サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経


四 心の中味のサティパッターナ  [ENGLISH]

では、どうすれば、 心の中味は心の中味にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない といつも感じて生きることができるでしょう。

1. 道の妨げとなる五つの障害 (渇望、嫌悪、怠惰、不安、疑心)

修行者は、五つの障害は五つの障害にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。では、どうすれば、五つの障害は五つの障害にすぎない、といつも感じて生きることができるでしょう。

渇望 (sense-desire)
肉体的欲望 がある時には、 「わたしの中には肉体的欲望がある」 と自覚するのです。肉体的欲望がない時には、 「わたしの中には肉体的欲望がない」 と自覚するのです。まだ生じていない肉体的欲望が、どのように生じるのかも自覚するのです。生じた肉体的欲望が、どのように消えるのかを自覚するのです。消えた肉体的欲望が、どのようにすれば将来生じないかを自覚するのです。

嫌悪 (ill-will)
悪意 がある時には、 「わたしの中には悪意がある」 と自覚するのです。悪意がない時には、 「わたしの中に悪意はない」 と自覚するのです。まだ生じていない悪意が、どのように生じるのかも自覚するのです。生じた悪意が、どのように消えるのかを自覚するのです。消えた悪意が、どのようにすれば将来生じないのかを自覚するのです。

怠惰 (sloth and torpor)
怠け心や倦怠感 がある時には、 「わたしの中には怠け心や倦怠感がある」 と自覚するのです。怠け心や倦怠感がない時には、 「わたしの中には怠け心や倦怠感がない」 と自覚するのです。まだ生じていない怠け心や倦怠感が、どのように生じるのかも自覚するのです。生じた怠け心や倦怠感が、どのように消えるのかを自覚するのです。消えた怠け心や倦怠感が、どのようにすれば将来生じないのかを自覚するのです。

不安 (distraction and worry)
注意散漫と不安 がある時には、 「わたしの中には注意散漫と不安がある」 と自覚するのです。注意散漫と不安がない時には、 「わたしの中には注意散漫と不安がない」 と自覚するのです。まだ生じていない注意散漫と不安が、どのように生じるのかも自覚するのです。生じた注意散漫と不安が、どのように消えるのかを自覚するのです。消えた注意散漫と不安が、どのようにすれば将来生じないのかを自覚するのです。

疑心 (doubt or wavering)
動揺や疑念 がある時には、 「わたしの中には動揺や疑念がある」 と自覚するのです。動揺や疑念がない時には、 「わたしの中には動揺や疑念がない」 と自覚するのです。まだ生じていない動揺や疑念が、どのように生じるのかも自覚するのです。生じた動揺や疑念が、どのように消えるのかを自覚するのです。消えた動揺や疑念が、どのようにすれば将来生じないのかを自覚するのです。

このように、自分にとって心の中味は心の中味にすぎない、わたしのものでもなく、わたしでもなく、自分でもなく、現象にすぎない、といつも感じて生きるのです。 他人にとっても 心の中味は心の中味にすぎない、といつも感じて生きるのです。 自分にとっても他人にとっても 、心の中味は心の中味にすぎない、といつも感じて生きるのです。 心の中味が存在する原因 と、実際に心の中味が出現するのを、いつも感じて生きるのです。心の中味が存在する原因と、心の中味が実際に消滅するのを、いつも感じて生きるのです。心の中味が実際に出現し、実際に消滅するのを、 原因 とともに、いつも感じて生きるのです。

つまり、魂でもなく、自分でもなく、わたしでもなく、心の中味のみが存在するという事実を、はっきりと自覚するのです。この自覚が、洞察や気づきを着実にもたらすのです。修行者は、渇望や 間違ったものの見方 から距離を置き、世の中の何ものにも執着しないで生きるのです。 * (注 )

これが五つの障害は五つの障害にすぎない、といつも感じて生きる方法なのです。

(道の妨げとなる五つの障害 了)



次項の 2. 執着を生む五つの集合体 はこちらからでも入れます。





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