白河会津旅行 写真一覧

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白河小峰城にて集合写真





夕食懇談会の様子
若松城にて集合写真







松平家墓所











白河会津旅行 補足
   
白河市
人口63,606人、世帯数22,743、面積305.3km2、人口密度209人/km2、1949.4.1市制

白河藩
 下総国結城の結城朝光が源頼朝から白河庄を与えられて以来、400年間白河結城氏がこの地を治めて来たが、1590年結城義親が
 秀吉による小田原征討に参戦しなかったことに因り領地を没収され、会津の蒲生氏郷の支配下となる。1627年蒲生氏が断絶すると
 隣の棚倉から丹羽長重が10万石で入封、以後、徳川四天王の榊原・本多、徳川宗家の分家筋に当る松平3氏、新参譜代ながら5人の
 老中を輩出した阿部氏など名族大名が藩主。


 
小峰城(別称白河城)
 丹羽長重が、寛永6年(1629)から9年にかけて4年の歳月を費やし築城。阿武川の南岸に面した小峰ヶ岡と呼ばれる独立丘陵(標高370m)
 を利用して築いた、梯郭式平山城。
 現在の城址は本丸及び二の丸の約8万uだが、当時は東北本線の南側までを含む約60uの規模を有した。丘陵頂上部に本丸、東南に
 二の丸・三の丸を配し、その周囲に石垣と堀を巡らし、堅固な守りを誇る不整形な五角形を呈している(伊予宇和島城が同様)。
 慶応4年(1868)に戊辰の役で焼失。平成3年に三重櫓、同6年に前御門が、史実に基づき木造復元された。掛川・白石・大洲と共に本格
 再建天守の一つである。復元に使用された杉材は、戊辰の役の激戦地稲荷山のもので、床や柱には当時の弾痕がそのままに残っている。
  また、石垣は丹羽氏時代からのもので、藤堂高虎と共に築城の名手と言われた丹羽長重が、円を描くように積んだ石垣模様が見られる。

白河集古苑
 鎌倉時代から室町時代にかけてこの地を治めた白河結城氏の古文書類と、江戸後期の藩主阿部家に関る近世大名の名品を中心に、
 武家文化遺産が保存展示されている。「高崎歴史博物館」の参考になる施設。

南湖公園
 1801年に藩主松平定信が、新田開発と灌漑用水を目的として造らせた人造湖。四民共楽の地にしたいとのことから庶民に開放された
 わが国最古の公園と言われる。那須連峰、関山を借景とした回遊式自然公園。池泉回遊式日本庭園の「翠樂苑」には、書院造りの「松楽亭」
 や「秋水庵」 などがあり、茶会などが行なわれている。

会津若松市
 人口125,301人、世帯数48,103、面積383.03?、人口密度327?、1899.4.1市制

会津藩
 会津の地は葦名氏が20代400年に亘って支配していたが、伊達政宗によって滅ぼされた。政宗は小田原征討に遅参したため没収され、
 1590年に蒲生氏郷が42万石(後に92万石)で配され、黒川を若松と改称し会津藩が創設された。 加藤明成が無嗣改易されると、将軍家光
 の実弟保科正之が藩主となり、三代正容が松平姓を与えられ保科松平氏が9代225年間治めた。




蒲生氏郷
 会津若松の基礎を築いた。豊臣秀吉旗下のキリシタン大名で、秀吉がその実力を怖れたとのエピソードがあるほどの人物。茶道に優れ
 利休十哲。

保科正之
 将軍家光の異母弟で、信濃高遠城主保科家の養子として育つ。3代及び4代将軍の補佐役として徳川幕府に貢献。会津藩家訓十五カ条を
 定め名君 の誉れが高い。

中野竹子殉節碑
 娘子軍(後に名付けられた)の隊長格として奮戦し、ここ(神指町)で西軍の銃弾に倒れ18歳で戦死。母こうと妹優子は敵の手に渡る前に
 竹子の首を持ちかえったという。

阿弥陀寺・御三階
 かつて鶴が岡城本丸にあり、秘密の相談から移築された。境内には東軍墓地や新撰組齋藤一の墓がある。(隣が夕食の渋川問屋)
齋藤一
  新撰組三番隊長。松平容保を護るため会津で奮戦。戦後は警官として西南の役に従軍。

渋川問屋
 身欠きニシンや棒タラを扱っていた海産物問屋の大店の様子を伝える大正期の建物で、木造店舗、座敷蔵など多くの棟を有する。現在は
 会津料理の店と旅館。二・二六事件に民間人として加わり処刑された渋川善助は当家の生れ。

鶴が岡城(別称若松城)
 1384年に葦名直盛が東黒川館を築いたのが始まりと伝えられる。その後、葦名盛氏が現在の城郭の原型を築いた。1593年に蒲生氏郷が
 七層の天守を築き鶴ヶ城と改称、1611年の大地震で被害を受け、1639年に加藤明成がほぼ現在のような五層の天守に改修した。戊辰の役
 の攻防でも耐えたが明治政府の命で取り壊された。昭和40年に1.5億円で再建、平成12年には干飯櫓(一番大きい櫓で食糧庫)と南走長屋
 (武器庫)を往時の工法や技術を用いて本格的に復元、昨年旧来の鉄油の上薬をかけて焼いた赤瓦に葺き直された。その他見所は鉄門、
 麟閣、廊下橋と高石垣がある。

山本覚馬・新島八重生誕地
 覚馬は会津藩大砲頭取。戊辰の役後は失明しながらも西郷隆盛に認められ、京都府顧問、商工会議所頭取を務めた。キリスト教に共感し、
 新島襄と同志社大学の創立に尽力した。
 その妹八重は戊辰の役では男装し、連発銃をかついで城に入り立てこもる男勝りの女性で、戦後は兄を頼り京都に出て、新島と結婚。大山捨松
 らとも親交があり、新島の死後は日清・日露戦争に従軍看護婦として活躍した会津のジャンヌダルク″と呼ばれる。

大山捨松
  大山大蔵陸軍少将・健次郎東京帝大総長の妹。日本最初の女子留学生の一人。陸軍元帥大山巌夫人として、鹿鳴館の華と謳われた。

会津藩主松平家墓所
 2代から9代までの藩主及び夫人、子供の墓が立ち並ぶ。 初代正之は別地の土津神社に。仏式の2代以外は神式で、亀扶(きふ。中国の
 古事にある想像上の動物で、死者を護る。 歯も耳もあり、指も5本。)を台座とした碑石に故人の生い立ち、経歴、業績などが刻まれている。




松平容保
  尾張藩御連枝高須藩3万石から養子に入る。藩祖の教えに従い、最期まで徳川家忠誠を尽すため、火中の栗を拾うが如く京都守護職を受ける。
 孝明天皇の厚い信頼を得、最期まで宸翰を懐に抱いていた。朝敵にされたが助命さ日光東照宮の宮司を務めた。四男恒雄は駐米・英特命全権大使。
 その長女勢津子さまは秩父宮妃殿下。
  尾張14代藩主徳川慶勝(次男)、同15代藩主・一橋10代藩主徳川茂徳(5男)、桑名主・京都所司代松平定敬(8男)と共に、高須四兄弟の一人。

会津武家屋敷
 7000坪の敷地内に西郷頼母屋敷などを復元した武家の生活を知る観光施設。

御薬園
 葦名氏10代盛久が別荘としたのが始まり。16代盛氏が荒廃した別荘を復興、保科正之が再建保養所とし、3代藩主正容が薬草を栽培したことから
 この名前が付けられた。

藩校日新館
 会津藩中興の祖5代容頌が、城の西隣に1798年から5年かけて建設。建設資金の大半は呉服商須田新九郎が負担。花色紐組(上士)以上の藩士の
 子弟は全て入学が義務付けられた。1987年この場所に復元された。