ショパン全作品を斬る
1817〜25年(7〜15才)
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- 1817年(7才)
- [1] ポロネーズ第11番 ト短調(遺作)
[一般的コメント]
作曲年にすぐ出版された。
スカルベック伯令嬢に献呈。
スカルベック伯とはショパン生地ジェラゾワ・ヴォラの大地主で、ショパンの父ニコラスはこの家の家庭教師であった。
重要な作品というわけではないが、
最初に紹介する曲でもあり、一般的コメントも含め少し詳しく記述しよう。
出版された作品ではショパン最初の作曲である。
ただし公表範囲が狭く本格的出版でなかったこともあり
(文献[1]p.132)
作品番号は無く遺作となっている。
また最初の作品であるにもかかわらずポロネーズ第11番(以後これを曲番号と呼ぼう)と番号付けされているが、
作品番号と曲番号についてコメントしておこう。
基本的にはショパンが自らの作品として出版するつもりで自ら通し番号を付けたのが作品番号である。
このとき当然曲番号も
(ポロネーズやマズルカなどそれぞれの範疇で)
通し番号順に付けられる。
ところが自らの作品に対するショパンの選別は厳しかったので、
ショパン自身の選に洩れたものの中にも我々から見て素晴らしい作品がある。
そういう作品が世に埋もれるのを恐れ、
ショパンの死後まもなく彼の音楽院同級生のフォンタナが作品番号を続けて付け、
ショパンが自ら出版した曲に準ずる作品として出版した。
作品番号66以降のものがそうであり、
これらは作品番号付きの遺作となった。
このとき曲番号も続けて付けられて行った。
当然作曲年代順と関係なく、
これらの作品番号や曲番号は後の方になる。
またショパンの選別にもフォンタナの選別にも洩れたものも、
さらに後世
出版されるようになった。
これらには作品番号は付かず、
ただ「遺作」となった。
しかしこの場合も曲番号は付けられることがあった。
もちろんこの場合も曲番号が作曲年順と全然異なってしまう。
ポロネーズ、マズルカ、ワルツ、ノクターンにそういうことが起きている。
その番号付けは出版社によって異なっているが(ことにマズルカ)、
この記事ではパデレフスキー版の番号付けに従い、
ヘンレ版の番号も併記することとする。
なお作品番号に関する一般論としてはバイオリニストの玉木宏樹さんが面白い記事を書いている。
この曲はヘンレ版では強弱記号、速度記号が皆無だが、パデレフスキー版にはAllegro ma non troppoと記され、冒頭にf、途中にも強弱記号が見られる。
これについては次の記述が参考になろう。
「ショパンはピアノに向かって簡単な曲を即興したが、
まだ楽譜を書けなかったので、
ジーブニー(ショパンの最初の音楽の先生)が彼を助けて書き取っていた。
このポロネーズはその最初のものである。」(文献[2]p.24より)
[私評]
最低音はG1、最高音はF6。音楽教育を受けている才能ある子供が最初にどんな楽曲形式で作曲を試みるか考えてみると、当時ならメヌエットとかマーチあるいは形式なしの小曲ではないだろうか。それがショパンの場合最初の数曲がポロネーズであることは興味深い。これはインターナショナルな音楽教育と共にポーランド独自の音楽に接する機会が非常に多かったことを示唆している。7才の作品としては均整がとれ、おかしな所は少しもない。この曲で注目されるのは第26小節左手変ロ長調主和音伴奏に乗る右手旋律E5−E5♭−D5の音形である。凡人ならE5♭−E5♭−D5かE5♭−C5#−D5とするだろう。
- [2] ポロネーズ第12番 変ロ長調(遺作)
以下[一般的コメント]と[私評]の表示は自明なので省略する。
1910年出版。
ショパンは1849年に他界したので、
死後大分経ってからの後世の出版である。
最低音はE♭2、最高音はG6。
冒頭ムルキーベースに乗る4小節はいかにも古典室内合奏のtuttiを真似たものだが、
第5小節からのテーマは生き生きしている。
ト短調のトリオ部はオルゴールのような響きがあり、
この曲の特徴となっている。
- 1821年(11才)
- [3] ポロネーズ第13番 変イ長調(遺作)
ジーブニーに献呈。出版は1901年。
自筆譜((文献[3]p.22、[4]p.63))があるので、
このころ既にショパンが自作の楽譜化を自分で行っていたことがわかる。
それも非常に端正な楽譜である。
最低音はB♭2、最高音はC7。16分音符が3連符を交えて奔放に動き、装飾音やトリルが使われ始め、
それも大変自由に使われている。
音域も広く活き活きした曲想で、
前2曲より格段に聴かせる内容に仕上がっている。
- [4] ポロネーズ第14番 嬰ト短調(遺作)
1824年作曲説もある。1864年出版。デュポン婦人に献呈。
1821年はベートーベンが最後のピアノソナタを作曲した年である。
嬰ト短調は当時希で、有名曲としてはベートーベン「月光ソナタ」(1801年)第3楽章第2主題に見られる程度。
最低音はG#1、最高音はE#7(= F7)。
これは当時のピアノの音域をほとんどめいっぱい使っている。
筆者はショパンの生家にある
ショパンの少年時代のピアノ
を確認したが、
F1からF7までの73鍵であった。
これ以降ショパンはF7を越える曲を作っていない。
この記事ではピアノの音域の問題にかなりの注意を払うが、
ピアノの音域に関してはショパン以外にも論じたいことがあるので、
こちら
を参照されたい。
この曲で注目すべきは美しいピアニズムの第9〜10小節であるが、
この右手の同音打鍵+オクターブ跳躍のピアノ技巧は当時としては大変独創的と思われる。
当時はクレメンティの「グラドゥス・アド・パルナスム」(1817年出版)が最新のピアノ教則本であった。
この第1巻20番(注:音楽の友社や全音楽譜のグラドゥス・アド・パルナスムにはない曲)に類似の技巧が見られる。
同様の技巧はモシェレスの「24の練習曲集作品70」(1826年出版)やツェルニー50番練習曲第7番に見られる。
ジーブニー先生が「グラドゥス・アド・パルナスム」をショパン教育に使ったか定かではないが、
クレメンティの曲は標準的に教えていたであろうと推測されている
((文献[2]p.24))。
仮にショパンがこの20番を知っていたとしても、
このポロネーズでの使い方は一層進んでいる。
しかしトリオの分散和音は冗長。
この辺に自身やフォンタナの選に洩れた理由があるのかも知れない。
- 1824年(14才)
- [5] マズルカ 変イ長調(作品7−4の初稿)
これはヘンレ版に付録の1番として収録されている。
この曲は大人の世界に通用する初めての曲だと思う。すなわちこれまでの曲には「少年が作った」という枕詞が必要だったが、これは絶対評価しても高い音楽性を持った曲といえる。それを裏付けるかのように、7年後ショパンはこれをマズルカ第8番作品7−4に改作し出版するが、改作にあたって実はほとんど変えていない。つまりこの曲はショパン自身が出版を決意した中で最初に作曲された曲といえる。
短く可愛いが、面白い曲である。少年ショパンが民族音楽としてのマズルカに深く接していたことが窺える。バグパイプか弦楽合奏で民族音楽風に演奏したら民族音楽そのものだ。和声で特徴的なのはラのフラットを多用した長調(変イ長調だからF♭)という点である。これは練習曲作品10−7やラフマニノフ前奏曲作品32−1に通ずる独特の雰囲気を作っている。
マズルカについては注釈が必要である。
マズルカのリズムは (1)マズル、(2)クヤヴィヤク、(3)オベレク がある。
マズルはマズルカ第5番出だしに見られる力強い|タッタターター|タッタタータタ|という付点を含むリズムである。
概して長調が多い。
クヤヴィヤクはマズルカ第46、47に代表される遅めの|ターータタタ|タタターター|という歌謡ワルツ風か、
第25番のような|タタタータタ|のリズムを持つリズミックなマズルカである。
概して短調が多い。
オベレクは第7番の第9〜23小節のようにめまぐるしい|タンタタタタ|タタタンタン|
というリズムで、
長調も短調もある。
さてこのマズルカ変イ長調はどれか?
明かであろう。
オベレクである。
それもショパンのオベレクの中でも典型的と言える。
ショパンには好きな音型がいくつかある。
その一つは、
3拍子の一拍目にトリルのように三連符を入れ、
続く二拍に8分音符を四つ入れる音型である。
この曲冒頭がまさにそうであるが、
この音型の例は枚挙に暇がない。
たとえばワルツ第2番第52小節等やコーダ、ワルツ第6番(子犬のワルツ)第21小節目等、ワルツ第9番冒頭、バラード第1番第2主題、まだあるがきりがないので止める。
このマズルカはこの音型が現れる初めての作曲である。
もう一つ、
テーマに戻る直前唐突に現れるコラール風4小節を挙げなければならない。
主調から非常に遠いイ長調でpppで奏され、
特異な効果を出す。
この、彼方で呟くような一息の入れ方は、
ピアノ協奏曲第2番第3楽章再現部直前やアンダンテスピアナート、
果ては後年の傑作「幻想曲ヘ短調」終結部にも見られる。
ところで前曲のポロネーズ第14番から3年の空白がある。
余談だが、
このころショパンにはエルスナーという人が2番目の先生として就いた。
ショパンは教師に恵まれた。
ジーブニーは自分がもう教えることがないと悟るや、
より専門的な先生を捜したのだ。
このころからショパンの曲はより均整のとれたものになって来ている。
そのエルスナーも後にショパンが自分のもとに居続けてはいけないと考え、
世界の檜舞台に送り出すのに労を惜しまなかった。
回りが教えられないほどの天才児が自らの作品に厳しい批評眼を持つようになるのは、
独力ではかなり難しいことである。
ショパンは(自己に厳しかったかは知らないが)自己の作品には大変厳しい。
筆者の推測だが、
ショパンがこのような資質を獲得した背景には父ニコラス、
3人の才女の姉達、
そして特にジーブニーとエルスナーの影響もあったのではないかと考えている。
- 1825年(15才)
- [6] ロンド ハ短調 作品1
作曲年出版。ABACAのロンド形式。リンデ婦人に献呈。リンデ婦人はショパンの中学校の神学の先生であるリンデ校長の婦人。
作品1ということは、
ショパン自身が決意して最初に本格的に出版した曲*ということである。
4分の2拍子Allegro、357小節、演奏時間7〜8分の大曲である。
ピアノ演奏技術が極めて大胆になり、
既に当時の最先端を行っている。
現代でもこれがまともに弾ければ音大生レベルであろう。
それまでの作品とは一線を画す意欲作と言える。
ピアノ協奏曲第1番第3楽章のロンドと同じクラコヴィアークのスタイル。
つまりロンドというインターナショナルな形式をとりながら、なお音楽はポーランド舞曲である。この曲により少年ショパンの名がワルシャワに響き渡ったことは想像に難くない。ショパンの音楽家人生にとって第一歩となった、重要な意味を持った出世作に違いない。
とはいうものの、
純音楽的には、
こういう演奏技巧を凝らしただけの曲には筆者は引かれない。
前項のマズルカ変イ長調の方がはるかに「音楽」である。
最低音はF1、最高音はF7。
つまりショパンの少年時代のピアノの端から端までを使っている。
和声で注目すべきは第108小節(同じく第118小節)からの走句で、この美しい和声進行はピアノ協奏曲第2番第1楽章第153小節(同じく第303小節)にも使われる。
*前項のマズルカ変イ長調が「後でショパンが出版を決意したものも含めた中で最初の作曲」であることとの違いに注意。
もちろんポロネーズ11番ト短調(遺作)が「さらにショパンの意志と無関係に出版されたものも含めた中で最初の作曲」であることとの違いにも注意。
- [7] ポロネーズ第8番 二短調 作品71-1(遺作)
1855年出版。
フォンタナの選別に通った遺作の中では最年少のときの作品である。
最低音はE#1(F1)、最高音はF7。
前曲のロンドハ短調ほど気負いもなく自然で、
前々曲マズルカ変イ長調より技巧的音型も入れている点、
愛すべき曲である。
出だしがショパンとしてはちょっと凡庸。
高音部の装飾音が宝石がころがるようでポロネーズとしては繊細な曲。
さて、後でもっと重要な曲が目白押しになるのでこの調子で連載を続けるといつ終わるかわからないが、
ショパンの人生の一年を片づけるのに私の一ヶ月に取れる余暇時間を充てられると仮定して、
遅くとも39ヶ月以内には終わりたい。
次は1826年(16才) ♪
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