アナキズムFAQ

A.5.5 イタリア工場占拠運動におけるアナキズム

 第一次世界大戦が終わると、欧州、そして世界が大きく急進化した。労働組合員は爆発的に増加し、ストライキ・デモ・アジテーションが大規模に行われた。これは戦争の影響も一部あるが、ロシア革命が一見して成功したように見えたこともその一因であった。ジョセフ=ラバディのような個人主義アナキストでさえもがロシア革命に熱狂し、他の多くの反資本主義者同様に、『輝かしい時代の希望を与えてくれる東方の赤色』を見、ボルシェビキは『少なくとも産業奴隷の地獄から抜け出そうとする素晴らしい努力』を行っていると見なしていた [Carlotta R. Anderson, All-American Anarchist p. 225, p. 241で引用]。
 アナキズム思想は欧州全土でさらに流行し、アナルコサンジカリスト組合は大規模になった。例えば、英国では、この騒乱状態によって、職場代表(ショップ=スチュワード)運動やクライドサイドのストライキが生み出された。ドイツではIWWに刺激された産業別労働組合主義が台頭した。そしてスペインでは、アナルコサンジカリスト組合のCNTが大きく成長した。さらに、残念なことだが、社会民主党と共産党の両勢力も台頭し成長していた。イタリアもこの例外ではなかった。
 トリノでは新しい一般大衆運動が発展していた。この運動は「内務委員会」(選挙で選ばれた臨時の苦情処理委員会)を中心としていた。この新しい組織は、仕事場で共に働いている人々の集団に直接基づき、15人から20人程度の労働者集団に対し任務を委託されたリコール可能な職場代表が一人選ばれる。そして、工場内の職場代表全体集会で、その工場施設における「内務委員会」が選抜されるのである。この委員会は、職場代表機構に対して直接的で一貫した責任を負っており、これが「工場評議会」と呼ばれるようになったのである。
  1918年11月から1919年3月までの間、内務委員会は労働組合運動内部での全国的議題となった。1919年2月20日、イタリア金属工業労働者連合(FIOM)は、工場で「内務委員会」の選挙を規定する協定を勝ち取った。その後、労働者はこの労働者代表機関を、経営機能を持った工場評議会へと転換しようとした。1919年のメーデーまでに、内務委員会は『金属工業における主要勢力となり、労働組合は取るに足らない管理上の部署になる危険があった。改良主義者の目からすれば、こうした憂慮すべき発展の影にはリバータリアンが潜んでいるのだった。』[Carl Levy, Gramsci and the Anarchists, p. 135] 1919年11月までにトリノの内務委員会は工場評議会へと変化していた。
 トリノの運動は、 1919年5月1日発刊の「新秩序  L'Ordine Nuovo」という週刊紙に関連づけられることが多い。ダニエル=ゲランは次のように要約している。これを『編集していたのは、左翼社会主義者アントニオ=グラムシだったが、彼は、アナキズム思想を持つカルロ=ペトリというペンネームのトリノ大学哲学教授とトリノのリバータリアンたちに支援されていた。工場で、「新秩序」グループは多くの人々から支持された。金属工業のアナルコサンジカリスト闘士、ピエトロ=フェレロとマウリツィオ=ガリーノは特に支持していた。「新秩序」の声明には社会党員とリバータリアンが共に署名し、工場評議会を「将来、個々の工場と社会全体とを共産主義的に管理するために適した機関」』[Anarchism, p. 109] であると見なすことに合意していた。
 トリノでの発展が孤立して行われたと見なしてはならない。イタリア全土で労働者と農民が行動を起こしていた。1920年2月後半、リグリア州・ピエモンテ州・ナポリで工場占拠が頻発した。リグリア州で、労働者は、賃上げ交渉が破綻した後、セストリ=ポネンテ・コルニリアノ・カンピにある金属工場と造船工場を占拠した。サンジカリスト指導部の下、4日間に渡り労働者は工場評議会を通じて工場を運営した。
 この時期、イタリアサンジカ連盟(USI)はほぼ80万人にまで拡大し、イタリアアナキスト連盟(UAI)も2万人の勢力になり、日刊紙(「新しい人間性  Umanita Nova」)もそれに応じて部数を伸ばした。ウェールズ人のマルクス主義歴史学者グウィン=A=ウィリアムズは次のように指摘している。『アナキストと革命的サンジカリストが、左翼の中で最も首尾一貫した完全な革命グループだった。急速で絶え間ないと言ってもよいほどの成長、これが1919年から1920年までのサンジカリズムとアナキズムの歴史が持つ最も顕著な特徴だった。結局、サンジカリストたちは、社会主義運動が全く捉えることのできなかった戦闘的労働者階級の意見を捉えたのである。』[Proletarian Order, pp. 194-195] トリノで、リバータリアンは『FIOM内部で活動し』、『「新秩序」のキャンペーンに最初から大きく参加した。』[前掲書 , p. 195] 驚くなかれ、「新秩序」は他の社会主義者から「サンジカリズム」だと非難されていたのだった。
 仕事場を占拠するという考えを最初に提起したのはアナキストとサンジカリストだった。マラテスタはこの考えを 1920年3月に「新しい人間性」で論じていた。マラテスタの言葉では『ゼネストという抗議行動ではもはや誰も狼狽えなくなった。別なことをしなければならない。一つアイディアを提案しよう。工場の乗っ取りである。この方法には確かに未来がある。なぜなら、労働運動の究極目標と合致しており、収用という究極の行為を行う覚悟を人にさせる訓練となるからだ。』[Errico Malatesta: His Life and Ideas, p. 134] 同じ月に『ミラで評議会を成立させる強力なサンジカリスト政治運動』が行われている最中、『アルマンド=ボルギ(USIのアナキスト書記)は大規模な工場占拠を呼びかけた。トリノでは、仕事場コミッサールの再選挙が幕を閉じたばかりだった。この狂乱の二週間、情熱的な論争が行われ、労働者はこの熱病にうかされ続けていた。(工場評議会)コミッサールは占拠を呼びかけ始めた。』実際『トリノ以外の評議会運動は、本質的にアナルコサンジカリズムだった。』当然ながら、サンジカリスト金属工業労働者の書記官は『トリノ評議会に対する支援を求めた。なぜなら、トリノの評議会は工場管理を目的とした反官僚主義の直接行動を示しており、サンジカリスト産別労組の第一下部組織になり得るからである。サンジカリスト大会はこの評議会を支持することを投票で決定した。マラテスタは評議会は直接行動の一形態であり、叛乱の生成を保証するものだとして評議会を支持した。「新しい人間性」「階級戦争 Guerra di Classe」(USIの新聞)は、「新秩序」とトリノ版「前進 Avanti」(社会党機関紙)と同じぐらい評議会に専心するようになったのである。』[Williams, 前掲書, p. 200, p. 193, p. 196]
 労働者の戦闘性が急激に高まると、雇用主はすぐさま反撃した。ボスどもの組織は工場評議会を非難し、評議会に反対する動員を呼びかけた。労働者は反発し、ボスの命令に従うことを拒否した。「無秩序」が工場内にわき起こった。ボスは国家の援助を勝ち得、既存の産業規則を強化した。1919年にFIOMが勝ち取った全国協定は、生産現場での内務委員会は禁止となり、仕事以外の時間に制限することを定めたものになってしまった。つまり、トリノでの職場代表運動の活動−−例えば、職場代表選挙のために仕事を止めること−−は契約違反にされたのである。運動を維持していたのは本質的に大衆の不服従であった。ボスどもはトリノの工場評議会と闘う手段として、合意済みの契約に対するこうした侵害行為を使ったのである。
 雇用主との決着は 4月に訪れた。フィアットで行われた職場代表総会は、数名の職場代表の解雇に抗議する座り込みストを呼びかけた。それに対し雇用者側は全面的工場閉鎖を宣言した。政府は工場閉鎖を支持して、大量の武力を誇示し、軍隊で工場を占拠し、工場にマシンガンを配備した。2週間のストライキの後、職場代表運動が係争中の当面の問題について降伏することを決めると、雇用者側はFIOM全国協定に従って職場代表評議会を仕事以外の時間に限定し、経営者による管理を再び課すことを要求した。
 こうした要求は工場評議会システムの核心に向けられたものであり、トリノ労働運動はそれを防衛するために大規模なゼネストで応じた。トリノは全面的にストライキに突入し、すぐにピエモンテ地方全体に広がり、最高時には50万人の労働者が参加した。トリノのストライキ参加者は、ストライキが全国に拡大することを要求した。そして、ほとんどのストを社会党員が主導していたため、彼らはCGL(労働総同盟)と社会党指導者を頼みにしたものの、その求めは拒絶されたのである。
 トリノのゼネストを支持したのは、例えば独立鉄道労組や海運労組のような、主としてアナルコサンジカリズムの影響を受けた労働組合だけだった(『サンジカリストだけが動いてくれたのだ』)。ピサとフローレンスにいる鉄道労働者は、トリノに送られる軍隊の輸送を拒否した。ジェノアのいたるところで、造船工やUSIが主として影響力を持っている仕事場でストライキが行われた。従って、『全ての社会主義運動に裏切られ、見放された』にも関わらず、4月運動は『アナルコサンジカリストが直接行ったり、間接的に刺激したりした様々な行動』と共に『なおも民衆の支持を得ていた。』トリノ自体では、アナキストとサンジカリストは、グラムシと「新秩序」グループ『から評議会運動を今にも切り離す寸前だったのである。』[Williams, 前掲書, p. 207, p. 193, p. 194]
 結局、CGL指導部は、職場代表評議会を仕事以外の時間に制限するという雇用側の主たる要求を受け入れることを条件に、ストライキに終止符を打った。評議会の活動と生産現場での存在感は大分減ってしまったものの、なおも9月の工場占拠中にその立場は復活することになる。
 アナキストは『社会党は裏切り者だと非難した。彼らが信じているのは社会党員を腰抜け指導部に拘束する誤った規律感覚なのだ、とアナキストは批判した。アナキストは、全運動を「指導者の計算・恐怖・誤り・裏切りの可能性」の下に置く規律を、他の規律と対比したのである。つまり、トリノに連帯してストライキを行ったセストリ=ポネンテの労働者の規律・トリノに治安部隊を輸送することを拒否した鉄道労働者の規律・党やセクトの考慮事項を忘れて自身をトリノ民衆の意向の中に身を置いたアナキストやUSIメンバーと対比させたのである。』[Carl Levy, 前掲書, p. 161] 悲しいかな、社会党とその組合が持つこうしたトップダウン型「規律」は、工場占拠中にも繰り返され、酷い結果を招いたのだった。
  1920年 9月、一人の経営者が賃金カットと工場閉鎖を行ったことに対抗して、イタリア各地で大規模な座り込みストライキが起った。『危機の雰囲気の中心にはサンジカリストの台頭があった。』8月半ば、USIの金属労働者は『工場占拠を行うように双方の組合に呼びかけ』、同時に、工場閉鎖に対する『予防的占拠』を呼びかけた。USIはこれを『金属労働者による工場の収用』であると見なし(『あらゆる必要手段を使って防衛され』ねばならない)、『他の産業労働者も闘うよう呼びかける』必要があると見なした [Williams, 前掲書, p. 236, pp. 238-9]。実際、『雇用側の工場閉鎖に対抗して工場を占拠するというサンジカリストの考えをFIOMが受け入れなかったらば、USIこそがトリノの政治的に能動的な労働者階級から大きな支持を勝ち得ていただろう。』[Carl Levy, 前掲書, p. 129] ストライキは機械工場から始まり、すぐに鉄道や道路運送業など他の産業に波及し、農民も農地を占拠した。しかし、スト参加者はただ単に職場を占拠しただけではなく、職場を労働者自主管理下においたのである。程なくして50万人以上の「スト参加者」が仕事につき、自分たち自身で生産を始めた。この出来事に参加したエンリコ=マラテスタは次のように記している。

 金属労働者が賃金率をめぐって運動を開始した。これは新しい種類の運動だった。工場を放棄する代わりに、仕事をせずに工場内に留まり続ける、というのがこの考えだった。イタリア全土で、労働者の革命的熱狂が起こり、すぐに、この要求が労働者の性格を変えた。遂に生産手段を占有する機が熟したと労働者は考えた。彼等は防衛のために武装し、彼等自身で生産を組織し始めた。現実に、所有権が廃止されたのだ。それは新しい体制、新しい社会生活形態の先駆けだった。政府はそれに反対する気力を失い、ただ傍観していた。[Errico Malatesta: His Life and Ideas, p. 134]

 ダニエル=ゲランがこの運動の広がりをうまくまとめている。

 工場を管理したのは、技術労働者委員会と管理労働者委員会だった。自主管理はとても長い道を歩んだ。当初は、銀行から支援を受けていたが、それが中止されると、自主管理システムは、労働者の賃金を支払うために独自の貨幣を発行した。非常に厳しい自制心が要求され、アルコール飲料は禁止され、自衛のために武装パトロールが組織された。自主管理下の工場の間には非常に親密な連帯感が確立した。鉱石や石炭は共有で蓄えられ、公平に分配された。[Anarchism, p. 109]

 イタリアは『混乱していた。 50万人の労働者が工場を占拠し、その上に赤黒旗が掲げられた。』この運動はイタリア中に広がり、ミラン・トリノ・ジェノアといった工業中心地だけでなく、ローマ・フローレンス・ナポリ・パレルモでも行われた。『運動の最前線には確かにUSIの闘士がいた。』一方、「新しい人間性」は次のように論じていた。『この運動は非常に重大である。この運動が大規模に拡大するよう、我々はできるかぎりのことを行わねばならない。』USIは『「収用ゼネスト」を開始するために、全産業に運動を拡大すること』を粘り強く呼びかけた [Williams, 前掲書, p. 236, pp. 243-4]。リバータリアンに影響された鉄道労働者たちは軍隊の輸送を拒否した。労働者は改良主義の組合の命令に抗してストライキに突入し、農民は土地を占拠した。アナキストは誠心誠意この運動を支持した。当然、『工場と土地の占拠は、完全に我々の行動プログラムと合致していた』からである [Malatesta, 前掲書, p. 135]。ルイジ=ファブリは、この占拠は、『これまで意識されなかったプロレタリア階級の力を明らかにした』と述べていた [Paolo Sprinao, The Occupation of the Factories, p. 134で引用]。
 だが、四週間の占拠の後、労働者たちは工場を離れる決断をした。これは、社会党や改良主義労働組合の活動によるものであった。こうした組織は占拠運動に反対し、国家と交渉した。労使協調で労働者管理を合法的に拡大するという約束と引き替えに「正常状態」に戻すというわけである。革命の問題は4月10日〜11日のミランにおけるCGL全国大会の投票で決められたが、サンジカリスト組合の意見は聞かれず、社会党指導部はいずれにせよ投票を拒否していた。
 言うまでもなく、「労働者管理」の約束は守られなかった。独立した工場間組織がなかったため、他の都市で何が起きているかの情報を労働者が得るためには労働組合官僚に頼らざるを得ず、官僚連中はその力を使って個々の工場や都市を分断した。結果、『工場中で分散していた個々のアナキストは反対していたにも関わらず』仕事に復帰することになったのである [Malatesta, 前掲書, p. 136]。改良主義の組合がサンジカリストと一緒に働くことを拒否したため、地元のサンジカリスト組合連合は、充分調整の取れた工場占拠を行うために必要な枠組みを作ることができなかった。アナキストは多くの人々からなる少数派だったが、結局のところ少数派でしかなかったのである。

 「プロレタリア階級間の」大会(アナキスト連盟、鉄道と海運の労働組合が参加した)が9月12日に開かれた際、サンジカリスト組合は、社会党とCGLなしで「自分たちだけで行うことはできない」と決定し、ミランでの「反革命投票」に異議を申し立て、その投票は少数派主義で恣意的で無効だと断じ、新しく曖昧だが熱烈な、行動要請に着手することで締めくくっていた。 [Paolo Spriano, 前掲書, p. 94]

 マラテスタもミランの工場の一つにいる労働者たちについて論じていた。『ローマで(CGLと資本家との間で)取り交わされた協定を、君たちの勝利だなどと賞賛している人々は、君たちを騙しているのである。現実には、ジョリッティ・政府・ブルジョア階級が勝利したのだ。奴等は必死にぶら下がっていた断崖から助け出されたのである。』占拠の間中、『ブルジョア階級は恐れおののき、政府はこの情況に直面して無能だった。』従って、

 ローマ協定はブルジョア搾取の下に君たちを撃退する。君たちは搾取を取り除くことができたはずなのに。これを勝利だと語るなど、嘘だ。工場を放棄するなら、偉大なる闘いをしたという確信を持ってそうするべきだ。最初の動機に闘争を戻し、徹底的にやり遂げようという断固たる意志を持ってそうするべきなのだ。この勝利が持つ欺瞞的特徴について何の幻想も持っていないのであれば、失うものなどない。工場の管理という有名な布告は偽物だ。君の利益とブルジョアの利益を調和させようというのだから。そんなのは、狼と羊の利益を調和させようというようなものだ。指導者なんて信じちゃいけない。奴らは一日一日と革命を延期することで君をバカにしているのだ。好機が訪れたら、君自身が革命を起こさなければならない。命令など待つな。革命の命令など下されはしないし、下されたところで、行動を止めろと命じられるだけのことだ。自分に自信を持て。自分の未来を信頼せよ。そうすれば勝利するだろう。[Max Nettlau, Errico Malatesta: The Biography of an Anarchistで引用]

 マラテスタの正しさは証明された。占拠が終わると、勝利したのはブルジョア階級と政府だけだった。すぐに、労働者はファシズムに直面することになった。当初、1920年10月に『工場を明け渡した後』、政府(誰が本物の脅威が誰なのかを明らかに知りつつ)は『USIとUAIの指導者を全員逮捕した。社会党員は何の対応もせず』、『1921年の春にマラテスタなどの獄中アナキストがミランの独房でハンガーストライキを開始するまで、リバータリアンに対する迫害を事実上無視していたのである。』[Carl Levy, 前掲書, pp. 221-2] こうしたアナキストは四日間の公判の後、釈放された。
 1920年の出来事は四つの事を示していた。まず第一に、労働者は自分の仕事場をボスなしに自分で上手く管理できる、ということである。第二に、アナキストは労働運動に参加しなければならない、ということである。USIの支援がなければ、トリノの運動は実際よりももっと孤立していたであろう。第三に、階級闘争に影響を及ぼすためにアナキストは組織を作らねばならない、ということである。影響力と規模双方の点でUAIとUSIは成長した。これがアナキスト組織の重要性を示している。工場占拠という考えを提起し、その運動を支援するアナキストとサンジカリストがいなければ、工場占拠がこれほどまでに成功し、広がりをみせたかどうかは疑わしい。最後に、ヒエラルキー型のやり方で組織された社会主義組織は革命的メンバーを創り出さない、ということである。常に指導者に頼ることで、運動は不自由になり、その潜在的可能性を十全に発達させることができなくなるのである。
 イタリア史のこの時代がイタリアにおけるファシズムの成長を説明してくれる。トビアス=アブジは次のように指摘する。『イタリアでのファシズムの勃興は、それに先んじる1919年と1920年の赤い二年間、ビエノ=ロッソの出来事と切り離すことはできない。ファシズムは予防的反革命だった。革命が失敗した結果、起ったのである。』[Rethinking Italian Fascism, David Forgacs (ed.), pp. 52-81収録の、"The Rise of Fascism in an Industrial City", p. 54]「予防的反革命」という言葉を元々作ったのは、主導的アナキストのルイジ=ファブリである。
 工場占拠の時に、マラテスタはこう主張した。『最後まで続けなければ、我々は、今ブルジョア階級に植え付けている恐怖の報いを、血の涙で返すことになろう。』[Tobias Abse, 前掲書, p. 66で引用] 後に起った事が彼の正しさを証明した。資本家と金持ち地主は、労働者階級に身の程をわきまえさせるべく、ファシストを支援したのである。トビアス=アブジを引用しよう。

 1921年から1922年にファシスト、そして実業家や農民のファシスト支持者が目的としていたことは単純だった。組織的労働者と農民の力を可能な限り完全に粉砕すること、ビエノ=ロッソが獲得したものだけでなく、世紀の変わり目と第一次世界大戦の間に下層階級が獲得した全てを銃弾とこん棒を使って一掃することである。[前掲書, p. 54]

 ファシストの分隊は、アナキストや社会主義者の集会所・社会センター・急進主義新聞・カーメラ=デル=ラヴォーロ(地元の労組協議会)を攻撃し、破壊した。だが、ファシストによるテロの暗黒時代でさえ、アナキストは全体主義勢力に抵抗していた。『ファシズムに対して最も強力な労働者階級の抵抗があったのは、アナキズム・サンジカリズム・アナルコサンジカリズムの伝統が強い町や都市だった。これは偶然ではない。』[Tobias Abse, 前掲書, p. 56]
 アナキストは、労働者の利益を自衛するための労働者階級組織「民衆突撃隊 Arditi del Popolo」に参加し、その支部を組織することも多かった。民衆突撃隊はファシスト部隊に対する労働者階級レジスタンスを組織し、後援し、多くの場合、規模の大きなファシスト部隊を打ち破っていた(例えば、1922年8月にパルマのアナキストの拠点で、『労働者階級地区の住民に支援された民衆突撃隊の二名が、数千人のイターロ=バルボのファシスト行動隊に完全な屈辱を与えた』[Tobias Abse, 前掲書, p. 56])。
 民衆突撃隊は、マラテスタとUAIが提唱した、団結した革命的イタリア労働者階級の反ファシスト戦線構想に最も近いものであった。この運動は、『反ブルジョア・反ファシストの方向性に沿って発展し、地方支部の独立性を特徴としていた。』[Red Years, Black Years: Anarchist Resistance to Fascism in Italy, p. 2] 単なる「反ファシズム」組織というよりも、民衆突撃隊は、『「民主主義」を抽象的に防衛する運動ではなく、産業労働者・港湾労働者・数多くの農民と職人の利益を防衛することに専心する本質的に労働者階級の組織であった。』[Tobias Abse, 前掲書, p. 75] 当然、民衆突撃隊が『最も強力になり最も成功を治めたと思われるのは、伝統的な労働者階級政治文化がそれほど社会党に独占されておらず、アナキズムやサンジカリズムの強力な伝統を持っている地域、例えば、バリ・リボルノ・パルマ・ローマだった。』[Antonio Sonnessa, "Working Class Defence Organisation, Anri-Fascist Resistances and the Arditi del Popolo in Turin, 1919-22," pp. 183-218, European History Quarterly, vol. 33, no. 2, p. 184]
 だが、社会党と共産党はこの組織から脱退し、社会党は 1921年8月にファシストと「和平協定」を結ぶ。共産党は、『党員をアナキストと共に活動させず、民衆突撃隊から脱退させようとしていた。』[Red Years, Black Years, p. 17] 事実、『この協定が結ばれた正にその日、新秩序は』、民衆突撃隊に『関与しないように警告したPCd’I(イタリア共産党)の通達を公開した。』四日後、共産党指導部は『公式に運動を放棄し』、この組織に『参加し続けたり、連携を取ったりしている共産党員には、重大な懲戒処分があると脅された。』つまり、『1921年 8月の第一週の終わりまでに、PSI・CGL・PCd’Iは』この組織を『公式的に非難した』のである。『(民衆突撃隊)のプログラムに常に同情的ではなかったにせよ、アナキスト指導者たちだけが運動を放棄しなかった。』事実、「新しい人間性」紙はこの運動を『反ファシズム抵抗の民衆表現であり、組織を作る自由を防衛しているという理由で強く支持していた。』[Antonio Sonnessa, 前掲書, p. 195, p. 194]
 だが、指導部の決定にも関わらず、多くの一般の社会党員と共産党員はこの運動に参加した。共産党員にいたっては、この運動を『PCd’Iの指導部が次第に放棄したことに対する反抗を』あからさまに行った。例えば、トリノで、民衆突撃隊に参加した共産党員は、『自分を共産党員としてではなく、もっと広い労働者階級の一部だと見なして』そのようにした。そこに『一人の有力な社会主義者・アナキストが存在していたことがこの力を強めていた。』共産党指導部がこの運動を支援しなかったことは、民衆運動のニーズに鈍感なボルシェビキ組織形態の破綻を示している。実際、こうした出来事は、『権威からの自律・権威に対する抵抗というリバータリアンの慣習が、特に指導者が草の根レベルの情況を誤解しているときには、労働運動指導者に対抗するように作用した』ことを示している [Sonnessa, 前掲書, p. 200, p. 198, p. 193]。
 共産党はファシズムに対する民衆抵抗を支持できなかったのだ。共産党の指導者アントニオ=グラムシはその理由を次のように述べている。『党指導部以外の指導力に党員が統制されないようにしなければならない、民衆突撃隊の問題に関する党指導部の態度はこの必要性に合致していたのである。』グラムシは更に次のように付け加えている。この政策は『この大衆運動を不当だと見なす役目を果たした。この運動は下から始まったが、逆に自分たちがこの運動を政治的に搾取できたはずだというわけであった。』[Selections from Political Writings (1921-1926), p. 333] 他の共産党指導者よりは民衆突撃隊に対して党派的ではなかったものの、『全ての共産党指導者同様に、グラムシもPCd’I主導の軍隊を作ることを待望していた。』[Sonnessa, 前掲書, p. 196] 言い換えれば、共産党指導部は、ファシズムに対する闘争をより多くの党員を得る手段だと見なしていたのである。そして、いざ、党員が得られそうもなくなると、彼らは、共産党信奉者がアナキズムに影響されるようになるリスクではなく、敗北とファシズムを選んだのだった。
 アブジは次のように記している。民衆突撃隊を『駄目にしたのは、全国レベルで社会党と共産党が支持を取り消したことであった。』[前掲書, p. 74] つまり『社会改良主義の敗北主義と共産党のセクト主義が、広範囲に及ぶ有効な武装抵抗を不可能にし、民衆抵抗の個々の実例を戦略の成功へと結合できなくしたのである。』ファシズムは打倒できたはずだった。『1921年7月のサルツァーナの暴動、1922年8月のパルマの暴動は、アナキストが行動とプロパガンダで駆り立てた政策が正しいということを実際に示していた。』[Red Years, Black Years, p. 3, p. 2] 歴史家のトビアス=アブジはこの分析を支持している。『アナキストのマラテスタが行った革命的反ファシズム共同戦線の呼びかけを社会党・共産党の指導部が支持してさえいれば、1922年8月にパルマで起こったことはいたるところで起こり得たはずだ。』[前掲書, p. 56]
 結局、ファシストの暴力は成功し、資本家の権力は維持された。

 アナキストの意志と勇気だけでは、ファシストギャングに対抗するのに不充分だった。ファシストは、物資と武器の補助を大いに受け、様々な抑圧的国家機関に支援されていた。アナキストとアナルコサンジカリストは一部の地域や一部の産業では決定的な影響力を持っていた。だが、社会党と労働総同盟(改良主義労組)も同様に直接行動を選択してさえいれば、ファシズムを食い止めることができたはずである。[Red Years, Black Years, pp. 1-2]

 マルクス主義者は革命敗北の手助けをした後、ファシズムの勝利を確実にする手助けをしたのである。
 ファシスト国家が成立した後でも、アナキストはイタリアの内外で抵抗を続けた。 1936年、アナキストも非アナキストも、多くのイタリア人がフランコに抵抗すべくスペインへ向かった(詳細は、ウンベルト=マルツォッキ著「スペインを思い出す:スペイン市民戦争におけるイタリア人アナキスト志願兵 Remembering Spain: Italian Anarchist Volunteers in the Spanish Civil War」を参照)。第二次世界大戦中、アナキストはイタリアのパルチザン運動で主要な役割を演じた。反ファシスト運動が反資本主義分子に支配されていたという事実、これこそが、米英をして、自分たちが「解放した」地域の政治的立場に著名なファシストを配属させた理由である(こうした地域はパルチザンがすでに掌握している町の場合が多く、結果、連合軍は町を本来の住人から「解放」したというわけなのだ!)。
 イタリアにおけるファシズムへの抵抗の歴史を考えれば、イタリアのファシズムはサンジカリズムの産物だとか、サンジカリズムの一形態だなどと主張する人々がいるのには驚かされる。アナキストでさえもこのように主張する者がいる。ボブ=ブラックによれば、『イタリアのサンジカリストは、大抵、ファシズムに転向した』のであり、デヴィッド=D=ロバーツが1979年に行った研究「サンジカリズムの伝統とイタリアのファシズム  The Syndicalist Tradition and Italian Fascism」がこの主張を支持する文献だという [Anarchy after Leftism, p. 64]。ピーター=サバティーニは、「社会的アナキズム Social Anarchism」誌での書評で同様のことを述べており、サンジカリズムの『究極の失敗』は『それがファシズムの媒体へと変質してしまったこと』だったと述べている [Social Anarchism, no. 23, p. 99]。こうした主張の背後にはどのような真実があるのだろうか?
 ブラックの参考文献を見てみれば、サンジカリストという言葉がUSI(イタリアのサンジカ労組)のメンバーを意味しているのであれば、イタリアのサンジカリストの大部分が実際にはファシズムに転向しなかったことが分かる。ロバーツは次のように述べている。

 組織労働者の大多数は、サンジカリストのアピールに応じることができず、無意味な資本主義戦争にしか思われないことを回避するべく(第一次世界大戦におけるイタリアの)軍事介入に反対し続けた。サンジカリストはUSI内部の大多数を納得させることすらできず、大多数は、USIのアナキスト指導者アルマンド=ボルギの中立主義を選んだ。その後、デ=アンブリスが軍事介入路線の少数派を引き連れて連盟を脱退し、連盟は分裂した。[The Syndicalist Tradition and Italian Fascism, p. 113]

 だが、「サンジカリスト」が戦前の運動に関わった知識人と「指導者」を意味しているのであれば、第一次世界大戦開始後に『主導的サンジカリストがすぐさまほとんど満場一致で軍事介入の支持を表明した』[Roberts, 前掲書, p. 106] のは真実であろう。こうした戦争賛成の「主導的サンジカリスト」の多くは確かにファシストになった。しかし、一握りの「指導者」(大多数は従いさえしなかったのに!)に注意を向け、これが『イタリアのサンジカリストは、大抵、ファシズムに転向した』ことを示していると述べるなど、驚きだ。更に悪いことに、上記したように、イタリアのアナキストとサンジカリストはファシズムに対して最も献身的に最も上手く闘った人々なのである。結局、ブラックとサバティーニは運動全体を中傷したのだ。
 同時に興味深いことだが、こうした「主導的サンジカリスト」はアナキストではなかったし、アナルコサンジカリストでもなかった。ロバーツが述べているように、『イタリアでは、サンジカリズムの信条は、明らかに、社会党内部で活動し、改良主義に対する代案を探していた知識人の一群が作り出したものであった。』こうした知識人は『ハッキリとアナキズムを非難していた。』そして、『様々なマルクス主義の正統性を主張していたのだった。』この『サンジカリストはマルクス主義の伝統の中で活動したいと本当に望んで−−活動しようとして−−いたのである。』[前掲書, p. 66, p. 72, p. 57, p. 79] カール=レヴィによるイタリアのアナキズムの解説によれば、『他のサンジカリズム運動とは異なり、イタリアのサンジカリズムは第二インターナショナルの政党に結びついていた。支持者の一部は非妥協的な社会党員から集められ、南部のサンジカリスト知識人は共和主義を宣言していた。もう一つの構成分子は労働者党の生き残りであった。』[For Anarchism: History, Theory, and Practice, David Goodway (Ed.), 収録の"Italian Anarchism: 1870-1926", p. 51]
 つまり、ファシズムに転向したイタリアのサンジカリストは、まず第一に、サンジカリスト組合にいる大多数を自分たちに従うようにさせることができなかった少数の知識人であり、第二に、マルクス主義者と共和主義者だったのである。アナキストでもなければ、アナルコサンジカリストでもなく、革命的サンジカリストですらなかったのである。
 カール=レヴィによれば、ロバーツの本は『サンジカリストのインテリゲンチャに注目している』のであり、『数名のサンジカリスト知識人が新しいナショナリズム運動を生み出す手助けをしたり、同情を持って是認したりしていたのである。これは、南部のサンジカリスト知識人がポピュリストや共和主義のレトリックを使っていたのと類似していた。』彼は次のように論じている。『サンジカリスト知識人と民族的オルガナイザーが過剰に強調されていた。』サンジカリズムは『その長期的な活力を民族的な統率力に依拠してはいなかった。』[前掲書, p. 77, p. 53, p. 51] USIのメンバーを見てみれば、『大抵、ファシズムに転向した』グループだったとは思えない。むしろ、全力でファシズムと闘い、ファシストの大規模な暴力の対象となった一群の人々を見出すのである。
 要約しよう。イタリアのファシズムは、サンジカリズムとは何の関係もない。上記したように、USIはファシストと戦い、UAIや社会党といった急進主義者とともに、ファシストに破壊された。一握りの戦前のマルクス主義サンジカリストが後にファシストとなり、「民族的サンジカリズム」を提起したからといって、サンジカリズムとファシズムが関連しているわけではないのだ(アナキストの中に後にマルクス主義者になった者がいるからといって、アナキズムをマルクス主義への「媒介手段」にしているということではないのと同じである!)
 当然のことだが、ファシズムに対して最も一貫し、最も成功した敵対者はアナキストであった。これら二つの運動ほど完全に分断しているものはないだろう。一方は資本主義に仕えた全体国家主義に賛同し、他方は自由な非資本主義社会に賛同しているのだから。同様に当然のことだが、自分の特権と権力が脅かされると、資本家と地主はそれらを守るためにファシズムに救いを求めた。このプロセスは歴史でよく見られることなのだ(例を四つだけ挙げれば、イタリア・ドイツ・スペイン・チリがそうである)。

A.5.6 アナキズムとスペイン革命

 ノーム=チョムスキーは次のように述べている。『本当に大規模なアナキズム革命の好例−−実際に、私が知る限り最良の実例だ−−は、1936年のスペイン革命である。そこでは、共和主義スペインの大部分にわたり、かなりの地域で工業と農業双方を巻き込んだ非常に刺激的なアナキズム革命が生じていた。そして、もう一度言うが、これは、双方の人間的指標を、そして、実際にあらゆる人の経済的指標を使っても、非常に成功したのだった。つまり、生産が効果的に継続していたのである。農場と工場にいる労働者は、多くの社会主義者・共産主義者・自由主義者などが信じようとしているのとは逆に、上からの強制がなくとも自分の仕事を完全に管理できることを証明したのである。』1936年の革命は、『三世代にわたる実験・思想・活動に基づいており、これらがアナキズム思想を非常に多くの民衆に伝えたのである。』[Radical Priorities, p. 212]
 こうしたアナキストの組織作りとアジテーションのおかげで、1930年代のスペインは世界最大のアナキズム運動を手にしていた。スペイン「市民」戦争の初めで、150万以上の労働者と農民が、アナルコサンジカリスト組合連合CNT(全国労働連合)のメンバーであり、3万人がFAI(イベリアアナキスト連合)のメンバーだった。当時、スペインの総人口は2400万人だった。
 1936年7月18日のファシストクーデターに応じて行われた社会革命は、今日までリバータリアン社会主義の歴史の中で最大の実験である。大衆サンジカリスト組合であるCNTは、ファシストの反乱を阻止するだけではなく、広範囲に渡る土地や工場の奪取を促した。約200万のCNT組合員を含めて 700万以上の人々が、困難な情況で自主管理を実行し、労働条件と生産高の双方を現実に向上させたのである。
  7月19日以降のめまぐるしい日々の中で、主導権と権力を真に手にしていたのはCNTやFAIの一般メンバーであった。ファシスト反乱を撃退し、生産・分配・消費を再開(もちろん平等主義的なやり方で)したのは、明らかに、ファイスタ(FAIメンバー)やCNT闘士に影響された普通の人々であった。同時に、こうした人々は、同時に、義勇軍を組織し、義勇軍に参加することを志願し(数万人規模で)、フランコが支配している地方を解放するために、スペインの各地へ向かったのである。スペインの労働者階級は、あらゆる可能性を使って、社会正義と自由という自分たちの思想を基づく新世界を、自らの行為によって創造しつつあったのである。もちろん、この思想はアナキズムとアナルコサンジカリズムが呼び起こしたのである。
  1936年12月後半に、革命のバルセロナを目撃したジョージ=オーウェルは、社会改革の始まりを鮮やかに描き出している。

 事実上カタロニアを支配していたのはアナキストであり、革命はなおもフルスィングで進行していた。始めからそこにいた人にとっては、革命的期間は12月か1月には既に終わっていたと思われたかもしれない。だが、英国からまっすぐやってきた者には、バルセロナの光景は何やら衝撃的で圧倒的に思えた。私にとって、労働者階級が実際に権力を握っている町に来たのは全く初めてだった。実質上、大小関わらず全ての建物は労働者が掌握し、赤旗やアナキストの赤黒旗が掲げられていた。どの壁にも鎚と鎌と革命党の頭文字が落書きされていた。ほとんど全ての教会は略奪され、聖像は焼かれていた。教会はあちこちで労働者集団によって組織的に取り壊された。どの商店やカフェも、集産化されたことを示す表示が掲げられていた。靴磨きまでもが集産化され、その箱は赤黒に塗られていた。ウェイターや店員たちは客を正視し、対等な人間として接した。卑屈な物言いはもちろん、儀礼的な言いまわしさえも一時は聞かれなくなった。誰もセニョールやドンは言わず、ウステ(あなた)さえも言わなくなった。互いにカマラーダ(同志)やトゥ(君)と呼び合い、ブエノス=ディアス(こんにちわ)ではなく、サルー!(やあ)と挨拶した。何よりも、革命と未来に対する信念があり、突如として出現した自由と平等の時代にいるのだという感覚があった。人間は、資本主義機構の歯車ではなく、人間としてふるまおうとしていたのである。[Homage to Catalonia, pp. 2-3]

 この歴史的革命の全容は、とてもここでは言い尽くせない。このFAQのセクションI.8でさらに詳しく論じる。ここでは特に重要なポイントに焦点を当てるぐらいしかできないが、こうしたポイントが、この出来事の重要性を幾ばくかでも示し、読者がさらに多くのことを調べるように促してくれることを期待する。
 カタロニアの全産業は、労働者自主管理下か、労働者の管理下のどちらかに置かれた(つまり、前者のように労働者が経営の全てを完全に掌握したか、後者のように労働者が旧経営陣を管理したかのいずれかであった)。町全体と地域経済が集産体連合に変換された場所もあった。その典型例が、鉄道連合(これはカタロニア・アラゴン・バレンシアの鉄道を管理するために作られた)だった。この連合の基盤は地域集会であった。

 各現場の全労働者が週に二回集まり、なさねばならない仕事に関わる全てのことを検討した。地域の全体集会が、それぞれの駅とその付帯設備に関する全般的活動を管理する委員会を任命した。委員会のメンバーは(以前の仕事場での)仕事を続けていた。委員会の決定(方向性)は、地域の全体集会において、報告と質疑応答がなされた後に、労働者による承認や否認を受けることになっていた。

 集会は、委員会の代表をいつでも解任することができた。鉄道連合の最高調整機関は革命委員会であり、そのメンバーは各部門の組合集会が選出した。ガストン=レヴァルによれば、鉄道の管理は『国家主義中央集権型システムのように上から下へとなされてはいなかった。革命委員会にはそのような権限はなかった。委員会のメンバーは、全般的活動を監督し、鉄道網を構成する各路線間の活動の調整をするだけであった。』[Gaston Leval, Collectives in the Spanish Revolution, p. 255]
 農村では、何万もの農民と日雇農業労働者が任意の自主管理型集産体を創った。連携体制を創ることで、社会インフラに医療・教育・機械・投資の導入が可能になり、生活の質は改善された。生産が増大すると同時に、集産体の自由も大きくなった。あるメンバーは次のように述べている。『集産体での生活は素晴らしかった。そこは自分が思ったことを発言できる自由な社会であり、村の委員会に何か不満があれば、それを述べることができた。村の全員を集めた総会を召集せずに、委員会が大きな決定を下すことはできなかった。こうしたこと全てが素晴らしかった。』[Ronald Fraser, Blood of Spain, p. 360]
 この革命についてはセクション I.8でさらに詳しく論ずる。例えば、セクションI.8.3とI.8.4では、産業集産体がどのようなものだったのかをもっと深く論じている。地方の集産体については、セクションI.8.5とI.8.6で論じている。こうしたセクションは、この莫大な社会運動を要約しているに過ぎないことを強調しておかねばならないだろう。もっと多くの情報は、ガストン=レヴァル著「スペイン革命における集産体 Collectives in the Spanish Revolution」、サム=ドルゴフ著「アナキストの集産体 The Anarchist Collectives」、ホセ=ペイラッツ著「スペイン革命におけるCNT The CNT in the Spanish Revolution」、その他多くのアナキストによるスペイン革命の報告から得ることができる。
 社会的分野では、アナキスト組織は合理的学校・リバータリアン医療制度・社会センターなどを創った。ムヘレス=リブレス(自由な女性たち)はスペイン社会における女性の伝統的役割と戦い、アナキスト運動内外にいる数千人の女性たちを力づけた(この非常に重要な組織についてさらに知りたい人は、マーサ=アッケルスバーグ著「スペインの自由な女性たち  The Free Woman of Spain」を参照)。社会的分野におけるこうした活動は内戦が勃発するずっと前から始められていた。例えば、労働組合は、多くの場合、合理的学校や労働者センターなどに資金提供をしていたのである。
 スペインの他の地域をフランコから解放すべく各地に向かった有志の義勇軍は、アナキズムの原則に従って組織され、男も女も参加した。そこには地位も、敬礼も、将校階級もなかった。誰もが平等であった。POUM義勇軍のメンバーだったジョージ=オーウェルはこのことを明らかにしている(POUMは反体制のマルクス主義政党で、レーニン主義に影響を受けていたが、共産党が主張しているようなトロツキストではなかった)。

 (義勇軍)組織の要点は、将校と部下の間の社会的平等だった。将軍から兵卒まで誰もが、同じ給与を貰い、同じ物を食べ、同じ服を着て、完全に平等に付き合っていたのだった。師団長の背中を叩いて煙草を一本くれと言いたければそうすることができたし、誰もそれを気にとめもしなかった。理論的には、何はともあれどの義勇軍もヒエラルキーではなくデモクラシーだった。命令には従わなければならないことは分かっていたが、命令するときには、同志として同志に与えるものであって、上官から部下へ与えるのではないと理解されていた。将校や下士官もいたが、普通の意味での軍人の身分は存在しなかった。肩書きも階級章もなく、「気を付け」や「敬礼」もなかった。彼らは義勇軍の中に、一時的にせよ、一種の無階級社会の作業モデルを作ろうとしていたのだった。もちろん、全てが完全に平等というわけではなかったが、私が今まで見た何よりも、戦時であっても想像できるどんなものよりも、完全平等に近かったのである。[前掲書, p. 26]

 だが、他の場所同様に、アナキスト運動はスターリン主義(共産党)と資本主義(フランコ)の双方で粉砕されてしまった。残念なことに、アナキストは革命よりも反ファシストの団結を重視した。その結果、敵に手を貸して、自分たち自身も革命も敗北させてしまったのである。情況によってこのような立場に追い込まれたのか、それとも別の方法があったのかは、今日なお議論されている(CNT−FAIが何故協調路線を取ったのかについての議論はセクションI.8.10を、この決定が何故アナキズム理論の産物ではないのかについてはセクションI.8.11を参照)。
 オーウェルの義勇軍での経験には、アナキストにとってスペイン革命が何故それほど重要なのかが示されている。

 私は、事実上偶然に、西欧のあらゆる地域社会の中でも唯一の場所に飛び込んだのだった。そこでは、政治的意識と資本主義への不信感の方がその正反対よりも普通になっているのだ。ここアラゴン地方では、何十万もの民衆が、全員ではないにせよ多くが労働者階級の出身で、同じレベルで暮らし、平等に付き合っていた。理論的には完全平等であり、実質的にも完全平等からそう遠くなかった。社会主義の前兆を経験していると述べても過言ではないと思う。つまり、社会主義の精神的雰囲気が蔓延していたのである。文明生活を動かしている通常の原動力の多く−−俗物根性・金儲け・ボスへの恐れなど−−は全く消え失せた。通常の社会階級格差が消えていた。金で汚れきった英国の空気ではほとんど想像もできないことだろう。そこには農民と私たち以外には誰もいなかった。誰かが誰かの主人であるということはなかった。無関心や皮肉よりも希望が普通である地域に、「同志」という言葉が、大抵の国でそうであるようなペテンではなく、本物の仲間を意味する地域にいたのである。そこでは、平等の空気を吸うことができたのだ。社会主義が平等と関係していることを否定するのが最近の流行りなのは、百も承知だ。世界中のどの国でも、政党の三文文士や口ばかり達者な教授連中が大群をなして、社会主義とは利潤追求に手を付けない計画型国家資本主義に過ぎない、と「証明」しようと大忙しである。だが幸いにも、そういった社会主義観とは全く異なる社会主義ヴィジョンも存在する。普通の人々を社会主義に魅きつけ、社会主義のために喜んで自らを危険にさらそうとさせるもの、この社会主義の「神秘」は平等という理念である。ほとんどの民衆にとって、社会主義は階級なき社会を意味する。さもなくば、何も意味していないのだ。この地域では、誰も金儲けしようとしなかった。何もかも足りなかったが、ご機嫌取りもなかった。社会主義の最初の段階がどのようなものになるのか、この地域にいたなら、ざっとだが見通しを持つことができたと思う。私は結局、それに幻滅するのではなく、深く魅きつけられたのである。』[前掲書, pp. 83-84]

 スペイン革命に関してさらに情報を得る場合には、以下の本がお勧めである。ヴァーノン=リチャーズ著「スペイン革命の教訓 Lessons of the Spanish Revolution」・ホセ=ペイラッツ著「スペイン革命におけるアナキストたち Anarchists in the Spanish Revolution」「スペイン革命におけるCNT The CNT in the Spanish Revolution」・マーサ=A=アッケルスバーグ著「スペインの自由な女性たち Free Women of Spain」・サム=ドルゴフ編「アナキストの集産体 The Anarchist Collectives」・ノーム=チョムスキー著「客観性と自由主義的学問 "Objectivity and Liberal Scholarship"「チョムスキー読本 The Chomsky Reader」に収録)・ジェローム=R=ミンツ著「カサス=ビエハスのアナキストたち The Anarchists of Casas Viejas」・ジョージ=オーウェル著「カタロニア賛歌 Homage to Catalonia」

A.5.7 1968年フランス5月〜6月叛乱

 アナキズム運動は死んだとして多くの人は忘れ去っていたが、フランスで起こった5月〜6月の出来事が、急進主義の地平にアナキズムを復活させた。この叛乱は100万人規模に達したが、始まりは些細なことだった。アナキストの学生グループ(ダニエル=コーン−ベンディットを含む)は、ベトナム反戦活動のためにパリ大学ナンテール校の大学当局から追放されると、直ちに抗議デモを呼びかけた。80人の警官隊が到着すると、多くの学生たちが怒り、授業を中断して乱闘に加わり、警官隊を学外に追い出したのである。
 学生達の支持に力を得て、アナキストたちは大学の管理棟を占拠し、大衆討論会を開く。占拠は広がり、警官隊がナンテール校を包囲し、当局は大学を閉鎖した。翌日、ナンテール校の学生たちは、パリ中心にあるソルボンヌ大学に集結した。警官隊の圧力が絶え間なくあり、500人以上が逮捕されたため、学生たちの怒りが爆発し、5時間にもわたる市街戦が始まった。警察は、警棒と催涙ガスを使って通行人にまで暴行を加えていた。
 デモが完全に禁止され、ソルボンヌ大学も閉鎖されると、数千人の学生が街路にあふれ出た。警察の暴力は次第にエスカレートしたため、最初のバリケードが築かれた。レポーターのジャン=ジャック=ルベルは次のように書いている。午前一時までに『文字通り何千もの人々がバリケード作りを手伝った。女性も、労働者も、ヤジ馬も、パジャマを着た人も皆、石・木材・鉄材を運ぶ列に加わっていた。』乱闘は朝まで続き、一晩で350人の警官が負傷した。5月7日には警察に抗議する総勢5万人のデモが行われ、カルチェラタンの狭い街路は全て終日にわたり闘争の場に変わった。警察の催涙ガスに対しては火炎瓶と「パリ・コミューン万歳!」の叫びで応じられた。
 大規模なデモが続いているめ、文部大臣は5月10日までに交渉を始めざるをえなくなった。だが、街頭には60ものバリケードが出現し、若い労働者たちが学生に加わり始めていた。労働組合は警察の暴力を非難した。5月13日にはフランス全土で大規模なデモが行われ、パリの街路には100万人が溢れていた。
 猛烈な抗議行動に直面して、警察はカルチェラタンから撤退した。学生たちはソルボンヌ大学を占拠し、闘争を拡大するべく大衆集会を開いた。占拠はたちまちフランスの全大学に広がった。ソルボンヌからは、プロパガンダ・リーフレット・声明・電報・ポスターなどが洪水のように流れ出した。『すべては可能だ』『現実的になろう、不可能を要求しよう』『無駄な時間のない人生を』『禁止することを禁止する』などのスローガンが壁という壁を埋め尽くした。『あらゆる権力を想像力へ』が皆の合言葉だった。マレイ=ブクチンは次のように指摘する。『今日の革命を突き動かす力は、単に食糧難と物資的必要だけではなく、日々の生活の質、自分の運命の支配権を手に入れようとする試みなのである。』[Post-Scarcity Anarchism, pp. 249-250]
 当時の最も有名なスローガンの多くはシチュアシオニスト(情況主義者)が案出したものであった。情況主義者インターナショナルは、反体制派の急進主義者とアーティストからなる小さなグループによって、1957年に組織された。彼らは、近代資本主義社会の高度に洗練され(特殊な用語で満ちているものの)一貫した分析を行い、それを新しく自由な社会で置き換える方法を展開していた。彼らの主張では、近代的生は、万人が・万物が・あらゆる感情が・あらゆる関係が商品として消費される経済に支配されているため、生活ではなく生存に過ぎない。人々は、もはや単なる疎外された生産者ではなく、疎外された消費者でもある。シチュアシオニストはこの種の社会を「スペクタクル」と定義した。生それ自体は盗まれてしまっており、従って、革命とは生を再創造することを意味しているのであった。革命的変革の領域は、もはや、単なる仕事場でなく、日常的存在の場にあった。

 日常生活にハッキリと言及せずに、愛について何が破壊的なのかを理解せずに、拘束を拒否することの何が建設的なのかを理解せずに革命と階級闘争について語る人、こうした人は自分の口に死体を入れているのだ。[Clifford Harper, Anarchy: A Graphic Guide, p. 153で引用]

 パリでの出来事に影響を与えた他の多くの政治グループ同様、シチュアシオニストは次のように論じていた。『労働者評議会が唯一の答えである。他の革命的闘争形態は、全て、それが元々追求していたこととは正反対のことで終わっていた。』[Clifford Harper, 前掲書, p. 149] こうした評議会は自主管理型のものとなろう。「革命」党による権力掌握という手段は使わないであろう。「黒と赤」のアナキストと「社会主義か野蛮か」のリバータリアン社会主義者同様に、シチュアシオニストは下からの自主管理型革命を支持し、5月の出来事とそれを刺激した思想に莫大な影響力を持っていた。ダーク=スター=コレクティヴによる「敷石の下で Beneath the Paving Stones」は、パリ 68年に関連したシチュアシオニスト著作の優れたアンソロジーであり、この出来事を実際に目撃した人々の証言も含んでいる。
  5月14日、シュド=アビアシオン社の労働者たちが経営者を事務所に閉じ込め、工場を占拠した。翌日、ルノー社クレオン工場・ロッキード社ボーヴェ工場、Mucel社オルレアン工場が加わった。その晩、パリの国立劇場は大衆討論の常設集会を開くために接収された。次の日、フランス最大のルノー社ビヤンクール工場も占拠された。無期限スト突入の決定は、多くの場合、労働者が組合幹部に相談せずに行っていた。5月17日までに、パリにある100の工場が労働者の手中に入り、週末の5月19日には122の工場が占拠された。5月20日までに、ストライキと占拠は一般的になり、600万もの人々が参加した。印刷労働者は、メディアがテレビ・ラジオ放送に独占されることを嫌って、新聞が『新聞の義務である情報提供という役割を、客観性を持って遂行する』という条件で、新聞の印刷を継続することに同意した。新聞を印刷する前に、印刷労働者が見出しや記事の変更を主張する場合もあった。ほとんどの場合、これは「ル=フィガロ Le Figaro」「ラ=ナシオン  La Nation」のような右翼新聞で行われていた。
 ルノー工場が占拠されると、ソルボンヌを占拠していた学生たちが、ただちにルノーのストライキ労働者に合流しようとした。アナキストの赤黒旗を先頭に4000人の学生が占拠された工場に向かった。国家・ボス・労働組合・共産党は、今や、最大の悪夢−−労働者と学生の同盟−−に直面していた。一万人の予備警官が召集され、半狂乱の組合幹部は工場の門を封鎖した。共産党は党員に反乱の粉砕を強要した。政府やボスどもと結託し、一連の変革を画策していたのだ。だが、一旦彼らが工場に向かうと、労働者が工場から彼らに罵声を浴びせるのだった。
 闘争そのものと闘争を拡大する活動は、自主管理の大衆集会が組織し、行動委員会が調整した。ストライキも同様に集会が実行した。マレイ=ブクチンは次のように主張する。『(叛乱の)希望は、あらゆる形態の自主管理−−全体集会とその運営機関・行動委員会・工場ストライキ委員会−−を、経済の全領域、実際、生活それ自体の全面に、拡張することにある。』[前掲書, pp. 251-252] 集会では『生の情熱が数百万の人々を捉え、今までは自分が持っていると考えたこともなかった感覚が再び呼び起こされた。』[前掲書, pp. 251] それは労働者や学生のストではなかった。これは、全階級を横断する民衆のストだったのだ。
  5月24日、アナキストはデモを組織した。3万人がバスチーユ宮殿へとデモ行進した。警察は省庁を防衛するために、催涙ガスや警棒というお決まりの道具を使った。ただ、ブルス(証券取引所)は無防備のままだったため、多くのデモ参加者はそこに火を放っていた。
 一部の左翼団体が怖じ気づいたのはこの段階でのことだった。トロツキストのJCRは、人々をカルチェラタンへと引き返させた。UNEF(フランス学生連合)とPSU(統一社会党)のような団体は、大蔵省や法務省の占拠を妨害した。コーン−ベンディットはこの事件について次のように語っている。『僕らはどうかといえば、そういったクズどもをどれほど容易く一掃できたのか実感できていなかったんだ。今じゃハッキリしているが、5月25日にパリが目覚めた時に最も重要な省庁が占拠されていたとしたら、ド=ゴール主義なんて一気に崩壊していたことだろう。』正にその日の深夜、コーン−ベンディットは国外追放された。
 街頭デモが広がり、占拠が続くため、国家は叛乱鎮圧のために恐るべき手段を使おうとしていた。極秘裏に、軍の最高司令官は2万人の忠実な軍隊をパリに投入する用意をしていた。警察はテレビ局や郵便局といった情報中枢を占拠した。月曜日(5月27日)までに、政府は工業の最低賃金を35%引上げ、全体的に給与を10%引上げることを保証した。二日後、CGT(労働総同盟)の指導者はパリの街路で50万人のデモを組織した。パリ中に「民衆の政府」を求めるポスターが貼られた。残念ながら、大多数の人々は、自分たちで主導権を握ることよりも、支配者を交代させることを考えていただけだったのだ。
  6月5日までに、ほとんどのストライキは終わり、資本主義での正常化を受け入れようという空気にフランス全土が押し戻されていた。この日以降も継続したストライキは、装甲車と銃を使った軍事行動によって粉砕された。6月7日、軍がFlins製鉄工場を襲撃し、四日間の戦闘になり、労働者一名が死亡した。三日後、警察がストライキ中のルノー労働者に発砲し、労働者二名が殺された。孤立していては、こうした戦闘的な地域には勝ち目はなかった。6月12日、デモは禁止され、急進団体は非合法化され、そのメンバーは逮捕された。エスカレートする国家暴力・労働組合の裏切り、あらゆる方面から攻撃され、ゼネストと工場占拠は粉砕された。
 何故この叛乱は失敗したのだろうか?明らかに、ボルシェビキ「前衛」党がなかったからではない。連中は群がっていた。幸運なことに、伝統的権威主義左翼セクトは孤立し、人々はセクトに憤慨していた。叛乱に関わった人々には、何を行うべきか告げてくれる「前衛」など必要なかったのだ。「労働者の前衛」どもは、運動に追いつき、運動を統制しようと死にものぐるいでこの運動を追いかけたのだった。
 失敗の原因は、闘争を調整する独立した自主管理型連邦組織がなかったことにある。このために、個々の占拠は互いに孤立してしまった。孤立すれば破綻するのだ。さらに、マレイ=ブクチンは次のように述べている。『単に占拠したりストライキをしたりするのではなく、工場を稼働させなければならないという労働者の意識』が欠けていたのである [前掲書, p. 269]。
 叛乱が生じる以前に強力なアナキスト運動が存在すれば、この意識はもっと育っていたかもしれない。反権威主義左翼は、非常に活動的ではあったが、ストライキ労働者の中では非常に弱かった。そのために、自主管理型組織と労働者自主管理という思想は広がらなかった。しかし、5月〜6月叛乱は事態が急速に変化しうるということを示していた。学生のエネルギーと無鉄砲に刺激された労働者階級は、既存システムの制約内では決して満たされることのない要求を掲げた。ゼネストは、労働者階級の手にある潜在的な力を見事に明確に示している。大衆集会と工場占拠は、短期間だったにせよ、アナーキーの実践の優れた実例であり、アナキズム思想の急速な広がりと、現実への応用を示した実例なのである。

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