サティパッターナ・スッタ (Satipatthana Sutta) 大念住経 又は 大念処経

この太文字の部分は、サティパッターナの修行における共通の基盤です。サティパッターナ・スッタの四つの柱である「身体」 「感覚」 「心」 「心の中味」 のサティパッターナ・スッタの中で、繰り返し述べられています。

この HP がテキストにしている U Jotika 氏 と U Dhamminda 氏 が英訳された 「サティパッターナ・スッタ」 では、「自分にとっての身体」 と 「他人にとっての身体」 となっていますが、Thanissaro Bhikku 氏が英訳されたサティパッターナ・スッタでは、以下のように 「自分の中の身体」 と 「自分の外の身体」 となっています。

Monks remain focused internally, or externally on the body.

ひとりの瞑想実践者として 「内部的」 と 「外部的」 の区別は、あまり 意味がないような気がします。タマネギの皮を剥けば、それまで内部だった 部分は外部になります。身体が感覚に溶けている状態は、タマネギの皮を 剥いたり元に戻したりしているようなもので、厳密な区別は無理ですし、 必要ないように思えます。大切なのは観察する場所ではなく、観察の質 ですから、そんな区別が必要か疑問です。

「他人にとっての身体」 とは、客観的に観察している状態のことではない か、というのがわたしの解釈です。客観的観察とは、自分が他人になる ことです。だから、ここは、どのように観察しようとも、くらいの意味では ないかと考えています。

サティパッターナ・スッタでは、瞑想者は、森に行き、樹の下か、誰もいない 離れた場所で 瞑想するように教えています。 他人のいない場所に行って、他人の身体を観察するという指導は、大きな矛盾です。

U Jotika師と U Dhamminda師は、どうして明らかに矛盾する英訳をした のでしょうか。原文にそう書かれているからでしょう。翻訳をする場合、意味不明の部分は、原文に忠実に言葉のままに訳すものです。だから、ブッダは、確かに、このように 説いたはずです。ブッダが語った言葉を、弟子たちが矛盾する言葉に変えて伝 えるはずがありません。

悟った人は、他者の中に自分を見るそうです。見る者と見られる対象は同じで、 そこに境界はないのが悟った人たちの世界のようです。だから、ブッダは、自分の 世界を語ったのではないかという気がします。ひとりで坐っていても、ブッダはあら ゆる人々といっしょに坐っていたのはないか、こんな解釈もありかなと思っています。

どのように解釈するにしても、ここでの重要なポイントは、「身体」 「感覚」 「心」 「心の中味」 を観察し、その観察が深まると、生まれては消え去る現象だけが観察され、「自分」 という実体は存在しないという理解が生まれるということです。そのことを理解すると、この世界の何ものにも執着がなくなり、一切のとらわれが消滅し、苦から解放されるということです。

サティパッターナ・スッタは、この世の苦から解放されるための手引書のようなものなのです。










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