ショパン全作品を斬る
1834年(24才)
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- [97] アンダンテスピアナート ト長調 作品22
1831年作曲の[53] ポロネーズ 変ホ長調 作品22の前奏曲として付けられ「アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ」として1836年出版。
パリ時代のショパンの弟子デスト男爵夫人に献呈。
ピアノ独奏と管弦楽のための作品。
寡作な年である。
このアンダンテスピアナート以外は全部遺作となっているので、
ショパン自ら出版した単独曲は一つも作曲しなかった年と言える
(ただし前年までに作曲されこの年出版された曲は多かった)。
このように急に寡作な年となったのには何か理由があるはずである。
この年に完成した曲が少ないということはこの年だけでなく前年からの書き貯めが少ないということだが、
実はショパンは1833年〜34年は演奏活動に相当忙しかった。
パリに出て既に3年。
そろそろ一旗揚げていなければならない時期である。
また1834年にはスカルベック伯が死去し、
ショパンの父が証文をとらずスカルベック家に貸していた莫大なお金が回収できなくなったこともショパンが完全に独り立ちしなければならなかった要因の一つである。
ショパンは精力的に音楽会に出演し、
その活動でパリにおける名声を勝ち取った。
弟子もとれて生活も安定し、
順調に独り立ちすることができた。
しかしそのために作曲活動にしわ寄せが来たということだろう。
このアンダンテスピアナートは流麗なアルペジオに乗る美しい旋律と繊細な装飾音に彩られ、
心いやされる音楽に仕上がっている。
川面をすべる小舟に乗っているような感じは
ドビュッシー小組曲の「小舟にて」を予感させる。
途中第21小節〜28小節にかけてEm→A7onE→D、Dm→G7onD→Cの全音下がって繰り返す和音推移に乗る主題が変形された旋律は麗しい。
類似の和声進行(ドミナントで終わる句を全音下げて繰り返す)はよく用いられ、
たとえば「サウンド・オブ・ミュージック/全ての山に登れ」、
サン・サーンス「白鳥」第10〜13小節、
ケスラー練習曲作品20よりロ短調第21〜24小節、
グラナドス「ともしびのファンダンゴ」第81〜90小節なども同様な印象を与える。
もう一つ、
後半に挿入される和声的レシタティーヴォ
(ドーソ、シ・シラソ、シ・シラソ、というところ)が印象的で、
最後の4小節にも回想のように現れるところも効いている。
これまでにもこういう感じの挿入句があったが、
[5]マズルカ変イ長調作品7−4初稿のところで指摘しておいた通りである。
- [98] 前奏曲 変イ長調(遺作)
1918年出版、ピエール・ヴォルフ(ショパンの友人)に献呈。
ヘンレ版のPreludeには最後に載っているが、
他の版では大概載っていない。
ショパン自身も前奏曲と書き込んでいないが、
フォンタナに宛てこの曲を指して前奏曲と言ったと考えられる手紙が残っている。
ひと区切りもなく終始無窮動的に動く16分音符からなる4分の2拍子の速い曲。
その意味で練習曲的でもあるしトッカータ風でもある。
しかし曲想は軽く仕上げてあるので作品28の前奏曲に入れるにはなじまないし、
練習曲集に入れるにも少々もの足りない。
それで単独曲とした上で結局出版しなかったのだろう。
同じ変イ長調の練習曲作品25の1とは曲調は異なるが音型は多少似ている。
後半の和声推移は作品25の1の習作的な部分もある。
たとえば第22小節目からのA♭→F-9→B♭m→G-9→Cmのところは、
もしバスにE♭を終始入れたら作品25-1の最も特徴的な部分に一致する。
そのバスにE♭を終始入れる手法は次の第29〜32小節に(違う和音進行だが)現れる。
- [99] マズルカ第58番(ヘンレ版第57番)変イ長調(遺作)
1930年出版。
これはもちろんオベレクである。
マズルカ変イ長調作品7−4([75]、初稿は[5])と雰囲気の似た曲である。
ショパンは「僕がワルツを作るとどうしてもマズルカになってしまう」と言ったが、
この曲は逆にワルツを思わせる音型が現れる。
- [100] カンタービレ 変ロ長調(遺作)
1931年出版。
曲の短さや次に何か続きそうなあっけない終わり方からみて、
前奏曲集作品28に組み入れられかねなかった曲である。
あるいは規模を発展させてノクターンになっていたかもしれない。
結局いずれにもならなかったが。
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