【 マリリン・モンロー,ネバダ砂漠 6】
今日は定期検診の日だった。医師の問診の後、採血をした。試験管のようなものに三本。真空の力で血は勢いよく管内にほとばしる。ほぉー。看護婦に言われてその血を検査室に自分で運ぶ。あたたかい。血はあたたかい。知らなかった。
> 十条銀座で用事をすませ、駅前まで来た時だった。
> 防寒着に毛糸の帽子をかぶり、ちょっと夕食前の
>散歩に出たという風情で前を歩いていた初老の男が、
>踊るような足取りになり、バンザイみたいに両腕を
>上げてのけぞった。あれ? 何してるんだ、と思う間
>にそのまま後ろへどうと倒れた。頭蓋骨が人工石の
>歩道を打つ大きな音がした。
> 「もしもし、もしもしッ。大丈夫ですかッ」
> 反応はない。光も動きも消えた黒目だけのような
>両眼が、夜空に向かってうつろに開いているばかり
>だ。
> 「大丈夫でしょうか」。思わず不安をもらすと、
>隣にいた勤め人ふうの男が即答した。「ダメでしょ
>う、もう」。脈も取らず、呼吸も調べず、見下ろし
>ただけでどうしてそんなことが言えるんだ。通りか
>かった人に交番を聞いて、走った。
韓国をひとり旅した時、ソウルの地下鉄で、車内からぼんやり発車を待っていた。すると、ホームの階段近くにいた格幅のいいサラリーマンが、突然後ろ向きに階段の方へ倒れた。ゴンゴンゴンと、後頭部を打ちながら、滑り落ちていった。それを目撃した乗客やホームの人々はしばらくの間、あっけに取られて見ていた。男は低く唸りながら妙に深い目をして天井をみていた。
学生の頃、下宿へ向かう暗い路地をゆくと、すぐ前を紙袋を下げた影のような浮浪者がふらふら歩いていた。電信柱のゴミ集積所まで来て、その男はいきなり横向きに倒れた。鈍く骨のあたる音がした。それからひと事の様に「おおお・・」と唸ってゴミの中から立ち上がった。よろけながらも、こちらの存在を無視して、静かに立ち去った。まだ若い男だった。
ひとりで壊れる人に惹かれる。象の墓場のようなもの。そんなものが人間にあればいいと思う。世界中の人がそこに集まる。みんな壊れて、必然としての死を見据えている。連帯はしない。強制もされない。ただ「自分の死」を自分で「死ぬ」という最後の自由と誇りを共有している。苦痛は苦痛のまま、欠落は欠落のまま、断念は断念のまま、あるがまま。さっぱりと、もうどこへもゆかない。ただくっきりと自分が見える。そういう場所があればいい。
さて件(くだん)の記事は続きがある。ヒューマニスト優等生のこの記者が知らずして笑い飛ばされている。
> 電車が着いて、路上の男は人垣に囲まれた。たく
>さんの顔が無表情にいっとき見物しては過ぎた。傍
>らにしゃがんで彼の手首を握っていた若い男性が、
>「息はしてる」と警官に告げた。警官は男の様子を
>子細に無線で報告し、脱げ落ちている帽子を頭の下
>にあてがってやって、「酒のにおいあり」とつけ加
>えた。救急車を呼ぶことになった。
> やがて彼は正気に返ったようだ。警官が名や住所
>を何度も聞くのにいらだたしげに答え、見物の中に
>知った顔を見つけて手を振ったりした。地元の人ら
>しい。
> ピーポーピーポとサイレンが近づいて、私もやっ
>と放免された。「お大事に、○○さん」といま聞い
>た名を呼ぶと、「エ、なんでオレの名前を知ってん
>だよ」。彼は心外千万という面持ちで救急車の人と
>なった。
> ほっとするより寒々とした後味が尾を引いている。
>「ダメでしょう、もう」。半月もたつのに、あの事
>もなげな一言がヒヤリ、ヒヤリとよみがえる。
(朝日新聞 2/10夕刊 「街角」)
「ダメでしょう、もう」と冷酷に断定して立ち去ろうとしたサラリーマンよりも、人命救助のために駆けずり回った新聞記者よりも、オレのことは放っとけと苛立ち、知り合いにだけ愛想良く手を振った、この聖なる酔っぱらい親父に幸いあれだ。
1996-02-17
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