛護会」が、内務・大蔵両省へ鳥取県再置の上申を行なった。
       政府への陳情書や島根県令への鳥取県再置の建議書を受け、参議兼参謀本部長山縣有朋が
      県下各地を巡視、帰京後政府に復命書を提出した。 便宜的な能率主義を拝して鳥取県を
      島根県から独立させるべきとし具体的な新県域は因幡一国で一県とするものであった。 山縣に
      随行した内務権大書記官今村和郎(土佐藩士、岩倉遣欧使節団随行者)と同少書記官勝間田稔
      (薩摩藩士、のち各県知事歴任)は鳥取県は再置すべきでなく、因幡国だけを兵庫県と合併させ、
      新県設置の金で鳥取・姫路間の道路を開通すべきとした。
     エ.鳥取県再置の処理
       山縣の復命書は内務省主管参議伊藤博文によって「鳥取県再置案」が作成され、山縣・伊藤
      両人の合議で決し太政大臣と西郷従道・寺島宗則を加えた参議4人の会議を経て、東北・北海道
      巡行中の天皇の裁可を仰ぎ鳥取県再置が確定した。 伊藤等が参議筆頭大隈重信を追い落とす
      「十四年の政変」の時期に、大隈他5人(黒田清隆・川村純義・井上馨・山田顕義)の参議がいない
      状況下、山縣の復命書に基づいて明治14年9月に再置が決定。 元老会議も事後承認となった。
       異例とも思われる早さの再置決定の理由は明確ではない。 ただし伊藤との話合のみで一部の
      参議しか出席していない会議での審議の過程から、山縣の恣意が働いた処置であったことは明らか。
       巡視した山縣が鳥取士族の貧困と自立力食の気風を欠き共斃社が良民の害毒となっていることを
      重視し、士族の反乱を恐れ、未然に防ぐため上申を受入れたと推測される。 「忠勤藩」鳥取藩の
      名前を残して島根県から独立させる策を採った。 布告では隠岐は含まれていない。 米子や倉吉を
      中心とした伯耆では鳥取県再置に対して反対した。 理由は鳥取県庁より松江の方が近く因幡より
      出雲との交流が盛んであり、鳥取県になると地方税が高くなる。 しかし伯耆の主張は通らず県会に
      おける因伯の対立が明治30年頃まで続いた。 明治10年以降の成立ということもあり県名は県庁
      所在地と同じになった。




V.朝敵・曖昧藩に対する県都・県名
 1. 県都と県名が同一
   (1) 最大藩が県都・県名となるが決定が遅れる
    
福井県
     ア.維新前後の福井藩・小浜藩
       福井藩は越前松平家の宗家であり、藩主松平慶永(春嶽)は田安家からの養子という立場である。
      政事総裁職に任じられ幕政に深く関り、後継者の茂昭は征長副総督、第1次・第2次の長州征討に
      参戦し幕府側であった。 慶永は薩長の討幕運動に反対ながら先端が開かれると新政府と旧幕府の
      間の調停に奔走したが成らず新政府議定・内国事務総督、「公議政体論」路線に挫折し下野した。
       慶永が奔走するも政治の主力に成りえず福井藩は幕府寄りの「曖昧藩」であった。 若狭国は実質的
      に小浜酒井家(姫路酒井家の分家)のみで鳥羽・伏見の戦いでは幕府軍に与したため、北陸道先鋒と
      なることで許された。
     イ.士族の不満と一揆の発生
       福井藩の筆頭家老本多家は武生(江戸時代は府中)2万石(再高時は4.5万石)であったが版籍奉還で
      華族・知藩事に任じられず、本多家知行地は福井藩の直轄になる。 新政府に従来通り本多家の支配に
      戻すよう直訴したが却下され、他の藩士同様の士族とされ華族への昇格運動を起こした。 これに福井藩
      に預けられた旧幕府領の農民が難渋に及んだとの風説が結びついて「武生騒動」となり逮捕者や獄死・
      斬首が発生した。
     ウ.福井県名の改称
       「3府72県」で福井県(越前国福井・大野・丸岡・勝山・本俣が合併)と敦賀県(若狭国小浜・鯖江が合併)
      が設置されたが「人目一新」のため郡名の「足羽県」と改称された。 福井県参事村田氏寿は福井藩450石、
      藩主松平慶永に登用され藩校明道館講師を務め、橋本左内と共に将軍継嗣問題で働く。 戊辰戦争では
      会津攻めに功があり藩大参事から福井県参事となる。 自らの藩名を廃することは本意でなかったろうが
      前記騒動から難治県と位置づけられた統治を安定するためであったと考えられる。 仙台県などは地方官の
      願いが反映され、和歌山県は地方官の願いが退けられた。 維新前後の福井藩は「朝敵」ではないが、
      「反薩長」福井藩を連想させる県名を避けた結果である。
     エ.敦賀県への合併
       明治6年1月に足羽県を敦賀県に合併し県庁は敦賀県に。 主たる理由は、敦賀が南越の咽喉に位置し
      北海道・北陸・中部・関西地方の物流の中心として便利なことである。 ところが敦賀県への合併は旧足羽
      県民にとっては便利を失うとして明治8年9月に福井移庁を求める旧足羽県区長連名の上申書が元老院副議長
      後藤象二郎に提出された。 主張は県庁が敦賀にあるため布令が遅れる、質問が出来ない、費用もかかる。
       一方、福井は旧城下や三国などの大きな町があり、四方から人民が集まり、舟運や車の運搬は便が良く
      物流が盛んである。 県庁の地は福井以外にない。 一方の嶺南は猛反対で双方ともその主張は相容れなかった。
     オ.福井県の成立
       「3府35県」の際、嶺南(ほぼ旧若狭国)は滋賀県、嶺北(旧越前国7郡)は石川県に組み込まれた。 
      明治12年5月第1回石川県議会が開催されたが、越前勢は全ての政策において加賀・能登・越中に多数決で
      敗れ激しい軋轢が生じた。 地租再調の機会に同14年2月第三次福井県が成立し、若狭の人民と滋賀県令は
      反対で、人民は滋賀県復帰の集会を開き県令は建言を行い以後10年以上に亘って復県運動は行われた。
       明治10年以降の成立につき県名=県都の処分である。

    
富山県
     ア.維新前後の富山藩
       越中国は加賀前田家120万石の支配地で、三代利常の時代に三男利次が10万石を分封され富山藩が
      成立した。 富山藩領は越中国の中でも富山町と婦負郡及び上新川郡の一部でその他の大部分は加賀藩
      領であった。 12代藩主利声が宗家と対立し退任した後も幼少の利同を宗家から迎え相変わらず宗家の
      管理下に置かれ歴史的経緯から石川県への併合は又も加賀に支配されるという屈折した意識が越中人に
      あったと言われる。
     イ.一揆と宗教弾圧への反発
       明治2年10月、越中国新川郡で”ばんどり騒動”が発生。 連年の凶作に対する救済を嘆願行為で
      全国一揆、打毀しの一環である。 同3年10月に富山藩参事林太伸は領内の仏教寺院を一宗一寺とする
      合寺令を発令した。 新政府の廃仏毀釈による寺院のとり潰しという過激な仏教弾圧を行い真宗が根付いた
      民衆の気持ちを逆なでした。
     ウ.富山県成立の経緯
       廃藩置県で富山藩は富山県になった。 しかし、その11月に県庁が魚津に移り、射水郡以外が新川郡と
      改称された。 同5年9月、旧越中国が1県となり県庁は富山に置かれた。 しかし、同9年4月に富山県は
      石川県に併合され、それ以来の石川県議会は道路工事に力点を置く加賀・能登衆と永年洪水に悩まされ
      河川改修を主張する越中衆との折り合いがつかなかった。 次第に越中国の不満が高まり越中改進党幹事
      米沢紋三郎を中心とした分県運動が新政府へ通じ同16年に佐賀県・宮崎県と共に分離独立できた。


   (2)城下町以外が県都
    
青森県
     ア.維新前後の弘前藩
       弘前藩は戊辰戦争の当初 奥羽列藩同盟に属し、その後新政府側に転じて南部藩などと戦い
      箱館戦争で功を挙げ「勤王殊功藩」と評価された。 新政府側に転じたのは最終段階で、去就に
      苦しみ藩兵の一部を敵対する庄内藩側に参加させ、藩の内紛から新政府の按察使に藩当局者の
      反政府的な行動を訴えている。 弘前藩は軍功賞典を下賜された忠勤藩であることから、同藩の
      曖昧な態度は朝敵の首謀者が限定されていると判断され不問となった。
       新政府は同藩の混乱回避に主眼を置いた。 ただし、藩政改革が厳しく督促され藩治職制を
      改定し、政務の先例や旧例を廃止した新たな藩庁規則を設け、兵制や税制について抜本的な
      改革に着手している。
     イ.県都が湊町の青森へ、県名となる
       陸奥国は西部日本海側の弘前藩10万石及び支藩の黒石藩1万石と東部太平洋側の南部藩
      支藩八戸2万石及び七戸1万石。 陸奥国の最大藩であり忠勤藩に扱われた津軽氏の弘前に
      県庁が定められ、廃藩置県後の9月5日に館県(旧蝦夷福山藩)と斗南県(旧会津藩)他6県が
      合併 弘前県、更に十数日後9月23日に青森県へ。 その背景には弘前藩は南部氏の臣下に
      あった津軽為信が南部氏領を奪って秀吉・家康に認められて独立したことや奥羽列藩同盟を
      脱退し南部藩に対し戦闘(野辺地戦争)に及んだこともあり、両藩は激しい確執を持っていた。
       戊辰戦争時から此の地に滞在し、住民の気質が大きく異なることも承知していた県大参事
      野田豁通(熊本藩士)は両地域の中間に位置し、今後の船運の発展も考え県庁を青森に置く
      ことを申請した。 青森市29.3万 八戸23.6万 弘前17.7万

     
長野県
      ア.維新前後の松代藩
        64の旧国の中でも広大な面積の信濃国は、北信の松代(10万)・須坂(1万)・飯山(2万)、
       東信の上田(5.3万)・小諸(1.5万)・岩村田(1.5万)・竜岡(1.6万)、中信の松本(6万)・高島(3万)
       南信の高遠(3.3万)・飯田(1.7万)と小藩が点在し大半は幕府領であった。
        最大の松代藩は、幕府支持から朝廷支持に転換し戊辰戦争では新政府軍として転戦。
       藩札の乱発をするなどの経済混乱を底辺にして、特権的御用商人や贋金遣い商人宅の
       焼き打ちなど一揆が大規模化。 騒動に対し松代藩に廃藩を願い出るよう圧力を加えた。
      イ.長野県成立の経緯
        江戸幕府は信濃国内の幕領に飯島(現上伊那郡飯島町)、中野(中野市)、中之条(埴科郡坂城町)
       御影(小諸市)の4陣屋を設け代官所に管轄させた。 慶応4年2月新政府は尾張藩に旧幕領の
       支配を命じ8月2日飯島陣屋に伊那県を設置。 3年9月伊那県は伊那県と中野県に分割。
       4年6月に中野県は長野県(第1次)と改称。 4年11月廃藩置県後の大合併により北信と東信の
       県は長野県(第2次)に合併。 中信と南信の県を合併して設立された筑摩県も9年8月に
       長野県(第3次)に合併。 善光寺平は「長い(「広い」の意)原野」であることから「長野」と
       呼称され、その中心で善光寺の門前町長野が県都となり県都=県名に。
       長野市38.7万 松本24.3万 上田16.1万


 
  2. 県都と県名が異なる
   (1)最大藩が県都だが県名は異なる
     
三重県
      ア.維新前後の津藩
        伊勢国最大の津藩(32.5万石)は、鳥羽伏見の戦いで幕府側の山崎高浜砲台に位置。
       王政復古の政変を知り反政府軍となった幕府の砲台に対し攻撃。 幕府側からすれば裏切り
       朝廷側の勝利に大きく貢献。 その後も戊辰戦争では東海道軍の先鋒として幕府軍と戦った。
        津藩知事藤堂高猷が新政府の推進する藩政改革として平民軍を創設。 軍籍を失った
       士族が不満を持ち紛糾。 藤堂監物(長谷部一)は津藩軍大隊長として上野戦争や会津戦争
       で功績を挙げ300石の恩賞を受けたが津藩幹部登用がならず。 不満分子らと高猷に
       改革の撤回を求めが高猷はそれを叛逆行為とし、監物が切腹したことで「監物騒動」の
       決着がついた。 その後、伊賀国で平高騒動が起り高猷の失政とされ譴責処分を受け隠居する。
      イ.三重県の成立
        伊勢国には津藩と支藩の久居(5.3万)及び菰野(1.1万)の他は家門及び譜代の桑名(11万)
       亀山(6万)・長島(2万)・神戸(1.5万)が廃藩置県で藩となった。 「3府72県」では度会府(幕領)
       と久居県及び志摩国鳥羽県(3万)が度会県となり朝廷側に味方した津藩に統合。 県庁が
       津に置かれ安濃津県(「安濃郡の津」ということから)。 参事 丹羽賢に対し県民は名古屋人で
       あることで反感を持ち、丹羽は藤堂家の印象が強い津に県庁を置くことを避けたかった。
        そこで丹羽参事は四日市への県庁移転と同地の郡名を採って三重県へ。 丹羽は尾張藩
       勤王運動の急先鋒で新政府の参与、名古屋藩大参事を経て「3府72県」に集約された際に就任。
        県庁を津から外す案は津藩が朝廷側に寝返ったので勤皇討幕藩ではないとの認識。
       6年5月、丹羽の後任 岩村定高県令は県北に位置する四日市では不便とのことで津への移転
       申請を出し承認されたが県名はそのままとなった。
       四日市30.1万 津29.1万 鈴鹿19.8万 松阪17.0万

     
愛媛県
      ア.維新前後の松山藩と宇和島藩の動向
        明治維新時の伊予国には瀬戸内海側は家門の久松松平氏(松山藩15万石と分家今治藩3万石)
       と紀州徳川家連枝の松平氏(西条藩4万石及び外様の一柳氏(小松藩1万石)。 豊後水道側は
       伊達氏(宇和島藩10万石格と分家吉田藩3万石)と加藤氏(大洲藩6万石と分家新谷藩1万石)が
       存在した。 徳川家門の久松松平氏は家老 菅五郎左衛門を総大将として第二次長州征討に
       加わり藩兵の放火・暴行を放任し作戦失敗で大敗し藩主定昭に事実を隠した。 
        鳥羽伏見の戦いでは徳川方の主力として戦い朝敵として松山城明け渡し藩主蟄居。
       土佐藩占領下15万両の献金処分を受け新政府に赦された。 同じ家門のうえ御三家紀州藩の
       連枝西城藩松平頼英は本家同様に早くから朝廷側にたち戊辰戦争では新政府軍にて出陣している。
        宇和島藩は藩主伊達宗城が安政の大獄で隠居謹慎となったが、藩主を譲った後も王政復古で
       議定に就き参頂会議・四侯会議など国政に大きく関った。 ただ、戊辰戦争では心情的に
       徳川氏寄りで、薩長の行動に抗議し参謀を辞任している。 戦闘がはじまると隠居の立場で
       ある伊達宗城が藩主宗徳に代って松山藩追討を奏上し、新政府側への態度を明らかに。
        大洲の加藤氏は尊王派として小御所会議に軍勢を率いて御所の警備にあたり鳥羽伏見の戦い
       でも長州藩兵を支援し戊辰戦争では新政府軍に貢献。
      イ.四国5県の成立
        「3府72県」で阿波・讃岐・伊豫・土佐の4ヶ国に5県が設置された。 伊豫国だけが松山県
       (西条・小松・今治の3県)と宇和島県(宇和島・吉田・大洲・新谷の4県)の2県に分割。 四国の
       各国は狭小の国であることが要因で土佐を除くと最終設置まで合併分離を繰り返した。
        その背景には国の規模に大差がない中、忠勤藩の土佐だけが変動せず朝敵藩の伊予松山藩と
       讃岐高松藩、内紛状態で問題藩の阿波・淡路の徳島藩は県域・県名がなかなか定まらなかった。
      ウ.県名の改称
        「朝敵藩」だが松山県で発足し5年2月には直ぐ県名が石鉄県に変更。 4県の「人民の耳目を
       一新するため」石鐵県(地域中央の石鐵山(石鎚山)から命名)へ。 宇和島県も松山県に倣って
       旧名では問題と神山県(宇和島・大洲間の山名)に。
      エ.愛媛県の成立と香川県との合併・分離
        6年1月に県庁が松山から今治に。 県庁参事 本山茂任が公務で出発した日に留守を託された
       出仕 植村徳昭が凶漢により暗殺された事件が背景に。 2月、松山県と宇和島県が合併し
       愛媛県(第1次)が成立、県庁は松山。 9年8月、右大臣岩倉具視が愛媛県(第2次)に香川県の
       併合を命じた。 15年に分離運動は高まり21年12月香川県を分離し第3次愛媛県へ。
      オ.頻発した民衆騒動の影響
        新政府の大改革→社会不安と動揺。 急進的文明開化政策に失望し各地で農民騒動が勃発。
       3年、宇和島藩領の野村・松柏・宇和・津島と吉田藩領の三間騒動。 4年、明確なる新政府打倒の
       反動的闘争の農民一揆。 旧大洲藩領の大洲・郡中・臼杵、旧松山藩領の久万山・久米騒動など。
        新政府の革新政策が保守的な山間地方の農民などへ様々な誤解から反感を招き、交通不便で
       平野部と隔絶状態→ 新政策を強硬に実施する恐怖→ 強訴・暴動化。 廃仏毀釈に伴う神仏分離
       神社の合祀、堂宇の焼却→キリスト教への改宗と盲信などが起こった。

     
香川県
      ア.維新前後の高松藩
        高松藩は安政6年に洛西に営所を設置。 元治元年に藩主松平頼聰が大内守護で京都に。
       慶応元年、将軍家茂の命を受け西宮駅の警備。 同3年に徳川慶喜の命で禁門を警備。
       鳥羽伏見の戦いで幕府側主力として会津・桑名・姫路・大垣・松山藩と共に薩長軍と戦闘。 
       薩長土・安芸・因幡・津藩に対峙し松山・大垣・姫路・高松藩討伐の命により朝敵に。
      イ.数度の併合・分離の展開
        「3府72県」で高松県と丸亀県が合併し香川県(第1次)。県名香川郡に由来。
       高松藩が「朝敵藩」→ 高松県の名称は採らず。 県域が讃岐一国…寛大な処置。
       租税減免・村吏の不正・物価高騰、村役人や特権商人への不満→ 世直し型一揆勃発。
           旧藩主上京阻止や徴兵令反対・地租改正不服など行政に対する抵抗運動や高松藩知事
              松平頼聰の免官に伴う東京移住に対する管内農民の状況阻止事件など高松藩領に
       拡大し一揆勢に対し軍隊が出動。 徴兵令に対する6年6月の西讃岐一帯農民騒動なども
        2年9月、高松城内軍務局において高松藩執政 松崎渋右衛門が殺害される。 高松藩は
       処置の不手際を理由に中央政府の厳しい裁定に屈す。 6年2月、香川県は名東県(阿波国)
       に併合され県庁は徳島に。 民情の不安定さもあったが新政府の併合策の目的には、
       狭小県を廃合し広域府県に再編し近代政策を推進するための基盤固めがあった。
        翌年県会が開催されると地方住民の利害が現れ、阿波に比べ讃岐の租税負担が多く
       利益還元が少ないため阿讃分離の気運が高まった。 讃岐出身の官吏多数が郡戸長公選論を
       唱えこぞって香川県再置を請願。 8年9月、讃岐国は名東県から分離して香川県が再置された。
        香川県分離論の主な理由として県庁有無の利害や地方税に関する幾重にもの不利益の数々。
       海上陸路ともに数十里の距離で数日を経なければ県庁に達しない。 古来「讃予阿土」を
       もって四国と称するのに讃岐のみ独立県でないことは慷慨に堪えないなどである。
        9年8月独立。 右大臣岩倉具視名で愛媛県へ「香川県被廃其県へ被併候条、土地人民同県
       ヨリ可受取」の達が伝えられた。
      ウ.分離独立運動
        15年5月の有識者による「讃予分離ノ激文」が魁となって分県独立運動が始まった。 愛媛県に
       併合されている不利益の具体的な理由は地方税の割当が伊予に厚く讃岐に薄い。県庁の存在
       有無は市街商況に影響を及ぼし讃岐は損失を被っている。 県庁のある松山まで距離が遠い。
       古来「讃予阿土」をもって四国と称するが讃だけ一県独立してない。
        分県独立運動は反対派もありなかなか進展しなかったが、21年11月内務大臣山縣有朋が
       「香川県設置之件」を内閣総理大臣黒田清隆に提出し20日に閣議決定。 元老院の可決を経て
       12月3日勅令第79号で公布された。 香川県の確定が明治21年まで延びた背景は中央集権に
       因る効率化…狭小な旧国の併合。 香川・愛媛・徳島の3県併合→ 民衆の反対で3県に落ち着く。
       高知県は「忠勤藩」高知、朝敵藩が主力の香川と愛媛、「曖昧藩」で難治県の徳島。




 W.新政府新設・配置換え等を背景とした県都=県名
  1. 新政府に依る創設藩が県都・県名
     
静岡県
      ア.維新前後の駿河府中藩
        駿府藩領は徳川忠長事件で廃藩以来、幕府の直轄地で駿府城代が統轄。 慶応4年の藩名
       制定時には存在せず。 徳川氏の相続者として徳川家達に駿河70万石を与え「府中藩」を設立。
      イ.静岡県の成立
        2年6月、家達に随従して府中に赴いた駿府学問所頭取向山黄村が「府中」は「不忠」に通じる
       ことから改名を申出て静岡に。 当初は駿府城近くの賤機山(しずはたやま)に因んで「賤ヶ岡」
       「賤」は「いやしい」を意味するため「静岡」に。

  2. 最大藩以外が県都・県名に
     
福島県
      ア.維新前後の福島藩
        福島藩は譜代3万石、幕末の藩主は板倉甲斐守勝尚である。 慶応4年1月、会津藩より徳川譜代
       恩顧の藩白河城へ参集。 佐幕将来の方向を熟議する使者が来、徳川家譜代恩顧の家筋として
       幕府の為に戦うとし、隣国大藩伊達家の動静を確かめる必要があったが専ら佐幕的行動を執り
       つつあった。 藩の体制は佐幕傾向にあったものの二本松藩儒者が来て勤王を説き飛地の三河国
       重原領では尾張藩の者の勧めに応じ勤王に一致するなど藩論は一定せず。
        突然同年4月、奥羽鎮撫使参謀 醍醐忠敬少将が下参謀 世良修蔵らを率い福島入城し会津征討軍の
       本陣に。 佐幕・勤王の藩論統一を図る暇なく新政府軍側に引き込まれた。
       直ちに世良の強硬な督促により仙台藩は会津藩境へ進軍し戦闘を交えたが両軍共戦意なく形式的な
       戦闘で終始。 会津藩主は米沢藩主に恭順謝罪の斡旋を依頼し米沢藩主は伊達藩主と謝罪嘆願書の
       ことを総督府に報告。 世良等はそれを退け戦闘継続を命じた。 しかし、仙台・米沢両藩主は
       会津藩謝罪嘆願の実現に向け諸藩の重臣が白石城に参集し対応を協議。 奥羽列藩の重臣たちは
       世良の横暴をにくみ、総督府に背くことになることに異論なし。 福島藩領は元々米沢上杉氏が
       減封される前の領地、上杉氏から12代勝俊・13代勝顕と二代に亘り正室を迎え財政窮乏の折りに
       受けた援助などの恩誼から米沢藩の主唱に呼応。 隣国大藩仙台藩の動向に左右され奥羽列藩同盟に。
        加えて、世良修蔵らの暗殺が福島城下でなされたことから「朝敵藩」の道を歩む。
      イ.新政府管轄下の福島が県都
        白河城が新政府軍の手に落ちると福島藩は棚倉城救援の兵を出し完全に反新政府側。
       二本松落城との報を受け衆議の結果後日の謝罪降伏に備え開城。東征大総督参謀 正親町公菫へ
       謝罪を願い出た。 奥羽越列藩同盟に加担した廉で3万石のうち2千石減知のうえ国替え勝尚は隠居。
       血統者からの跡目相続の命が出された。 国替え先は飛地の三河国重原領(碧海・加茂・設楽3郡の内
       1万3千石)で、福島藩は廃藩となり新政府の管轄下に置かれた。 廃藩置県以前、会津藩は2年5月に
       没収され若松県となり、7月には福島藩は福島県(第1次)、いずれも新政府管轄下。 「3府72県」で
       一旦は二本松県とされたが福島県(第2次)に改称。 9年8月、若松県と磐前県を合併し今日の福島県
       (第3次)となる。 郡山33.9万 いわき35.6万 福島29.7万 会津若松13.3万
       

     
山形県
       羽前国は14.7万石の米沢藩以下9藩が存在し新庄藩以外は奥羽列藩同盟に参加し朝敵藩となった。
      そのため、廃藩置県前に庄内藩は大泉藩と改称され山形藩は国替えされて新政府管轄下の山形県に
      なっていた。「3府72県」に統合の際には羽前国は3県に分割され、米沢県は置賜県、大泉県は酒田県と
      改称され藩名が使用されなかった。
      ア.維新前後の山形藩
        山形藩は藩主父子が京都に抑留され勤王を誓うが山形へ戻る家臣に親書を持たせ、表面上は
       朝廷に恭順だが委細は親書持参の者に申し含めておくとした。 家臣は重臣会議にて藩主の真意を
       報告。 それは城邑保全が目的のためには奥羽列藩同盟参加はやむを得ず、周辺の大藩に依存する。
       これにより山形藩は同盟国としての態度を決定した。
      イ.山形県成立の経緯
        慶応元年10月に東北戦争が終結すると羽前国の奥羽列藩同盟諸藩も処分をされ、山形藩は藩主
       謹慎や反逆首謀者名簿の提出などの命が下った。 新政府の方針に従って版籍奉還や藩政改革を
       すすめた。 また、朝廷側に対する態度は庄内藩ほど著しいものはなかったが、3年5月8日に近江国
       朝日山への配置替えを命ぜられる。 藩知事以下役員は近江の朝日山に転出し7月17日に朝日山県
       が発足。 9月28日に山形県(第1次)が誕生するが数カ月間の名称については定説がない。
       いずれにしても旧山形藩は存在せず、廃藩置県により新政府管轄下の山形県が天童県を吸収し
       「3府72県」の際には新庄県・上山県と合併(第2次山形県)、9年8月21日に鶴岡県と置賜県を合併し
       今日の山形県(第3次)に。  山形25.5万 鶴岡14.3万 酒田11.9万 米沢9.3万





                                                      2015.11.19
             第61回勉強会 明治維新の高崎

1. 江戸幕府の終焉

 (1)大政奉還
  ア.朝廷の行動
   慶応3年(1867)10月14日 徳川慶喜が上奏すると、翌15日に朝廷は大政奉還を決め、
   10万石以上の諸大名に上京を命じた。 続いて21日は1万石以上の諸大名に同様の
   ことを命じた。 しかし、必ずしも各大名は応じた訳ではない。
  イ.高崎藩の動き
   11月11日、輝聲公は朝廷からの上京命令を辞退する旨を老中稲葉美濃守に届出た。
   辞退届の理由は、「先祖信興(松平大河内右京大夫家初代)が、一城の主として
   徳川家から俸禄を戴いて以来、連綿と莫大な鴻恩を受け、永世譜代諸候の末席に
   連なって来た家柄である。 たとえ朝廷の命令でも、徳川家の指示に従うのが臣下
   として当然の次第と心得る」という、まだ、慶喜が考えた政略の流れの中に在る対応
   方針であった。
  ウ.他藩の動き
   高崎藩が届出たことに続き、忍藩10万石松平忠誠、庄内藩17万石酒井忠篤ら6大名が
   朝命に反対する行動に出た。 上州に於いても伊勢崎藩酒井忠強、沼田藩土岐頼知、
   小幡藩松平忠恕、館林藩秋元礼朝、安中藩板倉勝殷が朝召辞退を幕府に申出ている。
   この様な状況から、静観中の前橋藩松平直克も徳川家と運命共同であることを決意表明した。
    松平直克は水戸学の影響を強く受けており横浜鎖港を主張し幕府総裁を罷免される
   などやや佐幕色が薄かった。
   いずれにしても、この時点では高崎藩及び輝聲公は先頭を行く行動に出ている。

 (2) 戊辰戦争
  ア.鳥羽伏見の戦い
   12月9日王政復古の大号令が発せられ、徳川家の領地没収と徳川慶喜の官位はく奪が
   示された。 当然の如く幕府は強く反発し撤回を求める行動に出る。 争いごとにならない
   ように進めていたが、12月25日に薩摩藩邸焼討事件が勃発してしまう。
    この事件は、最初、江戸の治安を担当していた庄内藩内藤屯所に発砲した浪人が薩摩
   藩邸へ逃げ込んだ。 探索の結果、江戸市中強盗により強奪した軍資金20万両と、江戸
   城中にいる天璋院を奪取し京都へ送る計画であることを探り出し、浪人引渡しを迫ったが
   薩摩藩邸からの発砲に応戦し大砲で藩邸の門を打ち破り薩摩の挑発に乗ってしまった。
    これを受けて、朝廷から慶喜へ謝罪のため上洛するよう命令が出された。 命令は、
   小隊軽装をもってとのことにつきそれを遵守し銃に弾を込めず進軍した。 しかし、強硬派
   幕臣の反対で旗本・会津・桑名15000人の大軍のため衝突となる。 薩長連合軍は、命令を
   受入れた大村藩を加え5000人であった。 慶応4年1月3日勃発、1月6日幕府軍撤退。
   幕府軍の敗因のいくつかは、
    ・戦闘態勢の軍列を構成していなかった…先頭は銃をもたない新選組等
    ・元込め式のシャスポー銃を備えていたが風にあおられ効果が小さかった
    ・指揮命令の差…幕府軍は大坂城から 薩長軍は京都に西郷とその参謀 
    ・薩長軍に「錦旗」の使用が許され「錦旗が出た」との流言に戦意を喪失した。
   錦旗は誰も見たことが無いが、歴史上天皇の軍隊に錦旗が掲げられたことが知られていた
   ため幕府側の将兵は朝敵になることを恐れた。
  イ.将軍及び有力大名が朝敵に
   ○官位はく奪・京都藩邸没収の処分
     将軍  徳川 慶喜
     京都守護職・會津藩主  松平(保科) 容保
     京都所司代・桑名藩主  松平(久松) 定敬
     老中・備中松山藩主  板倉 勝静
     老中格・大多喜藩主  松平(大河内) 正質
      松山藩主  松平(久松) 定昭 (長州征伐、 鳥羽伏見の戦い参陣 蟄居)
     高松藩主  松平(水戸) 頼聰 (鳥羽伏見の戦いに参戦 重臣2名切腹)
   ○入京禁止の処分
     小浜藩主  酒井 忠氏 (鳥羽伏見の戦い参戦)
     大垣藩主  戸田 氏共 (鳥羽伏見の戦い参戦)
     宮津藩主  松平(本庄) 宗武 (山城八幡警備で出陣、新政府軍へ発砲 2万両献金)
     延岡藩主  内藤 政擧 (長州征伐、鳥羽伏見の戦いで京都警備)
     鳥羽藩主  稲垣 長行 (鳥羽伏見の戦い参戦 1万5千石供出)
  ウ.幕府の狼狽と高崎藩
    慶喜は大坂城に撤退した幕府軍に徹底抗戦を宣言したが、軍艦で脱出し江戸城へ。
    再度西上すると宣言したので勤王佐幕の両論が沸騰した。 高崎藩は江戸城守衛を免じられ
    江戸湾第三砲台警衛を命じられる。 輝聲公は陸軍奉行を免じられ、替りに碓氷関所の守衛
    を命じられる。 これに伴い、藩主以下江戸詰の家は高崎へ帰る。この者たちが居住した所が
    明治になって竜見町・山田町になる。
  エ.徳川慶喜の謹慎
    慶喜に対し朝敵としての追討令が下されると、幕府は事態収拾・以後の対応を勝海舟に委ね
    徳川宗家は養子田安亀之助に譲ることに。
    2月、慶喜は上野寛永寺に入り謹慎を表明、大半の大名・旗本も恭順。
  オ.東山道総督府高崎へ
    3月8日 輝聲公は小幡藩松平忠恕と共に総督岩倉具定を迎えるために常盤町の木戸へ
    出向き謁見を願い出て許される。 総督府は石上寺に本陣を置いた。
    謁見を願い出た全ての藩に対し、「勤王の実効」の具体的行動が求められる。
    具体的行動とは、
     @藩力相応の軍資金あるいは武器・弾薬の提供であった。
       (高崎藩は1万両、元込銃20挺・弾薬1000発を献納)
     A官軍をかたる賊徒や無頼の輩を取り押さえこと
     B百姓一揆は事情を調査して、農民を説得し、なるべく武力を使わず鎮静化すること。
       (高崎藩に対して、藤岡近辺の百姓一揆は武力を用いてでも鎮圧せよと命有り)
    遅れて来た館林藩 秋元礼朝は、倉賀野で謁見を願い出たが無視され総社町で謹慎した。



2. 明治時代に向けての高崎藩
  (1) 三国峠へ出陣
    利根郡戸倉村付近に出没する会津藩兵を攻撃するため、出陣命令が下された。
    4月13日 会津藩兵の発砲に応戦、会津は国境の要害へ撤退。
    4月24日 三国峠の上州寄り般若塚で連合軍の総攻撃により会津へ撤退。
    連合軍を構成した藩:高崎・沼田・安中・七日市・伊勢崎・吉井・前橋・佐野
  
  (2) 脱藩士が上野彰義隊に加わる
    幕府回復を願って徹底抗戦するため幕臣らが形成した彰義隊が上野寛永寺に立てこもった。
    高崎藩徒士頭兼砲術教授桜井勝五郎ほか42名の脱藩士が彰義隊に加わった。 脱走藩士は
    仏式四斤半施条砲二門と英製後装銃と多数の弾薬を所持していた。
     5月15日、軍務官判事大村益次郎が指揮する新政府軍と激突し、彰義隊は敗退したが高崎藩
    脱藩士の「高勝隊」の奮闘が目立った。 目立ったため脱走した高崎藩士の所在が判り、高崎
    に戻った者は謹慎処分で決着している。

  (3) 飛地一ノ木戸陣屋の対応
    郡奉行が新潟港の扱いに関する「酒屋会議」に出席したことから奥羽越列藩同盟に引込まれた。
    會津藩主松平容保が朝敵になると、憤慨した藩士が脱藩して越後に集結。
    一ノ木戸領は数代の長期に亘り仁政に浴し肝要な地につき、現地の藩士らは列藩同盟に味方
    する旨を本藩へ報告している。 しかし、高崎藩の本藩兵と戦うわけに行かないので会津地方へ
    転戦した。

  (4) 飛地銚子沖美加保丸事件
    8月26日 銚子領の飯沼村黒生浦に一艘の船が漂着したと飯沼陣屋に届出られた。 船は新政府
    から指名手配された榎本武揚率いる旧幕府軍艦美加保丸であった。
    高崎藩から連絡不十分のため飯沼陣屋では事の次第を知らなかった。 従って漂着した旧幕府の
    人たちの言を信じて丁重に処遇した。 知らせが入った時は漂着者たちは暗夜を利用して脱け出し
    姿をくらました後であった。 輝聲公は責任を追及され謹慎を命じられている。 共に幕府側の人間
    として武士の情けで見逃したのではないか?



3.版籍奉還
  慶応4年(1868)4月21日に「政体書」が発布され、大名領を「藩」、大名を「知藩事」(藩名を付ける
  ときは○○藩知事)とし、「府藩県三治制」を施行した。  9月8日に「明治」と改元される。

   版籍奉還とは、版図(領地)と戸籍(領民)を天皇に返還すること。
  まず、明治元年(1868)11月に姫路藩主酒井忠邦が版籍奉還の建白書提出し、同2年1月に薩摩・長州
  土佐・肥前の4藩主が提出し弾みがつく。 高崎藩主大河内輝聲は3月12日に提出し、6月19日には
  高崎藩知事に任じられた。



4. 藩制一覧の計数
  高崎藩の草高82,000石 外8,573石5斗4升1勺 合高90, 573石5斗4升1勺
  戸数20,972戸(士族1,444戸、卒族 201戸、平民18,530戸)
  人員97,550人(士族2,815人、卒族1,251人、平民91,866人)





                                                      2015.5.21/7.16/9.17
          第58〜60回勉強会 高崎の人物 〜江戸時代編〜

1. 安藤氏三代

 高崎藩は初期の20年間余は短期間に城主が交代していたが、安藤氏が3代70有余年務めた。そのまま
続けば、鶴岡酒井、長岡牧野、小倉小笠原などと共に、譜代藩でも城主名と大名家が一致する藩に
なったであろう。→ 結果、大河内松平氏が166年間城主を務め、江戸時代265年の62.6%。
 (1) 重信(1557〜1621年)
    重信系安藤氏(嫡流は直次系、紀州徳川の附け家老田辺藩主)の初代重信は土井忠勝と共に
  2代将軍秀忠の側近中の側近で老中に就任して5万石高崎城主となり、高崎が老中格の城の地位を
  確立した感があった。 しかし、高崎については62歳での城主就任で在職もわずか2年で死去したため
  大きな影響はない。

 (2) 重長(1600〜1657年)
   2代重長は重信の娘と本多正盛(内藤正成の三男で本多忠信の養子)との間に生れ、重信の養継嗣
  となり37年間高崎城主を務めた。 本町だけであった問屋場を田町・新町に設け田町に絹市を開設。
   将軍家光の徳川忠長卿に対する処分の対応態度から硬骨漢の感があるが幕閣の受けは良くなかった
  かも知れない。 しかし、忠長卿自刃の翌年には家光上洛に随行し寺社奉行・奏者番に就いたが昇進は
  そこまでであった。

 (3) 重博(1640〜1698年)
   長男重之が若死にしたため、その子、重長の孫である重博が相続した。 主な施策は
     @ 領内総検地を実施(高崎藩の年貢は以後このときの割合による)
     A 1667年本丸工事に着手し完成
     B 本町・田町・新町に六斎市の市日を設定、田町に絹の売買独占権を与える
  高崎藩政に多くの実績を残したが、備中松山藩6万5千石へ転封となる。 この藩は外様藩で藩政に
  問題が有り、直前の大名家は改易された後始末が期待されたが問題を残し死去している。
  相続した信友はやや左遷的に美濃加納へ転封させられている。(後日老中に就任)



2. 松平(大河内) 輝貞(1665〜1747年)
 (1) 大名、藩主として有力な背景
  ・3代家光、4代家綱の名参謀として幕府の屋台骨を背負った
松平信綱の孫
  ・6男のため旗本としての経験を積んでいる
  ・将軍綱吉の側役に就いた運から学問の才能が優れていていることを認められる
  ・叔父信興の養継嗣から大名となったため、家臣は大河内松平家一族に仕えている者で構成されて
   いて、他藩への養子とは異なり主従関係は円滑に進められた
  ・壬生藩3万2千石に入封後1万石加増、更に1万石加増されて高崎藩5万2千石に就任。 いきなりの
   5万石大名ではなかった
  ・御側用人の役目が将軍との深い関係が出来ただけでなく、適任であった

  *御側用人
   綱吉政権になって導入された役目。 
大老堀田正俊が若年寄稲葉正休に江戸城将軍御座の近くで
   刺殺されたことを契機に、老中・若年寄らと将軍の連絡役として数人が就いていた。その中でも
   柳沢吉保、牧野成貞と輝貞公が際立っていた。
   牧野は、綱吉が館林藩主時代の家老からの就任で、まさに連絡役であった。
   柳澤は、館林藩士の子供に生れて旗本からの就任。非常に有能なうえ、将軍の意向を良く汲み
   取り信頼は絶大であった。が一方で、老中等幕閣の立場を尊重し政策には関与しなかったので
   軋轢はなく、身の処し方が稀に見る天才だったと言える。
   (綱吉死亡後の柳澤に対する処遇から見ると、権力者に対する反動はなく、江戸時代の政治史上
    珍しいケース)
   輝貞公は、牧野が隠居した後に柳澤とのコンビで側用人を務めたが、主力は柳澤で、輝貞公は
   学問の師弟関係を中心とした側役を務めたものと思われる。
   この結果、高崎が老中格の城主の中でも地位の高い立場を確立、藩主の大名家が定着した功績大

 
 
【 江戸幕府側用人一覧(抜粋) 】
将軍 在位期間
側用人
就任
退任
在任期間
藩主 (石高)
在任期間
備 考
1680-1709
1681年12月
1695年12月
14年0ヶ月
下総関宿藩(7.3万石)
1683-1695
館林藩家老から
1682年9月
1689年2月
6年5ヶ月
武蔵喜多見藩(2万石)
1683-1689

1685年7月
1689年3月
3年8ヶ月
丹波亀山藩(3.8万石)
1683-1686
武蔵岩槻藩主へ
1686年1月
1686年6月
5ヶ月
駿河田中藩(5万石?)
1684-1705

1688年9月
1688年11月
2ヶ月
旗本(6千石)


1688年11月
1689年1月
2ヶ月
陸奥八戸藩(2万石)
1688-1699

1688年11月
1709年6月
20年7ヶ月
武蔵川越藩(7.2万石)
1694-1704
甲斐甲府藩主へ
1689年5月
1689年7月
2ヶ月
飛騨高山藩(3.3万石)
1672-1699

1689年6月
1690年4月
10ヶ月
磐城中村藩(6万石)
1679-1701

1689年12月
1691年2月
1年3ヶ月
旗本5千石


1693年1月
1693年3月
2ヶ月
出羽庄内藩(12万石)
1682-1731

1694年12月
1709年1月
14年1ヶ月
上野高崎藩(5.2万石)
1695-1710

1696年10月
1697年4月
6ヶ月
丹波篠山藩(6万石)
1677-1717

1704年12月
1707年10月
2年10ヶ月
下野足利藩(1.1万石)
1705-1708

1705年2月
1709年1月
3年11ヶ月
但馬出石藩(4.8万石)
1697-1706
忠易改め再任、上田藩主へ
1709-1712
1709年4月
1716年5月
7年1ヶ月
上野高崎藩(5万石)
1710-1717

1710年9月
1716年5月
5年8ヶ月
三河刈谷藩(5万石)
1710-1751
下総古河藩主へ
1713-1716
↑ ↑

↑ ↑




1716-1751
1716年5月
1735年12月
19年7ヶ月
伊勢西条藩(1万石)
1726-1735
御側御用取次、紀州藩士から
1716年5月
1745年9月
29年4ヶ月
伊勢八田藩(1万石)
1726-1748
御側御用取次、紀州藩士から
1717年9月
1730年7月
12年10ヶ月
上野高崎藩(7.2万石)
1717-1745
再任、計26年11ヶ月
1725年11月
1733年9月
7年10ヶ月
伊勢神戸藩(1.7万石)
1685-1732
常陸下館藩主へ
1745-1761
1756年5月
1760年4月
3年11ヶ月
武蔵岩槻藩(2万石)
1756-1760

1760年4月
1767年7月
7年3ヶ月
上野安中藩(3万石)
1749-1780

1760-1786
1767年7月
1786年8月
19年1ヶ月
遠江相良藩(2万石)
1767-1787
後に5万7千石に加増
1777年4月
1785年1月
7年9ヶ月
駿河沼津藩(2万石)
1777-1802


 (2) 人となり
   徳川幕府成立後、次第に武闘派体制から文治派体制に移るにあたり、家光の時代になると出頭人が
  幕府の中核を占めた。家綱の時代にはこれらの大名家が譜代門閥を形成し家格が固まる硬構造に
  なっていた。 綱吉はその生い立ちも影響してか、能力ある者を抜擢する柔構造の体制により、
  自らがリーダーシップをもって政治を行なった。
   綱吉の側用人として、単に権力者におもねることなく、温和な人柄と学識から将軍の政治転換に
  寄与した。家宣・家継時代は左遷されたが、吉宗が将軍になると再び側用人に任じられた。二人の
  将軍の側用人を務めた唯一人である。 しかし、柳澤吉保や間部詮房は政治的実権に関わる立場で
  あったが、輝貞は、相談役的立場であったからか、綱吉時代15年、吉宗時代13年の合計28年間も
  その役目を全うしている。
   村上藩へ転封になった際、同藩は何代にもわたって年貢が苛酷なうえ、前任者本多氏と領民は
  後に「四万石騒動」と呼ばれた軋轢の最中であった。輝貞は、騒動のさなかの未納年貢を相応の
  減額を行い、以後も調整に応じる穏便な対応をしたため、一ノ木戸領民は、藩主への領知替え
  反対運動の「御慕願」や、代官の転勤に対する「お慕い願い」など、高崎藩とのつながりを欲する
  契機となった。
   綱吉が死去後も、生類憐れみの令を守り動物を食しなかった。また、遺言を守り自身の死後も
  上野寛永寺の綱吉廟前の明王院に埋葬させる。



3. 農政家・大石 久敬(1725〜1794年)
 (1) 地方手引書の第一人者
   地方(じかた)第一の書である『
地方凡例録』の執筆者として我国を代表する農業政策者。
  「地方」とは、田制、土地及び租税制度に関する政務を担当する役
  「地方書」とは、江戸時代の地方支配(所領支配)に関する手引書
  民政・農政・検地・年貢・新田開発・度量衡・助郷・普請など所領支配に関する規則・取締・
  慣例・裁決などを採録。
  本務の余暇をみての執筆、3年8ヶ月を懸けて11巻を完成。予定は16巻であったが、体調を崩した
  ため未完成ながら、ほぼ網羅されている。
   後に水野忠邦が未完成を惜しんで、東条琴台という人物に補充をさせた。


 (2) 『地方凡例録』に対する評価
   明治維新の地租改正の中心的推進者の大蔵大輔井上馨は、明治5年6月の土地制度・税制改革に
   関する建議書の中で、地方凡例録と同じ本を作り地方官勤仕録にしたいと述べている。
   長州下級藩士の井上にも地方第一の書で、農政手引書の最高の物であることが聞こえていた。

 (3) 経歴
   名は猪十郎。 久留米藩士古賀貞房の第五子に生れ大庄屋大石紹久の養子となる。
  1793年に領内の農民が大庄屋・豪農などを対象に一揆を起し、幕府の譴責を恐れた藩は久敬ほか
  五人の内一人を死刑にすることで対処することとし、くじ引きで一人を決めさせた。
   久敬は密かに逃亡し、全国を転々と流浪し江戸へ至り、友人から高崎藩主松平輝高が農政に
  明るい者を探している事を聞き、1783年に100石金17両の馬廻役で召抱えられ1788年郡奉行に昇進。
  この経歴が全国的知識を持ち合せていた理由と考えられる。

 (4) 時代背景
   農業事情は、新田開発のひずみが出ていた。新田開発は、開発後一定期間無年貢の特例で農民に
  インセンティブを与え、推進を図った。 急ぎ過ぎた開発により、また、新田開発に熱中したため
  多量の荒廃田が発生した。 幕府は、「諸国山川掟」を発しブレーキをかけるほどであった。
   開発至上主義政策に陰りが出ていた矢先、天明3年に浅間山が大噴火、各地で大冷害が起った
  一方、適地適産が推進され始めた新しい時代の農業として、近郊において特産物(木綿・菜種・
  臘・煙草など)農業が推進され、近郊農村は速効性肥料(糞尿、干鰯)が入手できたので、一層
  加速がついた。



4. 歌人・宮部 義正(1729〜1792)
 (1) 略歴
   父は高崎藩番頭 自身も番頭から年寄。江戸詰の際に冷泉家中興の祖と言われる15代冷泉為村に
  師事する。 為村が広めた堂上派歌壇の中核的存在となり、為村から門下第一と称される。
  高崎藩を致仕し幕府和歌所寄人となり、将軍家歌道師範に

 (2) 冷泉家とは
   藤原道長 - 長家 -(2代略)- 俊成 - 定家 - 為家 - 為相 -(12代略)- 為久 - 為村

   関白道長(966−1027)の第四子長家の曾孫俊成から3代が歌道の家を確立
   俊成:後白河法皇の院宣により単独で『千歳和歌集』を編んだ
      門下に寂蓮(『新古今和歌集』撰者、勅撰和歌集に117首入集)、
藤原家隆(『新勅撰和歌集』に
      最多の43首、定家と並び立つ)がいる
   
定家:『新古今和歌集』『新勅撰和歌集』を撰進、『小倉百人一首』を撰、18〜74歳の日記『明月記』は
      国宝、『源氏物語』『土佐日記』の書写・注釈を行なう 定家仮名遣
   為家:後嵯峨院歌壇の中心。『続後撰和歌集』を単独で撰出、『続古今和歌集』撰者
      為家の子為相が冷泉家を創設(冷泉小路に居を構えていたことから冷泉家と称せられる)

   二条家、京極家、冷泉家が歌道師範であったが、冷泉家が宮廷や武家の歌道師範として残る
   14代為久が武家伝奏となり、堂上派歌壇を形成

 (3) 高崎藩における和歌
   遠祖
源ョ政卿が和歌に卓越しており松平(大河内)輝高、輝高の子四代目輝和、五代目輝延が熱心

 (4) 義正の実績
  関東の公家”と称される 為村門下として幕府御納戸頭石野広通と共に双壁  武家三歌人
   著作に『相生の言葉』、『三藻類聚』、『三藻日記』、『三藻五百首』、『三藻千首』がある
    (三藻は義正の号)
   高崎藩の文芸史を飾る壮大な遺産があり、高崎が和歌を通じて中央との文芸活動が行われていた
   


 (5) 宮部万
  宮部義正の妻 著書『木草物語』は『源氏物語』に比すると言われる文学の香高さ
  (「上毛の紫式部宮部万女の日本文学史的位置」徳田進(高崎経済大学教授研究論文)



5. 剣豪・寺田 宗有(1745〜1825)
 (1) 経歴
    通称は五右衛門(又は五郎右衛門) 14歳で中西派一刀流に入門。 組太刀稽古が主であったが、
   2代目中西が竹刀稽古を採り入れたため17歳で中西道場を辞める。
   平常無敵流の池田八左衛門成春に入門し免許皆伝。 居合、砲術、槍術、柔術免許皆伝、天文、地理、
   医術にも通じた(そのためか、子孫は殆ど医師) その後、高崎藩師範は一刀流のため、高崎在勤の
   民政役になる。 讃岐の金毘羅様から和田田中の琴平神社へ勧請
    再度、藩主輝和から一刀流の修行を命ぜられ52歳で中西道場帰参し、56歳で一刀流皆伝免許

   

 (2) 寺田の実力
  高柳又四郎(→音無しの剣”:相手が打ち込んでも自分の竹刀に触れされることなく音をさせずに勝つで無敵)や
  白井亨(→5尺3寸(約1.6m)の長竹刀で江戸の著名道場を席巻する大石進を2尺(約60p)の方手打ちの竹刀で
  打ち勝った)と共に中西道場の三羽烏≠ニ称される。
  駿河国龍澤寺の冬嶺円慈和尚のもと禅を修業し、天真一刀流を興す。 -「道業天真に貫通せり」-
   中西道場へ戻った66歳の寺田宗有と立ち合った28歳の白井は負け宗有に師事し天真伝一刀流の免許皆伝と
  なる。 白井は継承し、後日「天真白井流」を興す。  高崎藩の後継者は津田明馨

 (3) 当時の剣道状況
   異国船出没から再び武道が盛んになる。 

   幕末江戸三大道場( )内は主な弟子
    ・斎藤彌九郎の神道無念流錬兵館 (桂小五郎・高杉晋作)
    ・四代目桃井春藏の鏡新明智流士學館 (武市半平太)
    ・千葉周作の北辰一刀流玄武館 (海保帆平・坂本竜馬・清川八郎)
   他の有力道場         
    ・心形刀流練武館:伊庭八郎
    ・直心陰流:男谷精一郎信友・島田虎之助・榊原鍵吉・勝海舟

 (4) 寺田の強さを象徴する逸話
   ・千葉周作は中西道場で宗有に組太刀の指南を受け、自書『剣法秘訣』の中で「寺田氏の木刀の尖から火炎燃え出る」
    と記している
   ・直心影流免許皆伝の勝海舟は「寺田先生は不思議な神通力を備えている」と『日本剣道史』において「200年来の名人」
    と紹介されている
   ・大井川の渡し場での竹光による石割の伝説
    草鞋の紐を直した際に鞘から抜け落ちた刀身が竹光であった。 それを見た雲助たちが嘲笑すると、高崎の領主
    松平右京大夫の家臣と名乗り、竹光で腰掛けた大石を真っ二つにした。見ていた者は人間業ではないと驚愕した。
   ・四国讃岐の琴平宮を勧請するのに、四国まで三昼夜で往復した



6. 兵学者・市川 一学(1778〜1858)
 
(1) 経歴
    大儒者市川鶴鳴(荻生徂徠の孫弟子で「寛政の五鬼」の一人)の子、幕府の昌平坂学問所で学んだのち修学の旅へ出て、
   長沼流の兵学を修める。 高崎藩者頭上席 200石 文政年間に藩命で銚子に砲台を築く一方、幕府海防策の策定参画
    嘉永2年(1850)に松前藩へ築城のため出向き松前城を築く
   高崎藩の銚子海防(家老堤順美のもと海岸を巡視 砲台12門を修理、5門を鋳造)
   松前藩主から終身50人扶持、幕府から15人扶持。 将軍家慶に謁見し江戸下谷徒士町に兵学塾、昌平坂学問所教授に
   『蝦夷実地検考録』42巻を著し、大坂天保山砲台を築く
   


 (2) 兵学者としての実力
   
平山行蔵、清水赤城と共に幕末の三大兵学者
  兵学とは:軍法、軍礼、軍器、軍略、軍配など中国軍学の強い影響を受け、仏教や道教など雑多な要素で形成されている。
   主な兵学流派
   ・小幡勘兵衛景憲「甲州流(武田流)」
   ・宇佐美駿河守定行「宇佐美流」(上杉謙信参謀)
   ・北条安房守氏長「北条流」
   ・山鹿素行「山鹿流」(赤穂藩大石内蔵助で知られる)
   ・楠木正成「楠木流」
  長沼流兵学とは:長沼澹斎(1635〜1690)信州松本藩松平(越前)直政の家臣
  指導を受けた藩:松本・明石・秋田・会津・仙台・尾張・津・福岡・久留米・佐賀藩 幕府旗本

 (3) 福山城の築城
   蝦夷地は米がとれないため石高で表せないため松前藩は1万石相当で城郭なし
  天保・弘化年間に外国船が蝦夷地近海に出没すると、松前氏17代崇広は、老中松平(藤井)忠優から城主大名への格上げと
  築城の命を受け、高崎藩主松平輝聴に要請し一学を招聘。 息子十郎と蝦夷へ 築城位置の選定、設計、建設

 (4) 松前城
   ・嘉永3年(1850)に着工し安政元年(1854)に完成、我国最後の和式築城の最後の城郭
    *五稜郭:安政4年(1857)に着工、元治元年(1864)に完成、洋式城郭
    総面積23,578坪(高崎城は51,613坪)、楼櫓5、城門16 純日本式建築、塁上に七基の砲座 16砲台33門の大砲  
    白亜総漆喰塗込壁(灯台を兼ねた)壁に鉄板(火砲攻撃対策) 銅板葺き(強風、極寒に備え) 亀甲積み(極寒対策:石垣に
    隙間があると冬季に凍結した土砂が春に融けて石垣を孕ませる)
   ・明治元年に新政府軍の攻撃で開城、明治5年廃城、天守・本丸櫓門・本丸御殿玄関以外は破却。
   ・昭和16年国宝、昭和24年天守焼失 昭和35年三層天守他外観復元
   
   
                    三階櫓                              城門
   
   
              鉄板が塗り込められた白壁                   亀甲積みの石垣


7. 医師 嶺 春泰(1746〜1793)
 (1) 経歴
   江戸の町医者嶺春安が高崎藩主松平(大河内)輝規の侍医になった年に生れた。 12歳で父と死に分れたが、
  藩主輝高が父の後を継がせ、17歳で江戸藩邸へ移させる。 近隣に医師片倉鶴陵(1751〜1822 西洋産科術を
  紹介した『産科発蒙』)が住んでいたことから、前野良沢(1723〜1803 豊後中津藩医)の門人となり西洋文化を
  『吸収する。 解体新書』に係る完成時の年齢  杉田41歳、前野51歳、嶺28歳、宇田川18歳

 (2) 『解体新書』
   1734年アムステルダムで『解体新書』の原本『ターヘル・アナトミア』が刊行される。
  (ドイツ人クルムスの原著、蘭訳本の題名は『オントレードクンディヘ・ターヘレン』)
  我国での最初の人体解剖は宝暦4年(1754)に山脇東洋によって行われた。 安永元年(1771)蘭学者杉田玄白
  (1733〜1817 若狭小浜藩医)が中心となりオランダ語のクルムス解剖書『ターヘル・アナトミア』の翻訳に取り組み
  同3年に『
解体新書』として江戸で出版された。 日本学術史上画期的な出来事

 (3) 『解体新書』への関わり
   翻訳の中心は、オランダ語に通じていた前野良沢で、その学徒の一人の春泰も翻訳事業に熱心に参加したことを
  杉田が後日『蘭学事始』に記している。
    「扨、都下は浮華の風俗なれば、他の人もこれを聞傳へ、雷同して社中へ入来りしものもありたり。其時の人々を
    思ふに、遂るも遂ざるも、今は皆鬼?上の人のみ多し。皆嶺春泰、烏山松円といへる男などは、頗る出精せしが、
    今は則ち亡し。同僚淳庵なども新書上木の後なりけれども、五十に満たずして世を早うせり。」
  (『蘭学事始下之巻』杉田玄白著)

 (4) 墓誌に見られる事績
   墓誌の撰文は宇田川玄随(1756〜1798 美作津山藩医)
  墓誌に「西医裴生撰スル所ノ五診法ヲ取リ之ヲ読ム」
    「廼(すなわ)チ訳シテ之ヲ伝エント欲すス。沈潜研究蓋シ年有リ。未ダ稿ヲ脱スルニ及バズ。寛政五年癸丑冬十月六日、
    病ニ罹リテ没ス。時ニ年四十有八」とある。
  「裴生(はいせい)」はボイセンBuyesen Henrixのことで、五診法とは、小便・大便・汗・唾液・嘔吐物などを調べて病気を
  診断すること。 春泰はその重要性を認めてポイセンの著書を訳しかけたが完成せず、大垣藩の医者吉川宗光が続行
  したが中途で病死、同藩の江馬蘭斎が引受け完成させ文化13年(1816)に『五液精要』と題して刊行された。 
  春泰の死後23年も経っていた。

 (5) 人物評
   隣家に漉く片倉鶴陵が『青襄?探(せいじょうさたん)』に「遂に交情日に深し。 凡そ奇書珍籍秘法妙薬を得れば即ち
  相与に秘惜せず。読み且つ録して以て快と称す。(中略)余東都にあること幾(ほと)んど四十年、未だ一人の嶺の如き、
  莫逆の者あらず。 嶺博学にして方伎に精し。晩に阿蘭の学を好み、まさに医方を翻訳して同儕に広めんとし、業未だ
  竣(おわ)らずして没す。実に惜しむべきかな。 産科発蒙、デヘンデル(オランダの外科医兼産科医 1651−1724)図解、
  悉く嶺に托して代って翻訳せしむ。 嶺の功少しとなさざるなり」



8. 医師 高島 昌軒(1803〜1856)
  高崎藩医 父は内科医 江戸へ出て華岡青洲に外科を、長崎でオランダ医学を学ぶ 天保年中(1830〜44)に高崎藩領
  大友村の死罪になった農民の解剖を行ない、絵師に詳細な人体解剖図を作成させ残した。 高崎における医学的最初の
  解剖。その模写の一つを版刻して藩主や藩医たちに頒布、従弟の山田昌栄が序文を書いている



9. 医師 山田 昌栄(1808〜1882) 
  号は椿庭、祖父以来高崎城主の侍医 30歳のとき江戸本郷春木町で開業。 安政4年(1857)50歳のとき幕府の医学館に
  おいて講義を行なう。 文久2年(1862)将軍家茂に謁見、明治元年に再び高崎藩主に侍医 政務参謀や周旋局総裁。
  明治11年に東京神田五軒町に済衆病院を開業、同13年に開業医ながら皇太子を診察。 森鴎外著の『伊沢蘭軒』や
  『渋江抽斎』に「椿庭業広の本郷壱岐坂上に家塾」とある



10.医師 工藤 俊栄
  天保9年(1838)江戸に出て蘭方を坪井信道(緒方洪庵など多くの蘭学者を育てた)に学ぶ。 同13年に幕府医官多紀元堅
  (幕府医学館考証派を代表する漢方医)に学ぶ。 明治3年(1870)に種痘館(旧幕府医学館)で種痘免許を受ける



11.刀工 震鱗子 克一(?〜1818)
   高崎藩抱え刀工、群馬郡中尾村吹屋に生れ、姓は小島、通称は力右衛門 震鱗子克一は刀工名
  生家は代々家伝薬などを生業とした旧家であるが、克一は野鍛冶を業とし刀工を志して江戸の刀匠手柄山正繁(白河藩抱え刀工)
  の門人になり、業を修めて高崎藩抱え刀工となる。鍛冶町に住む。
   気性が荒く同輩と争いが絶えず、藩を出て野州や武州を遍歴 野州足利の幕府禁漁区において銃猟の罪を犯し三年間入牢

    

         享和3年(1803)作の篠原寛則の切試銘 長さ2尺3寸9分(72p)市・重要文化財


12.刀工 長谷部 義重(?〜1859)
   高崎藩抱え刀工、父は農業を営んでいたが義重13歳の時に没す。 刀工を志して江戸の刀匠細川正義(水心子正秀門下)に師事
  鍛刀の技術が優れ高く評価され家禄七石で高崎藩抱え刀工となる。鞘町に住む。 嘉永6年(1853)高崎宿の主な商家によって
  愛宕神社に奉納された大太刀は市・重要文化財。代表作に大戸重次裁断銘のものなどがある。

    

               長さ3尺5寸、反り1寸3分5厘、義重の優れた技量を示す作品


13.要人 菅谷一族
  (1) 菅谷 段之助元清(1663〜1730)
    治五右衛門の子 幼少期より藩主信興に寵用され、天和2年(1681)小納戸役50石、貞享4年(1687)50石加増、信興大坂城代
    の時取次役、元禄5年(1692)用人、同11年将軍綱吉藩邸へ御成りのおり拝謁、同13年番頭、同14年家老、650石を賜る。
    村上へ移封の際に城請取方を務める。

  (2) 菅谷 団次郎有清(1694〜1740)
    元清の四男 享保2年(1717)小姓頭、同9年用人、同15年年寄

  (3) 菅谷 団之助清章(1720〜?)
    有清の長男 元文2年(1737)馬廻役10人扶持、同3年者頭上席、同5年父の死に伴い家禄500石を賜る。用人を経て家老に就任
    安永6年(1777)隠居、恵山入道と称して諸国を有歴。

  (4) 菅谷 治兵衛清乗(1721〜?)
    有清の次男 藩主輝高大坂城代着任に伴い300石側用人、宝暦10年(1760)番頭に進んだが、その後昇進が停滞し勤続8年に及ぶ
    不満があってか藩主に文書で改革意見を進言するも返答がなく、腹の虫がおさまらず300石投げ出し藩を飛び出る。 浪人となり
    諸国を流浪、藩主輝和の代になって野火止に帰任を許される。

  (5) 菅谷 喜兵衛清成(1754〜1823)
    清乗の長男 号を図南のちに帰雲、  父の跡を継いで鑓持奉行席に進んだが、父同様気性が激しく幾度となく藩主の勘気を被った。
    寛政2年(1790)野火止に流罪となる。同5年同地の代官職となり11年間勤務、文化4年(1807)銚子港異国船漂着の取調方。
    剛直にして権威に屈しない性質もあり不平不満の人生であった。 射術は渡辺寛翁に学び奥義を極めた。 書は当時一世を風靡
    していた東江流の書道家沢田東江(姓は源、諱は鱗、漢学者・儒学者・洒落本戯作者)に師事し、王義之(多くの書家が手本とする
    中国の書の大家)を手本とし、自身も当時の著名書家として多くの弟子がいた。 漢詩は当代一の漢学者・漢詩人である市河寛斎
    (上野国甘楽郡磐戸村大塩沢出身、父は市河蘭台、子は市河米庵、昌平黌学員長)に学ぶ。 『帰雲山房詩集』『東帰詩草』他の著
    書論は『学書篇』の碑(観音山清水寺)に見られる。 榛名湖畔天神峠の塩原太助寄進の灯籠の文字は帰雲の書





                                                      2015.1.15/3.19
               第56、57回勉強会 江戸時代の格について

1. 大名の格式

(1) 殿席
 大名や諸役人が江戸城本丸に登城したときの
伺候席
 大名の殿席は七つあり、家ごとに個々に固定して行った。
 大名の成立ち、将軍との親疎や石高、官位等の大名の家格を表す様々な要素を集約する形で成立
 幕府としての大名分類・把握、大名が幕府との関係で自らの位置を認識で、最も有効に機能
  @ 大廊下:将軍家所縁の大名家に与えられた特別待遇の座席
     上之部屋は御三家・御三卿、下之部屋は加賀前田、津山越前松平、吉井鷹司松平
  A 溜之間:彦根井伊・会津松平・高松松平・庄内酒井・姫路酒井・伊予松山松平・小倉小笠原・
           高田榊原・桑名松平・忍松平・岡崎本多、臣下の中で最高の座席
  B 大広間:御三家の分家、越前松平など徳川一門、国持大名、準ずる四品以上
  C 帝鑑之間:以前から徳川氏の臣従
  D 柳之間:五位の外様
  E 雁之間:幕府成立後新規取立の大名の内、城主の格式をもったもの 
高崎藩も最初はココ
  F 菊之間縁頬(きくのまえんぎょ):同上の内、無城のもの

(2) 官位制
 我国の官位相当は唐官品令をモデルに規定された
大宝令養老令の官位令に基づく位階ごとに
 就任可能な官職が厳密に定められていた
 室町時代から戦国時代にかけて、武家官位が律令的官位制から遊離し通称化
 近世大名が正式な叙位任官を経て名乗った官途・受領名も、「名」としての通用に過ぎない
 家臣や民衆にまで広がり、家長と家臣の区別、名前だけでは武家か民衆かの判別もつかなくない
 
 1600年代終り頃から名前を管理する規定が出され格式に使われる
 武家官位は、幕府が介在するものの、大名・旗本など徳川直臣のうち諸大夫以上の者の格を律する
 官途・受領名は大名・旗本など徳川直臣のうち諸大夫以上の者が称す
 藩の中・下級家臣と陪臣の大半から官名・受領名が消える
 家臣らは官途・受領名の「下司」なしで「豊後」「佐渡」や「主殿」「主水」と名乗る
 
 主な官位相当 大夫・頭・正・督・大将・守…長官、 輔・亮・弼・佐・介…次官
 
 ア.官位と官位相当官途名
  正従一位…太政大臣 正従二位…左大臣・右大臣・内大臣 正三位…大納言 従三位…中納言
  正四位下…参義、弾正大弼 従四位下…近衛大将、左衛門督
  正五位上…左京・右京・大膳大夫、中務大輔
  正五位下…兵部・大蔵大輔、弾正少弼
  従五位上…中務少輔、大学・玄蕃・主計・兵庫・雅楽・内匠頭、左衛門佐、大国の守
  従五位下…民部・兵部・大蔵・式部少輔、内蔵・主殿・大炊頭、左京・右京・大膳亮、上国の守
  正六位上…近衛将監、市正  正六位下…大国の介(常陸・上野・上総)、中国の守
  従六位上…内膳・主膳・主水・隼人正、左衛門尉   従六位下…少国の守

 イ.受領名…守・介に任じられた国
  大国:大和・河内・伊勢・武蔵・上総・下総・常陸・近江・上野・陸奥・越前・播磨・肥後
  上国:山城・摂津・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐・相模・美濃・信濃・出羽・加賀・越中
     越後・丹波・但馬・因幡・伯耆・出雲・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・紀伊
     阿波・讃岐・伊予・筑前・筑後・肥前・豊前・豊後
  中国:安房・若狭・能登・佐渡・丹後・石見・長門・土佐・日向・大隅・薩摩
  下国:和泉・伊賀・志摩・伊豆・飛騨・隠岐・淡路・壱岐・対馬

 ウ.実際に行なわれた例
  将軍:元服で従三位権大納言、将軍宣下で正二位右近衛大将・内大臣、右左大臣
     薨去の後に贈太政大臣
  二位権大納言   尾張・紀伊徳川(世子初叙初官…従三位左近衛中将)
  権中納言従三位  水戸徳川(世子初叙初官…左近衛少将正四位下)
  参議従三位    加賀前田
  権中将正従四位  高松松平・会津保科・彦根井伊・薩摩島津・仙台伊達
  権少将従四位上下 出雲松平・肥後細川・筑前黒田・安芸浅野・肥前鍋島・長門毛利・備前池田
           因幡池田・伊勢藤堂・阿波蜂須賀・米沢上杉・対馬宗・久留米有馬
           久保田佐竹・守山松平・府中松平・宇和島伊達・陸前南部
  従四位上下侍従  庄内酒井・姫路酒井・松山松平・小倉小笠原・高田榊原・桑名松平・忍松平
           柳河立花・二本松丹羽・前橋松平・富山前田・明石松平・大聖寺前田
           浜田松平・弘前津軽、及び老中・京都所司代に就任者、高家衆

 
【参考】 唐名(中国での呼び名)は以下の通り
   将軍…大樹、大納言…亜相、中納言…黄門、参議…宰相、中少将…羽林、侍従…拾遺、
   五位の無官…朝散大夫、
   公・卿・大夫・士の四階級
     三位以上の摂政関白・大臣…公、その他の三位…卿、四位・五位…大夫



2. 武士の家格
  俸禄の形式による、格式は知行取り、蔵米取り、給金取りの順

  @ 知行取り:石高表記、領地を与えられそこから給料を得る
       直接領地から得る…地方知行制 藩庁から得る…蔵米知行制
  A 蔵米取り:俵高表記、領地を得ず藩より支給される
       石高表記と収入には差は無かった
  B 給金取り:○両○人扶持と表記、最も低い格式
       一人一日6合として一年間の米を支給、一人扶持=1石
       *1石=2.5俵 4公6民
        家禄:先祖の功


3. 家格による差別

 衣服、書札礼、献上物下賜物、御目見の際の作法・場所・畳の位置、江戸市中での行列の供の数や
槍の数、駕籠や傘の拵、松平称号、葵紋使用、門構などで差別し序列秩序を維持した

 (1) 礼服
  衣冠・束帯:五位以上大名の大礼服
   @ 束帯:冠・垂纓・袍に紋様、色は浅緋、下に単・袒・下襲を着用、表袴の下に大口を履く
   A 衣冠:両脇を縫付けた縫腋袍を着用、奴袴をはき、手に持つ扇は蝙蝠、夜用。

   B 直垂:侍従以上または三位以上の江戸城内の礼装。風折烏帽子・白小袖を着用
   C 狩衣:四位以上の礼服 脇が空き袖口の穴に括り緒を通し手首で締めくくる。奴袴をはく

   D 大紋:五位の諸大夫 布で作った直垂に大きな文様を付けた、小袖を熨斗目
   E 布衣:五位以下、公家では狩衣の別名。幕府では無位無官の役人、特別に許された者に限る

   長上下は肩衣と長袴、半上下は肩衣と半袴、継上下は肩衣と半袴の色が異なる

  
         
        @ 大礼服束帯          A 衣冠                B 直垂               C 狩衣


        
         D 大紋            素襖(大紋を簡略化)          E 布衣


 (2) 書札礼(しょさつれい)
  発給者の立場、相手の身分によって文言を変える
  幕府の文書は祐筆が作成、書風は「お家流」(伏見天皇第六皇子尊円入道親王の書風)
  *親王の書風を実用的に変化させ、庶民へも普及

  ア.判物と朱印状
   領知判物 :将軍が大名に領地支配を認めた将軍の花押を据えた文書
         10万石以上の大名、侍従以上の官職叙任の大名
   領知
朱印状:将軍が大名や公卿に領地支配を認めた将軍の朱印が押された文書
         1万石以上10万石未満
         領地の加増や転封にも朱印状が交付された
   
朱 印 状:発給者の印鑑を朱肉で押捺した文書
   
黒 印 状:発給者の印鑑を黒肉で押捺した文書 一般的に署名の下 将軍は日付の下
    
    
           柳川藩立花宗茂宛の家光領知判物             上田藩松平忠周宛の綱吉領知朱印状


  イ.敬称
   様・殿の文字の使い分け(藩によって異なる)
    例:知行取り以上は様、切米取りは殿、或は、物頭以上は様、以下は殿
   様・殿の書体
    将軍家へ…えいさま(樣)、部下から長官宛て文書…びざま
    同僚間…おつつけさま

            
         永様        美様       次様       おっつけ様

    三家三卿その外、重職を指し公文に筆記する時…でんどの(殿)、ひらどの
    同等の職員相互間で授受する文書・長官から部下へ令達公文書…りゃくどの
    大名から藩士への知行状…仮名(どのへ)

            
          でんどの       ひらどの     りゃくどの      どのへ
 ウ.片苗字
   公文書中、老中や藩の老職を指す時、苗字の一文字を略す礼
   長官から部下へ令達文書の中で自己の姓を欠字することがある

     

 エ.連署
   宛名が長官又は役所宛て…筆頭は下位の者、宛名に近いほど上位

     

  【参考】 呼び方は以下の通り
    将軍は上様。第三者的には大樹または御所、引退後は大御所
    世子は官名に様を付け「右大将様」。第三者的には西丸様
    将軍の正室は御台所様、世子夫人は御簾中様、側室は住んでいる場所で五の丸様・北の丸様
    一般大名は殿様・奥方様・若様、世子決定後は若君様
    旗本は千石以上は御前様・奥様、千石以下は殿様・奥様
    御家人は旦那様・御新造様・若旦那様
    藩の家老クラスで中級旗本程度
    大老が老中や若年寄を「守」を省略した呼び捨て、対談中はお前様。大身大名は「その方」
    同僚間では官名に殿を付け、下に対しては官名・通称を呼び捨て。上には殿



4. 家格に因る義務
 軍役
  200石:侍・甲冑持・鑓持・馬口取・小荷駄 
  250石:草履取追加
  300石:挟箱持追加 
  400石:侍と挟箱持追加 
  500石:弓持・馬口取追加
  1万石:馬上10騎・弓10張・鉄砲20挺・鑓30本・旗3本
      騎士10人・数弓10人+3人・鉄砲20人+5人・鑓持30人+12人・旗指9人+1人・侍16人・
        立弓2人・手筒2人+1人・長刀2人・甲冑持4人・馬印3人・1人・小馬印2人・挟箱持4人・
        簑箱2人・茶弁当1人・坊主1人・雨具持2人・草履取1人・口附6人・沓箱3人+1人・
        押足軽6人・箭箱2人・玉箱2人の合計235人と又者71人
  2万石415人、3万石601人、5万石1005人、6万石1210人、10万石1929人


5. 屋敷

 (1) 大名屋敷
   国持、10万石以上、5万石以上の外様と譜代の区分有り。更に焼失後にも同様の区分あり
   【大名屋敷門】

        
         国持大名:独立した門 両番所疊出唐瓦破風            10万石以上大名:両番所疊出本瓦破風
             

        
         5万石以上:両番所石垣疊出葺下屋根               5万石以上外様:片方出番所、片方出格子


        
                国持大名の焼失後                       加賀藩前田家上屋敷の薬医門・通称赤門

      
            鳥取藩池田家江戸上屋敷門                     赤門の裏側から見た番所


 (2) 一般の家臣
   武家屋敷…上士 戦時の騎馬役につき、槍を持ち、乗替の馬一疋
        若党や小者を屋敷内に住まわせるため門長屋が与えられ→長屋門・長押
   侍屋敷…中士 足軽…足軽長屋

 (3) 絵
   花鳥・唐人物・山水の順に格が高い



6. その他
 (1) 町人の世界
   表通りに屋敷を持ち店が構えられる…地主層
   土地は無くも借地が出来店が構えられる…地借層
   裏通りの長屋に住む多くの住人…店借層(長屋は間口1間半〜2間、奥行2〜3間)

 (2) 奉公人
   武家:若党・仲間・小者・草履取
   農家:下男・下女・下代・名子・被官
   商家:番頭(大・中・平)・手代・丁稚(江戸では小僧)




                                                                                        2014.11.20
                第55回勉強会 
大河内松平家一族について

1. 江戸時代以前
  初代顕綱 源頼政の二男
兼綱(父と共に宇治川で戦死)の子。
         三河国額田郡大河内郷で土豪となる。
         幡豆郡の寺津に拠点を移し足利氏の支流吉良氏に仕える。
  2代政顕−行重−宗綱−
貞綱−光将−国綱−光綱−真綱−信政−信貞


2. 江戸時代初期
  
秀綱(1547〜1618) 12代 寺津城主として吉良家の家老
     内紛により家康の家臣伊那忠政を頼る 家康の家臣として700石徳川家の所領を管理する代官に
  嫡男久綱(1570〜1646) 信綱の実父 710石の公事方
     室は深井藤右衛門好英の娘…信綱の母
     深井家の本姓は白井長尾氏で武蔵国深井(現在の埼玉県北本市深井)
     高崎藩家中に深井氏が多い理由
  次男正綱(1576〜1648) 松平(長沢)正次の養子 関ヶ原の戦いで軍資金調達
     徳川幕府成立時の行政担当、家康の側近中の側近で、長沢松平を名乗らせる。
     臨終の際に遺言を承り、埋葬時及び日光回葬時も棺を担いだ。
     秀忠は家康側近を敬遠したが、ただ一人重用し、東福門院和子入内に供奉、
蒲生氏郷徳川忠長
     改易の時上使に。 初代の勘定頭(後の勘定奉行) 相模国甘縄(鎌倉市)22,000石
     家光は幕閣から排除。日光東照宮造営奉行として24年間日光を往復。
     
日光杉並木は正綱が寄進したもの。信綱の養父


3. 大河内家中興の祖・松平信綱
  1596年 現在の上尾市にあった伊奈氏の屋敷で生れた。
       「父の跡を継げば代官、叔父松平の子なら側近として道が開ける」逸話あり。
  1604年 9歳で後の将軍家光小姓になる。他に
堀田正盛阿部忠秋三浦正次
  1620年 養父正綱に嫡子利綱誕生、養子縁組を解消し一家を立てる。
       (二人目の男子が後の大多喜藩祖正信)
  1623年 御小姓頭番頭800石、従五位下伊豆守
  1627年 都合1万石、相州厚木等を給わる
  1630年 都合1万5千石、上野国白井郡・阿保郡等を賜り大名に列す。
  1633年 六人衆(松平信綱・
阿部重次・三浦正次・太田資宗・阿部忠秋・堀田正盛)に
        都合3万石で武蔵国忍藩主。
  1634年 従四位下
  1635年 老中に就任
  1637年 
島原の乱を総大将として鎮圧
  1638年 川越城下火災で城・寺院・町の中心部焼失 6万石で川越城主として再建
  1646 年 7万5千石
  1651年 3代将軍家光死去。堀田正盛・阿部重次が殉死するが、4代将軍家綱の参謀に
       
由井正雪事件信綱が警察機構を動員し迅速に解決
       
大名の末期養子を緩和
  1662年 死去67歳


4. 伊豆守家…松平伊豆守信綱を家祖とする大名家
  
2代輝綱(1620〜1671) 42歳で就任 軍事に精通し、家中尚武の気風に
  3代信輝(1660〜1727) 11歳で就任 3人の兄が死去、耳が不自由のため幕政に参与できず。1694年川越
        から古河藩へ転封
  4代信祝(1683〜1745) 26歳で就任 1712年古河から吉田藩(豊橋)へ、1729年大坂城代就任により浜松藩
        へ転封 1730〜1744年老中
  5代信復(1719〜1768) 25歳で就任  1749年吉田へ転封
  6代信禮(1739〜1770) 31歳で就任
  7代信明(1760〜1817) 真実は1762年の生れ 10歳で豊橋藩主就任
        老中就任(1788〜1803年)、老中に再任(1806〜1817年)
        松平定信が老中(1787〜1793)筆頭として
寛政の改革を遂行、信明はNo2として推進。北方の警備、
        間宮林蔵をカラフト探検に、伊能忠敬を支援
  8代信順(1793〜1844)24歳で就任 奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代を歴任1837年老中
        水野忠邦が老中(1834〜1837)首座として
天保の改革を進め、意見合わずに2ヵ月で辞職
  9代信寶(1826〜1844)16歳で就任 享年21歳で届け(実は18)養子をとる
  10代信璋(1827〜1849)17歳で就任 旗本松平信敬の嫡男 末期養子
  11代信古(1829〜1888)20歳で就任 鯖江藩主間部詮勝の二男 末期養子



5. 備前守家…松平備前守正信を家祖とする大名家
  初代正信が甘縄(現在の鎌倉市)藩主となる。2代正久が大多喜藩へ転封、以降動かず。
  所領:上総国1万4千石、三河国と大和国1村で1万3千石
  陣屋:小牧(吉良町)・幡豆(幡豆町)・千間(一色町)・根崎(安城市)



6. 右京大夫家
  初代信興(1630〜1691)信綱五男 1682年土浦2万2千石 1687年大坂城代3万2千石、
        1690年京都所司代・従四位下侍従
  2代輝貞(1665〜1747)川越藩主輝綱の六男 別家旗本を経て叔父信興の後継
        壬生3万2千石から高崎5万2千石、その後1万石を2回加増
        5代将軍綱吉から信頼され、将軍御成24回(柳沢58回、牧野32回)
        6代将軍家宣から疎まれ側用人を罷免、村上藩へ、8代吉宗で復活
        1730年老中格 墓は上野寛永寺の綱吉廟前方に建つ寛永寺塔頭の一つ明王院に。
        太平洋戦争後、平林寺に移葬
  3代輝規(1682〜1749) 旗本松平伊勢守信定の十男から輝貞の養子 63歳で襲封
  4代輝高(1725〜1781)奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代、1761年老中
        1779年から老中首座・勝手掛、幕府財政の立て直し 堂上派歌壇の中心
  5代輝和(1750〜1800) 奏者番、寺社奉行、大坂城代在任中死去
        浅間山の大爆発と天明の飢饉、大石久敬や川野辺寛ら多くの人材を登用
  6代輝延(1775〜1825) 輝高三男、兄輝和の養子 1823年老中
  7代輝承(1815〜1839) 8歳で就任 24歳で死去
  8代輝徳(1820〜1840) 19歳で就任 在位1年 旗本松平信彌の二男 末期養子
  9代輝充(1822〜1862) 18歳で就任 在位7年で隠居 美濃国高富藩主本庄道昌五男
  10代輝聴(1827〜1860)  19歳で就任 大多喜藩主松平正敬の四男 輝充の隠居で相続
        飛地銚子領の海岸視察し防衛、寺社奉行として上申、軍事改革に着手
  11代輝聲(1848〜1882)12歳で就任  奏者番・陸軍奉行並  江戸湾防衛



7. 大河内家と川越藩
   江戸に近い番城として重要なこともあり、藩主は譜代有力大名8家が交代就任。
  酒井重忠(1万石)、8年間番城、酒井忠利(2万から3万7千石)・忠勝(8万〜10万石)、1年間城番、
  堀田正盛(3万5千石)と続き松平(大河内)信綱。
  大河内松平氏以降は、柳沢吉保、秋元氏、越前松平氏、松井松平氏。
   信綱公は川越藩主として老中を務めた一方、城下を整備し、新河岸舟運の開設、荒川・入間川の
  治水事業、野火止用水の開削等を民政にも力を注いだことから川越藩の殿様は知恵伊豆信綱公”と
  親しまれている。 また、高崎藩主輝貞公は信綱公の孫として川越に生れ、大河内松平家にとって川越が
  出発地と言える。 大河内松平家の廟所の平林寺は、川越藩2代目輝綱が父信綱公の意思を継いで
  川越藩領に岩槻から移転させた。
   しかし、3代信輝が古河藩に転封になったため当家の所領外となる。そこで、5代将軍綱吉の信頼が
  絶大であった輝貞公が平林寺のある野火止一帯の地を父祖の墳墓の地として領地となり、陣屋を設け
  私領と寺を管理した。 これにより平林寺は大河内松平氏終焉の地となる。





                                                                                        2014.9.18
                第54回勉強会 幕末の武装 高崎藩の例から


1. 高崎藩の軍制・軍装に見られる変化
 (1) 軍装に対する再確認
   嘉永年間に入り、外国船が頻繁に日本沿岸に現われ、軍備に関する意識が高まる。高崎藩は藩主が三代
  続けて短命であったが、宗家大多喜大河内から養継嗣として9代目となった輝聴の認識が高く、様々な角度
  から軍装の点検や文武の奨励を行なう。 
  
嘉永4年(1851)には、祐筆格以上の背旗(鎧の背中に付ける藩の旗)を検査し、背旗を製作するよう指示
  した。 禄高50石以上の者は必ず甲冑を造る定めになっており、藩主自ら検査を実施。 直ちに検査を受けた
  者は50有余人、修繕が成って受けた者が数十人いた。 翌年には、文武(弓、馬、槍、剣、文学、習字、鉄砲、
  騎射、笠懸等)を演習させ、藩主が家老、年寄、番頭、用人等を率いて演習の場に臨み個々に検閲した。
   家臣に対する督励の意味から、鎧を具足師津田重?(シゲフミ)に、兜は幕府具足師岩井増三郎に制作させ
  完成の暁には大いに喜んで2日間小役人並以上の者に縦覧させた。 一方、禄高50石未満の中小姓以下の
  者に貸し与える甲冑を修繕して政庁に準備している。 また、器械については等級に応じて費用を支給した。

   安政3年(1856)には、馬術教授とその部下に、馬で高崎まで馳駆を試みさせ馬術の能力を確認している。
  卯の刻(午前6時)に江戸上屋敷を発し、申の刻(午後4時)に高崎に着いた。 所用時間は10時間、道程は
  27里(約106q)、人馬ともに健全。帰路も高崎を卯の刻に発し申の刻に上屋敷に戻った。供小姓以上の者を
  しばしば相州鎌倉等に馬を走らせている。黒船来航後の緊迫した情勢下、緊急時の伝達について研究している。

 (2) 軍備改革の背景
   高崎藩が西洋式軍装に移行する背景は、@飛地が海に面し幕府から海防掛を命ぜられたこと、A
下仁田戦争
  の反省があったと思われる。
  
ア.海防掛
   高崎藩飛地銚子領の沖合には外国船が出没するようになり、内陸に位置する藩であったが海防に対する意識が
  高かった。 しかし、軍備の中心は対船舶に対する大砲であった。
   
1851年に、海防掛の家老堤と用人内村、使番席の市川、砲術方の中野を銚子に派遣し、銚子陣屋の郡奉行
  深井と者頭八木の案内で封内の海岸を巡視し、地理を測量。砲台12を修理、巨砲5門を鋳造した。 また、
  居住する士卒を4隊に編制し郡奉行に総括させ、有事の際には江戸屋敷より2隊(一の手は用人以下、二の手は
  家老以下)の援兵を出す体制を敷いている。 のち、藩主自ら銚子に出向き沿海の守備を視察し、封内の住民
  についても質す。

   嘉永6年(1853)、ついに米国軍艦4隻が浦賀沖に来た。 幕府は要害警衛の命令を諸藩に出し、高崎藩も出兵
  準備をする。 大砲数門を旗本備(江戸湾西側)に増加し、国元の家老堤と砲術教授飯島を呼び寄せ、堤と江戸
  詰め家老大河内を武者奉行とし、飯島と砲術方豊島、松井に諸士の銃陣を中屋敷にて練習させ、藩主も度々
  検閲をした。銃陣は5人を組とし、5組を一隊とし、組ごとに長を置き単列に布陣し編制訓練をしているが、その
  形式はまだ弓や刀槍時代の延長の様である。
   
1863年に、増上寺山内の警衛を免じられ、江戸湾警衛第三砲台を預けられ、陣屋を芝金杉に賜る。 幕府の
  当初の江戸湾警衛は、家門や姻戚藩を主に選んで砲台を預けていた。それらの藩は皆10万石以上であったが
  初めて高崎藩が10万石未満にして江戸湾海防の命を受けた。 役員及び砲術教授以下数十百人を守備させ
  又用人目附及び士卒を陣屋に屯集しその応援をさせる。 専ら銃砲、船舶、水泳の術を練習させ、毎月一回
  大砲の射的を砲台に試みる。 藩主は家老、用人、目附等を率いて兵船に上り砲台に至り防禦の策を講じていた。
  供小姓以上の者数十人を選抜して幕府鉄砲方江川英敏の門に入れ、更に洋式の鉄砲を伝習させ、旧来の例や
  格に依らず勇壮な子弟を抜擢して防禦の備えを充実させる。


  イ.水戸浪士との戦い
   常陸国及び下仁田での天狗党らとの戦いから、武装及び銃砲に関して改革の必要性が検討されるようになる。
  1864年、常陸国那珂湊において砲戦は頗る猛烈であったが、徒士頭寺田の一隊と官軍歩兵一小隊と共に小舟
  を弾丸飛散の下に操り斜めに漸く前岸に達し勇を奮い進撃した。賊徒は狼狽して館山に退き又投降するものも
  数百人有った。 高崎藩軍は前進し官軍(幕府軍のこと)と共に那珂湊の反射炉を取り銃砲器械を収容した。
   幕府目附に進言して、一隊を分けて降伏した者を湊文武館に監守し、館山の賊と砲戦を開いた。賊は終に
  遁走した。 下仁田戦争においては大砲数門を右に小銃5隊を左に並べて戦端を開き、一隊より四隊までが交々
  進み、五隊が進もうとした時、賊方に退く計略有ることを察して我が軍も少し退く。賊方が撃って返すと当方も返り
  戦い一進一退で勝敗はなかなか決せず、我が軍は進んで山間狭隘部に至り、賊方が予めその要害を占め、
  山頭や樹陰より専ら狙撃をしたため容易には進むことができず遂に刀槍で接戦になる。

 (3) 新たな軍備
   嘉永7年(1854)慶安中(1650年前後)に幕府の軍役定め(万石毎に235人の軍役)に基づいて、武器を上屋敷に
  準備(平日は小銃20挺、弓10張、槍20筋)。 一日行軍の式を中屋敷にて試す。 幕府から火薬取締の命令が
  出ると、常備火薬は江戸中屋敷の石庫に貯蔵、新製の火薬も若干貯蔵し、容器も悉く改良した。 また、製造も
  中屋敷の製造所で行なった。 予備は倉庫を野火止の森林中に新造し貯蔵した。 居住の士卒に守らせ、
  砲術教授飯島に巡視させている。 高崎も日々火薬を製し、旧来の定めに則り千貫目以上必ず常備した。 
   新造の大砲数門を武州大森(現在の大田区大森)にて試射し、士卒には銃砲の射的をさせる。 家老、用人、
  留守居、目附等が監督し、幕吏もその場に臨む。士卒の姓名と腕の巧拙とを詳記して藩主へ具申している。
  その後も銃砲の射的を大森及び越中島で行なわせる。
 
  安政2年(1855)堤、永井、原を幕府砲術師範勝義邦に入門させ、有志の櫻井、稲生、宮田等は自ら入門し
  西洋兵学伝習を始める。 翌年、幕府の允許を得て毎月6回中屋敷で兵の訓練を行う。 藩祖輝興以来休止
  中絶していたが、当家創立時に復した。
   
元治元年(1864)十二斤野戦砲4門を購入した。 翌年、20斤砲1門、12斤砲2門、20寸臼砲2門を鋳造し大森で
  試射し、その後皆銚子に移設した。
   
慶応2年(1866)国元の用人浅井、家老浅井の長子正和、年寄津田の長子仏等数十人を選抜して高島流
  (高島高敦は長崎で砲術を蘭人に学んだ後、江川英敏に属し衆人に教授)鉄砲を中屋敷にて伝習させる。
  この時点における高崎藩の西洋式軍装は高島流が採用されていた。 フランス式4斤半施条砲4門、イギリス製
  後装銃等数百挺を購入。 大砲1門1万両、銃も後装施条のスナイドル銃であれば1挺20両と言われる大出費で
  あった。


 (4) 軍政に関する変化
   高崎藩の軍政は、渾沌とした時代背景と、主として銃砲の日進月歩、それに対する藩の財政事情から紆余
  曲折があった。
 
安政2年(1856)の時点では、幕府の軍役に基づいて、旗本の備えは前備50騎、中備30騎、後備50騎と合せて
  総て130騎。前備は侍大将の家老が司り、その半分の隊を年寄が武者奉行として司り、その半分の隊を番頭が
  小頭武者として司る。後備も同様で、全く甲冑・刀槍時代の軍編成であった。 
   また、家老大河内を武者奉行、用人神保、内村を小頭武者、侍大将を置いて演習を行ない、江戸中屋敷の
  庭園を壊し池を埋め、山を削り練兵場とする意気込が見られる。 しかし、守旧派と改革派の権力争いが生じた。

  まず、文久3年(1863)に国元の城代宮部義種が江戸定府重職らの行ないを伝え聞き、定府の家老田中正精
  等と相談して藩主に稟申。家老浅井貞順の加印月番諸掛(家老職は数人による月番制)を罷免、用人堤精貴、
  目附堤克寛の職を解きその席次を落として皆高崎に謹慎させた。 理由は、「若い藩主輝照(後に輝聲と改名)
  を補翼し、文武の振興を図らなければならない昨今、藩の柱礎にして模範たる重職である家老が遊び耽るとは
  何事だ。 また、出府の士卒は数多くおり、若し彼等が怠惰になれば先ず糾責すべき立場の用人目附であるにも
  拘わらず自ら公事を軽んじ、みだりに外出をしている」ということであったが、根底には守旧派の浅井貞順と革新派
  田中正精の確執が有ったと言われる。 藩主輝照は田中正精らの具申もあり革新的であった。
   まず、天下の形勢を窺い和洋軍制の利害得失を熟察したうえ、西洋式軍装を試すため、定府の者頭兼徒士頭
  内村に徒士以下の銃隊を統卒させ洋式鉄砲訓練を行なわせた。
   一方、国元の家老以下幹部に洋式鉄砲の伝習を促し、その一部が出府して昼は銃砲を練兵場で、夜は兵書を
  記録所で学ばせた。 また、教授を高崎へ派遣して士卒に教授させた。 農兵を募り強心隊を組織して、有事の
  際には士民を挙げて兵とすることに改革。 西洋から輸入された新式銃砲の性能やそれら銃器を用いた戦陣隊列
  編制等も実用に適するようになり、幕府、各藩も用いているので、当藩も藩士を人選して西洋銃隊の師範勝の門
  に入れ、鉄砲も数品購入した。 西洋銃砲の簡便鋭利さ、運動操作の速効性に勝れる良法はないものと信じ、
  長州征討が起り幕府も実戦し一般に西洋銃隊としている。 弓、槍を廃して鉄砲に改正する時勢である。 
   隊列編制等は銃隊を採用し、刀槍短兵の隊にも銃携帯に改正。銃隊付属の器械衣服は簡便に虚飾を廃し、
  幕府の制作と祖先用いる所の筒袖などにしたい。
   
ところが、藩主の不安は藩論の統一であったが、国元の多くは慎重であった。 家老田中に書面をもたせ高崎に
  派遣したが、異論が多く、軍制改革は人心の一和が重用と判断し従来の定めに準拠することにした。 家老田中は
  最も藩主の意を奉じて尽力したが、国元の士は異論を唱える者が有り加印月番諸掛を免じて野火止に謹慎させる。
   家老長坂弘訓も同意見のため辞職。国元家老浅井が出府し側頭取兼徒士頭菅谷、内村の職を解き高崎に
  謹慎させる。 定府の士卒はこれを聞いて憤慨し歎いて「藩主は補弼を失い軍政改革の時期を誤る」と。 「国元の
  士は時勢の変遷を知らず」。 家臣同士で傷害事件が起る。

   しかし、翌慶応3年には家老浅井貞順が遊興に耽ったとして加印月番諸掛を解かれ野火止に謹慎となり、田中が
  復帰し軍政はフランス式に進む。


2. 幕末の銃砲
 (1) 幕末の銃器
   19世紀後半に入ると国内外での紛争において、銃器の性能が勝敗を左右するようになる。
  クリミア戦争(1854〜56、英仏同盟軍の
ミニエー銃がロシア帝国の従来銃を圧倒した)、米国南北戦争(1861〜65、
  北軍が前装ライフルの
スプリングフィールド銃を使用し勝利)、普墺戦争(1866、オーストリア帝国に対しプロイセン
  王国が
ドライゼ銃で快勝)と、何れもその時点における新式銃が勝利をもたらした。
   
1850年代半ば、英仏など西欧諸国では拡張弾(ミニエ弾)を用いた普及型の前装施条(ライフル)銃が軍隊で採用
  された。 その凡そ10年後、後装施条銃がこれにとって代った。 まず、施条(ライフル)銃は、小銃の射程(実用戦闘
  距離)を大きく変えた。 滑空銃の50〜100mから200〜500mに延び、歩兵の戦術が一斉射撃の密集方式から、攻撃面
  を大きく取る散兵方式へ変化した。 次に、後装ライフルは前装ライフルの6倍の速射性があり、この時点で歩兵人数
  より後装ライフル銃の数が戦力の強弱となる。 大砲も、球形弾を用いた滑空砲よりライフル砲は炸薬量の大きな長弾
  を用い、着発信管の使用によって威力、正確さ、射程がいずれも飛躍的に延びた。


 (2) 主な銃の概略
  ・火縄銃
   前装、滑腔式。口径12mm前後、全長1.3m前後、重量4kg程度、射程50m程度。 銃口から装薬と弾丸を詰め、
   引き金を引くと縄の火が筒の上の火薬を盛った火皿の部品を叩き爆発、その勢いで弾を押し出す。(マッチロック式)
  
燧石式ゲベール銃
   前装、滑腔式。口径17mm程度、全長約1.5m、射程250m程度。1777年にフランスで制式化。 薬装と弾丸詰めは
   火縄銃と同じ。 撃鉄を少し起してハーフコックポジションにし、火蓋と当り金を一緒にしたフリズンを開け皿部分に
   火薬を入れ、フリズンを閉じ、撃鉄を更に起して引き金を引く(フリントロック式)点火機構を持つ歩兵銃。 照門が
   ないため、精妙な照準を重視する火縄銃の流派からは西洋銃弾に批判が相次いだ。
  ・ゲベール銃
   前装、滑腔式。口径17.5mm、全長1.4m前後、重量4kg程度、射程300m程度。 1855年頃から雷管式に変った。
   1842年オランダで採用。1832年に高島秋帆が輸入。 発火に力が加わるのでぶれやすく命中率0.2〜0.5%
   1865年長州がグラバー商会から4,300挺(うち3,000挺はゲベール銃)を購入@5両。1867年には@3〜4両、
   1868年に1〜2両に下落。
  
ヤーゲル銃
   前装、施条式。口径17mm、全長1.2m、重量4kg程度 値段はゲベール銃と同じ。 ゲベール銃の内腔にライフルを
   刻んだもの。発射後熱を持つ、照門・照星が付いておらず命中精度が高くなかったので後退した。 白虎隊が装備
   していたが、会津藩正規軍はミニエー銃に切り替わっていた。
  
ミニエー銃
   点火されると椎実型の弾丸後部が膨張(ミニエ弾)して線条に食い込み右回転して飛ぶ。
  
スプリングフィールド銃(ミニエー銃の代表、米国製)
   前装、施条式。口径14.7mm、全長1.4m前後。 幕府の遣米使節団はこの銃100挺を贈呈され、これをもとに鉄砲方
   江川太郎左衛門が模造に取りかかった。1865年では@18両であったが1868年には9両に。
  
エンフィールド銃
   前装、施条式。口径14mm前後、全長1.25m、重量3.8kg、射程1000m程度。 英国軍が1860年に採用。 南北戦争
   (1861〜1865)で大量に使用された。 薩長が薩英戦争や下関戦争で威力を経験し、大量に購入し戊辰戦争で使用。
   二本松藩少年隊や上野彰義隊の主力武器に。1865年では@30両であったが1868年には17両に。
  
ドライゼ銃(ツンナール銃)
   後装、施条式。口径13.4mm、全長1.42m、重量4.7 kg、射程600m程度。 1848年プロイセン軍制式。 世界最初の
   実用的ボルトアクション小銃だが注目されず、プロイセンの国土拡張に伴う数々の戦いで勝利に貢献した。 従来の
   銃は立位での射撃であったが葡匐前進が出来るようになった。日本はプロイセンとの交流がなかったので、オランダ
   国籍プロイセン人スネル兄弟により会津藩へ流入する。
  
スナイドル銃
   後装、施錠式。口径14mm強、全長1.2m程度、重量4kg、射程1200m程度。 1867年イギリスで制式化。 ボルトアクション
   式(発射システムが組み込まれているボルトを手動で動かし、弾の装填と薬莢の排出をするレバーとボルトが連動して、
   レバーを引くとボルトが下り薬莢が出、前に押し出すと弾が装填される仕組)
  
スペンサー銃
   後装、施錠式。口径12.7mm、全長歩兵用1.2m・騎兵用0.94m、重量歩兵用4.6kg・騎兵用3.85kg、射程700m程度。 
   1860年米国で創作のレバーアクションライフル。7連発。銃尾より装填。 南北戦争で北軍が使用。薩摩が16,000挺、
   佐賀は2,000挺購入し庄内藩戦で使用。会津戦争で山本八重が使用して有名。 当時の日本では金属製の薬莢を
   もつ弾薬筒を製造する事が出来ず、輸入に頼るため弾薬補給が問題であった。 開港場を管下に収めていた新政府
   側が有利であった。


 (3) 幕末の大砲
   球形弾を用いた滑空砲よりライフル砲は炸薬量の大きな長弾を用い、着発信管の使用によって威力、正確さ、射程が
  いずれも飛躍的に延びた。 遣米使節団が寄贈されたホーウィスル(榴弾砲)4門のうち1門がライフルカノンであり、弾丸
  100個が含まれていた。 江川はこの大砲の鋳造を願い出ている。

 (4) 主な大砲
  ・和砲
   火縄銃を大きくした構造。 前奏滑空。 球形の砲弾を射撃、火薬量で射撃距離を加減するが各流派によって秘伝。
   角度を変える場合は厚板を挿入する。 弾は爆発せず遮るものをなぎ倒す。 戊辰戦争では榴弾や霰弾が発射できる
   ようになった。
  
臼砲(モルチール)持ち運べるものは携臼砲
   前装式。 極めて短い砲身の形状から臼砲と呼ばれる。 球形の大きな炸裂弾を逆U字状を描く曲射。 土塁や城壁など
   の向こう側にいる敵を攻撃するときに効果的。
  
野砲(カノン)
   前装施錠砲。 砲弾の初速が早いため最大射程が長い。 弾道がほぼ直線に近い弧を描いて着弾するので、途中に
   遮蔽物があると射撃できない。 車両に載せて移動するので起伏の有る戦場では移動が困難。 斤は砲弾を装填する
   火薬の総重量の単位で、英式はポンド、仏式はキロ。
  
山砲(カノン)
   前装施錠砲。 弾道は野砲と臼砲の中間。 野砲よりも重量が軽く移動が容易。 砲弾の種類は榴弾(爆裂することで
   破壊力あり。人馬などへの攻撃)、焼夷弾(爆発性の高い火薬が詰められ炸裂すると衝撃に由り発火、鳥羽伏見では
   薩摩軍が用い伏見を炎上させた)葡萄段(ブリキ缶の中に銃弾を詰め込み、砲撃の衝撃で缶が割れ広範囲に弾丸を
   撒き散らし、密集した歩兵を無数に撃ち抜く。 射程は半分に落ちる)霰弾(砲弾の中に小さな弾が無数に詰められ、
   炸裂した際に弾を撒き散らすことで広範囲に損害を与える)を使用できる。射程は1000m程度。
  
アームストロング砲
   銅鉄製、元込式施錠砲。 会津戦争で4q離れた所から鶴が城攻め。
   イギリスのアームストロングが開発した鋼鉄製後装施条式大砲。戊辰戦争で使用されたのは6ポンド(口径64mm、実中弾)
   と9ポンド(口径76mm、榴弾・霰弾) 文久3年(1863)の薩英戦争でイギリス海軍が使用し注目された。 明治3年の
   調査書では、久留米藩が3門、薩摩藩と長州藩が各2門、高知・柳川・新荘・一関の各藩が1門。 威力と操作性に比べ
   四斤砲ほどの効果を上げていない。 上野戦争での効果も一面を捉えてのこと。


3. 日本国内諸藩の軍装改革
 (1) 幕末の対外関係事件と銃器流入
   1853年 黒船来航 
   1854年 日米和親条約締結 
   1855年 蝦夷地が幕府直轄地に
   1858年 米国・オランダ・ロシア・英国と修好通商条約締結
   1859年 幕府布告、諸大名や陪臣にも開港場の運上所(税関)を通して「各国舶来の武器類」の輸入が許された。 欧米
         諸国から種々の銃が大量に流入した。
   1863年 下関戦争、薩英戦争

 (2) 軍備改革に影響を及ぼした北方警備・内戦
    文化4年(1807) ロシアが北海道の漁村で略奪を行なったため、幕府は会津・秋田・津軽・仙台藩に北方警護として
   蝦夷地への出兵と防備を命じた。 

    安政2年(1855)の日露修好通商条約の締結により、蝦夷地と樺太の分担警備を津軽藩、南部藩、秋田藩、仙台藩に
   命じ、その後庄内藩と会津藩を追加した。この様な外圧から、軍備の近代化を進められた。

    1864年の蛤御門の変での市街戦で銃砲に由る多くの死傷者を出した会津藩は、山本覚馬がプロイセン人のカール・
   レイマンに撃針銃(ドライゼ銃=前装式ながら燧石式から雷管式へ移行した最初の撃針銃)1,300挺を注文している。 
   ここから旧来の武装を改め西洋銃砲に改革。 特に京を追われるとプロシア人(国籍はオランダ)のスネル兄弟(ヘンリー、
   エドワード)から武器弾薬を大量に購入している。

 (3) 銃砲装備の状況
  
羽越列藩同盟諸藩官軍の銃砲保有状況比較一覧(「全国諸藩所持の武器等調査報告書」明治3年(1870)より)
藩名
大砲
小銃
藩名
大砲
小銃

施錠

総計

後装

前装

総計

施錠

総計

後装

前装

総計

幕府

394

1,500

11,252

60,600

75,000

長州

105

220

6,429

17,669

24,033

会津

23

86

332

3,394

4,200

薩摩

50

290

2,620

19,997

22,617

庄内

14

51

201

2,061

2,550

土佐

0

100

0

7,077

7,128

長岡

6

23

92

945

1,170

佐賀

45

201

3,241

3,286

6,533

白河

5

20

79

808

1,000

福岡

0

104

665

674

6,294

仙台

 0

84

533

5,727

6,260

鳥取

10

65

0

3,250

3,250

米沢

0

18

60

900

960

徳島

39

259

1,829

5,339

8,233


岡山

17

89

0

6,786

8,326

尾張

5

124

0

8,300

8,300

秋田

11

11

0

5,339

8,233

紀伊

40

105

3,865

7,866

10,836


福井

44

48

816

2,210

3,026


加賀

146

205

64

10,570

10,634

彦根

39

259

1,829

5,339

8,233

 軍事史学通巻49号第13号第1号(1977年6月)南坊平造論文・東京都立中央図書館




                                                      2014.7.17
              第53回勉強会 
下仁田戦争慰霊木像について

今から150年前、高崎藩が下仁田の地で
水戸天狗党と戦闘に及び奮戦むなしく31名の藩士と
5名の従者らが命を落とした。 その戦死者全員を平等に慰霊する木像は、一人ひとりの当時を
彷彿させ全国を見ても非常に珍しい。 また、遺族からの似てないとの声に100年前に作り替えた
いわく付きのモノである。 7月25日からの150周年記念展示を前に今一度勉強してみよう。 


下仁田戦争とは

動乱幕開けの元治元年に起きた、最後の鎧兜による戦
  元治元年(1864年)に水戸浪士を中心に京都へ向け上州を通過しようとした天狗党と、幕府から
 討伐の命を受けた高崎藩との戦を戦場地の甘楽郡下仁田の地名を採って下仁田戦争と呼ぶ。
 両軍共に大砲や鉄砲を有してはいたが戦闘の合図に鏑矢を射掛け、甲冑に身を固めた刀槍に
 よる戦は「日本最後の鎧兜による戦」と言われる。
  元治元年は「開国か攘夷か」と揺れ、
池田屋事件(新撰組が長州藩士らを襲撃)、蛤御門の変
(天皇を擁して主導権を狙った長州藩が会津・薩摩連合軍に敗れた)、長州征討などの大事件が
 勃発した年で、体制派と反体制派との争いが相次ぐ動乱幕開けの年。 この政情不安定な時、
 戦国時代以降初めて千人もの訳の解らない徒党への対応に小藩は苦慮し、人々の動揺は想像を
  超えるものであった。上州の富豪たちは尊王のお題目と刃の脅迫により巨額の金を拠出させられた。

始まりは御三家水戸藩の内紛
 
尊王は全国民の意識だが水戸藩は徳川光圀以来非常に強く、また、斉昭が藩政改革に藤田東湖
 を起用したことから、東湖の影響を受け起用された下級藩士と、門閥派の諸生党の確執が激しく
 なっていた。門閥派から天狗党と呼ばれた一派は東湖の死後諸生党が主導権を握る状況に業を
 煮やし、幕府の開国に反対する攘夷の急先鋒である東湖の子 藤田小四郎らが筑波山で挙兵した。


高崎藩主力は常陸へ、他藩は頼りにならず
  水戸藩では解決せず幕府の追討令が宇都宮藩らと共に高崎藩にも下された。幕府軍は初戦に
 大勝し油断しているところ夜襲され、到着したばかりの高崎軍は混乱逃走。その後の反撃に
 天狗党は一旦退いたが幕府は再び鎮圧の命を諸藩経下し、高崎藩も千人もの戦力を派遣し、
 常陸国那珂湊での戦いなどで天狗党を圧倒していた。 自分達の思いが儘ならぬため、天狗党
 の一部が攘夷を朝廷に訴えるべく
禁裏守衛総督一橋慶喜に仲介を求め武田耕雲斎を旗頭として
 京を目指した。上州を横断し高崎城下を避け藤岡から姫街道(国道254号)を信州へ向う。
  高崎藩は主力が那珂湊に転戦中のため600人しか残っておらず、一隊を城の守りに三隊を討伐隊
 に編成。 幕府からの追討令は前橋藩ほか上州の各藩にも発せられたが諸藩への強制力が弱く
 軍議を交わしたのは七日市と小幡だけ。1、2万石の小藩は戦闘力がなく合同軍への期待は
 却って仇となる。

201対925
  
高崎藩は一番手109人と二番手92人(三番手は戦闘に間に合わず)の合計201人。浪士軍925
 人は数度の実戦を経験していたが、正面同士での緒戦は高崎軍の
内藤國友大嶋ら勇士の
 斬り込みで優勢な戦況。 しかし、三面奇襲戦法をとる浪士軍は側面から小幡軍を装い、銃撃
 奇襲で指揮官堤らが討死すると高崎軍は混乱、本陣を敷いた岩下の戦いは敗れた。
 退却しながら戦うが結局浪士軍の信州への逃走を許す。6時間にも及ぶ白兵戦で討死者27人
 引き揚げ途中絶命2人、処刑(切腹の形の斬首)7人、計36人が戦死。浪士軍現地戦死者は
 4人、後日調査で死傷者は80人余り、高崎藩士の奮戦ぶりが窺える。社会政治体制が大きく
 揺らぎ、単純な図式で身を処することのできない時代、高崎藩士は武士道に殉ずるが如く戦に
 臨んだ。


戦のその後
  天狗党は上信国境内山峠から信濃国へ入り中山道を西へ進み、追討令を受けた藩と和田峠の
 合戦などを経て関ヶ原付近まで前進。ここで浪士征討軍総督が慶喜と知るや降伏。追討軍の
 手で350名が処刑、水戸に送られた大半も家族と共に諸生党に斬殺された。維新後は天狗党
 残党が諸生党を斬殺する怨念の殺し合いが続いた。高崎は藩主が幕府から賞され、戦死者・
 負傷者も御手当金が下賜された。藩からは戦死者及び参戦者に上下の区別なく論功行賞が
 与えられた。 明治維新で立場は逆転、反乱分子天狗党は国家戦死者として靖国神社に、
 高崎藩士は家禄返上となる。




姿絵・慰霊木像の36勇士(高崎藩戦死者慰霊木像と原画絵巻展の様子はこちら)

 下記の画像は1914年の下仁田戦争五十年祭を機に木像を修繕する際、戦没者の姪を妻に持つ
 絵師の水原如洗が描き浅草の木彫師 後藤仙之介に渡したものである。


       
堤 金之丞 第一番手使番(副官)兼目付(軍監督役)、家老堤新五左衛門順美の次男。 藩から
 選ばれ講武所砲術師範勝海舟に新式砲兵術を学んだ故に使番ながら本陣前で大砲方を指揮。
 東側の熊野山崖上に小幡藩を装った敵が出現し格式ある紺糸威の甲冑から大将と見られ、旭に
 輝く鍬形を狙った銃弾を左額に受け甥の深井藤弥に介錯させる。 頭部遺骸と共に血痕付きの
 兜や旗指物などを持ち帰る。42歳、出陣前に懐妊の娘が後に契約結婚で知られる喜代。

   
     
岩上 主鈴 60石馬廻格(藩の旗本)。第二番手大砲差手方(大砲方の組長)として18人を率い
 緒戦となる砲撃戦を指揮。 その後の刀槍による攻防で劣勢となり退きながら大砲の保持不可能
 と判断し砲を壊し弾薬を焼き捨て使用不能に。 砲を捨てての退却に家格の意地をかけ、民家を
 楯に激しく戦うが討死。 放火された民家の焼け跡から焼死体で発見された。35歳


     
小泉 小源治 50石馬廻格。第一番手働武者(戦士、古来は騎馬武者)として岩下の戦いで奮戦中、
 息子
又三郎の負傷の報を聞き本陣里見邸に戻ったところ西牧川対岸から敵がなだれ込み応戦。
 乱人せんとする敵をしばらく喰いとめたが加勢に来た鉄砲隊の一斉射撃を受け壮烈な戦死を遂げる。
 胸板に銃弾3ヶ所。46歳 又三郎も戦死、他に親子での戦死者は二木親子がいる。


     
二木 助五郎 50石馬廻格、第二番手働武者。 大柄で撃剣に優れ十文字槍を操って激しく斬り結
 んだため敵を悩ました豪の者と伝わる。 しかし多勢に囲まれ数ヶ所に傷を負ってひるんだところを
 組伏せられ捕らえられる。 南牧川青岩河原で切腹の形を取りながら処刑された。48歳


     
深井 助太郎 120石者頭・第三番手小頭武者(指揮官)深井景忠の長男。 弟景員は二番手大砲方。
 竹林流弓術を得意とし唯一人弓矢を携え参戦。 弓を巧みに駆使して応戦したため敵の攻撃目標と
 なり銃弾を股に受け立って戦えず坐って射るところ銃弾を胸に受け、弓矢を切り弓弦を断ち鎧を脱いで
 切腹して果てた。 胸板両足に鉄砲疵3ヶ所。18歳 日銀総裁深井英五は末弟。


     
下條 元理 19人扶持医師下條元修の養子、第二番手医師として従軍。 本陣の物置で負傷藩士の
 手当てをしていた。 
小泉又三郎の手当中、浪士軍庄司与十郎率いる一隊が西牧川を渡って急襲し
 治療中の元理は非戦闘員ながら鎧を身に付けていたため頭から斬り下ろされた。


        
筧 閏助 10人扶持使役筧佐五兵衛の養子。 第一番手大砲方戦士12人の一人として砲戦中、
 熊野山崖上から敵の銃撃で両足に受け、坐ったまま鑓で奮戦したが不自由な身では十分応戦
 出来ず頭上から斬り下ろされ右頓に太刀、胸に銃弾を3発受けたのが致命傷となる。30歳


     
二木 千代之助 50石馬廻格二木助五郎長男。 第一番手働武者として水戸浪士隊の本陣に銃を
 撃ちながら突撃したが敵兵の先陣数人と遭遇し斬り合いになり、敵の槍を面前に受けてしまう。
 ひるんだところを敵は刀槍ではなく一斉射撃を行ない胸板に4発も銃弾を受け戦死。22歳


       
小泉 又三郎 第一番手小泉小源治の次男。 16歳ながら第二番手動武者として佐分利流の九尺柄
 の大身鑓を使って奮戦。 色鮮やかな緋威の鎧を纏っていたためか銃撃を受け動けず本陣物置で
 治療を受ける。 乱入した敵と鎌槍で激しく渡り合ったが胸板と腹部に弾丸を受け戦死。


        
河野 岩之助 第二番手先手足軽(高崎藩甲州流陣立では鉄砲足軽)。 小銃隊として本陣前の
 桑畑に砲列をしき砲撃をしていたが西牧川を渡り側面から砲撃してきた三面攻撃の新手に狙撃され
 咽に2ヶ所銃弾を受け討死。32歳


     
田上 繁蔵 第一番手先手足軽。 高崎軍本陣前での戦いにおいて熊野山崖上からの奇襲銃撃で
 銃弾を足に受け寄せて来た敵と戦うも捕らえられ青岩河原で切腹斬首。 着用している甲冑は
 黒塗紺糸威樋皮胴、前胴に大河内家家紋(浮線蝶)が金箔押しで描かれた御貸具足。52歳


      
浅井 新六 10人扶持馬廻格、第二番手使番兼徒士頭。 岩下の戦いで退却を余儀なくされ杉本峠
 を超え安中に向かうべく安道寺に至ったところ浪士軍の追撃を受けた。 踏み止まり迎え撃ったが
 新手が攻め込み民家を楯に防戦するも放火され討死。 上半身焼死体で疵は不明。46歳

   
     
渡辺 源之助 銀5枚2人扶持並中小姓。 第二番手大砲方は本陣左に配され砲撃戦を開始。
 敵大砲15門に対し5門の高崎は大きく崩され砲撃戦最中に破片を前身に浴びて重傷。 戦闘能力
 は奪われ退却命令が出て仲間の肩を借りながら途中菅原村(現妙義町)で絶命。39歳

   
     
松下 善八 50石2人扶持城番、第一番手働武者。 胃癌のため床に伏していたが武士は戦場で
 死ぬのが本望と出陣。 退却し安道寺の入口で白兵戦となり得意の槍で奮戦したが老齢と病の
 ため咽・頓に突疵を受け、続いて耳脇に銃弾を受け討死。 戦死者中最高齢の60歳。


        
和田 吉太郎 50石近習中小姓和田重内の長男。 第一番手大砲方の戦士として砲撃に携わって
 いた。 熊野山から味方の小幡軍を装った敵銃撃で高崎軍は劣勢となり退却中狙撃され杉本峠を
 登る辺りから歩行困難となり、戸板に乗せられ戻る途中昔原村で絶命。24歳


        
国友 辰三郎 5石2人扶持徒士。 二番手働武者ながら一番手開戦の報を聞くや梅沢峠から反転
 し敵本陣へ斬り込む。 朱と黒を混ぜた「うるみ色塗り」の甲冑を纏い得意の十文字槍で天狗党
 龍勇隊隊長と渡り合い、道端の川に足を外したところ面部を槍で突かれひるまず戦うが一斉射撃
 を胸板や腹部に4発受け戦死。 内藤、大島と共に゛先陣の三勇士"と称される。24歳


        
高月 鑓三郎 50石中小姓高月重平大の三男で第一番手働武者。 先陣に斬り込み奮戦するが多勢
 に囲まれ両腕を骨折し捕らえられる。 青岩河原での処刑において切腹を命じられると弱冠19歳ながら
 「命を奪わず腕を折っておきながら今更切腹とは。早く首を打て」と叫んだ。


        
内山 金之助 8石2人扶持小役人並。 第一番手甲士徒士(先手足軽5人の頭)として本陣を守って
 いたところ熊野山から味方小幡藩を装った敵の銃撃を受ける。 太刀を抜いて崖をよじ登ったが
 上から狙われ右首筋を撃ち抜かれ落下、高札場前で討死。28歳


        
高橋 栄七 8石2人扶持小役人並、第二番手甲士徒士。 高崎軍先鋒隊が梅沢峠から小板材に入る
 と下仁田から登って来た浪士軍の斥候と遭遇。 暗闇の中放たれた銃弾2発が不幸にも右足に。
 立って戦うことが出来ず後に銃を持って応戦したが首を撃たれ死亡。 最初の戦死者。58歳


        
山崎 磯平 第一番手足軽目附(目附に付属し風紀を掌る)。本陣の前で繰り広げられた岩下の戦い
 において本陣を守って奮戦。 全身に切傷を受け力尽きて捕らえられてしまう。 青岩河原にて切腹の
 形を取り斬首される。42歳

   
     
深田 弥平次 第二番手先手足軽として本陣前で浪士軍を迎え撃っていた。 熊野山から味方の
 小幡藩を装った浪士軍の銃撃を頭と顔に2発受け絶命、辞世が残る。「夫もたヽヽぬ 茨のなかに
 果る身の 君がためには おしまざりけり よし久」 45歳

   
     
中村 俊達 第二番手出願従軍医師。 山名を通った高崎軍に医師が少ないのを見て家族の反対を
 押し切り加わった。 他の二人の医師と負傷者の手当てをしていた物置小屋にも浪士が斬り込んで
 来た。 槍を取って斬り合ったが深手を負い捕らえられた。 浪士軍本陣に連行され医師が少ない
 ので同道を求められたが戦場で死ぬべきと切腹を望み自らの手で内臓を掴み出し敵に投げつけた。
 切腹ぶりの立派さに敵はその胆をなめてあやかったと言う。45歳


        
関口 佐太七 田町の旅寵富田屋の主人。 第一番手別手廻(現在の警察)手先(探索方)として
 浪士の動向を探るため下仁田町中へ。 町の人間は町外へ逃げて通りに人影がなく怪しまれ
 捕らえられる。 戦いの翌日他に捕らえられた6人と共に青岩河原で打ち首となった。49歳


 ※中村俊達は志願した民間医師、関口佐太七は別手廻の手先だが普段は旅寵の亭主で藩士ではない。
   しかし、非戦闘員ながら戦場で死亡したため慰霊として祀った。


        
大嶋 順次郎 50石使役大嶋長光の長男で銀5枚2人扶持中小姓。 沈毅剛直で文学を好む一方
 武芸に長け"槍の順次郎"と知られる鎌宝蔵院流の達人。 第一番手別手廻(探索方)ながら真っ先
 に敵陣へ突っ込み敵十数入と白兵戦を展開、十文字槍の目釘が飛び刀で奮戦。 面部を突かれ
 血潮で目が見えないところ銃弾を受け討死。 伯父長成は内村家の養子となりその子の宜之は
 藩主の漢学指南役、孫が内村鑑三で順次郎とは従兄弟違いにあたる。29歳


        
本本 祭之助 50石馬廻格本木全治の継嗣となるが早く父と死に別れ幼少にして家督を相続。
 第一番手働武者として出陣。 退却中追って来た浪士たちが姿から少年と見て避けて通ろうと
 したが槍を巧みに操って道を譲らなかったので5人に取り囲まれる。 浪士たちは少年と軽んじた
 が奮戦したため苦戦。 孤軍奮闘の末、面部と脇腹に切疵、右肩に突疵、胸板に鉄砲傷2ヶ所を
 受け討死。 頗る美少年の目覚ましい戦いぶりに敵将武田耕雲斎が思い出に語ったと言う。15歳


        
近藤 左平 7両2人扶持中小姓。 第一番手働武者の中にあって30歳と働き盛り。 先陣を切った
 数名と共に斬り込んだが深入りし過ぎたため敵に取り囲まれる。 数人と斬り結んだが至近距離
 から鉄砲隊に胸板を撃たれひるんだところ面部に一太刀を浴び倒れる。30歳

   
     
吉田 友七郎 50石供小姓。 第一番手働武者として岩下の戦いで奮戦。 退却の殿(しんがり)
 を務め十文字槍で数人の浪士と渡り合いなんとか斬りぬけたところ、大砲の直撃を胸板に浴び
 戦死。 自身が50石取り働武者で戦死した3名の一人、意地からの討死か。39歳


       
内藤 儀八 50石数鑓奉行席内藤嘉右衛門の4男、第二番手働武者。 高崎家中誰もが知る豪の者で
 小野派一刀流の使い手。 金箔の上に透塗をかけた白檀塗りの甲冑を纏い真っ先に敵本陣めがけて
 斬り込み白兵戦となり敵を数名討つ。 面部に切疵突疵10ヶ所、右肩にも切疵突疵が残る奮戦ぶりに
 敵もひるんだが銃撃を受け討死。 勇士ぶりから論功行賞の最初に名が呼ばれた。20歳


        
関根 栄三郎 50石中小姓竹内瀬左衛門の次男に生れ供小姓関根氏の養子となるが16歳で出陣
 第二番手徒士として槍を振るって奮戦。 退却の陣太鼓が鳴らされたが戦闘中のため判らず、
 本陣裏庭で敵数人と渡り合い堀に足を取られ倒れたところ太刀を面部に受けほぼ即死。


        
反町 利喜蔵 8石2人扶持小役人並。 第一番手甲士徒士として本陣を守っていたが退却となり
 安道寺付近で20数入と踏み止まり2時間にも及んで応戦。 新たな浪土軍との斬り合いの最中に
 一斉射撃を受け動けなくなったところを槍で咽を突かれとどめを刺された。51歳


        
竹内 嘉平治 第二番手甲士徒士。 戦死者の中では松下善八に次ぐ59歳と高齢なこともあり
 安道寺での殿として奮戦するも力尽きて捕らえられる。 浪土軍本陣に連れて行かれ高崎軍の
 戦死者の姓名を問われた後、青岩河原にて切腹の形式をとって斬首された。


        
斎藤 鉄右衛門 第一番手先手足軽。 本陣前で銃撃戦に加わっていたが熊野山の崖上からの
 狙撃により面部と胸板に銃弾を4発受け、顔に致命傷となる銃弾を受けるまで奮戦し絶命。53歳


        
落合 伝助 第一番手先手足軽として鉄砲で応戦していたが弾が尽き刀を振って斬り合っている
 うちに本陣裏庭まで押し捲られる。 不覚にも足を滑らせて堀に落ちてしまったところ敵の至近距離
 からの一斉射撃により胸板に銃弾3発を受け討死。29歳


        
徳右衛門さん 赤坂村の農民。 従軍の槍持ち人夫として狩り出され本陣に於いて武器や弾薬の
 運搬にあたっていたが熊野山からの銃撃で絶命。50歳


        
亀吉さん 中豊岡村の農民。 負傷した小泉又三郎を本陣裏の物置小屋に担ぎ込み下條元理
 治療を見守っていたところ銃撃に遭い死亡。35歳

   
     
仙蔵さん 下飯塚村江本新田の農民。 従軍の鉄砲担ぎ人夫として狩り出され岩下の戦いで崩れ
 退却中に銃撃を受け絶命。35歳


※徳右衛門・亀吉・仙蔵の3名は非戦闘員であるが流れ弾により死亡。藩士ではないが慰霊。

 上記木像は、通常石原町の清水寺田村堂にて公開。説明板も新設されました。
  


                                                      2014.5.15
              第52回勉強会 家紋のいろいろ

 今年の研修旅行で訪れた掛川城では何種類もの旗めく家紋を見ることができた。 高崎藩
藩主は7家の大名が、
掛川藩藩主は11家の大名が務めている。 両藩の藩主はいずれも
譜代の有力大名で両藩以外の藩主も務めている。 従って、その家紋をいくつか知っていると
色々な城下を訪ねたり案内本などを見た時、何と言う大名か分かるなど面白さが増すことも
あるので家紋について勉強してみよう。   (
高崎藩主の家紋一覧はこちら)

1. 家紋使用の歴史
  家紋の成立には諸説あるが、子孫が世襲する流れが定着し出した平安時代から、公家や武家
 の世界で使われるようになったようである。 公家の場合は牛車や衣装、調度品に文様を描く
 ことが家紋に転化し各家固有の目印として使うようになった。 武家の場合は旗や陣幕の記章
 から転化したものが多い。源氏の白旗、平氏の赤旗が有名だが初めは紋章が付いていなかった。
  やがてその家来の集団が旗に紋章を描いたのが定着したと思われる。 鎌倉中期には殆どが
 家紋を持つようになった。 敵味方の区別だけではなく、自身の手柄を確認させるための手段
 として必要となったからである。
  
南北朝時代に入ると、直垂(ひたたれ)に家紋を縫い付けた大紋(だいもん)という例服が武士
 の間に普及し、大紋が素襖(すおう)や肩衣(かたぎぬ)に変化すると、礼服には家紋を付ける
 考えが定着し始める。 何と言っても家紋がその役割を高めたのは、日本全土で戦乱が起り
 群雄が割拠した戦国時代である。 自家や一族を認識できる必要が高まり、馬標・指物(さしもの)
 などに紋を付けるようになり急速に種類が増加した。 また、軍事目的や政略のために紋を
 下賜することも生じるようになり、権威付けに使われることもあり家紋が一層普及し出す。

  江戸時代に入り平和な時代になると、儀礼的な目的での使用が一層高まり、権威の象徴と
 なった。 また、他人の身分や家格に応じて自分達の身なりを正すため、互いに格を確認する
 目的に使われるようになった。 特に、大名やその家臣たちが通常礼服として裃を着るように
 なり、裃の三ヶ所ないし五ヶ所に家紋を描くので、家紋は紋章化し出した。
  当時は写真などがないので人物認識が難しいうえ、官職名(○○守、△△大夫など)や通称
 (○兵衛、△右衛門など)で呼ぶ慣習から、名字を表す家紋は、その有用性が高まった。
 武家に関しては『
武鑑』に禄高や役職と共に家紋が、公家に関しては『雲上便覧大全』に称号
 と家紋が載せられた。 一般庶民は公称の名字は持てなかったが、家紋を用いることは規制
 されていなかったため使われている。 豊臣秀吉の出世にあやかって「五三の桐」が人気で
 あったように武家の紋を真似することが多く、家紋の乱れは酷く、各自の好みで奇抜な物も
 現れた。 歌舞伎が盛んになると、人気ある役者の紋を勝手に用いることが流行するほどで
 あった。 この様な中にあって、徳川家の葵紋の使用は厳しく禁じられ、使用すると厳罰に
 処せられた。
  
明治時代になると家紋は全くの無制限下に置かれ、葵紋の権威が地に落ちる一方で菊紋
 主役の座につき太平洋戦争前まで続いた。 同戦争以後、家族制度の崩壊に伴い家紋は祝儀・
 不祝儀の際の衣服などに僅かに残されているだけとなってしまった。



2. 家紋の呼び方
 (1) 定紋(じょうもん。別称は表紋・本紋)
   名字を代表する紋のことで、江戸時代は幕府へ正式に届けた紋のこと。公式の行事や儀式に
  用いる。

 (2) 替紋(別称は裏紋・別紋)               
   一姓一家紋、一家一家紋が原則であるが、主人筋から賜る場合、敵方から奪い取る場合、妻
  の生家の紋を用いるなどにより、一家でいくつも家紋を持つようになる。家紋が多い有名な例
  は伊達家で、定紋は仙台笹だが、伊達鴛鴦(オシドリ)、九曜、丸の内に竪三つ引き、雪輪に薄
  (ススキ)、八つ薺(ナズナ)、五七桐、十六菊の替紋を使った。
   

    真田氏の定紋               替紋

 (3) 女紋
   江戸時代になると、武家の娘が嫁ぐ際に自家の紋を持たせてやるようになる。嫁入り道具に
  自家の家紋の入った物を持たせた。自家の紋が「矢」とか「剣」のように女子には相応しく
  ない場合は他の紋に替えたりした。 一般では関西から西の方面に於いて普及したと言われる。
  関西の商家では入り婿を迎えて家を継がせる女系相続が主流のため、女紋が伝わる風習があり、
  関東地方は薄い。

 (4) 本家紋と分家紋
   将軍家や大名家において定紋は長男だけで、次男以下が分家する場合、本家の紋の形を多少
  変えたり、外郭を丸や四角で囲んだりして区別した。
  ・徳川家の場合
   将軍毎に、また、尾張家、紀伊家、水戸家毎に少し変化させている。さらに、御三家の分家は
   外角を隅切り角(紀伊徳川の分家)や、八角(水戸徳川の分家)、菊(尾張徳川の分家)で囲っている。
   
          
    
家康・秀忠・家光       家綱           綱吉           家宣          吉宗        家重・家治・家斉
   
            
     尾張家        紀伊家       水戸家       会津家       西条家

  ・大名家の例
   酒井家は、左衛門尉家(庄内)は「丸に方喰」、その分家の雅楽頭家(姫路)は「剣方喰」、その
   分家の小浜酒井家は「丸に剣方喰」と、分家の方が複雑になっている。
   
    
   庄内方喰        姫路方喰       小浜方喰

 (5) 神紋・寺紋
   神社や寺院、仏教の宗派が各々に用いる固有の紋で、所縁の有る公家や武家の家紋を用いる
   場合が多い。  各地の東照宮は徳川氏の「丸に三つ葉葵」、京都市豊国神社は豊臣氏の「五七桐」。
  上越市榊神社の「榊原源氏車」は榊原氏、米沢市上杉神社の「米沢笹」は上杉氏と同じ。
   

     榊原源氏車     米沢笹

  群馬県新田神社の「大中黒」は新田氏、鹿児島市照国神社の「丸に十文字」は島津氏と同じ
  である。山梨県恵林寺は武田氏の「武田菱」、足利市鑁阿寺は足利氏の「丸に二つ引き」が
  寺紋となっている。  宗派としては、浄土宗は「月影杏葉」(本山知恩院ほか)、曹洞宗は
  「久我竜胆車」(本山永平寺)と「五七桐」(本山総持寺)、日蓮宗は「平井筒に橘」(総本山
  久遠寺)など、その宗派に属する寺院は宗派の紋を寺紋としている。
   
  
         月影杏葉         平井筒に橘


3. 家紋の分類
  
主な家紋は、紋様化した被写体によって次のように分類できる。
  ・植物:   
、梅、沢瀉(おもだか)方喰(かたばみ)、竹、桔梗、牡丹、松、
          
木瓜(もっこう)茗荷など
  ・器具:   井桁、釘抜、車、剣、笠、
団扇鷹の羽、槌、梯子、矢など
  ・自然現象:月、月星、洲浜、波、山など
  ・動物:   鹿、蛇の目、蝶、鶴、雁、亀甲など
  ・文字:   一文字、角字、各種の字など
  ・文様:   巴、菱、引両、目結(めゆい)など
  ・建造物:  石畳、直違(すじかい)、鳥居など



4. 種類の多い紋
(1) 桐
  ゴマノハグサ科の落葉高木、葉は長い柄があり大きな広卵形で、初夏には枝頂に淡紫色の
 花を円錐状に多数付ける。成長が早いので女子が生れると桐を植え、嫁入りの際に箪笥や
 長持の材料に宛てた。中国帝王の伝説に基づいて嵯峨天皇が文様に用いたので尊い印象が
 定まり、天皇から貴族や武臣に下賜され、権威ある紋章となった。 しかし、乱用する者が現れ
 1591年に豊臣秀吉が禁止令を発布したが、1611年に徳川家康が菊紋の恩賜を拝辞したこと
 から菊桐紋に関する禁令が緩和され、桐紋を用いた大名が50家にも及んだ。 また、家紋を
 持たない一般庶民が何かの事情で必要とした際に、秀吉にあやかって使ったため一般的にも
 広まった。
  形状は、花のつぼみの数により「五三桐」、「五七桐」という。特殊な形状もあり(「嵯峨桐」
 「太閤桐」「光琳桐」等)、大名家ごとに特徴的な桐紋がある(「福井桐」「上杉桐」「上田桐」「川越桐」等)。
   
   
     「五三桐」          「五七桐」
                   

(2) 藤
  マメ科の蔓性落葉木本で山野に自生する。蔓は右巻き、葉は奇数羽状複葉。4、5月頃長い
 総状の紫や白色の蝶形の花を付ける。 藤花が華やかな宴や歌に詠われたので文様として流行
 し、織物などに描かれた。形状は、藤の丸が大半で、花房が下に垂れた「下り藤」と上に
  向いている「上り藤」がある。花房の数により一、二、三、四、六、八がある。
   大名家では安藤・遠山・大久保・加藤・内藤氏など。
   
      
       大久保藤             安藤藤


(3) 柏
  山野に自生するブナ科の落葉高木、葉は大きく波状の鋸歯がある。葉が広く丈夫なので食物
  を盛る器として食器の代用、神事に用いられた。新芽が出てくるまでは古い葉が落ちない故、
  親が子の成長を見守る姿を示しているという。このことから信仰的な意味と子孫保護の願い
  から用いられた。神官の家紋に多く、現在も端午の節句の柏餅や参拝時の柏手など神事に
  関わる場合に「柏」が用いられる。 形状分類で、「並び柏」や「三つ柏」(葉が一から九葉)
  或は蔓や剣などが付いたもの、また、丸で囲ったものや隅切り角のものが多い。
   大名では山内・牧野・中川・蜂須賀氏など。
   
     
     山内土佐柏       牧野柏 


(4) 橘
  ミカン科の常緑高木で、日本原産唯一の柑橘類。初夏に芳香ある白色の五弁の花が咲く。
  「橘は常世の国の木の実の樹」として珍重され、紫宸殿の庭前にある「右近の橘」は有名。
  最高の果実で積雪に耐えよく繁茂し、珠玉のようで美しいことから好まれた。
  形状は、葉からなるものと実と花と葉からなるものに二別される。実の数によって一つ橘
  から五つ橘まであり、別の紋章の形を表したものもある。
   大名では井伊・久世・黒田・深溝松平氏など。
   

      彦根橘

(5) 方喰(別表記として片喰・酢漿草・鳩酸草)
  カタバミ科の多年草、庭や路傍などに自生する。茎は地面を這い葉はハート形の3枚。
  春から秋にかけて黄色の花が咲く。繁殖力が旺盛で、噛むと酸味がある。昔は鏡の表面を
  磨くのに用いられ鏡草とも呼ばれた。旺盛な繁殖力から用いられたとする説が多い。
  形状は、葉の数、方喰の数、組み合わせなどからなる。
   大名家では松平・酒井・成瀬・森川氏など。
   


(6) 桔梗
  キキョウ科の多年草で山野に自生する秋の七草の一つで、昔は朝貌(アサガオ)と呼ばれ、
  古くから多くの人々に親しまれた。夏から秋にかけて青紫色の鐘形の花を付ける。平安時代
  から多くのものの文様に使われていた。 形状は単弁のものと複弁(八重)に大別され、
  枝、葉、花を組み合わせたものや、他の紋を象ったものなど種類も多い。珍しく色付きの紋
  があり「水色桔梗」紋と呼ばれる。桔梗紋は清和源氏頼光流土岐氏とその一族の代表家紋で
  幕は「無紋水色」で紋を用いず旗には水色の桔梗紋を用いた。「丸に桔梗」が約六割を占める。
  頼光四世の頼政を祭神とする頼政神社の社紋は「桔梗」紋で青色。
   大名では太田・脇坂・土岐・仙石氏など。
   

     土岐桔梗

(7) 蔦
   ブドウ科の蔓性落葉植物で、巻き髭には吸盤があり、山野の岩や木に着生する。葉は
   円心形で浅く三裂し、夏に黄緑色の小花を付ける。秋は紅葉して美しい。主に蔦の葉を
   紋章に写したが、その風趣による美しさからと、他のものにまとわり付き繁茂する性質
   からと言われる。 形状は、葉の状態から「大割り蔦」と「鬼蔦」がある。
    大名家では藤堂・松平・六郷氏など。
   

      藤堂蔦

(8) 沢瀉(おもだか)
  オモダカ科の多年生水草で沼、池、沢などに自生する。葉は鏃形で長い柄。夏秋に60pの
  花茎が立ち円錐状に白色3弁の花を付ける。  沢瀉は「勝ち草」と呼ばれ縁起の良い草と
  して用いられた。 形状は、「葉沢瀉」(葉が一つ〜九つ)、「花沢瀉」(花が何枚か)、「水沢瀉」
  (付属物に水模様)。
   大名では水野・木下・土井・奥平・酒井・浅野・三浦・毛利・大給松平・滝脇松平氏など。
   

     立ち沢瀉        水沢瀉       毛利沢瀉

(9) 茗荷(みょうが)
  ショウガ科の多年草で山野の林中や竹林などの湿地に自生する。夏に地下茎の先から花序
  が出て、6〜7片の苞をつけたタケノコ状のものが見られる。独特の香りがあり食用になる。
  仏教で知らぬうちに神仏の援助や保護を受けることを冥加と言い、冥加に通じるということ
  から紋章として用いられるようになったのでは。「杏葉(ぎょうよう)」紋と似ているので、
  杏葉紋を茗荷に改造し、縁起の良い茗荷紋を使用したとも言われる。 このため、両者は
  混同されることが多い。
   大名家では、鍋島氏。(本当は「抱き杏葉」であるが「抱き茗荷」と呼ばれている)
   
                            
      抱き杏葉


(10) 鷹の羽
   鷹が勇猛果敢なことから武人に好まれ、羽根は色、形共に強靭なので矢羽根に用いられた。
  勇猛の象徴として武家に多く使われた。木瓜と一、二を競う数。  形状は、羽を並べた形
 (一・二・三・五)、羽を打ち違えた形(右重ねと左重ね)、車形に配列(羽車)した形がある。
  大名家では浅野、阿部、久世、井上氏など。群馬県は、宮崎・鹿児島・千葉・大阪・愛知県
  などと共に使用する氏が多い。
   
           
   浅野氏「丸に左違い  福山阿部氏「丸に    白河阿部氏が「右違い
   渦入り鷹の羽」    左違い斑入り鷹の羽」   石持地抜鷹の羽」
  

(11) 木瓜(?)
  「木瓜(もっこう)」は当て字で、正確には「?(もっこう)」と書く。?とは地上に在る鳥の巣
  のことで、形が巣の形に似ている。昔は中に小さな丸が卵として多く描かれている。木瓜紋
  と呼ばれた説はいくつかある。
   @御簾や御帳の周囲にめぐらした絹布の帽額(もこう)が転じた
   A胡瓜の切断面を象った
   B木瓜(ぼけ)の切り口を象った。
  帽額説が強い。文様は中国唐代の官服に用いられており、伝来したと思われる。
  形状は、4葉の「木瓜紋」、「四方木瓜紋」と5葉の「五瓜紋」に大別される。
   大名家では朝倉・織田・堀田・有馬氏など。
   


(12) 扇
  扇は、開いた形状のもとは狭く末が広がる形から「末広」という佳名で呼ばれ、縁起が良い
  ということで祝賀や冠婚の儀式などに用いられる。吉祥的意義に基づいて紋章に。
  紋章は、「扇」紋(通常の形)、「檜扇」紋(檜の薄板を糸でつないだ扇)、「中啓」紋(扇の骨が
  外側に開いたまま、別名は反り扇紋)、「扇骨」紋(骨だけを紋にしたもの)、「地紙」紋(扇の
  貼り紙を紋)の五つに大別される。
   大名家では佐竹・深津松平・大河内松平氏などがある。
   

    五本骨日の丸扇      重ね扇         檜扇

(13) 団扇(うちわ)
  大別して三つの形がある。竹製の骨に紙を貼った「団扇」紋、武将が采配に用い行司が使う
  軍配を象った「軍配団扇」紋、棕櫚(シュロ)の葉の形をした羽毛製の「羽団扇」紋。
  団扇は鍾離権(しょうり・けん。中国の仙人)の持ち物・芭蕉扇で死者の霊魂をよみがえさせる
  神通力を有していたと言うこと、勝利者の勝名乗りをあげた尚武的な意味、武士が軍神として
  信仰する摩利支天の持ち物で、信仰的な意義からと思われる。
  形状では、団扇紋は卵形に柄が付いた一つの団扇から五つまである。軍配団扇紋は長楕円形
  で中央がややくびれ、柄は真ん中を二分し、先端は剣状のものが多い。松竹、松竹鶴亀、月星
  など瑞祥的な模様を入れてあるものが多い。
  軍配団扇紋は武蔵七党の児玉氏の代表家紋で、この系統から出た諸氏が殆ど用いていたこと
  から、群馬県には多い。
   大名家では奥平氏の「七五三笹唐団扇」(中津団扇)

   


5. 葵と菊
(1) 菊
  キク科の多年草で中国原産。長寿延命の薬用として渡来したが、姿、色、香りが優れている
 ので愛好され鑑賞する風習が始まり、やがて文様として用いられるようになる。天皇家が好ん
 で用いたので、次第に文様から皇室の紋章に移行し、武将にも下賜され権威が高まり皇室を表
 すシンボルとなった。1591年に無断使用禁止となったが、家康の下賜拝辞を契機に権威が下り、
 一般庶民まで使用できるようになった。戊辰戦争の折の錦の御旗以来菊花紋の権威が高まり、
 1863年に皇族以外に菊花紋の使用を禁止する布告が発令され、太平洋戦争まで続いた。
  形状は@花だけ、A葉だけ、B花と枝・葉、C他と組合せ、D他の紋章に象るに分類される。
   

 
(2) 葵
  アオイ科の植物で、タチアオイ、ゼニアオイ、モミジアオイなどの総称。山地に生える多年
  生草木で、地上を這って広がり、茎の節ごとに毛根が生え、直立した短い枝は6〜7pぐらいで、
  先端に2枚の葉が付く。葉の形はハート形をしており、4〜5月頃に鐘状の淡い紫紅色の花を付ける
  紋章に用いられた葵はウマノスズクサ科のフタバアオイ。 別名をカモアオイと呼ばれるのは
  京都賀茂神社の神紋として神事に用いられたから。 徳川氏が葵紋を用いた訳は、@酒井氏から
  譲り受けた、A本多氏と交換した、B家康が自ら考案した、C松平氏の家紋を踏襲したとの説が
  あるが、Cとする説が有力である。松平氏は足利時代から賀茂朝臣といわれ、賀茂神社の有力な
  氏子として葵紋を用いていたからとする説である。 ただ、紋様については不明である。
   葵紋の使用は将軍家と御三家および家門の一部だけで、他は使用を禁止された。形状は各将
  軍、御三家、家門と異なり、時代と共に変り初期の紋は葉柄が細く長く湾曲し、葉が互に隔たり
  巴状をしている。時代を経ると葉辺は接近し、葉柄は短く太くなり湾曲も緩やかになった。
  家康から家光時代は33蘂(ずい)、家綱は19〜23、綱吉は23と27、家宣は31と35、吉宗は
  23、家重以降は13蘂である。
   



6. 大河内松平氏の家紋
 
大河内松平氏は大名家が3家あるが、それぞれの家紋は少し異なる。

    
備前守家(大多喜藩)  伊豆守家(吉田藩)  右京大夫家(高崎藩)
 定紋 
            
        三つ扇       丸に臥蝶に十六菊     雁木三つ扇

 替紋 
         
      浮線蝶の内菊       反り三つ扇      三蝶の内十六菊



7. 家紋にまつわるよもやま話
 延享4年(1747)、江戸城本丸大広間において肥後熊本藩主細川宗孝(31歳)が旗本・板倉
 勝該(年齢不詳)に背後から斬られ殺害された。  一説には、勝該の屋敷が熊本藩下屋敷
 の崖下に位置しており大雨が降る度に熊本藩屋敷から勝該の屋敷へ流れ込むため、改善を
 懇請したが相手にされなかったため恨みに思い殺害に及んだと言われる。 しかし定説では、
 勝該の本家筋にあたる若年寄で遠江相良藩主板倉勝清(41歳、後に老中・安中藩主)が、
 勝該の不行跡を懸念し廃嫡するとの風評から恨んで殺害しようとした。 ところが、細川家の
 家紋「九曜」と板倉家の家紋「九曜巴」を見間違えて宗孝を殺害してしまった。  この家紋
 見間違えで藩主を失った細川家は、九曜の外側の星を小さくし、さらに通常五ヶ所に紋を
 付けていたものを、七ヶ所とし「細川の七つ紋」と言われるようになった。

   
 
    板倉九曜巴       九曜        細川九曜





                                                                                                   2014.3.20
           第51回勉強会 江戸から明治の駿府・静岡

今回は、4月12日からの研修旅行先、静岡について事前学習します。
1. 今川氏時代

   全国の国府の地を府中といい、駿河国の府中なので「駿府」と呼ばれる。
  室町時代から戦国時代にかけて駿府の繁栄を築いた今川氏は、清和源氏の一つ河内
  源氏義家流の足利氏支流吉良氏の分家で、「御所が絶えれば吉良が継ぎ、吉良が絶え
  れば今川が継ぐ」と言われる。 (実際は足利氏一族には何流もあり、吉良氏に継がれる
  ことは考えられない) しかし、国氏の孫範国が駿河 ・遠江国の守護となり、その子の範氏
  が駿河守に任ぜられた室町幕府足利氏の直系守護大名であった。
家紋は足利二つ引き両。
  駿府は、大内氏の「西国の京」山口と共に「東国の京」と呼ばれる戦国三大文化地方の
  一つであった。


  源義家義国新田義重−(5代略)−新田義貞
             足利義康義兼義氏泰氏−(3代略)−足利尊氏
                               吉良長氏満氏
                                     今川国氏−(2代略)−範氏−(4代略)−氏親氏輝義元
                                                     
年表:今川義元の領主行動に関連する出来事

出 来 事

1519

今川義元誕生

1526

今川氏親(父)死去 長兄氏輝相続

1536

氏輝急死 次兄彦五郎既に死去
嫡子四男承芳を還俗させた義元擁立派と庶子三男玄広恵探派が家督争い(花倉の乱)
義元家督相続。北条氏と駿河東部の地を争う(第一次河東の乱)

1537

武田信虎の娘を正室に迎え甲駿同盟を結ぶ

1540

織田信秀が三河国東部に侵攻(第一次小豆坂の戦い)、今川軍敗れる。

1541

河東で争う北条氏綱死去。氏康が家督相続。武田晴信が父信虎を今川家へ追放。

1544

武田と北条が甲相同盟締結。

1545

氏康と敵対する山内上杉憲政と同盟。北条氏を挟み打ち(第二次河東の乱)
古河公方足利晴氏と連合し河越城包囲。武田晴信仲介。河東の地戻る。

1548

義元の三河進出に危機感を覚え織田信秀が侵攻(第二次小豆坂の戦い)。今川軍大勝。

1549

松平広忠死去。岡崎城に侵攻し松平家所領を支配下に治める。

1553

室町幕府制定の守護使不入地の廃止を宣言、幕府との関係を絶つ。

1554

嫡子氏真と北条氏康の娘縁組、武田・北条と甲相駿三国同盟結成。

1555

第二次川中島の戦いの仲介、和睦成立。駿河・遠江・三河の検地実施。

1560

桶狭間の戦い


   今川氏は守護大名として君臨していたが、相模・伊豆地方の北条氏や三河の松平氏、
  尾張の織田氏など成り上がりが勢力圏拡大行動を起し衝突を繰り返していた。高崎に関連が
  ある出来事としては、1516年に
大河内貞綱(高崎城主大河内輝貞の10代前)に対し、三河浜松
  の引馬城の戦いで氏親が勝利している。戦乱の京都を逃れて公卿が住みつき京風の地と言われ
  義元もお公家さん”のイメージが伝わっているが、現実は家督争いを経験し領土拡大に依って
  家臣団を統制することに明け暮れ、検地を実施した戦国大名である。1560年に桶狭間で今川
  義元が織田信長に討たれると今川氏は衰退し、武田信玄が攻め込み駿府は焼かれ荒廃してしまう。


  (参考)
    桶狭間の戦いは、小が大を喰った常識破りの戦いのため、『信長記』に基づいた帝国陸軍参謀本部編纂
   『日本戦史桶狭間役』が定説となっていた。本質はまだなぞの部分も多いが、『
信長公記』の方が歴史家の支持を
   得ている。戦争目的は義元の上洛でなく信長の領土回復戦争であり、戦地の桶狭間は谷でなく山、戦闘は迂回
   奇襲でなく正面突破であった。また、今川側の戦法がそれまでの戦い方(首を取っての恩賞)に対し、信長の戦法は
   敵を討ち倒し捨て大将首を取ることを最大の眼目とした戦いであった。



 2. 大御所家康時代
   1585年に乱世を切り抜けた家康が駿府に本拠地を定め、今川氏の守護舘に城を築き城下を
  整備し繁栄を取り戻したかに見えたが、1590年の小田原征伐の結果、家康は関八州へ移封され、
  秀吉の家臣中村一氏が入封したが14万石と規模は著しく小さくなる。関ヶ原の戦いで一氏の子・
  一忠が東軍に与し武功を挙げ中村氏は米子藩17.5万石へ移封される。一時内藤信成(4万石)
  が配される。 家康は将軍職を秀忠に譲ると駿府一円は直轄領となる。七層の天守を有する
  壮大な城を築き在城し、側近も数多く仕え、実質的には全国支配の政策を展開、大御所として
  君臨し江戸の秀忠将軍と二元政治体制と呼ばれた。 1609年からは家康の第十子頼宣が府中
  50万石の藩主として入封したが、8歳につき名前だけの城主であった。府中城下は人口10万とも
  12万ともいわれ、大いに繁栄した。家康死去後1619年に頼宣は紀伊和歌山へ転封となり再び
  幕府直轄支配になる。
 
  *主な側近
   政務:
本多正純(後に宇都宮15.5万石城主)
       
成瀬正成(後に尾張名古屋城主徳川義直の付家老・犬山城主)
       
安藤直次(後に紀伊和歌山城主徳川頼宣の付家老)
   検地・都市造営・開発・鉱山:
       代官頭
伊奈忠次(関東郡代)や大久保長安(金山銀山の開発・天下惣代官)、
   貿易・商業:京都三長者の
茶屋四郎次郎(幕府呉服御用達の豪商)
       
後藤光次(金座御金改役の豪商)
       
角倉了以(朱印貿易の豪商・京都大堰川や高瀬川を自費で開削、幕命に依り富士川や天竜川を開削)
       
三浦按針(ウイリアム・アダムス。難破漂着、家康に科学知識を重用され貿易に尽力)
   寺社統制・思想文化:
金地院崇伝(天下取りの政略や幕府諸法に関与)
       
南光坊天海(家康帰依の師、東照大権現の主張者)
       
林羅山(幕府朱子学の基礎)
   
大河内正綱(松平信綱の父)も勘定頭として財政を取り仕切っている。


 3. 駿河大納言忠長時代
   二代将軍秀忠の次男忠長は、兄家光が将軍家後継に決まると、1624年に駿河国を中心に
  遠江・甲斐国の一部を加えた55万石の大大名となり、駿府城主となる。これに依り、駿府は
  尾張名古屋、紀伊和歌山と同様の繁栄が築けたかもしれなかった。しかし、改易となる。
   幼少時代の竹千代と国千代の三代目後継を巡る逸話が両者の関係を面白く伝えるうえ、
  謹慎させられ自刃に追い込まれた理由は、数々の乱行と言うことになっている。 しかし、
  本質的な背景としては、当時はまだ徳川政権が盤石ではない時期であり、東海道を行き来する
  大名が駿府城に挨拶に寄る状況が不穏な行動に映り、家光の近習から成り上がった幕閣に
  とって目障りになったのであろうと考えられる。特に、紀伊大納言と共に家光を追い落とす噂は
  実しやかに聞こえ、幕閣は不安に駆られ家光に在ること無い事悪い事を伝え難癖を付けたと
  思われる。 その様子は秀吉が秀次を切った例に非常に似ている。
   忠長は改易され高崎藩安藤重長預けとなる。重長は秀忠の宿老重信の継嗣であり、家光
  及びその取り巻きと忠長との確執を快く思っていなかった節がある。家光の
忠長に自刃させる
  意向に対し、口頭での伝達には承服せず使者の阿部重次を出直しさせた。高崎安藤家では、
  重博の代に大信寺に廟と五輪塔を建てている。



 4. 駿府城番時代
   1633年、駿府は忠長が改易された後は幕府直轄となり、駿河領は旗本たちの知行所となる。
  駿府城主は配されず、老中支配下の駿府城代が駐在し、城の警護監督や久能山代拝などを
  行なった。 駿府城代は大身旗本(3千石以上)の職で、御役知2千石、江戸城雁間詰。1649年
  には副城代に相当する駿府定番が設置された。御役高1千石、御役料1,500俵、芙蓉間詰。
   駿府城代・駿府定番の軍事力として駿府在番が置かれた。初期の在番は、幕府の直属兵力
  である大番が派遣されたが、1639年には将軍直属の書院番に代った。大番も書院番も江戸城
  警備や将軍の護衛を担当する武官で小姓組・新番・小十人組と合わせ五番方と呼ばれる。
   1790年に書院番による駿府在番は廃止され(寛政の改革の一つか)、駿府城代支配下の駿府
  勤番組が常駐するようになる。勤番組頭の御役高は500石、御役料は300俵。勤番の役高は200俵。
   江戸から勤番詰めが交代ながらも大勢住みつき、大名家が藩として経営するより、江戸が移って
  来た様な状態で駿府は栄えたと思われる。


 5. 府中宿
    駿府は城下であったのに加え江戸幕府の主要都市につき、人・物・金・情報が行き来する拠点
  のため伝馬が置かれた。上伝馬町・下伝馬町にそれぞれ本陣と脇本陣が置かれ、街道沿いに
  29町が整備され、幕末の記録では旅籠50軒、人口1万4千人強の東海道最大の都市となる。


 
6. 江戸城無血開城談判の地
   明治維新に向け駿府は時代転換の舞台となった。江戸城無血開城は、
西郷隆盛勝海舟
  二人が江戸三田薩摩屋敷での会談し決定したと喧伝されている。しかし、その席には
山岡鉄舟
  を加えた鼎座であったと勝は回想している。そのうえ、実質はそれに先立ち駿府(現在の伝馬町1-2)
  で行なわれた西郷と鉄舟との直談判で基本的に合意された。主な事項は、将軍慶喜の処遇・
  江戸城の明け渡し・軍艦や武器の引き渡しなど。 鉄舟は将軍慶喜の意を受けて総督陣営に
  向かった。江戸に迫る官軍陣地を突破し、由比と
薩た峠で官軍に追われ興津の間宿で脇本陣
  「
望嶽亭」に逃げ込み、主人の機転により逃れ船で清水湊に向かい次郎長の助けもあり駿府に
  入った。鉄舟の胆力と無私の熱意に感嘆した西郷は、最大の問題であった慶喜の処遇について
  鉄舟の意を受けることとなった。 歴史上の大舞台は江戸三田の薩摩屋敷となり、西郷に相対
  する殊勲者は海舟となったが、本当の殊勲者は鉄舟であり、舞台は駿府である。所縁の場所と
  して、西郷・山岡が会見した松崎屋の址や鉄舟邸址に記念碑が建てられている。



 7. 府中藩時代
   慶応4年(1868)新政府は徳川宗家の相続者を田安家亀之助と定め、府中城主70万石とした。
  田安家は、将軍家に後継者がいない場合のために創設された御三卿の一つで、8代将軍吉宗
  次男宗武が祖であり亀之助は7代目。 わずか6歳の藩主のため、準中老の大久保一翁、幹事役の
  
勝海舟山岡鉄舟が補佐した。旧幕府の制度を踏襲したため、多くの冗員を抱えた府中藩の
  成立であった。 明治維新は「革命」ではなく、江戸城無血開城や徳川慶喜謹慎処分という穏敏な
  政権交代であったため、徳川家の多くの旗本たちなど家臣団を江戸から離れた地で生きる地を
  与える策がとられた。その地が幕府直轄領の駿河であり、拠点が府中であった。 府中藩の問題は
  無禄移住者の処遇であった。生活に困窮する者も多く、取り敢えずは新政府からの借金で凌ぐと
  して、生活を維持する殖産が急務であった。その一策として牧ノ原・三方ヶ原などを開拓し、安政の
  開港以来生糸につぐ輸出品であった茶の栽培がなされた。今日、静岡県が全国一の茶生産地と
  なる基盤となった。 また、隣接する清水が港として開発され、駿河産の紙・茶・砂糖・漆器などを
  出航し米などを買い入れた。 これらの事業には次郎長が大きく関わり後世にその名が知られる
  ようになった。
次郎長は博徒の親分として凶状持ちであったが、慶応4年、脱走した旧幕府艦隊の
  咸臨丸が難破し清水湊へ避難した。これを官軍が砲撃、乗組員を切り殺し海に投げ込んだ。
   賊兵の死体収容は賊の方割れとみなされ誰も手を出さなかったが、次郎長が死ねば官軍も
  徳川もないと遺体を集め弔った。これを契機に社会に認められるようになり、山岡鉄舟との出合い
  によって人間として成長し、新田開発、開墾、架橋、油田発掘、英語塾開設など多くの社会事業に
  携わった。 次郎長が著名なになったのは、磐城平藩士で次郎長の養子となった天田愚庵が書いた
  『東海遊侠伝』による。清水地区には、壮士の墓・次郎長生家・船宿「末廣」などの関連史跡がある。



 8. 静岡の誕生と特徴
   明治2年、府中は静岡と改称された。改称理由は不忠”に通じるので新政府に対する配慮
  からと言われるが、江戸時代に全国各地に府中が在ったので区別が付かないことが大きかったと
  思われる。 また、ただ府中と言えば駿河国府中のことを指し、幕府側に強く関わった地名は改称
  された例の一つと思われる。命名は、地元の賤機(しずはた)山に因んで「賤ノ岡」とする案から「賤」
  の字を嫌い「静岡」となったと言われる。このため幕府の直轄領が最大の藩ながら県都名「静岡」が
  県名「静岡」になった。(佐幕の豊後府中藩が大分藩と改称し県名も大分県になった例もある)
   静岡は、無役幕臣に対する失業対策を中心に殖産振興に苦労をしたが、一方で、学問教養の
  水準が高い士族が多く移り住んだことで学問教育分野が充実発展した。静岡学問所(駿府城堀南
  の追手町に址)が開設されたが、その頭取として藩名を「静岡」と提案した向山黄村が就任したほか、
  津田真道・中村正直・加藤弘之・杉 享二といった錚々たる一流の知識人が教育にあたった。
  学生は旧幕臣の子弟だけでなく誰でも就学でき、明治期における日本の教育文化の充実発展に
  大きく貢献することになった。
 

   *静岡学問所
    1858年に設立された府中学問所が前身。幕府が駿府在住の幕臣の子弟教育のため設立。
    江戸の開成所(蕃書調所)と昌平黌、横浜の仏蘭西語学校が合併して開かれた。
     主な教授陣
       
森 有礼:富国強兵に要人材育成が第一と結成した「明六社」のメンバー
       
向山黄村:昌平黌で漢学を修め、徳川昭武に随行しナポレオン3世に拝謁
       
津田真道:津山出身の幕臣、日本初の西洋法学の紹介者。法律学者
       
中村正直:幕府同心。『西国立志編』訳刊、福沢諭吉と双壁の明治六代教育者の一人
       
加藤弘之:出石藩士から幕臣。幕府開成所教授。帝国大学第二代総長
       
杉 享二:大坂適塾に学び中央へ。幕府開成所教授。日本近代統計の祖