Ensamble Amedeo Mandolin Orchestra HOME  

mandolin


  メニューへ戻る


  表紙

  ご挨拶

  プログラム

  曲目解説
  (第1部)


 => ロシア5人組の
   肖像


  曲目解説
  (第2部)


  ゲスト紹介

  メンバー



  チラシ

  案内状

   

アンサンブル・アメデオ 第16回定期演奏会
パンフレットより

Ensemble Amedeo The 16th Regular Concert
ロシア音楽の夕べ
2000年1月22日(土)
於:ティアラこうとう
 


曲目解説

第2部:ロシア5人組の肖像

 さて、第2部では、19世紀中頃に生まれたロシア国民楽派の作曲家たち、中でも「5人組」あるいは「力強い仲間」と呼ばれるバラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、ボロディン、リムスキー=コルサコフたちの曲をとりあげてみました。ムソルグスキー、ボロディン、リムスキー=コルサコフの曲については、皆さんも耳にする機会が多いのではないかと思いますが、バラキレフとキュイの曲については、演奏されることも少ないのではないかと思われます。今回は5人組全員の曲をとりあげてみましたが、この機会に5人組の一人一人についてふれ、ロシア国民楽派の音楽というものを見直してみたいと思います。ます、5人組誕生の時代背景とメンバーそれぞれの生い立ち、最後に、今日演奏する曲目のご紹介です。

◎5人組誕生の時代背景
 ロシア音楽がヨーロッパに登場するのは、ロマン派の時代に入ってから、1845年に、ロシア国民音楽の父と言われるM.グリンカ(1804−57)がパリでベルリオーズの支援を受けて、管弦楽作品を発表してからのことです。それまでにもロシア人の作曲家はいましたが、ロシア音楽と呼ばれるジャンルはありませんでした。グリンカはアマチュアの作曲家ではありましたが、国民文学運動の影響を受けて国民オペラを作曲し、大成功をおさめました。彼は「音楽を想像するのは民衆であって、作曲家はそれを編曲するだけだ。」と言っています。グリンカによってロシアの民族音楽は豊かなものになりました。

彼の仕事は、A.S.ダルゴムイシスキーに受け継がれ、さらに「新ロシア楽派」「力強い仲間」あるいは「5人組」と呼ばれる5人の作曲家たち、バラキレフ、キュイ、ボロディン、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフヘと受け継がれました。5人組が歴史に登場するのは1850年代終わり、アレクサンドル2世の大改革の時代に突入して、ロシアの首都は革新への希望で満ちあふれていた時期でした。彼らはバラキレフを指導者として、サンクト=ペテルブルクで団結しました。みな、由緒ある家系に生まれた貴族ですが、音楽については独学であり、多くは音楽以外の職業にも従事していました。このバラキレフ・グループのことを「力強い仲間」と呼ぶようになったのは、1867年のあるコンサートの成功を祝って、音楽評論家のスターソフがこのように呼び始めたことがきっかけでした。

 それでは、5人組のメンバーを一人ずつ見ていくことにしましょう。

※サンクト=ペテルブルク: 「北のヴェニス」とも呼ばれるサンクト=ペテルブルクは、エルミタージュ美術館をはじめとする西欧風の建築と、市内をめぐる運河が絶妙なハーモニーをなす、美しい町である。以前はレニングラードと呼ばれていたが、ソ連崩壊に伴い、本来の名称「サンクト=ペテルブルク」に戻った。18世紀前半にピョートル大帝は、強力に西欧化を押し進めたが、西欧への直接の窓ロを求めて、この地に首都を建設した。4万人の農奴が動員されたと言われ、針葉樹林と沼沢の上での工事は難航を極め多くの犠牲者を出したが、1712年にピョートルはモスクワからここへ遷都して、ペテルプルクの輝かしい歴史が始まった。

◎ミリ・アレクサンドロヴィッチ・バラキレフ(1837−1910)
 5人組の音楽的指導者であるバラキレフは、ヴォルガ河中流域の地方都市で育ちました。ここには素人音楽家で大貴族のウルィーピシェフがいて、自分の屋敷に音楽家を集めて管弦楽団を作ったり、音楽書を収集したりしていました。バラキレフはここで音楽の訓練を受け、1855年に弱冠19才で巨匠的なピアニストとして当時の首都ペテルブルクに登場しました。すでに病魔に犯されていたグリンカともかろうじて出会うことができて、グリンカから直接、グリンカ亡きあとのロシア音楽を指導する後継者に任ぜられたのでした。バラキレフはます、軍事技術アカデミーのキュイや芸術評論家のスターソフと知り合い、首都で積極的な音楽活動を始めました。さらに1857年にはムソルグスキーを、1861年にはリムスキー=コルサコフを、そして1862年にはボロディンを加えて、5人組の枠組みが完成しました。

 バラキレフ・グループでは、しばしば互いの家を訪問しあい、各自の作品を発表し、その作品を検討しあいました。そうして力を合わせて、5人組の作曲活動のすべての方向性を批判的に形成していきました。バラキレフは、作曲家ほ自分の穀に閉じこもって一人で創作をすべきではなく、作っている曲はできるだけ早く仲間から評価を受けたほうがよいと助言していました。それで、各メンバーの曲はすべて、グループのメンバーの目の前で育ち、完成していったのでした。

 バラキレフ・グループは単に作曲法を一緒に学んだだけではなく、共通の目的が彼らを結束させていました。真実性、民族性、国民性というグリンカの観念に従いながら、同時代のロシア人が持っている感情、期待、思考を音楽で具現化することを願っていました。

 5人組が集結した頃、アントン・ルビンシテインがロシア音楽協会をつくり、その教育部として1862年にペテルブルグ音楽院を創設しました。ちなみに、この音楽院の第1回生がチャイコフスキーです。彼らは心身ともに西欧との合流を試みている西欧派でした。これに対しバラキレフたちは、ロシアの国民的特性を保持した音楽の創作をめざし、1862年に無料音楽学校を開設しました。この学校では、都市に住む様々な人々に合唱や初歩の音楽理論を教えて、音楽愛好家を広く育成しました。バラキレフ・グループのメンバーは積極的に無料音楽学校の活動を支持し、新聞・雑誌で自分たろの音楽に対する見解を発表しました。チャイコフスキーらのように西欧化しようとする立場と、5人組のようにロシア的なものを尊重する立場との対立は、この時代の他の芸術や文学でも普遍的に見られたことでした。

1867年にバラキレフは、ルヒンシテインのあとを継いでロシア音楽協会の音楽監督に就任し、定期演奏会で5人組の新作を積極的に取り上げました。しかしこのような方針は、保守的な皇帝関係者の好みに合わず、わすか2年間で解任されます。その後、バラキレフは無料音楽学校の経営にも苦心して、経済的な困難から重い精禅的危機に陥り、音楽の集まりに出席するのをやめてしまいました。友人たちはなんとかして彼を助けようとしましたが、バラキレフは1872年にはすべての音楽活動から身を引いて、サラリーマンに転身してしまいました。しかし1877年ころから再び楽壇に姿を現すようになり、1883年にはロシア王室礼拝堂の音楽監督になりました。また、無料音楽学校の校長に復帰し、ロシア革命までの間、ロシア国民に音楽を広めることに尽力しました。残念ながら1870年頃の精神的破綻以後は創作力が枯渇し、後半生はまともな作品を作れなかったということです。

 彼の音楽はサロン的であり、キュイ同様、ロシアの民族的メロディーの影響をあまり受けておりません。バラキレフはロマン的でメランコリックな、フランス音楽に似た作品を残しました。また、ピアノ曲の「イスラメイ」は東洋的な旋律を持っており、ボロディンが異国情緒の作品を作る上で影響を与えていたのではないかと考えられます。

◎セザール・キュイ(1835−1918)
 キュイは、5人組の中で現在最も知られていない作曲家かもしれません。彼は作曲を続けながらも終生軍人であり、最終的には陸軍工兵大将にまでなりました。彼は1835年に、フランス人の父親とリトアニア人の母親との間に生まれました。彼の父親はナポレオン軍にいたフランス人でしたが、ロシアで学校の先生となり、最終的にはロシア国籍を取りました。ちなみに彼の「セザール(Cesar)」という名前は、ローマの英雄シーザーにちなんでつけられたそうです。キュイは子供の頃から地元のバイオリニストなどから音楽を習っていたようです。ペテルブルクの陸軍工科学校を卒業後、軍職を続け、築城学の教授となりましたが、バラキレフらとともに作曲活動を行いました。彼はまた「サンクト=ペテルブルク通報」の常任執筆者であり、5人組の意見の代弁者でもありました。5人組結成のころは、無料音楽学校設立の理由など、5人組の思想の代弁をしていましたが、1870年ころにバラキレフが音楽の一線から退いたあとは、仲間であるムソルグスキーの歌劇「ポリス・コドゥノフ」について容赦ない批判を書いたりし、5人組は決裂していきました。またペテルブルク音楽院を創立したルビンシテインについては、「彼はロシアの作曲家ではない。単に作曲をするロシア人というだけだ」というような批評をしたとも言われています。

 キュイは、非常に多くのサロン的音楽を作曲したようですが、現在はほとんど知られておりません。フランス語による歌劇・歌曲等の作品もあり、ベルギーやフランスで活躍することも多かったそうです。彼はロシア国民楽派の音楽を作曲しようと努めたのですが、その生い立ちのためか、西洋的な、特にフランス的有音楽になってしまったのでした。そして感傷的なロマンスを得意としていました。彼の音楽は非常に人当たりがよいのですが、彼の批評は痛烈でした。誰彼かまわす切って捨てる、いやみで辛辣な評論家として有名で、余りにも敵を作り過ぎたため、悲惨な晩年を過ごしたようです。

◎モデスト・ペトローヴィッチ・ムソルグスキー(1839−1881)
 ムソルグスキーは、死んだときからようやくその芸術的生命が始まった芸術家であり、存命中の彼は無視され、5人組の中では最も日立たない一員と考えられていました。彼は生涯独身であり、いつも精神的な弱さと自尊心とに挟まれて苦しみ、アルコール中毒になっていました。そして42才という若さで死んでいきました。

 彼の人生が果たして幸せであったのかどうかはわかりません。ムソルグスキーは1839年に古いロシア貴族の子供として生まれました。彼の父方の祖母は農奴の娘であったので、ムソルグスキーの中にはロシア農民の血と、貴族の血とが混じっていました。そのせいでしょうか、ムソルグスキーは幼い頃からロシア農民に対して深い愛情を示していました。この傾向は、彼の生涯を通じて一貫した芸術的特徴となりました。彼は母親から、当時の国際語であるフランス語と、ピアノを習ったようです。軍人一家の伝統からか、13才で近衛士官学校に入学し、歴史と心理学に興味を持って勉強しました。1856年、17才で士官学校を卒業してペテルブルグの守衛隊に配属されたとき、日番当直将校として勤務した陸軍病院で医師のボロディンと知り合い、音楽について語り合ったそうです。ポロディンいわく「当時のムソルグスキーは…全く優美で、絵本にある陸軍将校のようでした。物腰はやさしく、貴族的で、…しきりにフランス語の言い回しをしていました。しつけがよくて、礼儀の正しい点が日立っていました。すべての婦人が彼には愛想よくしていました。」ムソルグスキーはピアノを弾きながら歌うのが上手で、演劇的才能を持っていたそうです。彼は常に陽気で道化風であり、彼が出演すると爆笑と喝采の連続であったとのことです。

 彼が本格的に音楽の道に進むことになったのは、1857年にダルゴムイシスキー、キュイ、バラキレフ、スターソフらと知り合ってからでした。彼はバラキレフから楽式と楽曲分析について習いました。このときバラキレフは22才、ムソルグスキーは20才でした。この稽古は月謝もとらすに行われ、半年くらい続いたあと、お互いは友人として意見を交換するようになったそうです。実ほバラキレフは和声法や対位法を正式に学んだことがなかったために、ムソルグスキーには楽式を教えることしかできませんでした。それゆえムソルグスキーは、作曲の技法について長いあいだ苦しむことになります。しかし、そのような西欧志向的訓練が欠如していたからこそ、彼は、オリジナリティーのある音楽を作曲することができたのかもしれません。

 その後、ムソルグスキーは本格的に音楽を学ぶために軍職を退きますが、1861年に農奴解放令が出て、地方の小さな地主であった実家は没落し、彼の不遇な生活が始まりました。彼は自尊心が強く、バラキレフと対立することもあり、その一方では驚くべき自己卑下をするので、この時期から既に神経的な症状を呈していました。軍隊にいた時のようなおしゃれなところはなくなり、スターソフとバラキレフから、白痴であるかのように見なされることもありました。バラキレフ・グループにいるときの緊張しすぎる空気から逃れるためか、1863−64年に上流階級の青年5人と共同生活を送りました。自由で気楽な雰囲気に包まれて過ごしたこの2年間は生涯で最も幸福な時代であったと彼は言っています。24才のときから、お金を稼ぐために官庁に勤め始めました。このあと18年間、官吏として働きましたが、努力をしない彼はずっと下っ端だったそうです。この頃の彼は、母の死、財源の窮乏、官吏生活の重荷、役所で空費される時間、といった苦悶を紛らわすために過度の飲酒を行いアルコール中毒になり、神経組織は害されてきました。1867年頃に「禿げ山の一夜」の原曲を完成させましたが、この曲に好感を持たなかったバラキレフとムソルグスキーの仲は次第に悪くなっていきました。1869年にバラキレフが音楽界から遠ざった頃から、ムソルグスキーはリムスキー=コルサコフ、ボロディン、スターソフと個人的に仲良くなり、1871−72年には、リムスキー=コルサコフと共同生活をしました。2人とも貧乏で、部屋には1台のテーブルと1台のピアノしかありませんでしたが、午前中はムソルグスキーがピアノを使って、午後に彼が役所の勤めに出かけたあとにリムスキー=コルサコフがピアノを使うようにしていたそうです。「彼らは音楽的に見て正反対であるが、共同生活をすることにより、まるで一方が他方を補う役目をしたかのように音楽的に成長していった」とボロディンは書いています。その頃、バラキレフ以外の4人は大きなオペラの作曲を分担して行っていましたが、このオペラの上演が不可能になって作曲が中止されると、ムソルグスキーはバラキレフ仲間から次第に離れていき、スターソフ、建築家のハルトマン、画家のレーピンらと親交を深めるようになりました。この頃、歌劇「ホヴァンシチーナ」の作曲にも着手しましたが、酒浸りになり、大変にやつれてしまいました。

 ムソルグスキーは、30−36才までの男盛りの時期を歌劇「ポリス・コドゥノフ」の作曲に捧げました。このオペラは、鋭い社会的方向性と大胆なリアリズムを特徴とした民衆の心理ドラマであるため、あまりにも革新的であるとみなされて上演に反対する人が多かったのですが、上演後は青年層から絶対的な支持を受けました。学生たちは、真夜中の寝静まった街頭をオペラ中の合唱を歌って歩いたそうです。また、「これはオペラではない、歴史の1ページだ」と言った人までいたそうです。しかしキュイはこのオペラに対して少しも同情のない批評をしました。またチャイコフスキーは「ムソルグスキーの音楽なんかは、消えてなくなったらよい。あれは本物をもじった、野蛮で下劣なものである。」と言っていたそうです。この「ポリス」上演後、ムソルグスキーはバラキレフ・クループの集まりに顔を出さなくなりました。自負心が顕著になって傲慢になり、飲酒はさらに増えました。仲間も次第にムソルグスキーから離れていき、5人組は(一時的にですが)決裂しました。

1881年の春、彼は陸軍病院に入院しました。仲間たちが見舞いに来て、レーピンは彼の肖像画を描きました。このときに描かれたのが、あの凄まじい、忘れることのできない肖像画です。その頃は春の美しい天気で、部屋の中は日の光で溢れていました。彼は、こんなに気持ちのよいことは生涯になかったと言いました。しかし満42才の誕生日の朝、彼は息を引き取りました。ムソルグスキーにとって母親のような存在だったリュドミラ・シェスタコワ(グリンカの妹)は、次のような手紙をスターソフ宛に書いています。「彼の死んだことは、友人にとってのみならず、芸術にとっても取り返しのつかぬ損失です。でも、これ以上生きていたって、もっと幸福になるという見通しはありませんでしたね。‥私がただ一つ言えることは、私にとってのムソルグスキーはいつも生きているのです。「ポリス」の作曲者としてでなく、親切な、正しい、そして高貴な、日立った個性の持ち主として生きています。私は加減が悪くて、家に引き籠もりきりです。起きられるようになったら、まず第一にムソルグスキーのお墓へ参ろうと思っています。」ムソルグスキーは、ドストエフスキーが埋葬されたばかり僧院の中の、グリンカの墓の近くに埋葬されました。こうして、ムソルグスキーとドストエフスキーの死後、ロシア・リアリズムの黄金時代は終わったのでした。

 ムソルグスキーの音楽は「ロシア的」ではなくて「ロシア」そのものである、と言った人がいました。ムソルグスキー自身の言葉を読むだけでも、このことがはっきりするかもしれません。「僕が描写したいと思うのは民衆です。寝ていても醒めていても、飲んだり食へたりしても、僕の心の眼にはいつも彼らが映っています。‥民衆の言語の中には、なんという豊富な宝があって、それが作曲家を待っていることか。」ムソルグスキーにとってはロシアの農奴さえも人間的存在でした。当時、ロシアの百姓は品物であり、霊魂もなければ感動もないものと考えられていて、家畜と同様に売買されていました。そのロシア農民の魂の中に人間的要素を探し求めようとするのが、ムソルグスキーの愛情的な態度でした。

 ムソルグスキーはまた、自分のことを次のように書いています。「ムソルグスキーは、いかなる現存の音楽家の仲間にも分類することができない。芸術は民衆と意志を交換するための手段であって、芸術それ自身が目的ではない。この原則によって彼の創作活動全体が特徴づけられている。人間の言葉は音楽的法則によって厳密に制約されているという信念から出発して、感情のみならす、まず第一に、人間の言葉をも音楽的な音響をもって再現するべきであるというのが、彼の考えている芸術の使命である。」実際彼は、人間の言葉を音楽的な音に翻訳することに打ち込み、朗唱的手法を開発し、オペラと歌曲において写実主義(リアリズム)を達成しました。

 ムソルグスキーの影響は、ヤナーチェクやパルトークにばかりでなく、短期間ロシアで過ごし、色彩的ハーモニーや朗唱的表現などにおいてムソルグスキーの仕事を継いだフランス印象派の作曲家ドピュッシーに強く見られます。ムソルグスキーのピアノ曲についてドピュッシーは次のように書いています。「われわれの内にある最もよいものを、彼ほどに優しく、切実な語調で語った者はいない。彼は無類である。そして、干からびた様式を持たない。前例のないその芸術のために、いつまでも無類であろう。かつてこれ以上に洗練された感受性が、これほど単純な方法で翻訳されたことはない。これはその情緒によって、一足ごとに音楽を見出す好奇心のある蛮人の芸術のようである。」

 ムソルグスキーの人生は幸せだったのでしょうか。それはよくわかりません。でも彼が音楽に浸っているときには、心の中で多くの人々と語り合うことができ、弧独ではなかったのではないでしょうか。美しい音楽でやさしく語りかけてくれるムソルグスキーのことを思うと、モーツァルトのことが思い出されます。2人ともとても幸せとは言えない境遇でしたので、彼らが幸せだったのかどうかは、僕にはわかりません。だけど一つだけ言えることは、彼らの音楽を聞くと、なんだか幸せな気持ちになれるということです。

◎アレクサンドル・ポルフィリエヴィッチ・ボロディン(1833−1887)
pamph1607.jpg  ボロディンは5人組の中で最も作品数が少ないですが、未完のオペラ「イーゴリ公」からの「だったん人の踊り」や、交響的スケッチ「中央アジアの平原にて」、「交響曲第2番」のような作品に見られる東方的エクソティシズムのために、非常によく知られている作曲家です。

 彼の作品数が少なかったのは、化学者としての本業があまりにも忙しかったからです。彼は作曲家であるだけでなく、優秀な化学者であり、社会運動家でもありました。

 ボロディンは1833年にペテルブルクで生まれました。貴族である父親とその家で働く家政婦との間に生まれた子供であったため、当時の慣習に従って、父親の屋敷に使える農奴の子供として育てられました。母親はそれを気遣って、ボロディンに自分のことを「叔母さん」と呼ばせていたそうです。ボロディンは病弱で神経質でしたが、非常に感受性に富んだ子供として育ち、鋭い観察力、辛抱強さ、並外れた記憶力で際だっていました。彼は空想し、おとぎ話の世界に浸ることが好きでした。

 9才で作曲を始め、10才では花火を作ることを考え始め、家の中で様々な化学実験を始めました。ピアノ、チェロ、いろんな管楽器の練習もしました。1843年に父親がなくなるとき、遺言により、彼は農奴でなくなりました。1850年に、ロシアの内科・外科アカデミーの医科に進学。学生のときから化学の分野で頭角を現し、教授から、自分の後継者であると言われ、高く評価されました。1856年に学年で1番の成績でアカデミーを卒業し医師になり、軍医として働きはじめたころに、病院でムソルグスキーと知り合いました。しかし軍医としての仕事は彼には合わず、1857年に医師としての活動をやめ、化学講座の助手になり、化学の研究者として生きていくことになったのでした。音楽は余暇の楽しみとして続けていましたが、それでも、裏面日な音楽の勉強、友達との演奏、作曲法の勉強、コンサート通いなどを熱心に行っていました。

 1859年から2年間、ドイツのオックスフォードと呼ばれている学園都市のハイデルベルクに留学することになりました。
 彼はそこで、のちに原子の周期表を決定することになるメンデレーエフらと親交を深めました。また、この留学期間中に、同じくハイデルベルクに満在していたロシアの女流ピアニストのエカテリーナ・プロトポーポワと出会い、音楽を通して急速に結びつき、婚約をしました。ハイデルベルクでの生活は、彼の人生の中で最も幸せなときだったのかもしれません。ペテルブルクに戻ったあと、1862年にバラキレフ・グループのメンバーたちと知り会いました。「ロシア国民のための音楽を創作する」というバラキレフ・グループの信念はボロディンの考えと一致しており、彼は積極的にこのグループの活動に参加しました。これまでは化学者が本業だと考えていた彼も、今や、化学の研究にも音楽の作曲にも同等の興味をいだくようになっていました。1864年に31才で内科・外科アカデミーの正教授に就任し、化学の世界でその才能を認められると、今度は1869年に交響曲第1番の初演が大成功をおさめ、作曲家としても認められました。スターソフのすすめにより、1869年から「イーゴリ公」の作曲を開始しましたが、学術研究、教育、社会活動の仕事を山のように抱えながら作曲を続けることは困難であり、1870年にはオペラの作曲を中断してしまいました。

 ボロディンは研究と作曲の他に、社会活動も行っていました。1860年代のロシアでは、女性たちも高等教育を受けたいという熱望が社会的に強く表明されました。ボロディンはこれを支持し、女子医科大学を設立する上で大いに活躍しました。しかしこの活動により、ボロディンは作曲のみでなく、研究をもすることができないくらい多忙になってしまいました。

 1875年ころ、中断していたイーゴリ公の作曲をようやく再開し、さらに交響曲第2番を作りました。しかし交響曲第2番の初演は不評に終わり、悲痛にくれたボロデインは、研究関係の出張のときにフランツ・リストを訪問しました。当時、5人組のメンバーはリストが最も進歩的な音楽家であると考えていたようです。リストはやさしく語りかけました。「あなたの進もうとしている方向からあなたをそらせようとする人の言うことなどにどうか耳を貸さないでください。信じてください。あなたは正しい道を歩んでいるのです。あなたは実にたくさんの芸術的なセンスをお持ちなのですから、独創的になることを少しも恐れる必要はありません。・・・たとえあなたの作品が演奏されないとしても、出版されないとしても、共感を受けなくても、仕事をしてください。私を信じてください−−あなたの作品は自分で『栄誉ある道』を切り開きます。」リストとの出会いはボロディンに強い印象を与え、完全に彼に自信を取り戻させました。

 リストを訪問したあと彼は、思い出の地であるハイデルベルクに立ち寄って、妻の工カテリーナと一緒に訪れた懐かしい場所を歩きまわりました。彼はそのとき、もう一度あのハイデルベルクでの幸せな生活を体験したかのような気がして、うれしくて涙をこらえるのがやっとだったそうです。このときのことを思い出しながら、妻への愛を込めて、1881年に「弦楽四重奏曲第2番」を作曲しました。またこの頃、「中央アジアの平原にて」が作曲され、人気を得て、広く演奏されることになりました。

 しかし、ボロディンに悲しみが訪れました。1881年に友であるムソルグスキーが亡くなりました。翌年の秋、彼のオペラ「ポリス・ゴドゥノフ」が再演されたときには、ボロディンは上演中何度となく涙を雨のように落としていたそうです。また、ポリスが死ぬ場面になると取り乱してしまい、それ以上聞けなくなってボックス席から出てしまったそうです。さらに1885年には政治情勢の変化により、彼が尽力して創立した女子医科大学が閉鎖されることになり、大きな悲しみを味わいました。その大学の化学実験室を壊さねばならないときになると、ボロディンは耐えられなくなって、脇を向いて号泣してしまったそうです。

 この頃の彼はあまりに忙しく、大学をやめたかったのですが、それもできず、オペラの作曲はほとんど進んでいませんでした。ボロディンに対して優しく献身的だったリムスキー=コルサコフは、彼の音楽秘書の役を引き受け、譜面の下書きなどをやっていました。ボロディンの力と時間が、音楽とは程遠いことに使われてしまい、疲れていくさまを見ながら、リムスキー=コルサコフは「私が彼よりも長生きしたら、私が彼のオペラを完成させることになるだろう」という悲しむべき結論に達していたそうです。そして1887年、ボロディンは大学の仮装舞踏会の途中に急に倒れ、そのまま死んでしまいました。54才でした。ボロディンは、ムソルグスキーの墓の隣に埋葬されたそうです。

◎ニコライ・アンドレイエヴィッチ・リムスキー=コルサコフ(1844−1908)
リムスキー=コルサコフ  リムスキー=コルサコフは5人組の中で最も若く、最も華やかな存在の作曲家でした。また管弦楽法の天才と言われ、「管弦楽原理」という著書を残したことでも知られています。彼もまた5人組の仲間同様にロシアの国民音楽というスロ−ガンをかかげて作曲活動を行いました。彼は、ロシアに固有なものとして、美しい物語を設定したと考えられます。スラブ的童話の世界の色彩、さざめき、人を惑わせる陶酔などが、彼のきらめくが如きオーケストレーションによって甦っていると言うことができるでしょう。

 リムスキー=コルサコフは1844年に貴族の子として生まれ、幼いときからピアノを習い、12−18才までペテルブルクの海兵学校に通いました。この間にバラキレフ・グループのメンバーに加わり、作曲を開始しました。しかし海兵学校卒業後に、義務として外国航海に2年8ヶ月ほど行かねばならず、その間に彼の音楽に対する情熱は次第に消えていきました。その航海の際に彼は、イギリス、ドイツ、アメリカ、ブラジル、フランス、スペインに行き、世界各地の様々な自然を体験しました。そしてこの経験はその後の彼の音楽の作風に大きな影響を与えることになったのでした。1865年にペテルブルクに戻ったときバラキレフらと再会し、作曲を強くすすめられたことから、海軍士官の仕事をしながら再び作曲活動を開始しました。彼は精力的に多数の曲を作り、ついに1871年には27才の若さで、ペテルブルク音楽院の管法楽法と作曲法の教師として迎え入れられました。しかしこのときまでの彼は、「一度も対位法も書いたことがなければ、4−6の和音の存在すら聞いたことがなかった」と自伝の中で書いています。それでも彼は海軍を退職し、勇気を持って作曲法を一から勉強しなおしたのでした。この当時、リムスキー=コルサコフとムソルグスキーはとても仲がよく、2人で共同生活を送っていました(ムソルグスキーの項を参照)。リムスキーは週に1、2度、音楽院での授業がありましたが、そのほかには何らの定収入もなく、音楽院の俸給だけでは大した金額にならず、貧乏な生活を続けていたそうです。しかし1873年に海軍楽隊監督官になり定職を得ました。また、バラキレフが音楽から離れていたため、リムスキーが無料音楽学校の校長と指揮者になり、バラキレフが復帰するまでこれを勤めました。1880年代、リムスキー=コルサコフはムソルグスキーとボロディンの未完作品の完成とオーケストレーションに時間を費やし、自分の作曲はできずにいました。しかしそれが終わったあとの1887ー88年には彼の創作意欲が火のように燃え盛り、「スペイン奇想曲」「シェエラザード」などが相次いで発表されました。

 リムスキー=コルサコフがペテルプルク音楽院の教授を続けていたため、ロシア音楽協会と無料音楽学校との対立の構図は解消されていきました。しかしそれと同時にリムスキー=コルサコフは次実にアカデミズムに傾斜していきました。そして1885年以降には、彼を中心としてグラズノフやリャードフらが音楽事業家ペリアエフのもとに集まり、ペリアエフ派を作ったのでした。バラキレフ・グループはアマチュアのディレッタントの集まりであったのに対し、ペリアエフ派は音楽院で専門教育を受けたプロの集団でした。リムスキー=コルサコフは、前者は「ロシア音楽発展における嵐の時代に相当した」と考え、後者については「おだやかな前進の時代である」と考えていたようです。バラキレフ・グループの最年少者であったリムスキー=コルサコフが、今度は若い人たちの指導者になったということは、時代の移り変わりが感じられますね。ちなみに、彼が音楽院で教えた弟子の中にはプロコフィエフやストラヴィンスキーなどがいます。

 リムスキー=コルサコフの晩年には日露戦争や「血の日曜日」事件が起き、彼もまたこのような社会情勢に巻き込まれていきました。学生運動を支持したとみなされて音楽院の教授の席を失い、また、1905年の革命のときにはロシア民謡を力強く歌いながらデモをする労働者らに強く共感し、その民謡をもとにした管弦楽曲「ドゥピヌーシカ」を作曲しました。民衆に対して強い共感を持つという点において、彼はやはりロシア国民楽派の作曲家であったと言えるでしょう。1908年、長い間わずらっていた喘息が心労によって悪化し、64年の生涯を閉じました。

◎本日演奏する曲目について


HOME | アメデオについて | 笑顔! | 歩み | 活動 | 演奏会案内 | パンフレット | CD販売 | 試聴室 | 写真館 | 掲示板 | リンク
Copyright(C) 1998-2007, Ensemble Amedeo All rights reserved.