アナキズムFAQ

J.3 アナキストはいかなる組織を構築するのか?

 アナキストは組織を構築することの重要性を充分認識している。組織は、様々な人が実現したいと思っている考え・希望・夢を一個人が理解する手段になっており、そこに参加している人々が自分の長所と活動を増大できるようにしている。このことは、家を建てたり、病院を経営したり、食べ物のような有用な産物を作り出したりするために真であるのと同じぐらい、アナキストのメッセージを多くの人に理解してもらうためには真なのである。アナキストは二種類の組織を支持する。アナキスト組織と民衆組織である。民衆組織はアナキストだけから成り立っているものではなく、例としては産業労働組合・生活協同組合・地域集会がある。FAQの本セクションでは、最初のタイプの組織、つまり、明確なアナキスト組織の種類・性質・役割について議論する。さらに、アナルコサンジカリズム、つまり、アナキズム的戦術によってアナキスト社会を創り出そうとしている革命的労働組合主義について、また、なぜ多くのアナキストがアナルコサンジカリズムではないのかについても論じる。第二のタイプの組織、民衆組織は、セクシ ョンJ.5で詳しく論じることになる。そこでは、アナキストが支持し、資本主義の下で創り出している多様な社会的代替案を例示することになる(地域組合と産業労働組合・相互銀行・生活協同組合など)。

 ただし、どちらの組織形態も、連合主義・権力分散・自主管理・下からの意志決定に対するアナキズム的コミットメントを共有している。こうした組織では、メンバーは、組織を運営し、力がメンバー自身の手中にあり続けることを確保するという点で、決定的な役割を演じる。メンバーは、自分が自信を持っているとき・自分が自分で行動し、自分の生活を直接管理するときに、民衆が持つ力と創造的効率性に関するアナキズム的ヴィジョンを表明するのである。アナキストは、民衆は自分のことは自分で管理(個人的に・集団的に)しなければならず、そのようにする権利と能力を共に持っていると主張する。このように組織することによってのみ、我々は新しい世界、人間であり唯一者であることに価値のある世界を創造できるのだ。

 アナキスト組織は、その全形態において、「古い殻の中で新しい世界を創出」し、個人に権能を与えるというアナキズムの願望を反映する。逆に、世界を変えるためにはどのようにして組織を作ろうとも全くかまわない、という考えを拒絶しているのである。実際、そんなことは真実からかけ離れているのだ。我々は皆、自分の生活における影響力と社交関係の産物だ。これが(哲学的)唯物論の基本思想である。従って、組織が構造化されるやり方は、我々に強い影響力を持っているのである。組織が中央集権化され、ヒエラルキー型のものであった場合(組織の責任者や指導者がどれほど「民主的に」管理しようとも)、管理の対象となる人々には、いかなるヒエラルキー型組織においても同じように、自分の生活を管理する自分の能力・自分の創造的思考と想像力が、絶え間ない上からの命令の流れの下で蝕まれることがわかるだろう。そして、次には、一般大衆の自主管理能力が権威主義的社交関係によって弱められたように、上層部にいる人々の権力に対する要求を正当化することになるのだ。

 つまり、アナキスト組織は、全ての人が参画するための潜在能力を最大限発揮できるように構造化されるのである。こうした参画が自由組織の鍵なのだ。マラテスタは以下のように論じている。

『本当の存在は、人間、個人である。社会や集産集団性は、(中略)空虚な抽象でないのなら、個々人から成り立っているはずである。全ての思想と人間行動が必ずその起源としているのは個々人という生活体においてなのであり、多くの個人がそれらを受け入れたときに、個人的な思想・行動は、集団的思想と行動になるのだ。従って、社会行動は、個人のイニシアティブの否定でも補完でもなく、社会を作り上げている全個人のイニシアティブ・思想・行動の帰結なのである。』(アナーキー、36ページ)

 アナキスト組織の存在理由は、個人のイニシアティブのこうした発達と表現を可能にすることである。個人がこのように権能を持つことは、実現可能な連帯性を創り出すための重要な側面なのである。羊は連帯性を表明できないために、シェパードについて行くしかない。だから、『目標を達成するために、アナキスト組織は、構造と運営の上で、アナキズム原理と調和し続けなければならないのだ。つまり、組織は、個々人の自由行動を、共同行為の必要性や楽しみとブレンドする方法を知らねばならないのである。それこそが、メンバーの意識性とイニシアティブを発達させる役割を果たし、組織が働きかけている周囲の状況に対する教育手段と、我々が望んでいる将来への道徳的・物質的準備方法を発達させてくれるのである。』(エンリコ=マラテスタ著、アナキスト革命、95ページ)

 このように、アナキスト組織は、アナキストが望ましいとする社会を反映するのだ。我々は、我々が創り出している組織形態は的外れであり、労働者階級を指導するためには非常に中央集権化された政党を創り出さねばならない、というマルクス主義者・レーニン主義者の主張を馬鹿馬鹿しいとして退ける。そんな組織がいかに「民主的」なものであろうと、それは、頭脳労働と肉体労働との資本主義的分業を反映しているだけなのであり、自分の能力を放棄して選挙で選ばれたエリートに自分たちを支配させるという自由主義イデオロギーの反映でしかないのだ。つまり、彼らは、我々が反対しているまさにその社会を映し出しているのだ。だから、すぐさま彼らはいわゆる反資本主義的組織の内部に、まず第一に資本主義に敵対しようと我々に元々動機付けさせてくれたその正なる問題を産み出すことになるだろう。だから、アナキストは次のように見なしているのである。『マルクス主義政党はもう一つの国権主義的形態である。それがうまく「権力を奪取」できたとしても、他の人間に及ぼすある人間の権力、指導 される側に及ぼす指導者の権威を保持するであろう。マルクス主義政党は(中略)それが敵対していると公言しているまさにその社会の鏡面映像、革命家集団へのブルジョア価値観・方法・構造の侵入だったのだ。』(スペインのアナキスト、179ページ〜180ページ)ロシア革命史からわかるように、このことは真実だった。ボルシェビキはすぐさま労働者の自主管理・ソビエト民主主義・最終的には支配政党それ自体内部の民主主義をも浸食することを先導したのだ。もちろん、アナキスト(すなわち、唯物論者)の観点からすれば、このことは全く予測可能であった−−結局、『事実が思想の前にある。そう、プルードンが述べたように、理想は存在の物質条件にその根を持つ花でしかないのだ。』(バクーニン著、神と国家、9ページ)−−そう、ヒエラルキー型政党がヒエラルキー型社会を維持する手助けをしているということは、驚くべきことではないのだ。有名なSonvillier Circularの言葉では次のようになる(第一インターナショナルのリバータリアン=セクションによって公刊された)。

『権威主義的組織から平等で自由な社会が生じるなど望むことができるだろうか?できるわけがない。』

 アナキストは、組織に反対していないということをここで強調しておかねばなるまい。アナキストはアナキストの組織(つまり、政治的組織である。ただし、アナキストが一般に国権主義的ヒエラルキーとの関連性のために「党」という言葉を拒否している。)にも反対してはいない。マレイ=ブクチンは次のように書いてこの問題を明確にしている。『未解決となっている本当の問題は、組織か非組織かではなく、いかなる種類の組織なのか、である。(中略)(アナキスト)組織は(中略)有機的に下から発達している(のである)。アナキスト組織は、創造的で革命的なライフスタイルを、創造的で革命的な理論と組み合わせている社会運動なのだ。(中略)アナキスト組織は、人間ができる得る限り、自分達が確立しようとしている解放社会を反映しようとしており、(中略)兄弟姉妹のような親密な集団−−親和グループ−−の周りに構築される。グループ間の調整を行いながら、教育・計画立案・行動の統一が、確信と理解によって培養された自 己修練という手段によって自発的に確立したのだった』(欲望充足のアナキズム、214ページ〜215ページ)

 以下のセクションでは、アナキスト組織の性質と役割について論じる。アナキストは、シチュアシオニスト、ギ=ドボールの以下の言葉に完全に同意するだろう。『革命的組織の目的は、民衆をして専門家の指導者によるスピーチに耳を傾けさせることではなく、民衆に自分で話をさせるようにすることだ、ということをいつでも忘れてはならない。』従って、民衆が自分のグループを組織するようにさせることも目的なのである。セクションJ.3.1は、特にアナキスト組織の根本的礎である、「親和グループ」について論じる。セクションJ.3.2では、アナキストがそのメッセージと影響力を広げる手助けとするために創り出している「親和グループ」連合の主要タイプについて論じる。そして、セクションJ.3.6は、こうした組織がアナキスト社会を創り出すための闘争において果たす役割を強調する。多くのマルクス主義者はアナキスト組織の性質を理解できず、だからこそ、バクーニンの表現である「不可視の独裁」を誤解し、ヒエラルキー型独裁者もど きというバクーニン像(従って、暗に、全てのアナキスト像を差している)を描いているのである。セクションJ.3.7は、こうした主張を分析し、それが間違っている理由を示している。最後に、セクションJ.3.8とJ.3.9ではアナルコサンジカリズムとそれに対する多くのアナキストの態度について論じる。

 思想が持つ力を見下すことはできない。なぜなら、『君が思想を持っていれば、君は百万人の人々と自分の思想についてコミュニケーションをとることができ、コミュニケーションのプロセスの中で何も失うことはない。思想は宣伝されればされるほど、力と効力を獲得する』(アナキスト革命、46ページ)からだ。適切な時代の適切な思想、つまり個々人のニーズと必要な社会変革のニーズを反映している思想は、その思想を保持している人々とその人たちが生活している社会を変換する効果を持ち得るのだ。これが、アナキストが自分のメッセージを広めるために創り出す組織が非常に重要な理由であり、組織について我々が一つのセクションを使って説明する理由なのである。

 アナキスト組織は、思想と示唆によって社会闘争を芳醇にすることを目的としている。それ以上に重要なことに、実践的経験と活動によって思想を芳醇にすることをも目的としているのである。つまり、生が理論に情報提供し、理論が生を助けるという二方向のプロセスなのだ。この社会的原動力を創り出し発達させる手段が、アナキスト組織の根本的な目的であり、以下のセクションで我々が焦点を当てるその理論的役割に反映されている。


J.3.1 親和グループとは何か?

 親和グループは、アナキストがアナキズム思想を広めるために創り出す基本組織である。「親和グループ」という言葉は、スペインのFAI(イベリア=アナキスト連盟)から生じており、スペインのアナキストが闘争の中で創り出した組織形態のことを差している。これは、「grupo de afinidad」の日本語訳(訳注:原文では「英語訳」だが、ここでは親和グループが日本語であるため「日本語訳」とした)である。?最も基本的な点として、親和グループは、より広範な民衆に思想を広めるために共に活動しているアナキストの(通常は小規模な)グループである。このグループは、民衆組織(例えば労働組合)や地域社会の中でプロパガンダを用い、キャンペーンに勤しみ、思想を広めている。親和グループは「指導力」になろうとしているのではなく、手がかりを与えようと、つまり、民衆運動の中で触媒として活動しようとしている。このグループが基本的アナキズム諸思想を反映していることは驚くに当たらない。

『自立的で、コミューン的で、直接民主的でありつつ、このグループは、日常行動の中で革命的理論を革命的ライフスタイルと組み合わせている。革命家が自分自身を個々に、そしてまた社会的存在としても、再形成できる自由空間を創造しているのである。』(マレイ=ブクチン著、欲望充足のアナキズム、221ページ)

 この理由は単純である。何故といって、『解放的革命を促そうとしている運動は、解放的で革命的な組織を発達させねばならなかった。つまり、(中略)その運動が転覆しようとしている抑圧的な社会ではなく、確立しようとしている自由社会を映し出していなければならなかったのだ。ある運動が、連帯性と相互扶助によって一つになっている世界を創り出そうとしているのならば、そうした指針によって導かれなければならないのである。ある運動が権力分散型で、国家なき、非権威主義的な社会を創り出そうとしているのなら、運動はそれらの目標に沿って組織されねばならないのだ。』(スペインのアナキスト、180ページ)

 アナキスト(つまり、反権威主義的)組織の目的は、地域の感覚・自分自身の能力に対する確信を促し、グループやコミューンのニーズと意志決定の特定・着手・管理に全員が参画できるようにすることである。それ以上に、アナキスト組織は、個人が、自分の生活を管理し、個人的・共同体的ニーズと願望を追求するために直接行動を行うという立場にある(グループや地域の一部として物理的にも、一個人として精神的にも)ことを確実にしなければならないのである。

 アナキスト組織は、メンバー全員に権能を与え、「完全な」つまり全体としての個人を、そして個性(抽象的な「個人主義」ではない)と連帯性を促す地域を発達することに関わっている。下からの集団的意志決定に関わっているのであり、そのことで組織構造の「底辺」にいる人々に権能を与えるが、組織はただ、メンバーの意志決定を調整し、実行する仕事を代表するだけである(民衆のために意志決定を行う力は持っていないのだ)。このようにして、少数者のイニシアティブと権力(政府のやり方)は、全員のイニシアティブと権能(アナーキーな状態)に置き換えられるのである。

 親和グループは、これらの目的を達成するために存在し、それらを奨励するように組織されているのである。

 地域の親和グループは、地域社会・仕事場・社会運動などにおけるアナキストの活動を調整する手段である。こうしたグループの中で、アナキストは自分の考え・政策・希望について議論し、自分たちが何を行うのかを計画し、リーフレットを書き、様々なプロパガンダ活動を組織し、労働組合のようなもっと大きな組織の中でどのように活動すればよいのか、長期計画に自分たちの戦略をどのように適合させるのかなどについて議論する。これが、アナキストが自分の考えを案出し、財源を動かし、自分のメッセージを他者に広める基本的やり方なのである。関心事と活動内容によって様々な親和グループが存在し得る(例えば、仕事場の親和グループ・地域社会の親和グループ・アナルカフェミニストの親和グループなど、これらが同じエリア内で、メンバーもオーバーラップして存在する場合も充分あり得る)。それ以上に、こうした「政治的な」活動同様、「親和グループ」は、『教育の重要性とアナキスト的指針を通じて生きることの必要性−−民衆に自分自身を作り直す空間を提供できるような対抗社会を創造する(中略)必要性 』(ブクチン著、前掲書)をも強調している。言い換えれば、「親和グループ」は、純粋に構造的な面だけでなく、全ての面において、新社会の「活発な細菌」になろうとしているのである。

 これら基本的親和グループは、それ自体で充分なものだと見なされることはない。大部分のアナキストは、他者と連合の中で共に活動するためには地域グループが必要だと思っている。こうした共働は、財源を引き出し、活動努力が重複しないようにすることを、言い換えれば、連合の一部である個々人と集団に対して選択肢が拡大されることを目的としている。連合は以下のことに基づいている。『個人と集団の十全な自律・十全な自主・そして十全なる責任にである。共通の目的に向かって協力的に団結することを有効だと信じている人々間の自由な協定;企てられたコミットメントが誰にも分かるようにし、受け入れられたプログラムを否認しないという道義的義務である。こうした基盤に基づいて、実践的構造、組織に生命を与える適切な道具を構築し、デザインしなければならないのである。』(エンリコ=マラテスタ著、アナキスト革命、101ページ)

 従って、親和グループはアナキストによって自主管理された自律的グループであり、特定の活動と関心事について団結し、活動する。これらが、アナキストが自分の活動を調整し、個人の自由と自発的協力に関するメッセージを広めるための鍵となるやり方である。しかし、ここでの「親和グループ」とは何かに関する記述は、アナキストが何故そのように組織を作るのかを説明しはしない。これらのグループがアナキスト理論において果たす役割に関する議論については、セクションJ.3.6を参照してほしい。後で論じるように、本質的に、これら「親和グループ」は、アナキストが社会運動と社会闘争に実際に介入する手段なのであり、その目的は、アナキズム思想を民衆が勝ち取るように、そして、不公正に対抗する闘争から自由社会に向けた闘争へと民衆が変換する手助けをすることである。

 プロパガンダ・アジテーション・政治議論・発展というプロセスを支援するために、アナキストは親和グループの連合を組織する。その主要組織形態は三種あり、「統合(synthesis)」連盟(セクションJ.3.2を参照)・「綱領主義(Platformist)」連盟(セクションJ.3.3を参照。また、この傾向に対する批判はセクションJ.3.4を参照)・「階級闘争」グループ(セクションJ.3.5を参照)である。だがここで、これらのタイプの連合は相互排他的なものではない、ということに注意してほしい。統合連盟は、「階級闘争」と「綱領主義」グループを連合の中に含めていることが多い(ただし、これ以降を読めば分かると思うが、綱領主義連盟は、統合グループを内部に含めてはいない)。ほとんどの国に様々な連合があり、その運動内部には様々な政治的見解を示しているものだ。さらに、いかなる連合であれ、それぞれの傾向を完全に「純正に」表明しているものなどないということにも注意せねばならない。例えば、「統合」グルー プは「階級闘争」グループに同化し、綱領主義グループは綱領に完全に賛同しているわけではない、といった具合である。 我々は、その本質的特徴を示すためにそれぞれの傾向を個別に見ていく。現実生活では、我々が焦点を当てる種別に厳密に当てはまる連合など、全くないとはいえないにせよ、ほとんどないだろう。一定傾向の系統を引いている組織について語ることの方がもっと正確であろう。例えば、仏蘭西アナキスト連合は、統一連合の伝統に大きく影響を受けていることは明らかだが、だからといって、厳密に100%統合連盟ではないのである。最後に注意しなければならないことは、「階級闘争」アナキスト集団という言葉は、「統合」グループと「綱領主義」グループが階級闘争を支持していないという意味では全くない。そうしたグループも全くのところ明らかに階級闘争を支持しているのである。言い換えれば、我々が使っている「階級闘争」組織という専門用語は、他種の組織が階級闘争的ではないということを意味してはいないのだ!

 多種多様な連合形態は、リバータリアン手法によって組織されているアナキスト集団を基盤としている。それは、アナキストが、資本主義の下で可能な限り、未来の価値観に従って生きていこうとしているからであり、相互扶助と兄弟愛に基づいた、統制が上から下へではなく下から上へと行使される、組織を発達させようとしているからなのである。

 アナキストが認識していることは、政治組織・思想が抱える複雑な問題が一つの組織に還元されることはなく、アナキズム内部にある様々な流れは異なる政治組織で(そして、同じ組織内部にさえも)表明されるということだ、と強調しておかねばなるまい。従って、アナキスト集団と連合の多様性は良い兆候であり、自由に基づいた社会を目的とした運動に期待される政治的・個人的思想の多様性を表明しているのである。我々が以下の4セクションで目的としていることは、アナキストが組織を作るときの様々な観点が持っている違いについて広範な像を描くことである。だが、こうした連合の役割は、ここで示したように、闘争における「手助け」であって、権力を求めた新しい指導力ではないのである。


J.3.2 「統合」連盟とは何か?

 前のセクションで記したように、親和グループの連合には主として三種類ある−−「統合」・「階級闘争」(我々の言葉では)・「綱領主義」である。このセクションでは「統合」連盟について論じる。

 「統合」グループの名前は、露西亜アナキスト、ヴォーリンと仏蘭西アナキスト、セバスチャン=フォールの著作から来ている。ヴォーリンは1924年に、「アナキストの統一」を要求した論文を公刊し、同じトピックについてフォールの「アナキスト大百科(Encyclopedie Anarchiste)」にも文章を書いた。しかし、そのルーツはロシア革命と1918年のナバト連合(つまり、「ウクライナ=アナキスト組織」)にある。ナバト団の目的は以下の通りである。『アナキズムの全生命力を組織化すること・共通の努力を通じて社会革命で能動的役割を果たすことをまじめに望んでいる全アナキストを集結させること。社会革命は、組織された大衆に対して新しい社会存在形態をもたらすプロセス(長期的なものであれ、短期的なものであれ)として定義される。』(神もなく、主人もなく、第二巻、117ページ)

 「統合」組織は、一つの連盟内にあらゆる種類のアナキストを統一することに基づいている。ナバト団の言葉を借りれば、以下のようになる。『全種類のアナキズム思想に妥当性がある。我々は、全ての多様な傾向に配慮し、それらを受け入れなければならない。』(建設的アナキズム、に収録されている「返答」で引用、32ページ)「統合」組織は、多種のアナキストを『数多くの基本的立場を持ちながらも、連合の基盤として計画的で組織的な集団努力が必要だという認識を持って集結』(前掲書)させる試みである。これらの基本的立場は数多くの組織が持つ観点を統一する基盤になるかもしれないが、それぞれの傾向は組織の連合的性質のために自身の思想に自由にagreeするであろう。

 この統合アプローチの一例は以下のような異なる主張によって提供されている。アナキズムは階級理論である(中でも、綱領主義が述べているように)・アナキズムは全ての人々にとって人道主義的理想である(この立場を支持する人々は、階級型アナキズムを主張する人々をマルクス主義だと非難することがある)・アナキズムは純粋に個人に関するものである(従って、アナキズムは本質的に個人主義であり、人間全体や階級には全く関与しない)といったものである。こうした立場の統合は、以下のようになされるだろう。

『我々は、統一を創り出さねばならない。そして、アナキズムは階級的要素・人道主義・個人主義原理を含んでいると述べねばならない。(中略)その階級要素は、結局のところ、解放を求めた闘争の手段であり、人道主義的特徴はその倫理的側面、社会基盤であり、その個人主義は人間性の目標なのである。』(前掲書

 ここから読みとれるように、「統合」傾向は、全てのアナキスト(個人主義者・相互主義者・サンジカリスト・共産主義者)を一つの共通連合に統合しようとしているのである。従って、「統合」の観点は、「包含的」であり、多くのアナキストが望ましいとしている「形容詞のないアナキズム」アプローチ(詳しくは、セクションA.3.8を参照)と明らかに親和性を持っているのである。だが実際には、多くの「統合」組織はもっと限定的である(例えば、組織は、仏蘭西アナキスト連盟のように、全ての社会的アナキストを統一することを目的とすることもあり得る)。つまり、統一に関する一般的考えと実際具体的にどのように適用されるのかとには違いがあり得るわけだ。

 統合の背後にある基本的考えは、アナキスト=シーンが(大部分の国でほとんどの時代に、例えば、1920年代の仏蘭西・革命中の露西亜・現代)、無政府共産主義・アナルコサンジカリズム・個人主義的アナキズムの主要三傾向に分断されている、ということである。この分断は、アナキズム運動に重大なダメージを引き起こしかねない。理由は単純で、数多くの(そしてほとんどの場合冗長な)議論と、何故「俺のアナキズムが一番」なのかに関する酷評が、国家・資本主義・権威として知られる我々共通の敵と戦うために共働する方法の中に入り込みかねないからである。「統合」連盟は、アナキズム内の多様な傾向が持つ共通最小分母について一致し、それに基づいた連合の最低限のプログラムについて一致することで、定義される。このことが、「統合」連盟内部に、『組織間である種のイデオロギー的・戦術的統一』(前掲書)を可能にするだろう。

 さらに、一つの組織へと統一する理由としては、もっと重要な課題のために時間とエネルギーを節約するためだけでなく、技術的・効率的な理由がある。つまり、運動がより多くの資源に接触できるようにし、資源を調整することができるようにし、そのことで、資源の利用とインパクトを最大のものとするためである。「統合」連盟は、全てのアナキスト集団もそうだが、全体としての社会内部にアナキズム思想を広げることを目的としている。アナキスト集団は、その役割を次のようなものだと信じているのである。『大衆が支援を必要としているときにだけ、支援すること。(中略)アナキストは経済的・社会的大衆組織(例えば、産業別労働組合のような)のメンバーでもある。全体の一部分として活動し、建設するのである。大衆に対する優越的立場を前提にせずとも、莫大な活動の場がイデオロギー的(注:原文のまま!)・社会的・創造的活動のために開かれているのである。結局、アナキストはそのイデオロギー的(注:原文のまま!)・倫理的影響力を自由で自然なやり方で満たさねばならないのだ。(中略)イデオロギー 上の支援を提供するだけであって、指導者の役割においてではないのである』(前掲書、33ページ) セクションJ.3.6で見ることになるが、このことはアナキスト集団の役割に関してアナキストが共通に持っている立場である。そして、この点を強調することは、同時に、「統一的」連合は通常階級闘争組織なのだ、ということをも示しているのである(つまり、アナキスト社会を創造し、現在の社会をより自由に・より公正にする手段として階級闘争を支持し、それに参加するのである)。

 「統合」連盟の最大の長所は、明らかに、多種多様な観点が一組織の中で表現されることを可能にしていることである(一貫した議論とディベートによって政治思想と政治理論の発達を可能にしているのである)。加えて、この連合は組織内の個々人と諸集団に最大量の資源が入手できるようにしているのである。

 これが、「統合」を元々推進していた人たちが次のように論じている理由なのである。『アナキスト運動を統一し、それが真面目な組織を導くことができるようにするための第一段階は、可能な限り最大限明確な集団的解決策を求めている一連の重要な諸問題に対して集団的・イデオロギー的に活動することである。(中略)(哲学的諸問題や抽象的論文ではなく)具体的な疑問(について議論し)(中略)我々のイデオロギー(注:原文のまま!)と戦術における諸問題を、十全に議論できる議論文書を、全ての国々で出版するべきだと示唆しているのである。それがどれほど「正確」かとか、ましてや「タブー」なのかなど問題ではない。こうした文書になった機関誌の必要性は、口頭での議論と同様、「必須」であると思われる。なぜなら、これが「イデオロギー的統一」を・「戦術的統一」を・そして可能ならば組織を、構築しようとするための実際的方法だからである。(中略)諸問題に関する十全で辛抱強い議論が、(中略)アナキストの間だけでなく、様々なアナキズム概念の間でも、理解の基盤を創り出すであろう。』(< u>前掲書、35ページ)

 アナキスト組織に関する「統合」の考えは、綱領主義(次のセクションを参照)に反対していた人々によって取り上げられた。フォールとヴォーリン双方の基本思想は同じであった。つまり。アナキズムの歴史的諸傾向(共産主義・サンジカリズム・個人主義)は、同じ組織で協力し合い、活動しなければならないのである。ただし、ヴォーリンとフォールの観点には違いがあった。後者は、こうした様々な傾向をそれ自体で財産だと見なし、それぞれの傾向は、共通組織内で共に活動することにより利益を得るだろうと擁護していた。ヴォーリンの観点からは、こうした多様な諸傾向は、様々な場面で(例えば、経済的・社会的・個人的生活で)アナキズムの多岐にわたる意味を発見するために歴史的に必要だった。しかし、全体としてのアナキズムに立ち戻る時期、それぞれの傾向が与えることができるものによってアナキズムが重大に権能を与えられ、その中でそれぞれの傾向それ自体が解消しなければならない時期があるとしていた。それ以上に、様々なレベルにある全アナキストにこれらの諸傾向は共存しているからこそ、アナキス トは皆、これらの諸傾向が消滅している(個人的にも組織的にも、すなわち、組織内部には「アナルコサンジカリズム」に特化した傾向など存在しないといったような)組織に集結せねばならないと見なしていたのだった。

 「統合」連盟は、グループと個々人に対する完全なる自律性に(もちろん、連合と会議の決定という基本原則の中で)基づくことになろう。そして、全ての多様な諸傾向は共に活動し、共通の前線でその違いを表現できるだろう。多様な集団は連合構造の中に組織され、国家・資本主義・その他全種類の圧制に対する闘争において、資源を共有するために結合するであろう。この連合構造は、地域組合を通じて地域レベル(つまり、街や都市におけるグループ)で、地方レベル(例えば、英国ストラスクライド市にいる全グループは、同じ地方組合のメンバーである)で、「全国」レベル(つまり、例えば仏蘭西における全グループ)で、そしてそれ以上にまで拡大して、組織されるのである。

 連合にいる全てのグループが自律的である限り、あるグループは連合の他のグループと関係を持つことなく(もしくは、指導を待つことなく)、行動(社会悪に対する改良キャンペーンなど)を論じ・計画し・開始することができる。つまり、地域のグループが地域の問題に素早く対応できるのである。だからといって、個々のグループが孤立しているわけではない。こうしたイニシアティブは、地域グループが支援が必要だと見なした場合には、連合から支援を得る可能性もある。連合は、連合会議で提起され、他のグループが問題に協力することに同意した場合に、その問題を採用することができる。それ以上に、それぞれのグループは、他のグループをある問題に参加させたままで、その問題に参加しない自由もあるのだ。従って、グループは自分たちが最も関心を持っていることに集中できるわけである。

 連合のプログラムと政策は、定期的な代表者ミーティングと会議で同意されることになろう。「統合」連盟は、連合会議において選ばれ・委任された人々からなる「関係委員会」によって連合レベルで「管理」される。こうした委員会は、純粋に行政的役割を持つことになり、組織内のグループや個々人から提起される情報・示唆・計画を広める。例えば、連合資金の要請などである。委員会は、この点について、連合のメンバーと同じ程度の権限しか持っていない(すなわち、地域グループのメンバーや個々人がそうであるように、委員会として計画を立案することもできないのである)。こうした行政的委員会は、連合に対して責任があり、権限委託とリコールの対象なのである。

 仏蘭西アナキスト連盟は、「統合」の考えに非常に影響を受けた連合の成功例である(伊太利亜アナキスト連盟など世界中の多くのアナキスト連盟もそうである)。明らかに、「統合」連盟がどれほど効果的なものになるかは、メンバーがお互いにどれほど辛抱強いのか・自分の連合と自分が行った同意に対してどれほど真面目にその責任を引き受けているか、に依っている。

 もちろん、大部分の組織には様々な問題があり、「統合」連盟もその例外ではない。多様性はディベートを喚起することで組織を強めることがあり得るものの、多様な集団がまとまると、物事を行うことが難しくなってしまうものだ。綱領主義者などの「統合」連盟の批判者は、「統合」連盟はお喋りの場になってしまいかねず、いかなる共通プログラムであれ、同意することが難しく、実行することなど思いもつかないことになってしまうだろう、と論じている。 例えば、相互主義者と共産主義者はどのようにして、組織が支持している目的に、手段は論外としても、同意できるというのだろうか?一方は資本主義を改良し、国権主義を排除しながら、(修正)市場システム内で共働することを信じているが、他方は商品生産と金銭の排除とそれを行うための手段としての革命を信じているのだ。究極的に、彼らが実行できることは、同意しないということに同意するだけであろう。そして、合同プログラムと活動はある程度まで限定されてしまうだろう。実際、ヴォーリンとフォール双方も本質的な点、つまり、多種多様なアナキズム間の共分母とは何なのか・それを確立するにはどうすればよいのか・そこには何が含まれるのか、を忘れ去っていたのだ、と論じることさえできる。この同意された共通の立場が欠落しているために、多くのいわゆる「アナキスト統合主義組織」は、お喋りの場程度のものになり、いかなる社会的観点からもいかなる組織的観点からも逃げだし、すぐさま組織でもなくアナキズムでもなく、フォールとヴォーリンが意味していたような意味での統合主義でもなくなってし まうのである。

 この(潜在的)不一致こそが、綱領主義の著作者に次のように論じさせるのである。『こうした異種の理論的・実践的要素を合併した組織は、アナキスト運動に関する問題全てについて全く異なる概念を持った個々人の機械的集会にしかならないだろう。この集会は、現実に直面すると、必ずや崩壊するであろう。』(リバータリアン共産主義者の組織的綱領、12ページ)綱領主義は、この問題を克服する手段としての『理論的・戦術的統一』を示唆している。ただし、この言葉はアナキスト=サークルの間では莫大な不和を引き起こしていたが(セクションJ.3.4を参照)。綱領主義に対する返答の中で、「統合」の支持者たちは、「綱領主義」グループは通常非常に小規模、「統合」連盟よりもかなり小規模だという事実を指摘することで反論している(例えば、仏蘭西アナキスト連盟の規模を、アイルランドの労働者連帯運動や仏蘭西のアルテルナティヴ=リベルテールと比較してみればよい)。つまり、綱領主義は、その支持者の主張にも関わらず、実際にはより効果的な組織を導きはしない、と論じ ているのである。さらに、「理論的・戦術的統一」の必要性は、小規模組織をして、内部の差異が建設的活動ではなく、活動の分断を確実に表明する手助けをしているとも論じている。言うまでもなく、この問題に関する運動内部での議論は今も続いているのだ!

 「統合主義」内部にあるこの潜在的問題は、いくつかの組織をお喋りの場程度のものにしかなさしめていない、ということは言える。それぞれのグループが勝手なことを行い、調整を意味のないものにし、決定された合意を無視してしまうのだ(数多くの人に依れば、英国アナキスト連盟が抱えた大問題がこの例だったそうだ)。統合支持者の大多数は、これはその理論が目的としているものではなく、理論それ自体というよりも理論の誤解に問題がある(FAFとFAIから見ることができるように、「統合」に刺激された連盟は、非常にうまく行くこともあり得る)、と論じるであろう。非支持者はもっと批判的であり、「綱領主義」をアナキズム思想と影響力を広めるためのより効果的な組織手段として支持している人々もいる(次のセクションを参照)。社会的アナキストの中には、セクションJ.3.5で論じるような「階級闘争」型連合を創出している人々もいるのである(例えば、これは英国によく見られる組織形態である)。

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