大垣電車区の急行形と3色混合編成

●3色混合編成に関して     02.08.19

はじめまして。何気なく流れてこのページを見つけ、3色混合編成に皆さんが盛りあがっているので、つい私も入れてもらおうと思いまして。
 153M’M-101が同119に差し替えられた編成とありますが正にその通りです。私は、その頃安城駅前に住んでいて毎日快速編成を眺め、また通学にも利用しておりました。
 ちなみに153M’M-119ですが、4月28日に編成から抜けております。代わりに153M’M-126(これも新快速色)に代わっております。153M’M-119と同じく159T-1も抜かれています。
 またもう少し前1979年12月18日以降は、

大阪方 <クハ165-118モハ158-3モハ159−3 ・サハ159-1 ・<クハ159-6 モハ158-4 モハ159-4 クハ159-5>  東京方

  というようにほとんど159系だけの編成でした。(02.08.18)

文: 愛知県安城市 大岡和明様

大岡さん、ありがとうございます。ご自宅の真ん前に安城駅があって、当時の編成を記録されていた方からの証言とはまことに心強いものがあります。サロ163さんの推定も合わせますと、3色混合編成は1980.4.2頃〜4.27の間存在していたということになるでしょうか。
 湘南色、ブルーライナー色、修学旅行色など入り乱れていた当時の中京快速の興味深い編成についてまたご披露下さいますようお願いいたします。(碧)



●京阪神地区新快速の117系化に伴う153系の大垣電車区への転属

昭和55年には大垣電車区の159系・155系(4連2本は残る)は全廃、代わりに宮原電車区からクハ153・165、モハ152.153、サハ153が転入しました。 廃車と転入の車両数が一致していたのが分かりましたので報告します。

●宮原電車区→大垣電車区へ転属された車両番号

クハ165−157・159・163・165・167・169・183

クハ153−509・511・524・526・552・553・556

クハ153−58・73・76・78

モハ152・153−107・115・116・118・119・125・126・156・157・159

サハ153−6・8・106・108・109・116

※ サハ153を除いて全て新快速で活躍していました。サハ153は、急行比叡・鷲羽で活躍しました。

計44両(全車両冷房車)

●玉突きで廃車された車両番号

クハ155−1・2・5・6・7・8・11・12・15・16

モハ154・155−1・4・5・6・8・10

サハ155−3・4

サハ153−102・103・111

クハ153−74

159系全16両

計44両(全車両非冷房車)

くだらない事ですが振り返って見ますと、転入車両と廃車車両とが一致してました。 その後、MM'153−59が1981年1月9日付で廃車されていますが、その後の補充は分かりませんでした。

文: 401Mクハ153−76様

参考文献:国鉄電車編成表、鉄道ファン、鉄道ピクトリアル

お時間を割いての調査に感謝します。第2展示室のクハ153−74は大垣のクハ153では唯一の非冷房車だったのですね。国鉄当時は管理局を越えて綿密な車両転配計画が立てられたのでしょう。
 余談になりますが、分割民営化された現在では当時のような大規模な異動は少なくなっています。その結果、同じ形式の車両にもかかわらず、配属された会社によって寿命に2倍もの開きが出る事例が発生しているのはもったいないような気がします。(碧)




●3色混合編成に入っていたブルーライナー色の2両は品川にも顔を出していた     02.06.18 NEW

富山県の401Mクハ153−76さんから3色混合編成に入っていたモハ152・153-119ユニットについて、修学旅行電車「こまどり」の運用で品川まで顔を出していたとの情報をいただきました。なお、この編成は鉄道ピクトリアル2001.10(No.707)のP.7に掲載されている1980.5.23運転の「こまどり」とのことです。


大阪方 <クハ153−524モハ152−119 ・モハ153−119 ・サハ153−216 ・<クハ153−516モハ154−12 ・モハ155−12 ・サハ153−205 サハ155−4 ・モハ152−159モハ153−159クハ165−131>  東京方

青字=新快速色   朱字=155系(非冷房車)

文: 401Mクハ153−76様




●3色混合編成の基本になったと思われる編成     02.06.19 NEW

神奈川県のサロ163さんから3色混合編成ができあがる直前と思われる編成についてご教示いただきました。

このような編成があったというのは知っていました。しかし実際に写真で見たのは初めてなので、画面を食い入る様に見てしまいました。クハ165-118の列番表示が「118」となっているのも良いですね。
大阪方 <クハ165-118 モハ152-101モハ153−101 ・サハ159-1 クハ153-535> ・モハ158-4モハ159-4 クハ165-135>  東京方   出典:国鉄電車編成表 80年版


撮影日は鈴木様、多田様、ともに4月3日なんですね。実はモハ153-101 モハ152-101 は4月7日に台車検査が 施行されているんです。おそらく検査自体は数日かかるでしょうから4月2日あたりに編成の組み替えが行なわれ、モハ153-101 モハ152-101が抜かれた後に、4月1日の時点では予備車だったモハ153-119 モハ152-119が組み込まれたのではないかと思われます。
 因みに、このユニットの湘南色への塗色変更ですが、1980年7月16日、全般検査の際に行なわれています。


「腕木信号」に吉野富雄さんより東京側から4両目のクハが上り向きなのは珍しいのではないかとのご投稿をいただきましたが、その点と東京方先頭車は冷房車であること、2〜4両目は非冷房車である点の一致が見られます。どうやらご推定どおりM’M-101が同119に差し替えられた編成である可能性が高いようですね。後ろ3両のみは自分で記録したのですが、確定ではないにせよ、それより前の車両の番号が判明するとは感激です。(碧)


■混色の急行「比叡」

02.05.10

サロ163さんから153系の画像について再び車両番号の推定レポートをお寄せいただきました。(碧)

先頭の上り向き(奇数車)クハは2枚とも同じ車両のようですね。注目すべきは幌取り付け座が塗りつぶされていることでしょうか。仮にこの車両が新快速色→湘南色へ塗り替えられたのであれば当てはまるのは、1980年7月4日の時点で宮原に在籍しているクハ153-523・527の2両です。(1980年7月18日付で田町へ転出)

●523

田町時代はAU13Eのキセが5個全てルーバータイプでしたから写真の車両とは明らかに異なります。

●527

キセが5個ともネットタイプなんですが、個々のキセを比較してみますと微妙に違っているような…。

2枚の写真をよく見ていただくとお判りいただけるかと思いますがいずれも運転席側にあるワイパーのアームが黄柑色に塗装されまた、助士席側のワイパーはシングルアームのように見えます。田町へ転じた上記の2両は、運転席側のワイパーが銀色なんです。ただ、523の助士席側ワイパーはシングルアームなので、この点はだけは、一致しています。

次に、このクハが元々湘南色であった場合を考えてみます。この時点で、宮原に在籍しているのは、521・555・557の3両です。

●521

521…実際に見たことがなく、雑誌・Web上でもお目にかかったことがありません。

●555

幌取りつけ座がステンレス地ですから、明らかに違います。

●557

1973年の時点では幌取りつけ座がステンレス地のままでしたが、その後どうなったのかはわかりません。

また、以前にも書かせていただきましたが、宮原における153系湘南色車最大の特徴は汚物処理装置が取り付けられているということです。
 京都で撮影されたクハの連結面寄り、洗面所下を見ていただきますとどうも汚物処理装置の抜き取り口らしきものが見えるような気がするのです。もし、そうであれば521あるいは557ということが考えられます。
 因みに、帯付きのサロはサロ165-67です。これ以外のサロ(宮原)はこの時点で全車、帯が消されていましたから。

●混色の急行「比叡」、先頭車のナンバーが判明

02.06.16 NEW

サロ163さんに推定していただいた急行「比叡」の先頭車についてYana-ninさんから決定的な画像をお送りいただきました。(碧)

急行「比叡」のサロ165

 

クハ153-557車番

 

モハ153-147車番

 

混色の急行比叡の上り(奇数)が判明です。これは結構簡単でした。1980.7.4、車体を流すように撮した最初の一枚に車番がハッキリ確認できます。クハ153−557です。その後につくモハユニットがモハ153・152の147、グリーン車がわかりにくいですが サロ163様のいうサロ165-67かも知れません。 その後のクハ153・後部寄りの新快速色モハユニットは分かりません。 下り向きクハ153も最大解像度でスキャンしましたが判断つきません。これ以上の写りの良い物はありません。
 以前80.10.16に野洲にて撮影した153系の写真をお送りしましたが、この混色比叡の557・モハユニット147番が確認できます。

文: Yama-nin様

Yama-ninさん、いつもありがとうございます。京都駅で撮影の「比叡」は撮影時には新快速色のモハのナンバーは確認されていませんが、80.10.16に野洲で留置中の153系の中にクハ153-557が先頭の編成があり、隣りがモハ152・153-147だったそうです。(碧)

●サロ163さんより

先頭はクハ153ー557だったんですね。正体が判って嬉しい反面、晩年は幌取り付け座が塗りつぶされていたことにちょっとショックを受けています。宮原の湘南色クハ153は全て、幌取り付け座がステンレス地だと思っていたので……。
 おそらく準急比叡様が撮影された『402М 急行「比叡2号」』の先頭車もクハ153ー557であると思われます。
 参考までに「国鉄電車編成表 80年版」に載っていたクハ153ー557が組み込まれていた編成を記しておきます。 ※1980年4月1日現在

  東京方 <クハ153-557 ・モハ153-85・ モハ152-85 ・サロ165-67 ・サハ153-8・モハ153-83 ・モハ152-83 ・クハ153-506> 大阪方


準急比叡さん撮影の先頭車も拡大してみますと557と読むのが最も自然であるよう思われます。長年不明であられた557号の晩年についてお知りになられたとすれば幸いです。(碧)


■「運用離脱したクハ153」について

02.05.10


早速ですが、この車両はクハ164ではないでしょうか? 確か167系(含むクハ165)に挟まれて「ちくま・くろよん」に使われていたんですよね。 古い本で恐縮なんですが、ヤマケイのレールシリーズ 8『国鉄急行列車(西日本編)』1980年7月30日 初版発行のP49に「ちくま2号」で使われている167系の写真が載っています。1980年4月撮影。そこには、野洲で撮影された写真と同じ状態、つまり中間にクハ167と顔を突き合わせる形で連結されているクハ164(非冷房)の姿が写っています。

また、ジェー・アール・アール発行の『国鉄電車編成表 1980年版』によりますと、宮原電車区のページには以下のように書かれてありました。(1980.4.1現在)


●167系

Tc167-21 MM'12 Tc'164-3 Tc167-20 MM'11 Tc'165-51 Tc167-22 MM'10 Tc'165-115

●その他

Tc165-107 MM'15 Tc'164-1 Tc167-19 MM'14 Tc'165-168 Tc165-187 MM'13

仮に、この低運車両がクハ153の場合、冷房車ですから行先表示差し部分の屋上にAU13Eの姿がちらっとでも見えるはずなんです。それが見えないという事は、この車両が非冷房車のということになります。 ただし写す位置によっては、多少見え方が変わってくるかも知れませんのではっきりと断言することは出来ません。編成全体を写した写真があれば、よいのですが。

クハ164-1

クハ164-1 1980.6.28 野洲
 撮影:Yama-nin様 こちらは緑色の塗り分けが後退していない。

では別の角度から見てみることにします。この車両、前面の運転席下部にジャンパ栓受が見受けられませんので下り向きであるということが判ります。当時、宮原区で下り向き湘南色の低運クハは、クハ153-70・クハ164-1・クハ164-3 だけでした。このうちクハ153-70については、「比叡」・「鷲羽」で活躍していた頃ですから、クハ167と幌でつながれた状態で、野洲に留置されていたとは考えにくいのです。

因みに、このクハ153-70と思われる写真が、『鉄道ピクトリアル』1981年8月号 No.393のP4に載っております。「比叡3号」1980年7月8日撮影。
 その写真と野洲の写真とを比較してみますと、側面部分の塗り分けが違っているようなので、どうやらこの車両ではなさそうです。クハ164‐1は写真のように、本来の塗り分けですから明らかに違いますね。消去法で考えれば、件の車両はクハ164-3ということになるはずですが……、実際にこの目で見たことがないので、断言出来ないのが辛いところです。

 なお、気になるサイドの塗り分けについては、残念ながら私にも判りません。仮に、この塗装が意図的に行なわれたものであれば現場においてクハ153とクハ164を識別するためではないか?という事も考えたのですが、クハ164は非冷房ですからこのような事をしなくても一目瞭然です。むしろ、非冷房のクハ164同士を識別するためだった、という事も考えられます。もしそうであったとしたら、この時点で既に廃車となっているクハ164‐2(1980.2.21付)、クハ164‐4(1979.11.29付)の塗り分けがどのようになされていたのか、あるいは助士席側がどうであったのか、興味は尽きないですね。
 ただ私としては、工場での塗装段階で誤ったマスキングをしてしまった可能性がいちばん高いのではないかと睨んでいるのですが、真相はどうなんでしょうか。


いずれにしても、この2両(クハ164‐1・クハ164‐3)は程無く新快速の運用を解かれたクハ165によって置き換えられてしまうことになります。
     クハ164-1 1980.9.19 廃車
     クハ164-3 1980.8. 2 廃車

文: サロ163様

当初、クハ167と連結された車両はクハ164-1または3ではないかと推定をいただきましたが、Yama-ninさん撮影のクハ164-1の画像をお預かりしておりましたのでこの機会に掲載し、それを踏まえたレポートをお願いしました。
 僅かな特徴を手掛かりに1両1両が特定されていくのはたいへん興味深いことです。ご覧いただいた読者の皆様にはお気づきの点、ご存知のことがありましたらぜひ開設者までお知らせ下さいますようお願い致します。(碧)


■宮原電車区の165・167系編成の歴史

02.05.12
クハ167-20
1978年撮影の宮原電車区167系

中間の4両のクハは大窓であることがわかる。クハ164であったと思われる。 1978.5.21 名古屋

 野洲車両基地に留置されているクハ167とクハ164ですがその後、クハ164は廃車され、その代替車に写真に掲載されている湘南色のクハ165-164が新快速の運用終了後に組み入れられました。宮原電車区の165・167系編成の歴史をお伝えしましょう。

 1975年3月、山陽新幹線博多開業に伴い下関運転所 から167系16両が転入(クハ167=4両・モハ166・167=12両)1978年にTcMM’Tcの4両基本編成(4両×6本)に統一され、不足するクハに当初はクハ164が入っていました。(クハ164-1〜4)

 1980年、新快速運用を終えたクハ165がクハ164の替わりに入りました。その時にクハ167-20・クハ167-22の2両は大阪方の向きから名古屋方の向きへ方転され、クハ167は全て名古屋方に統一されました。クハ165は名古屋方に2両大阪方に6両入りました。その中には、新快速時代に活躍したクハ165-158・クハ165-164・クハ165-168・クハ165-184などがクハ164の替わりに入りました。平成9年3月まで4両基本編成は続きました。


文: 401Mクハ153-76様

富山県の401Mクハ153-76様より当時宮原電車区に配属されていた臨時列車用の165、167系に関する情報をいただきました。1978年に名古屋駅で同車を撮影していますのでご覧下さい。(碧)


■山科通過の新快速、先頭のクハ153は何号?

19.03.10 New

Yama-ninさん撮影の新快速電車の先頭に立つ湘南色クハ153-500は何号か。推定を試みられたサロ163さんがそのレポートをお寄せ下さいました。ジャンパ栓受けや汚物処理装置などに着目され、該当車両は3両にまで絞られました。153系に関する高度な知識なくてはなしえない推定をしていただきましたが、果たして車両番号は特定されるでしょうか。(碧)

1.元新快速用車

まず宮原区から他区へ転出した下り向きクハ153‐500番台ですが[510・524・526・528・536・552・556]の7両、いずれも、元新快速用です。


●510・524・526・552・556

これらは前面のジャンパー栓受が冷房化後も撤去されずにそのまま残っていますで、 撤去されている写真の車両とは明らかに違います。ちなみに[510]は前照灯がシールドビームになっています。

●528

この車はクーラーのキセがネットタイプではありませんし、幌取付け座が黄柑色に塗りつぶされていますので違います。

●536

1974年まで大垣に在籍していたためでしょうか、貫通扉下部の渡り板が改造されていますので、これも該当しません。因みにこの車両は首都圏転属後は唯一、幌取り付け座がステンレス地のまま(新快速色当時からステンレス地)だったので当時、結構注目を集めておりました。

以上のように元新快速用の各車はいずれも該当しないことになります。


2.湘南色車

ということは、この車両は新快速色→湘南色へ塗り替えられたのではなく元々湘南色の[504・506・554]のうちの1両ではないのでしょうか。循環式汚物処理装置が取り付けられていることからも、その可能性は極めて高いと思われます。確か、新快速色の車両に循環式汚物処理装置は取り付けられていなかったと、私は認識しているのですが……。

 次に手がかりになりそうなのが、これら3両の廃車年月日です。この中で私が一番怪しいと思っているのが[554]です。1980.10改正で「鷲羽」が廃止され、「比叡」が大垣へ運用移管されたにもかかわらず、何故1年もの間、廃車にならなかったのでしょうか?これにはおそらく検査期限の問題が関わってくると思います。当時、国鉄を取り巻く環境は非常に厳しいものがあり、検査後わずかな期間で廃車にしたのでは、検査計画のずさんさが指摘される恐れがあったのではないでしょうか。
 これは、田町区の153系が置き換えられる際も同様で、運用終了後も検査期限が来るまで1年ほど疎開留置されていた車両が数多くありました。
 仮に[554]が昭和55年の始めに検査を受けていたのであれば、1981.10まで残っていても、何ら不思議ではありません。また、鉄道ファン誌、1980年10月号、No.234のP15に山科で撮影された車両と同一であろうと思われる写真が載っていますので、もし、お持ちでしたら御覧になってみて下さい。ヘッドマーク、「速」部分の汚れ具合がそっくりです。ちなみに撮影日は、80.4.26になっています。

宮原電車区クハ153-500(偶数)関連車両

番号転出先/日付検査廃車備考
504 ---1980.4.??1980.12.15 
506 ---      1980.11.11 
510 1980.7.18
田町
     1981.10.16 転属時湘南色
524 1980.3.22
大垣
1980.5.1
名古屋(全検)
1982.6.29  
526 1980.2.19
大垣
1980.2.15
吹田(全検)
1982.4.19 全検時 湘南色に塗り替え
528 1980.5.10
田町
 
 
1981.11.19 転属時湘南色
536 1980.7.18
田町
1980.7.15
吹田(全検)
1982.4.26 1981.10.16幕張へ転属
552 1980.7.15
大垣
1979.12.4
吹田(要検)
1984.1.61981.12.11名古屋工場で全検 
554 ---      1981.10.1  
556 1980.5.23
大垣
1979.11.21
吹田(要検)
1984.1.6 1981.11.18名古屋工場で全検
クハ153-536(千マリ)
大垣、宮原、田町、幕張と移動したクハ153-536

幕張へ転属後は房総急行に使用されたクハ153-536を偶然にも撮影していました。宮原時代は「新快速色」だった車です。サロ163さんのコメントどおり、幌枠はステンレス地色のまま。撮影の3ヶ月弱後には廃車になってしまうという、まさに最晩年の活躍シーンです。
 なお、当日、唯一撮れた低運転台車による「鹿島」。2コマでは寂しいので、165系の「犬吠」もオマケとしてアップしておきます。



いずれにしても、この撮影者の方がネガをお持ちであれば、拡大鏡を使って車号を調べてみるのも、ひとつの方法かも知れません。結果、全く違う車両だったらちょっと恥ずかしいですけどね。

3.元新快速色車の塗り替え時期について

吹田工場において検査を受け、大垣にやって来た車両は車体側面の名カキという標記が名古屋工場・浜松工場のそれとは違っていますので、標記の部分がはっきり写っている写真であれば、担当工場を判別する材料になると思います。

552、556の2両を私が実際に見たのは、1981年の全検以降なのであくまで推測の域を出ないのですが、大垣転出の段階で次の全検までの期間が1年以上あったためにおそらく吹田工場において湘南色に塗り替えられたのではないかと思います。

さて、問題は『524』です。この車両は1980.3.22付で大垣へ転出して80.5.1に名古屋工場で全検を受けていますのでもしかしたら、新快速色のまま大垣へやって来たのかも知れません。ただし運用に就いたかどうかはわかりません。鈴木様が下り向きの500番台を見たことがないのであれば新快速色でやって来たとしても、入場までの期間、区内で留置されていた可能性が高いですね。

ちなみに、鉄道ピクトリアル、2001年10月号No.707のP7に「こまどり」の写真が載っているのですが、これに使用されている先頭車が『524』です。

『552』の廃車年月日ですが、鉄道ピクトリアルの2001年10月号No.707や ジェー・アール・アールの「国鉄新性能電車履歴表」では1983.9.3となっています。しかし、この車両が廃車回送されたのは1983.10.20なんです。同時に回送された他の車両は、廃車年月日が1984.1.6になっていますし、鉄道ファンの1984年11月号No.283「車両のうごき」でも1984.1.6と記されていますので私としては、こちらの日付が正しいと判断いたしました。

文: サロ163様


■それでは正解です。

山科通過の湘南色クハ153新快速先頭車のナンバー拡大画像
Yama-ninさんにナンバー付近の拡大画像をお願いしましたところ、スキャナーの解像度ほぼリミットでスキャンしていただいた画像をお送りいただきました。それを当方で軽くアンシャープマスク(輪郭を強調して鮮鋭に見せる処理)を掛けてみました。
 サロ163さんの推定によって候補が3両にまで絞られましたが、末尾は間違いなく4であろうということ、10の位は少なくとも0ではないということがわかりますので、いかがでしょうか。最も怪しいと読まれていたクハ153-554と考えるのが自然ではないでしょうか。
 1度発行したら書き換えができない書籍と違い、ネット上のページは更新が可能であることがメリットです。表では552、556の2両がいつ湘南色に塗り替えられたかが不明となっています。補足情報、その他お気づきの点やご感想などぜひ開設者までお知らせ下さい。
 最後になりましたが、サロ163様、Yama-nin様、ありがとうございました。(碧)


●サロ163さんより

どうやら、件の車両はクハ153‐554で間違いないようですね。全く見当違いの推理だったら、どうしようかと内心ヒヤヒヤしていたんです。なんだかホッとしました。
 今回、コメントする機会を与えて下さった鈴木様、貴重な画像を提供して下さったYama-nin様に改めて御礼を申し上げます。ありがとうございました。(02.4.11)


■クモ二83×2+153系12連について

Yama-ninさん撮影のクモニ83×2+153系12連について横浜のサロ163様より情報をいただきましたのでご紹介させていただきます。

クモニ83×2+153系急行編成ですが、たぶん「鷲羽」の回送ではないかと思われます。当時、上り「鷲羽」は新大阪に到着後、そのまま向日町運転所まで回送されていました。そこでクモニ83を連結した後、回5551Mとなって再び東海道を下り、西回り回送線から宮原電車区へ帰って行きました。
 私は横浜に住んでおりまして、この光景を実際に見たことはないのですが、手許の資料に載っておりました。
 ちなみに「比叡」の編成ですが、「鷲羽」の12両編成から上り方の附属4両を除いた基本の8両編成で運転されていました。(02.01.12)

なるほど、新大阪終着となる列車は宮原へ直接入れないため、通常は一旦向日町運転所(現京都総合運転所)へ回送されますが、たまたま同じく宮原へ向うクモニ83×2があったため併結されたのでしょうか。サロ163様、ありがとうございました。(碧)


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