■甍ヶ淵駅第2展示室

21.1.17 更新

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三河線1994〜2004(例外あり)

1994年以降の約10年間、三河線は5300系、7700系などのSR車、6000系、新鋭のVVVF車3500系、リバイバル色5500系、パト電(未撮影)の他、非電化区間用のDCも走り、バラエティーに富んでいました。
 しかし、2004年3月末で両端の非電化区間が廃止、2005年1月ダイヤ改正で本線直通急行の事実上の廃止、5500系の引退、全線ワンマン化により、通常は7100、7700系、6000系(一部区間100系)だけになってしまいました。さらに、7100系、7700系も2009〜2010年にかけて全廃となり、一層の画一化が進みました。

以下、この章に掲載した写真はどれも再び撮ることができなくなっています。その変化の大きさに改めて驚かされます。

 21.1.17久しぶりの更新では非電化区間用のレールバス、LEカーを掲載します。レールバス、キハ10形は1985年の撮影ですが、気動車の関連より、例外的に本展示室で扱います。

三河線デビュー間もないキハ10 new
西中金−猿投がレールバス化されて間もない頃

碧電開設20年にして、レールバス、キハ10形が未掲載のままでした。同形が三河線の猿投−西中金でデビューしたのは1985.3.14のこと。私は大学の卒業目前でした。残務処理が忙しく、両親に卒業証書を見せに帰ることができたのは月末の数日でした。限られた時間の中、デビューしたばかりの同形は撮りに行きました。
 しかし、簡易な構造ゆえ、長持ちはせず、1995年には廃車となりました。向かって左側のキハ15はくりはら田園鉄道に移籍してKD11号となり、同線の廃止後も保存されています。

電化区間をゆくキハ20+キハ10 new
電車に伍してLEカー+2軸のレールバスも運行された

碧南−吉良吉田間で運用される気動車は朝の2運用時間帯が終わると1本が猿投の検車区へ戻りました。この日は特別運行の3400系(創業100周年記念)の次の列車がこれでした。編成の後ろ側は2軸車のキハ11号。窓が開いていることから、非冷房であったことがわかります。
 後打ちではまともに撮れないポイントで、「しまった」と思ったように記憶しています。当時は2軸車が翌年には引退するとは思わず、残念ながら2軸車側の写真を残すことができませんでした。

海線非電化区間のキハ20
早朝に運転されるキハ20形の2連。

2004.3.31限りの廃止された吉良吉田−碧南は日中主にキハ30形の単行でしたが、早朝にはキハ20形の2連もあり、三河平坂でキハ30単行との交換が見られました。この付近で線路は袋状に180度方向を変え、信号がなかった昔は三河旭駅で乗り遅れても自転車で短絡すれば碧南駅で追い付けたという話もあります。

「甦る55」顔合わせ
5517F(左)と5513Fが三河線重原で顔合わせ。

2003.10.30の夜知立に入った5517Fが翌日以降計5連泊し、三河線関連の運用に充当されました。11月3日には5513Fが碧南-弥富の急行に充当され、三河線内で顔を並べる光景が見られました。あいにく終日雨になりましたが、重原駅では自分を含め6名のファンがカメラを向けました。
 この日は他に小垣江、新川町でも顔合わせが見られたはずです。

7700系の弥富行き
碧南-弥富の直通急行運用に入った7700系の4連

碧南-弥富の直通急行には非ワンマンの5500系または5300系の2連×2の運用がありましたが、これに7700系が使われることがしばしばありました。座席指定特急時代のシートを備えた7700系の急行は乗り得な列車でした。

海線送り込みのキハ20
知立で6000系と並ぶ海線送り込みのキハ20×2

朝は2本運転となる碧南−吉良吉田間へ送り込む気動車は2182Dとして碧南まで営業運転を行っていました。この時間になると空いていて、キハ20の2連でも十分です。吉良吉田連絡碧南行きのサボは気動車ながらも電化区間の碧南で終点になり、他車に乗り換えなくてはならないことを意味しており、一見ちょっと不思議なものでした。

高浜川を渡る5515F
高浜川を渡る5515F。白帯が入ってから初めて三河線で撮影できました。

2003年9月下旬に白帯が入って以来、予備や代走運用が多かった5515Fは12月初めくらいから本格的に定期列車に充当されるようになり、三河線へも頻繁に姿を見せるようになりました。中でも2003.12.11夜から15日朝まで知立に停泊し、三河線主体の運用に充当されました。さらに、12.14には残る5500系2本が碧南−弥富急行に充当され、5500系3本が三河線に集結しました。

複線区間をゆくキハ30単行
休日ダイヤでも時々キハ30の単行が運転される。立ち客が出る混雑ぶり

休日は非電化区間内、朝の運用を終えたキハ20×2が983Dで猿投へ帰る運用でした。しかし、時々キハ30の単行になることがありました。因みにこの日キハ20×2は日中も碧南−吉良吉田で運用されていたようです。電車4連の次は軽快DC単行で輸送力の差は歴然。立ち客が出る混雑でした。
 同車は名鉄を退役後、ミャンマーへ渡りました。

三河線の救世主?
JRの新快速に乗客を奪われないようにグレードアップ車両として投入された1800系

東海道本線で快速、新快速が増発され、速達化が図られるようになると名古屋方面への乗客がJRに流出するようになりました。それに危機感を持った名鉄は車両のグレードアップを図るためパノラマスーパー増結車、1800、1850系を投入しました。しかし、特急運用を外れた7700系が多数走るようになったことのみならず、全線ワンマン運転となってからは見られなくなりました。

4連固定の5500系
三河線には5500系4連も入線していた。

碧電には今まで高浜市内で撮影した写真がなく、心苦しく思っていました。では、という訳で油ヶ淵の下流にある高浜川橋梁へ撮影に行きました。右奥にある煉瓦造りの煙突は昔このあたりではよく見られたものです。
 このモ5503〜の編成は2002.5.2に営業運転を終えてその日のうちに舞木検車場へ入場し、3週間後には名電築港で解体されてしまいました。

7700系元特急車
白帯の7700系も思い出に。

高浜川の鉄橋は夏期の午後遅くになると下流側の光線状態がよくなってきます。7700系はワンマン運転対応車に指定され、南部でも頻繁に見られました。特急仕様を表していた白帯入りの車両は帯が順次消され、4両が白帯で統一された編成はアップした時点で既に思い出になっていました。
 因みにこの鉄橋、複線にする計画があったのでしょうか?

電化区間をゆく軽快気動車
碧南-吉良吉田間で運用されるLEカーは車両差替えのために電化区間でも営業運転を行っていた。

碧南→知立、知立→猿投の2列車扱いで営業運転をしながら猿投へ帰っていました。キハ20形の2連の場合のほか、キハ30形の単行の場合がありました。非電化区間の廃止に伴い、電化区間をゆくLEカーも2004年3月限りとなりました。
 撮影時は既に当サイトの開設準備を開始しており、このポイントを訪れたのは実に20年ぶりでした。

北新川の踏切
ちょっと変わった踏切を渡る5500系4連

高浜川鉄橋での撮影の帰り、北新川でちょっと珍しい踏切を見つけました。交差点のど真ん中を線路が横断しており、交通信号機と連動した警報機は点滅灯がないのっぺらぼうです。(音は出る)上のLEDは「列車通過中」と表示しています。
 そしてもう1つ、この5500系は右側通行をしているのがおわかりでしょうか。三河線には右側通行の駅が他にもあります。(第3展示室参照)

三河八橋付近の高架事業完成

工事が行われていた三河線三河八橋付近の高架工事が完成し、09.12.12の始発から切り替えが行われました。前日の帰宅が遅かったため、当日はゆっくり家を出て、現地へ行ってみました。これが三河線かと思えるほど立派な線路、駅になりましたが、完成を祝う看板、装飾などは見つけられません。当初の期限を過ぎてもラッピングを維持しているエコムーブトレインを使って発車式でもするのでは?と期待しましたが、甘かったようです。ヘッドマークの取り付けも確認できずで、寂しい開通となりました。

6000系知立行が発車
三河八橋を発車した6000系の知立行

知立方は複線のまま降下し、地上に降りるところで単線になりますが、出発信号機を新たに設けてはいないため、複線としては機能しません。

豊田市側の状況
豊田市側はすぐ単線に。

反対側の豊田市側は高架橋は複線で建設されたものの、すぐに単線となります。接触限界標識がだいぶ先にあるため、豊田線の100系6連が来てもはみ出さずに停まれるものと思われます。
 先の方に見える高架道路は伊勢湾岸道路。三河線の下は県道名古屋岡崎線で、3層になっています。

旧線の架線撤去作業
仮線の架線撤去作業を行うため白昼移動中の陸軌車

役目を終えた仮線は早速架線の撤去が始まっており、日中はあまり動くところを見られないこんなものが見られました。


第1展示室(1977〜1983の三河線)へ

第1展示室分室(三河線の貨物列車他情報募集)へ

第2a展示室(三河線珍客集)へ

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