ショパン全作品を斬る
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- [79] スケルツォ第1番 ロ短調 作品20
1835年出版。
トーマス・アルブレヒト氏(ショパンの親友でパリにあるドイツ・ザクセン公使館員)に献呈。
ショパンの単独大曲(バラード、スケルツォなど10分前後の単独曲)の中でショパンの真価が現れた最初の傑作である。
どの解説にも
「ベートーベンが発明したスケルツォ(諧謔曲)を
ショパンは悲愴な劇的楽曲として独自に展開した」とある。
それはそうなのだが、
なぜそういうことになったのか?
祖国がロシアによって踏みにじられているのにパリにいて無為に時を過ごし自分の将来像が描けないでいるショパン。
その葛藤を音楽で表現するに際し、
それに適する形式として練習曲(革命)や前奏曲(24番)の他に、
ベートーベンの交響曲第5番に見られる悲愴的スケルツォを採用したというわけだ。
この曲のトリオの旋律はポーランドの民謡から取ったという解説もあるが、
文献[1]には今でも教会で歌われる歌だとある。
私事になって恐縮だが、
ショパンの心臓が祭壇に奉られているというワルシャワの聖マリア教会を訪れたことがある。
そのとき私は是が非でもその祭壇の写真を撮るつもりでいた。
しかし中に入ると私の気勢はいっぺんに削がれてしまった。
静粛な聖堂では人々が祈りを捧げている。
やがてオルガンの音が流れ人々の合唱が始まった。
そんな中でどうして祭壇の回りを蝿のように飛び回ってフラッシュを焚くような痴態が演じられよう。
しばらく祈りの雰囲気に浸ったあと、
写真が撮れなかったことにいささかの心残りもなく、
私は教会を後にした。
ポーランドの人々は信心深いと言われる。
ショパンはあまり信心深くなかったのかも知れないが、
家族や友人と教会に行くことはあったのだろう。
故国の教会で歌われる歌を孤独なパリで懐かしんだことは十分想像できる。
楽曲分析して讃辞の嵐になってもありきたりなので、
ここでは版による違いをいくつか指摘するにとどめたい。
第10小節目冒頭ヘンレ版と全音(元は恐らく旧Peters版)は左手にアクセントがあるがパデレフスキー版は右手にアクセントがある(他の同様な箇所も同じ)。
もっと大きな相違が第52〜56小節左手にある(他の同様な箇所も同じ)。
それは小節冒頭で左手オクターブのロ音を弾き直すか(ヘンレ版とパデレフスキー版)、前の小節からタイで繋がっているか(全音版)という相違である。
コルトー版はその中間で、
タイを付けている所と付けていない所がある。
オリジナルはタイで繋がっていない方のようだが、
タイを付けた方も粋な感じで捨てがたい。
また第305小節からのトリオ部でコルトー版や全音版では上述のポーランドの歌が浮き出るように別声部で強調されているが、
ヘンレ版やパデレフスキー版では8分音符の中に埋もれ直接的には見えないように書かれている。
ここは旋律を特に強調しなくても聞けば頭の中で自然に浮かび上がって来るのではないだろうか。
最後(第594〜599小節目)左右五個ずつの音からなる鋭い和音(B-D-E#-F#-G)は例の密集和音([54] ノクターン第1番変ロ短調作品9-1参照)である。
この右手はそのままに左手のロ短調主和音をハ長調属和音としたシューマン「幻想曲」(第3楽章の最後)との比較が文献[6]に指摘されている。
これはおそらく偶然と思われる(シューマンがこのスケルツォに影響を受けて「幻想曲」を書いたとは思えない)が面白い指摘である。
- [80] ノクターン第6番 ト短調 作品15-3
ノクターン第4番、5番とともに1833年出版、
フェルディナント・ヒラーに献呈。
この曲はショパンが「ハムレット」の上演を見た翌日作曲され、
「ハムレットを見て」と書き込んだのを後で消したという。
ショパンの曲は全て「ソナタ第2番」のように絶対音楽的題が付いており、
「月の光」のような表題音楽的題は無い。
それを一貫させようとしたのかも知れないが、
一度は書き込んだということはこの曲がそれほど強く「ハムレット」に触発されて書かれたことを意味する。
この曲は主題が再現しない変わった構成をとる。
Aは第50小節目まで、
Bは第88小節まで、
Cはコラール風で最後まで、
と大抵の本に書いてある。
しかし筆者は多少違った印象を持つ。
上記Bは右手リズムや左手伴奏がAと同じなので、
Aを素材とした展開部的経過句のように聞こえる。
そして上記Cは第120小節でコラールがいったん切れ、
第121小節目からは新たに金管のファンファーレ風ロングトーンに弦の和声がスタッカートで乗るようなパッセージである。
フランク交響曲ニ短調第2楽章第30小節からのパッセージを思わせる。
最後の4小節はまたコラールに戻ってゆっくりと荘厳に終わる。
つまり全体は大きく二つに分かれ、
前半は第50小節目までの主題提示と第88小節目までの展開部的経過句から成る。
後半は第120小節目までの美しいコラールとその後のフランク的部分である。
いずれにしても不思議な曲である。
さて冒頭のスラーの付け方に版による違いがあり、
ここは少し問題である。
ヘンレ版ではアウフタクトの次のGの音から長いスラーが付いているが、
パデレフスキーや全音ではアウフタクトからGの音に短いスラーが付き、
その次のB♭から長いスラーとなっている。
第7小節目からの音型や第13小節、
第37小節のようにため息を途切れさせるような音型との一貫性を持たせる意味からも、
ここは後者の方が適当だと思われる。
- [81] 練習曲 変ト長調 作品10-5
練習曲作品10の全12曲はまとめて1832年出版されリストに献呈された。
[40]作品10-1ハ長調の項参照。
この曲は「黒鍵のエチュード」として有名。
現代音楽では作曲者が作曲の意図や作曲技巧について解説を付けることが多いが、
ショパンもこの曲に関しては
「右手を黒鍵に限ったという制約条件で作曲したということを演奏前に注釈して欲しかった。
聴衆はつまらない曲と思ったのではないか」という意味のことをクララ・シューマンに書き送ったらしい。
そんな前口上をしなくても、
いきなり聞いても十分楽しい曲だ。
めまぐるしくマレットが飛び交うシロフォンのように輝くブリリアントな曲である。
クララ・シューマンの「黒鍵のエチュード」演奏に居合わせた人々の何とうらやましいことよ。
- [82] 練習曲 変ホ短調 作品10-6
練習曲作品10の全12曲はまとめて1832年出版されリストに献呈された。
[40]作品10-1ハ長調の項参照。
大変メランコリックな旋律とそれを彩る内声伴奏の練習曲である。
ルバートをかけて情緒たっぷりと演奏したくなるが、
音域が狭く音の重なりが薄いので、
聞く人の集中力を常に引きつけるように演奏するのが難しい。
あまりゆっくりすぎなく自然に流れるように弾く方がいいのではないかと思う。
- [83] 練習曲 ハ長調 作品10-7
練習曲作品10の全12曲はまとめて1832年出版されリストに献呈された。
[40]作品10-1ハ長調の項参照。
ショパンは連作曲において調性の繋がりに細心の配慮を見せる。
作品10の練習曲はハ長調→イ短調→ホ長調→嬰ハ短調→変ト長調→変ホ短調と自然な推移であった。
ここに来ていきなり変ホ短調から最も遠いハ長調に戻った。
しかし第6番変ホ短調の最後の終止が変ホ長調主和音でしかも第三音のGで終わっており、
この第7番がハ長調第五音のGから始まっていることを考えると、
実は絶妙の繋がりと言える。
この曲の特徴はラのフラットにあり、
独特の雰囲気を出している。
無窮動的に動き回るところは同じくハ長調のメンデルスゾーンの「紡ぎ歌」を思い起こさせる。
「紡ぎ歌」の方が出版は13年後であるが。
- [84] 練習曲 ヘ長調 作品10-8
練習曲作品10の全12曲はまとめて1832年出版されリストに献呈された。
[40]作品10-1ハ長調の項参照。
いかにも練習曲らしい溌剌とした曲。
右手音型が若干単純なので、
それを強調しないためにも左手のメロディーを主体に大切に弾いてもらいたいところである。
その左手の行進曲風リズムはショパン得意のリズムで、
葬送行進曲ハ短調、
ピアノ協奏曲第1番第2楽章、
ピアノ協奏曲第2番第1楽章第2主題、
木枯らしのエチュード、
前奏曲作品28の9番、
幻想曲などで使われている。
最後約1ページのコーダの右手は急速に弾くのがもったいないほど美しい音型が散りばめられている。
- [85] 練習曲 ヘ短調 作品10-9
練習曲作品10の全12曲はまとめて1832年出版されリストに献呈された。
[40]作品10-1ハ長調の項参照。
やるせない気分が病的なまでに溢れた凄みのある曲。
単調に急速に弾いてはいけないことは言うまでもない。
リストの超絶技巧練習曲(1851年出版)第10番はこの曲の雰囲気的影響をかなり受けたのではないだろうか。
シューマンの幻想小曲集(1837年出版)の「夜に」も。
いずれもヒステリックな所が魅力の曲である。
- [86] 練習曲 変イ長調 作品10-10
練習曲作品10の全12曲はまとめて1832年出版されリストに献呈された。
[40]作品10-1ハ長調の項参照。
一転して明るい曲。
バラード1番のコーダで使われる演奏テクニックの練習。
作品10の練習曲集は若さに溢れた突き進むような曲が多い中で、
この曲と次の曲は「別れの曲」とともに詩情豊かな曲で、
作品25に通ずるものがある。
フォルテでバリバリ弾くのではなく弱音で表現豊かに演奏する必要があるだろう。
- [87] 練習曲 変ホ長調 作品10-11
練習曲作品10の全12曲はまとめて1832年出版されリストに献呈された。
[40]作品10-1ハ長調の項参照。
見ただけで弾く気が起きなくなるような広い音程の両手アルペジオの連続。
いったい音楽になるのかと思わせる楽譜の刺激的外見とは裏腹に、
この上なく優美な曲である。
前奏曲集作品28第19番変ホ長調に雰囲気が似ている。
アルペジオを両手同時に弾くか、
左手から右手につなげて弾くかが問題であるが、
ゆっくりさらっている分には後者の方がいいのではないか。
インテンポで弾くとどちらともなく両者の中間のようになるのではないかと思われるが。
- [88] マズルカ第10番 変ロ長調 作品17-1
作品17のマズルカ第10〜13番は翌1834年出版、
リナ・フレッパ夫人に献呈。
同じ変ロ長調の有名な第5番より一層力強い。
リズム的には遅い方のクヤヴィヤクであるが、
速く力強いので明らかにマズルに分類すべきであろう。
変ロ長調の主題も元気がいいが、
それに続くヘ長調の対応主題はさらに印象的で、
この曲で一番耳に残る部分であろう。
変ホ長調中間部の異色の旋律も面白い。
- [89] マズルカ第11番 ホ短調 作品17-2
作品17のマズルカ第10〜13番は翌1834年出版、
リナ・フレッパ夫人に献呈。
盛り上がることもなくそれとなく終わる寂しい曲であるが、
ホ短調の情緒が活かされた間奏的マズルカ。
- [90] マズルカ第12番 変イ長調 作品17-3
作品17のマズルカ第10〜13番は翌1834年出版、
リナ・フレッパ夫人に献呈。
「繰り言をつぶやくようなしつこさ」の典型。
その魅力が(魅力と感ずれば)この曲では最高に発揮されている。
まるで幼児か老境の人のよう。
目立たない方だが個人的には魅力を感じる佳曲である。
- [91] マズルカ第13番 イ短調 作品17-4
作品17のマズルカ第10〜13番は翌1834年出版、
リナ・フレッパ夫人に献呈。
これは私は滅多な演奏では満足しない。
サブドミナントを基調とする4小節の前奏からして他に例がない。
続くジャズバラードのインプロヴィゼーションのような音の歩みと装飾音の変遷には才気が溢れている。
これを弾くには「メカニック」とは別の次元の演奏能力が要求されるであろう。
一応ワルツ3番路線なので中間部は明るいイ長調になり、
ギターのようで対比もすばらしい。
また主部に戻り、
コーダでは2小節ごとの半音下降が曲の予定調和的終結を予期させる。
そして主題がちょこっと現れ前奏と同じ音型で終結。
真に天才のなせる技。
- [92] マズルカ第57番 ハ長調(遺作)
1869年出版、
献呈はなし。
民族色の濃い、
はずむようなマズル。
深くはないが厚い音に旋律厚い音充実した内容。
他のマズルカに比べて決して遜色があるわけではない。
闇に葬る理由は特にないと思われるが、
ショパンは出版を忘れたのだろうか。
四分音符で189というメトロノーム表示は少々速すぎるように感じる。
- [93] ワルツ第1番 変ホ長調「華麗なる大円舞曲」作品18
1834年出版、ローラ・ホースフィールド嬢に献呈。
いよいよショパンが自らワルツを出版し始めた。
ワルツを軽薄なものと思いつつもその作曲の誘惑に抗しきれなかったショパン。
それでいいのだ。ワルツは君に合っている。
それまで作って出版しなかったワルツ第13番や14番の方がショパンらしいが、
なぜこの社交性No.1のワルツを真っ先に発表することにしたのか?
おそらくクラシック系作曲家がジャズに魅せられてちょっとは手がけながらも
「まだ自分の曲はジャズになっていない」
と発表を躊躇するのに似た心境かも知れない。
「シュトラウス支持者に馬鹿にされてワルツから引っ込むことになるかも知れない」とでも考えたのだろうと思う。
歴史の結果を知っている我々からすると要らぬ心配をしばしばショパンはしているが、
そのとき人生を歩んでいるショパンにすれば当然のことだろう。
- [94] ロンド 変ホ長調 作品16
1833年出版、カロリーヌ・ハルトマン嬢(弟子)に献呈。
作品1路線であるが、ショパンのロンドの中では最も中身が濃い。
- [95] 華麗なる変奏曲 変ロ長調 作品12
1833年出版、エンマ・ホースフォード嬢に献呈。
ショパンの変奏曲の中では傑出している一曲。
変奏の全てにそれぞれ特徴があり、
「次はどうなる?」と思わせる出来。
この曲でショパンは作品1路線を卒業する。
あのスケルツォ第1番を作曲してしまったら、
もうロンドとか変奏曲でもあるまい。
(もっともこの後31才のときなぜか突発的に[199] 演奏会用アレグロなどという曲を作っているが。)
- [96] ボレロ イ短調
1834年出版、エミリー・ドゥ・フラオー伯爵令嬢に献呈。
「ボレロ?」といえば「ラベル!」というほどラベルのボレロが有名だが、
ショパンもボレロを書いているとは。
ショパンもいろいろなことを試したものだ。
しかしこの試みは大成功とは言えない。
長い導入部はスペイン風味が出ているが、
主部のボレロは、
これはむしろポロネーズである。
途中ハ長調の部分がボレロらしいが、
カスタネットの伴奏でもあれば全曲がボレロのイメージになるだろう。
カスタネットを持った女性ダンサーの踊りを想像して聞くといいかもしれない。
それなりに楽しめる佳曲だが、
ショパンの凝りは不足気味で終わり方もあっけなく尻切れトンボ。
ショパンも「ちょっとボレロにし切れなかったかな」と投げ出したのだろうか?
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