関東近県妖怪散策

 

まだまだあるぞ、ミステリスポット!

遠出しなくても、奇妙奇天烈摩訶不思議は沢山ある

関東妖怪大集合!!

ここはそんなページなのです

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1.江戸の怪 


 

@姥ヶ池:台東区花川戸2丁目(花川戸公園内)

※写真は姥ヶ池。池の中央には稲荷様が祀ってあって、信憑性アップだ。

 旅人を殺しては、金品を奪い、暮らしをたてていた老婆と娘があった。

そんな生活に嫌気がさした娘は、ある時、自分たちがターゲットにしていた旅人と入れ替わり

床に就く。そうとは知らずに、老婆は寝静まった娘を、旅人と思い込み、殴り殺してしまう。

翌朝、老婆は、昨夜自分が殺したのが、自分の娘であった事に気付き、愕然とし、気力を失い、

池に身を投げ自殺をしたと云う。

 一説によると、殺された娘は、実は浅草の観音様だったとか?

老婆の見間違え、又は化かされたと云う話しもある様だ。

悪い事をした人間は、悪い死に方をするものだと云う事だね。

 

※何の変哲もない公園に見えるが、片隅には石碑が・・・。

実は、昔そんな怖い事件があった場所だったんだね。


 

A鎮護大使者:台東区浅草2丁目(伝法院一郭)

※浅草寺近く、伝法院一廓に今尚祀られているお狸様。

 明治初期、浅草寺境内には沢山の狸が棲んでいたが、境内拡張工事により、

多くの狸が棲家を失う事となった。

棲家を失った狸たちは、近隣の家の縁の下などに棲みつき、人間に獲り憑いたり、化かしたり、

悪戯三昧したそうだ。

そんな苦情を聞きつつ、ある晩、浅草寺の大僧正の夢枕に狸が現れ、こう告げたのだった。

「我々狸は、この寺の観音様をお守りしているのだから、棲家を与えよ!」

それで大僧正は、狸の祠を設け、『鎮護社』の名を贈ったそうである。

昔から動物には、家や飼い主を守ろうとする強い気持ちがある様だ。

 

※実話でない様で実話かも?

実際に祠が残っているから信じずにはいられない。


 

B河童寺:台東区松が谷3丁目(曹源寺境内)

※河童堂前の河童たち。まるでお堂をお守りしている様だ。

 江戸後期、浅草は、雨が降ればすぐに水浸しになってしまう様な水はけの悪い低地であった。

おまけに近くを流れる新堀川は川幅も狭く、生活排水も流れ込む為、常に悪臭を放っていたと云う。

 当時、この新堀川に掛かる橋のたもとに、雨合羽を商う喜八と云う人物が住んでいた。

喜八は、商売で蓄えた財を投げ打ってでもと、新堀川の改修を決心した。

 ある雨の日、喜八が川のほとりを歩いていると、小さな河童がうずくまっていた。

喜八はその河童を手厚く介抱し、川へ帰してあげた。

 さて、新堀川の工事が始まった。不思議な事に、工事は信じられないスピードで進んだ。

訳は簡単である。夜になると、昼間人間が働くのと同等に、河童たちが工事を進めていたのだ。

喜八が、子供河童を助けてあげた恩返しのつもりだったのだろう。

 工事が終了し、新堀川に掛けられた橋には合羽橋と、そこから下に向う道には合羽橋通りと、

名が付けられたそうである。

また、河童の工事現場を目撃した民は皆裕福になったと云う噂から、今でも河童寺は商売繁盛

のご利益があるともされている。

  

※河童堂内。全国より送られて来た河童グッズがズラリ。

現住職さんの先先代が、わりと河童マニアで、収集したグッズも多いのだとか。

上の掛け軸は波乗り福河童大明神の絵。

※コレが河童の手のミイラだ!

想像以上に小さい(10cmないくらい?)。

木箱の蓋には水虎の手と記入。

昭和初期、都内某実業家がお寺に預けた代物だそうだ。


〜おまけ〜

河童堂の天井には、有名漫画家がそれぞれ描いた河童の図が張り巡らされている

現在開いているコマ数は2、3箇所

今後、一体誰の描いた河童図が飾られる事やら?

できれば私も参加したいなぁ

 

※向って左:故・手塚治虫氏の作品、右中央:水木しげる氏の作品。


C蝦蟇大明神:台東区松が谷2丁目(本覚寺境内)

※蝦蟇だらけ。このおぞましい祠を見よ!

蝦蟇たちは、今にも参拝者に飛びつきそうだ。

 「モノがカエル」を願う蝦蟇塚だったが、関東大震災により、一度は埋没してしまったそうだ。

その後しばらくはその所在を忘れられていた様だが、本覚寺の墓守をしていたある人物が、

霊感を得、蝦蟇塚を掘り当てたそうである。きっと蝦蟇の声が聞こえたのだろう。

以後、境内に小堂を設け、蝦蟇大明神として祀っているそうだ。

※ゲロゲーロ!

芸能事にご利益があると云われ、特に芸能関係者の参拝が多いとか。


2.埼玉の怪


@喜多院の七不思議:

1話 山内禁鈴

    ある晩遅くに、喜多院に訪ね人(女性)がやってくる。

   女性は、「今日より百日間、寺の鐘を突かない約束をして欲しい」と言う。

   約束を果たしてくれた暁には、寺の鐘の音をもっと美しい音にしてみせるからと

   女性は和尚に懇願する。

   和尚は、可笑しな事だと思いながらも、女性の言う事を受け入れる事にしたのだった。

    約束を受け入れて九十九日目の晩(丁度百日目の晩と云う説もある)の事、

   見知らぬ美しい女性が寺を訪ねて来てこう云うー

   「今夜、寺の鐘の音を聞かせてくれぬだろうか?」と。

   和尚は、その女性があまりに美しかったので、以前に交わした約束をすっかり忘れ、

   はいそれと願いを聞き入れてしまう。鐘を小僧に突かせてしまったのである。

   するとどうだろうー

   女性はみるみる内に姿を龍に変え、雲を呼び、風を起こして天に昇って行く。

    その後、和尚が約束を破ったことに対する罰はー

   和尚が駒の様にクルクルと99度(99日目の晩に掛けてか?)も転げ回ったとか、

   そのまま気が狂ったとか、

   境内中落雷があっただの、大雨洪水の被害にあっただの、諸説ある。

   ただ、以来、喜多院の鐘の音は、どんなに勢いよく丹精込めて撞いても、

   「ゴン!」と鈍い音しかしなくなってしまったと。

   この事があって、喜多院では今も尚、

   境内中で鐘を撞く事も、鈴を鳴らす事も禁じられているそうである。

※シーっ、堂内撮影禁止だったみたいだけど・・・

本当にありましたよ、鳴らしちゃいけない鐘

たたいちゃ駄目と言われると、たたいてみたい気がするな〜。

   


2話 お化け杉

    喜多院の閻魔堂わきには昔、蛇の鱗の様な木肌の杉の木が生えていた。

   この杉、木肌を切りつけると、真っ赤な血を流したとか。

   それで『お化け杉』の名がついたそうである。   

    また、このお化け杉近くには、

   人が死ぬと足跡が木肌に現れると云う奇木(『亡者杉』と呼ばれた)もあったらしい。

    残念ながら、両杉とも今は伐られてしまって残っていないそうだ。


3話 底なしの穴

    享保19年(1734年)、川越藩の普請奉行が、本道の修理をしようと調査をしていた

   ところ、床下に4〜5尺の穴が見つかり、そこから東、西、北、北西に四本の横穴がのびて

   いた。喜多院には龍に纏わる伝説が多くあり、その事からか、その穴も尊海僧正が龍を封

   じ込めた時に掘った穴だろうとされている様だ。

    そんな謎の穴が見つかって以来、こんな話が伝わっている。

   昔、日枝神社の境内にあった穴に、何かモノを投げ入れると、それが必ず喜多院の双子池

   に浮かぶと言われていた。また、この穴にどんなにゴミを掃き込んでも、一夜明けるとス

   ッカリ無くなってしまうと云う事で、この穴を『底無し掃溜め』とも呼んだとか。


4話 三位稲荷

    喜多院の住職実海僧正は、大変徳の高いお坊さまだった。

   ある時、住職が経を読んでいるうちに、自然と体が宙に浮き、あっという間に妙義山

   (群馬県)まで飛んで行ってしまったとか。

   それを見ていた弟子の三位が、後を追おうと箒にまたがり飛び上がったが、法力が足り

   ず、寺の庭の築山に落ちて亡くなってしまった。

   この三位を哀れんで祀った稲荷社が『三位稲荷』と呼ばれているそうだ。

    また、天海僧正を慕い、小僧に化けた3匹の狐の話もあり、この狐が使った道具を、

   その稲荷社に供養した事から『三位稲荷』と名がついたとも言われる。

   この事から、喜多院では、箒を寝かせて置いたり、柄を上にして置いたりしないとか、

   すり鉢やすりこぎを使った後一緒に置かないとか、道具を粗末に扱わないと云う慣わし

   があり、これを破ると寺に凶事が起こるとされているそうだ。


5話 潮音殿

    喜多院の本堂は、慈恵大師をまつったお堂である事から『大師堂』とも呼ばれる。

   この大師堂に座って耳を澄ますと、何処からともなく潮の音が聞こえると評判になった

   事から、『潮音殿』とも呼ばれるようになったそうだ。

    お堂には、天海僧正が『潮音殿』と書いた額が今でも残っているとか。


6話、7話は、モノ、場所によって、違った話がノミネートされており、特定できない。

例えば、

6話 琵琶橋

    ある日、喜多院の尊海僧正が弟子を連れ、用事に出かけた帰り道の事。

   運悪く道に迷い、川岸に出たが、橋は川に流されたのか?見あたらない。

   どうしたものかと悩んでいると、一人の琵琶法師が通り掛り、

   「私が橋を作りますから渡って下さい」と言うのだった。

   琵琶法師が、持っていた琵琶を川に浮かべると、不思議な事に琵琶が橋になったとか。

   これを渡った僧正一行は、その橋を渡り、無事に寺に辿り着く事ができたそうだ。

   それから数年後に、その場所に橋が掛けられたが、『仙波琵琶橋』と名付けられたらしい。

 

7話 明星の井戸と明星の杉

    尊海僧正が、牛車に乗ってある井戸の近くを通り掛ると、牛が動かなくなってしまった。

   僧正が牛車から降り、困っていると、井戸が突然輝きだし、中から輝く星が現れ、近くの

   古杉のこずえで暫くの間輝き続けたとか。

   こうしてこの井戸と杉の木を『明星の井戸、明星の杉』と呼ぶようになったそうだ。

    ここは、現在駐車場になっているとか。

 

と云う話を七不思議に加えた文書、または、

6話 五百羅漢

    喜多院の山門右側にある石の羅漢像は、全部で535体あるらしい。

   作られたのは江戸末期。表情の豊かさに定評があり、一つとして同じ顔はない。

    これ等には、こんな謂れがある。

   深夜にこの羅漢像の顔を一体ずつ撫でて行くと、必ず一体だけ温もりを感じる像がある。

   その像に印をつけ、翌日確認すれば、その顔は亡き親の顔、又は自分の顔にソックリだ

   とか。

  

※これが五百羅漢像郡。

真ん中のは、私の友人にそっくりだったので記録しておいた。さて、誰でしょう???

右側のは、鼻くそ掘ってるふざけた像。自分に似てなくてよかった〜。

7話 鐘楼門の鷹

    山門左側に、慈眼堂の山門だといわれる鐘楼型の門がある。

   この門には、前面に龍、背面に鷹の彫刻が二体ずつはめ込んであるが、左甚五郎作

   と伝えられている。そのあまりの出来栄えに、境内の鳩は、恐れをなしてか、

   その門には一切寄りつかないとか。

 

と云った話を七不思議とする文書もある。

後編は、比較的新しい言い伝えなので、以後も他の話が付け加えられたりするかも知れない。

 兎も角、不思議な雰囲気のあるお寺だと云う事。

 他にも、堂内の廊下は歩くと、鴬張りの様に、キュッキュ、キュッキュと鳴くし、

渡り廊下の途中には、どの角度から見ても重ならない置石なんかも見られる。

春日の局が使用したと云われる化粧の間などもあり、見所満載だ。


 

〜喜多院情報〜

 川越の怪巡りをするには欠かせない喜多院。

交通は駅からバスなどを利用するのがお勧め。(徒歩ではちと厳しい距離?)

堂内&五百羅漢の拝観料はセットで400円。

曜日、季節で変動はあるが9時〜16時半が営業時間。

パーキングは100台まで、料金200円だそうだ。

 


A川越城の七不思議:

1話 初雁の杉

    川越城内にある三芳野神社の裏には、大きな杉の老木があった。

   枯れてしまった為、伐り倒されてしまったが、それがつい最近まで神社の脇に置いてあ

   ったとか。この辺は三芳野の里と言われ、『伊勢物語』に詠われた有名な歌枕である。

     三芳野の 田面(たのむ)の雁は ひたぶるに

     君が方にぞ よると鳴くなる

     わが方に よると鳴くなる 三芳野の

     田面の雁を いつかわすれむ

   この歌に詠われる雁と三芳野神社の杉について、次のような言い伝えがある。

    いつ頃からか三芳野の田面の里に、毎年北の方から初雁が、少しも時を間違えずして

   飛んで来るようになった。

   飛んで来ると、杉の真上でガアガアと三声鳴き、杉の周りを三回転し、南の方へと飛び

   去ると云う。この事が有名となって、川越城は『初雁城』とも呼ばれたそうである。


2話 霧吹きの井戸

    城の東北に位置する辺りに、石で囲われた井戸がある。これが、昔から語り継がれる

   『霧吹きの井戸』だ。

   普段は蓋がされているが、万一敵の襲来があった時には、この蓋は開けられた。

   井戸からは、霧がもうもうと立ち昇り、終には、すっかり城ごと覆ってしまう。

   霧隠れした城は、敵からは一切見えなくなるそうだ。

   この事から、川越城は『霧隠れ城』とも呼ばれた。


3話 人見供養

    太田道真、道灌父子が川越城を築く際に、こんな悲しい話があった。

    川越城の三方(北、西、東)の水田は泥が深く、また特に、城の南には七つ釜と呼ば

   れる底無しの場所が七箇所あった。そんな訳で、築城に必要な土塁が中々完成せず、

   父子は非常に苦労をしたそうだ。

   ところがある晩、道真の夢枕に竜神が立ち言う事にはー

   「この地に城を築くのは、人力の到底及ぶところではない。

    しかし、どうしてもここに築城したいのなら、人見御供を差し出せば、

    必ず神の力によって成就するだろう。

    明朝一番に汝(なんじ)のもとに参った者を、我に差し出せ」

   そうして竜神は消えたそうである。

    毎朝、誰よりも道真のもとに寄って来るのは、愛犬である。ふびんに思ったが、道真

   は、築城の為と心に誓ったのだった。

   ところが、明朝自分のもとへ一番で参ったのは、最愛の娘、世禰(よね)姫だった。

   流石の道真も失神寸前だったが、気を取り直し、夕べのお告げの一部始終を愛娘に話

   したのだった。すると、世禰姫が夕べ見た夢は、自分が城の為に人身御供となれと、

   竜神様よりお告げがあったそうな。姫はかたい覚悟を決め、城の為、人の為に一命を

   捧げようと決心し、今朝は早起きをして父のもとへ参ったのだった。

   道真は、そんな愛娘を、やっぱり捧げる事はできなかった。竜神様のお告げも無視す

   るつもりでいたのだが、姫は、城の完成を祈りつつ、自ら七つ釜に身を投げ、果てて

   しまったのだった。

   この尊い犠牲によってか、川越城は間もなく完成したそうである。


4話 片葉の葦

    戦国時代の出来事であろう。川越城が敵に攻められ落城も明日に迫った時の事。

   逃げ延びよと逃がされた姫様は、足を踏み外し、七つ釜へ落ちてしまった。

   姫と一緒に城を出た乳母は、姫の身を案じ、敵味方関係なく助けを請い叫び続けたが、

   助けてくれる者は誰一人なかった。

   姫は、浮きつ沈みつもがくばかり。やっとのことで川辺の葦にしがみついたが、葦の葉

   はちぎれ、姫はとうとう力尽きて沈んでしまったという。

   葦の葉をつかんだまま深い水底へ沈んでしまった姫の怨念だろうか?

   以来、この沢地に生える葦は、どれをみても片葉であるそうな。


5話 遊女川(よながわ)の小石供養

    昔、川越城に狩猟好きな殿様がいた。毎日のように鷹狩に出かける殿様の御付きで

   たいそう美男子の若侍があった。

   この若侍、殿様の狩りに付き添い、小川のほとりを通る度に出会う娘と恋に落ちてしまう。

   娘の名は「よね」といったそうである。

   ついには二人は結婚するが、嫁いだよねは、若侍の母にいびられ続ける。

   母は、よねが百姓の出である事が気に入らなかったのであった。

    ある日、よねは、家宝の鉢を誤って割ってしまった。母は、これは好い口実になったと

   よねを家から追い出してしまう。

   しかし、この時よねのお腹の中には、若侍の子供が宿っていたのである。

   その事を夫に知らせれば、きっと連れ戻してもらえるだろうと考えたよねは、あの小川に

   毎日通う事にした。

   ところが、その頃殿様は、重い病で床にひれ伏せていた為、狩猟どころではなかったそうな。

   つまりは、待てども待てども、夫は小川を通らなかったのである。

   間もなくして、殿様が亡くなった事を知ったよねは、もう二度と夫と会えない事を覚り、

   思い出の小川に身を投げてしまう。

    以来この川はよねの名から『よね川』と呼ばれるようになる。

   また、夜な夜な女の泣き声が聞こえるようになったと噂になり『よな川』、今では『遊女川』

   と書き『よながわ』と呼ばれているそうな。

    今でも土地の人は、およねの供養の為、この小川のほとりを通る度に、

   「およねさーん」と言いながら、小石を小川に投げ込むそうだ。

   小石が底へ届いたと思われる頃浮いてくる泡は、およねさんの返事だと云う事らしい。


6話 天神洗足(みたらし)の井水(せいすい)

    太田道灌は川越城を築城する際、堀へ張る水を何処から引こうか、毎日踏査して歩いた。

   しかし、これと云う水源も見つからず、困っていた時の話である。

    ある朝、道灌が初雁の杉近くを通り掛ると、一人の老人が井水に足を浸し、洗っている場

   に遭遇した。見れば、そこにはこんこんと泉が湧いているではないか。

   道灌は大いに喜び、老人にこの湧き水の水源を案内するように頼んだ。老人は快く、水源へ

   と道灌を導いた。そこは満々と水をたたえた底知れぬ深さの水源地であり、道灌は手を打っ

   て喜んだそうな。懸案を解決できたのである。

    時が経ち、川越城も立派に完成すると、道灌はあの老人の事を思い出した。

   あの井水で足を洗っていた姿は、気品にあふれていたと。あれこそ紛れもない三芳野天神様

   の化身ではなかったかと思い、以来この井水を天神足洗いの井水と名付け大事にし、神慮に

   こたえたと云われる。


7話 城中蹄(ひづめ)の音

    江戸時代初期の川越城主、酒井重忠候は、不思議な事に夜毎矢叫び(やたけび)や蹄の

   の音に安らかな眠りを妨げられていた。

   天下に豪勇をうたわれた重忠候だったが、あまりに連夜の奇妙な出来事なので、

   易者に占ってもらう事にした。

   すると、城内の何処かにある戦の絵図が禍しているであろうと云う卦(け)が出た。

   早速、家臣に城内を調べさせたところ、土蔵から、堀川夜討ちの戦乱を描いた一双の屏風

   が出てきた。

   流石の重忠候も、事の意外さに驚き、日頃から信仰している養寿院へ、半双を引き離して

   寄進したところ、その晩から奇妙な音は聞こえなくなったと云う。

    現在でも養寿院には、この屏風半双が秘蔵してあるとか。


これは川越七不思議の碑。

川越城本丸御殿前三芳野神社敷地に設置。

 

七不思議話中に登場する三芳野神社。

薄気味悪〜な、古いお社だが、

この日、隣の公園で、野球大会が行われており、賑わっていた為、

熱気に満ちた印象を受けた。

行きは好い好い、帰りは怖い〜

この唄の発祥はここ三芳野神社なんだそうだ。

どんな意味の唄なのか定かではないが、

怖い印象の唄だと思っている人は多いんじゃないだろうか?

 

〜川越城本丸御殿情報〜

ここも駅からバスがお勧め。

入館料100円。

営業時間は9時〜17時。(月、第4金曜日休み)

パーキング40台(隣接の川越市立博物館と共通)


3.群馬の怪


 @茂林寺:

何と茂林寺には、こんな巨大狸像もあるのだ!

 群馬県と云えば、先ず館林の茂林寺である。

童話『分福茶釜』は、茶釜に化けた狸が様様な芸を見せる有名な話だが、これは、茂林寺に伝わる

分福茶釜と守鶴と云う僧の伝説がモデルとなっている。

 

分福茶釜

 昔、茂林寺と云う寺の裏山に狸の親子が棲んでいた。

ある寒い冬の年、親子は寒さと飢えにやっと耐え忍んでいた。

とうとう食料が尽きてしまうと、父狸は母狸にこう言ったー

「わしが茶釜に化けたら、母さんは人間に化けて、わしを売りなさい。

 そのお金で食料を買えば、何とか子供達も飢えをしのげるだろう」

母狸は悲しがりましたが、子供達を守るにはそうする事しかないだろうと決心し、

父狸を町の道具屋に売ったのだった。

 

 父狸が化けた茶釜とは知らずに、真っ先にそれを購入したのは、茂林寺の和尚さんだった。

 和尚さんが、早速購入した茶釜で湯を沸かそうと火にかけるとー

茶釜は悲鳴をあげ、尻尾と、手足を現したのだった。

驚いた和尚さんは慌てて小僧達を呼び集めたが、父狸は、またもとの茶釜に化け直して、

知らんぷりした。

そこへ、丁度小間物屋さんが通りかかったので、

和尚さんは、その奇妙な茶釜を売ってしまったのだった。

 

 その晩、小間物屋さんは、狸の姿に戻った茶釜に起こされ、今までの経緯を全て聞かされた

のだった。そうしてこう頼まれたのだー

「他所へ私を売らないでくれたなら、私はあなたにお金を稼がしてさしあげましょう」

そう小間物屋さんと約束をした父狸は、自分の家族を呼び集め、曲芸を始めたのだった。

これが数日後には大評判となり、小間物屋さんには大勢のお客が集まったと。

繁盛繁盛の毎日で、あっと云う間に大金持ちになった小間物屋さんは、狸の一家にお礼を言い、

儲かったお金の半分を手渡し、山に帰してやった。

 

 ところが、父狸は茶釜に化けたまま、もとの姿に戻れなくなってしまったのだった。

これは、和尚さんを騙した罰だろうと考えた狸一家は、寺に行き、和尚さんに謝罪した。

しかし、それでも父狸は茶釜のまま、元の姿に戻れません。

気の毒に感じた和尚さんは、その茶釜を立派な布団に乗せて、生涯大切に扱ったそうな。

 

 やがて、この茶釜を拝むと幸せになれると云う噂が広まり、

「分福茶釜」と呼ばれる様になった。

この茶釜、今尚、茂林寺に残され、大切に保管されている。

 

 と、これが童話『分福茶釜』の内容。

しかし、茂林寺に伝わる話は、これとはちと異なる。

 元亀元年夏、千人法会を行う事になった茂林寺には、そんな大勢の来客に茶を振舞える湯釜が

なかった。僧達が困っていると、守鶴と云う和尚が、一つの釜を持ってきた。

不思議な事にこの釜は、いくら汲んでも湯が沸き出、尽きる事はなかったと云う。

 守鶴和尚は、なんと161年間も茂林寺にいたそうだが、ある日忽然と姿を消してしまった

そうである。

実は、この守鶴和尚こそが、狸の化身だったのではないか?と云う噂話などから、

茂林寺「分福茶釜」の縁起童話が生まれたと云う事らしい。

狸の為の狸社。

お土産狸から手作り狸まで、

堂入り口両脇には、無数の狸置物が祀られている。

〜茂林寺情報〜

交通:東武伊勢崎線もりんじまえ駅から徒歩5分くらい?

本堂拝観料:300円(伝説の茶釜も見られるが、拝観時間規制あり)

営業時間:9時〜16時半

パーキングはあります。

※予断ですが、隣にコーラスグループ、ダークダックスの合宿所がありました。ちょっと笑える。


 


4.栃木の怪


@大中寺の七不思議:

栃木県は大平町にある大中寺に伝わる七不思議話をご紹介。

小さな敷地内で昔、次々起こった七つの怪異。では、行ってみよう。


 

1の怪:枕返しの間

 ある旅人がこの寺に一夜の宿を乞い、この部屋で本尊の方に足を向けて寝たところ、

 翌朝、目がさめると頭が本尊の方へ向いて居たという。

 びっくりした旅の男はあらためてその非を謝ったという。

 

残念ながら、我々ファミリーが訪れた日はお寺に人は不在で、勿論戸も閉ざされていた。

だが、この戸の向こう側には、ひょっとすると妖怪『枕返し』がいたのかも知れない!


 

2の怪:油坂

 ある学僧が燈火欲しさに、本堂の灯明の油を盗んで追われ、石段からころげ落ちたのが元で死に、

 そののちこの石段を上がり降りすると災いに合うと云われている。

枕返しの間の丁度真下くらいにあるこの階段。

現在は、階段の上り下りが出来ない様に封鎖されているが、

私が小学生時分に来た時は、開放されていた様な記憶がある。

ま、娘を抱っこしたまま滑ってしまったら危ないから、これでよかったのだ。


 

3の怪:不断のかまど

 ある修行僧が寺のものから隠れて、かまどの中に入って居眠りをしてしまった。

 それとも知らず寺男が火を焚きつけたためその修行僧は焼け死んでしまった。

 それ以来かまどには火を絶やさないという習わしになったという。

ここら辺に当時竈があったんだね。

竈を開けたら小僧の焼死体とは、よくよく考えると恐ろしい。

原因は、本当に自らの居眠りだったのだろうか?


 

4の怪:馬首の井戸

 土地の豪族晃石太郎が戦いに敗れこの寺に逃げ込んできた。かくまってくれるよう頼まれたが、

 後難をおそれて断ったところ、彼は大いに恨み、馬の首を切って井戸の中へ投げ込んだ。

 その後、この井戸からは馬のいななきが聞こえたという。

説明文は判り辛いですね。

なんで豪族は馬の首を切って井戸に投げ込むような事をしたのでしょう?

追っ手に気付かれてしまわぬ様に、自分が乗って来た馬を処分したと云う事でしょうか?


 

5の怪:不開(あかず)の雪隠(せっちん)

 馬の首を切って井戸に投げ入れた豪族の妻もやはり、敵に追われ、この寺の雪隠に逃げ込んだ。

 女は「敵につかまるなら」と、雲隠(せっちん:トイレ)の中で命を絶った。

 以来、ここの戸は開けられた事がないと伝えられ、村人達は晃石太郎夫婦の祟りを恐れたと云う。

雪隠とは、今で言うお手洗いの事ですね。

トイレの怪異と云うのは、現代でも多いですが、それは暗くて不潔な場所と云う印象が起因しているのでしょう。

トイレで命を絶った様な話なら、当然怪異話は成立し易いですもんね。

加牟波理入道ホトトギス!


 

6の怪:東山一口拍子木

 大中寺の東のほうにある山中から拍子木の音が一声だけ聞こえると、

 必ず寺に異変があると伝えられている。

 その音は大中寺の住職にしか聞こえないと云われる。

この山の上方から拍子木の音が聞こえたそうだ。

妖怪の中にも、尼ビエとか件(くだん)とか、予言をしてくれる類のモノがいるが、

この怪異に関しては実態が伝えられていないので、

キャラクターとして絵になったりしていないのが残念だ。


7の怪:根無しの藤(ふじ)

 大中寺の開祖快庵妙慶禅師が、鬼坊主の霊を弔う為、墓標として差した禅師の杖が、

 どんどん成長したものだと云われ、その姿は異様に絡みあって、凄みがある藤の古木。

お墓の上にあるんですけど、

行った時間帯が夕方と云うのもあって、ちょっと薄気味悪かったです。

でも私は、藤が大好きなので、怪異と結び付けられると複雑な気持ちです。

 

〜太平山『大中寺』情報〜

 交通:東武鉄道新大平下駅→車8分

 拝観料:なし

 出入り時間:特に無いみたい。寺に人不在の時もあり。

 パーキング:結構台数停められます。無料。

 その他: 「根なしの藤」の怪異譚は、上田秋成作『雨月物語』の「青頭巾」にも記載。

       


5.神奈川の怪


 


 

 

 

 

 

   

   

    

    

    

 

 

 

    

 

 

    

 

 

 


 

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