名古屋方面研修の補足


名古屋市
 愛知県西部(尾張地方)の政令指定都市で、同県の県庁所在地である。全16区から構成される。
  人口:2,262,176人、世帯数:1,025,668世帯、面積:
326.43km2、人口密度:6 ,945人/km2
  明治22年(1889年)10月1日市制施行

 横浜市・大阪市に次ぐ全国第3位の人口を有し、東京と京都の間に位置し中京とも呼ばれる



犬山城(白帝城) 現存天守

 ・築城者・年代・築城目的
   織田信長の父信秀の弟信康が、天文6年(1537)に丘続きの三光寺山に築城。
   慶長5年(1600)に石川光吉により今の規模に。
   平岩親吉を経て尾張徳川家付け家老成瀬正成が入り以後名古屋城の支城となる。
 ・特徴
  現存天守のうちで最も古い天守建築を伝える一つ″
   昭和40年の解体修理により、国宝指定の根拠とされた現存最古の天守建築遺構が否定された。
   根拠である金山城天守の移築形跡はなく現地造営だが造営年代は不明。
   三、四階は江戸時代初期に造られたことが判明している。
   (丸岡城が現存する最古の天守建築。昭和23年(1948)の福井大地震で天守が崩れ、崩壊した
    木材を用いて組み直した建物のため国宝になっていない)
 ・城郭
   本丸が最北に置かれ、その後を木曽川が守る「後堅固の城」と呼ばれる。南側正面に杉の丸・樅の丸・
   桐の丸・松の丸と雛壇の様に置く階郭式。空堀を隔てて三の丸、外郭が囲む。大小13基の櫓と22の
   城門が配備され、一二三段形式と呼ばれる。(注)丸=郭
 ・天守の構造
   正面に付櫓を出張らせた複合式天守があり地階の踊り場を含めると内部六重、外観三層。
   一階と二階はほぼ同一の大きさで九間×八間。一階も二階も武者走りがめぐる。
   西南の「上段の間」は、十二畳敷きで床の間が設けられ籠城のとき城主の居所。
   二階「武具の間」は、籠城戦に備えて武具や武器を格納した部屋、具足を並べた棚あり。
   三階は三間×四間。南北に「唐破風の間」が突出し、大入母屋の中に設けられた形。
   四階は高欄の付いた廻り縁を外壁に巡らす望楼。扉の両側に装飾用の華灯窓があり、白亜漆喰を塗り
   込まずに柱や軸部を素朴のまま残す真壁造り。丸岡城天守と同様。



小牧城 模擬天守

 ・築城者・年代・築城目的
   永禄6年(1563)織田信長が美濃侵略の拠点とするため、丹羽長秀を奉行として築城し清州から家臣他を
   移住させ城下町を形成した。永禄10年、美濃稲葉山城を落城させ岐阜城に移ったため4年間で役目を終えた。
 ・特徴
   廃城後、天正12年(1584)徳川家康が小牧長久手の戦いで自分の陣とした。
   1967年に実業家平松茂氏が個人で西本願寺の飛雲閣(伝聚楽第)を模して建設し、小牧市に贈呈し
   「小牧市歴史館」になっている。
 ・城郭
   小牧山全体約21haが城域で、曲輪数は38、大手から城の中心まで1100m(箕輪城は800m、春日山城は2000m)
   もある戦国山城。



清洲城(清須城) 模擬天守

 ・築城者・年代・築城目的
   応永12年(1405)尾張・遠江・越前の守護管領斯波義重が築城。文明10年(1478)守護所が移転してから尾張国
   の中心地となり、清洲織田氏の居城として尾張下四郡を支配する守護代織田氏の本城となる。織田信秀が古渡城に
   拠点を移すと織田信友が入城したが、弘治元年(1555)織田信長と結んだ織田信光によって信友が殺害され、以後
   信長が那古野(なごや)城から移って大改修を加え、小牧山城へ移る迄10年間居城とした。
 ・歴代城主
   本能寺の変で信長が死去し後継者を決める清洲会議で城は信雄が相続。小田原征伐後秀吉野国替命令に逆らい
   徐封され豊臣英次の所領に組み込まれる。文禄4年(1595)に福島正則の居城に。正則が安芸へ転封後家康の四男
   松平忠吉が入るが、病没すると九男義直が入城し清州藩の本拠地となる。慶長14年(1609)家康の命令で那古野に
   築城された名古屋城へ移転し堂18年に廃城となった。
 ・遺構
   清洲城天守の資材を転用して造った名古屋城の西北隅櫓は清須櫓と呼ばれる。



名古屋城 外観復元天守

 ・築城者・年代・築城目的
   慶長15年(1610)徳川義直の居城構築の名目のもと、江戸・駿府を後詰とする東海道における大坂への押さえとして
   家康が着工。築城は天下譜晋″と呼ばれ西国大名20家(総石高643万石)が割譜晋を受け持った。天守台石垣は
   独力で行なうことを願い出た加藤清正の名前が、大小天守台石垣に刻まれている。
 ・城郭
   慶長18年に三の丸工事が始まったが、大坂冬の陣で工事は中断し、夏の陣が終わると総構構築の意味がなくなり
   未完成のままとなった。
   現在の天守は昭和20年の空襲で消滅し、同34年に鉄筋コンクリートで再建された。
   天守は5層5階地下1階、2層2階の小天守が連なる連結式天守。
   高さは55.6m、1・2階が同じ広さのため床面積は日本一で4424.5u
   22ある唐破風、千鳥破風が美観を構成している。
   11あった櫓のうち西北・西南・東南の隅櫓は焼失等をまぬがれ国の重要文化財。
   表二之門、旧二之丸東二之門、二之丸大手二之門も重要文化財
 ・特徴
   本丸も二の丸も南側の正面が空堀。背後は広大な湿地帯と水堀のため背後から攻められる危険性がないため、
   敵を正面に集中させて戦う。
   本丸と二の丸に殿舎がある。本丸の上洛殿は将軍が上洛する折の居城とする奥向御殿がある。二の丸御殿は尾張
   徳川家が用いた御殿で尾張藩の政庁。
   天下普請で譜晋現場へ石材を搬入する際に他家との混乱を避けるため、搬入前に大名家名と持ち場を示すため付
   けた目印の刻印や符牒が残っている。