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アンサンブル・アメデオ 第16回定期演奏会
パンフレットより

Ensemble Amedeo The 16th Regular Concert
ロシア音楽の夕べ
2000年1月22日(土)
於:ティアラこうとう
 


曲目解説

第1部:ロシア民族音楽の源流を辿る

シベリア狂詩曲                  作曲 G.イワノフ(編曲 帰山 栄治)

 オープニングは、イワノフ作曲の「シベリア狂詩曲」です。この曲はもとは管弦楽曲だそうですが、グゥリャーエフという人がロシア民族オーケストラ用に編曲し、それを帰山栄治氏※1(※この曲の解説の最後に説明がありますので、ご参照ください)がマンドリンオーケストラ用にさらに編曲したものです。ロシアの民族楽器であるバラライカ※2やドムラ※2(ロシアのマンドリン)はマンドリンと同様に撥弦楽器(弦をはじく楽器)であり、トレモロ奏法(手を素早く動かす奏法)を用いるという点で共通性があります。ですから、ロシアの民族的な旋律やリズムもマンドリンと非常に相性がよく、多くのロシア民族音楽がマンドリンオーケストラ用に編曲され、演奏されています。

 シベリアとは、アジア北部にある、ウラル山脈からベーリング風こわたる広大な大地であり、西シベリア低地、中央シベリア高原、東シベリアに三分されます。シベリアの大部分は冷帯に属し、タイガと呼ばれる針葉樹林で覆われています。また、オピ川、エニセイ川、レナ川などの大河があります。シベリアでの冬は、零下20度にもなり、東シベリアでは零下40度以下にも達します。零下20度になると、眉毛、ひげ、前髪に霜がつくので、顔を出して歩けないそうです。また零下25度以下になると凍裂(生きた大木が立ったまま、はじけるような音を立てて裂ける現象)が起き、零下40度になると小鳥が凍死するそうです。そういう所でもトラ(シベリアトラ)※3が住んでいるそうです。生命の力強さを感じますね。

 シベリア北部はツンドラ地帯であり、一年の大部分が堅氷に閉ざされている荒原です。夏の間だけ凍土層の表面が溶けてコケ類などが生育し、辺りは湿地帯のようにぬかるみ、蚊がたくさん飛び交うそうです。それでも気温は10度以下。夏のほんのわすかな間だけ、まるで夢を見るかのように生命が一気に溢れかえり、そしてまた氷に閉ざされてしまう大地です。そんな大地なのですが、ヤクート人などの様々な少数民族が、トナカイの放牧をしたりしながら暮らしています。そこでは今でも、昔から変わらない生活習慣のままでの暮らしが営まれています。そんなシベリアの大地のことを想像しながら、この「シベリア狂謡曲」は作曲されたのでしょうか。

 曲は、イ長調4分の2拍子で、ソリの鈴の音のような軽快なリズムで始まるとすぐに、軽やかで流れるような旋律がマンドリンから聞こえてきます。見渡す限り真っ白で広大な雪原が広がったシベリアの大地。空は晴れ渡って太陽がまぶしく大地を照らしているのでしょうか。そんな雪原の上をソリが鈴の音を鳴らして駆け抜けていくかのようです。荒涼としたシベリアの大地のはずなのですが、音楽はとても楽しそうですね。もうすぐ雪解けが近いのでしょうか。

 マンドリンの軽やかな旋律の後には、ホ長調でマンドラのデュエットがのどかな感じの旋律を奏でます。そりを止めて一休みしているのでしょうか。気持ちいい風がゆらゆらと漂っていく大地の中で、シベリアの美しい景色を、純粋な心で「きれいだなあ」と眺めているかのようですね。ロシア人にとって、自然こそが祖国への感情の支えになっているのだそうです。

 シベリアの広大なタイガ、見渡す限りの雪原、ゆったりと流れる大きな河、こういったものがロシアの宝物なのでしょう。つぎにMarcato Graveの部分に入ると少し静かな感じになります。ロシアの夏に見られるという白夜の様子が想像されます。ドストエフスキーの描き出す夢幻的な世界は、この白夜に関係しているのだそうです。

 再び最初の軽快なメロディーがハ長調で奏されたあと、トリルを経過して、曲はへ短調4分の3拍子の悲痛な旋律へと変わります。シベリアの厳しい冬の到来です。その寒さは本当に厳しく、真冬の間は零下40度にもなり、外にいたら凍死してしまうでしょう。吹雪が荒れ狂い、いつ果てるとも知れない厳しい冬。そんなに辛いのに、どうして耐えて暮らせるの?どこか他の場所で暮らそうとは思わないの?と問いかけてみたくなります。でもきっと答えは始めから決まっているのでしょう。「私はここにいます。ここが私のふるさとだから。家族みんなと暮らしているだけでとても幸せだから」と。

 嵐が止まったかのように演奏が静まり返ったあと、静けさの中から、マンドリン・ソロによって冬の物悲しいシベリアを思わせる施律が奏されます。でも耳をすませば、大地の動きのような低音のピッチカートも聞こえてきます。目に見えないところで、シベリアの大地が春を迎える準備を始めているのでしょうか。すると、はるか地平線の彼方から、うっすらと光が差し始めてきました。もうすぐ夜明けです。待ちに待った春の到来です!ト長調4分の2拍子で、冒頭の旋律に似た軽快なロシア風の舞曲が全合奏で奏されます。楽しそうですね。その旋律は様々に変奏し、さらに、冒頭の流れるようなメロディーと重なり合っていきます。そうして曲は陽気に進んでいき、最後のVivaceで華々しく終わります。ようこそシベリアヘいらっしゃいました!


1.帰山栄治:1943年福井県生まれ。名古屋大学在学中、ギターマンドリンクラブで指揮者をつとめる。作曲法を中田直宏氏に師事。現在、マンドリン合奏曲を中心に、吹奏楽曲などの様々な分野にわたって作曲・編曲活動を行っている。1981年に名古屋市芸術奨励賞を受賞。ロシア民族音楽の作曲家であるニコライ・ブダーシュキン(「ドムラのための協奏曲」の作曲家)と親交があった。

2.バラライカ、ドムラ:バラライカは、おしゃべりするという意味の「バラカーチ」を語源とする三角形の弦楽器で、3本のスチール弦(調弦はF,E,A)を指ではじいて弾きます。一方、ドムラは4本のスチール弦をピックではじいて弾きます。
1本弦だけでトレモロ(手を素早く動かす奏法)もします。ちなみにマンドリンは4種類の弦が2本ずつ張られていて、2本まとめてピックで弾きます。バラライカは17〜18世紀こ踊りの伴奏楽器として使われ、ロシア全土で農民をはじめとした庶民の間に流行しました。ドムラは16〜17世紀に用いられた伝説上の楽器で、1枚の不鮮明な絵以外は何も残っていないそうです。どろらの楽器も現在のような形になったのは、19世紀末にアンドレーエフという人が楽器を改革してからです。その後、踊りの伴奏だけでなくクラシック音楽の演奏も可能になり、ロシア民族楽器オーケストラという新しいジャンルが確立されました。ちなみに、バラライカというお酒がありますが、ウォツカの原産地にちなんで、ロシアの民族楽器バラライカの名をつけたそうです。作り方は、ウォッカ、コアントロー(ホウイトキュラソー)、レモンジュースをそれぞれ(ほぽ)等量ずつシェーカーに入れ、シェークして出来上がり。テイストはやや甘口で、アルコール度数は27%程度。バラライカのパリエーションとして、サイドカー、ホウイト・レデイ、マルガリータ、XYZがあるそうです。

3.シベリアトラ:アムールトラ、マンシュウトラ、トウホクトラとも言われます。かつてはロシア極東を始め中国北東部や朝鮮半島に広く生息していましたが、現在ではロシア沿海地方及びハバロフスク地方(南部)のタイガ林を最後の生息地とし、野生の個体数はすでに200頭程度にまで減少、高価な毛皮と骨を自的とした密猟、および森林開発などによって深刻な絶滅の危機にあるそうです。


ドムラとロシア民族オーケストラのための協奏曲

作曲 ニコライ・ブダーシュキン(編曲 小穴 雄一)

 ニコライ・ブダーシュキン(Nicolai Pavlovich Budashkin)(1910−88)は、モスクワ近郊に生まれモスクウ音楽院で学んだ20世紀の作曲家です。バラライカオーケストラのための作品を多数発表し、1948年にはこの功績によリスターリン賞を受賞しました。ちなみにこの賞の受賞者がカバレフスキー、クニッパー、アルチヌアン、ハチャトゥリアン、そしてショスタコービッチらであるということからも、ブダーシュキンがいかに素晴らしい作曲家であったかをうかがい知ることができます。彼の作品はロシアの民族音楽を素材にしたものが多く、広陵としたロシアの平原を情熱をもって描いた作風に特徴があります。この「ドムラのための協奏曲」にも彼の特徴が非常によく顕れていて、聞いていると、ロシアの平原が本当に目の前に浮かんでくるかのような気がします。この他に彼の代表作としては、「トロイカの主題によるバラライカのための協奏曲」「祝典序曲」「ロシア幻想曲」「ロシア序曲」「氷のうえを行くそり」「バイカル湖の伝記」「叙情組曲」などがあります。

 ロシアの民族オーケストラの代表的アンサンブルグループの一つに「オシポフ記念バラライカオーケストラ」があります。
楽器編成は弦は大きく2つのグループ、すなわち、指でかきならす三角の形をしたバラライカ属(標準サイズからバスまでに分かれています)と、マンドリンのようにピックで鳴らすドムラ属に分かれます(こちらもアルト、テノール、バスとサイズは様々です)。これに加えてバヤンというアコーディオン、グズーリというハープみたいな楽器、ひちりきのような音のする素朴なオーボエやら、おもちゃのラッパみたいな楽器も加わっているようです。このオーケストラは、バラライカやドムラが現在のような形になった頃から存在する歴史の古いオーケストラで、その演奏はCDにもなっていますが、とても素晴らしく「おすすめ盤」です。本日は、バラライカオーケストラをマンドリンオーケストラに置き換えて、マンドリン独奏とマンドリンアンサンブルで演奏します。ソロは青山忠氏です。

 この「ドムラとロシア民族オーケストラのための協奏曲」は3つの楽章からなる本格的な協奏曲で、技巧的に凝りに凝った作品です。それぞれの楽章で、ロシアでの生活の様子、ロシアの冬、及び雪解け後の春の様子が描かれていると思われます。また随所にロシアのフォルクローレがちりばめられ、親しみやすい作品になっています。

第1楽章「アレグロ」
 誰もが知っている「一週間」の旋律がモチーフとなっています。そのメロディーは様々な形できらびやかに彩られ、華やかに展開します。中間部は哀愁を帯びた、いかにもロシア民謡といった感じの唄がしみじみと歌われます。やがてひとりたたずみ、ソロマンドリンのカデンツァ。そして再現部、再び「一週間」が、今度は前にも増して一層力強く演奏されます。

第2楽章「ドゥムカ」
 ドゥムカとは、ウクライナ地方の挽歌のことのようです。この曲のレコードの英語訳では「meditation(瞑想)」や「Traumerei(夢:ドイツ語)」となっています。曲の最初で、マンドラがとても寒い感じの旋律を奏します。夜、家の外では雪がしんしんと降っています。零下20度の凍りつくような寒さです。そんな夜の静けさに包まれながらベッドに入って目をつぶっていると、春や夏に過ごした楽しい日々がだんだんと思い出されてきたのでしょうか、暖かくて、のどかな施律が独奏マンドリンから聞こえてきます。その旋律はマンドリンオーケストラ全体に受け継がれて、夢のような世界が広がります。短い夏のあいだに遊びまわったこと、恋人や家族と楽しく過ごしたことなどを思い出しているのでしょうか。まるで天国にいるかのようです。あたたかくて、あわい光が全体を覆っていて、あふれるばかりの愛情で満たされています。そんな記憶が、幻想的なきらめきに彩られながら、胸をしめつけてくるかのようです。そうして、だんだんと眠りについてゆくのでしょうか。外は寒い冬の夜です。本当にまたあのような春や夏がやってくるとは思えないくらい、心底冷たい世界が広がっているだけです。

第3楽章「フィナーレ」
 第3楽章はロシアの春の様子でしょうか。雪が溶けて大地が姿をあらわし、子供が犬と一緒に外を走り回っているかのようにとても軽快な曲ですね。それとも、ソリに乗って雪の上を滑りながらはしゃぎ回っているのかな? 終始ソロ・マンドリンのピッキングが躍動的にかけめぐります。中間部では4分の3拍子になり、まるでロシアの拡大な大地の讃歌のようなメロディーが全合奏で力強く奏されます。とうとうと流れる大河、シベリアの大いなる自然が想像されます。そのあと再び冒頭の軽快な音楽が再現されます。そしてさらに上昇形とともに合奏全体がクレッシェンドしていき、クライマックスに到達したあと、だんだんと遠ざかっていきます。まるでつむじ風のような、マンドラのクロマティックの長いディミニエンドの後、次第にモレンドして消えていくように終わります。


ロシア民謡を合唱団「白樺」とともに

「アムール河の波」「はてもなき荒野原」「ステンカ・ラージン」「若きシベリア」

 ロシア民謡は、ロシアの人々が日常生活の中で歌い継いできた歌であり、ロシアの民衆の1000年にもわたる血と汗と涙の結晶の輝きです。合唱団「白樺」は、ロシアの歌ばかりを歌い続けてきた合唱団で、今年で創立50周年を迎えられるとのことです。このように素晴らしい団体と共演できますことは、私たちアンサンブル・アメデオにとって大変な光栄です。本日は客席の皆さんと−緒に、私たちも合唱団白樺の歌声に魅了されたいと思っています。

「アムール河の波」    作曲 M.キュッス(編曲 ∨.サカロフ)
               作詞 K.ワシリエフ、C.ポポフ(訳詞 合唱団白樺)

みよアムールに波白く
シベリアの風たてば
木々そよぐ河の辺に
波さかまきて あふれくる水
豊かに流る

舟人の歌ひびき
くれないの陽はのぽる
よろこびの歌声は
川面をわたり はるかな野辺に
幸をつたえる

うるわしの流れ 広きアムールの面
白銀なし さわぐ河波
広き海めざし 高まりゆく波
白銀なし さわぐ河波

自由の河よ アムール
うるわしの河よ
ふるさとの平和を守れ
岸辺に陽は落ち 森わたる風に
さざなみ 黄金をちらす

平和の守り 広きアムール河
わが船はゆく しぶきをあげて
舳先にたてば 波音たかく
開けゆく世の 幸をたたえて

みよアムールに波白く
シベリアの風たてば
木々そよぐ河の辺に
波さかまきて あふれくる水
豊かに流る
 この曲は皆さんもご存知のことと思いますが、有名なロシアのワルツです。ロシア・ワルツはウィンナ・ワルツと異なり、各小節の第2、第3拍目のリズムに微妙なズレはないそうです。この曲は、最初に歌われるメロディーが少しずつ変わって繰り返されていく変奏曲の一種と考えられます。

 ところでアムール河は、中国東北部の大興安嶺(シベリア東南部の針葉樹林帯)に源を発し、中流部では中国とロシアの国境を流れ、次いでハバロフスクを経由し、そこから北上して間宮海峡(サハリンの北西)に注ぐ、全長4354kmの大河です。ヨーロッパ・ロシア(モスクワやサンクト=ペテルブルクのある地方)から見れば、アムール河はとっても離れた場所を流れているのですが、それにも関わらす、「母なるヴォルガ」に対して「父なるアムール」と尊敬されています。アムール河こ関する伝記や民謡もたくさんあるそうです。[ロシアの人々が、自分たちの国のかたちをイメージするときに、広大な国土全体を思い浮かべていることの顕れなのでしょうか。ちなみに、北海道の北の方では流氷が見られますが、あれは実は、アムール河からオホーツク海に流れ込む冷たい水が凍って出来た氷なんだそうです。そのように考えると、アムール河に親近感がわいてきますね。


「はてもなき荒野原(あれのはら)」   ロシア民謡(編曲 中山 英雄)
                     作詞 I.スーリコフ(訳詞 井上 頼豊)

はてもなき荒れ野原
息絶ゆる馭者(ぎょしゃ) あわれ

うるむ目に馬みつめ
言い残す その言葉
わが友よ いざさらば
ここ荒野にわれ脹らん

わが馬よ運びゆけ
わが思いを 父母に
伝えてよ わが妻に
とわの別れ この指輪

荒野にてこごゆるも
汝が面影 抱きゆく
 この歌は次のような場面を歌ったものです:吹雪の荒れ野原の中でトロイカの馭者(ぎょしゃ)が道に迷いました。周りにはトロイカの馬3頭しかおらず、見渡す限りの雪原です。道は遠く続き、行けども行けども荒れ野が続くばかり。馭者はとうとう吹雪の中で凍え死んでしまいます。そのときに馭者は、自分の死期を悟り、最後の力をふりしぽって、唯一の生き物である愛馬に、友達や両親そして妻への遺言を託したのでした。その遺言の内容が、この歌の歌詞になっています。「友たちよ、今までいろいろと悪いこともしたけれど、どうか許しておくれ。そしてこの荒れ野に私を葬っておくれ。/(私が成人したときに父からもらった)この馬たちを、どうかお父さんのところへ連れていっておくれ。それから、生みのお母さんによろしく伝えておくれ。/妻には、別れの言葉を伝えておくれ。また、この結婚指輪を返してやっておくれ。/そして、私のことはこう話しておくれ、『私は彼女の愛情を自分の命と共にあの世に持ち去った。だから、誰かいい人を見つけて再婚するように』と。」

 ロシアでは、男が一人前になると父親から馬を与えられる習慣があったそうです。馬たちをお父さんの所へ連れていっておくれ、という意味の歌詞がありますが、その馬を父親こぜひ返したいということなのでしょう。

 ロシア民謡には短い旋律にのせて物語を延々と語っていく形式の歌が多く、歌の内容も即興的で変化があるものが多いそうです。この次の「ステンカ ラージン」も、一つの物語を歌ったものですね。このような形式の歌にはトロイカの馭者をテーマにした歌が多く、「馭者の歌」という1つのジャンルが形成されているそうです。この中には「トロイカ」などの名曲がたくさんあります。これらの中でも「はてもなき荒野原」は最も深みがあり、ロマンチックで、センスあふれる歌の一つです。


「ステンカ ラージン」   ロシア民謡(編曲 中山 英雄)
               作詞 サドーヴニコフ(訳詞 與田 準−)

ウォルガ、ウォルガ、我らの 母なる河よ
今こそ贈らん わが捧げ物
妃の愛など などてか惜しまん
みよや つわものの 名をこそ惜しむ

久遠にとどろく ヴォルガの流れ
目にこそ映えゆく ステンカラージンの舟

ペルシャの姫なり 燃えたる口と
うつつに華やぐ 宴か流る
ドン・コサックの群に 今湧くそしり
奢れる姫なり 飢うるは我ら

そを聞きステンカラージン 舳先に立ちて
姫をば抱き上げ 雄々しく告げぬ

これみよ とステンカラージン 姫をばさしあげ
さかまく波間に 投げて落としぬ

島影すぎゆく ヴォルガの流れ
さめしや ステンカラージン 眉根ぞ悲し
 17世紀、ポーランドやスウェーデンとの戦争で疲弊していたロシアでは農民一揆が相次いで起こりました。そのころの農民は奴隷であり、苦しい生活を科せられていましたが、そういった農奴制を逃れて、ドン地方などの国境付近で、貧しいながらも独特の自治社会を構成している人々がいました。彼らはコサック(自由農民)と呼ばれ、ロシア騎馬兵の役割を果たす代わりに武器や穀物などの支給を受けていました。しかし、暮らしにくい農村からの逃亡者が流れ込み、コサックの社会も内部矛盾を抱え、略奪や反乱がおこっていきました。やがて、矛盾の根元である権力に矛先が向けられ、1670−71年にドン・コサックのアタマン(首領)であるステパン・ラージン(通称ステンカ・ラージン)が大規模な反抗を組織しました。

 彼は数千のコサックを率いてヴォルガ河を下り、貴族や豪族から略奪した富を部下や貧しい農民に分け与えていましたが、権力の執拗な追求によって捕らえられました。そして、一揆を成功させられなかった無念さを晴らすことなく、モスクワの赤の広場で処刑されました。のちに彼の後継者が次々に登場し、ラージンは国民の英雄として慕われることになり、彼についての歌が数多く残され、民謡となっていったのでした。

 この歌「ステンカ ラージン」の原詩ほ、ヴォルガ地方の詩人サドーヴニコフの「島の影から獲物めざして」という詩だそうです。この歌の背景と内容は次の通りです: ステンカ・ラージンはコサックの先頭に立ってロシア政府に対して反乱を起こし、ヴォルガ川流域を制圧していきました。しかしラージンは、虜としたペルシャの姫と婚礼の式を挙げたあと、姫と戯れて戦いをないがしろにするようになってしまいました。部下たちは「たった一晩おんなと−緒に過ごしたために、翌日はラージンまで女になってしまった」と言って責め立てました。ラージンは仕方なく、姫を母なるヴォルガに捧げ、戦列に戻ったのでした。


「若きシベリア」       作曲 A.ノヴィコフ
                 作詞 チェレシェンコ(訳詞 合唱団白樺)

 凍る大地 汽車は行く
 恋人たち 夢をいだき
 心さわ<よ 春のガルモーニ
 心燃やすよ その歌は
 鉄路続く シベリアの地

※街ができる
 厚き心持て 若者たち
 未来との出会いヘ
 シベリア 道なきタイガ
 バイカルよ 凍える波

タイガ深く 汽車は行く
春の風が 友をむかえ
息も凍るか 北の地に
若い力が 集うとき
森を妬き シベリアの地

 (※くりかえし)

凍る大地 汽車は行く
恋人たち 夢をいだき
大地はぐくむ 青春の
ともに育つよ いつまでも
ふるさと わがふるさとよ
あらたに 拓く大地
果ても知らぬ シベリアの地

 (※くりかえし)

 地下資源に恵まれていたシベリアは、古くから流刑囚を使って開発されてきました。第2次大戦後は、ソビエト建設のために多くの若者がシベリア鉄道に乗ってシベリアを目指したそうです。彼らは、希望と使命感にあふれてこの厳寒の地に赴いたのでした。中学や高校の社会の授業で勉強された方も多いと思いますが、シベリア地方には小さな工業都市がたくさんありますね。たとえば、世界で最も深い湖であるバイカル湖の近くにはイルクーツクという都市があって、アンガラ・パイカル工業地域を形成していますし、ウラル山脈にはウラル工業地域、西シベリア低地にはクズネック炭田、レナ川中流にはレナ炭田、アムール川流域には極東工業地域があり、さらにシベリア全体にわたって多くの炭田がありますね。ダイヤモンドが採れる所もあるようです。こういった工業地域は、もしかしたらこの「若きシベリア」を歌いながらシベリアに向かった若者たちが、タイガを切り開いて作った街なのかもしれませんね。きっと極寒のシベリアで森林を切り開いて街を作るということは、想像を絶するような辛い労働をしなければできないことなのだと思います。だけど、それができるのが「若さ」なのでしょう。それには年齢的な若さだけではなく、精神的な若さも必要だと思います。「できる」と思えばできるし、「できない」と思ったら絶対にできない。脳味噌って、そういうもののようです。若者たちの底抜けの楽天性こそが、シベリア開発の原動力だったのはないでしょうか。この歌では、そのような若者たちの底抜けの楽天性と力強さ、そして未来との出会いを信じる情熱が表現されていますね。



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