下仁田戦争と田村堂の慰霊木像Q&A


1.なぜ下仁田戦争と呼ばれるか
     戦場である甘楽郡下仁田町(当時は下小坂村)の名前を採って
2.いつ戦ったのか
     明治の4年前、元治元年(1864)11月16日の早朝から約6時間
3.どことどこが戦ったのか
    高崎藩大河内家と水戸藩徳川家脱藩浪士及び常陸国(茨城県)農民を中心とした天狗党
4.戦争の規模はどのような状況だったのか
    人数は高崎藩201人(一番手109人、二番手92人)に対し天狗党925人
    両軍大砲や鉄砲を使用したが甲冑に身を固めた刀槍による局地戦闘
    天狗党は武士が少なく刀槍による格闘は高崎が優勢、火器の性能と戦慣れの面で天狗党が優勢

5.戦いに至った理由
 (1)水戸藩内の事情
    藩主斉昭に採り立てられた改革派の下級藩士らは「天狗党」と呼ばれ、門閥藩士の「諸生党」と藩政および
    国政に対して確執を繰り返した。自分らの意見がなかなか通らないため実力行使に出た天狗党に対し、
    幕府も放置できなくなり関東諸藩に対し追討令を出した。

 (2)天狗党の行動
    局面を打開するため、水戸藩出身の一橋慶喜(斉昭の子、後の十五代将軍)に尊皇攘夷の意を朝廷に
    訴える仲介を求め、慶喜が禁裏守衛総督として京都に居たので、京を目指して東海道を避け、下野国から
    上野国を横切り裏道を通り下仁田から信濃国へ入ろうとした。

 (3)高崎藩の事情
   幕府からの追討令は前橋、安中、館林、伊勢崎、七日市、吉井の各藩にも出されたが他藩は出陣せず、
     高崎だけ幕府命令に従う結果となった。伊勢崎、七日市、吉井は小藩、当時の前橋は川越藩の飛地と
     いった事情あり。高崎は代々幕府の中心藩で戦闘能力もあった。

6.戦争の結果
   直面する戦闘では高崎藩が勇士の武勇により優勢であったが、数度の戦闘を経験していた天狗党の奇襲も
    あって高崎軍は混乱し、天狗党の通過を許す敗戦となった。高崎は討死27人、処刑7人、退却中絶命2人
    の合計36人が戦死。 天狗党は戦場死が4人、信濃国に行ってからの死傷者が約80人余と言われ高崎の
    奮戦振りが窺われる。

7.田村堂の慰霊木像
  田村堂は清水寺をこの地へ京都から勧進した征夷大将軍坂上田村麻呂に因んだ命名。
  清水寺住職田村仙岳師が下仁田戦争戦没者の遺体を引き取り、この堂宇に木像を創造し冥福を祈り
   修めさせた。上士から従者まで従軍時の様相を写した慰霊像は他に見られない。

8.主な戦死者木像
  堤 金之亟:勝海舟に砲兵術を学び、敵の銃弾を受けた兜が遺品として残る。父は家老順美。
  本木祭之助:最年少15歳で戦死、「平敦盛に似たり」と奮戦振りを敵将に賞賛される。
  大嶋順次郎:鎌宝蔵院流槍の達人で内村鑑三は従兄弟の子。
  深井助太郎:竹林流弓術で奮戦、従軍した兄が後の高崎幼稚園園長、末弟が日銀総裁深井英五。
  内藤 儀八:小野派一刀流の藩一の強者で、大嶋、國友辰三郎と共に先陣の三勇士=B
  小泉小源治と又三郎、二木助五郎と千代之助:親子で戦死。