当ページをご覧になった入山雅彦さんからの質問とお寄せいただいた情報はこちらにまとめていきたいと思います。皆様のご協力をよろしくお願いいたします。
私は社会人になるまで上信電鉄沿線の群馬県富岡市在住で、鉄道とは全くの無縁の状態でした。小学5年の頃見た京浜急行のモーターカーや電動貨車に感銘を受け、その頃から名古屋鉄道の車両にも関心を持つようになりました。
名鉄電車の実物は中学1年の4月から見た中学生日記で見ました。当時名鉄では釣掛車が高速や急行電車に大活躍をしていた時代で、この番組を見ると必ず聞こえる独特の鐘式踏切音や登場するAL車やHL車に強い憧れを抱き、毎回欠かさず見ていました。名鉄の3790型、3881型などの旧型車は中学生から高校生の時、乗りたいと何回も両親にお願いしましたが受け入れられず、後6から10年早く生まれてれば良かったと何回も思いました。
もし当時成人していれば、当然写真や概要を記憶として残していたでしょう。しかし今となってはタイムマシンでその当時に戻るしか方法はありません。東武や名鉄の貨車や貨物列車の事を雑誌で見ても見あたりません。この事を知ることは私の中学生の時からの夢です。よろしくお願いいたします。
1.名鉄電車はいつごろから、発車する時、電鈴を鳴らすようになったのか。
2.3880型(元東急)、3790型(元東濃)は名鉄で使用開始する前に電鈴を取り付けていたのか。
3.三河線など支線区に6000系列が運用されるようになったのはいつか。(昭和57年当時、三河線に定期的に入線していたか。)
4.三河線の貨物列車は、どのような物資を運んだか。
5.三河線以外の線の貨物列車についてどんな些細の事でもよろしいですからご教示ください。
入山さんの調査による名鉄貨物(名鉄と東武の意外な関係)
ご存知のことがありましたら碧電伝言板(BBS)へ書き込みをお願いします。
西三河鉄道局様よりお預かりしていました1975〜76年にかけて撮影された三河線貨物列車、貨物取り扱い施設のようすを公開いたします。(06.3.16)
また、掲示板へ刈谷駅で三河線貨物の入換作業にも従事されていたヒデヨシさんからいただいたコメントを追記しました。(08.7.27)(碧)
管理人様はじめまして。数年前から楽しく拝見させていただいております。特に三河線やその貨物の写真などは興味深いなと思っています。と、申しますのは昭和52年から57年まで国鉄刈谷駅に勤務していました。52年は駅務掛でしたが53年からは輸送本部(構内)で構内掛として貨物入換に従事していました。もちろん三河線の貨物の入換も仕事です。
当時輸送本部に移動した時は三河線(海側)の貨物廃止後で山側のみ残っていた状態でしたがまだまだ扱い量は多かったですね。
というより刈谷駅自体の貨物量も半端ではないくらい多かったですけど、三河線に入る貨物の品目はほとんど判りませんがトラはほとんどがPC枕木でしたね。ワムは季節物ですがうるち玄米が多かったと記憶しています。
そうそう。三河線はワラが入線禁止なので遠方から来た社線への貨車で間違えてワラだった場合は刈谷駅にてワムに載せ変えて三河線に入っていっていました。また三河線ホームの運転取り扱い(通票)及び南口出改札は国鉄が委託されてやっていました。
またお邪魔しますので宜しくお願いいたします 【2月18日(土) 12時6分】
ヒデヨシさん、ようこそお越し下さいました。現業機関にお勤めだった方にもご覧いただいているとのこと、たいへん光栄に思います。
私は刈谷育ちですので、貨車やDEのデッキで旗を振られるお姿を拝見していたかも知れませんね。
三河線貨物に関して興味深いお話をありがとうございます。ワラが入線禁止だからとワムに積み替えまで行われていたとは驚きです。軸重の関係と思われますが、積み荷が変わるわけではないので、ワムの許容積載荷重以下であれば問題ないように思うのですが、やはり規定は規定。その勤勉さは日本人ならではのことでしょうか。
三河線に関しては貨物列車、タブレット交換などまだまだ謎がたくさんあります。またご存知のところをお聞かせいただけましたら幸いです。 (碧)
タブレット交換といえば1度だけ7000系が入線してきたことがありました。車両の都合だったみたいですがかなり通票の交換が大変でしたよ。それとワラは車両限界の関係だと思います、トラは18tまでいけますので・・・。でも支障するとは思えませんけどねえ 。
【06年2月19日(日) 10時2分】
三河海線にも7000系が入っていたのですか。一時期、山線の豊田市までは正規の運用で入っていたとは聞いたことがありますが、海線にも入線実績があったとは驚きました。しかも突発的な運用だったのですね。
パノデラは入線実績があり、私も撮影するチャンスがありましたが、7000系は西尾線ですらまともな写真を残すことができませんでした。名鉄の計画によれば7000系の全廃まであと5年くらいでしょうか。行きつけの撮影ポイントで一度パノラマカーを迎えてみたいものです。(碧)
ヒデヨシ様大変貴重な情報、誠に感謝いたします。三河線の主要貨物がPC桁と粳玄米だとは大変驚きました。
Pc枕木は名古屋市交通局宛の輸送でしょうか、又可能性といたしまして、東武佐野線線上白石貨物駅から東武鉄道の社紋をつけたトラ車で輸送された事もあったかも知れません(栃木県の上白石貨物駅には大規模なコンクリート工場がありました)三河山線は前から、粘土瓦、珪砂、珪石、不定形耐火材、陶磁器、陶土等が主体と思っておりましたが、意外でした。三河線の貨物輸送で考えられるのが、沿線のトヨタ系の工場で使用される、薄、圧鋼板、ブリキ、合成ゴム、鋼コイルですが、これらワム車からワラ車に移し変えるとなると、大変な重労働だと思います。 【06年2月24日(金) 】
謹賀新年 明けまして おめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。
早速ですが、新川町の車票拝見いたしました。まさか白土が国鉄の無蓋車使用のバラ積みの定型輸送ではなくワラ車使用の袋詰めの定型輸送が存在した自体大変驚きであります。もしかしたら、三河広瀬駅から産出される陶土も袋詰めの状態でワラ車により輸送された可能性もあります。こうなれば三河線に多数のワラ車が入線していた事実も説明ができます。
さて白土と言う鉱石類は知っておりますが、実見したした事はありません かつて白土を始め珪石、珪砂、陶石、陶土、硫化鉱、石灰石他鉱石類や電気鉛、鉄鋼、機械等金属製品、石灰類セメント、肥料、飼料、ビール、醤油、味噌他工業製品原料、硫酸、塩酸等工業用薬品、玄米他農業品は旧国鉄の貨物輸送の主要品目であり今の鉄道貨物のようにコンテナ、ガソリン輸送はあまり目立たなかったです。
しかし昭和50年代に入るとこれらは、トラック輸送に少しずつに転換していき、昭和59年2月1日の国鉄のダイヤ改正から分割民営化までの間に急激にトラック輸送に切り替わりました。
JR貨物になってからは有蓋車や無蓋車、化成品タンク車は珍しい存在になり、変わってコンテナ車やガソリンタンク車が目立つようになりました。このように国鉄からJRになるまでのわずか6年間の貨物輸送の急速な合理化の中で名鉄の貨物輸送も全廃いたしました。
その貨物輸送の概要を私は今大変知りたいです。写真や情報を提供してもらった新川町の車票や臨港線の事は、名鉄の貨物輸送の謎を解明する上で重要な手がかりになりました誠に感謝いたします。
さて新川町の臨港線に入線した秩父鉄道のワラ車は恐らく、セメント原料の一つである袋詰めの酸化鉄粉や石膏の輸送に使われていたと思います。臨港線では住友セメント岐阜工場宛のセメント原料の貨物を取り扱っておりましたから、その可能性はあります。【2006/01/15 19:25:11】
粘土は採掘してそのまま使えるのではなく、乾燥させて粉砕することによって均質化するようです。乾燥させたものを輸送するとすれば、「濡れては困る品物」として袋詰めで無蓋車に積まれたのかも知れません。(碧)
以前より探しておりました新川町臨港線の車票をようやく発見しました。白石よりの白土。貨物運行最終日に係員からもらった物ですが、5月21日になっています。車票の読み方は知りませんが発送日でしょうか?(05.11.9)
東北から三河線の新川町に貨車が来ていた。動かぬ証拠ですね。当時は操車場で組成を変えながら走ってくるのが普通でしたので、到着まで3日かかっても不思議ではないかも知れません。(碧)
(貨車系のサイトでは盗難が後を絶たない車票の扱いに慎重な姿勢を取られているところがありますが、世知辛い今の世の中とは違い、「こんなものが欲しいのかい?持ってきなよ。」で済んだ時代のものですので、掲載いたしました。)
BBSで書かれていたポムの件ですが微かにポム?162と読める写真が有りました。一番刈谷寄りの車両です。刈谷駅仮常備?と読んで良いのでしょうか?
また、二重線の入った貨車は拡大してみると、名鉄のものではなく、秩父鉄道のものであることがわかりました。
名鉄に秩父鉄道の貨車が入っていたのですか。意外に思うと共に不思議なつながりに驚かされます。陶器が主要な輸送品目であった三河線にポムが入っていたのはなるほど納得ですね。(碧)
こんばんは。大変ご無沙汰しております。名鉄の貨物列車の新川臨港線の貨物列車や碧南市内の取り扱い貨物、日比野駅での貨物取り扱いのページ拝見いたしました。大変に感銘いたしました。TADY BEAR様、吉野様、心から感謝いたします。大変ありがとうございます。 私ごときの者の中学生の時からの不可能の夢を実現するため、多くの皆様に大変ご迷惑をかけてしまい又仕事等で多忙の為、感想を述べるのも大変遅れてしまい心からお詫び申し上げます。どうもすいませんでした。さて名鉄三河南線の新川貨物駅は衣浦臨海鉄道の開通によりその使命を終えました。新川貨物駅では、廃止される直前まで鉄道雑誌等で調査いたしましたが、千葉県の館山駅より練炭火鉢の原料?となる白土の定型輸送が存在しました。他に三河北線では主に珪石、珪砂、陶石、耐火粘土、亜炭、三州瓦、不定形耐火物、肥料、飼料、玄米、薩摩芋等を輸送しておりました。(2005/10/12 20:37:07)
質問者として、毎回忘れずにお礼の書き込みをいただきましてありがとうございます。大切な心掛けであると思います。ただ、感銘を受けられたのならばどんな点についてか。また、どんなことに驚いたか、役に立ったことなどもぜひお聞かせいただけますと幸いです。ご投稿して下さった方もより具体的な感想を聞けた方が喜ばれるのではないかと思います。
なお、以前の書き込みと重複する点など、管理人判断で一部割愛させていただきました。(碧)
お邪魔いたします。謎の多い三河(山)線の貨物ですが、友人宅の蔵書の中に70年代(正確な年数および号数不明)の鉄道ジャーナル誌上に添乗ルポがありました!
記憶が正しければ、枝下留めの貨車は、
1 刈谷方から到着時、手前の本線上で停車。
2 貨車を切り離し。
3 機関車+広瀬行き貨車は本線へ移動。
4 ポイント切り替え後、枝下留め貨車は後機関車の推進で側線へ。(プッシュプルでない場合は?手押しでしょうか??)
5 後機関車を本線へ戻し、列車へ連結後三河広瀬へ出発。
うろ覚えなので、もしかしたら間違いがあるかも知れません。もう一度、友人宅で確認ができればよいのですが、何年の何号かわからない上、ちょうど改築中で蔵書類もすべて貸し倉庫の中ではなんともなりませんので・・・。どなたかお手持ちのジャーナル誌に該当しそうな号をお持ちでしたらご確認願います(笑)。
刈谷〜三河広瀬〜三河知立のルポでしたので、広瀬での入れ替えの答えもわかると思うのですが、枝下の印象が強くて、広瀬のほうは覚えておりません(笑)。謎解きのきっかけになればと思いましたので、不確実な情報ではありますが書き込みをさせていただきます。(2005/09/12 23:49:35)
御無沙汰しております。情報をありがとうございます。そうでしたね。過去の鉄J誌では同誌ならではの添乗ルポが掲載されたことがあるのですね。私も以前聞いて見たいとは思っているのですが、今もチャンスがありません。現段階では枝下到着車は下り列車が到着した段階で切り離されていたのは確かなようですね。おっしゃるとおり、プッシュプル編成の方が入換作業の自由度は高まります。(碧)
こんばんは、お邪魔します。先日書き込みした枝下駅の入換えの件ですが、掲載されていたRJ誌を確認できました。79年11月号です。 早速読み返してみると・・・人間の記憶はいかに当てにならないものかと(笑)。 RJ誌のルポによると、刈谷発三河広瀬行きの43列車。刈谷から三河知立まではプッシュプル、三河知立で到着貨車と後方機関車を切り離し。枝下では駅手前で停車後、到着貨車を切り離して機関車はホーム(本線)へ、貨車はポイント切り替え後、5‰の勾配を利用(!)して側線へ・・・というのが正解でした。 なお枝下駅のポイントは三河広瀬の駅員氏が貨物到着前にやってきて、作業終了後は43列車に添乗して戻り、広瀬駅手前で停車後、降りてポイントを操作、機関車を側線へ誘導して入換え作業に当たるようです。 三河広瀬では大がかりな入換えをするとのことですが、具体的な記述がない為よく判りませんでした。 当時、重原〜豊田市は自動閉塞でそれ以外の区間はタブレットを交換しており重原にも駅員がいたということもわかりました。 (2005/09/17 23:26:40)
思ったより早く当該RJ誌に有り付かれたのですね。私も早く真相を知ることができて嬉しく思います。
もう新川町の臨港線のページはご覧いただいたでしょうか。そこには私が仮に名付けた「牽放」という作業が出てきます。私は枝下でもこれが行われていたのではないかと読んでいました。それがなんと、自然勾配を利用してわざと転動をさせていたとは・・・。これほど原始的な手法が26年前に行われていたことには驚かされます。
さて、RJ誌の年月をお知らせいただき、お陰様で「鉄道図書館」(大阪環状線野田駅前にありましたが、閉鎖されてしまったようです)で閲覧することができました。ただのんびり走っていたと思っていた貨物列車がしきりに発せられる喚呼から、運転中は緊張の連続であったことに驚きました。農家のお年寄り(?)が平気で直前横断をしたり、線路状態の悪さから来る横揺れ、周囲に鳴り響くデキのホイッスルなど、当時の三河線の情景が思い浮かびました。(碧)
図書館で地元の資料を閲覧してきました。地元の資料などはもっと充実していると思ったのですが、2点ほどしか貨物に関する資料は見つかりませんでした。
まず、「衣浦臨海工業地帯における碧南工業開発計画書」の中に碧南市の主要企業における物資流動図というものがありまして、鉄道 トラック 船舶の図がありますが、鉄道貨物のみ記述してみると、
取扱駅 | 到着品目 | 輸送量 | 発駅(方面) | 会社名 | 発送品目 | 着駅(方面) | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
碧南 | 銑鉄 | 120t | (岩手) | 旭鉄工 | カットワイヤー ショットブラスト用 | 山口40t、静岡40t | |
鍛冶関鉄工所 | 九州10%近畿15%岐阜20%関東11.5%北海道1%東北15% | ||||||
碧南 | 鋼線 | (栃木) | 三州電線 | ||||
碧海工機 | 東京34トン | ||||||
碧南 | 銑鉄 | 4000t | (名古屋) | 太田鋳造所 | 船舶ウインチ | (九州)30台110t | |
石灰石 | 120t | (岐阜) | (四国)40台150t | ||||
耐火煉瓦 | 80t | (岡山) | |||||
棚尾 | 銑鉄 | 360t | 福岡 | 小笠原鋳造所本社工場 | 銑鉄鋳物 | 天童駅600t | |
720t | 岩手 | 川越駅120t | |||||
コークス | 360t | 福岡 | 龍野駅120t | ||||
銑鉄 | 360t | 安芸西条 | 小笠原鋳造所第2工場 | ||||
八幡駅 | |||||||
釜石駅 | |||||||
コークス | 黒崎 | ||||||
碧南 | 鉄ダラ粉 | 吉原駅 | 黒田鋳造所 | 上下水道付属製品 | 汐留駅 | ||
500t | 万代駅 | ||||||
800t | 福山駅 | ||||||
鋼屑 | 尼崎駅 |
以上が、主要企業の貨物の動きで間違いはないと思います。ただ陶器などの中小企業の貨物も相当量あったと思われます。ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 碧南 でも大浜港駅停車場構内に積んである陶製のみりん瓶の山 の写真があります(今でもみりんは碧南の名産のひとつです。)この計画書には、衣浦臨海鉄道の計画等も書いてあります。(何とバラ色の未来!)
つぎに 碧南の統計 に昭和23〜51年度駅別三河線貨物輸送 発送到着トン数が載っていました。ここの注釈に、昭和24〜26 臨海線新川口の貨物量が統計に含まれるので各駅の統計と一致しない とありますが、新しい駅名新川口が出てきました。いろいろ調べてみました所、1915年三河鉄道新川町〜新川口開通 1955年新川口廃止ということが分かりました。生まれる前の事ですし、たぶん貨物駅の事なので地元の人も知らないようです。図書館で調べた新川史にも載っていませんでした。
推測ですが航空写真の青丸の部分の操車場から左下に向かって曲ったところがちょうど新川の河口にあたるので そのあたりが新川口にあたるのではないかと予測します。
古い地図で左下に線路が伸びている地図は見たことがあります(新川口の記述はあり
ませんでした)この件に関しては引き続き調べてみようと思います。(2005/09/08 22:05:46)
たいへん興味深い資料をありがとうございます。わざわざ図書館まで足をお運びいただいたとのこと、感謝申し上げます。表に示された貨物は鉄を材料とした加工品が主のようですね。衣浦臨海鉄道碧南線の建設は三河線貨物の輸送力不足と企業誘致によって将来の輸送量増大を見越して実施されたものと思いますが、三河線時代からの積み荷が全てなくなってしまった(と言って差し支えない)のは残念です。(碧)
TADY BEARさんから新川町臨港線のたいへん貴重な写真を提供いただきました。
新川町臨港線の貨物列車(TADY BEARさん撮影)
こんばんは。 入山さんの書き込みにあった、名鉄尾西線日比野駅の取り扱い貨物ですが、駅に隣接して紡績工場がありました。駅から工場まで専用線も伸びていましたので、そこの原料や製品の輸送を扱っていたと思われます。また、古くは駅の横に日比野安全肥料という工場があり、肥料の輸送も行っていたのではないでしょうか。余談ながら、日比野の駅名はこの肥料会社(というより、この地に駅をつくらせた社長の名前)に由来しているそうです
日比野駅に関する情報ありがとうございます。紡績原材料や製品、肥料は鉄道輸送に頼るところが大きかったと思いますが、今やすっかりトラック輸送になってしまったようですね。日比野の駅名は人名由来でしたか。いろいろな歴史を調べると興味深い事実が浮かび上がります。(碧)
こんばんは大変ご無沙汰いたしております。碧海電子鉄道のホームページ閲覧させていただきました。TADA様名鉄の貨物列車の貴重な資料や写真を拝見させて頂き心から感謝いたしております。ありがとうございます。さて名鉄の貨物列車はトラック輸送の普及と名鉄線特有の貨車を留置して置く側線が秩父鉄道のように各貨物取り扱い駅に極端に少ないことが重なり築港線以外に急激に縮小していきました。信じられない事は入れ替え時間がダイヤの関係上全体的に短く本線上で入れ替え作業を行っていたので、運転保安上の理由で本線系の貨物の廃止が進んだと名鉄の関係者は話しておりました。つまり電車との衝突に神経を集中しながら入れ換え作業が行われており、それが輸送力増強やスピードアップの障害になっていたのです。そして話は変わりますが名鉄三河線の三河広瀬駅ではどのような貨物を取り扱ったのでしょうか?有蓋貨車が目立つ事から足助町方面に運ぶ肥料や飼料を運んでいたのでしょうか。それにしても足助町はあまり農業が盛んでなく豊田地方特有の珪石、亜炭、珪砂、耐火粘土等の鉱物資源や薩摩芋等の農作物、陶磁器等の産地でもありません。他の三河山線の貨物取り扱い駅の枝下駅、猿投駅、越戸駅等の貨物取り扱い品目はおおよその見当が付くのですが、三河山線の三河広瀬駅、土橋駅、常滑線の大田川駅、本線の東岡崎駅、尾西線の日比野駅はとても見当が付きません。もし存じ上げているお方が居れば是非ご教示下さるようお願いします
又諸般の事情等によりホームページ上に感想を書くのが遅れてしまった事を、心からお詫び申し上げますこれからも宜しくお願いします
三河広瀬の取り扱い品目ですが、粘土との記載を複数の資料から見つけられます。1つは弊サイトもお世話になっている朝倉昭二さんの「鉄道愛好館」です。知立から北へのページにはクリーム塗装の3730系が三河広瀬に停車中の写真があります。
→ なお、朝倉昭二さんは既にお亡くなりになられたとのことです。地元の鉄道趣味界における先輩の他界に哀悼の意を表するとともに、これまでいろいろとご教示をいただいたことに改めて感謝申し上げます。(碧)
ご無沙汰しております。 さて、TADA様の三河線北部の貨物列車の写真を拝見しました。 枝下、三河広瀬の時刻を再度ダイヤで確認してみましたが、間違いはありませんでした。ということは短時間で入れ替えを行っていたんですね。あまりに単純な配線では逆に時間がかかってしまうことを考えると、どのような入れ替え手順だったのか興味があるところです。残念ながら私自身は三河山線の貨物は実見しておりません。情報が集まることを期待しています。
提供いただいた名鉄貨物のダイヤ、お陰様で大きな反響をいただいています。入換手順を私なりに推定してみましたが、ちょっと待てよと思っては書き直しをしました。片開きになっている枝下はなぜ下りの停車時間が確保されているかが疑問です。仮にここで切り離しても発送車があれば、一旦ながらも出口を塞ぐことになってしまいます。1ついただいた情報として、もしこんなことが行われていたら下りの停車理由がわかる!というものがあります。(碧)
名鉄貨物のスジのお話など、興味深く拝見しておりました。当方にも1978年ころの運用表などあるはずなのですが、いかんせん整理が悪くて発掘できません。とりあえず三河線貨物の画像、ネガを見つけましたのでお送りします。3730系普通電車の画像は奥に貨物ホームが見えます。枝下は非交換駅なのに貨物扱いがあるのがいかにも私鉄らしく思えたものです。他にも名鉄貨物は写しているのですが、犬山橋をゆく貨物を撮っていないのが返す返すも残念です。
TADAさんから枝下駅の貨物ホームがわかる写真の提供をいただきました。
1979年枝下付近で撮影の貨物列車(TADAさん撮影)
初めてお邪魔します。
三河線の貨物について調べていて こちらを拝見させていただきました。自宅が新川町より新川港への臨港線沿にありまして、朝の入線時間が知りたかったので、貨物の時刻表、助かりました。
貨30で、新川町7:37着 電機の位置を変えて、入線
貨31で、新川町8:12発
大体記憶の通りです。
朝寝坊したい時でも、この時間には必ず起されました。こどもの頃は、毎朝どの機関車が来るかが楽しみだったことを思い出します。最近、20年ぶりに行方不明だった臨港線最後の日のフィルムが出てきたので、盆過ぎに届くフィルムスキャナーでスキャンしてみようと思います。(2005/08/14 19:45:32)
ようこそお越し下さいました。私は碧南方面へは滅多に用事がなかったため土地勘がなく、臨港線があったことも知りませんでした。朝貨物が入ってくるのがわかったとのことですが、デキ600の特徴的な和音の汽笛も聞かれていたのでしょうか。臨港線の写真、ぜひ拝見したいですね。(碧)
大変時間がかかってしまいましたが、昭和49年当時の名鉄の貨物の時刻をダイヤから拾い、エクセルにまとめましたので、ご参考にお送りします。これで全線分です。(注:エクセルがなくても見られるように変換しました。(碧))(Sat, 18 Jun 2005 17:06:44)
たいへんわかりやすい形にまとめていただきましてありがとうございました。貴重な資料のご提供に感謝します。個人的にはやはり三河線のダイヤを興味深く拝見しました。家族で出掛けた折り、夜間、踏切で待っていたら来たのが貨物だったということがありました。今のような反射板はなかった時代で、車掌車がないのが異様に思えました。たしか引掛式テールランプを片側だけ取り付けていたような気がしますが、残念ながらはっきりした記憶がありません。
なお、過去のご投稿はそのまま残します。(碧)
こんばんは 西三河鉄道局様 貴重な資料をホームページへ掲載して頂き心から大変感謝いたします。
名鉄や東武の貨車や貨物列車の事は関心を持つ鉄道マニアが極端に少ないので、未だに大半が謎の状態です。特に名鉄の貨物輸送全盛期の時代の貨車については、軌道線用の特殊貨車や特殊で珍しい形態の私有貨車が多形式あり、移動変電所の類の事業用の貨車が存在したと言う事実が私鉄貨車の研究者の中でささやかれているらしいですが、実際の所、資料や写真が皆無の為に確認できないらしいです。そして名鉄の貨物取り扱い駅や専用線の大半は昭和50年前後の空中写真で調べましたが、構内配線は至って単純で、営業線上で入れ換え作業が行われていたので、本数増発や安全性の問題があるために、昭和40年代以降築港線を除く全線の貨物輸送の縮小が急激に進んだらしいです。
そして三河線の枝下駅は東芝セラミックの側線があり、製鉄用の袋詰めの不定形耐火物の発送があったらしいですが、他の駅の貨物取り扱い駅の貨物取り扱い品目は聚楽園駅以外の事は不明ですので、存じ上げておる方は是非ご教示お願いします。蛇足ですが瀬戸線の喜多山駅は貨物を取り扱いが構内配線の関係で不可能らしいです。
又諸般の事情等によりホームページ上に感想を書くのが遅れてしまった事を、心からお詫び申し上げます。これからも宜しくお願いします(2005/07/26 22:30:16)
入山さん御無沙汰しております。名鉄貨物の話題は元々入山さんからのご質問が発端でしたので、お気づきになられるかと思っていましたが、無事ご覧になられたのは何よりでした。もうだいぶ長期になって参りましたが、この話題に関しては特に締め切りなど設けず、皆様の情報を集める場としていければと思っています。
航空写真とは以前にもご紹介して下さった方があった国土情報ウエブマッピングシステムですね。地図ではなく、実写の写真ですので、周りの施設、構造物の様子もわかり、輸送品目の手掛かりにもなりそうですね。国土交通省もたいへん有用な資料を公開していただいたと思います。(碧)
こんにちわ、初めて書き込みします。私は現在31歳ですが4年前まで碧南に住んでいました。三河線を走る電車をよく見にいったものです。三河線に6000系が入線したのを最初に見たのは私が小学校4年生(昭和58年頃)だと思います。ただ、この頃は定期運用ではなく夏期のみの特別運用でした。三河線の各駅に「冷房車6000系を運転します。」という掲示と運用時刻が張り出されていたのを覚えています。昭和60年の夏期特別運用は碧南行きに5往復、猿投行きに3往復運転されていました。
その後昭和61年のダイヤ改正から定期運用に初めて本格的に導入されました。その1年後の改正で6500系や6000系4連が直通列車の定期運用に導入されたと思います。確か新名古屋17時58分(佐屋始発)急行碧南と碧南発7時12分発津島行き(知立から準急)にうんようされていました。(2005/01/09 21:44:34)
情報ありがとうございます。6000系の時刻の掲示ですか。小学生の頃に本数までよく覚えておいでですね。そう言われてみればそんなものを見たような気がしてくるのは不思議です。昭和50年代の三河線は3700系を初めとするHL車の天下で、夏場は当然ながら窓を全開にして走っていました。既に3780系は瀬戸線へ転属していましたので、冷房車に当たる確率はかなり低かったはずです。そのために、夏場だけでも冷房車に当たるチャンスを拡大するサービスが行われていたのでしょうか。
私も高校生の頃、豊田や碧南から通ってくる同級生が「今日は冷房車だった。涼しかった〜。」と喜んでいたことがありました。AL車の運用に時々7300系が入ったものか、何らかの運用変更によるものだったのかも知れません。(碧)
初めての書きこみです。新安城駅から延びていた貨物線について。新安城駅の西尾線側に保線機械が留置してある線がありますが、ここから南に180度半円を描くように道路がありますが、この道の外側がかつて貨物線があった場所です。紡績工場だったと思いますが企業名はわかりません。その工場は今はイトーヨーカドーになっています。(2004/12/09 22:25:48)
情報ありがとうございます。幼少の頃、西尾線はよく利用しましたが、ほとんどが南安城−西尾口でしたので、当時の新安城(1970年までは今村)についての記憶がありません。ここでも貨物の扱いがあったとは知りませんでした。引き込み線はいつ頃まで使われていたのでしょうか。そのイトーヨーカドーには行ったことがありますが、線路跡の上を歩いていたかも知れません。(碧)
こんばんは、私も現役時代は見たことはないのです。ある日地図を見ていて、駅からきれいな曲線が延びているのを見つけて、後日見に行って存在を知ったのです。駅と隣の住宅の敷地との間に小さい用水路があり、そこに橋桁が掛けられるようになっているのが西尾線の電車からも見られますよ。廃止はおそらく昭和40年代前半と思われます。(2004/12/12 00:02:21)
補足をありがとうございます。なるほど、地図を見ていると「ここには線路があったのではないか?」と思えることが確かにありますね。
母は10代の頃、西尾口から今村(新安城)で乗り換えて岡崎方面へ通勤していたことがあるのですが、はたして貨物のことまで覚えていることか・・・?年末に帰省したときにでも一応聞いてみたいと思います。
皆様のご家族で今村駅の貨物扱いについてご記憶の方がいらっしやいましたらぜひともコメントをお寄せ下さい。(碧)
ここからは2023年10月にいただいた新安城(今村)から出ていた引き込み線関連のコメントです。(23.10.30)
こんにちは。新川町の引込線を調べていたら、ここに辿り着きました。以前の新安城駅の引込線の投稿について、私の記憶を書きます。この線はイトーヨーカドーでなくて、その東側のマンションのところにあった紡績工場に入っていました。マンションができるまでは、工場内の西北の角に、架線終端の電柱が建っていました。以上です。(2023/10/23 14:52)
南安城さんが情報をお寄せ下さってから約19年が経過しています。お気づきになられた点について、コメントをいただき、ありがとうございます。
この機会に、改めてgoogle mapの航空写真や、国土地理院によって公開されている地図・空中写真閲覧サービスを確認してみました。
当該の引き込み線については、「名古屋鉄道の貨物輸送」(フォトパブリッシング刊)に記載があります。工場は愛知紡績安城工場で、引き込み線は昭和39年いっぱいで廃止されたようです。
工場名で検索すると、ウエブサイト、ブログ、動画がヒットします。既に詳しくお調べになられている方がお見えですので、既存の記事等に委ねましょう。いまさら私が考察をしたところで、付け焼き刃のそしりを免れないことでしょう。1961年と近年の航空写真をご覧いただくに留めたいと思います。(碧)
ご無沙汰しております。引き続き犬山、広見線関係のスジを拾いましたのでご紹介します。国鉄との連絡は新鵜沼と新広見でやっていたようですね。残るは津島線、三河線、瀬戸線です。
貨20レ | 貨22レ | 貨24レ | 貨30レ | 貨32レ | 貨34レ | 貨214レ | 貨14レ | |
不定期 | 不定期 | 不定期 | 不定期 | |||||
新鵜沼 | 913 | 1611 | 1647 | 1143 | 1952 | |||
新広見 | --- | --- | --- | --- | 1329 | 1445 | --- | --- |
可児川 | --- | --- | --- | --- | 1341 | 1458 | --- | --- |
--- | --- | --- | --- | 1503 | --- | --- | ||
犬山 | 1652 | 1148 | 1524 | |||||
布袋 | 936 | 1634 | 2019 | |||||
2035 | ||||||||
金山 | 2111 | |||||||
2116 | ||||||||
大江 | 2127 | |||||||
貨21レ | 貨23レ | 貨25レ | 貨31レ | 貨33レ | 貨35レ | 貨15レ | 貨215レ | |
不定期 | 不定期 | 不定期 | 不定期 | |||||
大江 | 2211 | |||||||
岩倉 | 2255 | |||||||
2259 | ||||||||
布袋 | ||||||||
1030 | 1731 | |||||||
犬山 | 1814 | 1154 | 1525 | |||||
可児川 | --- | --- | --- | 1216 | --- | --- | ||
--- | --- | --- | 1241 | 1357 | --- | --- | ||
新広見 | --- | --- | --- | 1253 | 1409 | --- | --- | |
新鵜沼 | 1057 | 1757 | 1821 | 1530 | 2333 |
(2004/11/27 20:21:44)
かつては各路線に多数の貨物列車が運転されていたのですね。今からでは想像もつきません。( 2004/11/27 23:09:14
いつもありがとうございます。そういえば、国鉄鵜沼駅構内の留置線に名鉄のデキが留置されているのを見た記憶があります。1978年11月のことです。その日は祝日で、動く様子はありませんでしたが、ダイヤを拝見すると当時はどんな行程で走っていたのかがなんとなくわかって興味深いです。(碧)
ご無沙汰しております。さて、名鉄貨物の続編ですが、築港線分を拾いましたのでお知らせします。下のように6往復設定されています。列番に「貨」の頭文字が付いていません。
202レ | 204レ | 206レ | 208レ | 210レ | 212レ | |
大江 | 845 | 1008 | 1220 | 1322 | 1500 | 1603 |
東名古屋港 | 849 | 1012 | 1224 | 1326 | 1504 | 1607 |
203レ | 205レ | 207レ | 209レ | 211レ | 213レ | |
東名古屋港 | 955 | 1200 | 1256 | 1450 | 1530 | 1818 |
大江 | 959 | 1204 | 1300 | 1454 | 1534 | 1822 |
(2004/11/06 16:31:57)
築港線のダイヤをありがとうございます。東名古屋港18:18とは通勤時間帯にも走っていたのですね。私は1982.2に東名古屋港へ行っていますが、当時と今とでは線路の配置などすっかり変わってしまったようです。(碧)
今度は常滑線関連の貨物のダイヤを拾いましたので、ご参考までにご紹介します。
昭和49年9月17日改正(昭和49年11月25日訂補)
太田川まで1往復、常滑まで2往復、聚楽園まで1往復あったようです。
また須ヶ口と大江を結ぶ不定期も見つかりました。
がんばって全線拾おうかと思っています。
<常滑線>
貨50レ:神宮前938発−大江945//
貨52レ:大江1007発−聚楽園1018,1028−太田川1033//
貨51レ:太田川1153発−大江1209//
貨53レ:大江1232発−神宮前1240//
貨54レ:大江1306発−聚楽園1317,1326−常滑1403//
貨55レ:常滑1227発−大江1315//
貨56レ:大江1507発−聚楽園1518//
貨57レ:聚楽園1547発−大江1557//
貨59レ:常滑1748発−大江1839//
貨58レ:大江1936発−聚楽園1948,1957−常滑2033//
貨14レ(不定期):須ヶ口2049発−西枇杷島2053,2058−
金山2111,2116−大江2127//
貨15レ(不定期):大江2211発−須ヶ口2243//
( 2004/10/10 21:39:58)
常滑線の貨物ダイヤをありがとうございます。大江や神宮前では確かにデキが留置されているのを見る機会がありました。貨54レと貨55レでは常滑で折り返すことができないのですね。と、いうことは、機関車が2両以上使用されていたということになるのでしょうか。
須ヶ口−大江は機関車の差し替えのために設定されているスジではないでしょうか。新名古屋駅を貨物列車が通過するという話は聞いたことがありません。余談になりますが、2001年12月、キハ8500系が須ヶ口から大江へ回送されたダイヤもJRでいう予定臨のダイヤだったと聞いています。(碧)
西三河鉄道局様、行列のできない不動産屋様本当に貴重な情報ありがとうございます。最近は毎日仕事等が忙しくてせっかく頂いた皆様の貴重な情報への返事を掲示板に書き込めなくてどうもすいませんでした。なにせ1ヶ月間の残業時間50時間以上ですから・・・・でも給料は大変安い!!
話は変わりますが、名鉄線の貨物線の遺構は現在かなり残っています。代表的な場所は土橋駅に存在するトヨタ自動車本町工場や可児川駅の名古屋パルプ、聚楽園駅の愛知製鋼の引込み線跡です。しかし名鉄の貨物列車や貨車については大変謎が多く、情報が極端に少ないのが現状です。最近は東武鉄道の貨物輸送や貨車については僅かですが謎が解かれつつあります。しかしほんのすこしですけど・・・。
又、最近は20年前に廃車にされた名鉄の3790系や元東急の3880系にも電鈴が装備されていた事も判明いたしました。つまり名鉄では昭和61年頃から発車する時、必ず電鈴を鳴らすように、運転規則が改正になりました。それ以前は全旅客車に立派に電鈴が装備されていたのにもかかわらず豊橋鉄道と同じように乗務員の交代の時や非常時の乗務員同士の連絡等に使用するためだけの用途だけでした。それは南海電鉄も同様でした。
これからも宜しくお願いいたします。( 2004/10/15 22:27:13)
残業が月に50時間ですか。1ヶ月くらいならば耐えられそうですが、これが続くときついですね。ご多忙のところを書き込みありがとうございます。
入山さんのお話しによれば、きちんとした貨物列車の写真でなく、電車の隅に貨車が写っているようなものでも貴重な資料となりそうです。資料となりそうな写真を所蔵されている方がいらっしゃれば特集コーナーで紹介させていただきますのでお知らせ下さい。(碧)
ご無沙汰しております。やっと生活が落ち着きました。
さて、引っ越しでドサクサに紛れていた古い名鉄のダイヤが見つかりました。この中からまず本線の貨物のダイヤを拾ってみます。
昭和49年9月17日改正(昭和49年11月25日訂補)によりますと、本線の貨物は知立(信)−美合間1往復だけです。
貨10レ:知立(信)1018発−新安城1024,1027−矢作橋1037,1103−
東岡崎1109,1135−美合1146//
貨11レ:美合1202発−東岡崎1210,1254−矢作橋1259,1303−
新安城1314−知立(信)1320//
(ダイヤから拾いましたので1分程度の読み間違いがあるかも知れません。)行列のできない不動産屋さんが述べられているように矢作橋では東レへの、美合では日清紡への引き込み線の跡が今でも残っていますが、昭和49年当時営業していたかどうかはよく知りません。私の記憶ではすでになかったように思います。
他の線区でも貨物のダイヤが見られます。またスジが拾えましたらご紹介します。(2004/09/25 14:41:26)
1974年といえば、私が写真撮影を始めたとはっきり言える年です。もう30年なんですね。当時の名古屋本線の貨物ダイヤ、ありがとうございます。
知立(信)→新安城の所要時間が6分とは意外に速い気がします。あとは、美合での折り返し時間が短かかったのですね。
追加資料を楽しみにしております。(碧)
西三河鉄道局さんの貨物ダイヤの情報で懐かしく感じました。私は、子供のころ東岡崎・男川間の沿線におりまして、黒い機関車が短い貨車を引っ張って行くのを良く見かけており、お昼の時計がわりだったなと回想しました。ところで、廃止された名鉄挙母線大樹寺駅から、ユニチカへの貨物引き込み線があったと思います。岡多線→愛知環状鉄道北岡崎駅からユニチカに引き継がれたと思います。その貨物もすでに廃止されてます。新貨車通信で大樹寺駅常備の貨車情報がありました。(2004/09/26 18:26:25)
挙母線大樹寺駅からユニチカへの貨物引き込み線ですか。「名鉄の廃線跡を歩く」(JTB刊)には、名鉄のデキがタンク車を牽引している写真があります。大樹寺から南下した貨物線は右へカーブし、東側から工場へ入っていたようで、岡多線へ移管されてからは南側から入るようになったようです。
余談になりますが、愛知環状鉄道北岡崎駅から伸びていた引き込み線が非電化であったためにDLが牽引していたのですね。(東海道線内の写真であれば「碧電雁八」第2展示室で展示中です。)(2004.10.11 修正 碧)
矢作橋駅からも東レに入る貨物専用線がありました。道路工事で、跡地は消えつつあります。また、美合駅からは日清紡美合工場への引き込み線跡があります。駅から男川駅方面へ下る築堤や工場東側の閉鎖されている鉄扉の前に橋桁の台らしきもの。(2004/09/09 17:48:58)
情報ありがとうございます。名古屋本線で貨物を扱っていた遺構がまだ残されているとは驚きです。矢作橋はてっきりバラストの積み込み基地としてしか認識がありませんでした。機会があれば私も見に行ってみようと思います。(碧)
展示室分室への掲載ありがとうございます。矢作橋駅南口が昔の貨物中継場だったと思います。東岡崎方面の@踏み切りを線路沿いに東進しますと、左手にアドミックの会社が見えます。このあたりから、右手にあぜ道のような道床らしきものが田の中へ進んで行きます。7本ほど道と交差し、大きくUターンする感じで、渡町の交差点で東レ正門守衛室の南側に植栽されている所へたどり着きます。帰りは正門前の道を北進すればすぐ@につきます。お出かけの時の参考にしてください。(2004/09/19 20:11:32)
わざわざ補足をありがとうございます。参考にさせていただきます。(碧)
昭和50、51年当時の話ですが、
【名鉄本線】
東岡崎と美合で扱っておりました。1日1往復でした。荷は美合は珪砂と聞いた記憶があります。発だったか着だったか?東岡崎は??・・・ ほとんどワムでした。国鉄との連絡は刈谷で三河知立にある本線との連絡線で接続していました。
【三河線】
海線では(刈谷)、小垣江、北新川、新川町、高浜港、碧南での扱いとの記録があります。この地域は陶器、瓦の産地ですので、その原料、製品の輸送が主だったようです。山線は?プッシュプルになったのは三河知立の連絡線が廃止となった後のことです。(2004/05/30 20:01:05)
美合まで貨物が行っていたとは知りませんでした。三河線で多くの取り扱い駅があったのは意外です。
古い雑誌を調べたところ、鉄道ファン誌197号(1977.9)198号(1977.10)には刈谷−三河一色の貨物営業廃止に関する記載がありました。それによれば、同区間の貨物営業は1977年5末日で廃止。実際の運転は5.24で終了しているようです。衣浦臨海鉄道碧南線の開業が翌5.25ですので、まさに使命が移行された言って差し支えないと思われます。
5.5には鉄道友の会の撮影会が実施され、デキ402が牽く三河平坂行き貨物列車を電車で追い掛けながら撮影し、碧南駅で記念撮影をして解散したとあります。この頃まで矢作川の鉄橋を渡る貨物列車があったのですね。(碧)
三河線貨物についてですが83年12月まで刈谷−三河広瀬(ほかに常滑線・犬山線)で営業していました。知立折り返しのためプッシュプルで貨車5両前後連結していました。主にワラ・トラなどをデキ300・400・600が牽引します。刈谷駅は3時過ぎに出発したように覚えています。発車直後の勾配をかなり苦しそうにゆっくりと登っていきました。貨車は国鉄刈谷駅と授受しており、今も名鉄とJRとの間隔が広く側線の名残があります。子供のころの記憶ですが家から刈谷駅全体が見渡せたので貨車の入れ替えなど飽きずに見ていました。
(2004/05/22 01:42:39)
こんばんは。6000系三河線について話題になっていますが、やはり当時の最新型ということで比較的入線は遅かったようですね。私の数少ない当時の写真の中にたまたま6000系2連が写っていました。昭62〜63年の冬、6023F以降の2連、幕は「普」、系統板「猿投」です。刈谷駅にて。日時の記録がありませんがご参考に。(2004/05/22 23:58:40)
午後3時頃、確かに刈谷を発車するスジがあったでしょうか。当時、デキ600は特徴的な和音の汽笛を高らかに鳴らしていましたね。あの音をもう一度聞きたいと思うのですが、更新によって一般的なものに交換されてしまっているようです。
6000系も5300、
5700系も当初は三河線関係の方向幕がなかったように思います。(自信はありませんが。)方向幕に「碧南」や「猿投」が入ってからも7100系のようにサボを使う列車がありますね。(日によって方向幕の有無に差が出るのでサボの運用上支障を来すためと思われます。)(碧)
三河線への6000系入線ですが、少なくとも昭和60年頃の時点では見られなかったような気がします。私は昭和60年から平成元年まで名鉄本線を使って通学しており、機会あるごとに途中下車しては駅構内等で電車の写真を撮影していましたが、少なくとも早朝や夜間を除けば、6000系は昭和62〜63年頃まで三河線には入っていなかったようです。はじめて知立駅の4番線(三河線ホーム)に6000が止まっているのを見たときに「とうとう、三河線にも6000が入ったか」と驚いたことを覚えていますので。
当時知立駅で見た記憶でいえば、線内普通は3700系などのHL車、本線からの直通に7300系や3850系などのAL車が充当されていたように思います。ただ、例外として豊田線用の100系が運用されていたのは見たことがありますが。(2004/05/18 09:58:15)
その後、手持ちの画像を調べてみたところ、1988(昭和63)年8月3日に撮影した画像が私の撮った三河線6000系でもっとも古いものでした。名鉄AL車の廃車が進んでいた時期でもありますし、おそらく三河線への6000系入線はこのころから始まったのではないでしょうか。(2004/05/22 22:34:03
早速ありがとうございます。私は1987.11に再び刈谷を離れましたが、当時三河線で6000系を見掛けたことはありません。吉野さんのご記憶と同様です。6000系は他系列と併結運転ができないため、運用は決まっていたであろうと思われます。(碧)
三河、常滑線、犬山、広見、尾西線では、三河線三河広瀬駅、猿投駅、土橋駅、常滑線聚楽園駅(合金鉄、ニッケル、マンガン、製鋼用電極、東武鉄道上白石駅からの焼成ドロマイトを含む全て到着貨物のみ)常滑駅(昭和57年12月?)犬山線布袋駅、津島線日比野駅?広見線可児川駅?で昭和58年12月18日まで貨物取り扱いをしておりました。
ここで、以外に一般の鉄道ファンは知らないことかも知れませんが、簡単に名鉄と東武の間に実際にあった技術交流について話します。東武鉄道と名古屋鉄道はつい近年(昭和58年?)まで車両部門の技術的な交流があったらしいです。その証拠に両社は車体更新車が他の私鉄に比較して多いのが特徴で、又冷房装置つきの旧型更新車が多く、昭和60年以降も旧型車の車体更新工事が施行されていた点です。
それはなぜかと言うと昭和26年頃から昭和58年まで約32年間実施された常滑線の聚楽園駅にある愛知製鋼向けの炉材補修用の袋詰めの焼成ドロマイト輸送に東武鉄道の有蓋車(昭和39年からワラ1型)を専属使用して行われ事に始まります。発駅は東武鉄道佐野線の上白石駅です。
最初の頃は貨車担当の人が故障等緊急時の打ち合わせの為でしたが、やがて会社の役員や車両部門どうしの交流となり、その結果東武鉄道の旧型更新車3000系が誕生しました。この車両は名鉄のHL車と似たところが多く、戸閉装置の機構はほとんど同じで扉が開閉する時、かなり大きい音が出るところも同じです。^^初めて乗る人は耳を塞ぎたくなる音^^又東武鉄道の3070系や5700系の主電動機も名鉄と同じTDK528型です。ただ吊り掛け音は名鉄と全然違います。東武の場合、粘りのある重低音です。
しかし民鉄の貨物輸送までは、興味を持つ人は少なく、ましてや貨車まで関心を持つ人は少ないので、この事は鉄道雑誌等でも記事として扱われない為、一部の人しか把握していないのが現状です。名鉄や東武の貨物輸送を研究する事によりこの事実を発見しました。民鉄の貨物輸送や貨車を研究していると、色々なエピソードに出会うようです。皆様、電車ばかりではなく貨車にも関心を持つと色々な事実を発見できます。しかし名鉄と東武の貨車は未だ興味を持つ人が少ないのであまり鉄道雑誌に掲載されておらず、殆ど謎ですが^^?
たいへん興味深いお話を披露いただきましてありがとうございます。昔から東武鉄道と名鉄は吊掛式の車体更新に熱心な会社だとは思っていましたが、まさか技術的な交流があり、両者の車両に共通点があるとは思いませんでした。私もなかなか貨車には目が行かないのですが、地味な存在ながらも思わぬ事実に出会うことがあるとは、なるほどそのとおりですね。(碧)