中島飛行機株式会社その軌跡

Nakajima Aircraft Industries ltd.1936〜1945

(4)技術の頂点を極め、そして暗転

 また海軍単発機で初の引込脚を採用した世界でも一二を争う斬新な九七式艦上攻撃機が1937年に制式採用された。九七式艦攻は中村勝治技師を設計主務とし、全金属製応力外皮構造、主脚は油圧式内側引込式、ファウラーフラップや手動油圧折りたたみ翼を採用した3座機で、発動機に「光」を搭載した前期型と「栄」を搭載した後期型があり真珠湾攻撃で有名となり、総数1,250機が生産された。日本の航空工業は、こういった機種では世界一級の技術水準に達した。

九七式艦上攻撃機

 さらに陸軍から一社指名を受け、際だつ名機であった97戦の後継機として、高い運動性能と航続距離の両立を目指し、ハ-25「栄」を搭載した一式戦闘機「隼」(キ-43)の誕生となる。隼は大空のエースとして5,751機の生産機数となり、零戦に次ぐ量産機となった。しかし、その誕生は順調とは言えなかった。設計チームは 97式戦闘機と同じ小山悌技師を主務者に太田稔技師、糸川英夫技師らであったが、矛盾の多い要求に熱意的ではなく、試作計画は97戦を一回り大きくした長距離用の戦闘機の評価でしかなかった。1938年完成した試作機は1,000馬力級エンジンや引込脚、可変ピッチプロペラの新機構を採用したが、これらの重量増を嫌う結果、翼面積が大きくなり空戦性能が劣り魅力に乏しいものであった。ところが同時に開発していた防空戦闘機キ-44(後の鍾馗)に採用を予定していた「蝶型空戦フラップ」が翼面積の大きい機体にも軽快な運動性能が与えられることが証明され、改良されたハ-25エンジンの採用とあわせ格段の性能向上が認められ、一転して1941年に制式採用に至った。軽快な運動性や航続距離を誇り、くせのない操縦性や整備の容易さに優れていた。しかし翼の剛性不足や引込脚の不調、また主翼が3本桁であるため翼内に重機関砲を装備できなかった。また戦術も軽戦から重戦的なものに変化し、突っ込み速度と高々度性能の不足が難点であった。

陸軍一式戦闘機「隼」

「隼」量産の太田工場 (現・富士重工)

 隼とほぼ同時期に二式重戦闘機「鍾馗(キ-44)」を開発した。発動機は爆撃機用の大型ハ-41エンジンを採用したため、頭でっかちの独特のスタイルで、視界の悪さから離着陸が難しく敬遠されがちであったが、高翼面加重の俊足を誇り、ベテランパイロットからは強い支持を得た。

陸軍二式重戦闘機「鍾馗」

 1941年(昭和16年)陸軍からの要求は、キ−43「隼」に勝る運動性能とキ−44「鍾馗」を上回る上昇力とスピードであった。最高速度680Km/h、5,000mまでの上昇時間4分30秒以内、加えて隼並みの航続力が要求である。ハ-45「誉」の性能を考慮しても過酷な内容だった。97戦、隼、鍾馗を次々に開発した"戦闘機王国・中島"の技術陣は小山悌技師を主任に西村節朗、飯野優の各技師と、陸軍航空技研から出向していた近藤芳夫技師らの総力でこの難問に挑戦した。中島ではこのキ-84を世界最速戦闘機と称し、試作機を1943年3月に完成した。テスト飛行では最大速度624Km/hに達したものの、その後は発動機の不調で制式採用は遅れ増加試作は83機に及んだ。1944年四式戦闘機「疾風」と命名され優先量産に入り主生産工場は群馬県の太田製作所、続いて新設の宇都宮製作所を主力に生産された。この制式機は性能武装とも日本一の戦闘機であった。
 しかし戦局の悪化とともに各種の資材調達が厳しくなり、とくにハ-45発動機は中島武蔵製作所で生産されていたが、B-29の集中爆撃の標的となり、材質不良や工作精度の低下によるエンジン不調にみまわれ、また脚の故障などで現地の稼働率を低下させ、また補給もままならなかった。総生産機数は「零戦」、「隼」につぐ第3位の 3,499機に達し、傑作機の一つであることは揺るがない。そして戦後のアメリカ軍のテストでは140オクタン燃料を用い最高時速689Km/h(6,100m)をマークし、上昇力、運動性、防火防弾、火力ともに申し分ないといわれ"日本の最優秀戦闘機"と改めて確認された。この疾風は零戦、隼に次ぐ第3位の3,499機が生産された。



上の写真は、米国で保存されていた機体(製造工場の元中島飛行機宇都宮製作所にて)


陸軍四式戦闘機「疾風」

 増大の一途をたどる陸海軍の生産要請に対し、中島飛行機は1942年から1944年(昭和17年〜19年)にかけて次々と製作所を増設した。海軍の「天山」「彩雲」を生産するために愛知県半田市に半田製作所、海軍発動機を増産するため埼玉県に大宮製作所、陸軍の「疾風」を生産するために栃木県に宇都宮製作所、陸軍発動機を増産するため静岡県に浜松製作所、補機関係を生産するために静岡県に三島製作所が、突貫工事で開設された。このほか戦時の疎開工場として栃木県城山村に地下工場として大谷製作所、岩手県の現在の北上市に黒沢尻製作所の建設に着手したが途中で終戦となりほとんどが生産実績を持たない。

 戦闘機を中心とした単発機王国であった中島であるが、一方で多発機体にも挑戦していた。そのひとつが制式採用された双発重爆撃機「呑竜」であり、また海軍の要請に応え試作段階で終わったが、四発の「深山」「連山」へと発展していった。しかし戦局の悪化と共に生産、開発ともにままならなくなっていった。

陸軍一○○式重爆撃機「呑竜」

海軍十八試陸上攻撃機「連山」

 太平洋戦争の緒戦の戦果に酔って楽観的なムードに浸っていた昭和17年から、中島知久平は米国との資源・工業力の大差を危惧していたが、とくに米国の航空戦略の動向に鋭い眼を向け、米国が開発着手していたB-29や B-36の状況から昭和19年秋にはB-29の来攻を予測していた。これに対し中島知久平は今までの戦略を一転させ、日本が先手を取って戦局を一気に挽回することを実行すべきと考え昭和18年8月「必勝戦策」なる大論文を作成し、極秘の内に50部を作成して政界官界に働きかけた。この戦策の根幹をなすものが超重爆撃機「富嶽」であった。この富嶽は戦策の発表に先立ち、昭和18年初め中島社内幹部を集め、6発超重爆撃機(Z機)構想を説明し、全社を挙げてこの計画を推進すべく必勝防空研究会を発足させていた。ここで検討された「富嶽」は2種類があったが、全幅65m、全長45m、全備重量160tonの、B-29を遥かに上回る、現代のジャンボ並の超巨人機であった。しかし時既に遅く、また国内航空工業力もここまでの巨人機を開発するまでの総合力は育っていなかった。この計画は現実には無謀な夢物語ではあったが、戦局を回転するには、これしか無かったのも事実であろう。下の写真は太田市の中島記念図書館に保存されている必勝戦策および富嶽の外観3面図である。写真はその予想模型である。

  

 1945年(昭和20年)3月の東京大空襲など本土空襲が激化したことから、政府は航空機の生産維持のために、中島飛行機をはじめとする航空機工業の国営化方針を決定した。4月第一軍需工廠に選定され国民徴用令に基づく徴用工や学徒、女子挺身隊を含む従業員25万人は軍の直接管理下となった。

爆撃を受け炎上する雪の小泉製作所(米軍撮影)


 そして各工場は徹底的なB-29による爆撃にさらされ生産能力は壊滅していった。同年8月、終戦と共に飛行機の生産の禁止、そのほとんどが軍需であった中島飛行機は解体命令が発せられた。

 中島飛行機は常に世界を見つめ、若い技術者の育成に努め、各製作所には青年学校を持ち、またスポーツクラブを積極的に興すなど現代にも通じる福利厚生の施策を採っていた。また、海外の技術修得に熱心であったことから、米国の工業力について正確に把握していたことから、太平洋戦争の開戦に基本的には反対していたという。群馬県太田の養蚕小屋の飛行機研究所から、30年に満たない波乱に溢れた、あまりにも激しく鼓動した中島飛行機株式会社の歴史に幕をおろした。 創業以来の生産実績は、機体25,935機、発動機46,726基に達した。

    中島30年の生産実績と各社の比較データ

 戦後GHQの指令により各工場毎に15社以上に解体された。その後、各地の工場では、飛行機の技術を応用し、モノコック構造のバスや、爆撃機の尾輪を使ったスクーターなどを生産し始めていたが、それらの内の5社が「航空機を再び!」を旗印に1953年(昭和28年)合併し、富士重工業株式会社となって、中島飛行機の創立から100年に当る2017年に社名を鰍rUBARUに変更し、今日に至っている。

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・出典及び参考文献:「富士重工業30年史」「銀翼遥か(太田市)」「飛翔の詩(中島会)」「日本傑作機物語(昭和34年酣燈社)」 および当時の方々の貴重なお話を書き加えた。また「鰍rUBARU(旧富士重工業)広報部」の協力を得ました。


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